全2件 (2件中 1-2件目)
1
お昼にラーメン屋に行った。前日に下調べしたラーメン屋だ。 なんでも、魚介系のスープであっさりした旨さのラーメンと書いてある。昼をはさんで3時間しか営業していないとのこと。 開店時間の11時の10分前に行くと、5人並んでいた。カウンター7席の店との情報を得ていたので、開店と同時に座れるなと一安心。11時を一分過ぎたところで自動シャッターが上がり始めた。券売機で中華そば750円也を購入して席に着く。10分ぐらいでラーメンが出てきた。 ひと目見て、なんじゃ、こりゃ! 俺のきらいなこってりラーメンではないか。 油の浮いたスープの中にやや少なめの麺、青ネギだけはどっさり乗ってるが、ちょぼい海苔、そして将棋でいえば飛車に当たる「チャーシュー」様がなんと分厚い肉塊として収まっているではないか!チャーシューは適度な薄さが一番肉のうまさがでるのに、これでは台無しではないですか。なんという不心得な! なんという哲学!店主は多分こう考えているのではないか? 「どうだい、おらちのチャーシューは分厚いだろ、旨そうだろ、よそとは違うんだぜ」なんてね。がっかりしながら、食べ始める。 麺、やや硬めでうまくもまずくもない。 スープ、汁の量が少なめ(6分目)なせいか、濃すぎる。 魚介の匂いがしつこくて、女でいえば、「どう、あたしっていい女でしょ?」って無言で迫るギャル系な感じ。しつこいスープにどうでもいい麺をからめて食べてもうトホホってなりそう。しかたなく、チャーシューに取り掛かる。 まず、箸で中ほどからちぎるようにして半分に。 それでもでかくてずうずうしい様子は変わらない。 箸でつかんで、口でかじりつくようにして食べてみる。味、でかくてよくわからない。 まるで、肉に、さあ食えと迫られているような気分になってしまう。食材を味わうには、適度な大きさや形というものがあるよなあ。 それを度外視すると、食材の持っている良さなど飛んでいってしまうのに。暗い気持で8分目ほど食べたところで、もういいやって気分になり終了。麺も少し残したし、チャーシューは3割ぐらい残したかな。結論、人の意見(インターネットの評価)や行列を信用するな!! あーあという経験でした。
2016年05月23日
コメント(0)
3話オムニバスの問題提起的な映画。第二話について、ちょっと感じたことを書いてみる。ストーリーは、老妻の介護をしている老人(浜村純)と娘(結婚を決めている相手がいるが両親のことがあり、先延ばしにしている)のはなし。結婚相手はスーパーの店長をしている好青年。浜村純はまめな夫らしく妻の下の世話から料理まで引き受けて、OLの娘がそれを手伝っている感じ。娘は両親がともに入居できる老人ホームを探している。つまり、世間のどこにでもあるケース。ある日、浜村は娘に、明日から妻と2人で旅行(結婚したときにしていなかった新婚旅行のかわり)に行くと言う。 娘は2人で大丈夫なの?と心配するが新婚旅行だから2人だけで行くんだと言い張る。だが翌日、会社から帰宅した娘は夫婦の部屋に飾られているバラの花を見て、不吉な思いにかられる。さらに、司法書士が贈与の書類を持って現れるに至って、両親は死出の旅に出たのだと悟る。浜村は一晩泊まったホテルを、車いすの妻と出て、浜辺に向かう。 浜辺で最後のごちそうと赤ワインを 味わいながらこの世に決別を告げようというのである。そのころ、娘は一人きりの部屋で夕日を浴びながら、両親を失う恐怖に頭をかかえて絶叫する。映画は、そこでもう浜村夫妻を映すことはなく、ただ打ち寄せる波と浜辺に残された車いすの上に掛けられた二人の帽子が風にゆれているのを映しているのみだ。俺は、ここで違和感を感じるのだ。 まるで二人の死が美しいみたいに描いているが、現実は、入水していく二つの肉体が苦しみ悶えて恐ろしい苦痛と恐怖を味わうに違いないし、命を失った肉体は水に膨れ上がって、生前の面影をまったく残さぬ醜いかたまりになったはずだ。映画のラストは、娘が結婚した(のだろう)相手と仲良く繁華街を歩いているシーンだ。娘の腹は赤ちゃんができたことをおもわせて、いくぶん大きくなっている。だが、こんなふうに両親を失って、笑って新婚生活を送れるものだろうか?前向きに生きるのは必要だが、この映画の描き方は少し無理があったようにかんじてならない。娘のために死を選んだ両親という設定も、愉快でないし、それをきれいごとのように終わらせた監督の感性には疑問を呈しておきたい。
2016年05月11日
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1