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「My First JUGEM」……『食欲がない』「気まぐれなページMkⅡ」……『足跡(寺社)260・世田谷八幡宮……2020.11.10』
2025.03.01
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渋谷区、港区、世田谷区と歩いて、久々の品川区を散歩した11月28日…… 仙台坂のタブノキから東に坂を下って…… 第一京浜の手前……前回は進行方向左側を歩いたから気付かなかった。 泊舩寺(はくせんじ) 北口……裏口入寺だったかも…… 禅宗とありますが、臨済宗の寺院。世田谷では曹洞宗にお邪魔しました。 泊舩っていうのは、海が近いからなんでしょうね。私の背中側は「海晏寺」で、旧東海道に沿って北には「海雲寺」「心海寺」「海徳寺」などがあるし…… 六地蔵がお出迎え…… 庫裏から本堂へ……「芭蕉像安置」の碑……しっかりとしたケースに納められていました。像高38.3cmの木造松尾芭蕉坐像は、幕臣石河積水(いしこせきすい)が深川の芭蕉庵の柳の木で刻んだものだと。本堂にあるんでしょう。ちなみに、芭蕉が好んだこの柳の木は元禄7年(1694年)芭蕉が亡くなるのと同じころに枯れたと。坐像を彫ったのは100年後のことらしいから、古木となっていたことでしょう。 芭蕉像は品川区指定有形文化財ですが、附(つけたり)に狩野嘯川(かのうしょうせん)作の芭蕉旅姿版木があると。 裏面には「旅人と 我名呼ばれん はつ時雨」とあるそうです。狭いから後方へは行かなかった私…… 本堂正面は写せませんでしたが、芭蕉と縁のあるお寺のようです。『室町時代の永徳2年(1382)に開かれたといわれる。江戸時代の初期、1680年代に住職を勤めた千巌宗億(せんがんそうおく)が俳人、松尾芭蕉と親交が深く、境内に牛耕庵(泊舩堂、芭蕉堂)を建てて芭蕉を迎えたと伝えられる。文化年間(1804~18)には、俳人2世杜格斎山奴(とかくさいさんど)(白牛禅師)がこの寺に住んだことから、たびたび句会が開かれるなど、芭蕉を慕う多くの俳人が集まるようになった。』(同寺HPより) 本堂扁額……天林山 同寺には「木造服部嵐雪坐像」「木造宝井其角坐像」「木造白牛禅師坐像」などの区指定文化財も安置されていると。 本堂正面に石碑が並んでいました。いずれも芭蕉にちなんだものと思われます。 なんとかなりそうだけどダメでした。 谷口楼川(たにぐちろうせん)・別号 木犀庵(もくせいあん)句碑……『はせをの前に芭蕉なく 芭蕉の後にはせをなし 芭蕉大なるかなはせをの葉』と芭蕉讃仰の碑だそうです。松尾芭蕉は江戸初期の俳人であり、中期の楼川には憧れの人だったのでしょう。 ※ [はせを]=芭蕉のこと。[せを]は蕉(しょう)の古い表記だと。 読めない…… 品川昔ばなし「泊舩寺の夜泣き芭蕉像」『ある夜、寺から芭蕉坐像が盗まれてしまいました。みんなで手をつくしてさがしましたが見つかりません。盗まれた像は、古道具屋に売られていましたが、古道具屋の主人はその像が、泊船寺から盗まれた芭蕉像とは知りませんでした。 その日の真夜中、「おい! おい!」と、どこからか人を呼ぶような声に、店の主人は目をさましました。まわりに人はだれもいません。「気のせいかな」と思って眠ろうとしましたが、しばらくすると、また、声が聞こえます。表の戸を開けてみても、だれもいません。おかしいなと思いながら、布団にもぐりこむと、やはり声がするのです。主人が声のする方へたどって行くと、どうやらその日に買った像から聞こえてくるようです。おそるおそる像に近づいてみると、像は目に涙をうかべて、「わしは、早く寺に帰りたい」と、かすかな声で言っています。次の日も、また次の日も、同じように泣くので、主人が調べてみると、泊船寺から盗まれた芭蕉像だとわかりました。かわいそうに思った主人は、ある夜、芭蕉像を白い布に包んで、泊船寺の門のところにそっと返しておきました。 翌朝、寺の小僧さんが、門前で白い布に包まれた芭蕉像を見つけて、元の場所に戻しました。これを聞いた村人たちは寺に集まり、「芭蕉様が戻ってきたぞ」とみんなで喜びました。』(広報しながわ・平成20年3月1日第1662号より) 南の門から失礼しました。扉の紋は竹中半兵衛が用いた家紋「九枚笹」と同じです。なんで半兵衛が出てくるのか? 偶然の気まぐれ…… 勉旃勉旃……これをつとめよ、これをつとめよ、さすれば道は開けると。 第一京浜出口に石碑が見えちゃったので行ってみたら…… 寺号碑……昔はここまで境内だったんでしょう。《おまけ》 季節外れの松茸……知り合いの方が作られました。 さて問題です。素材は何でしょう? そして着色は何を使ったでしょう? こっちの方が分かりやすいかな? 答えは明日……忘れなかったらだけど。正解してもプレゼントはありません。
2020.12.22
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ブラブラ散歩で予想外に見かけて寄ることにした6月20日…… 正一位三宿稲荷大明神……三宿神社拝殿左に幟の行列…… 鳥居、鐘楼にお狐様……鳥居の扁額撮るの忘れた。傘やハンディータイプの消毒スプレー、挙句の果ては煙草とライターまで置き忘れてくる昨今。ボケが始まっているらしい。模型作りを再開して、手指を動かさないとダメかもね。 姿の良いお狐様……後方の高台は三宿の森緑地。多聞寺が存在したころは境内だったのかもしれない。 想像でしかないけど、多聞寺の境内社として存在した稲荷神社を継承しているんでしょう。根拠はなにもありません……為念。右に三宿神社本殿。 三宿神社本殿……かろうじて雨樋でつながっているけど、拝殿と本殿とは別建てでした。 コンパクトですが、横並びで2社合わせての姿が良いです。 稲荷神社の前から、女坂っていうのか? 主参道以外の石段がありました。 こんな感じ…… 神楽殿…… 鎮守の森って雰囲気充分でした。 思いがけず出会った三宿神社にさようなら…… 烏山川緑道を少し…… 何処の緑道も住宅に挟まっています。静かに歩きます…… したのやばし公園……烏山川に架かっていた橋で「下ノ谷橋」って書くみたい。川が流れているのだから、付近の地形は川に向かって緩やかに傾斜しています。谷って表現は当たっていますが、「上ノ谷橋」はあるのかしら? おもちゃ屋ではありません…… 注意書きも空しく、使って遊んでいるちびっ子はいませんでした。 さてさて、膝の具合は今一だけど、セコムのカメラセンサーにひっかかるからコピット高枝切りでもしようかな~
2020.07.21
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11月28日の古い散歩…… 白玉稲荷神社から路地を抜けて、表通りに出る左隅に… 道標……「19番」だって。「北濱川」ってのは昔の地名。「なみだ橋」はこの後渡りましたが、今は逆に「浜川橋」の名前を残しています。 ちなみに、鮫洲八幡神社の参道口にあったのは「17番」だった。旧東海道を歩いて来れば18番を見られたかもしれません。ちょうど阿弥陀堂の少し東だったみたい…… 旧東海道……左手80mほどで勝島運河。昔々の東海道は海沿いだったと。 勝島運河の防潮堤に「花畑を作ろう」と立会川商店街と鮫洲商店街が中心となって2004年から始められた緑化プロジェクト「しながわ花海道」があるみたい。約2kmに及ぶ防潮堤に春は菜の花、夏はひまわり、秋はコスモスなどが楽しめると。コロナが終息したら、秋のコスモスを見に行ってみましょう。 少し進むと立派な寺号碑…… 嶺雲禅寺参道…… 慶長9年(1604年)に厳育和尚と言う方が創建し、吉田半左衛門重房が中興開基されたようです。 曹洞宗 嶺雲寺(れいうんじ)……古き時代の番地表示 六地蔵がお出迎え…… 本堂扁額……嶺雲と読むのでしょう。山号は高詳山。御本尊は釈迦牟尼仏でしょうか。 参道右手に…… 虚空堂……虚空蔵菩薩が祀られているのか? と思いきや、石彫りの閻魔大王像と脱衣婆像が安置されているそうです。 北浜稲荷大明神……虚空堂の左側 参道左側……奥が墓地。中興開基の吉田半左衛門重房の墓があるらしいけど、私は立ち入りません。 三界萬霊塔……この世の生き物全ての霊をこの塔に宿させています。仏教では、過去・現在・未来を示すんだったか? 欲界・色界・無色界(精神だけの世界)の三つの世界とも言います。『いま生命あるは ありがたし』……生きていられて本当にありがたい。 水子地蔵さまもマスク…… みなさんマスク……六地蔵は、合掌・数珠・宝珠に錫杖など異なるのでしょうが、赤い前掛け?マントを着用されていたので分かりませんでした。 本堂前から……天気がよくて良かった~ と言うことで、今日はこれでおしまい。 予防の電気治療に行ってきましょう。 東京都の感染者1500人越えだって。どうすりゃいいんだ。 ここまでほったらかしてきた責任者出てこい!!!
2021.01.06
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11月10日の大失敗!!! の散歩…… 参道を進んで石段を上ると百度石…… 後方の建物などとの位置関係を後で分かるように撮っておいたこの1枚がなんとか救い。写真右奥に石段が見えますが、下がった場所に江戸三大相撲の一つとされた奉納相撲の土俵があるんです。ちょうど弁天池の後方ですが、一段高くなった場所に古代ローマを思わせる円形劇場ばりの客席でかこまれた土俵があったんです。客席だけ撮ってくるなんて、とあきれ果てた私。 8月に大井鹿嶋神社を訪問した際に知った江戸三大相撲……9月に二つ目の渋谷氷川神社を訪ねた時から、三つ目の当社訪問コースを作っていたのに肝心の目的を忘れて訪問した私。お粗末としか言いようがありません。百度石なんかに目を向けず、もっと右を向くべきでしたが後悔先に立たずです。残念無念…… 仮殿……だそうですが、建て直しの際に使われたのでしょう。『世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第73代堀河天皇の寛治五年(1091)、当時朝廷より陸奥(奥州)守として任ぜられた源義家が、幾多の苦戦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した、歴史上後三年の役(1087〜1094)の世である。 義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となった。もとより敬神の念を厚くもつ義家は、今度の戦勝は日頃守神として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申し上げ、八幡大神と称え奉り、盛大なる勧請報賽(奉祝)のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われている。 また、そのとき士卒に奉祝相撲を取らせた事とあり、現在でも奉納相撲が神事として行われている。』(同社HPより) あくまでも言い伝えとのことだけど、雨が登場する辺りは、近くの豪徳寺・招き猫に似ています。しかし、豪徳寺に行ったのは3年以上も前のことだった…… 一方、当社旧蔵の棟札によると……『「当社 八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞(頼康)。天文15年(1546)丙午8月20日建立、12月20日癸卯御遷宮」とあり、約四百数十年前の第105代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼康(よりやす)が社殿を修築造営し、正遷宮を行っている。またこの時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(二尺三寸)一振を寄進したと云われている。 このように神社は吉良家の祈願所とし、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家たる大場氏により祭典が執行されてきたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の関東討伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に滅んでしまう。 その翌年の大正19年(1591)に江戸城に入城した徳川家康は源氏の出身でもあり、当社の旧社領11石を朱印地とした。』(同社HPより) 地元だから、やっぱり吉良氏が登場するんだな。『維新後の明治5年(1872年)には郷社宇佐神社の社名となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元された。』(同社HPより) 蛇足ながら明治5年(1872年)は面白い年……太陰暦を廃止して太陽暦を採用するから「明治5年は12月2日で終わりだよ。12月3日を明治6年1月1日にするよ~」と明治政府が言い出したのが直前の11月9日。おいおい、一カ月もないじゃないのとカレンダー業者だったら怒るわな~ 作っちゃった明治6年分は廃棄だったろう。コロナ対策も突然だったりドタバタは止めてほしい…… 世田谷八幡宮社殿……荘厳な現在の社殿は昭和39年(1964年)5月改築 御祭神は「応神天皇(おうじんてんのう)」 「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)」 「神功皇后(じんぐうこうごう)」とのこと。 ※ 仲哀天皇…第14代天皇・日本書紀での名は足仲彦(たらしなかつひこ)天皇 ※ 神功皇后…仲哀天皇の皇后。第15代応神天皇の母とされている。旦那さん・仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで摂政として君臨したと。 コロナ感染予防のビニール仕切りが…… 社殿前から参道……手水舎脇の松は真っすぐでした。 社殿に向かう参道の右側…… 柵に囲まれて…… 力石がゴロゴロ……うかつに持ち上げてギックリ腰にならぬよう管理しているんでしょう。 境内奥にも敷石……残念ながら続きは明日です。《おまけ》 碑文谷公園の弁天池……厳島神社は池の真ん中の島にあります。(2020.12.8・12時27分) 弁財天続きで、昨日載せようと思っていたのに忘れました。本当に忘れっぽい今日この頃です。《おまけ2》 窓辺に柿をぶら下げて、啄みにくる鳥たちを母と連れ合いが眺めています。去年は寄り付かなかったと記憶していますが、今年はやってくるみたいです。 しかし今日は寒いな~ なにをしようかな~
2020.12.14
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君のユニホームのポケットに 大切なものが入っている 第31回大会(1949年)長浜俊三・大会審判副委員長 3連覇を狙う小倉北(福岡)が準々決勝で敗北。エース福嶋一雄が地元へ戻ると、こう書かれた速達の手紙が届いた。ユニホームを振ると土がパラパラと落ちた。試合後、無意識にグラウンドの土をすくう福嶋の姿を長浜は本部席から見ていた。これが敗れたチームが土を持ち帰る伝統の始まりとする説がある。 (朝日新聞 8月14日) 記事とは飛躍したことではありますが、何ごとにも「始まり」があります。 ちょうど6年前の今ほどから模型を作り始めた私。ずっと車ばかりでしたが、行きつけの模型店店主に薦められてバイクにチャレンジし「なかなかおもしろいじゃない」と乗ったこともないのに数台作りました。 そうだ、星野さんが亡くなって2回目の夏になりましたが天国でも模型店をやっているかしら? 店で偶然師匠とお会いしたのはちょうど3年前ですね。星野さんが橋渡しをしてくださったものと感謝しています。 模型店をのぞいて見るのは楽しいので、散歩ついでに寄れるお店はないかしら? とタミヤの販売店ガイドで見つけた「シゴーニュ」さんを初めて訪問したのが昨年2月5日。飛行機にとにかくこだわった店主の作品と品揃えに圧倒されながらも、魅了されてしまった私。数か月後に再訪して「複葉機を作ってみようかな」と初級編Fokkerを購入したのがある意味 私にとっての飛行機模型作りの始まりです。 小さいパーツも、迷彩柄塗装も、張り線もすべてが初めて尽くしでしたが苦労しながらも楽しいものでした。2作目Spadは難易度が高く、私の手におえる代物ではありませんので四苦八苦十苦の状態ですが、持ち合わせている技量を量りながら試行錯誤がよい勉強になっています。しかし、やっぱり複葉機は「田植え」を会得しないとダメですね~ そうだ、戦車も薦められて2台作りましたっけ。あの時はそこそこ満足していたのですが、今 改めて見ると下手くそでした。Spadで初めてトライしたエナメルのドライブラシは、戦車の最終汚しにも使えそうなので残っている1台でいつか試してみましょう。 ながなが書いてしまいましたが、作ったことのない方は是非一度チャレンジしてみてくださいませ。新しい発見があると思いますよ~ Br.763・765……Breguet・ブレゲーと読み、フランス機のようですが、1940年代~1950年代2階建ての輸送機だって。そんな時代から2階建てがあったとは… DC-7C……ダグラスDC-10はたぶん見たことのあるジェット機ですが、7Cはプロペラみたいです。 CV-990……Convair・コンベアというんですね。速いそうです。暖降下で容易に音速を突破とか。 Caravelle 12……やっぱり知らない名前ですがフランスらしいです。フランス機がお好きな店主だからこその仕入れなのでしょう。しかしWikipediaによれば「主に近距離チャーター路線に用いられ、12機製造」とありました。ちなみにカラベル11Rは6機だとか。希少価値の飛行機なのでしょうが、ことごとく製品化する模型メーカーはすごいです。写真のCaravelle 12も航空会社によってデカールを分けているのだろうと推察する素人のわたしです。 Boeing 787-9 Dreamliner……ドリームライナーとは響きのよいネーミングです。アメリカ製のはずですが、エンジンはロールスロイスだそうです。トランプ氏だったら許さないでしょう。 1/144スケールとありますが結構大きなプラモでしょうか? Cデジカメを忘れたので古いスマホで、なおかつアルコール燃料切れの私だったのでブレブレ写真でごめんなさいです。複葉機は難しいから「今度はこんなのをやってみようか?」なんて思った私ですが…… それでも複葉機に目が行ってしまう私……Junkers J.I・ユンカースと読むようです。ドイツの「装甲複葉機」だそうですから幌ではなさそうなので、エアーブラシの塗装でも許されるかもしれません。上のProfi PACKにはエッチングパーツが付いているのでしょう。 これもボケボケで恐縮ですが、とにかくとにかく目移りするぐらい飛行機がたくさんあります。 Supermarine Stranraer……ストランレアと読むみたいです。スピットファイアを作った、イギリスのスーパーマリンという会社の飛行機らしいです。大きな箱でしたから1/72でも結構大きな模型でしょうが、支柱に張り線と難易度が高そうです。ひょっとしてこれは水上機ですね。プロペラはだてに上翼に付いているのではなさそうです。いつになったらこんなの作れるようになるかしら? 近くで見かけました。深い意味はありませんが、皮膚科・小児科・歯科・整形外科・内科に調剤薬局とあります。一か所で済ませられるのはありがたいかもしれません。 なぜかごちゃごちゃになってしまいましたが、模型の写真は「シゴーニュ」さんで撮らせていただきました。飛行機以外にもガンプラを除いてたくさんあります。見慣れないメーカーの車などもあり楽しいですが、作ったことのない方は是非一度飛行機にチャレンジされることを、年寄りの冷や水ながらお薦めします。飛行機はとんでもなく奥深いことを発見した私であります。 ちなみに「シゴーニュ」さんは、東急世田谷線・世田谷駅から南に200m程です。許諾を得ていませんので住所・電話番号は載せませんが、調べればわかると思います。
2018.08.14
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鵜の木からブラブラと久が原を歩いた2月15日…… 西部八幡神社のすぐ東側……塀に沿って歩くと… 門を発見……「だけど裏だよな~」と…… まわってみたらありました。以前は裏口を使わせてもらいましたが、最近は極力正門を目指しています。 安詳寺山門前…… 立派な柱です。 良き景色……空がもう少し青かったらな~ 安詳寺本堂……日蓮宗のお寺 御本尊は『お題目を中心に、左にお釈迦様 右に多宝如来が並座し、前に日蓮聖人という一塔両尊のご本尊です(安詳寺HPより)』 この日蓮聖人坐像は大田区の文化財(非公開)……『桧材寄木造、彩色、玉眼、像高30.5㎝。像底に記された墨書銘によれば、寛文9年(1669年)に、青木清左衛門の内方(妻)妙圓が、父母の冥福を祈念し供養するため、造像したものである。(大田区教委)』 気になったのが『本山である小湊(千葉県)誕生寺の22世日明によって開眼されたことが、その署名花押からわかる。江戸時代初期在銘の祖師像として貴重である。』……地理的条件からして、当然池上本門寺の末寺だろうと思ったら、本山は誕生寺だって。やはり不受不施問題によって本寺替えをせざるを得なかったのでしょう。 本堂扁額……長久山安詳寺(あんじょうじ) 寛永6年(1629年)安詳院日憶上人によって開山。改修や修復を重ねたが戦災を受けて焼失。現在の堂宇は昭和40年に第19世日明上人の発願で建立とのことです。 本堂前から振り返って左方向…… スッキリした境内ですが、この木もなかなか立派でした。 鬼子母神堂……本堂にも見劣りしない建物です。この後でお寄りした本光寺にも、本堂以外に七面堂なる立派なお堂がありましたっけ…… 鬼子母神堂扁額……現在の堂宇を建立した第19世日明上人の書 参道を帰りかけると…… 題目塔と宝篋印塔かしら? 境内の片隅に……ペットたちのお墓みたいです。 この後、東部八幡神社、本光寺とお邪魔しましたが、続きはまた今度……《おまけ・今日の桜状況》 田向公園通りはずいぶん開花が進みました。 立会川緑道・大門橋付近はこんな具合…… 同じ立会川緑道でも、羅刹橋はまだまだ……場所によって、あるいは木によって咲き方はマチマチ。マイペースでいいから頑張ってね~《おまけのおまけ》 赤いピラピラがたくさん付いています。何と言う木か知りませんが、花なのかな~ 12時26分 さてさて、今日は何をしましょうか?
2020.03.22
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値の張る車ではあるだろうけど、車高というか車床の高い車です。 巨大ダンパーに大きなタイヤなので、とても車高が高いです。踏み台がないと、私には乗車できそうにありません。マフラーなのでしょうか? サイドの金属パーツまでも足は上がりそうにありません。どうやって乗るのかしらね? アウトドア・ライフを楽しまれる方の車でしょう。どんな悪路も走破できそうです。下にあるデフが気になりますが、またがなければ良いんですよね。 しっかりしたワイヤーロープの巻かれたウインチも搭載していますが、これも高価そうです。 旧目黒公会堂跡地……桜だけは健在でした。 (2018.3.26) 昔々、ザ・タイガースも来た公会堂……老朽化していたことは事実ですが、売却してしまったことは区民として残念に思っています。 現在は[ザ目黒桜レジデンス]とのことですが、建物名に桜を使っています。でも、手紙や届け出に住所を書く場合は長くて面倒そうでね。
2018.03.29
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重い腰を上げて、昨日実験をしてみました。 真っすぐに張れない私です……情けなか~ 引っ張れるような不要パーツをごそごそ探し、片方に穴=凹(貫通させない)を掘って田植え……直径0.2mmでは厳しい……フニャフニャの糸先を上手く差し込めない。0.3mmにしてみたが、ピンセットでつまんだ糸の先端に瞬接を付け、的確に凹にあてがうこと自体が老眼には不向きな作業ということだ。シゴーニュさんはいとも簡単に仰るが、集中力と熟練が必要だと改めて悟った私…… でもって、もう一方(下側)の貫通させた穴に糸を通して接着。 斜めが緩んでしまいました。左から張って行ったのですが、最後の糸を引っ張りすぎたようです。このパーツ、頑丈そうですが、わずかな力で開いた口が狭くなる代物……それにしても、そこそこ引っ張っても田植えが抜けなかったことは「しっかり接着できた」と解釈しておきます。 ちなみに、やり直そうと余分な糸をカットする前に引っ張りましたが抜けませんでした。本番でもやり直しはききません。上下翼を支える支柱の外側は、たわみに留意が必要だろうとも推察できた実験でした。 ドリル……上から[0.8] [0.6] [0.5] [0.4] [0.3] [0.2] それぞれピンバイスってやつにくわえさせて使うのだけど、0.2mmは軸受けが1.0mmなのでくわえやすい。0.3mmは辛いですし、それほど酷使したつもりはないのですが先端が摩耗しているようなので、買わないとダメかもしれません。 今回使った糸……ものすごーく細い糸を何本もよってあります。 実験はしましたが、張り線以前にPfalzの斜めの支柱がきちんと接着できるかの高い高いハードルが待っています。とりあえず年内完成に向けて、ボチボチやります。下手でも形にだけはしたいと思っているので…… 模型のネタでは連れ合いが寂しがるので追加…… 今朝は西小山でモーニングしてきましたが、行きがけに見ました。「ジャンボかぼちゃ重さ当てゲーム」をやるみたいです。 どこもかしこも「ハロウィン・パーティー」…… じっくり新聞を読んで、喫茶店をでたら駅前はこんなになっていました。 台風の連続で被災されて辟易されている方々とは裏腹に、みんな楽しそうでした。 突然ですが「I feel blue」などと、憂鬱を表す色は青だと思っていましたが、映画「ティファニーで朝食を」でヘップバーンが演じるホリーのセリフは『気持ちが赤いときはタクシーでティファニーに行くの。そうすればすぐによくなるわ』だそうだ。タクシーでティファニーは確実に贅沢だが、赤も気分がめいるのを表す色らしい。日の丸国旗の赤がそんな風に思えてきた今朝でした。 目黒マルシェ……あっちこっちで流行っています。目黒通り・大鳥神社から四中交差点までの間で行われるようですが、結構長いです。雨が降らないと良いのですが…… 22日に円融寺で予定されていたAOZORAマーケットはどうだったかな? 雨だったから行かなかった私です。 さてさて、今日は降りそうにないので散歩してきましょうかしら?
2019.10.27
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養玉院や九品仏の紅葉を割り込んじゃったけど、実相院から世田谷を歩いた11月10日の散歩に戻ります…… 世田谷線宮の坂駅から城山通りに入ってすぐ……紅葉の兆しもあって、鎮守の森の雰囲気は充分。 世田谷八幡宮……奥に二之鳥居も見えています。 大きな一之鳥居…… 鳥居をくぐってすぐ右に……厳島神社と書かれていてありがたい。 進むと今度は左向きに鳥居…… 七福神の弁財天と同様と考えられているから弁天さまとも呼ばれるように、弁天池がつきものです。赤い橋も必需品。 弁天池の中州にも鳥居……鳥居後方の小屋は鳥のかしら? 彼らは元気……動き回るから撮るのたいへん。 弁天橋を渡って……弁天橋と言えば、先日立会川下流の弁天橋を渡りましたっけ。本編はまだ先ですが…… 厳島神社……御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 単語登録をしてあるからすんなり出ましたが、もしやと思って境内の札書きを確認したら『市杵島比売命』となっていました。どうして異なるのかは今日は調査しません。 祠の右脇から池に水を落としてます。岩のてっぺんにカエルが乗っているけどアングルが悪いから見えないかも? 撮ってはみたけど読めない…… 八幡宮二之鳥居前……右の朱色の鳥居は厳島神社の出口用。と言っても、まず参道手前の鳥居をくぐって橋を渡り、帰りはこちらから失礼するものだと私が勝手に決めたんだけど。 二之鳥居扁額……八幡宮!! 石段を上ると…… 社殿が見えました…… 参道左に手水舎…… コロナ禍で使用停止……龍の口から水が出るはずですが…… 神楽殿……春季大祭には奉納神楽が舞われるようです。 社務所から社殿へ……ぐるりと境内を取り囲む木々からも神聖さがにじみ出ているから世田谷百景に名を連ねているのでしょう。御鎮座から900年を越える八幡宮の続きはまた…… 連れ合いは義母に付き添ってお寺に……毎日ご苦労さまね~ 僕は留守番しておきますよ。
2020.12.13
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まだ引っ張っている11月10日の散歩…… 世田谷八幡宮社殿右側奥……二社祀られていました。 世田谷招魂社……狛犬も燈籠も設けられています。 一段高くなっています。 世田谷招魂社(しょうこんしゃ)……御祭神は、日露戦争、太平洋戦争の戦没者(世田谷区域)『世田谷1丁目にあった乃木神社(乃木将軍の甥玉木正之建立)の社殿を玉木氏により譲り受け、旧軍人山の場所に世田谷招魂神社として氏子内および代田1丁目、弦巻町、 経堂町の戦没者を昭和31年(1958)に御祀りした。』(掲示板より) 一段高くなっていると思ったら軍人山と呼ばれた場所のようです。 日露戦役紀念碑……乃木希典氏の書。あちらこちらで拝見します。左の石碑は軍人山。 招魂社から見た境内……きちんと整備された参道の敷石からも慰霊と追悼の気持ちが伝わってきます。 北への出口を挟んで、招魂社の右方向に…… 古そうな手水盤…… 高良神社(こうらじんじゃ)…… 高良神社社殿…… 御祭神は、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと) 古くは「高良玉垂命神社」と呼ばれていた1600年以上の歴史を誇る「高良大社」というのが九州は久留米市に鎮座しているようです。久留米は幾度も仕事で行ったけど、知らなかったな~ 興味も時間もなかったけど…… 当日訪問した満櫻稲荷神社は、満中稲荷と桜木稲荷とを合祀したもの。桜木の稲荷は明治42年(1909年)世田谷八幡宮に合祀されたが、地元の要望により勝光院境内に移されたとあった。大正元年(1912年)のこの合祀を避けたためかもしれない。メインの社名に「桜」の文字が消えてしまうから。私の勝手な想像ですが…… 鎮守の森…… 東の鳥居から失礼しました。 江戸三大相撲の土俵を見てこなかったダメな私でした。 都道427号瀬田貫井線を北上しましたが、続きはまた……《おまけ》 西小山ポエムの入り口……表に出されたテーブルに灰皿があって、喫煙所です。私には関係ないけどクリスマスなんだな~ 今日は家族孝行の晩御飯担当をしなくちゃならないので、これでおしまい。
2020.12.15
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9月22日の散歩……終盤です。 室泉寺を下って明治通りに出ると…… 幾度も車で前を通過したけど、お寺だとはちっとも思っていなかった。 駐車場の入り口を入ってすぐ…… 右奥にあるのは「花供養塔」……『花は天地自然の美しき心を姿色香にあらわし、人の世の喜怒哀楽につけてその人の心を和らげ慰め励まし無量の福楽を与え来れるものなり。その花を己が商とすることを天職と思い、花を愛し、花と天地自然に感謝しつゝ生花を商う願心の施主横山サダ及び同業の有志相寄りて人々の心を慰め散り行ける多くの花の命に感謝し慰霊せんものと、渋谷山福昌寺の聖域をトし、茲に供養塔を建立し、併せて施主家の家門興隆同業有志各家の繁栄、業界の発展を祈念するものなり。昭和丙辰51年4月吉日 花供養塔建立教会』 阿弥陀石棺仏……『石棺仏とは、古墳時代の石棺を転用して、そこに仏像を彫り込んで路傍に立て庶民が礼拝の対象としたものです。本石棺仏は、古墳時代中後期頃の家型石棺の蓋を利用しており、その内側は長方形に彫り窪められています。中心部に表されるのは蓮台上に立つ阿弥陀如来像で、船形光背を負い、来迎印を結ぶ姿が浮き彫りにされています。現存する阿弥陀石棺仏の多くが座像であり、このような立像は稀な例になります。この石棺仏の材質は、兵庫県高砂市・加西市付近を産地とする播磨竜山石と考えられます。石棺物が彫られた時期は、その像容や年紀を持つほかの作例から見て、南北朝時代頃と推定されます。現状は石棺蓋の上端部に物が奉置されるような窪みが穿たれていますが、阿弥陀如来像や蓮華座に破損や摩滅等がほとんど見られず、保存状態は比較的良好です。この阿弥陀石棺仏は、和歌山県那珂郡から運ばれて来たものと伝えられ、昭和25年頃に造園業を営む東光園が入手して当寺に寄進したもので、東京では本例のみという珍しいものです。渋谷区教育委員会』……だそうです。 福昌寺山門……僧桂岩嫩(慶長2年・1597年入寂)によって当地に開山されたとのことですが、詳細不詳でごめんなさい。本堂へは建物内の石段を上がっていくようなのでこちらで合掌して失礼しました。南無釈迦牟尼仏…… 扁額……渋谷山 福昌寺・曹洞宗の寺院で、御本尊は阿弥陀如来みたいです。 曹洞宗の源はお釈迦様だから、御本尊は釈迦牟尼仏・釈迦如来かと思いきや……『阿弥陀仏は十方諸仏の本師本仏』、地球では最高位のお釈迦様も大宇宙からみたら阿弥陀仏が上。一切の諸仏が師と仰ぐ阿弥陀様を御本尊としたのでしょう。 近代的で大きな建物が立っていましたが、後方が広い広い墓地みたいです。 敷居が高い……塀が高かった~ 渋谷橋……明治通りと駒沢通りとの交差点……左端に路地があります。 路地を入って、渋谷区広尾…… 疲れていたけど、もうちょっとだけ頑張りました。続きはまた今度……《おまけ1》 新型ビールサーバー……グレゴールに導入されていました。 撮影日10月18日時点ではまだ稼働していませんでしたが、ここで生ビールの瓶詰めをするそうです。日持ちがするから持ち帰り用だとのことですが、瓶のデポジットが高そうです。ロシア製のサーバーだったと思いますが、まだ日本には2~3台しかないそうです。しっかり設置費を回収できる売り上げがあると良いですね。《おまけ2》 昨日はちょこっと散歩……「三友軒」は頑張って営業を続けていました。連れ合いと一緒に入ったのは、2016年6月19日。もう4年以上も経ってしまいました。 三友軒でお昼を食べて、大食いの雷王さんの為に西小山で唐揚げのお土産を買って訪問した「雷王模型店」……閉店のお知らせが貼ってありましたが、寂しいです。手を合わせてきました。 私道の入り口に……模型店の目印の幟旗が立っていた土台がポツンと……当然だけど玄関前の愛用の自転車もありませんでした。 昨日は洗足池の往復を何分で出来るか? にチャレンジ。超高速参勤交代状態で歩けば80分と読んだけど、90分かかっちゃいました。復路でこんなの買ったし、重かったから良しとしておきましょう。近所の酒屋から姿を消していますが、何だか飲みたくなったので……オールドはラベルが変色してましたが、味は大丈夫でした。昨晩確認済みです。店頭在庫は希薄だったから早く買わないとなくなるでしょう。 オールド・1,680円税別 リザーブ・2,280円税別 今日の空……10時16分 冬が来る前の、散歩には良い日です。
2020.10.26
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「My First JUGEM」……『結局 代参……』「気まぐれなページMkⅡ」……『足跡(寺社)241・福昌寺の阿弥陀石棺仏……2020.9.22』
2025.01.11
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YAMAHA YZR-M1 '09 MONSTER YAMAHA TECH3 寒いので億劫になっていますが、決意して4色ほど塗装しました。 色を変えるたびに面倒なエアーブラシの掃除が必要ですから、1日に4色が私の限界です。飛行機の迷彩柄は5色を一気にやりましたが、腰にも悪かったです。 シルバー系を3色……チェーンなどなどこれから塗り分けを要します。 エンジンのクロム、ラジエターのアルミ、マフラーのチタン……それほど違いがあるわけではないのですが、やっちゃいました。 エンジンとラジエターは黒サフェの上からさらっとです。エンジンブロックは後で部分的に塗り分けが必要です。ラジエターと共に筆塗り部分も残っています。 マフラーは光沢黒ベタ塗り(余っていたスプレー缶を使用)を下地にしています。こちらもさらっとですが、極薄の部分を作ってやることで焼けた表情がでるよう努力しました。勿論、ブルー系、オレンジ系のクリアーを後で吹いてやるつもりですが…… ホイールに苦手な光沢黒を塗りました。いくらエアーブラシといっても、黄色線部分が吹きにくいです。満足な出来ではありませんが、ブレーキディスクなどで少しは隠れるので良しとしましょう。 ちなみに、缶スプレーで塗られる場合は黄色線部分を先に筆塗りしておくのが良いいと思われます。どう斜めにしてもホイールの縁が邪魔をして塗料は届きません。だからと言って至近距離で吹くとブツブツになる恐れが多分にあると思います。年寄りの冷や水でした。 デカールもボチボチやっています。アッパーカウルもまだまだですし、タンクカバーにはカットの必要なデカールが残っていることに気付きました。 塗装もデカールも、天候をみながらぼちぼちやりましょう。
2017.12.02
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1月13日、歯医者に行ったので帰りにちょっとだけブラブラ……以前勤めていた会社のエリアだから知ってはいたけど、寺社をしげしげと眺めたことがなかったので見学してみました。 松秀寺山門……冬嶺山本寿院の号をもつ時宗のお寺だそうです。以前、清正公・覚林寺を訪問した際に見かけたのは裏口だったようです。 松秀寺宗祖一遍上人像…… 申し訳ないと思いつつもお腹が空いていた私……日曜日だったので天山飯店の休みは覚悟していたので、次なる候補店に急いでいたため、ゆっくりはしませんでした。 立行寺山門……松秀寺山門を出て角を曲がると見えます。ピンクがとても目を惹きます。 法華宗だそうです。 智光山……私にも何となく読めました。 立行寺本堂……創建は1600年代・麻布六本木のようですが、移転を経験しているみたいです。理由は様々ですが、多くの寺が移転しています。 鐘 楼……良い音がするんだろうな~ 大きいのには『大久保彦左衛門忠教頌徳碑』と彫られています。左の小さいのには『一心助碑』とありますが気づきませんでした。山門に『史蹟 大久保彦左衛門墓』とあったので、そればかり気にしていたお粗末な私です。そもそも、行き当たりバッタリなのがいけません。 どうやらあそこらしいぞ~ 本堂の南側に広がる墓地の一角に失礼しました。 真逆光だったので撮るのに一苦労……立派な屋根つきのお堂 大久保講……奉納された方々なのでしょうが、上段右側の左端に「〇囲みに質・八幡屋」ってあります。質屋さん、儲かっていたのでしょうかしら? こういうの大好きな私です。大久保講の上には格好の良い龍が彫られていたのですが、上手く撮れませんでした。 左右と正面に大小さまざまなお墓がありましたが…… これまた立派な屋根つき……これが大久保彦左衛門のお墓だそうです。石碑にあった「忠教(ただたか)」が本名だと改めて思いだす、歴史音痴な私です。ちなみに、この寺は大久保彦左衛門が開基したそうで、通称を大久保寺として知られているんだって…… 独り反省会で、一心太助の墓もあることを知りました。たぶんですが、前の写真の右・石碑の奥にある屋根つきみたいです。でも、架空の人物のお墓ってちょっと合点がいきませんが、大久保彦左衛門には付き者なのでしょう。お洒落です。 静かな境内……私の行くところ他人なしです。 「それにしても腹が減った!」……朝からコーヒーだけだったので、すでに井之頭五郎状態の私…… バス通りに出ました。救急車が向かい合って停まっていたので、そここその渋滞です。目指すはすぐそこ…… 大 五……以前三回ほど昼食に行きました。私的には三本の指に入ります。ビフテキは食べたことがありません。だってランチには高過ぎたし、午後の仕事が嫌になっちゃうので……でもって、せっかくとんかつのお腹にしてきたのに数人並んでいたので断念しました。「立行寺に寄らなければよかったかしら?」と、後悔は先に立ちません。 大きな鳥居……山門と参道の方角こそ違え、立行寺とは地続きの場所です……ここも逆光なので撮りにくい… 白金氷川神社……歩きやすい石段でした。ここは少々の高台ですが、周辺にはもっと起伏がある場所があります。私の後ろ側(北)には、渋谷川・古川が流れているので低い所です。 比較的広々とした境内……社殿周りの緑の木々が良い景観です。 社務所……社殿に向かって右です。「港区で最古の神社」と言われているようですが、それぞれ昭和の時代に再建されたのでしょう。 手水舎……立派な天然石で作られていました。 氷川神社社殿……本殿は奥にあり、御祭神は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「日本武尊(やまとたけるのみこと)」「櫛稲田姫尊(いなだひめのみこと)」だそうです。 境内社・建武神社……社殿左側にあります。 二社鎮座しています。御祭神は「後醍醐天皇」「護良親王(もりよししんのう)」「楠木正成」など、吉野朝の諸忠臣が祀られているそうです。 到着した時、不自然な車の停め方だったので「もしかして?」と思ったのですが、やっぱりそうでした。新車のお祓いでした。お邪魔しました…… 三光坂下……氷川神社を後にして西に向かうとすぐです。 ほぼ南に向かっているこの坂を行くと八芳園あたりに出ます。目黒通りへは最短コースですが、上りは辛いです。下りは数回使ったことがあります。 知らなかったのですが、塀に貼ってある町内地図にあったのでチョットだけ三光坂を上ってみたらこんな階段…… お寺、ありました……でも入れません。 専心寺……門扉の隙間から失礼しました……だって、せっかく上ってきたんだものね。松宮山三葉院と号す浄土宗のお寺だそうです。ちなみに、立行寺も氷川神社もこの専心寺も同じブロックにあります。 専心寺前からの眺め……古川方向へゆっくり下っていきます。「あのビル、勤めていた会社からも見えたっけ~」と、つまらない景色ですが天気が良かったので撮っちゃいました。「ショルダーバックかけて撮るんだった……」と、今頃反省… 三光坂交差点の反対側です。信号青です……渡らなくちゃ~ 西光寺……称名山慈雲院と号し、浄土宗のお寺。偶然なのか? 立行寺と同じで、創建は麻布六本木で、後にここに移転したそうです。センサーが付いているようで、門を一歩踏み込んだら「ピンポーン…」って鳴ったのでここで失礼しました。 金峯山本妙寺……日蓮宗のお寺 円融寺の第十世日瑞聖人が退隠した後、円融寺近くに創建されて、延宝4年(1676年)にここに移転されたそうです。 でも、円融寺は日蓮宗じゃなかったよな?と思いきや……仁寿3年(853)天台宗法服寺として創建されたが、弘安6年(1283年)日蓮上人の高弟日源上人によって日蓮宗に改宗したって。この時に寺号も妙光山法華寺と改め、400年にわたり栄えた名刹だったのだが、不受不施の教義を強く主張したことにより江戸幕府の弾圧を受け、元禄11年(1698年)に元の天台宗に戻されちゃったと……吉良上野介の時代だわな~ ということで、円融寺が日蓮宗の時代だった名残とも受け取れる本妙寺であります。 幸福の科学大悟館……本妙寺の向こうになにやらあるぞ!と思ったら、大川隆法氏の住まい兼、参拝施設だそうだ。白金高輪駅前にもビルがあったし、泉岳寺そばにも凄いのがありましたっけ。すっかり幸福の科学村になってます。 ということで、今日はここまでです。
2019.01.21
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6月20日 最後の訪問先…… 教学院を後にして、線路沿いをちょこっと……来た来た世田谷線……区民の便利な足です。 西太子堂駅の南側住宅街へ…… 横にも細い路地……かつてはウロウロしたけど、すっかり元気が残っていない昨今今日この頃です。 住所は世田谷区太子堂から若林に変わっていました。若林ってのも随分と広そうです。世田谷線は西太子堂駅の次が若林駅で、その次が松陰神社前…… でもって、電信柱の右…… 左卜全住居跡……なんでこんなところを見に行くのか? 自分でも不思議ですが、ついでだったから……『常道の芸では 先がしれてる されば 逆 遠き苦難の みちを求めん』 突発性脱疽(だっそ)を発病し医師から切断を薦められるも、激痛を共に生きる道を選んだと。役者であり続けたかったのであろう卜全さん。晩年は松葉杖を手にしてなかったしら? どなたかがお住まいになっているベランダの前……失礼しました。かつては、冠木門のあるお家が建っていたんだって…… 名優 左卜全 住居跡 左卜全(本名・三ヶ島一郎/昭和46年5月26日没/享年77)は、おとぼけと洒脱の独特な芸風でユニークな名脇役として注目され、代表出演作に黒澤明監督作品の「白痴」「生きる」「七人の侍」「どん底」等の映画作品があり、晩年(75歳)には「老人と子供のポルカ」のレコードを出し、大ヒットし、広く人々に親しまれました。 またこの地は、左卜全の虚構と伝説に満ちた生涯の真実と夫への限りない愛を持って描き出した妻 三ヶ島糸著書「奇人でけっこう 夫・左卜全」(装画・題字=森繫久彌/文化出版局)があり、糸が平成8年7月25日、87歳で没するまで愛したゆかりの地でもあります。 人も惜し さらに芸惜し へだつ世のおもいはるかに燃ゆるおりおり(糸) ふるさとの土に召されて とことはに君がみたまのここにしずまる(糸) 共にある世のなごり惜し 添寝して細りゆく手むねにあたたむ(糸) 〈昭和46年4月5日(糸の誕生日)病床にある夫・卜全の床の前で〉 ひとしれず消えたき思ひ草の葉の陰に宿りし 露のごとくに(糸) 〈独り暮らしを貫いた世俗の喧騒をよそに卜全没後超然と生きた25年〉 いつしかと都の塵に汚れたるわが白かりし衣かなしき(一郎 ※卜全の本名) 〈少年時代東京で働いていた時に、姉で歌人の三ヶ島葭子にこの歌を送ったところ、すぐに「鶯のはつ声よりも嬉しき君がはじめて送りきし歌」と返歌がきました。〉 なお、ここにありました冠木門は出生地の所沢市三ヶ島堀の内の三ヶ島家奥津城(お墓)に移築し、映画・テレビ・舞台・ラジオの台本等の資料は所沢市教育委員会に寄贈し三ヶ島公民館に展示されています。 その他のスチール写真等の資料は、この隣の甥 中村靖宅に保存してあります。跡地の住居は「プレステージ レフト」の名称で、左卜全の名声を未来に残すためここに表記したものであります。 平成11年春彼岸 左卜全を偲ぶ会 中村 靖 建立 門前に立つ卜全さんの写真……たくさんの映画に出演されていますが、私は晩年の歌しか記憶にありません。「世界人類が平和でありますように」と書かれたものは自筆でしょう。お人柄が伺えます。 首都高速3号渋谷線を越えて世田谷観音通り…… 家路を急ぐ私の前に登場……去年12月にも免許更新の際に通ったのに気付かなかった~ どこ見て歩いてたんだろう? 青面金剛……提灯はやけに新しいです。 上馬1丁目33の庚申塔……ということで6月20日の散歩コースは終了です。 ボチボチ歩きたいのだけれど、こう暑くちゃ熱中症になりそうです。調べたら、去年の8月も寺社巡りは全くしなかったみたい。涼しくなるまで待っていようか……《おまけ》 たまに作る「焼うどん」……豚バラ、キャベツ、椎茸、ナルトなど冷蔵庫にあるもので独り作って食べます。かつお節が良い味にしてくれるのでありがたい。「今度紅生姜買うといて~」とお願いしたら、連れ合いは早々に調達済でした。昨日も草むしり、ごくろうさまでした。おーきにね~
2020.08.10
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洗足流れから7か所目の訪問先へ向かった2月1日の散歩…… 末広神社の後ろの道……長く続く塀の辺りにあるはずなんだけど……ちなみに右の敷地のほとんどが野村證券の寮みたいです。 右折したけど、どこにあんねん? ここかしら??? 不許葷酒入山門……五島美術館庭園でも同じ戒壇石を見たっけ~ ネギ・ニラやお酒の持ち込み禁止!!! よしよし、結構覚えてます。 久が原出世観音……あったあった…… しかし細いな~ 京橋築地料亭「新喜楽」の初代女将・伊藤きんさんがかつて住んだ地。きんさんは仏門に帰依して尼僧に……吉野の如意輪堂の観世音菩薩に模し、四千有余坪の当地に如意庵、喜楽庵、如意堂などを建立。きんさんは大正4年に永眠される。昭和20年の空襲で如意堂のみが難を逃れたが、全地所を野村證券に移譲。(それで現在は寮になってるんだ…) 久が原町の有志が野村證券に「なんとか如意堂は存置して~」と懇願し、願いが聞き入れられたようです。ちなみに、新喜楽は芥川賞・直木賞の選考会の会場として使われるなど、とても有名な料亭みたいです。サラリーマン時代に一度行っておけばよかったな~ 奥が如意堂ですが、歩行スペースがせまいので至近距離では撮れませんでした。 如意庵と彫られています。庵は焼けてしまった。 梅がチラホラ…… 観世音菩薩には正月しかお会いできないようです。かろうじて金色の台座が見えますから、全身金色の観音様なのでしょう。 如意堂手前右側…… 堂や石仏が置かれていました。 あやふやなことは書けないのでパス…… 南無阿弥陀仏…… 左の小さい石仏は宝永年間(1704~1711年)のようです。 後方からですが如意堂……修復はされてきているのでしょうが、焼けなくて良かった。 如意堂が敷地の奥なので通路が細い分けでした…… 出世観音を後にして、この日最後の訪問先・道々橋八幡神社を目指してこんな道……右が野村證券の寮 うひょ~ あったあった!! と大喜びの私……偶然の出会いは嬉しいです。 実は、この通りを右方向(南南西)に行った2つ目の信号[久が原3丁目]にも庚申塔があることを後日発見した私です。 出世観音前・久が原二丁目の庚申塔…… どちらも元禄時代のもののようです。きれいに花が供えられ、地元の方々の努力が伺えます。わずかですがお賽銭入れておきました。 出世観音前の交差点……今調べたら、田園調布駅から蒲田駅往きのバスで来られるみたいです。この後、近くの道々橋八幡神社を訪問して呑川沿いに徒歩で帰ったのですが、結構疲れていた私……知っていたら田調までバスに乗ったんだけどな~《おまけ》 西小山の喫茶店の手前にあるツルハドラッグは、開店前後は日々行列ができているのに今朝は人気(ひとけ)がなかった。もう売り切れちゃったんだろうと横目で店頭を見たらあるじゃないの……2~3日前から充分残っている箱ティッシュほどではないけど、並んでいたので買ってみました。 ぶら下げて喫茶店に行き「お店、困るでしょうからどうぞ」と言ったら「さっきお客さんが持ってきてくれたから大丈夫」とのこと。「お姉さんの家は大丈夫なの?」と尋ねたら大丈夫だと。「お客さん、みんなやさしいね~」と言っていたけど、常連ってやつはそんなもんだよ。「ないない」って言ってるオバチャンたちが居なかったので、仕方なく?ぶら下げて持ち帰った今日でありました。来週にはどこも元にもどるでしょうが、ながまるさん、不足してたら持っていきますよ~ お店は困るものね~
2020.03.06
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今日は旧ホシノ模型店の主・星野さんのご命日。 あれから4年あっという間に過ぎてしましたが、星野さんで購入し、応援してもらいながら作った物たちを制昨年月順に並べてみました。 2012年8月……子どもの頃以来、模型なんて作ったことがなかったのですが、何を血迷ったか同年7月に初めて星野模型店を訪問して取り寄せてもらった私の第1号。 透明パーツに瞬間接着剤を使ったら濁りました。「シンナーで拭いたら落ちますよ」と星野さん。Gクリヤーを教えてくれたのも星野さんでした。黒のサーフェーサーなんてなかったから白地に缶スプレーの黒。塗装の知識なんて何もなかったから、クリアーも吹きっぱなしでしたね。エンジンパーツなどが充実しているから良さそうだと心惹かれたのですが、いきなり1/12スケールなんて無茶でした。 2012年9月……ENZOのリベンジにと1/24スケール。エンジンもどきが入っているのが好きな私ですが、缶スプレーでのエンジンルーム内塗り分けは厳しかったな~ 2012年10月……F1に初チャレンジ。タイヤの造形跡はペーパーで削るんですと、後に星野さんに教わりましたっけ。 2012年10月……この車体色は店頭在庫がなかったので注文してもらいました。後に知るのですが、缶も瓶も塗料は同色6缶・瓶単位での受付とのこと。おそらく同車しか使わないだろう色の缶スプレーですが、申し訳ないことをしました。在庫切れの塗料の注文は幾度もお願いしましたが、いつも笑顔で受け付けてくださりありがたかったです。 しかし、サラリーマン時代だったのに、せっせと作っていたものです。仕事を頭から抜くには良かったようです。 2012年11月……デカール物に挑戦しましたが、これもクリヤー吹きっぱなしの時代でした。一応エンジンもどきが搭載されていますが、筆塗り。今ならエアブラシが使えるからもう少し上手に塗れたでしょう。 2013年5月……黒の塗り分けも缶スプレーだったから下手くそでした。 2013年9月……エンジンもどきが入っている、ってことで店頭在庫があったから買っちゃいました。メッキパーツはそのまま使っていた時代です。 2013年10月……初めてのアオシマ模型。星野模型店に置かれた制作道具などを見るのも好きで「これなんなの?」っていつも質問してました。パールクリヤーなんてのを知って衝動買いし、ちょっと使ってみたころです。 2013年10月……零戦を買ったついでに見つけたのですが、ファインモールドなんてメーカーは始めて知った私です。やっぱり缶スプレーのベタ塗り。ただ塗っただけのつまらない物ですが、今なら違う表情に仕上げられそうな気がします。 2013年11月……永遠のゼロをテレビで観たので作る気になりました。やっぱり缶スプレーでシュシュっと塗っただけだったのを、星野さんに薦められて買っておいたタミヤの墨入れ塗料で後に筆汚しをしました。これはハセガワですが、同時に買ったタミヤの零戦が未開封でもう1機ありましたっけ。 2014年1月……デカールを貼って、研ぎ出しなんてのを始めたころ。模型製作はご自身でも携わっておられましたが、ジャンルが違ったようで、この手はあまり詳しくはなかったですね。 2014年7月……ほとんど車ばかり作っていた私にバイクを薦めてくれたのも星野さんでした。ということで、これが私のバイク第1号。 2014年8月……調子の乗って2台目制作。ホイールに貼る線のデカールは辛かったな~ 2014年10月……エアブラシを使い始めたころでしょう。消費税が5%から8%に上がるというので、3月にコンプレッサーを頼んだらメーカーは在庫切れだという。4月の増税に合わせて値上げをするらしいとも聞いた。結局入荷は5月ぐらいになったと記憶していますが、星野さんの交渉で増税前の価格で入手できました。ネットでも安く買えたのですが、日頃の感謝を込めて星野さんにお願いした私です。まだサラリーマンやってたし、お金に余裕があったんですね。 2014年12月……調子の乗ってバイクを連作。やっぱりホイールには線デカールがあることを知りました。スポークじゃないことも知りました。 2015年6月……出来上がると、星野さんにメールで画像を送っていました。お店に行くとお褒めいただいたり、ホームページにアップしてくださったり。そうそう、このグリーンもタミヤの特別色。缶スプレーしかないから、申し訳ないと思いながらも注文のお願いをしましたっけ。迷惑をかけましたが、混ぜて作るなんて出来なかったものね~ 2015年8月……泥粒を付けてみたくて、タミヤメイクアップ剤・情景テクスチャーペイントなんてのもお願いしてしまいました。やっぱり6瓶のオーダーだったんでしょうね。ごめんなさい。 この時期、たまたま店頭で初めて師匠にお会いしたんですね。星野さんを挟んで三人でお話ししましたね。星野模型店がなかったら、師匠との出会いもなかったということで、星野さんには感謝しています。 2015年10月……2013年3月購入したのに、すぐ作らない私です。仮組の状態で、変則的なシートの入れ方を星野さんに相談した1台です。寿司屋のカウンターで2~3回模型談義をしましたっけ。あまり飲めないと言いながら、芋焼酎のロックをちびりちびりやりながら付き合ってくれましたね。「また行きましょう」の最後の約束は残念ながら叶いませんでした。 2016年1月……2014年に買っておいた初めてのハセガワ製品。ビニールホース? パイプ? がタミヤより細くて見た目は良かった。但し、差し込むプラ部分が折れることも……結構苦労させられました。 2016年6月……2016年当初から療養が始まり、たまにしかお店を開けないことになった星野さん。時折「明日お店にでます」とメールをくださいましたが、結局6月4日が最後の面会となりました。閉店を決めていたので値引き中だったため、初めてガンプラを買い、ドライブラシの練習用にしました。 2016年7月・8月オート三輪・ミゼット……完成時に写真をメールしたのですが返信はありませんでした。9月上旬に訃報を知りましたが、とっても穏やかな星野さん。残念です。 2017年3月……2015年1月購入。ピカピカ車を目指して模型作りをスタートしましたが、汚しも面白いと…… 2017年5月……2013年11月購入。買ったはいいけど、手に余るからほったらかしってのがたくさんあります。 2017年12月……2014年9月購入。車に飽きるとバイク。違うものに取り組むきっかけをくれた星野さんには感謝しています。今は飛行機もやってますよ~ 2018年5月……2014年7月購入。星野模型店以外でもタミヤオンラインやドイツレベルなど、押し入れに寝ている未制作がたくさんあります。視力と集中力の低下を言い訳にサボっていますが、今日をきっかけにまたチャレンジしてみます。 本当にお世話になりました。天国でも模型屋さんやっててくださいね。そのうち私も行きますから……???私も天国行けるかしら???
2020.08.20
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以前訪問した増明院に桜を見に行った3月23日…… 住宅街のど真ん中に鎮座する「鵜の木松山公園」入り口…… 去年「鵜の木一丁目古墳」の存在を発見した際、この公園に「横穴墓(おうけつぼ・よこあなぼ)・Tunnel Tomb」があるって知ったので、寄ってみました。 入り口を進むとジグザグのスロープ……右に行ってから左へ折り返すと…… 看板ありました。 公園の工事中に発掘された、古墳時代末期から奈良時代にかけての有力者の墓。この横穴墓は大田区の埋蔵文化財として保存されていると。入り口は透明な樹脂で塞がれていたから、覗いたけど真っ暗で何も見えなかった。照明が点くらしいけど、センサー故障だったのかしら? 大田区周辺に見られる特徴的な切石羨門構造をもつ貴重な横穴墓らしいから、見たかったな~ 台地斜面に横穴を掘ったことが良く分かります。 7号まであったらしいけど、その中でこの6号墓が最も大きいんだと。その他は塞いじゃったみたいでした。大田区周辺の台地斜面では、約260基の横穴墓が発見されているんだって。 スロープを桜の方に歩いて…… 振り返ると……なかなか綺麗でした。 でもって上がると…… 広い広い…… ちょいと遊んで……心地良い風が吹き抜けていきました。 南西方向に松松松……地元では「松山」と呼んでいたこの松林のある広場を、公園として整備したのは平成19年(2007年)。その時に横穴墓が発掘されたのね。 向河原、武蔵小杉のビルを眺め、高台だということがはっきり分かります。古代人がこの広場から見た景色はどんなだったか……大山や富士山はきれいに臨めたでしょう。 北側にも松松松……広さは約2,350坪だって。 北側の松の後方に行ってみたら、丘陵……元は「鵜の木公園」で、整備された松山と合体して「鵜の木松山公園」になったんだって。先輩だから「鵜の木」が先なのね。 大きな井戸……誰が何のために造ったのか? 何か祠があると思いきや…… 水路か??? 祠は、人工の小さな滝を流すんですね。夏には子供たちのジャブジャブ池になるということ……納得。 下りが怖い最近です。こちらからは車椅子やベビーカーは入れませんね。 旧鵜の木公園もそこそこの高台でした。 と言うことで、一山越えてきた私は、以前歩かなかった六郷用水の一部を通って密蔵院に向かいましたが、続きはまた……
2021.03.25
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<スバル インプレッサ WRC 2001> 以前、<アルピーヌ ルノー A110>なるラリーカーを作ったことがある。 最近は筆塗りばかりだったのだが、気候も良くなってきたし、たまにはスプレーやエアーブラシを使ってみようかと……今年5月に雷王模型店で見かけて購入したインプレッサのラリー仕様車を作ってみようと思う。 ちなみに、1/24 タミヤの本製品は、現在3,000円(税別)。雷王模型店は旧価格バージョンで2,400円だった。 2,400円にしてはパーツがたくさん。人形2体付き。塗装しない人の為にでしょうが、ボディーはそれらしい青色。「サーフェイサー吹くんだから白がいいのになー」と思うのは私だけか? おまけにホイールもゴールドっぽい色で仕上げられている。少々安っぽいのでこれも塗り直さねば… ボディーまわりを少し切り出してあてがってみた。シャーシに歪みはなさそう。エンジンもどきこそ付属していないが、ラジエターやエアーダクト等ボンネット内側のパーツはいくつかある。「なんとなく塗りにくそうな部分もあるなー」ライトポッドもそうだが、フロントスポイラーのラジエター開口部は斜めにして奥まで吹いてやらねば…… ルーフに付ける空気口も考え物。先に接着したほうが良いのだが、入口が狭いのできちんと塗装する自信と技術が私にはない。従って、今のところ別塗装で後付の予定だが、別塗装ではそれぞれの色味がきちんとそろわない難点がある。吹き付け回数を同じにしても、それぞれ塗装の際の距離と速度で微妙に異なるので始末に悪い。とは言え、「どうせ後で汚すんだー」と思えば少しは気が楽。 切り出してはヤスリがけをするが、リアウイングのパーツにヒケっていうのか凹みを発見。下側だったり内側だったりだが、つまらないことも気になるのが私の悪い性分。埋めるためにパテを置いた。 ついでにライトポッドのつなぎ目も気なりパテ置き。実車もここで繋いでいるのかもしれないが、私には目障りだ。後で汚すことを思えば、ここまでやらなくても良いのに…… と言うわけで、ボチボチ作っていきます。
2016.10.09
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赤坂にある懐石料理店の瓶詰だそうだ。 頂き物を怖いもの知らずお酒の肴に頂戴してみました。[椎茸 うま煮]……粒の揃った小さい干し椎茸で作られています。「甘くないから嫌だ」と、お袋の口には合わないようです。醤油と鰹節で、砂糖が入っていないのが私には大歓迎です。[うなぎ 山椒煮]……おそらく焼いた鰻を山椒と煮たのでしょう。こちらも甘くなくて良いです。煮こごりがまた絶品です。でも、お値段を聞いてビックリ……うなぎ1瓶、これっぽっちで3,800円ですって!!! 大事にチョビットずつ頂きます。
2017.10.16
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[学芸大ホークス]……なんて、草野球チームの名前みたいだけれど、床屋です。「赤」「青」「白」のストライプがクルクル回る床屋の看板……[サインポール] と言うらしい。金鳥サンポールの一字抜けだが、ネイティブ の発音を聞いたらトイレ洗剤が頭に浮かぶでしょう。 床屋の看板がなんで3色か? については諸説あるようです。 よく耳にするのが、赤は動脈、青は静脈で白が包帯を表していると言う説。外科医が理容師を兼ねていた時代から生まれたらしいが、血管に動脈と静脈の2種類があることが分かったのはもっと後の事らしいからチョット怪しいかも…… 動脈、静脈の区別がつかなかった時代のイギリスでは、血液を表す赤と包帯の白の2色がサインポールらしい。3色が世界共通と思いきや、さすがイギリス人だわ。 でもなんで外科医が理容師もやっていたのかしら? 外科医じゃ儲からなかったのかしらね~ ワーテルローの戦い(1815年)で、フランス国旗を巻きつけた棒が野戦病院に立てられたことが起源とする説もあるそうだが、まぁそんなことはどうでもいいですね~ 昨年2月、西口から東口に引っ越して以来お世話になっています。散髪椅子は5席ありますが、たいてい4人のスタッフで対応しています。年中無休(年末年始は休みでしょうが)だから、交代で休みを取っているのでしょう。 お客一人に対して30分で終わる(カットだけの人はもっと早い)ので回転が良く、従って待ち時間も短いのが私にはありがたいです。指名などないから、誰に当るかはその日のお楽しみ……みなさんチャンとやってくれるし、頭などあまり気にしない私であります。以前通っていた床屋ではやってくれなかった眉毛カットも様子をみてやってくれます。眉毛も気にしない私ですが…… スタンプ10コでサービス……フェイスマッサージをしてくれるみたいですが、まだ使っていない私です。暇そうな時にお願いしてみるつもりでとってあります。 初めてお邪魔した時にもらったスタンプ・カードですが、[シルバー]のハンコが押してあります。勿論60歳は過ぎていましたが、自分もシルバーなんだと少しショックでした。シルバー人材センターとかありますが、60過ぎるとなぜシルバーなの? ブロンズとかゴールドはないのかしら? 高齢者、後期高齢者なんて区分けがされる時代だから、80を過ぎるとブロンズで100を過ぎるとゴールドなんて言われるようになるかもしれません。ちなみに私の運転免許証はゴールドです……車乗らないから当たり前ですね~ 早さ以外、私にとってありがたいのがシルバー割引であります。土日祝を除く平日しか適用されませんが、通常1,730円(シャンプー、髭剃り付き)のところを1,600円でやってもらえます。以前世話になった普通の床屋は五千円弱だったから、比較になりません。 仕事をしなくても給料をもらっていたサラリーマン時代は、気にせずお金を使っていた私ですが、やっぱりシルバーにふさわしい生き方をしなければと改心……東急ストアの5%off日もサンドラッグの値引き日もちゃんと頭に入っている私……自画自賛してもなんにもなりませんね~ 2兆円、と金額ありきで後から政策パッケージを作る政府……800万円だ850万円(増税対象)だと線引きする政府……国民はみんな僅かな額でもお金を大切にしているんだから、好き勝手に税金を使ってもらいたくないものだ。身を切ることはいつになったらやるのかな~ さてさて、連れ合いの嫌いなボヤキが始まりそうなので散歩に行ってきましょう。どっちに向かうか風まかせです。
2017.12.12
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アンフィニ RX-7 きれいなブルー? 水色? この色はあまり見たことがありませんでした。 新しい散歩道で見かけていました。年中 雨ざらしのようですが、いつもピカピカにしておられます。しかし素晴しいフォルムの車です。 青空と雲を連想させる白いホイールも似合っています。 室内も盗撮させていただきましたが、反射で撮れませんでした。ステアリングは[momo]ってありましたから、やっぱり車がお好きな方なのでしょう。 マフラーはこんなに太かったかしら? 「ロータリーエンジン」が大好きだった私……ドイツで生まれた技術だが、小型のケージの中を三角のおむすび型のローターが回るような仕組みのエンジン。 エンジンはピストン機関(往復運動)のレシプロエンジンだけだったのに、実用化が難しと言われたにも関わらず世界に先駆けて、回転運動のロータリーエンジンを量産車に乗せられたのはマツダだけ。日本の誇りだと思う。 46年に東洋工業(現マツダ)に入社し、63年にロータリーエンジン研究部長に就任して以来、マツダのREを牽引し続け「RE(ロータリーエンジン)の父」と呼ばれた山本健一さんは昨年末に亡くなった(95歳)。 67年、念願のREを登載した「コスモスポーツ」を発売。既存のレシプロエンジンと比較して小型なエンジン(RE)を活かした車体デザインは斬新かつ魅力的だった。レシプロと比べてトルクと燃費は劣るが、電気モーターのようなREのファンは多いだろう。84年に社長、87年に会長、92年に相談役最高顧問となり次のRE搭載車も視野に入れておられた山本氏。誠に残念だが、世界で唯一のロータリーを体験させてもらった者として、遅ればせながご冥福をお祈り申し上げます。 Mさんが乗っておられたのは2代目RX-7だったかしら? 履いていたタイヤのせいでしょうけれど濡れた白(黄)線を踏むとすべる感じが気になりましたが、0~130㎞/hあたりまでの加速感は気持ち良かったですね。 ロードスターには乗った事のない私ですが、RX-7はコンパクト・スポーツカーを代表する1台です。 残念ながらRX-8は好きになれない私であります。 昨日は連れ合いが義母に付き添って墓参りに出向いてくれたし、天気も良かったので、独り 高枝切りハサミで植木をチョキチョキしてしまいました。日頃使わない指の個所に水ぶくれができる一歩手前でした。今日こそは、と思いながら中々開始しない飛行機作りですが、今日こそ今日こそ頑張ってみましょうか……
2018.06.02
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すっかり秋めいてきました。 背の高い木にポツポツポツと赤い実がきれいです。鳥が啄んでいる姿はあまり見ませんから、きっと美味しくないのでしょう。 こちらは背の低い木です。珈琲豆に見えるかも? 色は良いけれど苦いのかもしれません。 柿も少しずつ色づいてきました。24号の強風にも耐えたみたいです。 鳥たちの大好物ですが、オレンジに色づくまで彼らは突っつきません。美味しい時期を色で見分けられるのでしょう。それと、彼らはあっちこっちと食べ散らかしません。口を付けた実を、数日かけて最後まで完食します。えらいね~ 25号は風台風らしい……落ちなければいいんだけどな~
2018.10.04
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4月13日……別所坂を上り、恵比寿駅近くから曲がってみました。 自衛隊だと思っていたのですが…… 門はしっかり閉まっている……表札はない… こっちは開いていました… 艦艇装備研究所……防衛装備庁だって……船には興味がありません。防衛装備庁の任務として『厳しさを増す安全保障環境を踏まえた上での技術的優越を確保しつつ、優れた装備品の創製を可能とするため、先進技術動向の把握と、これを踏まえた将来の研究開発の方向性を示す技術戦略の策定、国内外の様々な研究開発関連組織との連携、先進的なデュアルユース技術の積極的な取り込みなどを推進し、研究開発事業を通じた技術力の強化を図ります。』と、長い長い一文が同庁のHPに書かれていました。デュアルユースなんて、私のような年寄りには優しくないです。注釈入れといてくださいな~ 緩やかに上っていきます… カーブ……右手はずっと防衛装備庁……自衛隊はもっと奥みたいです。 坂の名前はないみたい…… 外国人が写メってました……フェイスブックにでも載せるのかしら? なんか良いものあったのかしら? 進行方向左は恵比寿駅……用がないので行かない私… 厚生中央病院見えた……「新茶屋坂通り」にぶつかります。私は右折… 新茶屋坂……南西に向かって下って行きます。ちょうど10年前の3月に、連れ合いと歩きましたっけ……時の経つのは早いな~ あの頃僕は若かった… 私は左の道…… 上から見た新茶屋坂……落ちたら危ないよ~ 一瞬「えっ?」って思ったけど…… 目指す細い道、ありました。 茶屋坂……入り口… 車も来るけど、結構細いです…… 10%……角度じゃなくて勾配だけど、平均した角度で下ったり上ったりしている訳ではないから当然なんでしょう。勾配とは「水平面に対する傾き」なのに、なんで角度じゃないの? と連れ合いから聞かれそうです。 はいはい、この「10%」って数字は、100mを水平に進んだ時に、何m上るか下るかを指しているんです。 看板の三角形が、直角二等辺三角形の坂だとすると、水平に100m進むと100m下がるから勾配100%。よって、傾き45度の坂があったら「100%」と表記されます。 もう一つ、直角三角形の一つの鋭角に対する、底辺と対辺の比をtan(タンジェント)と言いますが、直角二等辺三角形の場合は鋭角が45度と決定しているので、100(対辺)÷100(底辺)=1 という計算からtanは1となります。 この茶屋坂の場合は、100m水平に進むと10%=10m下るってことですから、10÷100=0.1 となり、角度は tan 0.1051の近似値約6度と推察されます。大した坂ではないですね~ 遠景は目黒駅近辺でしょう…… 江戸の初め、この辺りの眺望のよいところに1軒の茶屋があったと。徳川三代将軍家光が、目黒筋遊猟(たぶん鷹狩り)の帰りにしばしば寄ったと。茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛した家光は、「爺、爺」と話しかけたので、いつしか「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったと……(目黒区HP) 現在はその正確な場所は分からないそうです。 茶屋坂の途中……右手は目黒清掃工場に向かって下り。びっしりと住宅が建っていますが、昔は樹木しかなかったでしょう。 曲がって…… ちょっと直進……これ6度じゃないよな~ そして直角…… ふり返るとこれ……上から下への一通だけど、どうやって駐車したのかしら? ここらで終わりかしら? 坂下から…… 茶屋坂標識……ありました。 先も、もう少し下ってます。 後ろの正面茶屋坂……二段グリーンのようです…… 右手は高台…… 二又路合流……私は左の道をきました。 狭い三角地…… 茶屋坂街かど公園…… 防災具置き場のための公園みたいです。狭いし灰皿はありませんが、花壇だけは色とりどり…… 茶屋坂の清水と碑……だって… かつて茶屋坂には、きれいな清水がコンコンと湧いていたと。家光のみならず、八代吉宗も祐天寺詣でのおりには必ず訪れ、清水でたてたお茶を楽しんだと。近年では、東京大空襲の際も消防用水、炊事用として付近住民の命を救ったとのことだが、残念ながらマンション建設が始まってから水脈が変わったためか、止まってしまったとのことです。 街かど公園からすぐ…… 清掃工場緩衝緑地……初めて踏み入りました。 正門かしら? この後、もう一つ細い坂を訪問しましたが、今日はこれでおしまい。 たまには降らないと困るのですが、今日はいやな雨……まだ降らないだろうと、手ぶらでモーニングに行ったのですが、降っちゃいました。持っていると降らないのに、ないと降られます。帰りには連れ合いに近くまで傘を持ってきてもらった私……申し訳ありませんでしたが、またよろしくね~
2019.04.24
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昨日、義母に付き添って出かけた連れ合いが「何か買って帰りましょうか?」と言ってくれたので、崎陽軒のお弁当をお願いしました。 通常はシウマイ弁当(崎陽軒はシュウマイとは言わない)なのですが、昨日はちょっと贅沢をさせてもらい幕の内……220円高いです。店頭に納められる数がシウマイ弁当に比べて少ないので、タイミングを逃すと売り切れになってしまいます。先に買っておいたのか? ちゃんとゲットしてきてくれました。 蓋を開けるとこんなの……私にはご飯がちょっと多いけれど、頑張って完食しました。残したら申し訳ないので……シウマイ弁当・771kcalに対して、こちらは924kcal……何もしていないのにカロリー摂りすぎかもしれませんが、ノンアルだったからいいか~ シウマイ、赤魚照り焼き、玉子焼き、蒲鉾、里芋煮、人参煮、海老フライ、豚ロースかつ、鶏唐揚げ、筍煮……そうそう、ご飯の脇に菜の花醤油漬けと紫色のきゅうりのキューちゃんみたいなのも置かれています。筍煮はさほど好きではありませんが、充実のおかずに大満足でありました。お酒飲めたら良かったんだけどな~ 果物は進んで食べないのですが、出してくれたので頂戴しました。お盆のお供えにしてあったのでしょうが、食べ時のメロンでありました。送り火には参加したので、ご先祖様も許して下さるでしょう。ご馳走様でした。《ちょっとブツブツ》 日本政府がある日突然突き付けた半導体素材3品目の輸出管理強化によって、日韓関係が最悪の状態になっているらしい。全面的な経済戦争に突入する瀬戸際まで来ていると見る筋もあるようだ。慰安婦合意の破棄、レーダー照射問題や元徴用工に対する賠償支払い命令など韓国の一連の流れも理解しているが、どこまで考えての処置だったのか一国民としては理解に苦しむ。結果的に日本企業にも打撃を被る可能性が大であるにもかかわらずの強攻……日本国民はみな大人しいが、報道される韓国での騒ぎを目にすると危機感というよりも悲しみを覚える。 月初にも呟いたが、なぜG20の折に首脳会談を行わなかったのか? 韓国政府からの要請はあったと聞くが、立ち話すらなかった。開会の際のあの握手はなんのための握手だったのか? 閉会2日後の強化策発表だったが、開催中にも決めていたはずだから、安倍首相が文大統領に直接打診しても良かったのでは? と思うが、話し合いが嫌だったのだろう。 今回の措置に踏み切った理由を「安全保障上の脅威による輸出管理の見直し」と日本政府は主張している。韓国から不正輸出がなされるなど不適切な事案があったとするが、具体的な内容は伝えられていない。外交上の機密なのだろうが、一つでも二つでも事実を公表することで韓国国民にも理解を得られるやもしれない。政治の問題で両国民感情にさらなる亀裂が入ることだけは避けてもらいたい。「安全保障上の脅威による見直し」とし、「元徴用工問題の対抗措置ではない」と政府は主張するが、本音はいかがなものか? 世耕弘成経済産業大臣は7月3日、ツイッターにこんな投稿をしている。『輸出管理制度は、国際的な信頼関係を土台として構築されているものであり、経緯①~③を勘案した結果、韓国との信頼関係の下に輸出管理に取り組むことが困難になっていると判断し、厳格な制度の運用を行い、万全を期すこととた。』(文末は「こととした」と言いたかったのだろうが、世耕氏の文面通りとしました) 経緯①には「…近年は日本からの申し入れにもかかわらず、十分な意見交換の機会がなくなっていた。」経緯②は「…輸出管理を巡り不適切な事案が発生している。」としている。 経緯①は、日本が本当に全力で取り組もうとしたのか? 経緯②での不適切とされる内容が不明であり、満足のいかない私。韓国にも言い分はあるだろうし、行き違いもあろう。結局、日韓で膝を交えての対話以外に解決策はない。 さてさて、日韓どちらかに肩入れするつもりはないが、経緯③は『さらに今年に入ってこれまで両国間で積み重ねてきた友好協力関係に反する韓国側の否定的な動きが相次ぎ、その上で、旧朝鮮半島出身労働者問題については、G20までに満足する解決策が示されず、関係省庁で相談した結果、信頼関係が著しく損なわれたと言わざるを得ない。』と書いてある。報復ではないと政府は言うが、いち早く世耕大臣は元徴用工問題も土俵にあげ、そう受け止められても仕方のない文章を残している。結局のところこれが政府の本音なのだろう。 互いに言葉も文化も違うがゆえに問題を解決するという作業には多大な労力がかかる。利害関係のある事案に関しては、落としどころも難しかろうが、どうか、半日・半韓感情が増幅するような政だけは回避されるよう願っている。
2019.07.18
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12月4日の散歩です。 11月29日に九品仏から五島美術館まで歩いたのですが、独り反省会で見落としを発見したので、ごく近い所ですが悔しいので再度歩いてきました。本当に暇な私です。再訪しても、また見落としがあったりするんだけど…… どこの道かと言えば、五島美術館正門を出て上野毛通りを越え、覚願寺門前を通過した辺り……覚願寺は前回偶然出会ったからここまでは迷わずに到着。 カトリック上野毛教会……昭和27年(1952年)設立だそうです。聖堂、信徒会館、修道院、黙想の家、管区長官の五つの建物が敷地内にあるようですが、奥深い敷地なのでしょう。 キョロキョロしながら先に進むと…… 右手にありました。上野毛稲荷塚古墳と柱に書いてありますが、見落としそう…… 左の足元にはこんな案内……「緑地」って言うのに…… 残念ながら立ち入り禁止……前回歩いた時は「御岳山古墳」が立ち入り禁止でした。 上野毛稲荷塚古墳……『この古墳は多摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する野毛古墳群を構成する古墳の一つで、その西端部に位置し、標高33mほどの舌状台地の上部に立地している。(世田谷区教委)』……狐塚古墳、御岳山古墳、野毛大塚古墳など一連の古墳群なのでしょう。標高33mは、五島美術館の高低差と一致します。『前方後円墳で、規模は全長20数m、後円部の高さ約3m……野毛大塚古墳に先行する初期の前方後円墳である可能性が高く、野毛古墳群中で最初に築造された首長墳と考えられる。築造された時期は古墳時代前期、四世紀後半と推定される。』 とにかく古いことだけは理解しました。 CULTURE INTERNATIONAL CLUB……だって… 料理とフランス語が学べるらしい……ちなみに[CULTURE]は、[キュルチュール]と発音するみたい…… いったん丸子川に出ようと……突き当りが右にまがるL字坂。坂下に石碑が見えました。 ふり返るとこんな感じ……くだりだから楽々。でも、下ったらまた上りもあるってことだけど…… 明神坂……って言うそうな…… 右へもまだ下り……目前の丸子川にかかっている橋が明神橋だから、その名が付いたんですね。初めて通った坂ですが、下まで行ったら「なぁーんだ!」「ここに出てくるのね~」 [銀色通信72]さんに感化されて丸子川を歩き、以前も載せたし充分見覚えのある変則五差路の交差点です。 丸子川沿いに歩き、第三京浜の手前通過…… 目指す道ではありませんが、ふと左を見ると…… 石碑発見……こんなのを集めている、へんな私…… こんなのありました……以前は気付かなかった……本当に見落としが多いです。 [おもいはせの路]……狐塚古墳の近くの道路で先日見かけたのですが、国分寺崖線散歩道のことだと理解しました。ちなみに、この崖線の玉川地域をおもいはせの路と称し、砧地域には[きしべの路]という散策ルートを世田谷区が用意したみたいです。今度世田谷区民会館に行って、マップもらってこようかしら……総合支所区政情報コーナーで配布しているって…… 目前の橋を渡って左に行くつもりだったのですが、紅葉が目に入ったのでちょっと直進…… 善養密寺……赤い橋と紅葉 以前訪問したので奥までは探検しませんでしたが、紅葉だけ楽しませていただきました。今はすっかり散ってしまったでしょう…… ということで今日はここまで……
2019.12.17
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朝日新聞・別紙「グローブ」(2020.1.5)より…… 連れ合いの愛するスナフキンが表紙を飾っていた。 ギターもハーモニカも持っていないな~ と思う私。原作の挿絵なのだろう……子供向けアニメには登場しないパイプをくわえている。 自由を愛するスナフキンの計画って何だろう……他人を巻き込まず「ひとりっきりでやる」ってとこが恰好良い。 ムーミン「義務って何のこと?」 スナフキン「したくないことを、することさ」 きっと、何かを禁止されることが嫌いなスナフキンらしい計画だろう。「孤独」ってなんだろう……「孤独のグルメ」は独りで食べるから孤独としたんだろうが、私は独りで飲み食いするのが好きだし孤独とは感じない。(連れ合いと一緒は楽しいけどね…) 居酒屋のカウンターの隅っこでおとなしく飲む酒は楽しい。おしゃべりなお客から話しかけられるのは好まない。やたらに話好きなお客をよく見かけるが、そんな彼らにこそ孤独を感じる。「孤独ってなんだ?」と尋ねたら、「人の中にいることさ」とスナフキンは答えるかもしれない。 百年の孤独……宮崎県の黒木本店が作っている麦焼酎。ネーミングは、コロンビア出身のノーベル賞作家・ガブリエル・ガルシア・マルケスの代表作「百年の孤独」からとか。一時飲んでいたのは何十年前のことか? ウイスキーみたいで美味しいんだけど、高いからな~ 昨日、関所への出勤時刻になっても下りて行かないので、心配した連れ合いが上がってきて言った「なんだ、作ってるんですね~」……今年はちゃんと取り組もうと、Pfalzの翼に田植えの合方の穴開けをやっていた。 6か所目で大失敗……0.2mmのドリル刃先が折れた。おまけに、折れた部分が翼に埋まってしまった。左が折れたドリル。 ピンバイスに咥える部分の直径が1mmあるので、咥えやすいので使っているが折れやすいみたい。0.2mmのドリル部分の長さは1.4mmなので、それ以上深い穴を開けるには全体が直径0.2mmの物を使う。こちらも以前折ってしまったので在庫がない。買ってこないとならないようだ。0.3mmは健在だけど、どうしても0.2で行きたい私……熱が冷めないうちに調達しよう。 ちなみに、[AXIAL]さんは0.1mmも使うようです。[シゴーニュ]さんもお使いなんでしょうね~ みなさんすごいです。
2020.01.06
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11月28日の品川散歩は今日を含めてあと2回…… 天祖諏訪神社脇の涙橋から旧東海道を南へ……「ふぐ」の幟が呼んでいました。割烹「さしろ」…小さい店ですが、近所だったら必ず訪問することでしょう。河豚は身欠きを調達して来れば自分で調理できるようになったからいいんだけど。魚にはこだわり続ける主らしい。時短営業も乗り越えてくださいませ。 大井競馬場・しながわ区民公園……旧東海道に沿って東側に広い公園があるみたい。野球場やテニスコートもあるらしい。でもって、さらに東には大井競馬場があります。競馬場は勝島2丁目で、公園は3丁目。勝島は人工島ですが、公園は後から勝島運河を埋め立てたようです。 そうそう、左端の自転車に乗った子どもの脇に品川区の「24番」道標がありました。反対側を歩いていたら気付いたのですが、残念。偶然にも写ってはいるから良しとしましょう。 左は鈴ヶ森中学校……右手先のマンションに…… すごい所にある神社…… 濱川神社……立派な社号碑。残念ながら鍵がかかっていて入れてもらえませんでした。ポストは神社名があったから、訪問した証にお賽銭入れて来ようかとも思ったけど止めておいた私です。 何はともあれ、天祖諏訪神社の兼務社・7社を制覇したことは嬉しい限りです。 しかし、よく歩いたものですが、失敗もあります。この日も大失敗。ここから3ブロック手前にあった「海運稲荷神社」に気付かなかった私。駐車場の奥に鎮座していたから目に入らなかったようです。立派な鳥居もあるようですが、個人所有のお稲荷様でしょう。 右手に寺院…… 鈴森山大経寺……鈴ヶ森刑場が開設された慶安4年(1651)年頃、無縁受刑者供養のための堂宇が建立されたことに始まり、刑場が廃止となった明治4年(1871年)に「旭松庵」と称し処刑者供養を担ってこられたと。大経寺となったのは、昭和17年(1942年)に品川蓮長寺42世慈洽院日完上人が開山して以降とのことです。 門前に「山門不幸」の木札……合掌 ※ 蓮長寺は2年程前に行きました。 槍の先のような大経寺境内に、供養塔や処刑に使用したといわれる台石が並んでいます。第1京浜の拡幅工事のために、そうとう縮小されてしまったらしい。工事現場からは数百もの頭蓋骨が現れましたそうです。南無妙法蓮華経 手前は水難者供養塔。地域の方々と一緒に、大経寺は様々な方の死を弔っておいでです。 火炙台…… 徳川の時代ですが、生きたまま焼き殺すなんていただけない。冤罪もあったことでしょう。無念の声も聞こえてきそうな気がします。 花に夏ミカンに供養塔…… 磔台……「はりつけだい」と読むそうな。 『最初の処刑者は、慶安4年の由井正雪の乱に加わった丸橋忠弥だといわれ、他にも平井(白井)権八、天一坊、八百屋お七など、歌舞伎や講談でおなじみの人物がこの地で最期を迎えました。』(しながわ観光協会より) 天一坊は、中井貴一主演の雲霧仁左衛門で登場したから知っています。 後方も道路……ほんとうに狭い境内です。 鯉塚は漁師さんたちが建てたのかしら? 鯉のみならず、あらゆる生き物への感謝と供養でしょう。左の祠が気になりますが、調べられません。 罪人を大っぴらに供養することが出来なかった村人たちは、密かに手を合わせていたことでしょう。 と言うことで、刑場跡の後半はまた……
2021.01.18
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1月31日の散歩…… 品川神社境内をぐるっと回り、参道の石段頂上に来たところ……方角は真東!!! 中ほどまで下りてくると…… 燈籠の所に…… 富士塚登山口の鳥居……登ることで本物の富士山に登ったのと同じ御利益があるとする「富士信仰」に基づく人口の富士塚。 一号目に……お賽銭箱がちゃんとあります。 猿田彦神社……天照大御神の命により天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したのが猿田彦大神で、街道の出入り口に祀られる道祖神として伝えられてきたもの。猿の字を冠することから庚申信仰と結びついたともされるそうです。だから庚申塔には三猿が付き物なのね~ ※ 「天孫降臨」= 天照大御神の孫たちが地上に降臨したこと。従って、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は孫です。 足神様ってのは良く分かりませんが、健脚の神様かもしれません。 数歩上ると二合目……使われているのは富士山の本物の溶岩らしい。 役小角と思しき人を守っているのは鬼かしら。柵があって幽閉されてるのに、笑顔の役小角。 三号目に「道行」石碑……この石段の上が五合目 五合目からほんの少しだけ平らな所を歩いて、6合目……人が立ち去るのをしばし待っていたけど、景色を楽しんでいたから待ちきれなかった私です。ここからが怖いんだな~ 本格登山開始……『富士信仰の集団・富士講の人々が富士山の遥拝(ようはい)場所として、あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山(つきやま)』 ※ 遥拝=はるかに隔たった所からおがむこと。 右の碑には「人丸大明神」……万葉歌人の柿本人麻呂を祀る「人麿(ひとまろ)神社」(奈良県橿原市地黄町)ってのが存在するらしく、江戸時代以降に、人丸大明神社・柿本人麻呂大明神と称したようです。人麻呂を祀る社寺は全国にあるらしく、東京では西久保八幡神社に人麿社があると。歩いては行かれないな~ 左の碑は「寒緑松本先生碑」って書いてあるのか? 幕末に生きた会津藩の漢学者・松本寒緑(まつもとかんろく)のことらしい。小さい漢文は何とか識別できても理解はできませんが、寒緑の足跡をエピソードと共に綴ったらしい立派な碑。死後16年経って友人や弟子たちが建ててくれるとは、尊敬できる人物だったことでしょう。 左上は安政元年(1854年)と読めるんだけど、富士塚ができる前……どこにあったのか? そして、巨大な石碑をよくぞここに持ち上げたものです。 私のような年寄りには危険極まりない。チェーンがあっても、つかまるとぐらぐらするから余計に危ないです。落ちちゃう人は居ないのかしら? 九合目到着……あと三歩!!! 富士塚が築かれたのは、富士講全盛時代の江戸時代じゃなく、なんと激動のさなかの明治2年(1869年)なんだと。北品川宿・丸嘉講社の講中300人が一生懸命造ったのに、神仏分離政策で一時破壊。それでも挫けず、明治5年(1872年)に再築し、大正11年(1922年)第一京浜国道建設の時現在地に移築されたと。(品川区指定有形民俗文化財) 山頂から品川神社境内……残念ながら、富士山は望めません。 絶景かな!!!……流石に東京随一の高さ比高15mを誇る富士塚でした。眺めは良かったけど、帰りは上り以上に怖かった私でした。 遠くにレインボーブリッジの極々一部が見えるんだけど、連れ合いは探せるかしら? と言うことで、品川神社は終了……今日は何をしましょうかしら?
2021.02.22
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3月の桜散歩を割り込んだから、今ごろになってしまったけど、なんとなく蒲田まで行った2月22日…… 京急蒲田駅のそば……駅のホームの音(夢で逢えたら)を聞いて来ればよかった~ 立派な構え…… 蒲田八幡神社参道口…… 鳥居扁額……当神社宮司さんは、薭田神社、椿神社、北野神社、女塚神社、御園神社を兼務しておられるそうです。薭田神社と椿神社はこのあと寄りました。北野神社は以前改修中に見かけたから、女塚神社と御園神社はそのうちに訪ねてみましょう。 参道右側は神輿庫でしょう。 真南に向いた社殿に向かって真っ直ぐ伸びる参道…… 手水舎……柄杓はなく、手を出すと水が出る蛇口がありました。コロナ対策ですね~「満願火伏稲荷神社」……御祭神・宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) 銀杏の大木の根方にあった社は、戦災も免れて、蒲田における数少ない建物として残ったと。そのため、「満願火伏稲荷大神」として火災予防の守り神と称えられているそうです。旧社殿は外からは見えないけど、そのまま現社殿の中に納められていると。 明治維新百年 御社殿復興十周年……と刻まれています。昭和43年(1968年)の石碑ですから明治維新は1868年。御社殿復興は昭和33年(1958年)ということになります。 立派な社務所……兼務社の御朱印はすべてこちらで頂けそうです。 蒲田八幡神社社殿…… 創祀は不詳らしいけど、境内に小円墳があったことや言い伝えや伝説、あるいは史実などから相当古くから聖地として村人の信仰の場であったらしい。 蒲田村より新宿分村に当たり、鎮守の神として「薭田神社」から行基作の神体三座のうち、春日の像一体を分かちお祀りした「新宿八幡神社」が始まり。新宿分村は平安末期か鎌倉初期との説もあるようだけど、諸般の事情を推論して慶長5年(1600年)を新宿分村、当社御鎮座と定め、平成12年(2000年)に御鎮座四百年祭を執行したそうです。 明治維新となった折の神仏分離によって、別当妙安寺に移された春日の像は、残念ながら戦災によって焼失したと。妙安寺はお隣でした。 社殿扁額……これは何なのでしょう。初めてお目にかかりました。 御祭神は誉田別命(応神天皇) 昭和20年(1945年)4月15日の戦災で社殿は灰燼(かいじん)に帰したけど、たちまちのうちに再建気運が勃興(ぼっこう)。戦後復興していく蒲田の中心にあったため、昭和24年(1949年)8月に新宿八幡神社を改め現在の「蒲田八幡神社」と称えるようになった。 おみくじと絵馬……奥に鳥居…… 社殿右側……美しい八幡造……梅は時期外れになっちゃいました。 記念碑にもあったように、昭和33年(1958年)に社殿を竣工したけど、60周年を目途に大改修工事を行い、平成30年(2018年)に現在の荘厳な社殿に変身したと。 社殿右奥に裏参道……実は、2018年10月21日に呑川を河口まで下った帰りに、こちらの外を通った私。疲れていたから寄らなかったことを悔いていての再チャレンジでした。御社殿復興六十周年記念例大祭が斎行された直後だったようです。 社殿の右手には境内社の天祖神社『この神社はもとお伊勢の森(現・蒲田四‐二四)に御鎮座する社でありましたが、明治四十三年五月二十七日、現在地に移転して境内末社となりました。』(同神社HPより) 明治11年(1878年)奉納……石碑には『国民崇敬の精神的中心として仰がれる天照大御神は、日本人の心のふる里である伊勢神宮を総本宮として、全国一万八千社の御分社が天祖神社、または神明社となって各地に鎮座されています。……』に続いて、天祖神社移転が記されています。 御祭神は「天照大御神(あまてらすおおかみかみ)」「日本武尊(やまとたけるのみこと)」……社殿同様にこちらも2018年に改修工事が行われたのでしょう。 梅が懐かしい…… と言うことで、今日はこれでおしまい。 朝、病院への行き帰り時は止んでいたのに、また降っている雨。何をしましょうか……
2021.04.05
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今日の「My First JUGEM」……『鵜の木松山公園から観蔵院』今日の「気まぐれなページMkⅡ」……『チューリップ咲いた……』
2023.03.25
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2月20日……「二子玉川のお寺に行ってみてください」と、連れ合いに言われていた私……それじゃ~以前丸子川沿いから見上げたお寺に寄ってからにしようと出かけました。 以前見上げたお寺の場所を地図で確認したら、ごく近隣にも別の寺院があったので先にそちらへ寄ることに。駒沢通りで環8を越え、多摩美からこんな住宅街を西へ来たのですが…… 迷子の私……「この辺の一画にあるはずなのにな~」 キョロキョロ……ぐるぐる回るのだけれど見つからない……なんでやねん!!! 空中渡り廊下は寺ではないはずだと決め込んで、直進はしません。独り反省会で地図を見たら、インターナショナルスクールみたいです。 法徳寺山門……途方に暮れたころ出会いました。やれやれ……スマホを持っているのに、見ない、見られない私がおバカさんです。 山門前の石仏…… 馬頭観音……かしら? 山門をくぐります。お墓参りの方みたいでした。 左は枝垂れ桜でしょう。かなり寺社を訪問していますが、枝垂れ桜の樹、最近よく目にします。 福来山 法徳寺本堂……浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来とのことです。 本堂の扁額……福が来る……良いですね。 本堂の斜め前……後ろは墓地でした。 何かしら? と思いながらも手を合わせる私…… 筆 塚……逆光は苦手です……困るな~ 脇にありました……法徳寺、開基は地元の旧家・白井法徳さんという方みたいです。本名は重安さんだと…… 水子地蔵尊……お花がたくさん……ジュースもありました。 三千萬遍供養塔…… 三千萬遍供養塔脇のカエル……上手に正座しています。 ペットたちの供養墓かしら? ドナルドダックも…… 桜花浄苑……永代供養墓でしょう。比較しては失礼かもしれませんが、ペットとは明らかに大きさが違います。 江利チエミさんのお墓……命日(2月13日)前後に、健在だったころは高倉健さん毎年来られていたそうです……私も手を合わせてきました。「これでだったんですね~」と、連れ合いは合点がいくでしょう。先日、理由を言わずに彼女の名前を口にした私です。 テネシーワルツの音符……台座に刻まれていました。 私にとっての江利チエミさんは、歌手ではなくサザエさん……実写版サザエさんは、まさにはまり役でした。波乱にも満ちた短い生涯でしたが、明るくチャキチャキした姿は脳裏に残っています。 法徳寺の山門を出て右に行くと…… 行火坂……たぶん……下って突き当たった道が「行善寺坂」…左(南)へ下っていきます。次に私が目指すのは行善寺なので、この坂は下らずに右に行きました。下ってまた上るの嫌だものね~ 瀬田貝塚跡……行善寺へ向かう途中にありましたが「ほんまかいな?」とものすごく不思議に思う私。この地点は高台です。次にアップする「行善寺」の写真で、どれだけ高い所かはっきりします。ここが海だった? あるいは海岸に近かったとは…… ということで、今日はこれでおしまい…… 昨日はつまらない絵だったので連れ合いは少々ガッカリしていました。写真が多いのが好きみたいです。今日は25枚と少なめだけど、堪忍ね~ 昨日の散歩の写真整理と反省会もしないとならないからね~
2019.02.25
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5月26日……中央町、五本木、祐天寺なんて地名をみながら上目黒に入りました。 寿福寺参道入り口……野沢通りに面しています。 左隅に、ひっそりと…… 参道の直線がとても良い雰囲気でした。 山 門……門前にお目当ての地蔵尊と庚申塔があります。 山門の扁額……「新清山観明院壽福寺」天台宗のお寺… 相生地蔵とよばれ信仰されている2軀(たい)の延命地蔵尊 門前左には庚申塔2基…… 青面金剛……良きお顔……さすが明王!!! 山門から見た境内……この寺は、享保の頃(1716~1735年)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末社として大いに栄えたそうです。現在も立派です。 山門をくぐってすぐ左の石仏群……以前お邪魔した上大崎「法性山清岸寺」の三界萬霊塔を思い出します。 観音菩薩様でしょうかしら…… りっぱな藤棚があります……ちょっと遅かった~ 残念ながらお線香が良く分からなかったので失礼しました。 本 堂……現在の本堂は昭和50年に建て替えられたもので、以前の本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移築したとものとのこと。本尊は阿弥陀如来で、木彫彩色の青面金剛立像も安置されていると……覗いたのですが、よく見えませんでした。 ちなみに、行人坂の明王院は明治の初めに廃寺となったようです。 本堂の扁額……やけに年季が入っていると思ったら、明王院時代のままなんですね……納得~ 本堂左わきには竹林…… 右側には寺務所……コンパクトではありますが、よく考えられ、手入れも行き届いた境内です。 山門に向かって…… 区教委の説明書きがあったのですが、その場ではいつも詳しく読まない私。『宿宿の烏森稲荷は元禄の頃(1688~1703年)に当寺境内の稲荷社を移したもの…』と書かれていました。烏森稲荷の場所は知れませんでしたが、独り反省会で見てみたら、隣のブロックまで行っていた私でした。あまり踏み込まないエリアなので残念。 表通り(野沢通り)をとちょっと進むと…… 宿山の庚申塔……車では幾度も通ったので「あるな~」とは思っていました。 立派なのが並んでいます。雨ざらしはちょっと可哀そうです。保存のために、区は屋根造ってくれてもいいのにな~ 右から2番目……元禄5年(1692年) 青面金剛や三猿が描かれています。 中央の背の高い庚申塔……地蔵菩薩を本尊とするもので延宝3年(1675年) 地蔵様を彫った庚申塔は珍しいです。 一番左……宝永5年(1708年) やっぱり青面金剛ですが、彫が深いです。豪雨で削られないよう、本当に屋根付けて~ 足元にも小さいのが…… これは台座だったのかもしれません…… 庚申塔の場所に『西照寺⇒』って看板があったので脇道へ…… 途中、進行方向右に南へ向かう坂道……蛇崩川に向かって下っているのですが、正面に唐ヶ崎電波塔も見えました。 六三商栄会だって……上目黒三丁目と、旧地番上目黒六丁目(現東山一丁目)にまたがっていたから『六三』と命名したそうです。20件ほどの小さな商店街…… 右折だって……電信柱に西照寺の表示があるので助かります。なんといっても、私のスマホはネット検索も地図も見られないアホホンだから…… 曲がった瞬間、もしやと思ったら…… やっぱり階段……くだりだから良いけどね~ でも景色は良いぞ~ 烏森コミュニティ道路……って言うそうです。烏森稲荷は、この写真の右ブロックにありました。 西照寺……到着…道幅が狭いのでこれが限界… 南無阿弥陀仏……山門左 西照寺本堂……福井県吉崎で開基、明治初期に東上し真宗三門派本山専照寺の東京宗務出張所・関東教務所となり、昭和26年真宗大谷派「西照寺」となり現在に至っているそうです。 護法山……本堂の扁額 龍の彫り物……目が良いな~ と言うことで、今日はここまで…… 昨晩も治療中の歯は痛まなかった。ノンアルが良かったのかもしれないな~ でも「人生で一番緊張した」と試合後に語った大阪なおみ選手のテニスを見ちゃったので眠い眠い……0-6の第1セットではブツブツ独り言を連発した私。7-6の第2セットはハラハラドキドキの連続……それでもとにかく勝って良かった~ 次もドキドキさせてくれるんだろうな~
2019.05.29
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珈琲舎バンが営業していたころは毎朝お顔は見ていたのですが、話はしたことのなかったK先生……居酒屋でお会いするようになった折に「(今はなき)喫茶店仲間」と、若輩者の私を認識してくださった。 なぜか突然、阿川泰子氏との2ショット写真を見せてくださったので「連れ合いがファンです」と言ったら、「今度、あげます」と下さいました。 サングロウ……2007年1981年のLPみたいです。それほど古くはありませんが、美人です。登場したころはシュガーボイスと呼ばれ、ジャズの分野ではアイドル的だった覚えがありますが、うけるにはルックスも必要要素でしょう。熱狂的な読売ジャイアンツファンとも聞きますから、そのからみでK先生は親しいのだろう、と想像しています。 サイン入りCDも頂戴しました。2008年1997年みたいです。 We've got maik……2003年の初版本……本まで出していたとは知りませんでした。これもサイン入り……まだ読んでいませんが、そのうちに見てみます。 私が飲むのは角のハイボールがほとんどなので、「みんなで飲みましょう」と普段はウイスキーを召し上がらないK先生が持ち込まれ、ご馳走になりました。なかなか良き顔をしています。 シングル バレル、シングル モルトのスコッチウイスキー……グレンフィディック蒸留所の隣で作られているそうです。スコッチは苦手でしたが美味しく頂戴しました。樽詰めが1980年で瓶詰めが1996年……40年前に蒸留した方々に敬意を表して乾杯でした。 ちなみに連れ合いは本場物のスコッチ飲めます……辛さを我慢して飲むことに意義があるとかないとか? 私には苦くて飲めない奴を昔は口にしていましたっけ…… そうそう、阿川泰子氏以外に私が知っている日本の女性ジャズシンガー……まっさきに登場するのが「伊藤君子」モントレージャズフェスティバル(1997年)・小曽根真氏のピアノで歌った[Skylark]は絶賛。「綾戸智恵」「金子晴美」もCD持ってたっけ……若いころFMのエアチェックをしていた時代に聞いた「森山良子」のジャズもよかったな~ でもって他にどんな女性がいるかと見てみたら「浅川マキ」の名前があった。私の知っている浅川マキからはジャズの匂いはしないのだけれど……米軍キャンプでの活動もあったようだからジャズも歌っていたのかもしれないが、私の好きなのは彼女の渇いたブルース……「それはスポットライトではない」の「つのだひろ」ドラムだけじゃなくて野太いコーラス・ボーカルもよかったな~ 夕凪の時 歌・作詞・作曲:浅川マキ 『今はちょうど 夕凪のとき 風も止まって ほんのひと時 汗ばんでいる すっかり暗くなれば 街灯は星に向かって輝いていく だが今は夕凪のとき 季節の変わり目には 窓を開けて 夜の匂いを待つ 私の好きな 灯ともし頃は 寂しい時だろか』 MAKI Ⅱ……1971年……古い古いLP……スタジオ録音なのだが、「朝日のあたる家」だけは新宿花園神社のライブ……歌も演奏も良いが、屋外観があいまっての雰囲気が好き。天国でもブルースを口ずさんでおいででしょう。 今年は泣き声が少ないような……モーニングから帰って見つけました。羽が痛んでいます……可哀そうに…… なんとも中途半端な日記なっちゃったけど、今日はこれでおしまい。
2019.08.21
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東海七福神で未訪問だった品川神社・養願寺・一心寺の3寺社と周辺を歩いた1月31日……今年初のロングウォークはいささか疲れた。 以前は目黒川沿いに歩いたけど、この日は山手通りで大崎へ……立派なビルが立ち並んでいた。夏場は良いけど、冬の水は寒い。酔っぱらってたら落ちるよ~ FREE Wi-Fiだって……本当に使えるか、携帯を見たらFREEの文字。 ありがたいけど、こんな所で休んでいる暇はなかった。最近、携帯のバッテリー低下が気になっていたから余計なものは撮らないようにしていたけど、この日は予感的中。帰路で足りなくなりました。 居木橋(いるきばし)交差点……左から右へ目黒川が流れていきます。前回ここを通過したのは2018年10月だった。時の経つのは早いな~ 山手線や新幹線をくぐって、振り返ると……見逃すところだった。 春雨寺(しゅんぬじ・俗称:はるさめでら)……見上げるとシャッターが下りていた。ひょっとしたら? と上ってみたら、脇から人一人通れました。 階段を上って左に参道……寺務所と講堂の入口が右に 如来堂……このお堂がこの寺の本堂。『多くの檀信徒が戦争で家や職を失い、郷里に帰ってしまった結果、檀家が激減。寺の運営の形も自ずと変化。法事に寄る人の数も20名を超すことが無くなったことが理由で本堂の規模は実質的に椅子式20名とされた。』(同寺HPより)……我が家祖先の法事も10人を超すことはなくなりました。 扁額……『江戸の時代、品川宿の十余の塔頭を擁した東海禅寺の内にあって春雨庵(しゅんぬあん)と呼ばれていた寺院であり、とり分け、第三将軍徳川家光から東海禅寺の開山に迎えられた沢庵和尚には縁りの深い寺院である。』(同寺HPより) 東海寺は、以前川沿いから眺めただけだったので、この後お寄りしました。 厨子に納められているのが御本尊でしょう。『先々代住職のとき、昭和23年(1948年)、宗教法人法施行を期に大徳寺を離れ、単立(たんりゅう)寺院となる。以来、何れの宗派にも属さず、先々代・先代住職の宗教理念、仏教解釈に基づいて単立を堅持し、世襲で今日に至っている。』 かつては臨済宗大徳寺派のお寺だったんですね。大本への寄付金やお布施が大変だったんでしょう。 ※ 同寺HPでは「単立(たんりゅう)」とのフリガナでしたが、「たんりつ」とも呼ぶらしい。 本堂の裏側に失礼して…… 大山墓地……管理は、かつては東海禅寺の塔頭の一つであった東海寺がされているようです。東海道新幹線は何十回も乗ったけど、まったく気付きませんでした。一瞬だものね~ 夢塔……『壇信徒には経済的負担を一切掛けないと云う計画に従って、一部境内地を処分し、10年余の準備期間と2年の工期を費やして、平成4年(1992年)、現在の施設が落慶した。』とのことなので、その際に建てられたのでしょう。 同寺は、沢庵和尚の絶筆とされる『夢』一文字の書(東京都指定有形文化財)を所蔵しているという。夢の字はその写しかもしれません。当地に沢庵和尚のお墓がありますが、ウロウロしたくなかったので手も合わせず失礼しました。 寛永15年(1638年)に名僧沢庵のためにと、三代将軍徳川家光が東海寺を創建したのだから、こちらに眠っていても当然です。 西村勝三のお墓……文明開化の幕が開いた明治3(1870年)、西洋式の革靴が日本で初めて作られたと。靴業界の先駆者の一人であるのが西村勝三氏。ちなみに氏が明治3年に築地入船町に「伊勢勝造靴場」を開設した日=「3月15日」を東京靴同業組合は「靴の記念日」と制定したと。 この後立ち止まる「官営品川硝子製造所跡」でも勝三氏の名前が…… 左の東海道新幹線・山手線と、右の東海道線が合流する三角地帯の先端に…… 井上勝(まさる)のお墓……「鉄道記念物」って何? 明治初期から鉄道敷設を指揮し、逢坂山トンネルを完成させるという快挙を成し遂げた。明治23年(1890年)9月には鉄道庁長官となり、明治29年(1896年)には汽車製造合資会社を興して社長になるなど、鉄道事業による日本の近代化に尽力した人でした。「鉄道の父」と呼ばれるそうで、「東京駅前に銅像が建立された」ともあるけど、どこにあるのかしら? ※ 逢坂山(おうさかやま)トンネル=滋賀県(大津市)と京都府(京都市山科区)の間にあるトンネルで、始めて日本人技術者だけで造り明治13年(1880年)6月28日に完成された。 正二位勲一等子爵……奥様と御子息のお名前も刻まれてます。 幕末から明治にかけて武士から官僚への転換は容易じゃなかったでしょう。西村氏も井上氏も「勝」の字が使われていました。 井上勝氏と向き合うように……島倉千代子さんのお墓。 墓地の後方は島倉さんの母校・品川学園。北品川で生まれ育った地元の歌姫だが、亡くなるずっと以前から「お墓にしよう」と、このモニュメントを購入して自宅玄関に置いていたと…… 合掌……大きな黒御影石の「こころ」と彫り込まれた字は自筆らしい。 左の「音の門」には、「流1998」とある。流政之=『世界的彫刻家 流政之は1923年生まれ。刀鍛冶、装丁家、零戦パイロットなどの経歴をもち、彫刻だけにとどまらず作庭や陶芸、家具デザインなど、多彩な造形においても独自の技法やスタイルを確立した作家でした。(NAGARE STUDIOより)』 からたちの小径 作詞:喜多條忠・南こうせつ『なつかしいうたを 誰かがうたってる 遠い日の思い出が よみがえる 駅から続く からたちの小径を 手をつなぎ 寄り添って歩いたわ ………… あぁ あなたが歌ったうた 忘れはしない 好きです いつまでも 涙が ぽろぽろり』 改めてご冥福をお祈り申し上げます。
2021.02.06
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