
芥川賞の楊逸著「時が滲む朝」は、誰も愛国者でないものはいない。国を恨む者がいるのだろうかとさえ、思えても来る。悪い奴が登場しないというドラマは作れるだろうが、それは影のない絵を見るようでもある。然し、こうしてみると、それは平板で観るからでもあるだろう。或いは皮相的な観察でしかないからだろうか。そして日本という舞台が、日本人と違う角度から捉えられている。ゴミゴミとした喧騒が豊かさの象徴であり、尾崎豊がヒ―ローでさえある。自由な社会にも見えてくる。
・誰も恨んではない国家があり、彼らは愛国者でしかない。国家を愛しながら、他国で生きねばならない。何が私たちと、或いは換言すれば私と違うのだろうか。どちらが視野が狭いだろうか。少なくとも私には自信がない。平凡な記述だが、日本人には容易に書ける話でも、それが22歳で日本に来た中国人作家の作品となると考えさせられる。思いはそれほど単純でもないからだ。
・へ2・・・何か、五感と違うものをもっているのだろうか。何かそれはパワーに近いもので、否定を肯定に換えてしまうのだろうか。ものは考えようだといわれる。辛いと思うからから辛いのであって、どんな災難も乗り越える人たちもいる。驚嘆すべき忍耐力を発揮してしまうのだ。そして故郷に死ぬまで帰らず、然も望郷の念を棄てない人たち、そして民族がいるという歴史を目にする時、日本人は震えるのである。