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2005年11月21日
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テーマ: 戦争反対(1190)
戦争がなくならないのは何故だろう。 という感想を書いたブログに度々出会うが、それがわかっていたら戦争は起こらない、などと冷たく突き放すのも何なので、それと関連した戦争心理と犯罪心理について触れてみたいと思う。
 時折、ちょっと過激なブログなどで、「戦争は殺人行為です」だとか「殺人という犯罪行為をする戦争なんて」などというコメントを見るが、確かに当たっているようではあるが、当たっていない。戦争が殺人行為であることは間違いない。しかしイコール犯罪行為ではない。戦争行為は国際法というか国際的理念上、合法的殺人と理解されるからだ。と言っても、俄に理解、承伏し難いであろう。

<戦争犯罪とは>
 そもそも、戦争という現象・行為自体は我々が考える以上に複雑で規模も大きく、尋常の精神上では理解し得ないほど不可思議なものなのである。
 例えば、「戦争犯罪人」という問題で度々取り沙汰されるのが、誰の責任かということである。日本の連合国による戦犯裁判を例に見ればわかりやすいが、責任と問われたのは、戦争開始を最終的に決定した最高責任者と実際に「不法殺人」を行った当事者達である。この不法殺人とは国際法、国際協定上行ってはならない殺人のことであり、当然通常の戦闘行為と自衛行為は対象外である。しかも、日本への場合は不幸にも処刑されたケースも多いのだが、実行者よりも意図的に殺人を企図した指揮官が責任を問われるのが通例である。軍隊とは、上官命令絶対であること(背けば銃殺刑もある)から、自分の意志に反して行った行為は赦免される事が多い。ただし、その上官(指揮官)にしても更に上層部の命令であったり、もしくは良かれと思ってやった行為であったり、指揮系統の乱れによるミスであったかもしれない。結局の所、トップの人間達を除いて、現場の中では明確な責任所在を問う事が難しい。日本兵の場合は取り急ぎ責任取らせる意味で、行為の有無や重さに関わらず処刑された将兵が多数いたことは心痛い事だが。
 これは、戦争責任を問う事がいかに難しいかを示している。つまり戦争においては、合法と非合法、命令と服従といったものについてグレーゾーンが余りにも多すぎるのだ。明確な犯罪基準がないこと、当事者が多数すぎて犯罪命令系統が判然としないこと、実行犯だからといって即罰せられる訳ではない事。これが、一般犯罪との最も大きな相違点である。

<戦争の心理>
 次に、戦争という行為はどのような心理で行われているのだろうか。実は、戦争行為の最終決定者の多くには「殺人」意識は希薄だと思われる。日本の東条にしろ、ドイツのヒトラーにしろ、ソ連のスターリンにしろ机上においてはリアルな殺人を想定してはいない。政略的なもしくは自尊心を満たすために、机上の駒を敵領地に進めるだけなのだ。(もちろん、ヒトラーやスターリンが側近や将軍を粛正抹殺を始める行為自体は明確な殺人行為ではあるが。)本当に敵国人を憎んで、個人的に殺したいと願っていたわけではあるまい。基本的には司令部や参謀本部の連中もほぼ同様であろう。
 現地指揮官(部隊長クラス)は自分の部下たちの父親である。中には単なる駒としか見ていない馬鹿指揮官もいたであろうが、基本的には我が子を消耗しないよう、また快適な生活ができるよう心を配る義務がある。しかし、上記の司令部や参謀連中とは異なり、自らへの危害が想定されるのが現地指揮官である。部下の部隊が危機に晒されれば、危機を回避する手段を講ずねはならないし、もし信頼する部下が敵に殺されでもすれば、その敵への憎悪の念が発生する。ここに、いわゆる「報復」という概念がリアルに発生するのだ。安全を確保するため、または報復のために現地指揮官は敵兵の殺害を命令するのだ。
 ただし、現地指揮官はリアルに敵兵に遭遇しておらず、大量の部下という駒を用いたマスゲーム感覚に過ぎない。いわゆる用兵術の中で範疇となり、戦闘回避のための撤退、降伏、または攻撃のための武力行使、占領支配といったカードを切るのが仕事だ。つまり、この段階では、通常においては陸戦規定範疇内での命令が主だったものであり、最も一般社会共同体の姿に近く、いわゆる犯罪行為的な命令が正式に発せられることは少ないはずなのである。

 上記のように、一口に戦争と言っても、それに参加している人々の心理状態はかくも異なるのである。当然、最高司令部は末端兵の事など理解できないし、末端兵は司令部の事など理解できないのである。かくも異なる心理状態の者が一つの軍として戦争している事自体が異常な世界なのである。

<結局戦争は犯罪行為なのか>
 ちょっと話がわかりにくくなったが、元に戻して戦争は犯罪行為であったのか否か。国指導者や司令部は、戦争回避のための外交交渉権を有効に行使できなかったという責任はあるものの、現場での残虐行為への指示はもとよりそれを決して望んではいなかったはずである。現地指揮官については、命令系統の不備、ミスにより残虐行為の発生の発端という責任はあるが、部下守るため、もしくは権益を守るための仕方のない行為であったともとれる。最前線の兵にとっては精神異常状態での行為であったという事も出来る。もし、これらを一般犯罪と同等の枠組みで裁いていった場合、いずれも無罪になる可能性は高いと言えるのだ。

 さて、だからといって戦争は正当行為であると言うつもりは毛頭無い。しかし、これだけ複雑怪奇な状況において誰か一人を犯罪者だと糾弾する事ができるのだろうか。戦争とは、誰か一人の悪意で動いているものでもなく、国全体が押し寄せる火砕流のようにじわじわと動いていくもののような気がする。それを動かすマグマとは何なのか。私は人間の性なのだと理解している。

<戦争はなくなるのか>
 戦争指導者は個人的プライドや権益のために、現地指揮官は部下の生命保証のために、前線の兵は我が命のために戦争に加担している。そしてそれを支えているのは国民なのである。戦争に反対している者、賛成している者、全てが国という社会共同体の参画者なのである。言うまでもなく、社会共同体とは自己の生命・財産保証を得るために、応分の責任を負って形成しているものである。人間である以上は何らかの社会共同体に属することが生命保存のための方策である。食べるもの、着るもの、住むところ、これらの保証を得るために形成した社会であるから、その総体である国の責任はまた全員で取るべきものである。戦争に反対していたからいいというものでもない。戦争を行う事によって得られた食や住に甘んじていることを忘れてはならない。必ずや何らかの形で、その恩恵に与っているのだから。結局の所、戦争を始めるのも止めるのも我々全国民が等分の責任を負っているのである。誰かにその責任を押しつけたところで、何度でも同じ事は発生する。

 唯一、戦争が起きない方法がある。他人と(親兄弟であっても)接しない生活をすることである。争いの全ては生命の保存=他者からの危害防御に発する欲から来ているのであるから、一人でいる限りは絶対に争いは起きない。果たして人間は一人で生きていけるものだろうか。それが人類に投げかけられた最大のアンチテーゼでもある。





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最終更新日  2005年11月21日 12時04分24秒コメント(0) | コメントを書く
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