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クリスマス寒波襲来です深夜から静かに雪が降り始めました朝5時半ごろ自宅前の道路に除雪車が入りましたとても寝ていられません早起きして主人は自宅前の除雪をしてくれました今もず~と降り続いています今日は歩いて出勤致しました6月よりジム通いをしているおかげで徒歩も苦にはなりませんでも車の往来や傘を差して歩くのは気を使います45年前の今日は、実母が入院した日です私は18歳で、高校3年生。冬休みになっていたので入院に付き添いました今でこそ父親が行くのが当たり前ですがその時代は奥さんが病気でも仕事を休めなかったようです秋ごろから時折腹痛と足のむくみを気にしており腹水が溜まりだしたので検査入院をすることになったのですそれが年末迫った12月23日でした私は子供の時から転勤族だった親に代わって市役所や銀行等できることはやってきましたまたそれが出来る時代でした小学校の3年生ごろにはご飯を炊いたり洗濯をしたりです良くお手伝いをさせられました母がバイトで新聞配達をしていましたが体調が悪くなると配達や集金もしていましたでもその時はまさかひと月後に亡くなるとは思っていませんでした45年前の思い出です応援お願い致しますにほんブログ村
2023.12.23
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こんばんは。大寒を過ぎても どうなっているのか?北陸の冬?です雨が降っていても寒くないとは・・・雪は当分降りそうもないです42年前の昭和53年1月23日夕方私の母は40歳の若さで45歳の父と18歳の私15歳の弟を残してすい臓がんで亡くなりました12月23日秋ごろから体調不良を感じて近くの国立病院へ通っていましたが病名がわからず腹水がたまり検査の為に入院しました正月頃が一番良くない状態が続き8人兄弟の母の弟や姉二人が関東から見舞いに来てくれましたそれから暫くしてから状態が安定してきて腹部に何かあるようなので開腹手術が1月25日に決まっていましたそれで手術目の個室に移動して22日は一緒に泊り手術後は早く元気になってお見舞い返しは何にしょうかそんなことを話したのでした当時私は高校卒業の前に試験勉強していました23日の朝、弟と父の食事の用意をするため自宅に戻りましたのんきに前日ご近所さんからもらった大根を玄関先で洗ったりしていました病院から電話で母の容態の急変の知らせでした父の会社に連絡して慌てて自転車で病院へ行きました私が帰って暫くしてから心不全の軽い発作が起きたのでした私がついたときには話も出来てでも足が冷たくなってきていて息が荒かった。父が病室に着き友人がきてくれました父は転勤族で両親の親戚は皆遠いので頼れませんでしたこの地へ来て12年目沢山の友人たちが私達の力になってくれました病室から出るように言われその時隙間から母を見ると私に心配をさせまいと笑ってくれました昼頃には意識が無くなりあれよとあれよという間に・・・心臓が止まり心マッサージをされて・・・弟を中学校へ迎えに行き私と父と弟と揃った時間に母は逝きましたそれからは弟と父の為に決まっていた大阪の職場は辞めて地元に残ることになりました人生のターニングポイントがあるとしたら私にとって母との別れですそして母は私が幼い頃から何かあったら祈るということを教えてくれました母の親は新潟の佐渡島で漁師の網元をしていましただから常に生と死が隣り合わせでした漁師の子どもは幼い頃から親や兄弟が海へ出る時後悔の安全と無事に帰ってくるのを祈るのですそんな母に育てられた私は何時も仏壇の前で祈っていた「今お母さんはどうしていますか?」と。答えは出ませんでしたが祈っていると心が落ち着いてきました45歳で奥さんを失った父15歳で母を失った弟それぞれの人生の節目が42年前の1月23日60年前の私と両親
2020.01.23
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こんにちは。ここ数日は寒いそうで・・・・この寒さに負けないようにしましょう!以前から私のルーツを書こうと思ってましたが日々の忙しさにおわれ時にはダウンして 人生50年の思いをこめて母の教えコーナーでいこう。さて私は昭和34年生まれ。生まれたのは、父親が仕事でいた群馬県。熊谷組の土木技師をいていた父の職場がそこにありました。八木沢ダムの病院です。母は私が18才の時に亡くなりましたから生まれたときの事は詳しくは聞いていませんとにかく赤ちゃんというより肌が白かった。それが名前の由来と聞いています。白子ではないですよ。生後100日です。父も母も若いですよ私の母は新潟県の佐渡島生まれ、8人兄弟の4女。私の父は長野県生まれ、8人兄弟の長男。子供の頃は両親の兄弟を覚えるのが大変でした。でも昔の兄弟はみんな仲が良かったと記憶しています。いとこといったら何人いるのか 今でもわかりません。昭和35年4月10日撮影生まれてから半年ですね。こうやって息子と自分の写真を並べてみるとおもちゃが同じで
2010.03.04
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私の母は昭和12年生まれで 生きていればもうすぐ71歳昭和53年1月 今から30年前すい臓がんからくる心不全で闘病1ヶ月目に41歳で亡くなりました。当時私は18歳、弟は15歳、父は46歳こうして歳を書いているだけで 思わず「若いね」体は丈夫で、畑を借りて趣味で野菜作りをするのが唯一の楽しみでした。当時私は下宿をして遠方の高校に通学をしており母の体調がその様に悪いとは思いませんでした。病院には行ってましたが前年の12月に入り急に腹水がたまり身体がだるいので検査入院することとなったのです。当時の国立病院に入院したのですが腹水がたまる原因がわからないのです。腹水を抜く処置をして、それでも特定できないので開腹手術をするため個室に移った次の日の朝突然心臓の発作を起こして 夕方には亡くなりました。前日、個室になった母が心細いと思い私が泊まり、「手術が終わり退院できたら内祝いはなんにしょうか」と母娘で 話していたものです朝、「ちょっと家に帰ってくるね」自転車で10分です家に着くとすぐ病院から電話でした。「ちょっとお母さん、具合が悪くなったので来て下さい」「大丈夫だから。」息が苦しそうでしたが私と話していました。先生と父が話しており、だんだん緊迫していくのです。昼前には看護婦さんから部屋を出るようにと言われ母は笑ってうなずいていました。それが生きていた時の最後の顔で、笑顔でした。私は人間の命のはかなさを感じました。その悲しみを乗り越えていたから息子の死を受け止めていけるのかもと、最近特に思います。「子供が早く元気になることが、お母さんの望みよ」その様に沢山の人に励まされたこと、また「そうだ・お母さんの分まで頑張ろう」母の教えと言うことで、母に教えられたことなどを書いていきたい。
2008.08.30
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