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本来ブログは毎日更新するのが原則だと思うのだけれど今の私は何かのテーマに遭遇しないと書こうという気にならないので、困ったものである。今日こそは更新されているだろうと訪問して下さる方のことを考えると申し訳ない気持ちで一杯です。ごめんね|一般的に言えば神が出てくる話となれば敬い信じれば救いを差し伸べてくれるとか反対に「たたり」などの人間に罰を与えてくるような存在となります。しかし元々はギリシャ神話、古事記などのように世界に伝わる神はあるとき生まれ、成長し、苦しんだり悲しんだりしながらまるでドラマのように活き活きと生きただけの存在でした。ところがある時代から突然「我を神として崇めよ」として人間の生き様に幸せや罰を与える「恐ろしい」存在として人間をコントロールしようとする神になってしまいました。現在日本中にある神社の神様も、世界中の神々もすべて宗教的な存在となっております。ところが私が関わってきた「かむなからの神」はちょっと違うのです。私を信じれば助けてあげるとは言ってくれません。それぞれの神が「自分がいる」ということを知って欲しい。どんな時代を生き、どんな事件に巻き込まれたのか。人間に神々の歴史を知って欲しい。ただただそんな気持ちでいるらしい、そんな印象でした。始めの何か「根元」から私まではつながっているはずです。それをつなげているのは「根元神霊時間」です。根元から私までの時間の間には、無限数という数の「存在」があるはずです。「かむなからの神」によれば始めに「意思発動」があった言います。つまり「考えた」と言うことです。ここで根元様は「意思存在」となったと考えられます。そも末端である私も「考える」という「意思存在」です。ということは、「根元神霊時間」の中は無限数といえるほどの「意思存在」で埋め尽くされているはずです。今を基準とすれば最初の何かの根元さまは「原始時代」です。根元神霊時間の経過とともに「意思存在」が生まれました。みんなその時代時代を支えた存在があるはずです。根元神霊時間を縦軸で考えてみましょう。富士山山頂を時間の「始め」とすると今の「意思存在」の世界は、富士山の裾野のようです。すると不思議なことに気が付きます。すべてのものの始まりである「根元様」は富士山頂です。しかし今現在でも根元である山頂は裾野がなければ存在できないことになります。つまり富士山全体、そのものが実体として存在しなくてはならないのです。「根元神霊時間」は今でも途切れること流れていなくてはならない。そして山頂から裾野までの全体をかたち作っているのは「意思存在」だ。この無数の「意思存在」を私は「神」と認識している次第です。
2009.09.21
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お月様、あなたは何者だ?そもそもこの宇宙が存在する「始まり」は何だったのだろうか?「かむなから」では、最初に「何か」が「あった」と考えています。その「何か」を「かむなからの神」は『根元之大御神』 (こんげんのおおみかみ)とお呼びしています。私は不埒者ですから、なんでも神と名を付けてしまうのには抵抗がありその最初の「存在」を、「根元様」とお呼びすることにしています。これはその人の「感覚」の問題です。「始め」に「何か」が「存在した」この感覚が持てるかどうかは、人間の個々のイメージの問題ですからどれが正しいかは私にはわかりません。しかしながら「始めに根元ありき」と考えてみると色々なことが想定されて、なかなかに楽しい世界に遊ぶことが出来ます。最初に「存在」しかなかったと言うことは「根元様」には「ない」が無かったのではなかろうか。「かむなからの神」が田村氏に書かせた「根元神曲」によれば根元様は「絶対存在」「唯一存在」であり「無始無終」だそうな。だとすれば根元様は「時間」を持ってはいなかった。「ない」が無かったとすれば「ある」も無かったはずである。「絶対存在」と「あるもの」「なきもの」は別枠で考えなければいけないのだろうか。最初に「何か」があって「今」に至っているとなるとそこには「時の流れ」があるわけで一体いつから時間が発生したのだろうかという疑問もわいてくる。ただし私がここで言う「時間」とは今私たちが使っているビックバン時間ではない。もっと根底である「根元」からの「時の流れ」である。「かむなからの神」はこの時間のことを「根元神霊時間」と表現しその長さを「2000億年」と、途方もないことを言い出している。なんの科学的根拠もない時間ゆえ、これを認める学者はいるはずもない。しかしながらこの「根元神霊時間」を感じ取れる人はいるのではなかろうか?「根元様」に関する情報は30年にわたる「かむなから現場神業」において小出しではあるが「神様発表」も少なからずあるのでおいおいお知らせしてもいいかなあと思い始めています。
2009.08.17
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皆既日食騒動が終わりましたね。月というものは改めて考えてみると不思議な星です。自分では光を発していませんから、太陽がなければ「ない」に等しい星です。そして太陽があっても「地球」がなければ、常に「満月」です。ところが地球の影により、新月から三日月となり満月と変化していきます。単なる太陽光の投射にしか過ぎませんが、まるで生きているようです。客観的に物の動きを考えられる人には、月は自転していなければなりません。なのにいつも球体なのに月の片側だけを地球に見せています。物理的に言えば、月の自転が地球の回転の半分なので常に片側、すなわち月の表しか見せないことになる。この偶然性が、まあ確かに凄いよなあという感想を物理に強い人は言います。物理学上で考えれば、月も地球も自転していると考えるべきでしょう。しかしながら、天文学を考える人の仲には違う考え方をする人がいます。例えば「バレーボール」をネットに入れ、ネットごと振り回します。自分の体を回転しながら、ハンマー投げのように回してみましょう。ロゴマークの付いた面は常に自分を向いています。これと同じようなことが月と地球の間で起こっていると考えているようです。ネットの相当する何かが存在しているはずだと。又、最近の月の探査の研究が進み月の表と裏では相当な重力の開きがあることがわかってきたようです。片側に強大な引力が働いているとなると、そちら側しか地球を向かないかもしれません。いずれにしても単なる自転の偶然の産物だけで月に「表」と「裏」が存在しているとは言い切れないのではないかと思っています。『お月さん』あなたはいったい何者なのですか?
2009.07.25
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『愛』「宇宙は愛で出来ている」とか「神は愛である」とかは、よく耳にします。あなたはどんな愛を求めますか?「かむなからの神」は私が望む愛などはくれませんでした。国内はもちろん、海内にも行ってくれと無理難題を要求してきました。少しは「病気治し」や「商売繁盛」などのご利益を見せてくれれば「この神様は本物だ」と信者を集められ、お金も集まってくれるのに。ところがやればやるほど体調不良になり、お金は消えていきます。だれがこんな神様についていくでしょうか?それでも心のどこかで、いつかは神様はご褒美をくれる。神様は愛情深くて、必ずや目に見える幸せをくれる。人間は神の宝であると、つねづねおっしゃっている。神様が苦労して早世に成功された人間には、愛情があるに決まっている。どこかに絶対的な「甘え」があるのでしょうね。しかし「かむなからの神」の『愛』はそんなものではなかった。マイナスや暗闇も『愛』であるということを現場神業という体験を通じて教えてくれたのです。<光と闇>私たち人間は、物質の塊です。その元である素粒子は、なにもないと考えられるところからビックバンにより創出された。量子論によれば、今でも何もないとされる真空空間で電子を始めとする素粒子は創成消滅を繰り返しているという。その物質で出来ている人間の視座は、どうしても物質側にあります。これは生きている人間としては当たり前の視座です。この視座が、光と闇を考える時にも適用されます。物質は光と同義であり、真空は暗闇といえます。光は正義であり、暗闇は悪です。それゆえ自分の心の中に「暗闇」を感じれば、罪悪感を感じていしまいます。暗闇を「悪いもの」として隠そうとします。それは光を「愛」とし、闇を「悪」と捉える視座を持つからです。科学的、物理的視座を持てば光は闇から押し出されて初めて、「輝く」ことが理解できるはずです。「闇」がなければ「光」は存在しないのです。「光があるからこそ闇がある」わけではなさそうです。心の中にある「闇」を恥じる必要はないのかもしれません。あるとき、神はこういわれたのです。なあ、あなた、本当に闇を愛せるか?それが出来たら旅は終わりだ。
2009.07.15
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ご承知のように、私は30年間「かむなからの神々」とお付き合いをさせていただいています。よって良い意味でも悪い意味でも、神様情報を無視できない特殊な思考形態を保有してしまっています。科学というのは人間の側からの思考であると言えます。ところが「かむなからの神々」の言うことは、神の側からの思考と捉えなくてはなりません。神の言葉をそのまま人間尺度で理解しようとすることはせっかく教えていただいたことを、正しく理解せずに終わらせてしまう危険をはらんでいると言わざるを得ません。それゆえ私は、もし自分が神の立場であったのならどう考えて行ったかを考えるようになってしまったのかもしれません。つまり見る立場を変えてみるのです。これを 『視座』を変えると言います。人間は長い歴史の中で、視座を変える努力をしてきたようです。「真空」という概念についても歴史がありました。真空の存在については古代ギリシア時代から、論争が繰り広げられてきました。デモクリトスは、万物の根源である粒子アトムが、無限の空虚な空間であるケノンの中で運動しているとして、真空の存在を考えていました、が、アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と述べ、空間は必ず何らかの物質が充満しているとして、真空の存在を認めませんでした。つまりデモクリトスは、無限の空虚な空間、すなわち『なきもの』という『存在』が「ある」と認識していたのでありアリストテレスは、「なにもない」という「存在」はありえないと考えたのです。この両者の世界観の違いは、視座が違うと考えれば両方とも、それぞれに納得のいく考え方であると思いますよね。{真空」という概念。これ4が定着したのは、なんとやっと17世紀にはいってからでした。物質といわれる粒子がひとつもない空間「真空」しかしその虚空である真空の世界が、何かで埋め尽くされているという「量子論」の出現が、またまた私たちの視座を変えなくてはならないことになります。「ある」と「ない」がころころ逆転しますね。視座を変えれば、正解は両方ともにあるのですからやっかいだなあ。
2009.07.13
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これといってテーマがあるわけではないけれど何でも良いからキーボードを叩いてみようという気になりました。支離滅裂なシリーズになりそうですが、よろしかったらお付き合い願います。<あるもの>「神」と称せられる存在は数多くあります。人間はこの宇宙の中で発生し、今現在生きながらえているわけですからその存在を許してくれている環境は、特別な『存在』であると言えます。太陽も月も風も雨も、すべての森羅万象が人間を支えてくれています。存在者を相対する『存在』と区分するとすると「私と言う人間」以外はすべて「神」であると言ってよいと考えます。私が認識する『神』とはそういう存在です。ただ私達人間が混乱に陥るのは、『神』がものを言ってくるからです。人間は長い間病気になるのは「たたり」であると考えていました。しかし顕微鏡などの科学の発展の結果、病原菌なるものを「認識」できるようになったのです。実際の目で認識できないものは「存在しない」と同義でした。しかし科学が発展した今でも、機械による観測で認知されないものは「存在しない」と判定してしまいます。素粒子の研究においても「一番小さい物質」は何かを探しているわけです。「あるもの」「ないもの」を探そうとしているわけではありません。「なきもの」は「ない」からです。しかし「神」と称するものは「あり」ます。認知できる太陽や月はもちろん、霊能力者を通じて発言してくる言葉は「まっかな嘘」であれ「真実」であれ、認識される「存在」となります。言葉として文字になり、絵画として映像となります。空想の世界である「曼荼羅」はその瞬間に「存在」となり、「あるもの」となります。「我は神なり」「我を神と呼べ」こう発言した瞬間に「あるもの」になったのです。「なきもの」「あるもの」じっくり思いふけってみるのも面白いかな?
2009.07.12
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私はある掲示板にトピックを持っています。今日になり何かを書いてみたくなりこんな書き込みをしました。書きあがってみると、これは良い教科書になるぞ思いました。初めて読むお方にはないがなんだかわからない。でもそれで結構ですので読み流してみてください。跡でひとつひとつ解説をしていきたいと考えています。面白い参考資料も見つけてありますのでゆっくり科学の世界を眺めてみましょう。お久しぶりです、トピ主であります。私のアイデアをどうお伝えしてよいのかわからずに皆様の書き込みを拝読させて頂いておりました。いろいろなアイデアが存在することを教えてもらうことになり大変感謝しております。天文学は物理の世界です。ですから虚数を導入した数式は演算であり、実在の世界ではないと言えます。私もその通りだと思います。「実存するもの」の「振る舞い」に虚数の導入は無意味です。波動関数から表現される位相の世界は演算によるバーチャルでしかありえません。そのことは当事者である専門家も「前提」としてバリヤーを張っています。私が大いなる疑問として考えていることは「認識」です。物理学は「実の世界」の科学です。ですから物理学で「虚の世界」を説くことは出来ません。「虚」とは「ないもの」ですから「実の世界」では認知出来るものではありません。実の世界で虚の世界は証明できるはずがありません。ですから「虚」を天文学に導入しようということではありません。問題は「認識」「概念」です。宇宙は「虚」と「実」の混合の世界と考えることはできないだろうか?「虚の世界」の中を「実」が漂っている。この宇宙の基盤を構成しているのは「虚」ではなかろうか?実数と虚数である複素数がはじき出す世界は確かにコンピューターが演算するバーチャルの世界ではあるがそれが描き出す世界を「絵空事」と切り捨てられるのだろうか?「宇宙は無限の三角形で出来ている」と論じた研究者は「このことを紙とペンで説明することは難しい」と言っていました。『コンピューターによる演算は物理ではない』この「認識」「概念」が取り払われる日は来るのでしょうか?もちろんこの概念は正しいのだなどと言う「根拠」はないのですが。ちょっと気まぐれに書き込んでみました。(笑)
2009.07.10
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いや~お久しぶりです。おいちゃんは毎日をなんとか、つつがなく生き延びております。「エルサレムへの道」を書き始めてみると『まだ本当の真実をあからさまにするのは時期尚早』とご先祖さまからの波動を受け取ってしまいました。それぞれの宗教がそれぞれの神の名のもとに弾圧と殺戮を正義として為すことを許されると思い込まされた。その原点がシナイ山、死海、エルサレム一帯に隠されていた。でも今それを明らかにすることは危険すぎるらしい。いずれそう遠くないうちに発表は許されるでありましょう。少しでも興味のあるお方は、気長にお待ち願いたい。こうして私を含めた「あほ」な人間がそれでも毎日を懸命に生きているうちに神界、霊界は必死に活動を続けていることは間違いなさそうです。人間を含めた現界にそれが反映されるのは何時か?怖いことだが腹を据えて待つとしましょう。
2009.06.11
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この旅行記は平成9年8月19日から8月26日までのエルサレムをメーンとした「かむなから神業」の記録です。変てこなばぁさん(チキではなくみほさんににしゃべる。)・因幡人祖系:長髪、目が魚、顔クシャクシャ、着物灰色、赤い紐(ばっちい)小さい身体、首太い。『あら、随分だわね』という。名前は『チチ』さん。通称『やちち』ばぁさん。生宮の経験あり。前、青木家人祖之宮の因幡人祖様の取り継ぎもした。・1700年前の生宮。語り部として代々のお役。この時点では『やちち』ばぁさんは「語り部」として紹介されていますが、赤い腰紐は当時の「奴隷階級の身分」を表していて、彼女が「彼ら」に制圧された民であることを知らせています。しかし彼女の話す内容はあまりにも凄すぎ、彼女が「ただもの」ではないことを匂わす、重大な取り継ぎであることに注目して置いてください。いずれにしましても、人間の故郷の「ひとつ」が視界に入ってきました。<狭義の宇宙と広義の宇宙>神の世界が単一の八百万の神、龍体神界だけではなかったことを明かした『末代』という神様ですが、この発表を頭から「鵜呑み」には出来ません。神の言葉を伝える「取り継ぎ」さんの言うことを100%信じてしまうことはとても危険極まることです。これをしてしまいますとカルト教団、新興宗教教団なりかねません。しかしこの五つの神界があるという発表には、それなりの合点がいくことがあります。根元神魂人祖神魂根元直流神魂源流家祖神魂龍体神魂物質である「狭義の人間」には五つの神界の「魂」が注入されている。今まではこの内のたった一つの神界「龍体神」だけが知らされていたのです。八百万の神としての龍体神、例えば「コノハナサクヤ姫」の分霊神が注入され御霊親(みたまおや)として体に収まって人間として生きている、という具合です。人間は他の生命とはかなり違うということなのです。この単一の「魂」だけであったのなら、人間はもっとシンプルに生きられるでしょう。しかしながら五つのバラバラの魂が混在しているとなるとおそらく人間はこのバラバラの魂の調和に苦労するに違いありません。自分の中での様々な思いに苦しむことも少ないでしょう。人間の心の中のどうにもならない葛藤の原因が、自分の中の五種類の魂の不調和が原因かもしれません。だとすると自分の中の不調和は自己責任ではなく神、魂の世界の混乱責任の結果であると考えればいいので自分の「不完全さ」を必要以上に苦し必要はありません。かみさまのばかやろうあなたがたのせいでなんでこんなにくるしまなくちゃあならないんだでもかみであるあなたがたもくろうしているんですね
2009.02.05
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みなさま、お久しぶりです。ご心配をお掛けしており、大変申し訳ありません。体調などなんら問題はありませんのでご安心ください。多くの神界の秘事を発表させてもらっていたのですがエルサレムの抱える問題に触れようとして筆を進め始めたところで『時期尚早』という「内流」を受け取ってしまいました。物質界と言う「人間神界」において人間の思考、道徳、理念、倫理でもって『たてかえたてなおし』を完了さえることは不可能であるらしい。想念だけの世界、即ち『神霊会』で「事」がなされなければ悲しいかな、何もなしえないと思われます。「その神霊世界での神々、先祖霊、人霊様のご活躍の妨げをしてはならない」そんな重いから今はじっと息を潜めています。しかしながら新年をむかえる節分に合わせて、何か動きが出てきたようでどんな変化が現れてくるのか大いに期待を持って見守っています。今度いつ更新できるのかわかりませんがおいちゃんは死んではありませんので、時々ブログを覗いてください。
2009.02.03
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この旅行記は平成9年8月19日から8月26日までのエルサレムをメーンとした「かむなから神業」の記録です。“彼ら”は、人祖神界の中での戦いを仕掛けていて自分達が直接手を下すのではなくって、人祖神界の神様同士を戦わせる方法をとった。よって、今、表に出ている人祖8神団と別に対峙するような7だか8神団がピタッと表裏の関係にあって、その戦いを因幡海上戦と呼ぶ。表に出ている8神団は勝った方。例えば表の8は太平洋側。東北、能登北陸、山陰が無い。この裏の、世に出られなく散っていった「7(+1)」。日本海側が寂れているのは、そういう意味もあるのだそうな。ヤマタの大蛇の話、あれはまんざらの話ではなくて、裏の人祖さんの話もあれには入っているから、あの話は全部うそではない。八頭の話は、表8の人祖さんの話。星を侮ってはいかん。何故なら、人祖神界なぞという神界でも、狂わせてしまう程の魔力があるから、何よりも、操られていると分かりながら、自分と同じ神々と戦わなくてはならなかった。その苦しさは尋常なものではなかったのだ。このイヤシは時間がかかる。勝った方も負けた方もつらい戦いだから、傷は深い。』たった一人の存在である「人祖神」は「分神」して多くの「人祖神」になられたようです。そこで「人祖神界」が形成され、ひとつの「神界」として独立したと思われます。取り継ぎによると「表人祖神8紙」と「裏人祖8神」がおられることになります。しかも裏と表が「彼ら」の策謀により「争う」ことになり、「裏人祖8神」は世に出られなくなったと発表されています。太平洋側と日本海側の雰囲気の違いに、妙に納得させられますね。問題なのは、ここでの発表は、いまから「人祖神界」の修復に手を付けるから今後相当な妨害と困難があることを覚悟しておきなさいよとの警戒警報としての「やちちばあさん」の言葉だったことです。
2008.11.14
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この旅行記は平成9年8月19日から8月26日までのエルサレムをメーンとした「かむなから神業」の記録です。この犬山神社での「取り継ぎ」の中で・それから、因幡人祖様と白山で出た“へぐれ”というヒトと、それからチキちゃんが鼠持ちで歌を歌ったその歌の一番最後に独りぼっちになった時、一番側にいてくれたのが、人祖様。そのヒトと関係あり。第一回東北神業での「ねずみもち古墳」での「取り継ぎ」を思い出してもらいたい。(ちきちゃん)「赤くて牛の格好をしている。 目も真っ赤。 最後にここにいた人、皆食べられた。 しゃべっていた姫が最後。赤目牛、高い所から、遠い所からやってきた。8300年前、全部火の海、もう一度来た、またやった。そのときチキちゃん赤目牛を見た。またそこが焼かれたの。赤いの!歯がすごい!古墳の牛、外にいっぱい、いっぱい!そしてまた来る、焼くつもり5000年経つとまた来る。このヒトたち、赤目牛下は人間の形目は赤いナスカの地上絵、それもだめにしたひとたち戦車みたいなので襲ってくる。棒切れで最後の姫さん吊るして、ぶらぶらしている」「おうごんのみちはうそのみち あいつらは 4番の敵 4番目 いつつめより大きくて みんなは逃げるだけ源流さまもいなくなりそのうちみんないなくなって最後にいたのは人祖様」縄文時代にはすでに「彼ら」により「神人断絶」させられていたことがわかるのですがこのとき最後にいたのが「人祖」だったと言うのです。この人祖さまが、たった一人しかいない、本当の本当の元の「父親」なのです。そしてこの「ヤチチばあさん」は人祖神と深いかかわりがある女性であるとチキちゃんは言っているのですね。
2008.11.01
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この旅行記は平成9年8月19日から8月26日までのエルサレムをメーンとした「かむなから神業」の記録です。『人祖の神』このお方こそ「広義の人間」だと言えます。人間の本質は、五つの神界のひとつです。なんら他の神界と優劣があるような立場ではなく、同等です。人間を考える時、広義の人間と捉えるか、狭義の人間と捉えるかでその意味がまったく違ったものになります。私自身は、いまこうして息をさせてもらっている「生宮」としては、狭義の人間として物事を判断していった方が良いと思っています。そのほうが感謝して生きていけますし、より地球が大切だと感じることが出来ます。しかし五つの神の世界の存在を知ってみると、自分の中で、自分が「人祖の神」とつながっているという感覚も生まれてきます。人間は神々の座席の末端に位置する存在として地球上で生きていますが、同時にその原質は神々の座席のトップに位置する存在であると言っても良いことになります。しかしこのことは一歩間違うと、とんでもない傲慢を引き起こしかねません。そのことに危惧を感じた神々がおられたことは容易に想像が出来ます。龍体神が創成に成功した狭義の人間の本質は、神々と肩を並べる存在である。だが、こう言えるほど今の狭義の人間のレベルは高くない。神々がこの狭義の人間をこれからどうしようとしているのか、まったくわかりません。しかしこの犬山神社での発表は、狭義の人間に広義の人間を知らせた、ということです。知らせなくてもいいことなら「ヤチチばあさん」は教えないはず。アンデス神業を終えた時点で、教えても良い体制が神のサイドで整ったということでしょう。人間は色々なものを寄せ集めた、「物質の塊」だけの存在ではない。そのルーツは、「人祖神界」であり、「人祖神」であることを認識しなくてはならない時代に突入したということです。その上で、人祖神界が「彼ら」の策動により壊滅状態になっていることも知らなくてはならない時がきたということですね。いよいよ人間の「父親」がその姿を現したのです。
2008.10.26
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この旅行記は平成9年8月19日から8月26日までのエルサレムをメーンとした「かむなから神業」の記録です。<広義の人間>田村氏により「根元神曲」が発表された段階では、神というのは始めの何かである「根元の大御神」(こんげんのおおみかみ)陰陽二元担当神「根本ミロクの大神」(こんぽんみろくのおおかみ)「底津岩根の神」(そこついわねのおおかみ)この3神の下に八百万の神「龍体神」がおられるだけでした。もちろん「ひつきの神」など様々な神がその存在を主張されていますが、いずれにしてもその領域は「龍体神」レベルの存在で、狭義の人間を指導する立場におられます。これらは人間は神々の下部という位置であると認識です。ところが「かむなから神業」はその後「人間」には五つの違った「魂」が注入されて息をしている「生きている人間」になることが出来ると発表になったのです。根元神魂人祖神魂根元直流神魂源流家祖神魂龍体神魂これを「五元魂」(ごげんこん)と言いますが、これの公表は『神の世界というのは今までに言われ続けてきたような単純な世界ではない』ということの発表でもあったのです。世に落ち、地に落ちた神々の救済「神開き」を「かむなから」は行ってきたのですが、それはこの五つの神界の内のたった「ひとつ」龍体神界に手をつけていたのに過ぎなかったわけなのです。そしてその後の現場神業によりこの五つの神界すべてが『彼ら』により混乱の極みに落とし込まれていたことが明らかになっていったのです。なかでも「彼ら」と彼らに操られた神々が一番隠したかったことが「人祖神界」でした。『人祖の神』
2008.10.22
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この旅行記は平成9年8月19日から8月26日までのエルサレムをメーンとした「かむなから神業」の記録です。<犬山神社>あたりには集落もない山間部にあり、参拝するには急な山道を徒歩で30分ほど登らなくてはならない山の上にあります。ここでの『取り継ぎ』はあまりにも突拍子もなく、これを読んだだけでは到底理解できない内容になっています。私の長いかむなからの歴史の中でも、初めて聞くことばかりでした。ここで現れた1700年前の生宮、語り部として代々のお役である「やちちばあさん」が話すことは、長い間「八百万の神」すなわち私たち日本人が接してきた「神様」、龍体神が人間には隠しに隠してきた実際の神界の実相をいよいよ明らかにするという、宣言のようなものでした。<狭義の人間>神が人間を創成した。このことを正確に言い表すとすると龍体神が狭義の人間を創成した。私たちが知る限りでは、神が存在してその後で人間が存在したと思い込まされていたようです。確かにビックバンを起こし、物質を作り、星を作って地球とし、そこで生命誕生させとうとう人間まで進化させるのに成功した。これは紛れもない事実であると考えられます。そうすると神は人間にとって絶対的な存在であり、両者には明確な格差があるということを痛感させられます。しかし本来人間と言うのは、どうも今まで神が教え続けてきたようなちっちゃな存在ではなさそうな雰囲気になってきました。ある意図を持って神々は、なにかを隠してきていたようです。物質の塊である狭義の人間だけを「人間」として評価していたのです。<広義の人間>
2008.10.18
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この旅行記は平成9年8月19日から8月26日までのエルサレムをメーンとした「かむなから神業」の記録です。3月24日南米神業を終えるとその月の31日にはもう島さんとみほさんは他の4人のメンバーと共に出雲に出かけています。出雲大社奥殿から鳥取県の白兎海岸に移動し、その後〈用瀬・犬山神社〉に参拝しています。ここでの取り継ぎは、その当時はいったい何を言っているんだろうかと難解極まるものでありますが、今後の神の世界の謎解きに重要なものでありますから、島さんのメモをそのまま記載しておきます。平成9年3月31日17:時12分 〈用瀬・犬山神社〉チキごあいさつ ・首をパァーンと落とした。・それをやったヒトか道具がここにある筈。・それと、さっきの北斗七星は、切っても切れない関係にある。・それから、因幡人祖様と白山で出た“へぐれ”というヒトと、 それからチキちゃんが鼠持ちで歌を歌ったその歌の一番最後に独りぼっちになった時、 一番側にいてくれたのが、人祖様。そのヒトと関係あり。・“彼ら”は、人祖神界の中での戦いを仕掛けていて自分達が 直接手を下すのではなくって、 人祖神界の神様同士を戦わせる方法をとった。・よって、今、表に出ている人祖8神団と別に対峙するような7だか8神団が ピタッと表裏の関係にあって、その戦いを因幡海上戦と呼ぶ。・表に出ている8神団は勝った方。例えば表の8は太平洋側。 東北、能登北陸、山陰が無い。 この裏の、世に出られなく散っていった「7(+1)」。 日本海側が寂れているのは、そういう意味もあるのだそうな。 ヤマタの大蛇の話、あらはまんざらの話ではなくて、 裏の人祖さんの話もあれには入っているから、 の話は全部うそではない。八頭の話は、表8の人祖さんの話。・星を侮ってはいかん。 何故なら、人祖神界なぞという神界でも、狂わせてしまう程の魔力があるから、 何よりも、操られていると分かりながら、自分と同じ神々と戦わなくてはならなかった。 その苦しさは尋常なものではなかったのだ。 このイヤシは時間がかかる。勝った方も負けた方もつらい戦いだから、傷は深い。』変てこなばぁさん(チキではなくみほさんににしゃべる。)・因幡人祖系:長髪、目が魚、顔クシャクシャ、着物灰色、 赤い紐(ばっちい)小さい身体、首太い。 『あら、随分だわね』という。名前は『チチ』さん。通称『やちち』ばぁさん。 生宮の経験あり。前、青木家人祖之宮の因幡人祖様の取り継ぎもした。・1700年前の生宮。語り部として代々のお役。この犬山神社はその後私も何回か参拝することになる神社となるのですが人間にとって重要な場所となるポイントになりますから、ぜひ記憶しておいていただきたい。
2008.10.15
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この旅行記は平成9年8月19日から8月26日までのエルサレムをメーンとした「かむなから神業」の記録です。平成9年は第1回東北神業を消化してみると、宿題を出された形ですぐさまアンデス神業のご下命があり、とんでもない経済的負担が圧し掛かった年となりました。私自身は、もうこれは当分の間神業には参加できないだろうなと思っていました。「小集団かむなから」は集金しシステムを持っていないからです。神の言葉を通訳する「取り継ぎ」と、それをサニワする「リーダー」は専従の役目を背負っていますから、仲間から寄付された神業資金を使えますが、ほかの参加者は自己負担が鉄則となっています。かむなからの神はこうすることで、「かむなから」を宗教団体にさせまいとしているように見えます。この方式には私も大賛成で、私有財産がマイナスになっていくことには文句を言おとは思っていませんが、ない袖は振れない。組んだローンを返済するまではおとなしくしていようと思っていました。しかし「かむなからの神」は生きている人間の目先の価値観などは無視しその「建て替え建て直し」の歩みを止めるようなことはしませんでした。
2008.10.12
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皆様お久しぶりです。5日前それでもなんとかブログとメールを確認しようとしたら全然つながりません。ケーブルのプロバイダーなので時々不具合がありますから次の日には回復しているだろうと放置しましたが、結局毎日つながりません。さすがに慌てましてモデムをチェックしてみますと、ランプが点滅しません。10年前に契約して設置したので寿命が来たようです。電話して説明するとさっそく飛んできてくれて、新品と交換してくれました。てなわけで、モデムも私と同様にお釈迦になってしまいました。まったく不思議なことがあるもんです。そんな事情でまったく更新できていませんでしたが私自身はなんとかダラダラ生きておりますので、ご安心ください。とりあえずご報告まで。書き込みありがとうございました。ゆっくり回復を目指します。
2008.09.08
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ご心配をお掛けしまして申し訳ありません。最悪の状態を脱したようで、やっとパソコン開けることが出来ました。たくさんのお見舞いのお言葉、ありがとうございます。まだ完全回復とはなっていませんが、なんとか大丈夫そうです。今更ながら健康であることが幸せだったことに気付かされます。そしてなにかを伝えると言うことが、凄いエネルギーが必要だったことも教えられました。体のほうは心配なさそうなのでご安心ください。後は気力が回復してくるのを待とうと思います。どれだけの充電期間が必要になるのか、予測が付いていません。ひたすら休養に勤めようと思いますのでパソコンはまだしばらくは開けられなさそうです。いただいたメールなど、今はご返事出来る余裕のないことをことをどうかお許しください。それでも経過報告が出来るまでには回復したことを、感謝しております。どうもありがとうございました。
2008.09.02
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クーラーをつけず、窓を開け放って寝ていましたが急に寒くなって、寝冷えをしてしまいました。高熱で体も頭も動かなくなってしまいましたのでしばらくの間、原稿が書けそうもありません。申し訳ありませんが、ちょっと待っててね。。
2008.08.24
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「根元神曲」は「田村喜照」氏により昭和59年に出版されたものです。この時点での神界情報ですから今となっては古いものですが、日本に住む人間にとっては身近な八百万の神々のことが書かれています。数ある神話の中のひとつとして、こだわらずにお読みください。 「根元神曲」<地之世界之親神発案><末代日乃王天之大神監修> (田村喜照箸) 前口上 根元一神 活動戯曲 戯曲曲名 根元神曲 上演期間 無始無終 現在時点 九幕終了 会場舞台 超大宇宙 主役神界 脇役人界 神曲壮大 千嘆万賛(第一幕) 神意発動の場 根元一神 根元存在 活動開幕 一千億年 神意初動 吸引旋回 旋回運動 陰陽二元 二元担当 陰陽二神 二神活動 潤次高揚 高温高圧 火玉形成 極限状況 火玉爆発 爆発現象 宇宙剖判(第二幕) 宇宙形成の場 宇宙開闢 二百億年 火玉分塊 多数四散 光熱放射 五方十方 分塊冷却 地玉自形 光熱衰弱 地玉分在 地玉物質 光熱霊質 地玉天体 光熱天間 物質時間 光熱空間 物時陰神 底津母神 霊空陽神 彌勒父神 一神底彌 根元三神(第三幕) 龍体神霊顕現の場 天地分解 雑然情況 雑然整理 神霊必要 根元分神 龍体顕現 顕現活動 百億余年 月之親神 日之親神 地之親神 子神孫神 神霊総数 百八十神 神霊構成 霊八物二 神霊龍体 三魂具有 幸和荒魂 配魂相違 相違神性 神力絶大(第四幕) 神業分担の場 神霊世界 長年推移 薄明朧夜 地球泥海 月神思案 陰陽自得 男神女神 協力着想 夫婦結縁 夫唱婦随 神界総会 不二天空 議題二件 薄明泥海 月神説明 全神賛同 神業分担 天神地神 月神日神 百十神霊 地球出発 天体管理 月日発光 五十億年 天体運行 軌道周期 地球修理 七十神霊 地系天系 一致協働 海陸分離 四十億年 陸地初出 不二日本 大業成就 神霊歓喜(第五幕) 統一時代の場 整理調整 論功行賞 秩序必然 神規制定 神席確定 持場決定 神席主席 地之親神 地系優遇 天系冷遇 海中地上 整備分掌 海中草魚 地上植動 地上管理 脇役着想 人間創生 二百万年 人祖初生 神国日本 神霊分魂 注入産声 寿命有死 離魂幽界 神人幽界 三全世界 三界別世 霊魂連結 万事成功 神人共愛(第六幕) 自在卿望の場 地上楽園 人類増加 努力忘却 神罰降下 修跋体験 人類激減 祭事発祥 祈願伝承 男神四十 女神三十 神結不能 不満醸成 神規順法 不平高進 神人怠慢 自在卿望 根元三神 対策協議 根龍絶縁 神人自由(第七幕) 自在時代の場 統一失敗 自在時代 時代原理 自由競争 恋愛事件 突如発生 神界騒然 紛争急展 地系天系 中系三立 低遇天系 千載一隅 狡智発揮 種々画策 作戦成功 神規破綻 主席地神 責任自覚 隠退決意 北海海底 日神三女 天系系主 女神強勢 婦唱夫随 神争激化 勝神負神 悪霊活発 思凝横行 金毛九尾 人争扇動(第八幕) 人界混迷の場 神界事情 人界反映 天系信仰 勝者王者 地系信奉 敗者貧民 天民武盛 地民屈従 四聖登場 宗教各地 救済宗教 虚教八百 王侯続出 国家多出 王制変革 民主議会 通貨流通 争奪激烈 富者少数 貧者多数 科学技術 発展発達 無神思想 人界蔓延 銀行会社 巨大怪力 生産拡大 生活向上 利害紛糾 戦争頻発 大量殺人 金毛欣躍 世界戦争 原爆発明(第九幕) 和合宣言の場 原爆戦争 懸念増大 宇宙開発 運行阻害 人類増加 資源枯渇 石油多用 公害多発 三界混迷 事態極限 根元三神 根龍復縁 隠退地神 主席復帰 根元総会 富士山頂 昭和辛酉 一神一声 神争中止 和合宣言 自在終焉 九幕終了 次幕和合 今後続演
2008.08.23
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日本中がソフトボール一色でしょう。今更私が話題にするのもなんですが、やっぱり嬉しいものは嬉しい。感動をありがとう。「根元神曲」は「田村喜照」氏により昭和59年に出版されたものです。この時点での神界情報ですから今となっては古いものですが、日本に住む人間にとっては身近な八百万の神々のことが書かれています。数ある神話の中のひとつとして、こだわらずにお読みください。昭和59年に面白い本を手に入れました。ご紹介しますね。この本に書かれていることだけが真実だとは思っていません。でも数ある「神話」の中のひとつとしてもその内容は人間の歴史と符合している思われ私には「目からうろこ」の本でした。皆様も神話のひとつとして、柔軟にお読みください。 「根元神曲」は<地之世界之親神発案><末代日乃王天之大神監修> (田村喜照箸)と表記され、本文は四文字熟語だけで書かれている、不思議な書き物です。漢字というものは、一文字の中に宇宙を入れてしまえるほどの、奥深さを持ちます。一方言葉という言語にしてしまいますと、書き手聞き手のそれまでに獲得してしまった既成概念からどうしても抜け切れません。そこで世乃元之神は、白紙の状態で受け取れる一文字の漢字に伝えたいものを内在させて、田村氏に「根元神曲」を書かせました。2008年8月現在でこの神曲を読むと、日記「我が内なる魂との対話」を書いた頃とは解釈がかなり違ってきております。当時より「かむなから現場神業」が進んで、新たなる神様情報を貰えたことや物理学の世界でもハップル望遠鏡などの機器の観測結果から、新しい宇宙像が見えてきたことなどによります。いい頃合だと感じますので、根元神曲の解説を試みることにしましょう。簡単に言うととんでもない告発文でもあるのです。根元なるものが意思発動し宇宙を創造した。そこに龍体神が顕現した。龍体神は地球に海と陸を作り人間創成に成功する。神と人間が仲良く暮らす「統一時代」が続くが体制に不満が高まり「反乱」が起きる。天系、地系入り乱れての争い「自在時代」に突入してしまう。龍体神という神の世界は、乱れに乱れ、どうにもならない「泥沼」であったことを明かしている。一語一語丁寧に読んでいただければ、雰囲気だけは理解していただけると思います。それぞれの「幕」については、後ほど解説していこうと思います。とりあえず全文を紹介します。 「根元神曲」
2008.08.22
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「根元神曲」は「田村喜照」氏により昭和59年に出版されたものです。この時点での神界情報ですから今となっては古いものですが、日本に住む人間にとっては身近な八百万の神々のことが書かれています。数ある神話の中のひとつとして、こだわらずにお読みください。ブログを書き続けていますと、どうしても最新の神様情報を載せてしまいたくなります。別な言い方をすれば、細かいところに論点が行ってしまいます。私には25年以上にわたる「かむなからのかみ」との歴史がありますからどうしても、基本がわかった上での話をしてしまいがちになってしまいます。でもそれでは全体像がつかめない人には、へんな誤解を生んでしまうかもしれません。ここらで一度基本に返って振り返ってみるのがいいなと思いました。<基本>私たち人間は、この宇宙という空間の中でしか生きられません。しかし人間の「魂」はこの宇宙という限定の制約は受けません。外宇宙からなのか、虚の世界からなのか、わかりませんが魂だけを考えれば、この宇宙は無くてもかまわないことになります。しかし肉体と言う体があってこそ「個たる人間」ですから、この宇宙は無視できません。この宇宙を創造し、地球を創り、人間という生命を創成した存在があるとするとその存在に対し『神』という名前が付けられたと考えます。この特殊な環境、舞台装置、時間空間の中でしか、人間は存在できません。もちろん「魂」は自由ですから、外宇宙も考慮に入れて考えることが出来ます。「魂」が考える世界はとてつもなく大きなものでもいいわけです。しかし人間としての世界は、この宇宙の中という「思考限定」が必要です。この地球以外には「居場所」がないという「思考限定」が必要なのです。「魂」は制約のある3次元空間の中でもがき苦しみ、喜べばいいのであって高次元に昇格する必要などないのです。その「感覚」はどうしてもこの宇宙や地球をないがしろにする危険をはらみます。肉体を持つ人間が今のレベルの「低級」であるということは実はとても大切なことなのです。「この地球以外に住むところがない」と腹をくくらねばなりません。この覚悟の上に則っての「思考」でなければ、すべては絵空事です。この地球の惨状を放り投げて、人間は高次元の世界へ行っても、意味がないのです。それには、肉体を持った不自由な人間であることを受け入れなくてはなりません。地べたに這いつくばって生きる。地球のことをもっと知らなくてはなりません。ではこの地球で過去に何が起きていたのか、それを知ることはこの地球以外では生きられない人間にとって必要なことだと私は思うのです。
2008.08.21
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。 (夢)根元之大御神様が、まず最初に未来を思い描かれた。そこには宇宙があり、地球があり、そしてその上では人間を始めとする生きとし生けるものが、個たる物質として生きている。まず最初に実は結末を思い描かれたのです。そして、その夢を実現する為に、自ら歪み、初動となられ、次動、参動、四動、五動と歩み始められた。すべては、最初に映像として夢見られた地球が根元之大御神様の未来だったのです。そして根元様の初動から今という時点までの2000億年という時間の中で、一体どれほどの神様が活躍されたのでしょう。これを『神霊史』といいます。根元之大御神様の思い描かれた未来という夢実現の為とはいえ、今に至る迄に御苦労された神々様の事を、そんな事は知らないでは、人間として済まされないのです。成功は失敗の上に成り立ちます。神様とてやる事なす事が初めての事ばかりだったでしょう。必然とはいえ、失敗の連続がなければ成功はあり得ませんから、この2000億年の間は、どれほどの血と涙が流されたのでしょうか。この失敗と成功のすべての事を、つくって頂いた人間は知らなくてはならなかったのです。父と母の目に見えなかった影ながらの苦労を知らなくてはなりません。この「神霊史」を実動された神々様と伴に、繙いていっているのが「かむなから」という事は、君もそのメンバーなんだから、よく知っているよね。しかし、おうおうにして細かい事を調べている内に、本筋を見失う事があります。君には、主題を忘れて貰っては困る。何故なら、君は私だから。基本は、絶対根元之大御神様の描かれた未来という夢は『地球』なのだという事です。そこを忘れなければ、君はやらねばならない事はわかるよね。 「地球を元の姿に戻したい」根元之大御神様の今の希望は、これひとつです。人間としての能力はたかが知れています。でも地球創成の為にはたらかれた神々様と伴に、再びやり直しするという事なら、話は違ってきます。人間にも手伝える事があるでしょう。だから私は君に日記を辞めないで下さいとお願いしているんです。地球を元の姿に戻す為に、微力な人間にも出来る事があるはずです。それが何かなどは直接君には教えません。
2008.08.20
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。1月21日〈神〉おはよう。良く眠れたかい。夕べは何の夢も見なかったろ。君に伝えたい事は、大体終わったようだ。勿論、神界は、絶対根元神霊時間と伴に変化していく。だから君との対話は終わりじゃあない。ずっとずっと日記は続けていって下さい。進行と伴に、逆に今まで話せなかった神界の秘密についても明かしても良い事が出てくる。それら、ひとつひとつが君ら人間をつくる為に神々様がどれほどの御苦労をなさったかという事を、教えてくれる。そうすると、漠然と神様に対して抱いていた、何となく偉い存在だと感じていた事が、そうか、あの時、父と母はそんな事を考えて、そんな苦労をされていたのかと、1つ1つがわかるたびに、君の両親への感謝が揺るぎないものになっていく。龍体神様を始め、星の数ある程多くの神様への真の感謝へとなっていくんだ。涙と感動の体の震え以外、何も必要としない時間を迎える事が出来る。その時が楽しみだね。重い話になってしまうけど、身を正して聞いて下さい。君は将来を夢みた事が、あるだろ。いつか、こういう風になってみたいと、住居や家族や、老後を考え、夢みているよね。その君の頭の中では、ハッキリとその時の状態が映像として浮かび上がる。未来としての理想像が具体的に描けるよ。住んでいるところの風景とか、家には24時間入れる露天温泉もあって、君の友達や、君の子供達の子供らが、きゃあきゃあ言って遊んでいる。その中で君はニコニコして、お茶を飲む。人間は、まず最初に未来を見る。そしてそこに映し出される光景を見る。その映像が、その人の未来だ。そしてその未来を現実にするため、何もないところから1歩づつ、歩む事を始める。未来に向かって。 (夢)
2008.08.19
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日記がたいへんつまらない内容になっています。でも削除するわけにもいきませんので、そのまま乗せます。その代わりといってはなんですが、春うららさんからブログ更新の連絡が来ました。宇奈月トロッコ列車の旅の写真集ですね。きょうはこちらをメーンでお送りします。http://plaza.rakuten.co.jp/genkidesuyo/diary/200808150000/この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。さあ、これを物時霊空にあてはめてみましょう。A: (物 時)(霊 空)B: (物 霊)(時 空) (物 空)(時 霊)この3通りしかありません。そうすると(1) (物 霊)(時 空)(2) (物 空)(時 霊)この2つが、Bたる相対根元界、すなわち、現実のビッグバン宇宙界での対極する陰と陽になる筈です。いやならねばなりません。君としては科学が見つけてきた、ミクロとしての霊物とマクロとしての時空がそれに当てはまると言いたいでしょうが、どっこいそうとはならない。なぜならば、じゃあ何故二つ神様は(物空)(時霊)を採用しなかったという答えと、科学の世界では(物時)(霊空)を採用したのかという答えも見つけなければ、それは正解とは言えないんだ。何回も言ったでしょ。片方だけが正しいんではないと、両方みなくてはいけないと。(1) が存在すると言うことは(2)も存在しなくちゃならないんだ。数学的に解釈するとね。だとしたら、(2)はどこに行っちゃったんだろう。ただし、この事については、神様は何ら発表されていない。それどころか、この限定のある陰陽問題については一言も触れていない。じゃあ、君と私もこの問題に触れてはいけないんだ。ただ、論理的には、こういう数学的手法を使えば、こういう解釈も出来るんだという可能性のひとつとして、取り上げておけばいいんじゃないかな。神界においては、今あるものより、消えてしまって無いものに見えるものの方が重要な事が多々あったね。しかし、これらの事は、すべて「かむなから」の問題であって、君と私の取り上げる問題じゃあない。だから、この話については、これでおしまい。〈私〉しかし、まぁ、考えてみれば、よくもこんなに色々な話題が次から次へと出てくるもんですね。終わりはあるんでしょうかね。〈神〉終わりはない。何故なら神霊時間には未来はあっても終わりはないからだ。刻々と変化してゆく神界に死んでもついていってやるという気概だけは持っていなくちゃな。お互い、頑張ろう。1月21日
2008.08.18
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あいかわらず名古屋地区は猛暑が続いておりますが昨晩家の周りの草むらで、秋の虫がいっせいに鳴きだしました。自然界はいつの間にか秋になっていたのですね。現在の日記は、私が読んでいても良くわかりません(笑)私自信は我が内なる神の言いたいことは良くわかるのですが文章力に欠けるため、表現がうまく出来ていないようです。まあ初めての書き物ですから、致し方ないですね。もうじき具体的な旅行記を始めますから、読み流しておいてください。この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。私〉我が内なる神よ。確かにあなたは私です。だからといって、その結論までダァーっといってしまっては困ります。私が絶対根元之大御神の考えられた事を、こうに違いないと発言してしまったと同じ事になってしまいます。私のような人間には、そんな権利も責任もありません。発想が大胆過ぎて困ります。〈神〉しかし君としても気が付いてしまった事を放っておけるかい?絶対的な相対を教えて下さった今朝の神様の神意はどこにあると思うんだい? 絶対的な相対が理解出来たからこそ、絶対根元界には絶対相対しかないと識ったんだろ? その結果、物時陰神・霊空陽神だけは相対ではなく、対極という関係だったんだと気が付いてしまう。この事は避けられない事実だよ。逃げちゃあいけない。気が付いてしまった人の責任において、この考え方をすすめなければならないんだ。やれよ、やってみろよ。〈私〉そうまで言われてしまったら、やむを得ません。やってみます。しかし私はあなたです。私の大脳を使って、あなたが話をすすめていって下さい。お願いします。〈神〉OK! もうこうなったら、完全に数学的にいこうぜ。陰に限定を与える。すなわち、物と時の2つの因子を与える。物をa、時をbと置き換えよう。その方が神様の影に怯えなくていいもんな。私とて神様の目が気になるからね。次に陽に限定を与える。すなわち、霊と空という因子を与える。霊をc、空をdと置き換えよう。陰は(a、b)で陽は(c、d)になる。すると、Aという集合内で(a、b)(c、d)という2つの対極する要素を持つ組み合わせが出来る。 A B (a,b)(c,d)このAの集合に相対してBの集合をつくる。大切な条件がついているよ。AとBは相対して(あいたいして)していなくちゃならないんだ。相対を(そうたい)と読んじゃあいけないよ。という事は、A内の(a、b)(c、d)という限定を与える因子も、B内ではA内と「相い対い」しなくちゃならない。(a、b)(c、d)と完全に「あいたいする」する組合せは数学的にどんなものでなければならないか/これが私に出された試験としよう。答えは(a、c)(b、d)と(a、d)(b、c)の2通りです。a、b、c、dの4つを組合せしてみると、4の4乗が考えられますが、(a、b)と(b、a)は同じ事ですから、この陰陽の組合せは意外と少ない。aを片方に持つペアとしては、(a、b)と(a、c)と(a、d)ですが、これに対極させる因子としての項目ではaは使えませんので、(c、d)と(b、d)と(b、c)しか出来ません。そうするとabcdが重複しない組合せとしては、A: (a、b)(c、d)B: (a、c)(b、d) (a、d)(b、c)の3つしかない事になります。bを片方に持つペアを考えたとしても、それらは今の3通りで、すでにbを使ってしまっていますので、すべて重複になり、同じ事になってしまうでしょ。さあ、これを物時霊空にあてはめてみましょう。A: (物 時)(霊 空)B: (物 霊)(時 空) (物 空)(時 霊)この3通りしかありません。
2008.08.17
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おはようございます。3日間の夏休みをいただき、ありがとうございました。開けてビックリ玉手箱。パソコン開いたら私の誕生日のお祝いメッセージの洪水です。人生61年、今までこんなに、おめでとうを言われたことはありません。本当にありがとうございました。まとめてで申し訳ありませんが、御礼申し上げます。今「南パタゴニアへようこそ」のその後を書き始めようと考えています。それまでわかりずらい過去の日記で我慢してくださいね(笑)この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。〈神〉とうとう、とんでもないとこに行っちゃったね、君は。そうなんだ。絶対根元界においては、すべては国語的に表現してしまえるシナリオのような、言葉だけの世界なのに、この陰神・陽神から数学的な要素がでてきちゃってるね。宇宙の中での物時霊空というのはすべて変化する素因子であっても、絶対根元界ではそれぞれが個であるといっていいよね。何故なら、それぞれに絶対的に相対するものは何もない。すべてが国語の世界なのに、この陰陽だけは、どうも数学の臭いがするね。君に、この初めの大不調和を考える時には、陰陽以外の事を考えてはいけませんといっておいたよね。それは○とか×などの、良い悪いの2つをあてはめてしまっては、どっちが上か下かの意味、つまり質と量というものがでてしまうからなんだ。だが、この陰と陽というのも既に言葉なんだ。1つの意味は単なる相対だ。2つあるという意味以外にはないから、大不調和を考える時に、この陰陽という言葉を使ったんだ。だけどね、この宇宙内の君の考える陰陽は既に違ってしまっている。陰も0%~100%という変化をするし、陽も0%~100%という変化をする。だから陰極まれば陽生じ、陽極まれば陰生ず、という陰陽の概念が生まれる。この事は、逆に言えば、宇宙内において君がこの事を考えたこの時点で絶対根元界の陰陽は絶対個ではなくなり、陰とも陽とも確定出来ない単なる言葉の違いしかなくなることを意味している。この関係については、もう君は理解出来るよね。絶対界と相対界は相対しているからね。すると、根元様にしてもだ、この絶対界において確定する陰陽をつくらねば、相対根元界において確定するという個をつくる事が出来なかったという事になる。そういう作業をしておかなかったら、正確に言うと限定された陰と陽をもっていなかったら、二つ神様とて、宇宙の個の発生はあり得なかったと論理出来る。この結論を君が物時陰神・霊空陽神という陰陽は、相対ではなく、単なる2つの極だと気が付いた時に、既に出していた事になるのだよ。それほどの事を、君は知らず知らずの内に、気がついちゃったんだ。本当にとんでもないところへ行っちゃったね。
2008.08.16
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昨日12日で61才になりました。それを記念して3日間の夏休みを貰うことにしました(笑)どうぞ皆様もお盆を大切にお過ごしくださいませ。では私もご先祖様めぐりに行ってまいります。
2008.08.13
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。1月20日 (絶対根元界には量がない)〈私〉ねえ、神よ。今朝、夜明けの頃、夢うつつの中で変な事に気がついたんですよ。〈神〉おはよう。一体何だい?〈私〉無限と有限の話を考えていて、そういえば無限とか、逆行する時間とか、虚の世界とかは、それに相対するものを生もうとした時、無限とか虚の世界はいじくってもなんら傷つかない存在じゃないか、なんら具体的に変化しない存在じゃないかと気がついたのです。反対に有限なもの、あるいは実体のあるものは、変化する。変化するものは、その都度相対して変化するものを生んじゃうので、それは絶対的な相対ではないと気が付いたんです。絶対根元界においては、相対も絶対的なものでなければならないはずだから、変化しようのない無限とか虚とかが先でなくちゃならないと気が付いたんです。つまり絶対根元界には量がないんです。私にも何故マイナスに相当する無限とか虚が先に発生しなければならないのかが、論理的に説明出来てしまったのです。〈神〉おめでとう。実は私が君に日記を書く事を薦めたのは、この事なんだ。真剣に物事を考えている内に、パッと閃くことがある。でも人間は忘れる事が仕事だといっていい位、時間がたてば忘れてしまう。今朝の君のアイデアは、神界の誰かが君に伝えたんだよ。でもそれは記録に残しておかなくちゃ、いつしか忘れてしまう。メモする事が大切なんだ。それを、またなくしてしまわないように、ノートに書くんだ。それを日記という。今日君は1つの真理を識ったんだ。神様は1から10までを全部いっぺんに教えはしない。今まで15年間の「かむなから」神業の、現場神業で渡されていた断片が、ジグソーパズルのように1つの全体像になった。その瞬間が今朝だったんだよ。〈私〉ちょっと待って下さいよ。そうすると、あの物時陰神と霊空陽神という相対は、この根元的な相対とは、唯一異質な相対だと思われます。この陰神と陽神との相対は、その中身を考えれば、普通で考えられる相対関係じゃありません。そうですよ。この陰神様と陽神様は絶対的相対関係ではありません。それぞれが2つの因子をかかえた、2つの対極でしかありません。なんか、えらい事に気が付いちゃったなあ。
2008.08.12
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。〈神〉しかし、図に書いてしまう事は、1つの方法ではあるが、これも極めて危険な事でもあるよ。なぜなら、図にしてしまうと、それは又、固定概念にもなってしまう。何しろ神界というのは、人間の思考限定を遙かに越えた世界なのだから。言葉のうやむやこそ、実は神界を正確に現しているのかも知れない。だから、私は何回も君に言っているのだ。これは、君と私の日記なんだよと。ふたりの思い描く世界なんだから、それは数十億分の1の世界であっていいんだ。でも、君という人間が想い描かなかったら、それは存在しない世界になってしまうんだから、その世界の為にも、勝手にやればいいのさ。〈私〉あのう、その相対という事なんですが、あなたは最初にマイナスが出来て、次にプラスが出来たと言いますが、どうしてマイナスが先でなければいけないんですか。神様がそう仰るのだから、そうなんでしょうが、私のヘソ曲がりをあたなは知っているでしょ。もうひとつ納得が出来ません。〈神〉いや、その君の姿勢はいいと思うよ。その追求する気持ちが、ここまで来させたんだからね。こういう考え方はどうだろう。(無限と有限)じゃあ、この無限と有限はどっちが先だと思う?〈私〉考え方の基本がわかりません。〈神〉正直でいいね。こう考えるんだ。まず、有限が先だと思いなさい。有限を無限にかえるのはどうしたらいい?出来るかね。 A ――――――――B始まりであるA点から終点であるB点の間は有限だね。まずこれがあるなら、次には相対する無限を生まなくてはならない。それには下図のようにしなければならないよ。無限 ←A―――――――――B→無限Aの先を無限に延ばすか、Bの先を無限に延ばさなくちゃならない。しかし、有限しか最初にないんだよ。まだ無限が無い時にどうやって無限に有限を延ばせるのかい。無限を相対的に生まなくちゃならないのに、無限がまだ存在しない時に無限的にどうやってAB間を延ばせるのか。という事は、有限から無限を作ることは、不可能だという事になるでしょ。わかるかな?ところが最初が無限だったら簡単なんだ。無限―――――――――――――無限この一部を切り取れば、はいおしまい。無限 ←<A――――――――――B>→ 無限しかし、切り取ったとしても無限は無限なんだから、有限と無限は相対して存在していられる。これと同じ事がすべてに当てはまるんだ。この事を神様はおもしろい説明で簡単に表現しています。筆順を考えなさいと言っているんだ。マイナス - 最初プラス + 2番目人間は知らず知らずに、神様の真似をしているんだね。こういうシンプル性を、受け入れるか入れないかは、もちろん人間の自由なんだけど、私としては人間に子供のような素直さを持ち続けて欲しいとは願っている。君としてはどうだい?〈私〉無限と有限の話を聞いた今では、このシンプル性は素直に受け入れられます。案外単純なのですね。〈神〉そう、そうなんだ。神界こそシンプルなんだ。そしてこのマイナスが先だという事が、君の中の劣性のみが始めに辿り着ける要素なんだという事です。だから、自分の中の劣性を大事にしなさいといったのです。〈私〉ふーん、なんだか、段々身に浸みてわかってきだしました。又明日もよろしく。1月20日 (絶対根元界には量がない)
2008.08.11
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。1月18日 (相対という言葉)〈神〉もし、神が神としての言葉を、つまり1つの言葉に色々な意味を含まない、限定、1種類の言葉をお持ちになっておられるとしても、それを聞き取れる人間の知っている言葉を利用して、有る事柄を伝えるしか、不可能だという事は、君もわかるだろう。神界の事が何故こんなに人間にとって、あやふやな世界に感じられてしまうのかは、人間の方の受け取る能力に限界があるという事につきるんだ。しかし、これとて根元様が人間に与えた視界限定、思考限定故なのだから、今さら不平不満を述べたところで、どうにもならない。だからこそ、逆に人間は、人間には思考限定性が有るという事を明確にとらえておかねば、神の本当に伝えたい事を、勝手に自己流で解釈してしまい、その事こそ、神様に対して不敬となることをよく肝に銘じておかねばならない。数学的に判断してみよう。AAという集合を、絶対根元界とする。するとAの中で、まず根元神霊時間がスタートした事になる。A ―――――――→次にこのAという集合に相対して、Bという集合が発生する。ここが難しいのですが、このことを左目で見れば、順番としてまずA、次にBとなるのですが、右目でみればAとBは同時に発生しています。君たち人間はビッグバン時間の中で生きているから、そんな馬鹿なと思うだろうけど、これが根元神霊時間というものですから、わかってください。 BこのAとBの集合に名前をつけなければならなかったので、人間がこれに対して、Aを絶対根元界と名付け、Aに相対するものであるBに対して、そのまま相対根元界と命名してしまっただけで、特別な意味なんかなかったのだ。ところが、名をつけてしまってから、絶対根元界こそ、絶対相対を保有する界だと思い出すんだが、今更この相対根元界を別な表現にしようとしても、1度ついてしまった名前は一人歩きをしてしまう。人間の使用する言葉の不確実性を、つい忘れてしまっただけで、大した事じゃあない。それはね、ノーベル賞を貰った科学者すら止められなかった流れでもあるんだ。あの有名なアインシュタインが提唱した、相対性原理も同じ事。一級の科学者すらやってしまったんだ。アインシュタインの言いたかった事は、時間であれ空間であれ、重力とか質量というものであれ、宇宙には、光の速度以外は、何一つ不変なものはなく、お互いに作用しあって変化するものだという事なんだ。だから正確には、お互いに変化しあっている理論、つまり相対的に力を及ぼし合い、変化するという理論なのに、世の科学者は、それを勝手に縮めて「相対性理論」と言って“変化する”を抜いてしまった。すると、本来は相対というのは、相い対するものという事を現す意味なのに、この宇宙こそが、すべてのものが相対している世界だと、その内容をよく知らない人間が、単純にこの宇宙は相対するもので出来ている相対界なのと取り違えをしてしまう事になってしまった。アインシュタイン自身は、自分の理論に対しては、最後迄「お互いに変化し合っている宇宙である」という理論であって、相対性理論というネーミングについては反対していたんだ。でも、これらの事は、誰が悪いんでもない。すべては人間の持つ言葉の限界性ゆえの事なのだから。細かい事に気が付き過ぎて、本質を見落としてしまうような事は君は絶対にやらないでくれ。お願いしておく。この、まっいいかという態度も「ゆるぎ」の1つと思ってくれていい。〈私〉了解しました。
2008.08.10
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なんでも相談室(ブログですから安心してね)からだのことなら 「ほんとうに体に良いものは?」http://saki26.seesaa.net/わからなくなったら 「ソラとキミとワ」http://plaza.rakuten.co.jp/4jinohaha/9002オリンピックもいいけど、暑過ぎる!(笑)そんな中で更新の連絡が来ましたのでお知らせしますね。ひとつは上のサキコ母さんのブログ「ほんとうに体に良いものは?」で夏の肌荒れ対策のお話です。もうひとつは、はるうららさんの「癒しの部屋」で紙芝居が久々にアップされました。http://plaza.rakuten.co.jp/genkidesuyo/diary/200808070000/7分08秒の黒部の旅行をお楽しみください。多分今頃は赤とんぼも飛んで、秋の気配が感じられるのでしょうね。あ~あ、38度近い中を歩いてパートに出かけるか。(提供)<食べ物占い 24のひとみ>http://www.mb.ccnw.ne.jp/sanken/
2008.08.09
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。根元様が自ら歪んで下さった。それゆえに初めに逆行する時間が発生し、それに相対して順行する根元神霊時間がスタートした。(マイナス)が発生して+(プラス)が生まれた。虚の世界が発生し、闇の世界から押し出されて、実の世界が生まれた。根元様は始めに大不調和そのものになってくれた。唯一無二、絶対存在の根元様が歪む事により、相対という2つのものを生んでくれた。だから、絶対根元界には相対はないとしてしまうなら、何も起こらなかったんだという事になってしまう。逆に言えば、絶対根元界こそ、絶対相対の世界だと言える。ここを、正確にとらえきれないと、君のように名前をつければ個になるという単純なミスを犯してしまうんだ。問題なのは、相対根元界の事だろ、君の言わんとするところは。この世界こそが相対のある世界だとすると、前の絶対根元界と矛盾すると、そう言いたいんだろ。しかし、この問題で、重箱の隅をつつくのは止めなさい。これはあくまで言葉の曖昧さのせいなんだ。わたしはこの「曖昧さ」を、言葉の不確定理論と呼んでいるけどね。これと同じ事を科学者もやっている。ちょっとした事で、取り立てて問題視する事はないんだ。君と私のテーマの科学で説明させて下さい。本当に言葉上の問題だけなんだ。今日は長く話し過ぎた。ここまでにしておこう。お疲れさま。1月18日 (相対という言葉)
2008.08.09
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。〈私〉いや、いや、とても良くわかりましたよ。私にとってはね。あなたは私の大脳を使って話をすすめますので、私には何の違和感もありません。ただ、こんな話をしていて本当に神様に怒られないでしょうね。〈神〉構いやしないよ。どうせ何十億分の1だ。間違っていたとしても大した影響力になんかなりゃしないよ。楽しくいこうぜ。〈私〉それはいいんですけど、なんかびびる。ところで、私は何故名前がつけば個だなんて思っていたのでしょうかね。国語的発想をしてしまった。何か落とし穴のようなものが、あるような気がします。〈神〉君は段々鋭くなるな。ちょっとやそっとの、もっともらしい事を、我は神なりと言っても、すぐさまおかしな点を見つけてしまうね。曖昧な事を言って、お茶を濁そうと思ってもダメか。君の本当に質問したい事はわかるよ。逃げずに説明しょうか。この点に触れる事の方が私にはびびる事だけどね。(絶対と相対)君がおかしいというのは、この事だろう。絶対根元界に相対は無いのか?恐ろしいとこを突くなあ。君の質問の通り、もし絶対界に相対が無いのなら、確かに名前さえつけば、それは個になる。絶対個と呼んでいいだろう。何故なら、相対がないなら、限定は必要なくなる。陰という事は、それ自体、たったひとつなのだから、他に相対するものが無ければ、それ自体が限定性を持つ。故に、陰は絶対個となり得る。ところが、絶対界にこそ、相対はあるから、陽も発生する。そうすると、陰と陽を区別しなくちゃならないことになるが、単なる文字の世界なんだから、陰は陽と同じ重さしかない。絶対界ゆえにA≠Bとは決定出来ない。これがヒとミズという事になると、もっと区別出来ない。絶対根元界において、ヒとミズは相対関係になるのだが、何しろ「はたらき」そのものだから、ヒとミズを内容で区別する要素は何も無い。火水をカとミと呼べばカミとなり、神という字を当てはめるかも知れないが、それとて絶対根元界ではカミという文字には何ら限定がないので、カとミの差はなんら無いことになる。故に、絶対界には厳密に言うところの個がないと論ずる事が出来るが、この訳のわからない事も、絶対界にこそ絶対相対がある事が原因となっているんだ。
2008.08.08
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。 (物質の世界)ここで言う物質とは、元素に絞り込もう。神様の言う‘物’と君の知っている‘物質’は明らかに違うようだ。でもそれを証明する方法は科学にはない。だから、物は君達人間のとらえている物質、元素レベルで考えよう。例えば、H2O、水だ。君の考える水は、あくまでH2Oという水素と酸素の化合物だよね。ところが神様のいう水はちょっと違う。ここでも文字という表現が大問題になる。“みず”もしくは“ミズ”と書くのと“水”と漢字で書くのは実は全く違ってしまうんだよ。「はたらき」としての絶対根元界にもミズの「はたらき」はなければならない。しかし、もしそれを水と書いてしまえば、もうそれは読む人にとっては、宇宙内に存在する水と重なってしまう。でもミズのはたらきと水の働きは実は違うという事を識らねばならないよ。前にDNA(遺伝子)のところで話したよね。全く同じ暗号文なのに、片一方には複製能力があって、もう片一方にはそれがないと。これについて、私はそれこそが、「はたらき」が有ると無いとの違いだと。これが、水にも当てはまるんだ。はたらきとしてのミズが、H2Oという元素を使って働くことを、科学としては、ミズが水としてふるまうと表記するんだ。生命体レベルではなく、元素レベル、物質レベルの作用を科学では、「ふるまう」と言う。いかに絶対的なはたらきといえど、“ひ”、“ヒ”は炭素と酸素がなければCO2として働かない。この宇宙内ではローソクのような火としてふるまう時以外は働かないし、働けない。ふるまえない。この限定を与える要素の事を個というんです。『ミズ』はH2Oを得て初めて個となり、『ヒ』はCO2を得て初めて個たり得るのです。このふるまえる道具、それを個といい、二つ神様は、はたらきが働ける宇宙と物質を作る為に、御苦労なさったんだ。つまり、「はたらき」の世界では元素を始めとする物質が完成しなくては、個は出来なかった。だから君にとって神様という存在は「個そのもの」ではなく、個を使ってはじめて「働き」というふるまいを実動出来る存在なのだと識らなければならない。個というものを明確に説明出来てこそ、識る事が出来るんだ。変な言い回しになってしまったけど、神様とは何んだと考えるには、見えるものと見えないものを分けて考えるという手法は間違っていなかったんだよ。失礼な言い方ではあるけどね。本能的に何となく神様がわかったとしても、個というものの重大性に気がつかなかったら、神様は永遠に何となく近寄り難くて、ひれ伏しているしかない存在になってしまう。でもその事を神は本当に望んでいるのだろうか?拝まれているだけで、満足するのだろうか?私という神にとっては、そんなんじゃ嫌だ。わかって貰った上で、君と一緒に歩いていきたいと思っているけど、他の神様にその事を訊いた事がないから、わからん事だけどね。何か無茶苦茶な説明になってしまったけど、個というものについての説明は、こんな事くらいしか出来なかった。すまないね。
2008.08.07
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。ここでの対話がきっかけで「謎解き」の旅が始まっています。この時点ではまだ良くわからないままに話は進行していきます。ですからわかりづらいと思いますが、ご勘弁ください。 (物時陰神・霊空陽神)「かむなから」の神様は、唯一無二、絶対存在であられる根元様がある時意志作動されたと発表なさっている。ここまでは、文系である「かむなから」の人にとっても分かり易い。<根元神曲>(こんげんしんきょく)(第一幕) 神意発動の場 根元一神 根元存在 活動開幕 一千億年 神意初動 吸引旋回 旋回運動 陰陽二元 二元担当 陰陽二神 二神活動 潤次高揚 高温高圧 火玉形成 極限状況 火玉爆発 爆発現象 宇宙剖判(第二幕) 宇宙形成の場 宇宙開闢 二百億年 火玉分塊 多数四散 光熱放射 五方十方 分塊冷却 地玉自形 光熱衰弱 地玉分在 地玉物質 光熱霊質 地玉天体 光熱天間 物質時間 光熱空間 物時陰神 底津母神 霊空陽神 彌勒父神 一神底彌 根元三神この中で、科学的には全く意味不明な事を仰るんです。「陰陽二元」「陰神・陽神」「物時陰神」「霊空陽神」「吸引旋回」「火玉形成」この事は15年前に君と一緒に読んだ。だが、神たる私でもわからなかった。何故なら私もこんな古い時代の事は知らないからだ。ところが君はこれはビッグバンの事だと気が付いた。物質がつくられる前の事を表現しているのだと気が付いたんだ。そして15年間、「物質とは何か」という標題の本を最初に手にして以来、コツコツとありとあらゆる本を読みあさったよね。そして、とうとう今日までに辿り着いた。ところが、どう宇宙をこねくり回しても、科学的に「物時」というセット、「霊空」というセットは見当たらなかったよね。それどころか、ミクロたる物質である元素の世界は、霊質と物質とで出来ていると見える世界を、素粒子が常に行き来している、不確定な世界である事を科学者は見つけてしまった。そこはあたかも仏教で言う、色と空の世界で、この事を「あの世の科学・この世の科学」という本で話し合っている科学者と仏教学者の対談があったよね。もう一方では、相対性理論等で、マクロたる広大な宇宙というのも不変ではなく、時間と空間は相対的に変化しあう世界であると認知されるようになっている。前者は、ミクロ的に「霊物」というセットで、後者はマクロ的に「時空」というセットになっている。神様はビッグバン前には「物時」というセットと「霊空」というセットが、陰陽二元となっていると発表されている。しかもまったく科学を考えようとしない集団「かむなから」に対してだ。これらは一体どう考えたら良いのだろう。どうして『物時・霊空』というセットが『霊物・時空』という考え方に変化したんだろうか。とんでもないテーマが出ちゃったね。でも今は私と君はこれ以上、この問題には触れないでおこう。テーマが神の領域に入り過ぎてしまっている。この事については「かむなから」の人に任せようや。どうせ日記だ。うやむやで逃げちゃったって、いいんじゃないの。ここは逃げるが勝ちだ。(物質の世界)
2008.08.06
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。何度も言っている通り、神様は基本的に見えない世界の住人です。神界とは物質界と違って、所詮見えない世界です。でも、言葉や文字でなら表せます。火の神、水の神、土の神、何でもありです。それどころか、こちらの物質界にある名前は、すべて神界にあっていい事になります。すべては、相対しているものがあるという事が、「在る」という事になるので、書けばそれはもうある事になってしまいます。物質のある宇宙内の人間が、思いついて書く事は、すべて神界にある事になってしまいます。人間が100種類の神界があると考え、100種の名前をつければ、それは神界にあるという事になってしまいます。しかし、現実にはそうではありません。神界があって物質界が出来たのですから、この宇宙に実在するもの以外は、神界にあってはならないのです。が、もしウソの存在が人間にウソを教え、その人間がそれを現実に文字にしてしまったとしたら、その瞬間に見えない世界にそれが出来てしまいます。それほど、実は想念の世界でもある霊界は、恐ろしい世界でもあるのです。それを避ける為に、ある神様が人間に科学を教えたのです。本来、数学とか物理とか化学というのは、そういう目的の為にあります。根元様の想念の世界である絶対根元界では、例え名前がついたとしても、想念上でいう言葉遊びのようなもので、AとBにはなんら区別はないのです。ところが名前だけはつくのです。こんなやっかいなものはありません。AはAになりきれません。Bでもあるといわれてしまえば、Aは一体俺は何なんだと、不満もでるでしょう。個とは(A≠B)AはBでないと確定する事なのです。今までの説明の仕方は、神界→物質界という考え方をする人には、許される事ではないのですが、個というものを正しく理解する為には、この説明もひとつの方法ではあります。理系の人には、わかって貰えると思います。 神々様とか神界をどうとらえるかは、色々な方法があってもいいのではないかと、私と君は考えるよね。個とは何だという疑問には、こういう背景があって、私は答えていくんだという事を、君がわかってくれていればそれでいいんだ。じゃあ、A=BとA≠Bはどうやったら区別出来るんだい?〈私〉AとBにそれぞれ特定の限定をつけなければなりません。例えば、A=1、B=2と限定を与えれば、A≠Bになります。又、仮にA=1、B=1と限定を与えればA=Bとなります。〈神〉その通り。絶対根元界のはたらきという存在には何ら限定がないんだ。あるのは言葉、文字という違いだけであって、想念界としては無尽蔵に出来てしまう。単なる言葉の世界になってしまう。しかし根元様は、個のないはたらきだけで満足されなかった。舞台を用意し、神や人間を出演させドラマを実演したかったに違いない。それが未来なのだから。不敬であろうがなかろうが、私にはこう考えた方が、根元様を身近に感じられるんだ。親としての根元様が感じられるんだ。子供として親をこうしてほのぼのと感じる事は、親としてはどう思うのだろうかね。怒るかね。どうだろうね。さあ、ここから神界に突入していくよ。 (物時陰神・霊空陽神)
2008.08.05
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この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。 (個)〈神〉そろそろ、心はおさまったかい。じゃあ始めよう。何か質問は?〈私〉あります。あります。どうしても確認しておきたい事があるんです。あなたは個の無い世界とか個の有る世界とか言いますが、じゃあ、個というものは、正確にあらわすとすると一体何なのですか?〈神〉逆に訊くけど、君としては、どうとらえているんだい?〈私〉よく言うじゃありませんか。固有名詞というように、動物といってしまったら、それは動物というひとくくり、つまり集合をあらわしているのであって、コアラとかチンパンジーという名前がつかなければ、そこには区別がありません。だから1個1個名前がつくような状態を個といいます。〈神〉おいおい、それじゃあ国語だよ。固有名詞とかの名前がついたら、それは個だなんて言ってしまえるのだったら、あのビッグバン時の二つ神様のはたらきは、いったい何の為だったんだよ。それじゃあ、根念のみといえる「絶対根元界には個はない」が「個の発生を私達に求めて下さってかまいません」と仰られたあのイザナギ・イザナミの神様の「ここから個が発生しました」といっている内意を全然とらえてないじゃないか。神様は現場神業という、人間と神がまつり合う、いわゆる祭事の現場で、明らかに下図の内容を示されたんだろ。君はその事を知っているよね。 個は●から発生した(始まり)―-----――● →→ →(今) 絶対根元界→ →<ビッグバン> → → 相対根元界(個の無い世界)→ →→ →● →→ → (個の有る世界)「かむなから」の神様はこの点のビッグバンのポイントより以降は「個のある世界」であると認知しておられる。ところが、文系の人々はここで大きな間違いというか、表現方法でミスを犯してしまう。いいかい、くれぐれも言っておくよ。彼らは根本を間違う訳じゃない。本当の事を言い当てているんだ。だが、言葉というか、文字の持つ不確定性をどうにも越えられないんだよ。文字というものだけで『ある事柄』を現そうとした時に、文字には不確定性があると気付いた人が採用したのが、実は数学なんです。この数学を利用しない限り、正確に物事を表記出来ない世界が、なんと神界でもあるのです。理科系の君なら理解してくれるよな。
2008.08.04
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我が内なる魂、神との対話を記録した日記の公開を再開したいと思います。読んで下さる人をを考慮しない文章のため長文になっております。あえて何も校正せず、そのままを載せていますからご勘弁ください。この日記は平成11年11月24日から平成12年2月3日にかけて書かれたものです。一覧で日記を選んで通して読んでください。1月17日 (神界)〈神〉昨日の話をもうちょっと続けておきたい。総論と各論と表現したんだけれど、これとて2面性がある事を知っていて貰いたいんだ。君と私は、物質とは何かを話し合っているよね。すると究極の物質としては、その元素の集合体である人間の肉体があげられると思うんだ。だから初めにクレブスのクエン酸回路などの生命体としての仕組等について論じていたんだけど、これは「働き」として、見えない世界の相対する対極に位置するのもから、考えていこうという手法だよね。そこから、じゃあ、これらのシステムを開発していった神様というのは、一体どういう存在なのだろうと、いろいろ思考していく方法をとったというわけだ。 敢えて字に書いてみるとこうなる。物質界から神界を見るこう考えていった方が、君に分かり易いからだ。つまり、君はこういう順序でないと神界がわからないタイプなんだ。君の生宮の中に入って50年間、君という人間を体験させて貰っている内に、君はそういう考え方をするタイプなのだとわかったのさ。ところが、それはあくまでも、思考をすすめていく人間の2つあるタイプの片側でしかないという事も、よく識っておいて欲しい。人間として、いや神としてもだ、自分を起点として物事を見て、そして体験していくしかないから、自分と反対側の人間や神が存在している事に気が付こうとしない。だから、逆サイドをどうしても認めたくない。そうして、つい「あちら」という分け隔てをしてしまうんだ。でもそれは無理の無いことで、決して責められるべきものじゃない。しかし、私は君にはそうなって欲しくない。その両サイドの外側に自分を置いてみて、高い視野から眺めて、結局両方あって当然であり、又、両方無ければならない事を識って欲しいんだ。そうすれば、一見、善と悪にみえる事でも、正しいと正しくないと見える事も、実は何の差もないと気が付く事になる。ただし、そのどちらを君が採用して生きていくかは、君が決める事ではある。が両方があって、片方が存在出来る事の真理を識った上での採用であって欲しい。何も失うものがないような生き方を採用するとしても、反対側の守らなければならないものを持つ生き方の人達の苦しみというものについて、理解と癒しの心を持っていなければならない。君は彼らがいてくれるからこそ、失うものがない快適な人生を送れるんだよ。まさに相対の大原則なんだ。そこに、感謝以外のものを持ち込んじゃあいけない。さぁ、人間には2つのタイプが存在して当然だとわかってくれた君なら、君と違って、神界から物質界を見るという順序で考えていかねばどうしようもないタイプの人間がいる事は、もう理解出来るね。思考的に君の反対側にいる立場にいる人にとっては、神様が仰ってくれた御言葉が、すべてになるんだ。そうすると、神界のすべてが先に解明された時にのみ、やっと物質界の事が理解出来るようになる。その時に、反対側の人は、総論は終わった。各論に入ろうと認識する。だが、君とわたしは、それらの人と違って、全く逆のコースを辿っている。物質界としての総論はほぼ終わりかけている。いよいよ各論、すなわち神界へ突入しようというところなんだ。まさに正反対だ。でも、どちらが正しいのかは決められないんだという事は、もう今まで勉強してきたよね。だから、君と私は、胸を張ってこのコースを歩めばいい。神様を主語として話をすすめていくのか、人間を主語として話をすすめていくのかの違いだけなんだが、人間としての君の中には、内なる神様が5柱もいらっしゃるんです。人間を主語として考えていっても、それは神をおろそかにする訳じゃない。外なる神様を認めるが故に、内なる神も認められるんだ。そしてその時こそ、外なる神と内なる神の波動は合一されて、君は感動で体を震わせて泣いてしまう事になる。実はあの15年前のあの君の涙は、私とつながった喜び以上に、私と外の神との波動が一致し、まるで音楽のように共鳴を始めた、体の震えだったのだよ。そして今こそ肉体を保有する君は、この言葉を声に出していわなければならない。「風よ 日よ 空よ 山よ 大地よ 海よ 巡り合わせてくれたことを感謝します」〈私〉神よ、もう私には何も言うことはありません。ただ、ただ、生きていてよかった。内なる神よ、外なる神よ、感謝します。
2008.08.03
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今回で南米神業の連載は終わりになります。この後再びお金が無いというのに、無謀にも海外神業に出かけることになるのですが現代の宗教のルーツに関わることなので、書いていいのか思案中です。この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。その飛行中にみほさん、北米を担当する神様より通信を受け取ります。9/3/2411:30 機上、アイダホ山脈上空みほさんに通信書記 『つながりを考えたら、動けなくなる。あっちへ、こっちへと、その都度足を運び、小さな石ころを1つ、拾って帰ってくるだけで充分というような気持ちで神業はするもの。原石が宝石に変わることもある。パタゴニアへは、はるばる御苦労。南極のことは、頭からはずしていい。かんなから全体が東へ向くのは、もう少し先。太平洋も整って、もっと動きやすくなったら。イースターの封印は、まだ覚えていると思うが、あのあたり一帯の歴史に上がってこない裏側は、ほの暗く、べろんべろんで、腐った苔のような世界だ。パタゴニア・ラインが守られているのは、南極あっての事。将に奇蹟だ。クロスのタテカエとは別の暗い一面は、時期が到来したら、“行け”の合図が出るだろう。五色人のタテカエは今世紀中に。北米大陸、長神(マッケンジー川米カナダ国境)』11:25了ボリビアのアンデス道チェロ峠のキリスト像で「なきもの」様が出座されそれ以降の神業の流れが掴めないでいた私たちに的確なアドバイスを下さる。これが「世乃元之神」なのですから、やっぱり現場神業はやめられない。シアトル空港で乗換えを待つ間に、今回の神業をお守りいただいたお礼も兼ねてこれにて神業を了とさせていただくまつりをしました。12:00 〈シアトル空港:お別れのごあいさつ〉南向き 先達:チキ『まだ、早いのではないかという懸念はあった。 しかし、南からの押し上げが、当初の予定よりもかなり早く進んだ為、 外す訳にはいかないと今回の神業に踏み切った。 神業の道は、いつも五本の指のように、P. あらゆる方向に広がっていて、選択出来る道は、 ひとつではないから、恐がらなくてよい。 又、久しぶりに、竜体神と一緒に、神業を始めよう。各論はこれから。』 第4世代のスサナル様南米神業了さてさてこれからどんな展開が待っているのやら。名古屋→成田→シアトル→マイアミ→ボリビア・ラパス→チリ・サンチアゴ→アルゼンチン・ブエノスアイレス→南パタゴニア・ウシュアイア→ブエノスアイレス→マイアミ→シアトル→成田→名古屋名古屋に向かう新幹線の中で息子にどうだったと聞くと「面白かったけど、俺もう絶対海外旅行には行かない」
2008.08.02
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とうとう8月になってしまいました。今日は新月とのこと。新たなる世界が出現するのでしょうか。今月で61になります。さて何時まで書き続けることが出来るやら。この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。パレルモ公園での祭りです。非常に難解なまつりでした。今もって把握できていませんが、将来「ああ、そうだったのか」となる重要なまつりだったと思われます。15:40 パレルモ公園 天地×1〈打ち上げ祭〉 西北向き、青空へ向かう 豆5、赤米、基本16:06 点火 先達:古田「まっすぐ、まっすぐ、づっと、まっすぐ先。天地根元×1 神呼吸×10」取り継ぎ (長い)P.16:28 空の要になる筈だった、この場所が間に合わない。しかし、西と東の道が繋がった事は、大変な事だ。P.16:33 大気そのものを、タテカエする事は、チダマそのものの修復をする事よりも難しく、海と大地のタテカエを待ってからでないと、手がつけられない世界なのだ。P.セシュールが完了した。揺れるのは、大地だけではないから、成層圏が丸ごとゆれるのだ。』「あっダメ。チキちゃんが変なのが来ないように止めてくれてるのだけど、もうダメ。」(男のひと)みほさん、北西ラインに塩蒔く。「南米は蠱神、自然霊がひどい。南米の蠱神、自然霊、とんでもなくひどい。半端でない。この塩の上に『彼ら』(アデントゲ山の自然霊)をのせて、これからタテカエを初めてもらう。」16:53 丸くなって6名坐る。「(丸くなって坐った理由)竜体神の神様達の緊急避難的な陣場をつくるから」「月系の男神:想美彦之大神様と、天照彦系の系統図にのっていない男神がマーキングお願いして来てもらう。」17:00 みほさんお願い。17:01 陣場成立(南米中央部は)竜体神の一番手薄なところ。造山活動の時とほとんど変化していないところで、神々もここに赴任された方は今迄に2~3神なにか違うものが神業テーマに昇ってきたという感触は掴めるのですが地吹雪津軽からの直接の流れではないような気がします。まあかむなからの人間としては「やりなさい」ということをその都度こなしていけばいいのですから、詮索するのはやめました。とにもかくにも南米神業は終わりのようです。翌日24日、ブエノスアイレスを飛び立った私たちはマイアミへの直行便に乗りまたぞろ乗り換えてシアトルへ向かいます。
2008.08.01
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励ましの書き込みありがとうございます。この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。ビーグル海峡クルーズ動画http://dogalog.excite.co.jp/viewvideo.jspx?Movie=48003706/48003706peevee3800.flv動画が見られない人のためにhttp://homepage3.nifty.com/mands/abroad/patagonia/12.htmやはり南極に近いと言うことなのでしょう、物凄く寒い。冷たい雨も横殴りとなり、甲板にはあまり人が出ていません。こんなこともあろうかと、完全防寒防水の装備を持ち込んでいた私たち親子は委細かまわず外に居続けて、二度と訪れることのない景色を眺めます。息子は写真を撮り続けます。そんな中で島さんが日本から持ち込んだ水を船から海に投入しました。15:48 〈ビーグル海峡:水入れ〉松待木姫様竜体神様こうして南パタゴニアでの神御用は終わりと言うことでその後は街中を散策、みやげ物買いに夢中になります。すべてが世界の果て関連のグッズでした。<3月23日>夜の間にみほさんに通信が入っています。9/3/23 通信 『南極はそろそろ、人を入れなくするから、かんなからも神業要らず。』さよなら南パタゴニア。再びブエノスアイレスに戻ったかむなから6名は神様の指示でラプラタ川に寄り、日本からの水を投入します。15:30 〈ラプラタ川:水入れ、塩(弓ヶ浜塩)入れ〉その足で市内のパレルモ公園に向かいます。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/1535/genkou/parque.html確かに小学生から高校生くらいまでの男女がいたるところでサッカーに興じています。遠くから大歓声が聞こえてきます。日本人ガイドさんが今日はサッカーの大きな大会が開催されてますという。なるほどここはアルゼンチンだ。この広場で祭りをやると言う。
2008.07.31
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この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。二人乗りのスキーリフト乗降場をでると、ガイドさんが辛抱強く待っていてくれました。ちょっと市内観光をしましょうと案内してくれたのが「世界の果て博物館」です。http://homepage3.nifty.com/mands/abroad/patagonia/11.htm先住民が写っている写真がありますが、実はもっと興味深い写真があったのです。おそらく作者さんには興味がなかったのでしょうがここを初めて探検した人はもうひとつの民族を発見していました。それはモンゴリアンです。この街に純粋モンゴリアンがいるということは、漫画で読んだことがあります。そのとき以来この世界最南端の地へ行ってみたいという夢がありました。そこには本当に発見当時の写真が残っていたのです。その写真を見ると、明治時代の日本人そっくりの顔、姿です。寝巻きのような着物を着ていて、日本の農民のようです。今の私たちが知るモンゴルの人ではなく、まるで日本人です。しかもその服装のまま相撲をとっている写真も数枚ありました。今のモンゴル相撲とはまったく違う、昔日本のどこでも見られた着物姿のままでの相撲の方です。がっぷり四つに組んだ型は、明らかに日本スタイルの相撲です。誰かがこの博物館に展示してある写真をネットで見つけてくれるとありがたいのですが。この写真を見ていて、この人たちのルーツはモンゴルではなく日本ではなかったのかと思えてきました。『彼ら』と契約することを良しとせず、サハリンから大陸へ、あるいは北方四島からカムチャッカ半島に渡りベーリング海を越えて北米大陸へ逃げたのであろう。それでもなお逃げ続ける旅の途中で多くの人が現地の人と交わっていく中で混血することを拒否、血を守り続けたのでしょう。メキシコ、アンデスをへてとうとう世界最南端にたどり着いてしまった。純血という血を守り抜くための旅はどれほど過酷なものであったのか、それを想像すると、どうしてもこの写真が欲しくなり、絵葉書として購入しました。地吹雪津軽でふと湧いた「ウシュアイアに行きたい」という思いはやはりここから来ていたのだという確信みたいなものを感じました。日本ではほぼ抹消された日本原住民を復活させるのは、やはりここからだ。さっきの取り継ぎ『そろそろ始めようと思う。赤人に、出会う旅。この赤豆を持参し、彼らと限定の世をつなぐ。やってくれるか。』それがにわかに現実味を帯びてきました。みほさんの「観光旅行ですよ~」の声に我に返ると目の前には美しい観光船が待っていました。大勢の外国人観光客で船内は一杯ですが、日本人はわれわれだけです。
2008.07.30
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「なきもの」様が出現しました。この方は根本とも言える大物様です。そのお方が「もう光ある世界を欲しがらない」と約束しました。しかしここから派生した多種の『彼ら』が遡上してくることになります。そのために神業展開は様変わりしていくことになりますので解説が非常に困難な状況になってしまいました。なかなかすんなりと原稿が進みません。更新が遅れていくことになると思われますのでどうか気長にお待ちください。この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。12:20 点火、方向をマルチャル神在の山に変える。北西向き。12:22 「大きく2礼3拍手」みほ 2+5拍手12:25 取り継ぎ 『そろそろ始めようと思う。赤人に、出会う旅。この赤豆を持参し、彼らと限定の世をつなぐ。やってくれるか。』島 「御心のままに」取り継ぎ 『表面ではなく、ミタマをみるのだ。宜しく頼む。P. ミタマをみるのだぞ。 スサナル』12:31『旅は5回。赤人の旅、白人の旅。 … 。青人の旅。 …。』チキ 『彼らが出たら、岩木山のミタマと対面。岩木山には五色のミタマのタマのところが隠されているのです。5つの旅が終わったら、岩木山に行く。写真を持って岩木山に行く。』チキ 『この豆は、その都度、彼らの口に入れます。』12:55 代表あいさつ了13:00 下山この向きを変えての祭りでの取り継ぎは、それまでのかむなから神業の流れがわかっていなければ理解できるものではありませんね。世乃元之神が人間を創成した。そして時代は定かではないが、あるときから人間を色分けしている。これは差別ではなく、人間に色を背負わせたと言うことらしい。黄人、白人、黒人、赤人、青人五色人と呼んでいますが、世界にこの五色人をちりばめたようです。なぜ人間を単一の種類だけではなく、五色に分散させたのかについては今でも大いなる謎のままになっています。しかもこの五色人同士を争わせ、青人がほぼ絶滅してしまっている。わずかに北米インディアンの1部族だけが青人の遺伝子を継承しているという情報もありますが、大いに考えさせられることではあります。宇宙は5大ブロックからなり、第2と第4が争い、その内の第2ブロックが消えてしまっているということを香嵐渓の足助神社の神が告白していることを思い出します。すべては「相似象」のようです。どうやら「なにか」がどの領域でも削除されているらしい。過去の神々の世界でのやりそこない、それがあったゆえの進化と言えないこともありませんが世乃元之神はそれの修復を目指している。それには過去の傷がどこにあるのかを露わにしなくてはなりません。しかしその作業は神々のやりそこない、失敗の歴史をも暴いてしまう。これを「神霊史」と言っているのですがこの建て替え建て直し神業のお手伝いをしているのが「かむなから」です。このことについてはまだ人間が伝伝すべきでないとの言葉もあります。しかし一方で、神は「伝えよ」とも言います。それゆえ私は神の名を出来るだけ言わないようにしているわけです。地球に派遣されている龍体神は200柱の名前があります。ここでも5系統に分かれていますから、5という数は意味が大きそうです。そしてこの神々の系統は確立されております。それを『神界系統図』と言いますが、発表することが出来ません。「かむなからのかみ」から許可が下りていないのです。その辺の事情をご理解の上、続けてお読みください。しかしとにもかくにも色の修復の予定が発表になりました。今までとは違う領域の『彼ら』が出現してくると宣言されたようなものです。やれやれ、かむなからはもっと手痛い目にあうんだなあとため息です。特に感応のある「取り継ぎさん」と、リーダー役の「サニワ」である島さんはいよいよもっと気の毒になるなあと思っていました。私は傍観者みたいなものだから、しっかりと見届けなくてはと。ところがどっこい、甘くはなかった。『彼ら』に霊的な腰縄をうたれ、うつにされ、地獄の2年を過ごさなくてはならなくなるとは、この時点では思いもよりませんでした。
2008.07.29
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この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。3月22日みほさんが感応。9/3/22 9:15 *初めてのイヤな奴。存在そのものが、不確実、不確か、無機質というより、大気に深くとけ込んだような、広大な範囲「点」ではないが、ある部分で集中。今日はどこへ行くのかと聞くとみほさん「氷河が見える場所という指定が神様からあった」それで昨日からガイドさんと話し合っていたとのこと。それならいい場所があるとガイドさん。連れて行かれたのはなんとスキー場であった。南半球は3月はまだ夏である。当然スキー場には雪が積もっていない。しかし日本と一緒で山の景色を楽しむとして、リフトが動いている。そのおかげで楽々とかなりの高さまで連れて行ってくれた。リフトを降りてからもかなりの距離を登っていくと大きく視界が広がります。前方に青白く輝く氷河の先端が見えます。ここで祭りをやろう。まずは山とは反対の南に向かっての祭りをすることになりました。11:50 南向き、南極へ向かう、豆5、赤米、基本先達:慎弥 取り継ぎ 『南パタゴニアへようこそ』『さんぜんせかい いちどにひらく うめのはな さて、世界では、何の花を咲かせようか。』 高らかに、 天地根元、神呼吸1、2礼3拍手1礼、そして1012:03 取り継ぎ 『P .もうあなた達は南極に来なくてもよい。P. 充分、陣場の中にあります。 もうこれ以上、南極についての神業を重ねる必要はありません。 西と東のバランスがとれたら、ゴォーという音と供に。P.(慎弥、天地十方)(後の山頂より太陽)12:11 その時、お目にかかりましょう。さぁ、五色の豆への光の注入も終わりました。そのまま、祭具をあちらに向けて、お待ちの神と話をされるがよいでしょう。』根直神界女神(きれい、ウフフさんよりずっときれい。透き通っててきれい)ここで一応了として2礼3拍手1礼。その場所で座ったままで反対方向へ向きを変える。
2008.07.28
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この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。3月21日ラプラタ川の見えるところへ行きなさいと指示が入っていました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BF%E5%B7%9D行ってみると河口で幅275kmというとてつもなく大きな川でどうやっても海としか見えません。9/3/21通信 『11:50よりまつり』とのご下命で、レストランのテーブルにて神合わせ。11:53 書記 『太陽が海を渡る。川をのぼる。少し溶けてまるくなる。また溶けてまるくなる。もう「絶対」ではなくなって、1つのシステムに組み込まれてしまった。今はイヤな顔。太陽がもどっても、人の頭は考えるチカラがないまま、ウソの太陽も本当の太陽も見分けなどつくはずがない。〆の祭事は、やはり、日本の然るべき場所で行うこと。反動が大きすぎて、太平洋側の海律補団は泡を喰ってる。大きな仕返しは一度。これは覚悟しなさい。簡単におわりはしない。』チキ* 12:00の太陽、鉛のように“顔のない”太陽。皇族、貴族がいっぺんに一般平民になったみたい。これで一旦ブエノスアイレスでの神業は了として、ジェット機でいよいよ南パタゴニアへ飛び立つこととなります。ただ印象としては、取り継ぎの内容が変わってきており神業が新たな展開に入ったなあと感じました。祭りの対象が良くわからないのです。こういう時は考えていても始まりません。どんどんと神のスケジュールに乗っかり動くしかありません。16:50 機内で「みほさんに襲来」眼下右側、パタゴニア、真下、太平洋。「初めてのイヤな奴」と感知したとのこと。18:33 ウシュアイア着陸「(着陸寸前の空気に)「北米インディアンの玉子が一杯、気の粒」を感じる。念願のウシュアイアに到着はしましたが、どうやら想像外の存在が待ち構えているようです。まるで掘っ立て小屋のような空港には、英語しか話せない女の子がガイドとして迎えに来てくれていました。これ以降はみほさん頼りの心細い島さんです。ホテルは街から少し離れた高台にあります。ホテル内のレストランしかありませんから、集合がかかります。行ってみるとみほさんがすまなさそうに言います。「ここは場所の関係でろくなものがないと旅行社が言っていたから我慢してね。」メニューを見ます。とんでもない、どんな都会のレストランにも負けない数の品数です。それも野菜料理がふんだんにあります。なんと今回の旅行中最高の食事になってしまったのです。日本で言えば高原のリゾートホテル、そんな感じです。観光でなりたっている町だということが良く理解できました。翌朝、南緯55度ということを体感したくて夜明け前にホテルの外に出てみました。うっすらと明るくなっていく空を追い続けていると古田さんが立派なカメラと三脚を持って出てきました。ここでの夜明けがどうしても撮りたくて日本から持ってきたと。このページのトップの写真が雰囲気を伝えています。実際はもっと雲がなく、その美しさにふたり唖然としていたものでした。http://homepage3.nifty.com/mands/abroad/patagonia/12.htm
2008.07.27
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この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。<出獄>3月20日、待ちに待った4600メートルからの脱出です。今度飛行機を出たら、海抜0メートルが待っている。あんなにフライトが楽しみだったことはないですねえ。でもアルゼンチンへの直行便ではなくまたぞろ南米大陸の左端、チリの首都サンティアゴ空港こで乗り継ぎだ。お金のせいなのか、航空会社の都合なのか、神様の都合なのか知らないけれど南米大陸を空でとはいえ横断しなくちゃあならなさそうだ。やれやれ、しんどいなあ。サンティアゴ空港で2時間の待ち。それでも空気の濃さにみるみる食欲が沸いてきてサンドイッチやらサラダ、アイスクリーム、ケーキ目に付くもの片っ端から食べ歩き、息子にあきれ返られた。空港待合ロビーから外に出ることが出来たので、ちょっと覗いてみました。ちょうどお月様が昇ってくるところです。慌てて島さんを呼びます。とてつもなく大きな満月だったのです。二人して、すげえなあとため息を付いていたのが懐かしい。サンティアゴ空港からブエノスアイレスに向かう飛行機の中で考えた。チェロ峠の「なきもの様」の言葉を聞き、自分の中で今までの認識が壊れていくことを感じていました。<闇を愛する>神は「闇を本当に愛することが出来たら旅は終わりだ」と言ったことがあります。「闇」とか「虚」とかを「悪いもの」と捉えるようになったのは何時からだろう。人間は「心の闇」とか「虚言」とか使うようにこれらの言葉に「善悪」の評価を被せてしまいます。本来は「光と闇」「実と虚」は物理用語であって、善悪関係ではありません。それがいつしか善悪という「差別用語」になってしまいました。この感覚が「光と闇」「実と虚」を見誤らせる素因となっている。そうではないのだ。光の中にも善と悪が存在する。闇の中にも善と悪が存在する。実の中にも善と悪が存在する。、虚の中にも善と悪が存在する。自分がどちらを選んで生きていくのかは自己責任。しかし、闇は悪いもの、虚は悪いもの、と決め付けてはいけないのだ。たまたまチェロ峠の「なきもの様」は、光ある世界のすべてを欲しがった。確かにそれは混乱を招いたという罪です。そのことはなきもの様はそれを認め、もうやらないと誓ったわけです。しかし、「あるものの世界」と「なきものの世界」があるという事実は人間よ、知ってくださいとお願いをされていたのです。憎しみも、怒りも、悲哀も、出来たら避けたい。悪をせず、良いことをして生きていきたい。これは絶対にそうしたいです。これらほ自分の心で難しいことですがコントロールできます。しかし、この世には絶対存在してしまうものですから全否定、心から完全消去など出来るものではありません。認め、でもちっちゃくなっていてねと願うしかありません。問題は「暗闇」とか「虚」です。その存在自体には「善悪」はありません。なにかが「闇」「虚」を良くないもの、本流ではない亜流、傍流として蔑んでしまおうとした意図が感じられます。「直系傍系」「本家分家」「本流傍流」いったいどこに差があるというのだろう。闇は悪ではない。悪である闇はある。悪である光だってある。『場』場所、位置、領域だけでものを判断してはいけない。表面に出る見掛けだけで判断してはいけない。それに捉われることなく、その本質を見なければならない。それが「闇を愛することが出来るか」と問いかけた神の真意だろうか。南米を西から東へ横断する飛行機の中で考え続けました。しかし今もって正解を神はおっしゃていませんけどね。夜の11時、やっとアルゼンチンのブエノスアイレス着陸。結局丸々1日の移動だ。正直むちゃくちゃ疲れてきた。市内に入ると自動車道路の広さに驚く。名古屋は100メートル道路といって広い道路が有名ですが片側4車線の道路の中央分離帯がだだっ広いだけです。ところがブエノスアイレス市内は片側何車線だろう、やたら自動車道が広い。一生懸命横断ほどを渡ろうとするのだが、間見合わない。車線の数も数えられないほど多くて、明確に線引きされていない。すごい国があるものだ。ホテルの部屋へ入るとどっと疲れが出て、バタンキューで寝入ってしまう。それにしても酸素はありがたいものだと感謝する。3月21日
2008.07.26
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この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。<なきもの>この「なきもの」様を理解するためには、「光と闇」に対する世界観を変えなくてはなりません。人間が生まれて自然の中で育っていくうちに、自分が地球の表面での存在であるということに気が付いてきます。そこには手で触れる実体があります。目で確認できる物質があります。この世は光で満ち溢れ、美しい自然に取り囲まれています。結果的に、どうしても暗闇を恐れます。段々と無意識のうちに、評価の格差が心の中に芽生えていきます。光が正義で、闇はその反対のもの。愛が正義で、憎しみはその反対のもの。喜びが正義で、悲しみはその反対のもの。勝ち組が正義で、負け組みはその反対のもの。私のブログに興味を持ち、読み続ける人は変わり者です。今列記した格差に疑問を持ち、世間常識に苦しめられている人でしょう。ですから基本的に闇も憎しみも悲しみも負け組みもそんなに悪いもんじゃあないと受け入れているのではないでしょうか。つまり闇を愛することが出来る人なのです。しかしながらほとんどの人は言葉では「劣性」を認める奇麗事は言っても本心では格差を恐れ、「闇」の役は引き受けたくはないのです。これは当たり前のことで、その心情を責めているわけではありません。競争社会で生き抜いていくのには、闇など愛している余裕などありません。『闇』を愛しようとした子供を叱りつけ、『光』以外は不幸せになると一貫して教え続けているのが現代です。「始めに根元あり」この考え方は、始めからなにかが「あった」というものです。根元は「ひとつ」でもなく「あるでもなくでもない」「初めも終わりもない」そんな存在です。もし霊能力者がこの「根元」よりもっと前があると言い出したとすると私はこの霊能力者には近づかないことにしています。人間にはこれ以上は考えてはならない「限定」があると考えています。この最初の根元を越えて想念するということは歯止めの無い無間地獄とも言えるような無限の迷妄の世界に入り込みます。非ユークリッド幾何学の世界では、想念によりいくらでも空間を想像でき奇妙な形の宇宙を作り出しています。これらの考え方で宇宙像を描き出そうとしている人は、迷妄の世界に行ってしまったと思っています。思考、想念とはいえ、人間にはその限定が無ければならにと神は言うのです。それが「始めに根元あり」です。この根元が感情を持った。「我思う、ゆえに我あり」ですね。そこで初めて「ない」と「ある」が発生したのです。当然、「ない」を受け持たなくてはならない意思存在が生まれ「ある」を受け持たなくてはならない意思存在が生まれたのです。かむなからの現場神業を継続して経験していくと大元の「ある」と「ない」が争ってしまった過去が見えてきます。その争いは引き継がれ「光と闇」「愛と憎しみ」「歓喜と悲哀」「男と女」などが片方が相手をさげすみ、片方が自分にないものを欲しがった。そんな子供のようなレベルの争いが「始め」であったようです。これは人間が生まれてたどる道と同じと考えれば納得いきます。すべてがお互いが幼過ぎたと言わざるをえません。ですからどちらに罪があったのかは、判定できるわけはありません。この辺まではなんとか理解に漕ぎ着けていた私ですがまさか本当に「なきもの」様が出現し、このような言葉を吐露されるとは想像もしていませんでした。あまりの驚きで高山病を忘れてしまいました。翌朝までこのことをじっと考え続けていたことを思い出します。皆様ももう一度昨日の日記で「なきもの」様の言葉を再読されることを望んでやみません。
2008.07.25
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今日の「まつり」の出来事は25年以上にわたる神業の中でも最大の内容でした。今までの神への概念が吹き飛んでしまった「取り継ぎ」です。文章を途中で切るわけにいきませんでしたのでそうとう長いものになっております。この旅行記は平成9年3月12日から3月26日までの15日間、かむなから6名で南米ボリビア、アルゼンチン、南パタゴニアを現場神業した記録です。じゃーん!目の前に巨大な、それもあり得ない大きさのキリスト像が出現です。なんと往路ではインカ道 ポルタ・チェロ峠(4767)を通り過ぎていたのです。まだ流れるようにまとわり付く霧の海に、クロスは立っていました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E5%83%8Fこの写真はブラジル、リオデジャネイロに建つキリスト像ですが、この像の半分、それでも高さ15メートル以上の巨大な像がなんでこんなとんでもないところに建っているんだ?「おうごんのみちはうそのみちあいつらは 4番の敵 4番目いつつめより大きくてみんなは逃げるだけ源流さまもいなくなりそのうちみんないなくなって最後にいたのは人祖様」「大きなクロスを背負ってやってきたそれがこの国の不幸の始り おじさん、あれを燃やさないとねあいつらはずっと支配したまま黄金の道うその道海を渡って立っているおじさん、どんなに神業やってもね人間がついていかないのは、そのせいだよクロスは天に向かってそびえたつはやくそれを見つけて、星屑に返してそれが終わったら、おじさん、別のものだよ倭人をそのままさらったこの国の人はそんなクロスを背負えないそのときから歴代の姫、ことごとく背負ってる今回は日本を取り戻す神業」第一回東北神業ねずみもち古墳でチキちゃんが言った言葉、そのままがあります。あんなにびっくりしたことは25年でも最高のものでした。運転手さんもガイドさんのここにキリスト像があることは知っています。何回も来ているそうです。でも行きには見つからなかったのです。こういう不思議なことはたびたび神業では起きますから意識操作されたことには今更驚きはしませんでしたがね。足元の台座には四角に掘られた窪みがあり、ローソクが5本ほど灯っています。気が付けば現地の人がキリスト像のまわりに10人以上はおりここが有名なキリスト教徒の巡礼場所だということが理解できました。しかし到着が12時過ぎと遅くなったことが幸いしもうだれも礼拝場所には近づこうとはしません。心置きなく「かむなから方式のまつり」が出来ます。つくづく良くしたもんだと神には感心させられます。13:00 〈クロスのタテカエ〉キリスト像十字架前 火、水、神塩、神水先達:チキ(アンデスに来てチキ初めて表にでる)13:15 チキ:“彼ら”に呼びかける。13:19 取り継ぎ 『そなたが、欲しかったなぁ。P.初めから、「なきものの世界」を創造しようとした事が間違いの元だったのかも知れない。ないもの故、どの世界に生きようとしても、無であり、ない存在なのだから。光ある世界の全てが欲しかった。なきものという名を与えられた事、それだけで本当は良かったのかも知れない。何故なら、その瞬間、我らは「永遠に無きもの」として、皆の心に刻まれる事が出来たのだから。我れは存在した、無きものとして、確かに存在した。その事を分かってくれた生宮に出会う事で、我らの求める旅は、終わりになる。背中から、大十字を切ってくれたら、それで永遠のお別れだ。』13:2813:30 大十字×1 施光。◎この時、十字架がチキの方に倒れた。支えた。今はもう、チキの中に入って、一緒に生きていこうね。といって、それで終わった。チキ、東北の正面に向かう。小さい水晶、供えのセレモニー、最後に手の上にのせて「よし」13:37 取り継ぎ 『あの人たちがもってた、なきものの世界の全ての力を、この玉に注いで、光ある世界の力の助けとする。いい世界になる。必ず。』 代表取り継ぎ 『うその世界の我らを我らたらしめんコトバが他に無かったから、今はもう器を求める必要がなくなったから、何もいらん。残り、では1分をそなた達の仕事として委ねよう。何故なら、そなたたちは型の世界でいわゆる、接界で生きているものたちだから。』13:44了*自分達がつくった山武さん*決して人間が立ち入ることが出来ない処に陣場を構えたのに、結果としては、山武功績によって、崩壊する事になったと、“彼”が述懐。この祭りの最中、私はずっとちらちら燃え続けるローソクの火を見続けていました。これにて了の声に我に返った私は慌てて質問します。「この場限りとご拝察申し上げます。ぜひひとつだけ教えていただきたい。人間は、ありてあるものとか、ありてなきものとか言います。あなたさまはそれらの表現で言えば、どなたさまでしょうか」『なきもの』これが現場神業の醍醐味です。二度とないチャンス。的を得た質問には明快に答えてくださる。この真剣勝負が出来るという喜びはお金には変えられない。『なきもの』想念をあわせてこのお方の取り継ぎの言葉を噛み締めよう。どんどん意味の深さ、言葉の重さが染み込んできます。なきものさん、あなたが存在することはしっかり認識しましたよ。
2008.07.24
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