性欲は、性的欲求充足を目的とした強い衝動である「リビドー」であると考えられている。個々にどのような欲求が生まれ、どのような方法で充足させるかは、個人差が大きく一般化することは困難である。
性欲の研究についてはフロイトによる小児性欲のエッセイが著名である。こうした性欲の抑圧(欲求不満)をヒステリーの原因と想定した。またそうした性欲を根源的な性欲と名付けた。フロイトはこうして人格形成をすべて性欲に起因する欲求で説明しようと考えた。これを汎性欲論と呼ぶが、近年では多くの批判を受けている。
脳生理学の発達にともない、本能的行動が脳内の化学物質による反応行動であるというアプローチもある
性欲そのものは非常に単純であり根源的な欲求である。ただしその性衝動をどう充足するかによって、性的指向は個々に変化する。
女性が、自分に執着しパートナーに大切にしてもらえることを望むという性的指向が固着した場合、そのような価値観を持つ社会集団に属していた、あるいは一切執着をされなかった
反動
と捉えることができ、 男性が容姿の優れたパートナーを所有することを望むという場合も社会的欲求の変形と
見なすこともできる。
好奇心から性的指向を顕在化させるケースもあり、窃視症や痴漢など、異性の秘密に対する好奇心から、異性の衣服の下の身体を見たい・触れたいという欲求を抱き、特に人目につかない部分(股間、腋の下など)に興味を示
す
こともある。男尊女卑的な社会では
女性が頼れるパートナーに身体を預け、秘所を開くことで孤独感を癒したいという欲求が生
まれることもある。
キリスト教では色欲は人間の七つの大罪の一つとされる。また他の宗教でも、不適切な性欲を罪としている。
仏教でも煩悩の一つとされ、不邪淫戒という戒律も存在する。ただし不邪淫戒は、妻以外の女性と性交渉をしてはならない、という戒である。釈迦の従弟である孫陀羅難陀が、出家後でも妻に惹かれてなかなか悟りを開けなかったエピソードなどがある。このように 多くの宗教では、性欲とは女性の容姿に男性が惑乱させられて起こるもの
と
考えられている。
ただし、仏教の中でも上記の顕教と違い、密教では性欲の捉え方は大きく異なる。 理趣経という経典には、男女の欲望や交合(性交)の妙なる恍惚、また欲望などもすべて清浄なる菩薩の境地である
などと
説いており、 性欲を全否定しない
。したがって世間一般では、密教や理趣経は性欲を肯定しているという見方で捉える向きもある。しかしそれも違う。これは自性清浄といい、本来人間は汚れた存在ではなく、欲望は人間として自然なものである、といった煩悩即菩提という思想が密教の根本にあるためである。
俺は、こういう学者や宗教家は考え過ぎだと思う。性欲は根本に「子孫保存」の生殖本能が有り、これに快楽という欲望が乗っているだけなのじゃないか。少なくとも健常人の恋とか愛というものは、極言すれば これを美化しているに過ぎないのではないか。そして、それは おおいに結構な事だと思う。
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elsa.さん
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alisa.さん
曲まめ子さん