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2008.01.18
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カテゴリ: フランス映画
LA FEMME PUBLIQUE
Andrzej Zukawsuki
110min
(所有DVD)

*-0.jpg

難物監督と言えばよいでしょうか、アンジェイ・ズラウスキー。その1984年フランスでの作品。この人はチェコ系のポーランド人らしいですね。作品リストを見ると、『夜の第三部分』『悪魔』『ポゼッション』『私生活のない女』『狂気の愛』『美しさと哀しみと』『シルバー・グローブ/銀の惑星』『私の夜はあなたの昼より美しい』『愛人日記』『ワルシャワの柔肌』『フィデリテ』等で、狂気・暴力・性・死・哲学・政治・宗教などが絡み合った作品が多く、見る人の評価や好き嫌いが別れる作品ばかり。でも物凄く濃いインパクトがあって、この人の作品だという個性があります。現代の人間の生を実存的に考察している感じで、ボクは好きな方です。日本ではイザベル・アジャーニ出演の『ポゼッション』、ソフィー・マルソーの『狂気の愛』や『私の夜はあなたの昼より美しい』に人気がありますが、ボクは(全部を見ているわけではありませんが)『ワルシャワの柔肌』が面白かった。この『私生活のない女』も見たいと思いつつレンタルなども見つからず、今回比較的安くDVDが買えたので購入しました。ヴァレリー・カプリスキーのヌードを期待して見る方々もいらっしゃるようですが、ボカシは煩く不快で、カットは困りますが、カプリスキーのヌードもヘア無修正版なんていうのもどうでも良いです。ちなみにヴァレリー・カプリスキーはパリ郊外ヌイーの生まれで、カプリスキーというのはお母さんの旧姓。このお母さんはポーランド系かロシア系なんでしょうかね。

*-1.jpg

カメラは名撮影監督サッシャ・ヴィエルニーが回していて美しいのですが、露出的な短いスカートの服を着たヴァレリー・カプリスキーが足早に闊歩(ないし小走り)するのをローアングルで追ったトラヴェリングショットで始まります。場所はパリらしいんですが、これポーランドでなくパリなの(?)と疑ってしまうような暗い寂びれた感じ。この背景と女の様子と緊迫した空気、これだけで既にズラウスキーの世界。この人は女を闊歩させるのが好きですね。 『ワルシャワの柔肌』 も最初と最後がそうでした。カプリスキー演じる20才のエテルはやや複雑な家庭環境にあるんですが、嫌でも何でも生まれた以上人は生きなければならない。懸命に目的を持って前向きに生きるなどというまだ楽観的な生ではなく、どんな面倒な条件に置かれ、面倒な事々が降りかかってくる日々であっても、生きるしかない(自殺をする以外は)。それは受動ではなく、強制された能動。生きるというのはそういうことなのでしょう。この緊迫した女の闊歩はそんなことを表現しているように感じさせます。彼女はとあるさびれたバー(カフェ)の店員を捕まえて、中にいる男に渡してくれと金をあずける。エテルは男に会うのを避けて逃げている。後でわかるのはこれは母親と別れて出て行った父親で、今は浮浪者の生活をしているらしい。でもこの父と娘は妙に親密な関係でもあって、父親がアメ玉のようなものを前歯にくわえたのを娘が前歯で受け取る、互いに了解しているお決まりの行動をする。エテルは家で母親と二人暮らし。この母親が凄く暗くて、夫が出ていったことが彼女の精神を荒廃させてしまったようだ。娘との関係がこれまた妙で、変な共犯意識のようなものが有るような無いような。娘の気に入りそうな服を作ったりして、娘にに迎合して気に入られようとしているような感じで、精神的には娘にすがろうとしている。あるいは経済的に生活の糧を稼いでいるのが娘で、頭が上がらないのだろうか。出来てしまったそんな家族関係の条件・環境がイヤになっていながらもそれを続けるしかない。

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生活のために素人カメラマン相手のヌードモデルをして稼いでいるが、エテルは女優志願。オーディションで鬼才の映画監督ケスリングの目にとまり、ドストエフスキーの『悪霊』を翻案した映画のリサ役に抜てきされる。しかしなかなか監督の要求する演技が出来ない。ケスリングは「各シーンを巧く演じようとするのでなく、役のリサになれ!」と言う。この映画の原題は『La femme publique』。 la は英語の the femme publique はフランス語読みでは ピュブリック だが、意味は日本語で言う パブリック 。「誰か特定の人の」ではなく「みんなの」ということだ。変な訳をすれば「公衆の女」。彼女はヌードモデルをしている。普通女は自分のヌードを公衆には晒さない。しかし彼女は金で誰にでもヌードを晒すわけで、ヌードは既に「公衆」のものだった。ケスリングは「役になれ」と言う。個人エテルが役リサの各シーンを演じて見せるだけでは、彼女は彼女自身を公衆に晒してはいない。ケスリングの要求は彼女がエテルであることを捨ててリサになれと言うのではない。エテルでありながらにしてリサになれということだ。そうなったとき彼女はリサの役として彼女自身を公衆に晒すのだ。

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(ネタバレはなるべくしないために経緯は書かないが)エテルはケスリングにかくまわれ、雇われてもいるらしいチェコ人の亡命者ミランと知り合う。ミランは恋人だった女優エレナが忘れられない。才能がないとケスリングに非難されたエテルは、やがてエレナの身代わりとしてミランの恋人役を引き受け、ミランの部屋で暮らし始める。思い込みか空想か、妄想か狂気か、ミランはエレナとして彼女を愛した。髪まで染めてエテルはエレナになっていく。しかしこれはエテルとしてエレナになることであり、正にケスリングが要求したのと同じことだ。そういうシーンが実際にあるわけではないけれど、エテルがエレナとしてミランに抱かれて喘ぎ声をあげたとしたら、それはエテルがエレナの喘ぎを演じているのではなく、喘ぎ自体はエレナその人の実際のものだ。役になるというのはこういうことなのだ。つまり演技を公衆に見せるのではなく、役を通してその人自身を公衆(映画カメラあるいはスクリーン)に晒すことであり、「 La femme publique 公衆の女 」になることだ。映画の面白いのはこの点であり、ボクが諏訪敦彦監督の作品のレビューなどで書いていることと同じだ。こうして撮影現場に戻ったエテルはリサをケスリングの要求するように演じることが出来た。新しい本物の女優の誕生だ。

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映画には2つの殺人事件も絡んで描かれる。一つはエレナらしき女性の殺人であり、もう一つはパリを訪問していた次期枢機卿とも噂されるリトアニアの大司教の暗殺事件。ケスリングやミランへのエテルの疑惑が描かれる。カトリック教会というのはポーランド等では一つの政治勢力としての意味をも持っている。ローマ教皇となったポーランド出身のヨハネ・パウロ2世の存在は連体等ポーランドの反体制(対ソ)民主化運動に大きな意味を持ったが、それを象徴するかのようであり、ならば体制としては暗殺して亡き者にもしたいわけだ。ミランはどこか(だれか)に操られる存在でもあるのか(?)。映画にはそんな政治的気分も絡んでいる。映画中映画の撮影で、ケスリング演じるスタヴローキンのセリフに「大きな蜘蛛」というのがあるが、これはイングマール・ベルイマンの『鏡の中にある如く』の蜘蛛でもある。

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Last updated  2008.01.19 03:10:46
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Re:『私生活のない女』アンジェイ・ズラウスキー監督(仏1984)(01/18)  
まーくん さん
ラッコさん、こんにちは。ズラウスキーで検索したらこちらのサイトにたどり着きました。
この作品の最大の見所は何といっても、当時22歳のカプリスキー嬢がいかがわしい中年カメラマンの前でヌードモデルを務めるのですが、何とオールヌードで激しく踊りまくるところでしょう。初めて見たのは、20年前にフジテレビの「ミッドナイトアートシアター」という深夜映画でしたね。始まっていきなり5分位かな画面の中でヒロインがいきなりすっぽんぽんで踊っているシーンを見た時には、天地がひっくり返るほどの衝撃がありましたよ!その後、又全裸で踊るシーンが出てきて今度はもううっとりして見ていましたねぇ。
それまでも一般映画でちょっとエロチックな映画(エマニエル夫人、グローイングアップなど)が好きでしたが、この作品はほとんど全編に渡ってカプリスキー嬢が脱ぎまくっていまして、これ本当に一般映画?と思う位オールヌードのシーンばかりでした。
その後この映画のビデオソフト、LDを取り寄せ、今度は好きな時に見る事ができました。それから20年ほぼ毎日見ていましたので、多分世界で一番『私生活のない女』という作品を見ている回数が多いのは自分ではないかなぁ。ビデオ、LDでは一番見たい股間の部分はボカシの嵐でしたが、4年前にDVD化されたものはデジタルリマスター、ヘア無修正盤でしたから16年の時を経てカプリスキー嬢の全てを見られた時は嬉しかったですね。
カプリスキー嬢の魅力はちょっと小悪魔的なルックス、ムチムチした肉体でしょう。今だに、作品中金をもらえばいやらしい中年男の前ででもオールヌードで激しく踊るという感覚が分からないのに見てしまいます。(女優とはいえ、前張りなしのヘア全開で踊りながら恥ずかしくないのかなぁとか、いや実は快感なのか?とか…) (2008.04.26 23:53:24)

まーくんさん  
racquo  さん
こんにちは。ご訪問&コメント、ありがとうございます。

ちょっとマト外れかも知れませんが、レス書かせていただきます。他の映画のレビューでもちらほら書いていますが、映画は、ある役者が、ある役をカメラの前で演じるのが面白いのだと思います。わかりやすい例として愛のシーンを取り上げます。普通のラブストーリーでもポルノやアダルトでも良いのですが、シーンのあり方には究極二つあると思います。女優で言えば、第一は演技でアエギ声をあげるあり方。第二は本当に行為をして感じて声をあげる場合です。第二の方では、演技ではなく実際に感じての表情や声を(つまり女優自身の本当の何かを)カメラの前、つまりはスクリーンにさらけ出しているわけです。ただ勘違いしてならないのは、あくまで女優××○子は、作中のA子を演じているのであって、××○子そのものではないし、映画の撮影がなければその相手役と関係を持つこともなかったということです。そして実は第一の演技のみの場合においても、女優は自分の何らかをさらけ出しています。その辺を歩いている女性をつかまえてカメラを向け「演技で良いから感じている表情をしてアエギ声をあげて下さい」と言ったって、恥ずかしがってやってはくれません。つまり演技であっても、感じている表情とアエギ声をさらすというのは、既に自分自身をさらけ出すことなのです。(字数オーバーなので下に続く)

(2008.04.27 21:02:01)

まーくんさん(続き)  
racquo  さん
(字数オーバーなので上からの続き)
この映画は女優誕生の物語でもあるわけですが、映画論、演技論の映画でもあります。ケスリング監督にエテルが言われること、「上手く演じようとしないで、役になれ!」というのはそういう意味でもあります。「演じる」というのは「自分のさらけ出し」の程度が低いわけで、映画的に言えばそれでは人間としてのリアリティーの低いものになってしまいます。女優エテルが作中人物リサになったとき、カメラがとらえるのは、演技をしている女優ではなく、リサになったエテルであり、表出されるのはリサという人間そのものになるわけで、結果人間としてのリアリティーが強くなるわけです。単なる通行人の役であっても、このように役者が人物になって自分自身を表出するのが映画であり、もちろん面白い筋を語って聞かせてくれるというのもあれば、アクションやスペクタクル性の魅力もあるけれど、それと同時にこの点が面白いのです。
(字数オーバーなので下に続く)

(2008.04.27 21:04:31)

まーくんさん(続きの続き)  
racquo  さん
(字数オーバーなので上からの続き)
役者が内面的な意味での自分だけではなく、肉体的フルヌードをさらすことにも意味があります。なぜなら肉体をもさらすかさらさないかは、役者の内面、今問題にしている人間をさらけ出すあり方や程度に大きくかかわってくるからです。でもそうして映画が作られてしまえば、どこかの国での公開の際に局部にボカシが入れられようが入れられまいが、それは後でなされることであり、既に役者の演技には何のかかわりももちません。なのでボカシは無い方がわずらわしくないので良いし、別の関心から「見たい!」という欲求はあっても、作品鑑賞上はあまり大きな障害にはならないと思います(検閲ということに対するイデオロギー的側面はまた別のことです)。そしてこの映画の内容的なことで言えば、写真スタジオでオヤジの前でヌードダンスをするのは、自分を人前にさらけ出すという演技の本質への比喩でもあり、エテルがミランの恋人エレナに自分をしていくのも、役になるという演技の本質への比喩でもあるわけです。

(2008.04.27 21:05:46)

ラッコさんに聞きたい  
まーくん さん
ラッコさん、早速のレス有難うございます。カプリスキー嬢のヌードが好きで、いつもこの作品をよこしまな感覚で見ていますが、今ではこの作品の内容にも興味を持っていて、エテルがいかにして映画女優のスターに登りつめていったのかも、今回ラッコさんのレビューで大変分かりやすくなりましたよ。
又、ラッコさんに時間があったらちょっと解説して頂きたいのですが、エテルがヌードモデルを務めるシーンで幾つか解せない箇所がありましたので宜しくお願い致します。
1回目のヌード撮影…エテルが踊り終わった後に、オヤジカメラマンの目が点になっているがなぜなのか?(全裸で踊るエテルの迫力に圧倒されたから?スタジオから出た後、彼女が言った「怖がらせるの」がキーワードでしょうか?)
2回目のヌード撮影…エテルはなぜ踊っている際中に、大粒の涙を流して泣き叫んだのか?それを見たオヤジは、なぜ気を失いぶっ倒れたのか?又、エテルはオヤジが持っていた自分のヌード写真を見てなぜ憤慨したのか?(顔が写っておらず局部だけの写真だから?)
3回目のヌード撮影…なぜオヤジはカメラを使用しなかったのか?なぜオヤジは、大股開いてイスに座ったエテルに詰め寄り、その後エテルの口に札束を押し込んだのか?
(2008.04.28 09:57:55)

まーくんさん   
racquo  さん
実はこの映画を見るのは約3ヵ月前のこの時がはじめてです。そしてまだその一度だけです(しばらくしてからまた見る予定ではいましたが)。だから毎日見ておられたという
まーくんさんほど細部の記憶はありません。せっかくのリクエストですから、もう一度見てから感想を書かせていただきたいと思います。2週間ほどしたらまた立ち寄ってみて下さい。

(2008.04.30 01:40:02)

感想待ってます。  
まーくん さん
ラッコさん、私のわがままな要望にお応え下さり有難うございます。カプリスキー嬢のオールヌードでのダンスが強烈すぎて、1度見ただけでは内容の細かい部分までは言及できないと思います。じっくり見て頂いてから、改めてご感想宜しくお願いします。 (2008.04.30 23:01:23)

まーくんさん  
racquo  さん
1回目:

こんなヌード撮影、普通は仕事としてただ「裸で踊る」だけなのではないか。
しかし彼女は自分の何かをぶつけるように、
いわば仕事を超えて、あるいはカメラマンの存在とは無関係に、
またはカメラマンの男を仮想の何かとしてそれに挑戦するように、
結果としては、それは挑発でもあり、
またカメラマンが想定(期待)していたものを超えていた。

2回目:

物語の進展で言うと、映画撮影も進み、
そこで最終的に自己を解放する困難(自分の中の抵抗)に悩み、
一方ではミランとの関係も深まる中で、
1回目をも超えて踊る中で自己の解放が進んだからの涙であり、
甘っちょろいエロではなく、もっと深い実存的な人間の苦悩まで表現したゆえに、
もともと単なるエロオヤジは、精神的勢力関係で蹴押された。
しかしそんな彼女は、ポケットの写真から
やはり単なるエロオヤジであったことを知る。

そして3回目:

オヤジの目的は結局ヌードではなくエロであると知ったエテルは、
それを見越して600フラン(たぶん当時のレートで2万円弱)を要求。
それは彼女の取り分らしいから、店の分を含めるともっと高額。
それだけ要求されたカメラマンは彼女が自分のエロの意図を
見抜いて高額を要求したということを理解したから、
「高い金の分は」などと言うわけであり、
エロのフェイクであったカメラはもう不必要で、
彼女も踊りではなく開いた股間を見せつけるという行動。
そしてそれを見ていたたまれなくなったカメラマンは、
なぜならあくまでヌード撮影であって売春ではないから、
やってしまうわけにもいかず・・・、という
エテルとオヤジの意地の張り合い的戦いなわけだ。
だから金が欲しけりゃいくらでもやる、
というのが彼女の口に無理矢理紙幣を突っ込むオヤジであり、
最後は手(指?)でやっちゃった。

ってな感じでしょうか。

(2008.05.15 19:30:07)

ラッコさんへ  
まーくん さん
ラッコさん、ヴァレリー嬢のヌードダンスについて解説有難うございました。読んでみてう~んなるほなぁと思いましたよ!自分も恥ずかしながら、今までカメラマンのオヤジと同じくエテルのヌードをエロ目線でしか見ていませんでした。でも物語の内容を考えていくと、彼女は女優志願ですから、たとえヌードモデルのバイトで裸になって踊りながらもそれは女優になる為もしくは生きる為の情熱の表現だったんですね。でも、それは写真を撮る側のオヤジから見ると、彼女がただ腰を振ってオッパイや股間を見せるだけなら満足だったのだと思いますが、残念ながら過剰なまでの表現にしか理解できずに目が点になったんでしょうね。2回目のダンスなど、彼女は必死に女優として生きるかどうかの瀬戸際での情熱の塊でもあった踊りを見せつけたにも関わらず、案の定オヤジは彼女の大粒の涙や泣き叫んだりするのを見て「何をわめいているんだ?」としか理解できずショック死(?)ですね。彼女としてはせっかく自分のヌードダンスをエロではなく芸術として表現したのに、ポケットのヌード写真は彼女の局部しか写っていなくて「このエロオヤジ!」と憤慨するというか、そりゃあきれますよね。3回目は自分のヌードダンスを芸術として理解できないエロオヤジとの最後の対決で、大股開いて股間を見せつけますがオヤジ側から見たら「ナメるな!小娘!」と発狂する上「金ならいくらでもやるぞ!」と思いますね。でも、あの日本円で2万出せたらと考えると、オヤジはエテルとHできると思ったのでしょうかね?でもまさか大股開くとは思えないし、のところであのアクションですからね・・・自分もこれから心を入れ替えて、エロ目線ではなくエテルの女優になる為の情熱の表現として作品を見続けていきたいと思います。ラッコさん、素晴らしい解説どうも有り難うございました。 (2008.05.18 12:50:28)

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