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日本に留学中の孫(高一)が冬休みを利用して韓国へ一時帰国することになり、同行しました。滞在二日目、孫が馴染(なじ)みの店へ髪を切りに行ったときのことです。 店の近くで孫の父親の運転する車から降りると、ショートカットで茶髪の男性らしき若者が、電柱のそばで少し身をかがめて立っていました。てっきりタバコの火を消しているか、ゴミを捨てているかぐらいのことと思っていましたが、電柱に据(す)え付けのビニール袋から配布用のフリーペーパーを取り出しているところ、とすぐに気付きました。 フリーペーパーを小脇に抱え、若者は電柱の前の店に姿を消します。ハングルを読めないので、わたしには何の店か判(わか)りません。だけど、孫親子も、その店へ入っていきます。後に続くと、そこは理髪店でした。若者も客でフリーペーパーを店で読もうとしていた、と独り合点していると、なんと孫が「おじいちゃんです」と若者に紹介するではありませんか。しかも若者を正面から見ると、うら若き女性です。お話上手なオーナーと知りました。驚きです。 髪を刈る準備に掛かって、オーナーが孫を椅子に招きました。そこで、再びビックリします。あのフリーペーパーの起用です。 見開き(左右二ページ)一枚をオーナーがクシャクシャと丸めて水を含ませ、客を映す大鏡の表面を拭(ふ)き始めます。えぇっ? 新聞紙は、いろいろと有益に使用されますが、他人や客のいる前で、このような使われ方をするのを見るのは初めてです。喚声を上げそうになりました。けれども、鏡面は汚れが落ちてピカピカのツルツル、孫の顔がスッキリと映し出されました。 その二日後、洋服の寸法直しの店へ孫親子と、再び出掛けました。依頼するのは、孫が日本の学校で着用している制服のズボン(冬用と夏用の二着)。日本より格安の、二着で一五〇〇円ぐらいという工賃に目を付け、わざわざ故郷まで運んできた「貴重品」です。ウエストと裾幅(すそはば)が広いことが気に入らないというのです。 採寸するために店主が孫にズボンを履(は)き替えるよう、促(うなが)します。孫はクツを脱ぎ、店主が床に敷いた紙の上でズボンのベルトを緩め始めました。ところが、店主が用意した敷物を見て一瞬、わたしは目を見張りました。ここでも、フリーペーパーが「有用」されていたのです。でも、わたしは、もう目を細めていました。生活に役立ち、環境に良い活用が他にもありそうで、もっと探(さぐ)ってみたいと思ったからです。
2016.12.31
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2010・10・2(土) 府のソフトテニス連盟の関係者から紹介を受け、公益財団法人日本体育協会の「公認スポーツ指導者」養成講座(ソフトテニス)を受講することになりました。 日本体育協会は、自らの使命を「生涯スポーツの社会を実現していくこと」と謳い、スポーツ指導者を「スポーツ医・科学の知識を活かし、スポーツを安全に、正しく、楽しく指導し、スポーツの本質的な楽しさ、素晴らしさを伝えることができる者」と定義しています。公認スポーツ指導者養成講座は、そのような理念に基づいて制度化されたものです。共通科目では指導者の役割・文化としてのスポーツ・トレーニング論・医学的知識など、専門科目ではソフトテニスの特性・歴史・ルール・基礎技術指導法などを学習するようです。9月から、共通科目35時間、専門科目40時間以上という規定の教育課程と格闘しています。 初めて、「指導者」になるための勉強を始めた訳ですが過去に、教わる立場で接してきた指導者は教育者でもあり、学校の先生、家庭教師、算盤教室の講師、教会の牧師などを思い浮かべます。その中で数が最も多かったのは、学校の先生です。小学校で教わった先生は担任だった2、3人だけでしたが、中学校以降では教科ごとに先生が変わったため、教えを受けた先生の数は一気に増えました。いろんなタイプの先生がいたことを思い出します。 中学への入学直後、教室に入ってくるなり、レストランのメニューブックのような大きさの、がっしりした出席簿で生徒の顔を叩きつける先生がいました。生々しい暴力シーンに、身体が震えました。自分の仇名を校内に広められ先生が、その触れ回った生徒に怒りをぶつけていたのです。美術の、怖い先生でした。 「ラジオの深夜放送を聴いていたら好きなマーラーのシンフォニー第5番が流れてきて、そのまま聴き入っているうちに眼がパチクリ開いて眠気が吹っ飛び、朝まで寝ずじまいに過ごしちゃった」といった調子で音楽の話を始めたり、前後の見境もなく脱線したりして授業を放ったらかしにする先生がいました。東京育ちの数学の先生です。また、生徒が何をしていようが気にも止めず、教壇の椅子に座って独りで教科書を朗読しながら退屈な授業を進めたのは、社会科の先生です。話題をまいたのは、ボクらの同級生をお嫁さんにした化学の先生でした。 小学生時代から成績は普通以下、口数が少なく教室で騒ぎ立てることもしないボクは名前を覚えてもらえないほど存在感の弱い生徒、聞こえの良い言葉で表すなら「おとなしい」と呼ばれるような子でした。だからでしょうか、ある先生にひどい「いたずら」をされてしまいます。聞いたことも見たこともない「世界」に引きずり込まれて恐れを感じ、誰にも打ち明けられず、助けを求めることもできませんでした。唯一抵抗できたのは、先生を相手に絶縁状を突きつけるという異常な行為でした。 他にも、品性に劣って資質や能力にも欠け、指導者、教育者として、どうかなと疑いたくなるような先生も見てきましたが、いちばん許せなかったのは、依怙贔屓をする先生でした。その事実を知ったときは先生に対し、強い失望感を抱いて学校を休んでいます。悔しくて妬みを抑え切れず、激しい憤りも覚えました。初めて嘗めた人間社会の辛酸です。 しかし、その悪例は、良い手本になりました。学年や技量、素質などが違っても、練習の場や内容、時間といった教える場合の環境の要件は全員に等しく与えなければいけないという考え方を引き出せたのです。この「R&S」に書いたことはありませんが、君たちを指導する上で、とても大事にしてきた信念です。技術指導や理論の教示以上に、指導者が最も備えなければいけないのは、どの子にも平等、公平に接するという心構えだと思います。 受講している指導者養成講座のテキストには、冒頭から「サポート」という字句が盛んに出てきます。指導者に求められるのは、教えてあげるという態度ではなく、いろんな面からプレイヤ-をサポートするという姿勢が大事、と説いています。このことも、決して忘れてはいけない心構えだと学びました。 さて、この「R&S」は今回がNo.200です。No.1~100を掲載した拙著のタイトルは、『教える資格はないけれど……』でした。奇しくもNo.200を書き終えた今、やっと一つ、その資格がもらえそうな目途(指導員の資格修得は来春)がつき、向かうべき道が見えてきたように思います。小さな節目を迎えました。-完-にほんブログ村にほんブログ村
2013.08.21
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2010・9・24(金) 「わが子を、人前で露骨に可愛がったり褒めたり、また『ちゃんづけ』で呼ぶのは聞き苦しくて、見よいものではないよ」と言ったのは母でした。「後ろ指を指されたり、陰口をたたかれたりしないように」も口癖で世間体を重んじる、躾に厳しい性分だったようです。連れていく訪問先や訪ねてきたお客さんへのあいさつや所作も事細かく教えて、子どもを甘やかすことを嫌いました。ときとして手が飛んできたこともあります。 母の生まれは、たしか福島県白河だったと思います。幼少時に奉公に出され、長い間、兄弟とも会えなかったそうです。 母が父と出会ったのは、群馬県の桐生だったようです。桐生は「西の西陣、東の桐生」といわれるほど織物が盛んな町。母は、京都の友禅職人だった父と、そんな「織り」と「染め」の縁で結ばれたのでしょう。 父母もボクも酉年です。昭和二〇年八月、父が四八歳、母が三六歳のとき、ボクは次男として生まれました。しかし、心臓病で長く療養していた父は六年後、七人の子を残して他界します。すぐ下の妹は末っ子で四歳、長姉は二〇歳、兄は九歳でした。一家の困窮に実感としての記憶はありませんが、母の労苦が並大抵でなかったことは容易に想像できます。 苦難を背負って生きた母も晩年は一〇人の孫に恵まれ、「もう何もほしくない。とても幸せ」と話して元気でしたが、八〇歳で世を去りました。神戸の医師の元に嫁いだ四女を訪ねたある日、食通の娘婿が買い付けの店から取り寄せた明石のチヌやヒラメ、スズキなどの刺身を、たらふく食べた後に、寝付いた床で静かに息を引き取ったそうです。母は、最期の近づきを感じて、しかし誰にも気付かれないように、子どものいない医者と元看護婦という娘夫婦を頼って、その身を預けたのでしょう。京都の自宅には、帰らぬ旅への身支度が終えてあったと聞きました。母らしい旅立ちです。二二年前の、春のことでした。 母は、ボクを栄養失調の未熟児で産んだことを、いつも心に留めていたようです。その思いは、安くはない滋養のある食べ物、飲み物を毎日苦心して与えてくれたことにも表れていました。小学校を卒業するまで続いた、母の親心です。ただ、「妹には内緒よ」と言われました。 母から最も影響を受けたのは小学校時代に教わった、心配りです。その一つは、紙に包んだ「何か」を担任の先生に渡すように言われた「お使い」です。当初は、包みの中身や渡す理由も分からず、紙包みをぶら下げて登校するのが嫌でした。だけど、母に作意がなかったことは子どものボクにも感じるところがあり、何かに役立つお手伝いをしているという気がしたので、卒業するまで続けました。 後日、先生に渡した「何か」の中身を知ります。クラスの中に、とても貧しい仲の良い友だちがいて、母は、その友だちのためにボクのお古や、姉と兄の小さくなった衣類を手直ししたりして譲っていたのです。余裕のある家計でもなかったのに、お菓子や手作りのおかずが入っていることもありました。母が先生に託した理由は、友だちに自分のことを隠しておきたかったからだと思います。 六年生のとき、「出たい」と手を挙げた訳でもないのに、また、身体の発達の遅れと同様で学業の成績も芳しくないのに、学芸会で発表する劇の役が回ってきたことは思いがけない出来事でした。学年単位の出し物「分福茶釜」の小坊主の役で、頭のよい子や良家のお坊ちゃん、お嬢ちゃんらの中に、場違いにも「毛色」の変わったボクが一人混じっていたのです。 劇の中のボクの出番は最少、持ち場は舞台の隅っこでした。演技は、正座して「いろはに……」をお経代わりに唱えることと、舞台の上座と下座を往復する「雑巾がけ」だけで、セリフは一切ありませんでした。 劇は好評でした。招待されたか何かで、京都新聞社の本社社屋の文化ホールで再演をしています。写真が残っていますが、写っているのは舞台の袖で明らかにNG (no good 「不良」)と分かるボクの、他の小坊主とは違った動きをする「独走」の演技です。母は、その写真と衣装(小坊主の法衣)を大事に残してくれていました。小坊主の役に起用されたのは、担任の先生の粋な計らいだったのかも知れません。 テニスに没頭する中高時代、母は無言でボクを見守り続けました。中学に入ってから見違えるほど丈夫に育っていくボクを見て、テニスと出合えたことに喜び、感謝していたのだと思います。 高校三年生の秋には複数の私大から勧誘を受け、大学でもテニスを続けたいと思いました。しかし、その年の暮れ、「高校を卒業したら、働いてほしい」の姉の一言でボクは進学を諦めました。そして、独断で東京への就職を決めるのですが、母は反対しませんでした。ただ、出発する前夜、「やっぱり行くの?」と訊かれたときの小さな、かぼそい声は今も耳の中に残ります。 お盆と正月休みの帰省は楽しみでした。そのとき、母は半年間の家族の様子を聞かせてくれました。相談を受けたこともあります。離れて暮らすボクは、あまり役に立たなかったはずですが、母は時を惜しむようにして、いろんなことを話し続けました。だけど休暇は短く、東京へ戻る日が、あっという間に来ることを何とも恨めしく感じたものです。 もう一つ、母と過ごす時間で心に残るのは、ボクの好きな音楽をテレビで一緒に聴いたことです。浪曲や歌謡曲を鼻歌交じりに歌っていた母にとって、洋楽の番組は馴染めなかったはずですが、じっとテレビに見入っていました。大晦日の「第九」にも興味深げでした。貴重な時間だったと、ときどき振り返えっています。 一方で、苦い体験も残っています。これといった親孝行も果せなかった上に、親不孝を働いて悔いたことがあるのです。結婚後、京都に住まいを移して母と向かい合わせで暮らし始めたころ、母がボクの奥さんに言った言葉にボクが腹を立て、一ヶ月ほど母と口を利かなった「事件」です。母が、どんなことを言ったのか詳しい内容は忘れましたが、母としては生活の助言、忠告をボクの奥さんに与えたつもりだったのでしょう。しかし、息子への母性が強いあまり、嫁への嫉妬心が高じて嫁いびりをした、とボクは捉え、嫁と姑のバトルには嫁の夫が嫁側に立つほうが円満に解決する、と判断したのだと思います。 姉から「お母さんの寿命を縮めるようなことは、お願いだからやめて」と苦言を受け、ボクは心を改めます。「寿命を縮める」が、こたえたのです。その後しばらくは母と、どことなくぎくしゃくした日々を送りましたが、親離れ、子離れに一歩踏み出せたのは確かです。もっとも、母を非情に突き放したという自省を長く持ち続けたのは、いうまでもないことです。 生きていれば今、母は百を超える歳です。存命中は弱さや苦しさ、辛さや醜さ、卑しさを決して見せず、その姿からは、崩れない勇ましさと流されない強さが読み取れ、内面には優しさと思いやりが秘められて、何事にも「お陰さまで」と頭を下げ、「お返しに」と手を差し伸べる生き方を感じました。 母の生き方の少しは、ボクの身体にも染みついています。知らず知らずのうちに肌に触れ、目で見て覚え込んできたものです。母が示した人生の歩み方は、ボクにはまだまだ、いや到底超えられない大きさ、高さだと痛感していますが、どこまで近づけるかという努力だけは絶やしてはいけない、と肝に銘じています。にほんブログ村にほんブログ村
2013.08.12
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2010・9・14(火) テニス(軟式・ソフト)を始めて50余年が経ちました。中学への入学時が、その出発点です。 高校を卒業するまで、練習と試合に明け暮れました。それ以後は、ラケットを握るのは年に数回という時期もありましたが、現在は週に一度というペースで、もっぱら君たちを相手にコートに立ち続けています。練習できる環境と君たち、そして、わが身の健康をありがたく思っています。 もう、大会に出ることはありません。その日の、たった数回の対戦(初戦で敗退なら1回限りということも)に一日を懸けるという過ごし方を、もったいないと感じたことが大会から離れようとした端緒ですが、技も力も衰えて勝つことが以前にも増して難しくなり、ぶざまなプレーを見られたくないというのが本心です。それよりも、クレイの練習コートで君たちと会うことのほうが楽しくなりました。 そんな中、いつまで現状のまま、テニスを続けられるのだろうか、と不安な気持ちに陥る日が最近多くなりました。体力が衰えてプレーができなくなったり、コートに通えなくなったりする日が来るのではないか。拠点にするコートが土地の用途変更や開発を理由に、取り壊わされることがないだろうか。地元住民以外は使用を許されなかったり、制限されたりしないだろうか、などと心配です。 一方で、人工芝コートで練習できるクラブや、立地条件に恵まれたクラブへ移る人が現れ、会員数は徐々に減り始めて、さみしく感じるようになりました。さらに、これからは少子化の影響で入会する子どもが少なくなるのでは、という懸念も抱き、クラブの往年の賑やかな雰囲気の再現は、もう望めないのかと心細く思うようにもなりました。 けれども、後ろ向きな考えに捕らわれず、テニスやクラブを巡る様々な恩典に感謝して、ぜいたくな設備や環境を高望みしない、という慎みを持っていれば、現況も前途も、そんなに悲観することはないという気がして、少しは安心してもいいのでは、と自身に言い聞かせています。テニスが好きで一緒にプレーしたいという人や、テニスを習いたいという子どもは必ずいるはずで、打ち合うボールの音がコートに響き渡る日が、きっと戻ってくると思うのです。むろん、日ごろの健康には気を配らねばなりません。 そんなことに気を揉むある日、「65歳という節目を迎え、……」という文面の、高校の同窓会の案内が届きました。前回は還暦を迎えた年に開かれましたから、その5年という間隔を考えると、次回は70歳に達する年に開催の運びとなるのでしょう。 「70」という数字をキイボードに打ち込んで、その字を眺め、また、「70歳」と声に出して、その音の伝わりを確かめると、60歳台なら「まだまだ」、70歳台なら「もう」というふうにニュアンスの違いを覚えます。70歳という境地から分かるのは、呼び名が高齢者からお年寄りに変わり、そのお年寄りの世界へ仲間入りしようとする不可避な回り合わせが、いよいよ近づいてきたという現実で、これまで他人の70歳に無頓着だった気持ちは、自分を70歳の姿に置き換えるように変化していくのでしょう。悲嘆的な空しさ、屈辱的な悔しさ、絶望的な諦めといった感傷を味わうことになるのかもしれません。 しかし、マイナス面の心配ばかりしていたのでは「明日」は拓けません。テニスへの思いも同様です。「生きる」、「楽しむ」という恩恵への感謝を忘れず、与えられた道だと信じて歩み続けることが、これからの生き方だと思っています。 虚弱な体質だった少年期に、テニスと出合えたことは幸運でした。丈夫な身体に育てられ、いろんなことを学び、体得することができました。何もかもテニスのお陰です。そのテニスを失っては何も残らない人生だった、ともいえます。だからこそ、大仰な言い回しですが、テニスの普及、クレイの存続に微力ながら心身を傾けなければいけない、と考えています。もちろん一人では到底果せ得ない願望で、多くの人の理解と支援が不可欠です。中でも、理念を共有する北村コーチと稗田コーチの存在は絶大で貴重です。二人にはテニスの発展のための尽力、クレイクラブと、その運営の引き継ぎをお願いしています。 何かと不安を感じていたころに舞い込んだ同窓会の案内でしたが、自らの生き方を改めて気づかされ、心の持ちよう、ありがたさへの謝意、周りの人の温情の大切さを思いました。 にほんブログ村にほんブログ村
2013.07.04
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2010・9・7(火) 韓国に住む娘家族が夏休みを利用して、わが家へ押しかけてきました。一行は、4年前の来日時より2人増員(3歳の次女と1歳7ヶ月の三男)して総勢7人(娘夫婦と孫5人)。ちょっとした「部隊」と言えるような集団は、人目を引きました。 孫たちは釜山から高速船「ビートル」号(約3時間)で博多に入港後、東京行きの新幹線「のぞみ」に乗り継いで、やって来ました。飛行機で来るより所要時間は長くなる反面、旅費は格安という利点のある旅程です。飛行機なら幼児も大人並みの料金を取られますが、船やJRだと無料か、安い子ども運賃で乗れるのです。娘婿が決めました。 自宅を発って12時間もの長旅でしたが、孫たちは元気な姿を見せ、賑やかに京都駅の新幹線ホームに降り立ちました。憧れの新幹線を身近に見られて乗車前は少し興奮気味、車内ではご満悦だったそうです。 滞在期間は21日間(娘婿は1週間)。その長さに喜憂を抱きつ、昼夜に繰り返す泣き笑いを想像して、安まる日のないことを覚悟しました。しかし実際は、記録的な猛暑に悩まされました。 サッカーボールで遊ぶことが多い長男(九歳)と次男(七歳)は韓国を発つ前、「おじいちゃんとサッカーをする」と電話を掛けてきたので早速ボールを買って準備をし、一緒に汗を流すことを楽しみにしていました。ところが来日2日目、ボールを持って近くの公園へ行くと、35度を超す気温に根を上げてしまいます。暑さで、蹴り合う時間が5分も持たなかったのです。二人は二度と「サッカー」を口にすることはありませんでした。 その日は散歩や買い物にも引き連れたため、孫たちは寝る前、昼間の暑さを思い出しながら口を揃えて訊ねます。「あしたは、どこへ行くの(連れていってくれるの)?」と。暑いのは、もううんざり、どこか涼しい所はないの? と訴えたのです。 退屈させないようにと考える一方、炎天続きの市中に孫を引っ張り出すのは不安で、行き先はなかなか決められませんでした。「あしたは、どこへ行くの?」の問いは毎夜続いて、その都度返事に困りました。それでも、南丹市の八木町花火大会、五山の送り火(大文字)めぐり、太秦映画村、ひらかたパークなどへ行くことや、嵯峨野のトロッコ列車に乗せることなど、日替わりの予定をあれこれと組みました。 クレイの練習コートへも二度連れていきましたが、そこでもあまりいい顔をしてくれませんでした。 暑さしのぎは、ここしかないと何度も通ったのは、伏見港公園のプールです。韓国の小学校にはプールがなく、水泳の授業を受けたことのない孫たちは、ほとんど泳げませんが、潜ったり飛び込んだりして水と親しみ、水着の跡が白く目立つぐらい身体を真っ黒に焼いて京都の夏を過ごしました。 韓国へ帰る直前には、大きいほうの孫3人(長男・次男・5歳の長女)をコンサートへ連れ出しました。京響(京都市交響楽団)が開いた、オーケストラ・ディスカバリー2010「オーケストラ大解剖!」(子どもたちのためのオーケストラ入門)という演奏会(京都シンフォニーホール)です。孫たちが来日する前に予約をしておきました。 プログラムは、京響の常任指揮者広上淳一さんが管・弦・打楽器の一つひとつを説明して、その楽器に最も相応しい有名な曲を順に奏でるというスタイルで始まり、最後はそれらすべての楽器によるラベル作曲の「ボレロ」を演奏して終演する構成でした。孫たちには、指揮者が説明する日本語が分からなくても、どこかで耳にした曲が幾つかあったはずです。少しでも親しんでくれたらいいと思っていました。 「ボレロ」は、演奏時間がおよそ15分。単調なリズムながら、その繰り返しが無類の169回を数えるという名曲です。そのリズムを小太鼓が先導し、紹介された楽器が次々に加わって楽想を引き継ぎ、壮大な響きを震わせて曲は終了します。大きな拍手が一斉に沸き起こって、しばらく鳴りやみまず、会場を埋めた日本の子どもたちの鑑賞ぶりが、とても新鮮で好ましく思えました。 ところが、孫たちには不評でした。演奏中、眠ってしまうやら席を離れるやらで、まったく興味を示しません。長時間拘束されたこと、好みでないものを勝手に聴かされたことも許せなかったようで、帰路は仏頂面をして「おもしろくなかった」を連発、口も利いてくれませんでした。 なんとか機嫌を取ろうとアイスクリームやジュースを買い与えました。そして、ぶらぶら歩いて行き着いたのは京都市美術館、目に留まったのは開催中のボストン美術館展「西洋絵画の巨匠たち」のポスターです。そのとき、音楽がダメなら美術はどうか、と考え付きました。孫たちには、まだ早い体験かも知れませんが、めったに観られない絵画の揃う、またとない企画の絵画展です。 しかし、会期の終了期日が迫っていたためか、関心が高かったためか入館待ちが1時間という長蛇の列ができていました。それを見て、混雑する暑さの中を孫たちがおとなしく並ぶとは、とても思えません。今度はどんな不平、不満が飛び出すことかと恐れをなし、鑑賞は取りやめました。演奏会も絵画展も孫たちにとっては、大きなお世話だったようです。 かくして、暑かった夏休みは終わりました。韓国へ持ち帰る荷物はカバンに納まり切れず、来夏まで使わない水着やTシャツ、浮き輪は「来年も来る」という言葉とともにわが家に残し、孫たちは住み慣れた母国へ帰っていきました。にほんブログ村にほんブログ村
2013.05.30
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2010・8・30(月) 書店で、大竹文雄著『競争と公平感』(中公新書)の帯のコピー「なぜ競争しなくちゃいけないの?」が目に留まりました。立ち読みに終わって買うには至らなかったのですが後日、その著書に関して大竹氏が朝日新聞に記した「日本人の競争嫌いがなぜ生じたかは分かりません。ただ中国やインドの成長で国際競争が激化している今、競争を避けて生きていくことができないのが現実」、「ある分野で負けても、別の分野なら勝てる。そうした競争を繰り返すことで、人は自分の適性を知ることができる」には、思い当たる節がありました。 ナンバーワンよりオンリーワンになればいい、という意味合いのことを歌ってヒットした曲がありました。運動会で、順位をつけない徒競走を行う小・中学校があるそうです。大竹氏の言葉は、そんな、競うことを嫌う風潮にヒントを与えているような気がします。競争心を待たず、勝つ気持ちも失っては日々の生活が、つまらないものになってしまいそうです。 人が行動を起こそうとする動機の一つは、楽しみを求めるという目的から生まれます。スポーツの場合だと、実力を試したい、人に勝ちたいという思いから楽しみを見出し、試合をすることで満足を得ようとします。成果を上げると、その楽しみは、人に競り勝つことよりも自身の気力や体力にうち勝つことが大切、困難に挑むことや苦しい練習を繰り返すことも重要、と教えてくれます。努力を重ね、経験を積み上げることで、強さや巧さが備わっていきます。 スポーツでは、優勝できるのは1チームだけで、それ以外はすべてが敗者です。試合では、上位に勝ち進むのは場合によって無理、という状況が起きることもあるでしょうが、全力を出し切ろうとしなかったり途中であきらめたりすることは感心できません。何事にも立ち向かう、強い意志が大事で、敗れても戦った後には貴重な教訓を得ることができます。 習い始めるなら、試合に臨むなら、熱い闘志を燃やしてほしいと思います。学区や町村といった規模の小さな大会でもいいから、一度は頂点を極めてほしいと思います。さらには、上級を目指して挑戦し続ける粘り強さと技を磨こうとするたゆまぬ心意気を見せてもらいたいものです。 ベストを尽くせば、トップの座に着ける望みが、どんなスポーツにも等しく用意されています。好きなこと、得意なことを推し進めて技術を高め、技能を伸ばせば道は拓けて夢に近づくことができます。時として、「悲願の達成」という運が巡ってくることもあるでしょう。 「なぜ競争しなくちゃいけないの?」の答は、「競う楽しみ、勝つ喜びを知れば人生は豊かだから」かも知れません。競争から得る学びは、大きな宝ものだと思います。にほんブログ村にほんブログ村
2013.04.23
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2010・8・10(火) 「夏の甲子園」(全国高等学校野球選手権大会)が始まりました。4,028の参加校から予選を勝ち抜いて選ばれた、晴れの都道府県代表49校(東京都と北海道は2校)が、改修工事を終えて新しくなった甲子園球場の天然芝グラウンドを、はつらつと行進しました。大会期間はおよそ2週間、多くの国民が母校と郷里のために声援を送り続けます。 その「夏の甲子園」とは別に、高校生が挑む全国大会はインターハイ(全国高等学校総合体育大会)と呼ばれ、夏休みに開かれます。ただ、ラグビー・駅伝・スキーなど一部の競技はインターハイとはいわず、夏休み以外の時期に開催されます。 インターハイの開催地は各都道府県による持ち回り方式で決まり、毎年変わります。全ての競技の代表選手は一つの開催地に集結し、それぞれの日本一を競います。今年のインターハイは沖縄県が舞台、「美(ちゅ)ら島 沖縄総体2010」の名で開かれました。今回もクレイの卒部者の幾人かが、ソフトテニスの京都府代表として出場したようです。 さて、夏休みといえば伝統行事や町内の催しが盛りだくさんで、小学生時代は近所の仲間らと遊びほうけたことを思い出します。一日の始まりは、ラジオ体操でした。首から出席カードをぶら下げて毎日まじめに会場へ通いました。野球や水泳などのイラストが刻まれた赤や青、緑の丸いハンコを押してもらいます。皆勤賞が目当てでした。 そのとき会った仲間と決めるのが、その日の遊びの予定です。日替わりを優先しましたが、同じ遊びでも飽きることはありません。夕方には細長い腰掛けの床几を玄関先に持ち出し、ヘボ将棋を指したものです。おやつは塩を振りかけた冷たいトマトやキュウリ、といったこともありました。そのころの夕食は日が高い時間に始まり、食べた後は再び床几に座って夕涼みをしました。一般家庭にはテレビがなく、コンピューターゲームもまだ世に出ない時代です。 入学した中学校には、3つほどの小学校から生徒が進学し、クラスの数は小学校当時と比べて約3倍に膨らみました。友だちが増えて行動範囲が広がり、遊ぶ内容は急に大人っぽくなって近所の仲間と一緒に遊ぶことが減っていきました。テニスの部活動に没頭し、夏休み中も練習に精を出したためです。 高校時代の夏休み期間は重要な大会が続いて練習に一段と熱が入り、テニスに明け暮れする毎日を送りました。その大会の一つはインターハイです。2、3年生のときは他県で誕生日を迎え、母の祝いの手料理を食べられなかった思い出があります。その遠征の10日ほど後には、国民体育大会の予選が待っていました。3年生のときは、府代表のキップを手にしています。 卒業した、その高校には今、小中学校とは違って感傷的な懐かしさを覚えます。特に、夏休みののんびりした雰囲気に包まれた校内の様子には、授業が行われる学期内とは異なる情緒があり、忘れがたい回想を抱きます。 夏休みの期間に登校するのは全校生徒の約2割、体育部や文化部の部員と補習授業を受ける生徒です。校門が開かなかったのは、たしかお盆の2日間だけでした。陽炎が地表で揺らめく校庭には、汗を流す運動部員の姿がありましたが校舎は静まりかえり、人影のない廊下は薄暗く、教室の窓は、どこも閉ざされていました。制服を着た生徒や白衣を羽織った先生の姿は少なく、普段着姿が目立って、授業に追われているときの平時の張り詰めた空気も失せ、どことなくゆったりした開放感が学校全体に漂っていました。そこには、自由な活動、制限のない時間、無数の希望を持たせる環境が整っていました。 部活以外に、クラスの行事にも熱心に取り組み、恋もしました。戻ってみてもよい、と思う高校生時代の夏休みです。にほんブログ村にほんブログ村
2013.04.08
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2010・8・6(金) われわれが現在使用している桂川河川敷公園のコートは、クレイクラブにとって4代目の活動拠点です。3代目以外は、すべてが土のコートで、電気や水道の設備はなく、トイレは簡易型でした。そこでは水道の水で手や顔を洗ったり、コートに散水したりすることはできず、手洗いには当番や係の会員が家庭から運ぶポリタンク入りの水道水を使ってきました。それは今も続いています。 トイレについては、特に女子に不自由をかけています。「しゃがみ込み」型の「香り、お釣りあり」式ですから、便座と水洗に慣れた女児には当然不評で、他からも嫌われています。現在は練習中に女子のための「トイレ休憩」を設け、2キロほど離れた体育館まで車を走らせ、集団で「用」を済ませるようにしています。片や男子は、草むらなどで適当に「用」を足せて気が楽なのですが、急に「大」を催せば悪評の立つ、あの「しゃがみ込み」トイレに否が応でも駆け込まざるをえず、女子と同じように勝手の悪さを感じています。 桂川河川敷コートの最寄り駅はJRと阪急の二駅ですが、どちらもコートと遠隔のうえ、路線バスも便数が少ないというハンデがあるため、コートへは一部は自転車、ほとんどは自家用車で通い詰めています。ボクも、自宅から30分かけて車を飛ばします。この立地条件は入会を希望する子どもの保護者に「送り迎えが大変」というイメージを植え付けて、入会を諦めさせる誘因ともなるようです。 河川敷で一番怖いのは、雷です。現コートには、日除けに重宝な竹藪が隣接しますが避雷には無用なため、日ごろから雷鳴と雲行きに注意しています。周辺には避難するような建物はなく、四〇〇メートルも離れた駐車場への退避が唯一の安全対策です。 河川敷で悩まされるのは、風です。川伝いに吹く風は荒々しく風向きも速度も不規則で、特に冬から春先にかけての冷たい強風には今も「防戦」の手立てはなく、泣かされています。吹雪いたり砂嵐が巻き上がる現象にも、よく襲われます。 河川敷のコートは雨にも弱く、現コートは大雨による冠水に二度見舞われて、1ヶ月ほど使用許可が下りませんでした。また、水捌けは比較的よいほうですが降り続く雨の場合は表土がぬかるんだり、夕立や通り雨のような短時間に降る雨の場合だと、降り止んだ後に日差しが戻っても水がすぐに引かなかったりして、練習の打ち切りを何度も経験しました。 コートの土の状態は、晴雨によっても大きく変化します。晴れて乾燥すると滑りやすくなり、雨後や湿り気が多いときは表面がデコボコしたり、石ころがゴロゴロ出てきたりもします。春から秋にかけては、雑草刈りが欠かせません。 このように書くと、クレイの活動拠点は悪いこと尽くめの印象を与えます。確かに、交通の便のよい、風の影響も少ないコート、雨がやめばすぐに使える人工芝コート、シャワーや休憩室も完備というコートは、プレーヤーにとって理想の練習場です。そんな環境の元で練習できれば、どんなに心地よいことでしょう。 しかし、欲を言っては切りがありません。使用料が比較的安く、希望どおりの日時にいつも使える桂川河川敷コートは、二つとない恵まれた施設だと思います。 そのコートで汗を流す子どもたちは、コート整備をしながら水や太陽、雨風が、適度に必要なことを学び、人の支えや助け合い、譲り合いの大切さなども覚え、不利な環境でも恩恵の多いことを知って感謝する心を育みます。 そういえば、クレイクラブは23年前、電気も水道も届かない吹きさらしの、土のコートで産声を上げました。忘れてはならない原点です。ふと思い起こしました。にほんブログ村にほんブログ村
2013.04.01
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2010・7・28(水) 今年の京都の梅雨明けは雷鳴が轟いた日の翌7月17日に、平年より2日早く明けました。折しも、その日は日本三大祭の一つ、祇園祭の山鉾巡行日。 夏本番へ一気に突入した真っ青な夏空の下を、32基の絢爛豪華な山と鉾の「動く美術館」が、都大路をそろりそろりと巡行していきました。そして18日、多くの学校が夏休みに入りました。 ニックネームというほどのものではありませんが中学、高校時代の夏、ボクは「クロ」と呼ばれたことがあります。連日の練習で真っ黒けに日焼けして、靴下を脱ぐと白足袋を履いたような真っ白な足先が現れ、眩しいくらい目立って、ちょっと恥ずかしい思いをしました。が、それは多くの実戦を積むがために励んだ「修行の証」でした。そんなことを、夏休みを迎えるクレイの元気な子どもたちを見て、ふと思い出しました。いつの日も、子どもは太陽の子でありたいものです。 ところで、テレビなどで連日伝えていますが、今年の夏の暑さは異常です。その現象を引き起こしているのは、気温と海水温の高さ、局地的に降る雨量と雷の発生回数の多さなどです。 我が身の特異な体質を「冬の寒さは苦手でも、夏の暑さはへっちゃら」と別格扱いにして広言を吐いていましたが、そんな強がりを言っていられなくなりました。梅雨明けから26日までの10日間は府内の一部で雷雨が見られたものの、ここ、市の南部には毎日ギラギラと太陽が照り続けています。まだしばらく、雨は望めそうにありません。狂的ともいえる高温の襲来は脅威です。 ちなみに7月17日から26日までの去年と今年の、京都の気温を調べてみました。10日間の最高気温の平均は昨年が31.1度、今年は35.7度で、今年が4.6度も高いという記録です。両年の期間中最も高かったのは昨年が33.7度で今年が37.4度、その差は3.7度でした。今年は異常、と感じる訳です。気温が1度上がるだけでも、地球は環境破壊を受けると言われています。 ボクは日中、勤め先の事務室を独りで預かっていますが、従業員が戻るまでクーラーはつけません。全開した窓を、通り抜ける風と小型扇風機で温度調節をしています。と言っても、それはつい先日までのこと。今は、その流れる風を熱風と感じる日が多くなり、「耐えられない気温ではない」などと、やせ我慢を張る場合では、もうなくなったのです。 無理を押し通せるような達者な年齢は、とっくに通り越しています。毎日、熱中症患者が救急車で運ばれている、とも聞きます。欠かさず行く散歩も、さすがに不安で弱気になり、体調をチェックしながら慎重に歩くようにしています。そして事務所では、こまめにクーラーのスイッチを入れることにしました。 その暑さは、わが家の生活スタイルにも決断を促しました。勤め先のクーラーの多用だけでは今夏の暑さは乗り切れない、と読んだのです。自宅寝室にクーラーを新調しました。 例年の夏だと、睡眠を妨害されるのは暑さより、ある生き物が深く関与していました。我が「天敵」の蚊の生態です。ところが、その蚊も、この暑さには辛抱しきれないのか、とんと姿を見せません。猛暑が蚊を遠ざけて快眠を与えてくれた、とは何とも皮肉です。 暑さや蚊から逃れることができましたが、クーラーを買って気づいたことがあります。世の中で回り続ける過多なクーラーの数と、その運転に消費、排出される膨大なエネルギーの量です。それは地球温暖化に大きく関わる害悪であり、酷暑から教わる警告だと思います。涼しくなった、蚊に刺されなくなったと喜べるのは、いっときの気休めにすぎません。温暖化現象は、地球を取り巻く深刻な環境問題の一つです。一人ひとりが防止と改善に努めていかなければ、と痛感しました。にほんブログ村にほんブログ村
2013.02.23
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2010・7・23(金) 第92回全国高校野球の予選が今、各地で真っ盛りです。その高校球児に向けて、元プロ野球選手の桑田真澄さん(42歳)が朝日新聞に「野球を好きになる七つの道」という意見を載せていました。桑田さんはPL学園の投手として1年生のときに甲子園の土を踏み、5大会(春と夏)に連続出場して20勝を上げ、優勝と準優勝を各2回も経験するという、まさに「高校野球の申し子」のような活躍を見せました。卒業後は読売ジャイアンツに入団して21年間投げ続け、2007年にはアメリカに渡って大リーグのマウンドにも立ちました(メジャーデビューは対ヤンキース戦)。翌2008年、19試合に出て0勝1敗という成績を最後に引退を表明し、ユニフォームを脱ぎました。 ボクは桑田さんのファンだった訳ではありませんが、引退後即座に早稲田大学大学院のスポーツ科学研究科に入学して、翌年の卒業時に最優秀論文賞(論文のタイトルは「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」)を受賞されたことで、桑田さんに関心を持ちました。 桑田さんの「野球を好きになる七つの道」とは、(1)練習時間を減らそう、(2)ダッシュは全力10本、(3)どんどんミスしよう、(4)勝利ばかり追わない、(5)勉強や遊びを大切に、(6)米国を手本にしない、(7)その大声、無駄では? という考え方と疑問です。 (1)では、「体力と集中力には限界があると考えたからです」と説明し、「短時間で効果的な練習」をするように勧めています。(2)では、「最高時速でダッシュを100本、素振りを千回」などと命令されたときは、カウントする数を「3の次は5、5の次は7、10……」というふうに数字を誤魔化した、と明かしていました。「手を抜いたりサボったりするのはよいことではありません。でも、決して大きくない自分の身体を守るためには必要なことでした」と言っています。 (3)では、「ミスをした選手を怒鳴りつけたり、罰練習をさせる」のはよくないことだ、とした上で「ミスから学ぶことのできる選手の方が、成長が早い」と言い、ミスを恐れないでプレーするように、と伝えています。(4)では、「目の前の試合に勝つことを至上の目的」とする考え方に疑問を投げかけ、勝つことより「小学校時代は、礼儀と体力づくりの基礎を身につけることが大事」と述べています。(5)では、「人間は得意なことだけで生き抜くことはできません」、だから「勉強や遊びを大切に」と、忠告しています。文武両道の教えに通じます。(6)では、バッテリー間で決めるピッチャーの配球や試合全体の戦い方は、野球の発祥国米国よりも日本のほうが進んでいると断言し、「人格を磨くことのできる日本流の野球を受け継いで欲しい」と訴えていました。 (7)で桑田さんが言った「大声」とは、クレイの練習でボクが言う「大きな声を出せ」とは別で、「ノックの順番を待っている時と試合で相手をヤジる時」の声のこと。そんなことを続けるのは、スポーツマンらしくなく、カッコ悪いというのです。以上の七つ、どう感じ取りました? その日の朝日新聞は別のページに、東京6大学野球の立教大学監督を務め、後にプロ野球「国鉄スワロ-ズ」(現ヤクルト)の監督として指揮を執った砂押邦信さん(87歳)の死去を知らせていました。「1957年春から4季連続優勝した立大の黄金時代の基礎を築いた。石灰をつけたボールを使い、月明かりの下のノックで長嶋を鍛えた猛練習は語り草になっている」。 「長島」とは、ミスタージャイアンツと呼ばれて現役を引退後、読売ジャイアンツの監督を経て終身名誉監督になった長嶋茂雄さん(74歳)のことです(その長島さんの監督の下で桑田さんはプレーした)。長嶋さんは、その紙面で「立教に入学したころ、練習終了後に毎晩ノックを受け、バットを振らされたことは忘れられません。つらい練習でしたが、そのおかげでわたしの野球は基礎が固まり、プロでやっていく自信が付きました。わたしの野球人生において、砂押監督はとても大きな師でした」と恩師の死を悼んでいました。 繋がりのあるプロ野球OB三人が偶然揃った記事でした。厳しい練習で長島さんを鍛えた砂押さん、その練習に耐えて自信が付いたと言う長島さん、そして「練習時間を減らそう」などの7つの意見を示した桑田さん。「野球の道」を究めた人たちです。偉大な功績を知ることで人は、学びの門を広めて見識を深めることができると思いました。にほんブログ村にほんブログ村
2013.01.17
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2010・7・16(金) 「くどくどと,、説明が長すぎる」、「要するに結論は何なのだ」、「早く言え」といった具合に、ボクには人の発言を遮ったり急かせたりする悪い癖があります。短気は「損気」、「未練のもと」、「身を滅ぼす」などといわれているのに気短かを改められず、その言葉どおりの報いを受け続けています。 「こんなに客を並ばせて平気なのか!」、「早くレジ係を呼べよ」とイライラして怒りだしたくなるのは、スーパーなどのレジで並ばされたときです。買い物客が集中する週末や特定の時間帯のように、レジをフル回転させても客さばきがスムースに行えないときは辛抱もしますが、レジを幾つも閉めたままで待たされるようなときは、黙ってはいません。一緒に並ぶ客が「そうよね」と共感してくれたりするので、クレーマーになることを粋がっています。 自分の不用意が原因なのに家庭でイライラすることもあります。文具や手紙、メモ類の保管を疎かにして、どこへ片付けたか思い出せないときや、探しても見つからないときです。記憶力が鈍ってきたから自分の責任でもあるのに、「お前がどこかへ仕舞いこんで忘れたか、捨てたんじゃないのか!」などと八つ当たりをして反感を買うことも珍しくありません。うちの奥さんから。 頑固さも並外れです。一度決めた主義、主張は断固として譲らず、変えようともしません。気難しい分からず屋、融通の利かない石頭、意地っ張りの偏固者、といった性分です。その性格が招くのは無益で不利なことが多いのに、自分の流儀を頑なに守り徹しています。 そんな強情な性格に加えて、そのときの気分で振る舞ったり発言したりするという気紛れな気質も持ち合わせています。風任せで足の向くまま気の向くまま、勝手気ままに出かける、といった行き当たりばったりの行動に出たり、今日言ったことを翌日には取り消したり言い換えたりするという「ぶれ」も、しばしば起こします。その一方で、最近は集中力をなくしたり、何をするのも面倒くさく感じたり、情緒不安定になったりする傾向が現れ、また何事にも気分が乗らなかったり、ぼけーっと過ごしたりする時間も多くなって、怪しい先行きを予感させています。 これらの短気でイラチ、頑固で気紛れという性格については、この「RtoS」で折に触れて明かしてきたり、クレイの練習時に見せてきたりしましたが、まだ白状していない習癖があります。人見知りが激しいという、あまり大きな声では言えない本性です。 小学校の高学年のころ、親戚の、あるおばさんを訪ねると、決まって言われたことが「あんたは小学校に入る前、恥ずかしがり屋だったわね。いつ来てもお母さんの陰に隠れて……。話しかけると、よく泣かれたわ」でした。まったく覚えのないことです。そのおばさんの顔が恐かったから泣いたのかも知れないのにボクが、さも意気地なしであるかのような口ぶりと、会うたびに同じ話を聞かされるのが不愉快で、ボクはそのおばさんと顔を合わすのが嫌でした。けれど、そのおばさんが言うように、たしかにボクは小さいころから人見知りをして人前に出るのが苦手でした。 悲しいかな、その恥ずかしがり屋は大人になっても変わることがなく、初対面の人と話すのは今も不得手で、誰とでも気安くしたり親しくしたりする質ではありません。また、短気や頑固、人見知りが激しいという個性以外に、人付き合いが下手という側面も持っています。年長者には敬意を払いますが、気に入られるように機嫌を取ったり、ゴマをすったりするような器用さは、もとよりありません。調子を合わせてお世辞を言ったり、頭をぺこぺこ下げて気を引こうとしたりするような芸当もできません。ですから、可愛がられることが少なかったような気がします。下手な人付き合いは、不器用な世渡りと結びつき、ときとして「人間嫌い」という仮面を被らせてもきたようです。 ボクは自分のことを、退屈でつまらない、地味でおもしろくない人間だと思っています。実際、周りから、そのように言われもしました。面目ないことですが、しかし、これらの悪癖は、いつか明かさなければいけない、と考えていました。 その時機が、ついに到来です。65という齢を数えて「そろそろ」を自覚し、拙文で埋めたこの「RtoS」の連番が200という、ひと区切りを迎えようとしているのです。にほんブログ村にほんブログ村
2013.01.10
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2010・6・25(金) 梅雨に咲く花といえば、アジサイを思いつきます。夏の季語で、「紫陽花」とも書きます。はじめは白っぽい花を咲かせますが日が経つにつれ、淡い水色やピンクに彩りを変えたりすることから、その様を「七変化」と表現されています。種類が多く、咲く姿や形もまちまちで、アジサイなのか見分けにくいものもあります。 大山崎河川敷公園の、駐車場の倉庫の横にも、アジサイが植わっていました。白い花が群れて咲いていたので、すぐに気づきました。この先何日かにわたって、七変化を見せてくれるのでしょう。 ところで、アジサイはなぜ、雨が多くて蒸し暑い湿度の高い時季に咲くのでしょう。選りに選って、そんなうっとうしい梅雨時を好まなくてもいいように思うのですが、その時季は花を咲かせるための良い条件が調って、きっと好都合なのでしょう。ツツジやクチナシといった初夏に咲く他の花も、雨と相性が合いそうですが、アジサイは殊の外、雨がよく似合う花です。雨が降らない日が続くと精彩を欠いて見劣りします。 アジサイは葉も特徴があり一目で、それと分かります。大きくて光沢のある深緑色、付け根の部分は薄緑色をして、ほんのりと明るい光を放ちます。葉の周囲はノコギリの歯のようにギザギザで、葉の中央には白い葉脈が左右に走っています。雨の日は葉の表面に丸い雨粒を転がせて戯れ、しっとりした味わいを醸します。 先日、もう一つの「梅雨の花」といわれる花を知りました。茎が3mも伸びるタチアオイ(立葵)です。枝や葉は少なく、花のつぼみを茎の回りにぎっしり付けて、下方から順序よく開花させていきます。咲く期間はアジサイよりも長く、暑い盛りも咲き続けます。アジサイとタチアオイが「梅雨の花」である共通点は、花の咲き始めが同時期ということに由来するようです(タチアオイには「梅雨葵」という別名がつく)。 タチアオイとの出合いは、30年ほど前の8月が最初です。道ばたに無造作に咲いていました。花の色は白で、中心が薄いピンクに染まっていたように記憶しています。強い日差しを受けても数日間咲き続ける逞しさと、ハイビスカスに似た、どこか野性的な花びらに魅せられました。それ以後も空き地や路地で見かけましたが、花の名は知らずじまいに過ごしてきました。ある人の誕生日に、切り取って差し上げたこともがあります。 近年、そのタチアオイは庭や畑で栽培されて、赤、黄、紫、ピンクなど、いろんな色の花が見られるようになりました。品質も向上しているようで、艶やかさも増しました。そんな姿を見て、あらためて名前を覚えました。 アジサイの花言葉は「無情」・「辛抱強い愛情」・「冷淡」で、タチアオイは「野望」・「熱烈な恋」・「高貴」だそうです。アジサイの「和」(和風)に対してタチアオイは「洋」(洋風)という気がしないでもありません。異なる印象を持つ梅雨の花たちですが、じめじめした湿っぽい雨期を追っ払うように、どちらも競って小粋な姿を表します。にほんブログ村にほんブログ村
2012.12.05
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2010・6・9(水) 高校時代に、収集したものがあります。テニスに関する書籍です。 「上達法」・「攻略法」といった手引き書も集めましたが、興味深かったのは木の棒や板・手袋でボールを打ったというテニスの発祥当時の様子、貴族が育てたスポーツというこぼれ話、天然芝の上で競技するスポーツといった余話を記した本、さらには名選手の生い立ちや功績・エピソードが書かれた事典ふうの本などです。 テニスが日本に伝えられたときの史実や、日本でソフトテニスが生まれた経緯などにも関心を持ち、いろいろと買い揃えました。どちらかといえば、硬式テニスの本が多かったように思います。ラヴ オール(love all・ 0-0・「プレー」という試合開始の合図・「全てを愛せよ」)、フィフティーン ラヴ(fifteen love・15-0・ソフトテニスで1-0のこと・「15乙女の恋心」)、ラヴ フィフティーン(love fifteen・ 0-15・「恋せよ乙女」)というカウントの採り方が、なんともおしゃれに感じました。 その本は、ほとんどが消えてしまいました。貸して、戻ってこなかったというのが最多の理由です。引っ越しのときに紛れたというのもあります。貴重な本も幾冊かあったのに残念です。 意中の人を思うとき、どういう趣味や思考を持ち、どのように成長してどんな性格に育った人なのか、と気にするのと同じように、好きなものや興味のあるものに対して、より多くの情報を手に入れたい、いろんなことを知っておきたいと欲するのは誰もが、ごく当たり前に抱く感情だと思います。テニスを好きで、その知識を深めたいという欲望は、書物を多読することで満たされると考えました。実際、歴史や起源を遡源したテニスの「世界」を見ることにも繋がりました。 ところが、本を読むだけでは飽き足らず、知識を深めたいという欲望は用具としてのラケットの探究にも向けられます。語源が「手のひら」というラケットは、文字どおり手のひらの役目を果たし、プレーヤーの身体の一部としてボールを裁きますが、用具という「使命」を超えた、とても神聖なものに思えたのです。 ラケットメーカー(河崎ラケット工業株式会社)に勤めたことは、以前に書きました。ラケットがどのように作られているのか、それを知ることはテニスの知識を深めることにも結びつくと信じ、進路に選んだのです。テニスラケットが木製全盛期のころでした。 初めてラケットの製造現場を見たときは、木くずが散乱して粉塵が舞い上がる薄汚れた、ただの材木工場という印象を持ちました。けれど、そんなホコリっぽい雑然とした作業場から、次々とラケットの「基」が生まれることに目を見張りました。木製ではなく合金やカーボンなどのラケットなら、それほどの感動は得られなかったと思います。木は、大地に何年も根を下ろして育つ偉大な生物。枝ぶり、節の膨らみ、木目の模様などは、1本として同じものはなく、そこに木の持つ神秘と神々しさを感じ、加工されると、さらに柔らかくて温かい感触を覚え、惹かれました。 木製ラケットのフレームは幅3センチ、長さ150センチ、厚さ2ミリほどの、種類の違う薄板4、5枚を帯のように束ねて接着した合板が主体です。その合板は円形の金型をはめ込んでU字型(ラケットの頭部を象る)に曲げ、「イチョウ」、「カブト」という小さな木片と組み合わせて下方の側面を機械で押しつけながら接着し、シャフトと呼ばれる部分を形成します。そのとき、素地はもうラケットらしい形状を表して乾燥工程へ送られます。乾燥を終えるのは翌日で、その後は木工職人の手作業による細かな削りと磨き、ガット穴を開ける工程などに進み、続いて厚さ約2センチの側板(がわいた)という2枚の板で、フレームの下部(ラケットの面に平行させて)を貼り合わせます。その部分を8角形に削るとグリップが仕上がり、ラケットの原型が出来上がります。 木工作業が終わるとラケットの仕掛品は塗装と飾り付けの持ち場へ移ります。そこでは手書きの線を描いたり、塗りつぶしたりした後、マーク(ラベル)とデコレーションテープで飾ります。その「化粧」が済むと残る工程は2つ、ガット張りとグリップの革巻です。主に主婦の内職用として外部に委託されました。ラケット1本のガットを張る時間は約10分、グリップの革巻きは30秒で、グリップエンドに「K」のロゴマークが入ると製品の完成です。ここまでの工程には、およそ20日間を要しました。 ラケットの色・重さ・バランス、グリップの太さなどを指定する、特別注文が流行った時期があり、校名や自分の名前を標したマークを貼り付けることが可能で、オリジナルラケットを持つことができました。ひびが入ったり、折れたりすることが多く、また、弾力がなくなることが早かったりして、寿命は決して長くありませんでしたが、木製ラケットには粘り強い「しなり」と鋭い反発力が備わっていたような気がします。ボールを打ったときの振動は心地よい響きを、ラケットが弾くボールの音は爽やかな余韻を、それぞれ手から腕、肩を経て身体全体へ伝えていました。木の持つ「張り」と「和み」を肌で感じることができたように思います。しかし、木製ラケットは新素材(合金やカーボンなど)で開発された製品の台頭に押され、「次世代」に、その身を譲ります。そして30年ほど前、名門「K」ブランドは突然姿を消していきました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.11.17
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2010・6・2(水) 何を教えるにも基礎(基本)が第一です。テニスの場合はラケットの握り方が大事、真っ先に教える基本です。 ラケットの握り方なんて簡単、と思われがちですが、なかなか覚えられない子が少数ながら必ずいます。上達の妨げになったり、後々の技の大きさや深さを極められない原因になったりしますから、しっかり教えます。また、習得してくれたものと安心して目を離したある日、実は特異な握り方をしていたという例に遭うことも少なくありません。時間を掛けてチェックを繰り返すことが必要です。一度覚えてしまったことからの修整は、困難な場合が多いのです。 次に教えるのは初心者の指導で最も難渋するものの一つ、フォアハンドの素振り、ラケットにボールを当てる練習です。テニスは、見た目も易しそうに映りますが実技は難しく、トスを受けてボールを打ってみると空振りや、妙な回転が加わったり変な方向に飛ばしたりすることが多く、手強いスポーツであることを実感するはずです。フォアハンドの素振りはバックハンド、サーブ、スマッシュ、ボレーなど、すべての打法の基礎になります。 かつて過ごした中学や高校時代、新学期にはテニス部に数十人の新入生が入部を目指しました。しかし上級生たちは、入部した新人が10人前後に減るまで毎日、素振りや過度のランニング、トレーニングを与え続けました。限られたコート数で「大所帯」を抱えることはできず、「根性試し」と銘打って厳しい練習、激しい競争を体験させ、部員数の調整を試みたのです。素振り500回、校庭10周、ウサギ跳び5分などの無理強いは、ざらでした。ボクがキャプテンになったときは、手荒な練習を指図したことはありませんが、素振りには厳しいノルマを課しました。 素振りは、ボールの打ち方を覚える前に会得しなければいけない技です。振る回数を増すことで力の配分が器用になり、汗を流すことで腕や足、身体をスムーズに動かせるようになり、いくら振っても疲れを感じさせないフォームを生み出してくれます。 さて、テニスの話ではありませんが、「1日千本は素振りさせた」と言う、基礎練習を大事にした人が新聞に載りました。東京6大学(慶応・早稲田・明治・立教・法政・東京)野球の春のリーグ戦で、11季ぶりに母校を優勝(5月31日)に導いた慶大監督の江藤省三さん(68)です。 江藤さんは熊本県生まれ。中京商業高(現中京大中京)から慶大を卒業して読売ジャイアンツに入団しました。その後は中日ドラゴンズに移籍して引退し、コーチなどを経験しています(兄の慎一さんもプロ野球選手)。その江藤さんが慶大初というプロ野球出身の監督に就いたのは、去年の11月のこと。そのとき、「早稲田の斎藤佑樹君を打って優勝できたら最高だね」と言ったそうです。4年前の夏の甲子園で「ハンカチ王子」の名で高校野球ファンをわかせた優勝投手(早稲田実業高)のことです。 慶大は早大との優勝決定戦の2回表、先制の2点を奪って先発のエース斎藤君をノックアウト、以後も終始リードして勝利しました。優勝インタビューで江藤さんは、「選手はよくついてきてくれた」と述べています。練習量を増やし、その多くを基礎練習に割いたのです。その中の一つが「1日千本を振り込んだ」という素振りです。江藤さんは、「王貞治さん(ソフトバンクホークス球団会長)は基礎練習に時間を費やしたぞ」などとプロ野球時代の経験をアドバイスしたようです。学生たちは、「監督の話を聞いて、プロでもこれだけやるんだ……。監督につていこうと思った」と話していました。 早大には斎藤君を含めて3人のプロが注目する好投手がいたそうですが、慶大の投手陣は、その投手たちと互角に投げ合いました。慶大に勝利を引き入れたのは、相手の好投手を打ち砕いた打撃力です。打たなければ勝てない、だから1日千本は素振りをさせよう。その着想が実を結んだのです。努力の結晶が、優勝経験のない学生たちに歓喜をもたらしました。基礎練習の大切さを教えてくれた美談です。にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.25
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2010・5・24(月) 乗り継ぎ手続きの受付カウンターでは、ボクたち夫婦は数少ない「外人」でした。その外人が頼れるのは日本語だけです。しかも、孫たちの住む麗水へは、麗水空港行きの飛行機でしか行き方が分かりません。だから、飛行機の運休のために変更しなければいけない行程は、娘に決めてもらうしかありません。幸い、娘への電話はすぐに繋がりました。係員は娘に麗水空港に近い他の空港まで迎えに来られないか、と話していました。けれど、車を運転してくれる娘婿は外出していて、娘は即答できません。当初の、ボクたちが麗水空港に到着すると伝えていた時間まで間があるため、娘婿はダイエットのためにいつも通うサウナへ出かけているというのです。 娘からの返答を待つことになり、ボクらは混み合うカウンターから航空会社の応接室のような小部屋へ通されました。夫婦だけになって待つこと、小一時間。係員が「娘さん夫婦が納得してくださいましたので、釜山空港行きの座席を確保しました」と知らせにきました。航空会社が釜山(金海・キメ)空港行きを提案し、娘夫婦が承諾したというのです(そのように決着するのに、一悶着ありました。その、とっておきの裏話は機会があればお聞かせします)。その日のうちに孫たちに会えるようになったことに安堵しましたが、麗水と釜山は300km近く離れています。片道2時間以上もかけて出迎えに来てくれることを考えると気が重くなりました。 実は前回までの孫たちとの再会には、関西空港と麗水空港を結ぶ国際線が就航していないため、関西空港を発って釜山空港で降りる航路を使っていました。ところが、先述のように釜山空港から孫たちの家までは名神高速道の京都・静岡間ほどの距離です。そんな遠くまで出迎えに来てくれるのは申し訳ない気がして、今回はソウルの金浦空港で国内線に乗り継ぎ、麗水空港に降りるという行程に、初めて挑戦したところだったのです(麗水空港から孫たちの住む家までは車で30分という短い距離)。釜山からバスや鉄道を利用する手もあるのですが、路線が複雑でボクらみたいな韓国語を話せずハングルも読めない者には乗りこなすことは無理、車で迎えに来てもらうしか方法がありません。 航路を変更して孫たちの家に行くの目途は、ひとまずついたのですが、その後も、事はスムーズに進みませんでした。2つ目のハプニングです。 娘夫婦と電話で話し合った係員が、搭乗手続きを済ませてボクたちに搭乗券を手渡しながら「もう、搭乗口へ向かったほうがいいですよ」と告げます。ボクたちは丁重に礼を述べ、3階の出発ロビーへ進みました。搭乗券を見せると案内係も、指で搭乗口の方向を示して、早く行け、というような素振りを見せました。ボクたちは急ぎました。娘夫婦は、この飛行機の釜山の到着時間に合わせて、すでに家を出たはずです。乗り損なっては大変、もう後はない、と。 ところが搭乗口は、閉ざされたままです。入口に立つ女の係員に搭乗券を見せると、両腕で×のサインをして見せます。えぇっ、搭乗を締め切ったというのか? 今は15:08、まだ(出発)時間前じゃないか、乗せてくれ、日本語を話せる社員を出せ、などと身振りと片言混じりの英語で必死に訴えました。しかし相手は、ノー、ノーの一点張りです。言葉が通じない者同士のやりとりは、ケンカの始まりに見えたのでしょう。ボクたちの回りに人だかりができました。そこへ韓国人青年が割って入り、ボクの搭乗券を確かめて「大丈夫です。この飛行機は15:30発、搭乗開始は15:15ですから、あと5分ぐらいで搭乗できますよ」と日本語で教えてくれました。 安心した、というより恥ずかしい思いをしました。空港の係員などに急かされたために早く乗らないといけないと焦って、搭乗時間を間違えてしまったのです.よく見ると、搭乗券には15:15と15:30という2つの時間が印字されていました。搭乗時間の15:15を出発時間だと思い込んでいたという訳です。なんという「早とちり」なんでしょう。 「Please wait a little」は、たしか「しばらくお待ちください」の意味だったと覚えています。両腕で×のサインなどしないで、そう言ってもらえたら恥をさらさずに済んだのにと恨めしく思いました。金浦空港は仁川(インチョン)空港に次ぐ主要な韓国の国際空港です。そのスタッフなら隣国の、せめて「しばらくお待ちください」の日本語ぐらいはマスターしてほしいな、と思いました。 度重なった2つのハプニングに、身体も心もグッタリです。朝の7時に京都を発って孫たちの家にたどりついたのは夜の8時半です。孫たちも待ちくたびれた様子で元気がありません。万国博覧会が2年後に開催されることを契機にして、日本との行き来がもっと楽になるよう願望しました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.14
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2010・5・21(金) こんにちは。「ふるさとラジオ」担当のアナウンサー、柿沼郭(かきぬま・かく)です。いかがお過ごしでしょうか。さて、この放送は、いろんな所で聴いてもらっています。先ほど京都市在住の森昭夫さんが、海外から次のようなメールを送ってくださいました。ご紹介します。 「ふるさとラジオ」の郭さん。いつも、心やさしい進行で番組をお届けいただき、ありがとうございます。ラジオは仕事中も散歩のときも手放せず、正午には必ず「お昼のニュース」を聴いております。実は今、わたしは韓国南部の釜山の西南およそ300kmの、海が望める麗水(ヨス)という静かな地方都市に来ており、NHK福岡放送局から届く「ふるさとラジオ」に耳を傾けているところです。1週間の滞在予定で、この街に住む孫に会いに来ているのです。日本との時差はありません。ラジオの音質は日本国内で聴くのと同じで、とても鮮明です。 ここ麗水では、2年後の2012年5月に万国博覧会(海洋博)が開かれます。道路や鉄道の工事が進められ、街は活気づいています。近くに麗水空港があり、関西空港と直行便で結ばれると、とても便利(1時間あまりの飛行)です。そんな空路の開設と、たくさんの観光客の来訪を願っています。 少し遠くからですが、麗水万博の宣伝を兼ねた「ふるさとラジオ」への応援メッセージです。 そうですか。韓国でも、わたしどもNHKの電波をキャッチできるんですね。森さん、ありがとうございました。 これは5月14日(金)午後1時5分、NHKラジオ第1放送で流された番組の一部です。帰国後、何人かから聴いたよ、と言われました。 これまでにも何度か書いてきた孫は長男(10歳)、次男(8歳)、長女(6歳)、次女(3歳)、三男(1歳)の5人になり、次女まではソウルで、三男は麗水で生まれました。その孫たちには、ここ数年は年に2度のペースで会いに行くようにしており、麗水へは3度目の訪問になりました。日本では寒い日が続いた、と聞きましたが、麗水では連日初夏を思わせるような陽気でした。 その韓国行きの初日、関西空港からソウルの金浦空港に到着して国内線の麗水空港行きに乗り継ごうとしたとき、思いもかけないハプニングが起きました。 乗り継ぎ手続きを行うカウンターへ行くと、受付が混雑していました。並んだ列が一向に進まず、何やら言い争っているような声も聞こえました。30分ほど待たされて進み出たカウンターで、係員が説明を始めましたが、ボクには通じない韓国語です。ただ、「キャンセル」という言葉だけが読み取れました。「搭乗を取り消ししますか?」と問われた気がしたので咄嗟にボクは「ノー」と答えました。キャンセルの意味は、「予約を取り消す」と覚えていたからです。なんで、キャンセルしなきゃいけないのか、と不思議でした。 合点がいかない様子の係員はボクのパスポートを見て、慌てて日本語を話せる係員を呼び寄せました。そこで分かったのは、キャンセルとは、航空会社のほうが予約を取り消すという意味、つまり麗水空港行きの飛行機は運休になったというのです。こんな英語ぐらいは、ちゃんと理解しなければいけないと思いますが、回りくどくて難しい解釈です。「ストップ」とか「サスペンド」を含めた言葉で話してくれていたら理解できたのに、と無学を恥じました。 麗水空港行きは他の空港から飛来した機体を使うのですが、その空港で落雷か何かが起きて飛行機が離陸できないというのが運休の理由です。そして、その日は代わりに飛べる飛行機がなく、また運休になる便が最終で、当日麗水空港へ飛ぶ飛行機は、もう1機もないと聞かされました。受付が混雑したのは、その運休の確認に乗客が詰め寄ったからです。日本語を話せる係員は「今晩、このソウルのどこかで泊まることはできませんか?」と訊ねます。急な展開に、ボクは戸惑いました。娘(孫の母)夫婦には、麗水空港まで車で迎えに来てもらう手はずになっていたのです。その変更を伝えるためにも、娘に早く連絡を入れなくてはいけません。係員に、娘の携帯電話の番号を教えました。 (続く)にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.06
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2010・4・26(月) 昔勤めていた会社での出来事です。 お昼時、机が向かい合って並ぶ業務課の小さな事務室で、8人ほどの社員が午前中の仕事の進み具合や午後からの段取りなどを話しながら、和やかに食事をしていると、総務課の係長が、ふらっと入ってきました。職務上の役目「見回り」でもないのでしょうが、話好きで社内をぶらぶらすることを日課にしていました。 係長は、すでに昼食を済ませたようで、一人ひとりのお弁当の中身を冷やかすように見て回ります。「自分で作ったのかい?」、「夕べの残りものかい?」、「店で買う弁当より安上がりだろ?」といった調子で、何でもずけずけと、ものを言う人でした。そんな係長が入室すると事務室は、いつも白けました。会話をやめ、係長の問い掛けにも無言でいることが多かったようです。 その係長はボクの上司の課長に「おいしそうですね」と声をかけた後、平社員のボクの席で立ち止まり、何かを話しかけてきました。ところが、それに答えたボクに係長は急に怒りだします。「何だと!」と、顔をまっ赤にして怒鳴ったのです。 どんな経緯で、どのように受け答えしたのか、詳しいことは記憶にありません。ただ、「ケチケチしないで……」と言った言葉が原因だったことを覚えています。つい口が滑って出た言葉、怒らせた理由は「ケチケチ」が、がめつい、意地汚い、しみったれという意味を含む言葉だったからです。「ケチくさい係長」と言われたのに等しく、係長は面目をつぶされ、それこそ腹の中が煮えくり返るような怒りを覚えたのでしょう。ボクは直立して、「すみません」と頭を下げました。けれど係長は「ふざけたことを言うな」、「けしからん」、「お前はいつも、そうだ」、「生意気だ」などと声を嗄らして怒り続けます。見かねた課長が「まぁ、まぁ。その辺で許してやれよ」と割って入ってくれました。けれど、係長の腹立ちは収まりませんでした。 そんな雰囲気の中、改めて席に着き、お箸を持ち直しましたが、お弁当を食べる心境になれません。回りの同僚も気分を害され、お箸の動きは重たげした。目はお弁当一点を見つめ、身体は少し前屈みにして口も利かず、もそもそと食べ続けました。係長の怒りは、ぶつぶつ言う小言に変わりますが、それを聞くのも苦痛で、事務室に気まずい空気が流れて、気持ちはますます沈んでいきました。後でみんなから、たいへんな恨みを買ったことは言うまでもありません。 その係長は欠勤や遅刻が多く、ボクは好きではありませんでした。他の社員も敬遠していました。だから、適当に相手にしておけばよかったのに、つい調子に乗って馴れ馴れしく話し込み、ぽろっと失言してしまったという訳です。ことわざの「口は禍(わざわい)の門」を地で行く失敗例です。 さて話は変わって、先週のことです。コートでいっせいのお母さんが「5月2日と3日の連休は、子どもたちを岐阜の実家へ連れて行きますので、練習を休みます」と伝えてきました。ボクの返事は「雨が降ればいいなぁ」でした。それを聞いた、いっせいのお母さんは「あ、はぃ」と答えて笑っていました。 その夜、床に就いて寝始めたとき、急に昼間のいっせいのお母さんとの会話を思い出し、目がぱっと開いて、びくっとしました。なんということを言ってしまったのだろう、と。いっせいのお母さんは笑っていたけど、内心は不快に感じていたに違いありません。「雨が降れば、クレイのメンバーも他のクラブの選手たちも練習できなくなるから、いっせいは練習の遅れを気にしなくて済む」という理由から「雨が降ればいいなぁ」と言ったのです。「京都は雨が降っても、岐阜はお天気になればいいねぇ」と言うべきでした。 気遣いせずに暴言を吐くのは、悲しいかなボクの悪い癖、よく起す失敗談です。もう一言付け足すとか、違う表現にするという工夫が不得手なのです。しかも、その場で気がつくことが少なく、大概はずっと後になって思い知るという始末です。「ケチケチ」の発言は過ぎたこととして忘れられても、「雨が降ればいいなぁ」はグサッと胸に刺さる放言、いっせいのお母さんの胸に、いつまでも残る言葉でしょう。「ボクの悪い癖です」では済まされません。再発を阻止できる確信は持てませんが、大いに反省しました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.09.27
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2010・4・12(月) 4月を迎えて、サクラが散り始めました。入学式や入社式が終わって、新入生や新入社員が新しい生活をスタートさせました。学校ではもう授業が行われ、会社では新人教育が開かれているころでしょう。新しい環境に慣れるには、分からないことや戸惑うことが多いものですが、根気と勇気を持続させなければいけません。 入学したての小学生時代で思い出すのは、上級生に囲まれて歩いた集団登校です。いつもの遊び仲間が主導する登校でしたが、そのときばかりは神妙な面持ちで列を作りました。背負ったランドセルは新品のピッカピカ、高貴そうな皮の匂いがぷーんと鼻を刺激しました。そのランドセルは、ノートや教科書、筆箱などが中でぶつかり合ってカタコトと音を立て、小さな背中で踊っていました。 もう一つ、カチャカチャという音もしました。プラスチックの給食用の食器が触れ合う音です。食器は布の袋に入れて、ランドセルにぶら下げていました。お皿もコップもお箸も全部水色、そのコップで飲んだのは、牛乳代わりに出された嫌な臭いのする飲み物、脱脂粉乳でした。鼻をつまんで飲んだものです。そういえば、あの食器袋も、独特な匂いがしたことを思い出します。 進学した中学校で、小学校との違いを知ってドキドキしたのは、教壇に立つ先生が教科ごとに入れ替わることでした。高校では、授業を受ける生徒の顔ぶれと教室が、その都度変わって驚きました。毎日が新しいことの発見です。 時は移って同じ4月、ある会社に就職しました。直後の新人教育は、市内北区の大徳寺で受けました。4泊5日の合宿です。朝から座禅ばかりを、させられたように覚えています。夜は講話や説教を聞かされました。「学生気分から早く抜けだして、あらゆる厳しさに耐えられる強い心身を育てること」が課題ながら、早く日程が終わってほしいと切願した懐かしい研修です。 その後は社内で、あいさつやお辞儀の仕方、電話の受け方、伝票や書類の書き方などの実務の訓練を受けました。ほとんどが学校で学ばなかったことです。知らないことが多く、毎日が目新しい修行の場でした。時代が変わった今の若者は、もっと厳しい複雑な実習を受けているのかも知れません。 先日、「困った新入社員」というテーマのラジオ番組を聞きました。新入社員が欠勤を知らせるメールを携帯電話で送ってきたという一例が紹介されていました。メールを受けたのは上司である課長、驚いたそうです。 携帯電話は今や必需品です。動画や写真も見られるアイパッド、スマートフォンという多機能が備わる機種が次々と発売され、使い方も多様化しています。手のひらサイズのパソコン、ともいわているようです。 「欠勤」メールを見た課長は、「休むときはメールではなく電話で知らせろよ」と指導したそうです。ところが「えっ、どうしてです? なぜメールではダメなんです? 無断欠勤より、ましでしょ?」と社員が食い下がって、課長は返答に困ったようです。年代によるマナーや常識などの理解度のズレ、認識の違い、それを解きほぐすのは難しいことです。 偶然ですが、ラジオで聞いた事例と同じような出来事が勤め先でも起きました。若い社員(運転手)が、自身の休日だった夕方に「風邪をひいたので明日、休みます」と上司にメールで知らせてきたのです。ところが、上司がそのメールに気づいたのは翌朝です。すぐに送信してきた社員へ電話を入れ、「あまりにも急な話なので代わりは見つからないかも知れない。我慢して出勤してくれよ」と説得しようとしましたが、社員の電話は電源が切れていました。上司は慌てて休暇で寝ている社員を電話でたたき起こし、代わって出勤するよう頼みます。しかし、欠勤届けの方法に反発して、引き受けてくれる社員は、なかなか現れてくれません。上司は焦ります。「なんで、電話で(前日に)知らせてくれなかったのか」と、メールを送った社員を恨みました。結局、勤務を引き受けてくれたのは4人目でした。けれど、とても不機嫌だったといいます。 欠勤を知らせた社員は、電話では面倒くさい、いろいろ訊かれるのも煩わしい、という理由でメールに頼ったのかも知れません。しかし、その選択は過ちです。欠勤は、急な場合であれば口述で申し出るのが礼儀、前以て届けるのなら書面を提出するのが定めです。メールは便利だけれど、礼を失する使い方に溺れてはいけません。便利さを求めたいのなら他の機能に目を移して、試すべきでしょう。ただ今回のケースは、当日の混乱を招いたのはメールのチェックを怠った上司にも非があると言われれば、そのとおりです。メールによる伝達方法は将来、主流を成すのかもしれません。 便利なことの裏返しには、必ず落とし穴のような危うさが仕組まれている、と見るべきです。本当の便利さは、そんな危険に気づいてこそ生かされます。 携帯電話に潜む危険度は、その便利さに比例して顕在し、その怖さは多くの人の知るところです。そんなことも言い含めた教育が、新人にも必要だと改めて思いました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.09.13
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2010・3・23(火) ボクの奥さんの兄が亡くなったのは1年前。その1周忌が行われる岩手の奥さんの実家へ、夫婦で向かうことになりました。法要は日曜日の午前11時に始まります。京都を、朝一番の列車に乗っても間に合わないので、前日の午前中に出発して夕方に着くという予定を立てました。東海道と東北の新幹線を乗り継ぐ片道約千km、およそ6時間の道程です。 ボクら夫婦は、まだ働いています。岩手へ行く土曜日は、互いに午前の数時間だけの勤務にしてもらいました。 奥さんに前以て聞いたところ、仕事はボクのほうが1時間ほど早く終われそうで、それなら、その時間を使ってお弁当を作ってみようと思いつき、調理することにしました。ふだんからボクは職場で昼食を作っているのです。 お弁当作りで大切なのは、赤・黄・緑の彩り、ほどよい塩味、お米の水加減だと思います。赤は梅干しと焼き鮭、黄は玉子焼きとニンジン、緑はピーマンと水菜の漬け物といった取り合わせを考えて、事前に食材を準備しました。お弁当に限らず料理は色彩、体裁が勝負です。華やかさを感じさせないと、おいしそうに映りません。 奥さんの実家は農家で、われわれ夫婦が1年に食べる半分ほどのお米を、毎年送ってもらっています。昨年届いた、そのコシヒカリ1.5合を職場の電気釜で炊き上げました。日ごろの食す量から割り出して、ボクは0.9合、奥さんは0.6合に振り分けます。 ご飯は、やや固めに炊きます。ボクの好みで、ご飯粒の形と噛み砕くときの、つぶつぶ感を生かしたいからです。炊けたご飯は、充分蒸らします。 電気釜の蓋を開けると湯気がふぁーっと溢れ出て、ご飯の香りが一面に広がります。それは、米を主食とする国民だからこそ解る、貴重な匂いです。味噌汁、糠漬け、おふくろの味を連想させ、食欲をそそられます。一粒一粒がきらきら光っていました。 蒸らしたご飯は熱を冷ましてから、お弁当の容器に移します。そのとき注意しなければいけないのは、ご飯を混ぜ返さないことです。立っている米粒の形が崩れて、きらきら光る輝きが台無しになるからです。 梅干しと鮭、水菜は塩味が利いて、それを一口食べると、お箸がどんどんと進みそうな気がします。ピーマンとニンジンはキャベツを加え、千切りサラダにしてイタリアンドレッシングを添えました。玉子焼きは、塩を隠し味程度の少量を加えて焼き上げます。サラダと同様に、あっさりさせて、主菜の味を引き立てるのです。 調理に気を遣ったのは焼き鮭です。魚の臭いや焼いた煙を、職場の事務室に残してはいけない、という懸念です。ホイル焼きにしました。 盛り付けは、おかずを容器の上部に、ご飯は下部に分けて詰めていきます。おかずの配色に趣向を凝らすのは、このときです。大きさの違う2つのお弁当ができあがりました。思いどおりの、色彩豊かなお弁当です。他に用意したのはデザートのミカンとバナナ、お茶です。お茶も職場で、お湯を沸かして作りました。さらに、もしも、というときのために、お箸(割り箸)は3膳を持っていくことにしました。 待ち合わせた京都駅で奥さんは、いきなり「どんなお弁当?」と訊ねます。「乗ってからのお楽しみ」と答えると「ふーん」と、なんだか嬉しそうでした。 食べたのは、乗った「のぞみ」が新横浜駅を通過中の12時ごろです。包みを広げて「わー、きれい」、「おいしそう」を、わが奥さんは連発します。そんな、うわべだけを感心しないで、心遣いや工夫の跡も推知して家事の参考にしろ、と目で応えておきました。量もピッタリだったようです。 食べ終えたころ、駅弁を広げていた隣席の青年が何やらモタモタする様子に、奥さんが気づきます。割り箸の片方が折れてしまったらしいのです。「あら、たいへん。1本じゃ食べられないわね。余ったお箸があるから、それをあげるわ」と奥さんは、「もしも」のためにボクが用意したお箸を青年に手渡します。困り切っていた青年は「助かったー」という顔をして受け取り、奥さんは青年の安堵した表情を見て「よかったわね。役立って」とボクに一言。 奥さんはボクの作ったお弁当を初めて食べて感激し、たまたま居合わせた青年はボクのちょっとした心配りに救われたようです。少し、誇らかな気分になりました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.08.10
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2010・3・15(火) ある小さな町に、ユニークな企業がありました。社長が大のソフトテニス(以下S.テニス)好きで、社員もほとんどがS.テニスを親しむという社員数約150人の、電機部品を製造する会社です。社員の採用方法も変わっていました。面接で、「当社の仕事をする上で、S.テニスを習ったりプレーしたりすることは重要と思うか?」と社長が訊ねて、「はい」と返事しなかった応募者には不採用を通知したそうです。 社内のS.テニスでも先頭に立つ、その社長のS.テニス歴は50年でした。昔、「その道」の熱中・熱狂者のことを、聞こえはよくありませんが「……狂」と言ったものです。その社長は、まさに「S.テニス狂」だったのでしょう。 社長がS.テニスを社内に取り入れようとしたのは、礼儀を重んじて相手を敬うというテニスの伝統的な考え方に倣って「社員の健康促進、社員間の絆の強化、明るい職場づくり」を目指そうと考えたからだそうです。会社の玄関ホールには、優勝カップ、トロフィー、賞状、フラッグ、写真などが所狭しと並べられていました。社内、町内、県大会の賞品・記念品で、S.テニス以外のものは、あまり見当たりません。使い古したラケットやテニスのユニフォームなども展示されていました。 社員全員がS.テニスのルールを覚えて、その大半は試合ができました。年に1回、ランク別の職場対抗や個人戦が社内で開かれ、優勝すれば金一封が出ました。町や県の大会への出場にも社長は積極的で、支援を続けています。良い意味での競争心が芽生えて社内に活気が生まれた、と社長は喜んでいました。 クレー(土製)コート3面が、社屋に囲まれるようにして並んでいました。よく整備されて白いラインが、いつもくっきりと引かれていました。雨上がりの日は、コートの雨水を掃き出したり、新しい土を入れたり、表面を均したりする作業を社員は欠かしたことがありません。コートを、常に良好な状態に保とうと手入れに余念のない社員は、仕事でも優れた力を発揮して重要なポストに就いてくれる、と社長は誇らしげに話していました。 会社の就業時間は朝8時15分から午後5時45分、昼休みは正午から1時30分までです。昼休みを1時間半にしたのは、多くの社員が練習できるようにという、社長の心配りです。当初は、女性社員や初心者が殺到して、コートの取り合いが起きたようです。そのため、抽選でコートの使用が割り当てられました。以後、それぞれが食事時間を調整するようになり、時間とコートを効率よく使うことになったそうです。 早朝にも練習する社員がいました。一汗流して、すっきりした気分で仕事を始めたい、という年配者です。夕方からは、残業のない社員が夜間照明の下で練習に励みました。この時間帯に練習するのは中年の社員が多く、「練習後の、自宅で飲む風呂上がりのビールは最高」と人気があったそうです。コートは、いつも社員で溢れ、練習は盛況でした。 社長が編み出したS.テニスの活動は、当初の目的どおり「社員の健康促進、社員間の絆の強化、明るい職場づくり」を果たし、「家族もS.テニスを始めた」、「食事時にS.テニスの話が出るようになって家庭内に会話が増えた」という社員の喜びの声も上がって、大きな効果を見たようです。さらに、町全体が生き生きしてきた、と地域にも歓迎され、中学生から老人まで参加できる町民大会が創設されたり、中学校ではS.テニス部員が増えて県内の学校との交流大会が活発に行われたりして、関係者に喜ばれたそうです。また、新たな町立コートの建設計画が町議会に提案された、とも聞きました。町の中のテニスコートは練習する人で、どこも大賑わい、広場や公園にもラケットを持つ人が現れて、県内外からS.テニスの盛んな町として注目を浴びました。 以上は、40年ほど前にS.テニスの指導で訪問した、ある会社と町の話です。あやふやな記憶を元にして書きました。その会社や町の、その後の繁栄や変転、大会などの情報は、今は何も持っていませんが、自治が町から市に変わって発展を続けているという風聞は耳にしています。 S.テニスは日本で生まれました。小学生からお年寄りまで楽しめる生涯スポーツです。親子はもちろんのこと、孫と祖父母の対戦も可能な、親しみやすい競技です。S.テニスの練習や試合に多くの住民が集う町、そんな地域が実在していたことは、実に素晴らしい例話だと思います。 その例話がヒントになり、かねがね「ソフトテニス村(町)」と呼ばれるような組織や環境、施設を身近に創ってみたい、と夢見てきました。もう5年も過ごせば70に届く年齢で、抱いてきた望みはことごとく滅亡の一途を辿っていますが、「ソフトテニス村(町)」への執心は、今も描き続ける夢想の一つです。にほんブログ村にほんブログ村
2012.08.05
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2010・3・2(火) ハナ水が治まると女生徒は、3粒目のチョコレートを食べにかかりました。高校生だから、食べすぎとか甘いものやカロリーの取りすぎといったことに気を遣うのかと思っていましたが、まだダイエットなどには無関心な様子で、食べっぷりを見ていると、何でも好き勝手に買い食いするような少女、という感じを受けました。だけど最中を2つ、ぺろっと食べた直後です。さすがの女生徒も、チョコレートは食べ残すものと読みましたが、それも見当違いでした。 1粒ずつ色の違ったチョコレートは当然のことながら、味にも違いがあったようです。それを確かめるようにチョコレートを指に挟んだまま今度も少しずつ、ゆっくり噛じって味わい、裏返したり表に戻したりして、しげしげと見つめ、女生徒は満足げに食べていました。 残りのチョコレートは1粒になりました。その1粒をどうするか、今度は、それに注目しました。しかし女生徒は、そんな「観察」の目も無視して、大きく開けた口にポイっと放り込んでしまいました。 女生徒は色白の素顔で、黒髪を肩まで伸ばしていました。眉は濃くキリッと一文字、目は細めで目尻は少し上がり気味、小鼻は整って鼻筋はぴーんと通っていました。唇は薄く、その口元からのぞく歯は真っ白、歯並びがきれいでした。個性的、かつ特徴的だったのは、鼻の穴です。 鼻の穴というものは、だいたいは下方に向いて真ん丸な形がふつうです。が、その女生徒の鼻の穴は、やや上向き加減で、形は「雨粒」ふうでした。 雨は、傘などに降って滴として流れ落ちるとき、上のほうは細く、下は重みでふっくら膨らんだ形、つまり「雨粒」に姿を変えます。女生徒の鼻の穴は、まさにその「雨粒」だったのです。 「雨粒」は、どっしりと顔の中央に鎮座して小鼻を形成していました。その形で鼻柱が低いと豚の鼻か団子鼻になりますが、女生徒の場合は鼻先がちょこんと前に突き出て、また鼻筋がすっきりして高いために、バランスがとれて見栄えがよく、上品さがありました。そんな顔立ちから目した女生徒の性格は、勝ち気な、です。 最中を2つ、チョコレートを4粒も食べたのに女生徒は、他に食べ物があれば、それも胃袋に収めてしまいそうな、けろっとした表情を見せていました。女生徒が繰り出す突飛な行動に、ボクは目を離せません。果たして、次々に新手の「演技」を披露してくれました。 その手始めに見せてくれたのはクシャミの、突然の連発でした。クシュンという可愛らしい音です。ハナ水やチョコレートに原因があるような気がしましたが、その発生間隔や回数、本人の顔付きなどから、どうやら花粉症に起因する現象ではないかと見抜きました。 クシャミが少々収まりかけたとき、女生徒は、あの型破りの、ハナ水をすする仕草を再び、おっ始めました。顔面を器用に動かす作業は「雨粒」の周りを、うっすらと赤く染めあげ、ややもすれば素っ気ないと見受けた表情に、わずかながらの愛嬌を与えていました。 「観察」を続けます。クシャミが終わっても、女生徒はじっとしていません。間を置かず次に演じてくれたのは、卒業式でもらったと思われるカーネーションの、花の香りを嗅ぐという、初めて見せる女性らしさです。女生徒はしばらく、カーネーションに鼻をすり寄せていました。しかし、何を思ったか急にカーネーションを右の座席に立てかけ、意外な行動に出て周りを驚かせます。ケータイで「ガシューン」という機械音を発したのです。 今の世の中、多くの人が個人情報の流失に神経を尖らせています。監視カメラや盗み撮りにも相当な注意が払われています。そんな時代に、最も敏感に反応してしまう音といえば、ケータイの機械音「ガシューン」ではないでしょうか。 ボクの隣で話し込んでいた男子生徒3人は、その機械音に、ビクッと身体を硬直させて音の出所を一斉に探し始めます。すぐさま、女生徒がケータイでカーネーションを撮影した音だと分かって、3人は目を合わせて何やらコソコソと言葉を交わし、その後は会話を元の話題に戻して語り合っていました。 ところが、カーネーションの右手の座席には、ノートPCのキイを叩く、サラリーマンふうの中年男性が座っていました。眼鏡をかけて髪は薄く、ばさばさです。女生徒とその男性との間には数人分の空きスペースがありましたが、その怪しい音「ガシューン」の機械音は男性にも届きます。そのうえ男性は、女生徒のケータイの、カメラレンズが自分のほうへ向けられていると知ると、さらに面食らってガバッと立ち上がります。髪は乱れて、眼鏡が鼻の頭からずり落ちそうでした。それは、見ているほうが驚くほどの、見事な反応です。目の前で展開する、何とも滑稽なシーンは、驚きを通り越して笑いを誘う名場面に変わっていきました。「演技」は、この日最大の見せ場をつくったのです。 男性は、女生徒の行動の意図を察知すると、落ち着きを取り戻し、しかし「脅かすんじゃないよ!」と言いたげな目を投げかけて無言の抗議を行い、女生徒は慌てて「すみません」と小声で謝っていました。 女生徒は、悪びれる様子もなくケータイの画面と睨めっこを始めます。いろんなことを演じて、一段落という気分だったのでしょう。やがて、女生徒はケータイを膝の上に置いたまま眠り始めて、心地よさそうに身体を電車の揺れに任せます。あどけない顔でした。 終点の宇都宮駅で、電車が車輪をギ、ギーッと軋ませて停止したとき、女生徒の身体は電車の進行方向に大きく倒れ、続いて反対側に引き戻されて、女生徒はパッと目を覚します。電車を降りて足早に姿を消そうとする女生徒は、そのときもボクの「観察」の目を邪険に突っ放します。遠い地で出会った、忘れがたい「演技」者でした。にほんブログ村にほんブログ村
2012.07.31
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2010・3・2(火) 3月1日。栃木県日光市の社寺(二荒山神社、東照宮、輪王寺)を、およそ40年ぶりに観光してきました(その社寺は後の1999年に世界遺産に登録)。初回は埼玉県に居住していたころ、京都から訪ねてきた兄と車で巡りました。いろは坂の紅葉がきれいな秋でした。今回は春先、でも4月ごろの暖かさでした。掃き固められた雪が所どころに見られ、もう少し寒い時季に来ていたなら、さぞかし鮮やかな雪景色に出合えたのではないかと思えて、ちょっぴり残念な気がしました。 日光へは東武鉄道とJRが乗り入れていますが帰路はJR(日光線)を選びました。その日光の駅前に来て目を止めたのは、遊園地などで見かけるような、おしゃれで可愛い建物、1912(大正元)年に建築されという2階建ての白を基調とした小さな洋館駅舎です。今では、めったに使われることのない、天皇陛下や皇族、外国の要人のための貴賓室が、改札口の横で重そうな扉を閉ざしていました。 日光駅は宇都宮駅からの終着駅です。単線路線で、約40kmの区間を古い形式の4両連結の2編成が、およそ1時間毎に両駅から発車しています。乗った車内は平日だったためか観光客の姿は少なく、窓側を背にしたソファーのような座席は空席だらけでした。 最初の停車駅、今市(この地名は「きょうの給食はイマイチ(今ひとつ)だった」と表現されるときの語句と同音のため、「きょうの給食は日光の手前だった」といった使い方をされることがある)に着くと高校生ふうの大勢の生徒が、各車両に分散して乗り込んできました。ボクの横には男子が3人、向かい側に女子が1人座り、どの生徒もリボンで飾られた一輪の花の包みを手に持っていました。それを見て、きょうは何の日? 卒業式を迎えるには、まだ日が早い気がして、何かの記念日か? と自問しました。生徒たちの持つ花の種類はばらばらで、色も一つひとつが違っていました。目の前に座った女生徒の花は、赤と白の混色カーネーションでした。 電車が再び動き出し、車窓に流れる日光名物の杉の並木や木立を眺めていると、向かいの女生徒の、お菓子の最中(もなか)をおいしそうに食べる様子に気づき、目を奪われてしまいました。車内はガラガラなので、人目を気にせず自由に食べたり飲んだりできるのですが、しかし目の前にはボクがいます。なんと大胆な行動を、と感心している間に、女生徒は2つ目の最中をパクリ、と食べ終えてしまいました。そのとき目が合って、ボクは笑ってみせました。しかし、女生徒は目を反らして応じません。すまし顔で、口をモグモグさせていました。 その後、女生徒はカバンの中から書類のような紙袋と銀色のリボンで飾られた箱を取りだし、どちらを先に開けようか、という仕草をみせました。何度も2つを見比べた後、選(よ)りだして開いたのは紙袋でした。中に入っていたのは、折り紙を何枚も貼ったような厚紙です。女生徒は、しばらくその紙を眺めていました。ところが、急にハナをすすり始めます。目に涙が溢れ出たようで、指で拭い始めました。どうしたのかと不思議に思って、伏し目がちに動静をうかがっていると女生徒の膝から、先ほどの最中の空箱が床に滑り落ちました。箱には「祝・卒業」と書かれた「のし紙」が貼ってあります。女生徒が涙を流した訳、生徒たちが花を持っていた理由が分かりました。 その厚紙は、部活の後輩から贈られた寄せ書きの色紙だったようです。添えられていたのは、ねぎらいの言葉や励ましのメッセージ、込められていたのは過ぎ去った日々の汗と涙の数々。それを読むうちに、後輩たちの顔が一つひとつ浮かび上がり3年間の思い出が女生徒の胸に、じわーっと込み上げてきたのでしょう。 まだ涙顔でしたが、女生徒は今度はカバンにしまい込んだ、銀色のリボンの箱を引っ張り出します。中には、2cmほどの4粒の色違いのチョコレートが詰まっていました。後輩からのプレゼントのようです。女生徒は、箱の裏蓋にプリントされた商品の説明書きを読みながら1粒目を、ゆっくりと味わい始めました。「観察」するボクの目は、もちろん盗み見です。そうとも知らず、2粒目を手に取った女生徒は鼻をズルっと鳴らします。涙に誘われて出たハナ水が、また垂れそうになったのです。 愉快なことに、女生徒のハナのすすり方は、型破りでした。ひょっとこのように口を窄(すぼ)めて歪(ゆが)めるのです。実態は、こうです。口を窄めて、その口を右に歪めると、右目は自然に閉じられます。その状態で鼻から息を吸うと左側の穴はふさがって、右側にだけ空気が流れていきます。つまり、両穴のハナを同時にすするより、片方ずつ別々に吸い込むほうが勢いが強くなる、という訳です。女生徒は、それを左右交互に何度も繰り返し、その度に片目を閉じ、顔面をシワだらけにして水バナをすすっていたのです。見て見ぬふりをしました。(2)へ続く。にほんブログ村にほんブログ村
2012.07.25
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2010・2・27(土) 卒業シーズンが訪れました。卒業式は3月の後半に集中します。もう、ひと月を切りました。 クレイJrのメンバーで、この3月に小学校を卒業してクレイを離れるのは、になちゃん、さきちゃん、たつきくんです。クレイJrの卒部者は、この3人で61人を数えることになりました。 になちゃんがクレイJrに入部したのは、1年生の終わりごろです。顔や頭よりも大きな緑色の、つばの広い野球帽をかぶっていたことを思い出します。今は背丈も伸びて成長しましたが当時はほんとに小さくて、憎たらしくない「しおらしい」子でした。 「はん・もく」ノートを書き始めたころ、になちゃんは「……して、……で、……なので、……で、……なので、……して」を繰り返す長文が「得意」で、何が言いたいのか、どのように繋がるのか分からない「迷文」を書いていました。「クレイジュニア作文集」に、になちゃんの作品が載ったのは、第7刊(2005年9月30日発行)が最初です。その書きだしは、「きょう、うれしいことがありました」でした。それ以来、短い文を書くことを心がけたため、読みやすい文章に変わっていきました。国語の成績が「5」になった、とお母さんが喜んでいました。 2008年3月、になちゃんは第7回全国大会(千葉県白子町)の4年生の部に出場しています。自己最高の戦績です。その後、しばらくして新しいペアとチームを組み、翌年には2年連続の「全国行き」を目指しましたが叶いませんでした。しかし、2009年12月に開かれた第3回西日本大会(香川県高松市)に出て、近畿圏外への遠征を2度経験しています。 そのになちゃんの「新しいペア」とは、5年生で入部してきた、さきちゃんです。通っている小学校で、すでにテニスを習っていました。になちゃんと組んで初めて試合に出たのは2008年9月のことです。 さきちゃんは、おとなしい子ですが、それ以上に目立ったのが、よく泣く子という印象です。テニスの練習に限らず、「はん・もく」の指導中でも、急に泣かれて困惑したことがありました。その涙は、たぶん恥ずかしい、きまりが悪いという感情に押し上げられて流れ出たものなのでしょう。それを、悔しい、負けるもんかという反発の涙に切り替えられたら、何事にも積極性が生まれてくるような気がします。 でも、さきちゃんは真面目で努力家、コツコツと練習を積みました。家族でテニスを楽しむという環境にも支えられました。さきちゃんの弟のたいすけくんは、お姉ちゃんの遠征にすべて同行しました。近畿大会、西日本大会などを見学させてもらって、姉を誇らしく思ったに違いありません。そして、さきちゃんは、になちゃんの良きペアとなり、2人は模範的なチームをつくり上げました。たつむ・ゆうき組に負けない、クレイJr歴代の好ペアといえるでしょう。 今年の卒部者の3人目、たつきくんは、3人の中で最も腕を上げた選手です。入部したのは4年生の春。そのときとは、別人かと思えるほどの「進化」を見せたのです。それは、になちゃんらと同様に、練習熱心だったからこそ掴めた成果で、5年生だった2009年3月には第8回全国大会(千葉県白子町)への出場を果たし、にな・さき組と一緒に第3回西日本大会へも行きました(ペアは他のクラブ員)。今後の課題は、とっさの反応が鈍くて動きが遅い、執着心に欠けて相手の短い返球をすぐに諦めてしまう、などの弱点を克服することです。さらに言えば、洞察・予見・組立力を高めることでしょう。 一方、弟のわたるくんの行動を記した、たつきくんの「はん・もく」ノートの作品が人気を博しています(ホームページ上で)。ふだんは、6年生とは思えない「すてき」な内容の作品を書いていますが、わたるくんが「手柄」を上げたときは人が変わったように、荒々しい調子の「拙文」で書きくだします。人気の理由は、その書き方の変わりようと、わたるくんの突飛な行動です。また、これはホームページには反映されないことですが、お習字を習っているとは信じがたい字が、そのときばかりはノート上に見違えるような「達筆」な字に置き換わって「披露」され、驚かされます。それは「多才」な弟に対するコンプレックスの表れなのでしょう。「達筆」な字を書くことで、我慢していたストレスを一気に発散させているように見て取れます。わたるくんが生まれる前のように、両親の愛を独り占めして甘えたいのに、その愛はわたるくんに奪われ、悔しくて仕方がないのでしょう。でも、だからこそ、お兄ちゃんらしくなれたことを、たつきくんは知るべし、です。 ともあれ、になちゃん、さきちゃん、たつきくん、卒業おめでとう。ひとまず、お別れです。にほんブログ村にほんブログ村
2012.07.21
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2010・2・18(金) 2月を迎えると、少し憂鬱になります。日照時間が短い、寒さが厳しさを増す、といった気象のことが理由ではありません。近づく年度末の業績や人事異動の発表が気になるからでもありません。「2月14日はバレンタインデー」という特別な日がやって来ることが、うっとうしいのです。 そもそも、男が女子から愛の告白を受けるなどという日が、なぜ決められているのか、合点がいきません。いかにも芸のない思いつきです。愛は、もっと自由に交わすものだと思います。また、どうして2月なのか、さらに、なんでチョコレートがプレゼントに用いられるのか、といったことにも疑問を感じます。 プレゼント用のチョコレートには、本命チョコや義理チョコの他に、最近はファミチョコ、友チョコ、逆チョコ、世話チョコなどの変わり種もあるようです。男から渡したり、女子が受け取ったりするチョコもあると聞きました。男同士がチョコを交換する? 想像しただけで鳥肌が立ちそうですが、今の流行りと聞きます。 プレゼントを受けた人が、マシュマロなどを翌月にお返しするという日、ホワイトデーもつくられています。バレンタインデーと並んで、それはチョコなどの売上げを増やすために、お菓子メーカーが考え出した巧みなアイディアなのでしょう。 ところで、僕に好きな女性がいます。もう何年も想い続けています。しかし、彼女には夢中になる男がいるという噂があり、僕のことなど眼中にないようです。だから彼女のことは、いつも遠くから見つめています。でもバレンタインデーでは、もしや、という夢を抱いています。望みは、その彼女からのチョコです。願うのは本命チョコ。でも彼女からなら義理チョコでも感激です。期待だけは膨らませています。 ……、そんな思いもあって、バレンタインデーが近づくとドキドキもします。でも、ガックリして落ち込むという苦渋を毎年も受け続けています。だから、2月を憂鬱、バレンタインデーをうっとうしく思うのです。 本命チョコをもらえず、悔しい気持ちになっているのに、ずけずけと「何個もらった?」、「誰からもらった?」、「チョコ以外には何を?」、「えっ、まだ何も?」という問いに答えなければいけない人も少なくありません。惨めですね。また、義理チョコをもらったばっかりに、何をお返ししたらいいのかという迷いを負う人も現れます。バレンタインデーは罪な日です。 多くの男を悩ませる一方で女性は本命チョコをプレゼントする相手がいてもいなくても、楽しんでいるようです。義理チョコをたくさん配って、お返しをいっぱい頂戴しよう、と。そこで惑わされるのは、またも「持てない男」たちです。もらったチョコを見つめて、「もしかして自分に気があるのでは? 義理チョコなのは、さりげなく伝えたいためでは?」と思い込んだりもするらしいのです。あーぁ、憐れですね。もう、救いようがありません。 2月14日が去りました。彼女からはチョコもメッセージも、もらえませんでしたが、今年も他から型だけの義理チョコが届きました。飾り付けや、形や箱、ラッピングにカラフルで可愛い工夫を凝らした手作りのチョコが幾つもありました。もらっておきながら文句を言うのは罰当たりですが、手作りチョコというのは、「作るのがおもしろい」という作る側の自己満足の試みでしかなく、もらう側にとっては試食を強いられるような、いささか迷惑な贈り物、と言っても差し支えないと思います。お手製のチョコやクッキー、ケーキは、いくらがんばって作っても、名のあるメーカー品には勝てません。見栄えや風味、色合いなどはさることながら、歯触り一つをとっても及びません。食べるのを遠慮したいのですが、もったいない気持ちと板挟みにもなって苦しみ、「処理」に困ってしまいます。 プレゼントには手作りを、とこだわるのなら、他のものを考えたほうがいいような気がします。手編みのマフラーとか刺繍入りのハンカチ、というようなものを望みます。温かさが違って、ほろりとさせられます。将来、僕が出会う恋人には、そんなセンスを求めたいと思っています。 新聞を読んでいた母が「今年のバレンタインデーは、まだ終わってないそうよ」と言って、広告の紙面を見せてくれました。市内のシネコンで上映中の、その名もずばり「バレンタインデー」というアメリカ映画が、大きな見出しで「大ヒット上映中」と書かれていました。 以上、身近にいる友人の嘆きでした。にほんブログ村にほんブログ村
2012.07.15
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2010・2・11(木) クレイJrの最年少は、一年生のいっせいくんです。お姉ちゃんの練習のお伴に来て、何週目かに入部しました。「はん・もく」ノートにも挑戦し始めたばかりの、小さなルーキーです。 弟や妹が、兄または姉の影響を受けて習い事やスポーツを始めるという事例は、よく耳にする話で、その実態は弟や妹のほうが良い成績を残すことが多いようです。それはクレイJrにも当てはまる傾向で、弟たちが兄や姉を追い越せるのは習い始めが、その兄姉よりも年少期で、練習の雰囲気やコツに慣れること、技を覚えことが早期にできるからだと思います。 兄たちが練習する横で、その弟や妹が砂遊びやボール遊びをするのを見かけると、ボクはすぐに「せっかくテニスコートに来たんだから、ラケットでボールを打ってみない?」と声をかけてしまいます(ただし、サッカー少年や野球小僧には遠慮する。無視されるので)。 子どもたちは、最初は照れくさそうにして、あまり乗り気ではありませんが、ラケットを手渡されると懸命にボールを追いかけるようになります。やがて、ラケットにボールを当てることなんか簡単、という自信をつかんで意気込み、続いて、ボールを打ったときの気持ちのよさ、遠くへ飛ばせたときのおもしろさに心を踊らせます。そこで言い忘れてはいけないのが「すごい!」の一声です。飛んでいったボールの行方を目で追いながら、ややオーバー気味に唸ってみせるのです。 褒め言葉を聞いた子どもは、すっかり気をよくして目を輝かせ、ハッスルします。さらに、「上手い!」という殺し文句を連発すると、もう子どもの心はテニスへ一直線です。いっせいくんも、そんなひとりだったと思います。 小学生を教え始めて、改めたことがあります。初級のママさんや中学生を指導していたころは膝の曲げ方、腰の動かし方、肩の入れ方といった姿態を、後方や横から見てアドバイスを送っていましたが、それを替えなければいけない、と気づいたのです。つまり、「真正面から見る」に変え、ボールを打つときのラケットの面(ガット・ストリング)がボールに対して、どのような角度をつくっているかを見極めること、その見方こそ優先すべき技術面の指導だと考えたのです。 小学生の多くは、他者のフォームを観察したり、学んだりすることを自分から進んで行なおうとはしません。また、自分がどんなフォームをしているか、も分かっていません。本人のフォームを撮ったビデオの映像、ガラスや鏡の前で行なわせた素振りの様子などを見せて、それを補整することも有効なのですが練習の場では指導者自らが、さまざまな技の手本や悪例を子どもに見せて考えさせ、分からせるほうが初級者に相応しい教え方だと思います。その上で、子どもたちの真正面に立ってボールを送り出し、ストロークを打たせてボールに対するラケットの角度を検証するのです。 古風な教示だ、と言われたことがありますが、徹底的に教え込むのは(1)ラケットの握り方、(2)ラケットの面の作り方(出し方)、(3)打点の高さと身体との距離(位置)、(4)ドライブ(スピン・順回転)打法、の順で習熟度が悪いのはその逆の(4)、(3)、(2)、(1)です。その中で苦心するのは(1)と(4)を連動させた指導です。 ソフトテニスの場合、ストロークのフォアとバックの打法は同一のラケット面で打つことを求められるため、ラケットの握り方はウェスタングリップ(地面に水平に置いたラケットを、同じように水平にした手のひらで真上から握る・ラケットの面と手のひらの向きが平行するように握る)が基本です。それは、すぐに覚えられますが、チェックを怠ると間違って修める子が多くなります。ラケットの面を手のひらと平行にさせないで、親指側に傾ける(下へ)握り方です。注意を払って教えても、2、3割の子どもがその握り方に慣れてしまいます。結果、ソフトテニスに必須の、スピードと威力に長けるドライブボールを打つことが難しくなるのです。正しいウエスタングリップの習得は好選手への最初の登竜門といえるでしょう。克服しなければいけない技、グリップです。根気よく指導することが重要だと思っています(誤って身に付けてしまえば、先々での補正は非常に困難)。 サーブ、スマッシュ、ボレーといったストローク以外の打法や、重心の移し仕方、腕の伸ばし方、足の出し方といった身体の動き、上級の応用練習などは、子どもの上達に合わせて個々に教えていけばよい、と考えています。初級の子どもには、面倒くさいことをよくもそこまで、と言われるぐらい先述の(1)から(4)、とりわけ、(1)と(4)の連動の練習に多くの時間を割くことが大事だと感じてきました(そんな辛気くさい教え方を、よく飽きもせず、とも言われてきた)。 ただ、子どもたちは、理論的な説明を聞くのが不得手で、単調な基本練習の繰り返しも好みません。運動会で順位決めを嫌い、徒競走をさせないという学校があるようですが、子どもは本来競り合うことが楽しくて好きです。「次は、何がしたい?」と聞くと、サーブが入らず試合ができるレベルでもないのに、決まって言うのが「試合」です。そんな生徒でも、要望には耳を傾けなければいけません。コートに小さな区画を作って試合の真似事や、遊びを組み込んだ練習を取り入れるという、指導の内容に幅を持たせたり、練習の種類を増やしたりする気配りも必用でしょう。 子どもたちと接するボクの役割は、技量のステップアップを、そっと手助けすること、と自覚しています。その上で、教権を振りかざしたり指導力に慢心したりすることのないよう、子どもを見守りつつ、その個性の尊重に努めなければいけない、と言い聞かせています。しかし、まだまだ修行は足りません。理想とするのは子どもたちの真正面に立ち、子どもたちの「高さ」に等しい位置で向かい合うという姿勢です。それを見定めるのは、難しいことですが、自らを高めるためにも自戒を込め、挑戦を続けています。 ところで、最年少ルーキーの、いっせいくん。みんなと同じ目標、全日本出場を目指すには、ペア探しが急務だよ。早く見つかるように祈ろうぜ。にほんブログ村にほんブログ村
2012.05.16
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2010・2・4(木) コートへ行く前に入ったスーパーでのお話です。 スポーツドリンクを選んでレジに向かうと、赤ちゃん連れの若い夫婦が最後尾に列を作っていました。赤ちゃんは、抱かれたお父さんの肩越しから後ろ向きに顔を出す、まだ一度もお誕生日を迎えていないような男の子です。ボクは、赤ちゃんの様子を見守るように寄り添う、お母さんの後に並びました。 公園や道ばたで赤ちゃんや幼児に出会うと、じっと見入ったり、そっと近づいたりしてしまいます。幼い子どもが見せる、いろんな表情に触れてみたいと思うからです。ときには話しかけたりもします。けれど、どの子にも口を利くわけではなく、それなりの段取りを踏んで、近寄るよう心がけています。 「段取り」とは、子どもの保護者や引率者の表情を見て、その「お人柄」を窺うことです。子どもに関わらないでください、放っておいてください、変なおじさん、と言いたげな顔を見せられて、嫌な思いをするケースを避けたいためです。保護者らが、やさしくて穏やかそうな「品位をお持ち」と判断できたら人目を盗んで行動を起こします。「ちょっかい」を出して、お相手をするのです。鼻の穴をピクッと膨らませる、眼をパチクリさせる、口をパクパクさせる、手を振るなどの仕種です。 反応は、すぐに返ってきます。あどけない笑みを送ってくれる子もいますが、恥ずかしがる子が大半で、保護者らの身体の陰に隠れようとしたり顔を背けたり、または不思議そうにしたり無関心を装ったりします。 子どものほうから話しかけてくる場合は、その子に合わせます。ただし、保護者らの対応を見極めることが大事です。笑顔がなく迷惑そうな顔付きをされたときは、「ちょっかい」は中止、慎重に振る舞います。逆に、子どもに近づくことを許してくれそうなら、次の行動に移します。こんにちは、お名前は? お年は? などと声をかけるのです。先手を打って出るような子は、友だちになった気分で得意そうに応えてくれます。 スーパーで会った赤ちゃんは、おとなしくしていました。ボクと眼がパチッと合ったとき、「ちょっかい」の相手になってくれそうな子だ、と直感しました。例の「段取り」を後回しにさせるような誘惑の眼です。よくあることですが今回も、その誘いに負けて、眼と鼻と口を動かす特技を早速見せてしまいました。 赤ちゃんは瞬きもせず、じっとボクを見つめてくれました。そのときお母さんは、赤ちゃんの視線がどこか一点に注いで動かないことに気づきます。「ちょっかい」を中断させました。 ところが赤ちゃんの眼は、「もっと続けてよ」と訴えます。「眼や鼻の動きだけでは、おもしろくない」と言わんばかりに。そうか、とボクは間髪を入れず、唇を上下に勢いよく開いて、パッという音を弾かせてみせました。すると、それを聞いたお母さんが、初めてボクのほうに眼を向けました。「ちょっかい」は再び中断です。 調子に乗りすぎたかな、どうしたものかと、きまりが悪くなりました。誘惑に負けたことへの自省もしました。が、赤ちゃんは、最初はパッという音に、びっくりしたようですが、眼を真ん丸くして興味津々といった表情を見せ、その場をうまく取り持ってくれたのです。また、一瞬泣きだしそうになり、顔をポーッと赤らめもして、笑っているようで泣いているような、怒っているようで喜んでいるような、そんな複雑な動作も表してくれました。その直後、赤ちゃんは何かを話したそうに、ぎこちなく口をモグモグさせます。その様子を見た、お母さんが赤ちゃんに声をかけました。「あら、喜んでいるの?」と。ボクは、その一言を、「ちょっかい」の許可と読み、気を取り戻しました。 赤ちゃんは、ボクの作りだす変な顔と妙な音を見聞きすることで心地よさを感じたようです。その裏付けが一連のパフォーマンスです。まだ思うように動かせない顔や口からの形容は、ちっちゃな心を集中させた精いっぱいの自己表現だったのでしょう。そこから覚えていくのが、うれしい、楽しい、おもしろいといった感情だと思います。 赤ちゃんは手も、小さく動かし始めました。ボクがその手に指を近づけると、赤ちゃんはそれに触れ、親指と人差し指を伸ばして、ぎゅっと握ってくれました。ちいちゃくても、強い力です。お母さんが「おじちゃんと握手をしているの? よかったね」と話しかけると、赤ちゃんは喜びを微かな声に忍ばせて何かを発し、顔いっぱいに笑みを浮かべて真っ白い歯を覗かせてくれました。歯は上部に2つ、歯間に可愛いすき間があるビーバーのような歯並びです。薄いピンク色の歯茎に仲良く生えていました。ボクは思わず、「わぁ-」と声を挙げてしまいまいた。愛らしい歯のお披露目は、「ちょっかい」へのお返しだと受け止めました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.12
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2010・1・28(木) ランチタイムに、げんきくんが広げるお弁当は、いつもお母さんの手作りです。ご飯とおかずが、かわいい2つの容器に分かれて入っています。さらにカバンから、もう一つの容器をげんきくんは取り出します。中には20個ほどのサイコロ状に切ったリンゴがギッシリ、お母さんが「リンゴが好きなので、毎週持たせています」と教えてくれました。 ときどき、リンゴの入った容器のふたを開けて「コーチもどうぞ」と、げんきくんは勧めてくれます。友だちにも、「よかったら食べてよ」と持って回ります。だから、自分の席に戻ったときには、容器の中は数切れのリンゴしか残っていません。でも、げんきくんは、それをおいしそうに食べています。 リンゴは皮をむいて、しばらく置くと茶色っぽく変色してしまうことがあります。それを防ぐには、リンゴを塩水に浸します。げんきくんのリンゴも、ほんのりと塩味が利いていました。ミツの入ったものもあり、多くはフジだったと思います。食べ終えて「ボクの好きなリンゴは王林なんだ」と、げんきくんに話しました。 先週のランチタイムに、「きょうのリンゴは王林です」と言って、げんきくんがボクの席までリンゴを持ってきてくれました。ほどよい固さの王林は、フジと同じで噛むとシャキシャキッと音がしますが、酸っぱさの少ない、やわらかな甘さが独特で、それが好きなのです。その日、げんきくんには王林のお返しにミカンを渡しました。 ボクは毎日、ミカンとバナナを食べています。その、本当の理由は他にありますが、果物の中でもこの二品は洗う必要がなく、手で簡単に皮がむけて、すぐに食べられること、それが別の理由です。ミカンがなくなる初夏から秋にかけては、ネーブルやバレンシアといったオレンジを代用します。 ミカンは、日本の代表的な果物で、温州ミカンとも言います。柑橘類で、レモンやグレープフルーツ、キンカンやユズなども同じ仲間です。温室で栽培される早生種は夏季に出回りますが、ミカンは本来、冬の果物です。日本人の暮らしぶりに、よく合った果物で、かつてはカゴに盛られて茶の間のコタツの上に鎮座する光景や、そのミカンを食べながら家族が団らんする様子が、多くの家庭で見られました。食べすぎて、手の平を黄色くした記憶もあります。虫歯を育てるようなお菓子を買うより果物を食べろ、と言われもしました。メロンやスイカは1個千円以上、リンゴやオレンジ、ナシは100円もして、果物は高価な食べ物、というイメージを持たれがちですがミカンは例外、安くて親しみやすい果物なのです。 さて、そのミカンを食べる人が減ってきたという「ミカン離れ」の話を聞きました。どうして食べられなくなったのでしょう。少子化と人口の減少が影響しているのでしょうか。意外なことが原因、と知りました。皮をむくときに手が汚れるので食べたくない、という声が挙がっているというのです。驚きです。 ミカン農家は、香りや甘さを強める工夫をしたり、品質の改良や新種の開発をしたりして、ミカンの売上げをなんとか伸ばそうと努力をしています。しかし、それだけでは「ミカン離れ」を止めることはできないと、ある産地が皮をむいたミカンの出荷を始めたそうです。好評です、とテレビが伝えていました。皮のないミカン? 缶詰でなら見たことがあります。 ティッシュペーパーを手袋のようにしてミカンのスジを取る少女と、皮をむくとミカンのスジが爪に入り込んだり手が黄色くなったりして困ると言う母親を、テレビが映していました。信じられない仕草と言い草です。その少女は将来、包丁も持たないのでしょうか。いや、料理をしないつもりなのでしょうか。母親は、わが子がそんなふうに育っても平気なのでしょうか。余計なことを考えてしまいました。しかし、食べることの習慣を不自然に変えてしまう無謀さと異状さに、おそれを感じました。 「手作り」という言葉は、「機械を使わず手で作ること。店で買わず自分の手で作ること」と辞書にありますが、温かい、ていねい、親切といったニュアンスも持って、日本の伝統と文化に寄り添うようにして育まれた、やさしい響きのある言葉だと思います。失いたくない感性です。「ミカン離れ」は、「手作り」を否定するような現象に思えて残念です。 ところで、今お店で売られているリンゴは、去年の夏以降に収穫されたものです。そのリンゴは低温貯蔵されていますが、春が過ぎると在庫がなくなって売り場から消えてしまうはずです。そうなったとき、げんきくんの、あのリンゴの入った容器には何が詰められるようになるのでしょう。気がかりです。にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.04
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2010・1・28(木) ランチタイムに、げんきくんが広げるお弁当は、いつもお母さんの手作りです。ご飯とおかずが、かわいい2つの容器に分かれて入っています。さらにカバンから、もう一つの容器をげんきくんは取り出します。中には20個ほどのサイコロ状に切ったリンゴがギッシリ、お母さんが「リンゴが好きなので、毎週持たせています」と教えてくれました。 ときどき、リンゴの入った容器のふたを開けて「コーチもどうぞ」と、げんきくんは勧めてくれます。友だちにも、「よかったら食べてよ」と持って回ります。だから、自分の席に戻ったときには、容器の中は数切れのリンゴしか残っていません。でも、げんきくんは、それをおいしそうに食べています。 リンゴは皮をむいて、しばらく置くと茶色っぽく変色してしまうことがあります。それを防ぐには、リンゴを塩水に浸します。げんきくんのリンゴも、ほんのりと塩味が利いていました。ミツの入ったものもあり、多くはフジだったと思います。食べ終えて「ボクの好きなリンゴは王林なんだ」と、げんきくんに話しました。 先週のランチタイムに、「きょうのリンゴは王林です」と言って、げんきくんがボクの席までリンゴを持ってきてくれました。ほどよい固さの王林は、フジと同じで噛むとシャキシャキッと音がしますが、酸っぱさの少ない、やわらかな甘さが独特で、それが好きなのです。その日、げんきくんには王林のお返しにミカンを渡しました。 ボクは毎日、ミカンとバナナを食べています。その、本当の理由は他にありますが、果物の中でもこの二品は洗う必要がなく、手で簡単に皮がむけて、すぐに食べられること、それが別の理由です。ミカンがなくなる初夏から秋にかけては、ネーブルやバレンシアといったオレンジを代用します。 ミカンは、日本の代表的な果物で、温州ミカンとも言います。柑橘類で、レモンやグレープフルーツ、キンカンやユズなども同じ仲間です。温室で栽培される早生種は夏季に出回りますが、ミカンは本来、冬の果物です。日本人の暮らしぶりに、よく合った果物で、かつてはカゴに盛られて茶の間のコタツの上に鎮座する光景や、そのミカンを食べながら家族が団らんする様子が、多くの家庭で見られました。食べすぎて、手の平を黄色くした記憶もあります。虫歯を育てるようなお菓子を買うより果物を食べろ、と言われもしました。メロンやスイカは1個千円以上、リンゴやオレンジ、ナシは100円もして、果物は高価な食べ物、というイメージを持たれがちですがミカンは例外、安くて親しみやすい果物なのです。 さて、そのミカンを食べる人が減ってきたという「ミカン離れ」の話を聞きました。どうして食べられなくなったのでしょう。少子化と人口の減少が影響しているのでしょうか。意外なことが原因、と知りました。皮をむくときに手が汚れるので食べたくない、という声が挙がっているというのです。驚きです。 ミカン農家は、香りや甘さを強める工夫をしたり、品質の改良や新種の開発をしたりして、ミカンの売上げをなんとか伸ばそうと努力をしています。しかし、それだけでは「ミカン離れ」を止めることはできないと、ある産地が皮をむいたミカンの出荷を始めたそうです。好評です、とテレビが伝えていました。皮のないミカン? 缶詰でなら見たことがあります。 ティッシュペーパーを手袋のようにしてミカンのスジを取る少女と、皮をむくとミカンのスジが爪に入り込んだり手が黄色くなったりして困ると言う母親を、テレビが映していました。信じられない仕草と言い草です。その少女は将来、包丁も持たないのでしょうか。いや、料理をしないつもりなのでしょうか。母親は、わが子がそんなふうに育っても平気なのでしょうか。余計なことを考えてしまいました。しかし、食べることの習慣を不自然に変えてしまう無謀さと異状さに、おそれを感じました。 「手作り」という言葉は、「機械を使わず手で作ること。店で買わず自分の手で作ること」と辞書にありますが、温かい、ていねい、親切といったニュアンスも持って、日本の伝統と文化に寄り添うようにして育まれた、やさしい響きのある言葉だと思います。失いたくない感性です。「ミカン離れ」は、「手作り」を否定するような現象に思えて残念です。 ところで、今お店で売られているリンゴは、去年の夏以降に収穫されたものです。そのリンゴは低温貯蔵されていますが、春が過ぎると在庫がなくなって売り場から消えてしまうはずです。そうなったとき、げんきくんの、あのリンゴの入った容器には何が詰められるようになるのでしょう。気がかりです。にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.04
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2010・1・17(日) 「友だちを連れて、練習に行ってもいいですか」と電話がかかってきました。電話の主は、ただしくん。クレイJrのOB、卒部1期生です。 偶然にもこの日、もう一組の来訪者がありました。たけしくんと同じ1期生のあずささんと、その妹のなつみさん、お母さんの3人連れです。 ただしくんと、あずささんは小中学校の同窓生で、双方の自宅は歩いてすぐの距離です。久しぶりに、しかも懐かしいクレイJrで顔を合わせたことを、びっくりし合っていました。ちなみに言えば、クレイJrが誕生したのは、ただしくんとあずささんのお母さんの、尽力のおかげです。熱心な要望を受けて、クレイクラブに併設しました。 あずささんのお母さんは、ボクが卒業した高校の軟式庭球部の後輩で、ご主人と娘3人の5人家族です。次女の、まおさんも含め、3姉妹はクレイJrで練習を重ねました。お父さんを除く一家4人の女性は揃って、テニスで汗を流したことになります。両親は娘たちのテニスの活動に積極的で、6年もの長い期間、クレイJrに通い詰めました。 あずささん一家がクレイJrを久々に訪ねた理由は、末っ子のなつみさんが「高校の近畿大会で準優勝し、北海道で開催の全日本に進めた」という報告のためです。なつみさんは、クレイJr時代にも2003年と2004年に、小学生の全国大会へ連続で出場しています。母も姉も果たせなかった快挙です。末娘と並んだお母さんの表情は終始ゆるんでいました。 優れた実績を積み上げた人には、それ相応の「すごみ」があります。なつみさんも例外ではなく、特異な行動と性格を見せてくれました。 なつみさんは、クレイJrへ入部した1、2年(小学3年生ごろ)は、練習にあまり熱が入りませんでした。そのころは、お姉ちゃんたちの練習にお伴をしているだけで、自分から進んでテニスをするという気持ちは、なかったようです。練習を休む日も多く、4年生のころから「荒れ」始めました。お母さんやコーチに練習態度を注意されると、コートのベンチをひっくり返したり、ボールを蹴飛ばしたり、ラケットを投げつけたり、審判台を揺らしたりと、大暴れをして大塚コーチに「お前はクビだ!」と追放されました。 もちろん、大塚コーチは本気で追っ払った訳ではありません。しばらくの間、おとなしくして反省しろという「お仕置き」です。数週間後、なつみさんはお母さんに連れ出されてコートを訪ね、二度とあのような悪さはいたしません、と頭を下げました。その後は、見違えるほど素直になり、真面目に練習する子に変わりました。 ところがある日、神妙な顔つきのお母さんに、ご相談がありますと話を持ちかけられました。なつみさんは作文が苦手で、「はん・もく」ノートを書かなくてもいいように、許してもらえないかと言うのです。ダメなら退部する、とも。こんな子は初めてです。 呼んで心情を聞いてみると、なつみさんがあまりに深刻そうな様子を見せたので、つい「それなら、書かなくてもいい」と返答してしまいました。そのときは、なつみさんの顔がパッと明るくなるのを見て、その判断でよかったと思いました。しかし今振り返ると、「書くのが嫌なら、退部してもいいよ」と強気に出て、「はん・もく」を続けさせるべきだったと思います。あのとき、そう言えなかったのは、「はん・もく」が原因で子どもを退部に追いつめるのは罪だ、と周囲から言われそうな気がしたからです。子どもからテニスを取り上げる仕打ちは非情だ、と責められそうにも感じたのです。 型破りな個性を持つなつみさんでしたが、「はん・もく」を免除にしたのは、実は彼女に期待する気持ちが大きかったからです。活躍してくれそうな素質を見透かして、そんな子を失なってはならない、子どもの優れた能力を奪ってはならないと思ったのです。けれど今は、同じような子が現れても「はん・もく」を書き続けることの大切さを根気よく説得しなくてはいけない、と考えています。以後、なつみさんのような事例は一度も起きていません。 なつみさんは、全国大会出場の報告に来た、と遠慮がちに言っていましたが、肩にはラケットがぶら下がっていて、上達した技の披露も望んでいる、とボクは見通しました。すぐに、ただしくんが連れてきた友人を、なつみさんの前衛に据え、北村コーチの次男のたつむくん(9期生で中学生)・ただしくんペアを対戦相手にさせて、模範試合を後輩たちに見せることにしました。試合は、なつみ組が、0-2からファイナルに持ち込んで追い上げる好ゲーム。結果は、ただし組が辛くも逃げきるという一戦でした。速いボールが飛び交って多様な展開をする試合や、立派な選手に育った先輩たちの好プレーに、小さな後輩たちは新鮮な刺激を受けたようです。 練習が終わったとき、なつみさんのお母さんが「ごぶさばかりして……」と、改めてあいさつに来られました。それを聞いた北村コーチは「年に一度の便りも大事だけれど、顔を見せに来るだけでいいんですよ。それがコーチの一番の楽しみなんだから」と教えていました。時が移っても、幾つもの年代と繋がってコツコツと育むクラブ、それがクレイクラブの目指す姿の一つです。うれしい交流、情景を見た一日でした。にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.24
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2010・1・16(土) クレイクラブの初打ち会は、H・Mのコートを借りていた3年前まで、毎年1月2日を開催日に決めていました。年中開放というコートだったおかげで、お正月でも希望する日に使えたのです。活動拠点を河川敷に移行後は、その初打ち会の開催日は定まっていません。河川敷コートのお正月休みが、年ごとに変わるからです。今年は、7日まで休みでした。 なんとか5日ぐらいまでに初打ちを、と他のコートを探すと、亀岡の運動公園コートを4日に借りることができました。松の内の中日、風のない、のどかで穏やかな日和でした。そんな季候に誘われてか、思いの外、大勢が集まりました。コートは、予約した2面ではとても足りません。すぐに追加して、どうにかその日の盛況に応えました。 初打ち会で盛り上がるのは、「的当てゲーム」です。サービスラインの中央に「ダルマ落とし」のおもちゃを立て、それを反対側のコート(サイド)から、サーブをして当てるという腕比べです。的になるおもちゃはプラスチック製。直径15センチ、厚さ5センチほどの円盤状の、黄・青・緑・ピンクの4色のパーツを重ねた上に、赤いダルマを載せます。全体の高さは約40センチです。 ルールは、打球(サーブ)が的のダルマか円盤の、どれかに当たれば「あがり」という簡単なもの。ノーバウンドでなくても、的が倒れなくてもOKです。ところが、事を軽んじて勇み立つと、なかなか的を射落とせません。見た目より難しい腕試しです。 ゲームは子どもの部と大人の部(中学生以上)に分かれ、それぞれの部の、早く「あがり」を達成した3位までに賞品が出ます。合宿の紅白戦と同じように、保護者も家族も参加しなければいけない、クレイクラブの名物イべントです。初打ち会は、その後、練習試合をして楽しい一日を終えます。 翌週の河川敷の通常練習でのことです。先に行なった今年の的当てゲームが話題にのぼったとき、思わぬクレームが飛び出しました。 みんなに「合宿の紅白戦より、的当てゲームのほうが賞品をもらう確率は高い」と知恵を授ける稗田コーチは、それを証明するかのように的を射止めて3位の賞品、洋菓子を獲得しました。ところが稗田コーチは、的当てゲームの本番前に、そのための練習を独りで、いっぱいしていたというのです。だから入賞するのは当たり前、と。 その稗田コーチの次男、Jr部のOBで中学1年生のゆうきくんにもクレームが付きました。大人の部で1位になった、そのときのサーブがフットフォールトだった、というのです。みんなは、よく見ていますね。でも、そんなことを今さら聞かされても、どうすることもできません。これら2つのクレームは、ともに子どもたちから出ました。賞品に未練があったようです。しかし、たとえ稗田親子が失格になったとしても、自分らには回ってこない大人の部の賞品です。分かっていたのでしょうか。 ちなみに、ゆうきくんへの賞品はビールでした。稗田親子は、そのときハイタッチをして祝い合い、賞品を交換しています。あのビールはもう、稗田コーチのノドを潤して、あの洋菓子は、ゆうきくんのお腹に消えてしまったはずです。 「はん・もく」ノートにも的当てゲームのことが書かれていました。おもしろく感じたのは、賞品の品定めをしていた作品です。子どもの部の1位の賞品は大きなバッグ、2位はステキな手袋なのに、自分がもらった3位は値の安そうな靴下で、他との差が大きすぎるという主張でした。ゲーム(的当て)とはいえ、賞品が懸かると目の色が変わるものです。悔しさが行間に、にじんでいました。 そういえば、当日のゲームの最中にも文句を言ったメンバーがいました。的に当たったのに認めてもらえなかったのは納得できない、と「ぐずった」1年生のわたるくんです。誰からも「あがり」の判定が下りない一球(サーブ)でした。だけど、しつこくアピールして、なかなか引き下がりません。やむなく誰かの差し入れの、2リットルのオレンジジュースを残念賞として進呈しました。それだけのことで本人は大喜び、機嫌を直してくれました。 賞品を目当てに挑む的当てゲームは、いつもと変わらぬ人気で好評を博しました。新年に相応しい賑やかな初打ち会だったと思います。クレイクラブは、今年も好スタートを切りました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.12
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2010・1・3(日) ふらっと、出かけてみたくなりました。前以て立てていた計画ではありません。 1月3日の、仕事(早朝6時からの特別勤務)を終えた朝9時過ぎのことです。予定した用事が突然キャンセルになり、空白の時間が生まれて長い一日をどう過ごそうか、と勤め先の事務所から自宅へ帰る車の中で考えました。 予め周到な準備をしていた予定が急に中止や変更を強いられると、心の張りが緩んで気抜けしそうになります。でも、一息入れることで落ち着いた時間を持てたり、思いがけない楽しさと出合えたりするものです。 観たいという映画やテレビ番組は特になく、福袋やバーゲンへは足は向きません。初詣やお墓参りは済ませています。「会おう」という突然の呼びかけに、快く応えてくれる知り合いも思い当たりません。あれこれ思案して決めたのは車・バス・鉄道のどれかを使った、まだ行く当ても未定の物見遊山でした。 お正月で、車の交通量は少ないはずですが、どこかで渋滞が起きるのは確かです。だから、行き先を定めずだらだら、くねくねと運転するのは無益で危険です。バスなら運転手任せで気が楽ですが、市内を巡る乗り合いバスでは面白くなく、かといって名勝地を回る遊覧バスでは自由がききません。思い立ったのは鉄道でした。京都市内の中心地へはもちろんのこと、大阪、奈良、滋賀の、どの方面へ行くにも便利な立地に、わが家はあるのです。徒歩10分の地点に地下鉄と京阪、15分内の距離にはJRと近鉄の駅が控えています。 散歩するときの行き帰りは、違う経路を選ぶのがボクの流儀です。その「性格」が選ばせたのは、周遊のできるJRでした。振り出しは、JR稲荷駅(奈良線)です。どんな周遊ルートにするかは決めていなかったため、キップは間に合わせに1区間分を買いました。ただ、上りか下りにするかは迷いませんでした。乗ったのは、10時22分発の奈良行きです。 とりあえず、関西本線と学研都市線の交わる木津駅を目指しました。そこで、乗り替えせずに奈良へ向かうか、乗り替えて東の三重へ行くか、それとも西の大阪か、の3つから行き先を決めることにしました。行き慣れた所か行ったことのある所か、あるいは行ったことのない所か、それが決め手でした。選んだのは一度も乗車したことのない関西線での三重方面行きです。木津駅⇒関西線⇒柘植駅⇒草津線⇒草津駅⇒東海道線⇒京都駅⇒奈良線⇒稲荷駅というルート(乗車距離141km)を設定しました。 旅にはハプニングが付きものです。今回は、駅の売店が閉まっていたり、駅前に店がなかったりして昼食に、なかなかありつけませんでした。駅を出て食堂を探すのに手間取る始末で、おかげで乗り継ぎがうまくいかず、ルート変更(柘植駅から亀山駅を経て名古屋駅へ迂回)を余儀なくされ、予定の倍以上を乗車(309km)する羽目に陥って10時間を越える予想外の遠出になりました。 この日の一番のハイライトは、大垣や関ヶ原で数10センチもの積雪を見られたことです。雪深い岐阜、石川、富山の人里や山々に旅愁を覚え、彼の地に思いを寄せました。所々で下車したり、宿泊したりする鉄道の旅に、いつか時間をかけて出向きたい、と「旅心」を夢想しました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.03
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2010・1・1(金) 新年おめでとうございます。このRtoSを書き始めて、6度目のお正月です。それ以前に歩んだ人生も加えると、初春を迎えた回数はなんと65回にも及びます。そのほとんどを、京都で過ごしました。海外でお正月を、ゲレンデで迎春を、といったツアーなどに参加したことはなく、東京に住んでいたころも結婚してからも、年末には京都へ帰って新年を祝ってきました。 お正月というイメージで、すぐに思い起こすのは初詣です。大晦日の夜に出かけ、元日の夜中にお詣りしたという記憶です。中学生か高校生のころは、友だちと人混みの中を、ただウロウロすることが楽しかったようです。兄姉が一度だけ揃って出かけたのは、祇園の八坂神社でした。日本の3大祭、京の3大祭の祇園祭が行われる神社です。 その八坂神社で、大晦日の深夜から元日にかけて営まれる行事に「おけら参り」があります。おけらとは、漢方薬にも使われるキク科の多年草植物です。神社では、その根と茎を燃やして参詣者を迎えます。その火を、竹の繊維で作った吉兆縄という小さな縄に移して自宅へ持ち帰り、お雑煮を煮たり神棚の明かりを点けたりする習わし、それがおけら参りです。厄除けに効果があるといわれ、無病息災を願います。途中で縄の火が消えないように、くるくると回しながら歩きました。テレビは毎年、そんな光景を映しだしています。 家族で、ご来光を仰ぎに行ったこともありました。場所は、生駒山と男山(石清水八幡宮)です。石清水八幡宮へ行ったときは、満員電車の中で小学生だった娘と息子が押しつぶされそうになったことがあり、慌てました。慌てたと言えば、伏見稲荷神社へ詣でたときは、もっと怖い思いをしました。門の前で待機させられていた初詣の群集が、元日の午前0時の時報を合図に境内に殺到して、われわれ家族4人が将棋倒しに巻きこまれそうになったのです。 65回もの年越しを、他にどれくらい覚えているのか、といえば頼りないことに5つほどしか思い出せませんが、その中で最も印象に残っているのは、新しいミレニアム(1000年間)に向けて開かれた記念イベントの一つ、五山の送り火(大文字・妙法・船形・左大文字・鳥居形)です。毎年お盆に行われる送り火が、2000年が終わって21世紀が始まる2001年1月1日の午前0時にも執り行われたのです。見たのは銀閣寺を見下ろすように立つ大文字山(如意ヶ嶽、東山連峰の主峰)の、広い斜面に灯された「大」でした。8月の、本番のときのような混雑が起きなかったため、初めて近距離から仰ぎ見ることができました。 辺りは肌を刺すような冷気に包まれ、張り詰めた静けさが広がっていました。大文字山に、めらめらと炎が燃え上がり、その光は夜空に浮かんで山肌を赤く照らしていきました。新世紀の幕開けを告げる、火の起こりでした。夏の夜空を焦がす伝統の祭典を真冬に、しかも年の変わり目に見られるという奇跡は二度と来ないのでは、と思いました。 冬の送り火には興奮を覚えましたが、見終えて白川のほとりの、小さな道(哲学の道)を歩いたときは、新しいものを迎え入れる神妙な気持ちに浸りました。人影は少なく、音色の違う除夜の鐘が、近くの寺から次々と打ち鳴らされて暗やみの中に響き渡ってきたのです。その一つ、真如堂(正しくは真正極楽寺という。正真正銘の極楽の寺であるという意味らしい)の鐘に誘われて足を運び、お堂の前で手を合わせました。 それから9年が経ち、2010年が明けました。曇り空。日の出を望めない6時の気温は4度、冷たい風が小雪を散らして初出勤の首筋を吹き抜けていきました。今年も、どうぞよろしく。にほんブログ村にほんブログ村
2012.02.07
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2009・12・24(木) 「デフレ」という言葉を耳にしたことは、ありませんか。日本政府は先日、「日本の経済はデフレ状況にある」と発表しました。デフレとはデフレーションの略、モノの値段が下がり続ける状態のことをいいます。その、身近な例の一つが、「すき家が牛丼の値段を280円に値下げした」というニュースでした。物価が下がると、安い食事や買い物ができて助かりますが、その反面モノが売れなくなったり、収入が減ったりする現象が起きて、世の中は不景気に陥っていきます。 ちなみに、デフレの逆の現象をインフレ(インフレーション)といいます。政府や日本銀行は、デフレでもインフレでもない、国民が安心して暮らせるような生活を守ろうと、いろんな計画や方針を立てて物価の安定に努めています。 「物価の優等生」と呼ばれるモノがあります。鶏卵(玉子)です。価格の変動が少なく、この30年間、ほぼ一定の値を保ち続けてきたことが「物価の優等生」といわれる理由です。しかし50年ほど前は、玉子は高級品でした。生産量が少なかったからでしょう。栄養価が高いこともあって、病人のお見舞い品に使われたほどです。ふだんは、なかなか食べさせてもらえませんでした。今では身近な食材になり、目玉焼き・玉子焼き・スクランブルエッグ・オムライス・玉子かけご飯・ゆで玉子といったバラエティーに富んだ食べ方ができます。 通常は、スーパーで10個パック(Lサイズ)が180円ぐらいで売られていますが、特売の目玉に使われるときは、97円ほどに値を落とされます。昨今は「お一人様1パックまで」に、「1千円以上をお買い上げのお客様に限ります」という、けちくさい条件が付くようになりました。 玉子に劣らぬ「優れもの」がいます。野菜です。野菜は、暑い寒い、雨量が多い少ない、台風が来た来ないなどの天候の影響で収穫量が変わり、一日で数倍も価格が上下することがあります。これは一例ですが、雨不足が続いた夏に、1束100円ぐらいだった青ネギの価格が1千円以上に跳ね上がって、ネギ泥棒が出現した年がありました。しかし、それは稀な例です。気候の急変などで激しく価格が変動するのは「玉に瑕」ですが、野菜は農家が大変な労力と手間をかける割には値の張らない産物ではないかと思います。他の物価と比しても安く、「優れもの」だと思います。 ところが、テレビや新聞は野菜の価格の変動に敏感で、大きく騒ぎ立てます。夏は「雨不足で野菜が暴騰」、冬は「寒波に見舞われて冬野菜が急騰」などと報道します。野菜は毎日食べるものですから、国民の生活に密着して話題性が高いのでしょう。 今年も、いよいよ押し詰まって残すところ1週間。年の瀬ともなれば、お正月用食品の価格が気になるころです。ふだん、モノの値段に関心がない人でも、物価に目配りすることが多くなります。買い物の量が増えて家計の支出も膨らむので、上手くやりくりしようと苦心するからです。お母さん方は新聞のチラシでスーパーや八百屋さんの価格を比較、チェックして賢い買い物を心がけます。 幸い今年は、牛肉や高級魚、輸入食品にも安値傾向見られるようです。野菜も、急激な天候の異変はないという予報で、価格は安定していそうです。 デフレ現象を喜んではいけないのでしょうが、安く買えるのは、ありがたいことです。食べられることに感謝して、明るい新年を迎えたいと思います。にほんブログ村にほんブログ村
2012.02.06
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2009・12・14(木) 散歩中に足を止め、耳の穴に適当に突っ込んでいたポケットラジオのイヤホンを、放送を聞き漏らしさないように、と入れ直しました。「今、静かなブームになっている『お弁当の日』という取り組みをご存知でしょうか」とアナウンサーが語り始めたのです。放送局のスタジオに招かれたのは、元小学校の校長で現在は中学校へ移って、そこでも校長を務める先生でした。農林水産大臣賞の一つ「地域に根ざした食育コンクール」の最優秀賞を受賞し、『弁当の日がやってきた』などの本も出版されたそうです。 「お弁当の日」とは、四国の小学校に勤めていたその校長先生が、6年ほど前に始めた学校行事です。5年生と6年生に、月に1度だけ自宅で自分のお弁当をつくらせ、お昼に学校で食べさせる、ということを考え出したのです。その「お弁当の日」は全国に広まり、賛同して実施する学校が500を越えたそうです。 校長先生が初めて計画を自校で発表したとき、保護者と現場の先生全員から大反対を受けたそうです。保護者からは「包丁を持たせたことがない」、「指を切られたりしたらたいへん」、「火事が心配」、部下の先生からは「これ以上仕事を増やされたくない」などと言われたのです。しかし、校長先生は引き下がらず、粘り強く説得に当たりました。 今の子どもたちが置かれている環境は最悪だと思ったこと、それが「お弁当の日」をつくろうと考えたきっかけの一つ、と校長先生は話していました。自分でお弁当をつくり、それを食べる小学生と、そんなわが子を見る保護者や家族が、お弁当という「食」から多くのことを学べる、と校長先生は信じていたようです。そして、家庭内や校内の暴力、いじめや自殺、不登校といった問題を減らせることができる、世の中を変えることができる、との思いも持った、と語っていました。「わたしは100年先を見越しています」という言葉が、ずしっと伝わってきました。「全ての責任は、わたしが持ちます」と言い切る校長先生の言葉に、反対していた保護者と現場の先生は折れて、「お弁当の日」がスタートしたそうです。 ルールは、親や家族は手伝わない、でした。学校で先生が食材の選び方や買い方、調理や味付けの仕方、後片づけなどを教えました。子どもたちは最初、ドキドキ・ビクビクしたことでしょう。それがワクワク・ルンルンに変わっていったようです。 その「お弁当の日」活動は、違う展開も見せました。月に1回だけのお弁当づくりだったはずが、思い思いの日につくったり、家族の分もつくる子が現れたのです。また活動は、たくさんの感動を呼びました。講演で全国を飛び回る校長先生は、エピソードも紹介していました。初めてつくってくれた子どもや孫のお弁当を、両親やおじいちゃん、おばあちゃんが涙を流しながら食べたという話、それを聞いた人が「もらい泣き」をしたという話が、山ほどあるというのです。 校長先生は言います。「かわいそうとか、気の毒という子どもなんて一人もいない。大人が勝手に決めつけている」と。自宅で調理できない何かの事情を持っているような子には、先生方が協力しました。日曜日に子どもたちと買い物に行くのだそうです。そのとき、どんな献立にするのか、どのように買い物するかなどをアドバイスします。買った食材は学校の冷蔵庫などに保管して、その日は子どもたちを帰します。翌月曜日、先生は早く登校して買い物に行った子ども(学校組)を迎え、家庭科の調理室でお弁当づくりを見守ります。そしてお昼、自宅で作ってきた自宅組も学校組も一緒に、それぞれの教室で自分のつくったお弁当を食べるのです。彼らの笑顔を見て、校長先生は「この子らは将来自分の子に、この食育の経験を教えてくれるはずだ。そして、孫へもきっと伝えてくれる」と確信したそうです。 ボクは勤務する日は毎日、職場で昼食をつくっていますが、月に1度ほどはコートで食べるお弁当もつくっています。クレイクラブにも、ぼくが、わたしがつくったお弁当です、と言う子が現れたらいいなと思いました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.01.24
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2009・12・10(木) クレイJrの昼食は、午後1時から始まります。お母さんたちも一緒に食べることができればいいのですが、用意できるテーブル数が少ないために、コーチと君たちが先に済ませます。 この食事タイムもクラブの重要な活動の一つ、と前に書きました。みんなと一緒に食べることは楽しく、「いただく」ことに感謝の気持ちを表すのは学校の給食時間と同じです。が、ここクレイJrの昼食時は学年別やクラス別ではなく全員が一つの座に着き、お箸の持ち方や使い方、お行儀などを習い、食べ残しと好き嫌いのチェックを受けるのです。コーチ陣の目が光って、厳しい言葉が飛び出します。 人間は、家庭や学校、職場やレストランといった場所で、家族や友だち、先輩や後輩らとともに食事をします。いろんなことを話しながら、食べ物を譲り合ったり、飲み物や果物、お菓子を分け合ったり、大人になればお酒を酌み交わしたりして、ひとときを過ごします。食事は、コミュニケーションを図るための大切な役目を果たすのです。 また人は、○×会といった名前を付けて、よく食事会を開きます。お誕生日会、茶話会、クリスマス会、新年会、歓迎会などです。親しくなったり頼られたり、物事を任せたりするという人間関係は、ただしゃべるだけでは生まれず、飲食することで、より親密な間柄を築いていけるのだと思います。 ところで、人間社会において最近、独りぼっちで食事をする人が目立ち始めた、と聞きます。他人と会話をしたり、一緒に遊んだりすることが苦手で、集団に溶け込めなくなった人が増えたのだそうです。人間に最も近い動物といわれるサルやゴリラ、チンパンジーの生態を研究する京都大学の山極寿一教授が新聞で、子どもに会食の習慣を教えることが少なくなってきたのが原因の一つ、と説明していました。 グループをつくって食事をするのは、人間社会にのみ見られる慣習、現象のようです。動物は、野生でも動物園で飼われるサルやライオンでも、そのほとんどが単独で食事をして集団で仲良く食べることは稀らしく、食事でコミュニケーションを取ったりは、しないといいます。 テレビだったかで話題になったのは、大学生の意外な行動です。お弁当を学内のトイレの便座の上で食べるというのです。友だちがいない、独りで行動するほうがいいという学生、といわれています。なぜトイレなのか? 学生食堂や教室、ベンチや木陰、芝生の上ではダメなのか? 囲われた場所がいい、つまり、見られたくない、というのも理由なのだそうです。一部の大学で起きているのではなく、全国的な傾向ともいいます。よりによってトイレを選ぶとは、滑稽と言うより悲劇です。 山極教授の説明は続きます。大半の動物は獲物やエサを奪い合うが、サルは食べ物でケンカすることを避けるために、仲間と一緒に食事をとることを避けて、エサ場では、なるべく顔を合わさないようにしたり、強そうなサルが近づいてくると、その場を譲るのだそうです。身体の大きいゴリラやチンパンジーはサルよりも仲間思いで、身体の小さい子どもや妹弟にエサを求められると、人間と同じように分け与える、と述べていました。 それでもサル類と人間の食事の慣習は、根本的に違うらしいのです。教授の考えによると、その1つは人間は頼まれもしないのに食べ物を仲間に与える、2つ目は人間は多めの量を持ち帰ってそれを仲間と一緒に食べる、3つ目は人間は向かい合って食べることを好む、4つ目は人間は人間にしかない目の瞳の部分と白い目の部分の動きを見て仲間の心・内面を読む、とのことです。 人間は、そんな特長を持つのに、最近の食事の仕方はサル類に似てきた、と教授は言います。それがエスカレートすると、人間は会話を閉ざして自分さえ良ければいいという世界に陥るのだと思います。それを防ぐには人間は「会食の場で学習」することが必要、と教授は説いていました。 学校で、「食」について深く学んだり広く考えたりする授業「食育」が行われています。その授業から、家庭や地域、団体や集団での会食の効用を知ることも大切です。明るく「頂きます、ごちそうさま」が言えるようになるには、会食の体験を積むことも大事だと感じました。クレイJrの昼食は、とても賑やかです。にほんブログ村にほんブログ村
2012.01.14
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2009・12・3(木) 2人の体験希望者が3週続けて練習に来ています。12月には、もう1人来るそうです。うれしいですね。 2人は3年生の男女です。男の子は、かずきくんのペアの予定、女の子は未定です。2人は、かずきくんと同学年で誕生月も3人そろって1月と知り、お互いに親しみを感じたようです。しかし、体験希望者2人は入部するかどうか、まだ分かりません。……と、ここまで書いて、ちょっと心配になりました。 以前、体験者の性格や特徴、エピソードなどを、この「R&S」に紹介しながら「メンバーが増えて、クレイJrは明るく賑やかで、おもしろくなった」と書いたところ、その直後に、どの子もコートへ来なくなるという残念なことが起きました。だから、この2人のことを書くと、またガッカリするような結果になりそうな気がして、何も書かないほうがいいのかな、と縁起をかつぎたくなったのです。 でも2人は人懐っこい明るい性格で、テニスを好きになってくれそうに思いました。また、友だちを大事にする子のように見えました。 練習中、男の子は終始ニコニコ顔です。目はくりくりと輝いて、左のほっぺにえくぼが、ぽつんと表れます。初めての体験日には、「楽しいな」を連発しました。それは、ボールを打つことだけを指すのではなく、みんなと過ごす「時間」にも向けられた言葉のようでした。テニスの腕前は、かずきくんに追いつくには時間がかかりそうだけれど、いいペアになれると思います。ボール拾いの早さは一番でした。こんな純真な子は初めてです。 女の子は、ハッキリものを言う子です。1本打ちの練習でボールを次々送りこむと、その間隔を「ちょっと、早すぎる」と注文を付け、「疲れた」、「お茶を飲みたい」、「いつ休むの?」と思いついたことを何でも口に出します。また、「はん・もく」ノートには、すぐに興味を示し、早く書いてみたいと言うのでノートを渡したところ、翌週には「わたしは体けんで、はいっていた人と友だちになり、とてもうれしかったです。テニスで初めての友だちです。もっといっぱい、友だちをつくりたいです」と書いて提出してくれました。 食事時間のとき、女の子は大食漢のたいすけくんの前に座って、持ってきた太巻きを「2つも無理」と言って1つをたいすけくんに渡していました。もらったたいすけくんは、ちょっと大袈裟に「うわぁ、でっか!」と発しますが、でもパクッとかぶりつく早さは、さすがでした。 その横に座った男の子のお弁当はカラフルでした。食べ終わると、デザートのリンゴを「どうぞ」と周りに配っていました。その優しそうな男の子にも「はん・もく」ノートを渡すと、「ぼくは国語が得意」とうれしそうに受け取ってくれました。どんなことを書いてくれるのでしょう。 体験者のお母さんからは、子どもたちの意思をまだ聞いていませが、「はん・もく」ノートを渡したのですから、きっと2人は入部してくれると思います。そうです。「はん・もく」ノートを書き始めた子がクレイをやめたという例は、あまりないのです。ノートを渡すという行為には、入部を実現させるおまじないのような「力」があるのかもしれません。No.164に書いた「Jr部が誕生して初のピンチ」は、どうやら切り抜けられそうに思いました。にほんブログ村にほんブログ村
2012.01.07
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2009・11・24(火) 年賀ハガキが発売されてしばらくすると、喪中ハガキがぽつぽつと届き始めます。その中に親しかった人の悲報が混じっていました。かつて埼玉で務めていたときの上司の奥さんです。71歳と書かれていました。 その奥さんは群馬県の出身。上越線(群馬県高崎駅と新潟県長岡駅を結ぶJR東日本の鉄道路線)の沼田駅(高崎駅から長岡方面へ10個目の駅)近くの、たばこ屋の看板娘だったと聞きました。 群馬県は別名「上州」と呼ばれ、赤城山と国定忠治で知られた土地です。名物は、「かかあ天下と、からっ風」といいます。かかあ天下とは、お父さんよりも権力を持つ強いお母さんのことをいいますが、亡くなった奥さんは、そんなふうではなく優しくて心づかいの細やかな、明るいお人柄でした。 ご主人である上司がどこの生まれで、奥さんとはどんなご縁だったのか、という秘話は忘れましたが、ぽっちゃりした体型でしっかり者の奥さんと、細身のおっとり型の上司という対比が絶妙で、ふたりは実に仲の良いご夫婦でした。小学生の男の子と幼稚園児の女の子がいました。 そのころのボクは20歳代前半、まだ独身でした。独り身にはありがたいことに、週末になると食事に呼ばれて、よく押しかけました。上司も酒好きで、行けば必ず酒盛りです。話し上手な奥さんの、温かいもてなしを受けました。いつか、あんな家庭を持ちたい、と憧れたものです。 呑むことと同様に楽しみだったのは2人の子どもと遊ぶことでした。行くと、いつも熱烈な歓迎を受け、まつわり付かれて、なかなか解放してもらえませんでした。あれから40年、抱きついたり抱きつかれたり、寝っ転がったり飛び跳ねたり、追い回したり逃げ回ったりしたことが、子どもたちの肌や髪、衣服の匂いの記憶とともに、ぼんやりと思い出されます。 クリスマスに贈ったゴールドクレストかモミの木の小さな苗木が、「庭に植え替えたところ、グングン伸びて立派に育っている」と上司から聞いたのは、ずいぶん後になってからのことでした。今は、もっと大きくなって、あの庭を見下ろしているのでしょうか。そこで遊んだ子どもたちは、どんな家庭を築いたのでしょう。上司の奥さんは、おそらく、お孫さんにも見送られて、旅立たれたに違いありません。上司は、あの家にひとり残っておられるのでしょうか。肩を落とされる姿が目に浮かぶようです。 帰らぬ旅に出られたのに、お礼を言うこともお参りすることもできませんでした。遠くから偲ぶことになった人、なんとも心残りです。にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.17
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2009・11・10(火) 久しぶりに試合(大会)に出ました。Jr部を創部して以後初の参戦なので、10年ほどのブランクを経たことになります。勝ち抜く力と技の衰え、勝負に挑む執念と集中力の減退が、大会を遠ざけてきた理由です、とカッコよく言ってみたいところですが、そんな立派なことを言えるような実力を積んだ身ではありません。君たちが練習する日を休んでまで、試合に臨もうとは思わなかったのが一番の理由です。手首の骨折や足首の捻挫、メニエル病を起こすなどの災いで、自信をなくしてもいました。 出向いた大会の名称は「第6回 近府県 シニア ソフトテニス 交流会」(枚方市 Panasonic スポーツセンタ-)。京都府と大阪府、それに近隣の県の60歳以上の選手(男子)が集って、親睦を深める大会です。大会運営は京都ソフトテニス シニア同好会が行い、その中心になって動かれたのは、京都市ソフトテニス連盟の役員で、クレイクラブの名誉会長でもある豊田弘さんです。豊田さんは、かつて高槻市の Panasonic に勤務され、同市のソフトテニス連盟の会長も務められました。その間に、大阪府の同連盟から「功労賞」、大阪府から「大阪府体育功労賞」などを受賞されています。 大会参加者は156人(ダブルスの78チーム)、最高齢は89歳、最も遠方からの参加者は徳島県の選手です。競技は、60歳から80歳までを5歳おきに分けた5種目で競います。60歳以上という限定で、これだけの種目が用意され、こんなに多くの選手が集結するのですから、素晴らしい大会です。 予てから支援、お手伝いをしなくてはいけないと思い続けていました。それを実行に移せたのは、大塚コーチから「一度ぐらいは、顔を出せよ」という「おとがめ」を頂いたからです。京都の選手は60人ほどでした。顔見知りも多く、ペアを組んで遠征した選手や中学、高校の先輩とも再会しました。さすが交流会と名の付く大会、他府県の選手との混合ペアも生まれて賑やかで和やかな雰囲気、大会目的は充分果たされていました。 大会に出る場合、組むペアの人選は、いつも重視してきました。気分よく勝ちたいと望むからですが、しかし今回は「参上する」が目的、こだわりを捨ててペア選びは豊田さんに任せました。結果、初対面の人とペアを組むことになりました。1、2歳ほど年上のような長身の左利きで自ら「後衛を務める」と主張する人。「君は前衛だ」と指図を受けて、やむなく慣れない守備位置、ネットに詰めました。 戦績はリーグ戦で2勝1敗、2位グループ(6チーム)のトーナメント戦で1回戦敗退の2勝2敗でした。悔しかったのは、2試合ともファイナルまで食い下がったのに負けたことです。救いは小気味よいボレーとスマッシュ、勝った2試合のウイニングショットでした。ちなみに、負けた試合の最後の一打は、どちらもペアのネットアウトでした。 ファーストサーブは戦った4試合をとおしてスピードを求めず、堅実に80%の確率で入れました。もちろんダブルフォールトは0でした。が、レシーブは1回失敗しました。ボレーとスマッシュもミスをしましたが、失点よりも得点が多かったことが慰めです。にもかかわらず負けを喫したのは、にわか作りのチームワーク、息の合わないプレーが重なったからだと思います。 ともあれ、久々に心地よい緊張感を味わい、さわやかな汗を流すことができました。心許せるペアに恵まれる機会があれば、また挑戦してみようか、と浮かれそうになりましたが、しかし、君たちとの練習が気になりました。充実感は、君たちと作る時間のほうが満ちているように思えるのです。にほんブログ村にほんブログ村
2011.11.30
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2009・11・4(水) 室内でゲームなどをする子どもが増えて、屋外で遊ぶ子が少なくなっています。それ以外にも、子どもの姿が戸外から消えかけているのは、少子化の進行も原因しているのでしょう。けれど、スポーツを楽しみたいという子どもは、必ずしも減っている訳ではありません。クレイクラブは、そんな希望を抱く子どもたちの受け皿として活動を続けています。 「3年後には、5人ぐらいしか残らなくなります。もしこのままだと、男子の人数が0人になってしまう可能性があります。そして、クレイが女子だらけになってしまうことも、あるかもしれません。僕はそうなってしまったら、イヤです」。これは、クレイ ジュニア 作文集第9刊に載せた、たくま君の作品(2007・12・9、当時6年生)の一部です。 たくま君が心配していたように、現在のクレイジュニアの部員数は5人です。来年の3月には6年生3人が卒部して、残るは、いよいよ2人(男女1名)という、Jr部が誕生して初のピンチを迎えることになります。 そのたくま君や同期のたつむ君、ゆうき君らクレイJrOBの中学生が、ときどき練習に加わってくれたり、大山崎町の行事「わくわくクラブ」の練習会があったりするので、クレイクラブはなんとか活気を失わずにいます。けれども、早く部員の増加を図らなねば、と思っています。 一方で、大人の部員の数は、どうなのでしょう。昨年、コートの使用をめぐって意見の違いが出ました。クラブが初めて経験した内部対立でしたが、クラブ全体が揺らぐような事態にはならず、だれもが平等に、公平にという創部以来守り徹した考え方が支持されました。その後、意見が通らなかった硬式のメンバー数人が脱退していきました。 そんな沈滞ムードを蹴散らしてクラブに元気を取り戻そうと、大人の部に「CLAY Expert Rally(達人たちの闘い)」 という企画を立てました。 大人たちは、基本練習よりも試合(クラブ内の)を優先させます。その試合の対戦成績を一人ずつ記録して、例えば最も勝ち数の多い人にベスト賞という賞を与えて、来年のクラブの総会で賞品を贈って表彰しよう、と考えたのです。中学生を含むビジターも加え、楽しんでもらうこと、多くの人に練習に参加してもらうことが狙いです。 Rallyは好評です。ペアは、その日の参加者でジャンケンをして決め、一試合ごとに組み替えていきます。賞については、練習日数の3分の2以上の出席を条件にしようとか、ブービー賞やミドル賞(中位の成績)も用意しようという提案があり、これからいろいろ調整していくところです。 ジュニアも、何とか盛り上げようと知恵を絞ったのが、部員募集のポスター配布です。かずきくんのお母さんに作ってもらいました。ポスターは大人の部員にもお願いして、自宅の軒下などに掲示をしてもらうようにしました。コート近辺の小学校へも送りました。他に、大山崎町や近隣の市の広報誌や新聞に募集記事を載せてもらうことも検討しています。 このポスターのキーポイントは、「親子部員募集(初心者歓迎)」(保護者の会費は無料)としたことです。子どもをコートへ送り迎えする保護者も一緒にテニスを、という働きかけです。子どもの練習をじっと眺めているだけでは、つまらないでしょうし、これからは寒さが厳しくなります。いっそのこと、走って動いて身体を温め、ともに基本を覚えて子どもと打ち合ってもらおう、と考えたのです。 さて、どうなりますか、気がかりです。でも、たとえ応募者がなくても、部員がたった一人になっても、一時的に0人になっても、Jr部はなくしません。たくま君、安心して!にほんブログ村にほんブログ村
2011.11.22
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2009・10・21(水) 1週間ほど続いた秋晴れが一転して、昨夜から雨が降りだしました。久しぶりの、まとまった雨量です。冷気が降りて気温が下がり、野や山は、やがて紅や黄色に染まっていくのでしょう。 まだ雨の降り続く昼下がり、いつもの散歩に出かけました。 10分近く歩くと、緑の多い小さな公園に行き着きます。公園の草木は雨に洗われ、光って見えました。その中で、サクラやイチョウなどの落葉樹はもう色づき始めて、キンモクセイの木はオレンジ色のちっちゃな花を辺りにいっぱい撒き散らし、植え込みの草花は気持ちよさそうに雨に打たれていました。 公園の横に、ナス畑があります。生育を見るのが好きで、週に一度は訪ねます。 ナスの茎と葉脈の色は、ナスの実と同じ濃紺で、葉っぱは深緑、花弁は淡い紫が少し染まった白、花心は黄色です。色調や形がいかにも和風で、その姿は一幅の日本画として額に収まりそうに思います。苗草のころから実を付けるまで、見守ってきました。 ナスといえば、糠漬けが大の好物です。表面が黒光りしてつるつるのナスは漬け物になると、さらに艶を増してみずみずしくなり、白飯を食べたくなり、何杯もお代わりをしたくなります。皿に盛るには縦割に二分して、7ミリ幅の斜め切りにします。この7ミリに切ることが肝心で、それ以上厚くても薄くても「規格外」、味も見た目も劣ります(気がする)。ナスの果肉は、真ん中から表皮のほうへ白、青、紫、藍、紺と変化し、隣同士が少しずつ混じり合う色合いが鮮やかで、青が濃いほど白さが際立ちます。切り口の果肉はやわらかく、噛むと程よい酸っぱさの、少ししょっぱい漬け汁がじわーっと口の中に広がり、あまり主張しないナス本来の優しい味が後からふわーっと現れて、年中は食せない味覚を楽しませてくれます。邪魔な変味を招かず風味を壊さないために、醤油などはかけないで口に運ぶことが大切です。主菜の脇で控えめに添えられますが、目と舌で味わう秀逸な一品、「ただの漬け物」と侮ることはできません。もっとも、食卓に上がるとその艶やかさ、みずみずしさは長くもちません。時間をおくと色あせて酸味、塩気が強まります。 「秋ナスは嫁に食わすな」という諺があります。ナスの中でも味が特に良いといわれる秋ナスは、憎たらしい嫁には食わすなと、しゅうとめが言ったとされる言葉、嫁いびりです。一方、食すと身体が冷えるので、大切なお嫁さんには食べさせるな、という意味もあるようです。どちらにしても、自分だけ食べたいがための都合の良い口実です。食べ物の恨みは怖いのに……。 さて、そのナス畑はきょう、無残な姿に変わっていました。茎が根元から切り払われ、畑に投げだされていたのです。ていねいに育てられていたのに、どうして食物としての生命を絶たれたのでしょう。冷たい雨に、さらされていました。 散歩は、去年3月に開通した桂川の祥久橋へと続きます。京都の市中を見下ろす西山、北山、東山の山並みを順に見渡せます。雨は小降りになり、空が西のほうから明るく広がり始めていました。どんよりと低く垂れた雨雲、雲海から千切れたようなふわぁーっとした霧、モクモクと湧き上がる湯煙のような靄が、幾つもの山の背に浮かんで、漂い、流れだしていました。川には、増水した水流をかくカモやガンの姿が見えました。たくさんの水鳥が集まって冬を越します。 明日は晴れの予想ですが冷たい風が吹き抜けそうです。そろそろ、ナスの糠漬けは食べ納めです。にほんブログ村にほんブログ村
2011.11.10
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2009・10・21(水) 予定を1日ずらして墓参をした日、お墓に供える花を買う、いつもの花屋の奥さんからユリの花束をいただきました。「きのう、お店は、お休みでした?」の問いに、「はい、そうですが……、注文のお電話をくださったのですか? それは申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」と答えて「これは、お詫びのしるしです」と手渡してくれたのです。数本のユリの枝から白いつぼみが5つ伸びて、うち1つは開き始めていました。 勤め先の事務所へ持ち帰ることにしました。男だけの職場には花を飾るような洒落っ気はなくて、いつも殺風景ですが、グラスに差して窓際に置くと白いユリは外光に照り映えて、室内をパッと明るくしてくれるようでした。 ユリには、オニユリ・ヒメユリ・カサブランカといった有名な品種があるようです。もらったユリはどんな種類か分かりませんが、白いユリの花言葉は純愛だそうです。花屋の奥さん、さすがにお目が高い。 事務所で、ユリの花に気づいたのは3人だけでした。「どうされたんですか、この花は?」、「室内の雰囲気が変わりましたね」、「きれいですね」と。残り10人ほどの社員は気づいていないか、無関心な様子でした。感性、洞視、気遣いがあるかどうかは仕事の結果にも表れて、その価値観は能力を評価するのに無益ではないのです。 グラスの水は、毎日取り替えました。最初に咲いた花は少し萎れてきましたが、残りの花は2日おきに咲いて、最後の1つは今朝、パカッと割れるように開きました。 さて、そのユリは、香りのことを「……のような」と説明できればいいのですが、例えるものが思い当たりません。フルーティー、甘酸っぱい、さわやか、やさしいなどといった、ありふれた表現もしっくりせず、なじみません。社員の一人は「きつい匂い」とも言います。その一方で、花びらに鼻をすり寄せないと匂いを感じなかったり、花から離れても匂いが付いてきたり、入室したときだけ一瞬に匂ったり、という掴み所のない特性も持っているようです。 恋の花と呼ばれるユリがあるそうです。黒ユリです。「愛する人に捧げれば、ふたりはいつかは結ばれる」と説く歌詞が残っています。が、黒色とは、ただならぬ色、ぶきみさを感じます。どんな香りがするのでしょう。興味をそそられます。 しかし花なら、バラが好みです。 そのバラの、世界初の品種が市井にお目見えすると知って、関心を持ちました。青いバラです。開発に成功したと聞いたのは数年前のことですが、その後も研究を重ねて、いよいよ11月に販売されるというのです。 青いバラは「不可能の代名詞」と呼ばれて、作るのは無理、至難とわれて来たそうです。その説を覆して、見事に「開花」させたのですから偉業です。20年ほど前から実用化を目指して取り組んだ、洋酒メーカーのサントリーが商品化にこぎつけました。 新聞に掲載された写真を見ると、青というより紫に近い色で、少し冷たい感じがしました。しかしメーカーは強気です。1本2、3千円で売るというのですから自信作なのでしょう。商品名はAPPLAUSE(アプローズ)、意味は手をたたいたりして盛んに誉める「喝采」、花言葉は「夢かなう」です。濃厚な甘い香りがするのだそうです。 遠い昔の卒業のお別れ会で、先生から御下名を賜ったことがあります。「さぁ、改めて告白しなさい。みんなが証人です」と優雅な香りで「情熱」が花言葉の赤いバラを1輪渡されました。告白する相手は級友、先生は交際していることを知っていたのです。「床にひざまずいて左足を立て、右手のバラを高く掲げて彼女に捧げるのです」と、手解きも受けました。けれど、「情熱」の赤いバラの「命」は若く、いつしか枯れ果ててゆきました。 もしも、「夢かなう」青いバラを捧げていたなら、それとも「二人はいつかは結ばれる」黒ユリだったなら、と過ぎ去りし日に、しばし思いを巡らせてしまいました。 しかし、勤め先の事務所では今、そんな儚い夢心を余所に「純愛」の白いユリが、10日も怪しい香りを放ち続けています。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.20
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2009・10・18(土) 散歩に行くのは、多くが午前中です。その歩いているところを、知り合いに見られることがよくあります。あんな所をなぜ? どこへいく途中? 自宅からずっと歩いて? と不思議がられます(答は、これ以前のページにあり)。 散歩に忘れず携行するのはポケットラジオで、最近聞くアナウンサーの時候のあいさつには、キンモクセイが、たびたび登場します。先日、リスナーから届いたとアナウンサーが紹介したのは、「キンモクセイの香りは苦手」、「匂いを嗅ぐと憂鬱になる」、「不愉快になる」といった内容の便りでした。 キンモクセイを市町村の「木」にしている自治体は多く、「県の木」に指定するのは静岡県だと知りました。身近な木で、公園などでは大木に育ち、小さなオレンジ色の細い花を咲かせてエレガントな香りを放ちます。ひんやりした空気に漂ってふわーっと広がり、その香りに触れると身も心も引き締まる思いがします。柔らかな甘い香りは、秋を気づかせてくれる一番の、小粋な使者だと覚えます。ところが、その香りを嫌う人がいるとは、知りませんでした。アナウンサーも驚いたようで、今後は、すてきな匂い、気持ちよい香り、といった表現は控えよう、と話していました。 そういえば、キンモクセイの香りは人を酔わす、と聞きます。そんなお酒、桂花陳酒はキンモクセイを白ワインに漬け込んだ中国の銘酒です。誘惑するような香りも秘めるといわれ、甘くて口当たりがよく、つい飲みすぎてノックアウトを食らうことがあるそうです。 確かにキンモクセイの花は香りが強すぎて、鼻を突くほどの鋭い刺激を感じることも少なくないのでしょうが、「キンモクセイの香りは苦手」という理由は、どうもその匂いだけではなさそうです。 昔、キンモクセイはトイレの近くに植えられることが多かったようです。水洗トイレが普及する前です。キンモクセイの、強くてしっかりした香りが、トイレの悪臭消しに役立ったのです。そのころのトイレは、離れた場所に建っていたか、家の隅っこに作られていました。今のように玄関の近く、明るい場所にはありませんでした。だから、夜は怖くて独りではトイレへ行けず、兄姉に付き添ってもらいました。それでも早く用を済ませたくて、下着を濡らしてしまったとか、ズボンに引っかけてしまったという失敗で、お母さんに怒られたことがあったのでしょう。キンモクセイの匂いを嗅ぐと、幼いころを思い出すのかも知れません。 また、嘘をついた、口答えをした、テストの成績がよくなかったなどの罰としてトイレに閉じ込められたとか、トイレの柱にくくりつけられて、「許してください」、「もうしません」と泣いて謝ったこともあったのでしょう。キンモクセイが香り出すと、子ども時代の苦い「事件」が、ふと思い浮かぶのかも知れません。 もう一つ思い当たる理由があります。これも、実際には匂いそのものが嫌いというのではく、先述の例のように思い出の中にキンモクセイの香りが閉じ込まれていた、と想像するものです。それは失恋の話、恋人に振られた物語です。恋は、冬は温々(ぬくぬく)、春はウキウキ、夏は行け行けと続くのが常套ながら、秋になると寒々(さむざむ)がめぐって枯れるとも聞きます。そんな恋を追想させるのがキンモクセイの香りなのかも知れません。 ≪さよならを言われたのは冷気に包まれた静かな夜の公園。小さな明かりが風に揺れるブランコを照らしていた。そのとき、どこからともなく香ってきたのがキンモクセイ。恋人の面影はそのとき「過去」という闇に消され、紡いだ日々も交わした言葉も連れ去られていった。その悲しい恋に残されたのはキンモクセイの香りだけ。それは、忘れがたい恨めしい思い出なのである。≫ 心を惑わす、秋冷の候の到来です。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.06
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2009・10・10(土) 昼食は、コンビニ弁当を買ったり街の食堂に行ったりして、いただいているのですが、先日、勤務先で使う電気炊飯器を買いました。毎日事務所にいるのだから、たまには自炊してはどうかと考えたのです。流行りのIH(電磁誘導加熱)に対応する製品ではなく、以前から出回っているタイプの、炊ける量が0.5合から3合までという小さな炊飯器です。 小さいころから、料理に興味を持っていました。台所に立つ母を見習ったり手伝ったりして、手軽な料理を覚えました。豆ご飯を作るときはエンドウ豆をお団子のように爪楊枝に刺したり、天ぷらのときは具材に穴を開けたり包丁で余計な切り込みを入れたり、といった悪ふざけもしました。そのころのご飯は、かまどに薪をくべるという炊き方でした。母に「ご飯炊きの名人」と言われて気をよくし、焚きつけ係、火加減の守り役にボクはなりきっていました。 包丁の持ち方や野菜の切り方、お味噌の溶かし方やダシの取り方、塩の振り方やお米の研ぎ方など、ほとんどが見よう見まねでしたが、その「盗み技」でも京都を離れた下宿生活では役に立ち、重宝しました。さすがに手の込んだ煮炊きものは調理できませんが、いろんな具材を入れた味噌汁や玉子料理、炒めものなどは、よく作りました。 当時使っていた釜も電気炊飯器(釜)です。炊き上がる前に湯気が噴き出て釜のフタがガタガタと大きな音を立てて鳴りました。母が持たせてくれたものです。そのころは、まだお酒の味も知らない時機で、毎夕1合強を炊いて食べました。あの釜の音と、炊き上がったお米のにおいは「独身時代」の忘れがたい残映として、いつまでも心に甦ります。 もともとが弱い身体だったため、食事には気を配りました。部屋の壁に「毎日の食事に欠かせない食べ物」という絵図を貼っていました。そこにはタンパク質・鉄分・カルシウム・ビタミンのABCなどと結びつく動物や植物、食品などが描かれていました。その絵を見て心がけたのが、魚介類、乳製品、野菜をバランスよく摂取する食事です。好き嫌いがなかったので、いろんな献立を試しました。買い物は楽しい日課でした。 しかし、そんな得意とした料理や買い物の習慣は歳月とともに、どこかに埋もれてしまいました。結婚後に自宅で炊事をしたことなど、数えるほどしかありません。料理上手(?)な、うちの奥さんに勝てないから? 任せていたから? いえ、そうではありません。食材選び、食材管理の「腕」はボクのほうが勝ります。季節感を取り入れるセンスだって負けません。理由は単純、面倒くさくなったのです。 では、なぜ炊飯器なるものを、いまさら買う気になったのでしょう。この理由も単純、同じ食べるなら、ブランド米の美味なほっかほかを、好きなだけ食べたくなったから、また、そんな食事が可能な事務所という環境が日常にあったからです。 炊飯器を買ってからは、おかず作りに熱が入り、小さな台所に立つことが多くなりました。買い出しは週に2度、チラシを見て出かけます。事務所の冷蔵庫や食器棚は、私物で目立ち始めました。経営者は、目をつぶっています。 炊飯器を買ったことには、もう一つ理由がありました。間もなく、うちの奥さんの故郷、岩手県から新米が届きます。ボクにとっても古里の味。今までのように、奥さんに独り占めさせる手はないと考えたのです。にほんブログ村にほんブログ村
2011.09.27
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2009・9・26(土) クレイクラブの合宿(1泊2日)が終わりました。創部の翌年(1988年)から毎年開催してきましたので、今年は22回目を迎えたことになります。 その初回合宿は、京都市北部の花脊の民宿で行いました。参加したのは子どもが4人、大人が6人だったと記憶しています。地表がガタガタのコートにラインを引いてネットを張り、ボールを打ち合いました。練習より、猪鍋を食べることが目的のような合宿でした。 合宿会場を探すことに苦心した年もありましたが、ここ数年は丹波自然公園に決めています。コート代が安く、6ヶ月前から予約できるという利点があるからです。また、宿泊料金も手ごろで、京都市内から1時間程度で行ける利便性も好都合なのです。 合宿の開催地に選んできた市町村は、もちろん京都府内が最も多いのですが、兵庫県篠山市や滋賀県大津市へも足を運んだことがあります。最も遠かったのは、広島県福山市でした。当地に勤務する知友H君に誘われて計画した合宿で、このときは平山美術館や水上水軍城といった名所への観光にも出かけました。ふり返れば、よくもまぁ、あんな遠方へ大勢が車(10台ほど)を連ねて行ったものだと感心します。そのH君に、もう一つ案内を受けて出向いたのが兵庫県淡路島です。明石大橋が架かる前のことで、地元の選手と一戦を交えて、こてんぱんに負かされたこと、帰路の明石へ向かうフェリー乗り場で長い車列に並んだことなどを懐かしく思い出します。 これまでの開催で、雨で1日がつぶれたことが2度ほどありましたが、中止にした合宿はありません。21回連続で、全て無事に閉会してきました。近年は、40名前後の参加者で賑わっています。 クレイクラブの合宿のハイライトは、なんといっても紅白に分かれて戦う全員参加の紅白対抗戦です。普段はテニスをしない会員の家族やJrの保護者も強制参加を強いられ、夫婦対決、親子バトルといったシーン(試合)も見られます。 紅白戦の最大の特徴といえば、勝ち組にだけ賞が与えられるという表彰方式です。賞品のほとんどは、シャツやトレーナーといった衣類です。そんなに高価なものは贈れませんが、賞品にプリントされたクレイのロゴマークには人気があるようで、対抗戦は大いに盛り上がります。今年も、賞品争奪の白熱した戦いになりました。勝敗を決する一戦が上手い具合に最終に持ち越されたのです。子どもたちの応援も気合いが入っていました。 合宿の、もう一つの楽しみといえば、子どもにとっては夜の「枕投げ」や鬼ごっこのような遊びでしょう。大人にとっては宴会と、「ミーティング」と呼ばれる勉強会です。いろんな技や「人」が花になり、またダシに使われます。話は延々と続いて、「おい、もう12時(真夜中)を過ぎたぞ」で、全員が寝床につきます。今年も、有意義なミーティングになりました。 翌朝、深酒・寝不足顔で互いが顔を合わせますが、朝食後はスカッと生き返って、元気な姿でにコートに集まります。まさにテニス熱狂集団の、毎年繰り返す合宿模様です。第22回、今年も無事に終えました。感謝です。にほんブログ村にほんブログ村
2011.09.12
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2009・9・15(火) お経のように発声する「水・金・地・火・木・土・天・海」を初めて聞いたのは先月のことです。出処はラジオ番組「夏休み・子ども科学電話相談」。宇宙天体の質問を受けた回答者が、説明するときに話していました。太陽系の惑星である水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星の略名で、順序は太陽に近いほうから並べられているそうです。小学校高学年で習うようですが、天体科学に疎い身には、全く覚えがありません。 ところで、同じように最近知ったものに、「惑星」という曲があります。初めて耳にしたのは数年前です。映画音楽か、ニューミュージックとして作曲されたものと思っていましたが、実際は1914年ごろに作られた管弦楽組曲「惑星」と知りました。イギリスの教育者ホルストによる大曲です。7つの楽曲から成り、太陽系惑星の中の地球を除いた7つの星の名が1つずつ割り振られています。ただ、先に書いた並ぶ順序の内、水星と火星だけは入れ替わります。なぜなのか、の問いには興味深い学説があるらしいのですが、まだ未学習です。 組曲「惑星」は、壮大な天界、神秘な宇宙へ突き進んでいく宇宙船の飛行時の情況を表現するような曲、というふうに聴けます。無限の速さ、果てしないスケール、幻想的な時空の世界へと聴く者を導くようです。中でも広く知られるのは、哀愁を秘めた日本人好みのメロディを持つ4つ目の楽曲「木星」です。日本語の詩(吉元由美:作)を付け、「ジュピター」と称して歌手の平山綾香が歌い始めた(03年12月)のが、きっかけといわれています。その後、テレビドラマの挿入曲、スポーツ大会などのイベントのテーマ曲、BGMにも採用されていきました。主題がエンドレステープのように何度も繰り返されて、どこで、どんな終わり方をするのか、と不思議に感じる曲でした。 ある日、テレビの音楽番組で、「惑星」を全曲聴く機会がありました。全体の演奏時間はおよそ50分ですが、「木星」は約8分という短さでした。その「木星」の主題の繰り返しは3回だと知り、突然調子を狂わせるように変わって終わることも覚えました。さらに、「惑星」の中に伏せられた、すごい秘密を知りました。同じ旋律を複数の楽器が、それぞれ少しずつ遅れて演奏され、和音に仕上げられるという演奏法です。また、楽器を弾く人でないと発見できそうにない特殊な作曲手法や演奏技法が、たくさん隠されていることも教わりました。「木星」が、どこか懐かしく親しみやすい曲に聴こえるのは、ドレミファ……の音階のファ(4番目)とシ(7番目)を使わない作曲法(ヨナ抜き)だから、という訳も分かりました。 そういえば、今年を「世界天文年」と呼ぶそうです。イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で、人類初の宇宙観測をしてから400年目に当たるといわれています。「世界中の人々が夜空を見上げ、宇宙の中の地球や人間の存在に思いを馳せ、自分なりの発見をしてもらうこと」という目的を掲げ、国連などがいろんな活動を行っているようです。 去る7月22日、日本の陸地から見られるものとしては46年ぶり、次回は26年先の2035年9月2日までお預けという天体ショー「皆既日食」を観察することができました。世界天文年に相応しい盛り上がりを見せたようです。 秋が忍び寄り、空が冴え渡る夜は、遙か彼方からの星たちの輝きに、組曲「惑星」は悠然と応えて、静まりゆく夜気に詩趣に富む調べを響かせます。にほんブログ村にほんブログ村
2011.08.25
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2009・9・8(火) 展覧会。前回観たのはいつ? どこで? どんな絵や彫刻? と問いかけても思い出せないほど、もう何年も美術館と縁のない過ごし方をしています。絵筆や彫刻刀を握ったのは中学生時代だったでしょうか。以後も、そのような習学をした記憶は、あまりありません。 先日、展覧会「ルーヴル美術館展 〓 美の宮殿の子どもたち」(大阪・国立国際美術館)へ足を運びました。新聞などで頻繁にPRされるのを見て、「これは観ておかないと……」という思いに駆られ、出かけてきました。鑑賞へ、と促されたキーワードは次の4つです。 1つは、フランスはパリの偉大な美術館、ルーブルという名の「重み」です。約35万もの作品を収蔵する世界最大級の美術館と知りました。今回は展示されませんが、絵画「モナ・リザ」、彫刻「ミロのヴィーナス」などの世界の至宝の数々を所蔵しています。同美術館は、また、世界文化遺産にも登録されているのです。 2つ目は、タイトルにもある「子ども」というテーマです。膨大な収蔵品の中から、子どもに因んだ絵画・工芸・書芸・彫刻など、およそ200点が海を越えて、やって来ました。美を競う「子ども」たちとは、どんな「顔」をしているのでしょう。日本では二度と観られない、という触れ込みにも心を動かされました。 3つ目は、「少女のミイラと棺」という展示品の名前です。 昔、「ミイラとの対面」、「ミイラの謎」といった看板を掲げ、巧みに呼び込みをする怪しい見せ物小屋が、祭りの日などに神社の境内や空き地に出ていたことがあります。薄気味悪く感じましたが、怖いもの見たさに小屋に近づいたりしました。けれど、「子どもの見るものではない」と言われて悔しい思いをし、小屋の入口や看板を横目に素通りしたものです。ところが、客引きの「おとり」であるミイラが、実は「よく分からなかった」とか「嘘っぽかった」という話を後で聞いて、以後は、その手のものへの、好奇の目は薄れていきました。 しかし、ルーブルの「少女のミイラと棺」は「本物」です。今から3,000年以上も前に埋葬されたという古い遺物ですが、その実物を見たいという欲求度は、見せ物小屋のときの比ではありませんでした。どんな状態で発掘され、どんな方法で保存されてきたのか、ミイラが解けたり腐ったりして臭わないのか、といった物見高い気持ちが湧き起こって度が高じたのです。「本物」が持つ力、効能なのでしょう。 4つ目のキーワードは、ポスターに載った、何かを失って深い悲しみに耐えているような5、6歳ぐらいの裸の男児の「悲しみにくれる精霊」という石像の表題でした。その表題が幼児に似つかわしくないことを感じながらも、男児を追い詰めて心を痛めつけようとしているのは何なのか、とポスターの写真に目を奪われました。 「これは観ておかないと……」と鑑賞に誘い出されたのは、先述のルーブルという名の「重み」と「子ども」というテーマがベース(基盤)になるのですが、その上に謎めいた「少女のミイラと棺」、哀れみを帯びた「悲しみにくれる精霊」という2つの作品が浮かび上がって、その全体のつながりを心に収めたいと思ったからです。4つのキーワードが浅学の身の、背中を押してくれました。 会場は、あちこちに人だかりができていました。もちろん、注目した2作品はすごい人気でした。強い印象を受けたのは、石像「悲しみにくれる精霊」のほうでした。 その像は小品ながら、男児が訴える激しい心情を鋭く表現しているように感じました。柔らかく滑らかに彫られた高さ60センチほどの大理石の作品(1768年)です。 像の全身の所々には、張りのある肌の質感とぺこんと凹んだ窪みが施されていました。また、ふわーっとした巻き毛のような豊かな髪、ふっくらとした肉付きのよい足と腕、少し膨らんで肥満気味にたるむお腹と太もも、丸い輪形の切り込みを入れたような手首と足首などがていねいに生き生きと彫られて、白い石像の幼い男児は、今にも台座から抜け出て動きだしそうな、体温が伝わってきそうな姿に形成されていました。 男児は左足を深く折り曲げ、膝を台座に触れさせていました。中腰です。その左足の親指と人差し指は台座の上に立たせて半身を支え、一方の右の足首は前へ伸ばして突っ立てて、膝を少し曲げた状態で腰を浮かせ、全身のバランスを取っていました。 男児はまた、左の手に大きな燭台を持ち、明かりは消えたのか消したのか、燭台の先端を下げて左足の後ろのほうへ押しやっていました。反対の右の手は右足の膝の上で肘を曲げ、手のひらを上に向けて長い布を軽く握り、顔は、その手のひらに預けて、上半身は、やや前屈みという姿勢を保っていました。 像は、幼児と燭台という不思議な取り合わせをモチーフにしていました。それには、史実をひも解かずには知る由もないストーリーが隠されているのでしょうが、男児が「死」と直面していることは明白です。深い悲嘆の表情を露わにし、大きな燭台を握っていたことは、最も身近な人との生別を意味するのでしょう。痛ましい哀れな面持ちは、幼児であるだけに、むごさが伝わってきました。 薄暗い展示室の中に注がれた光は、焦点を彫像一点に絞って柔らかく照らし、悲哀に堪える男児をそうっと暗がりに映して、ほのかな輝きを生み出していました。ゆっくりと像に近づいて、そして最後に離れるとき、男児の目に伝う何かを感じ取りました。よく観ると、男児の閉じた右目から溢れるように押し出される、写真では見落としていた1粒の涙がありました。それは、まるで透きとおって光っているように見えました。男児が布を握っていたのは、溢れ出た涙を拭おうとしていたのです。 今も目に焼きついて消えない、円らな涙でした。にほんブログ村にほんブログ村
2011.08.18
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2009・8・25(火) クレイクラブは、日祝日を活動日に充てています。その活動日に、来てほしくないのは雨です。クレーコートを練習の場にする我々にとって、自然界の恵みであってもコートを水浸しにするような降雨は、活動の休止をもたらす憎き対敵と言う他ありません。対敵は年に幾度も訪れます。 何年も前から、そんな活動休止日を使って、かなえなければいけないと決めていた所用がありました。いつでも実行できると高をくくって延び延びにしていたのですが、対敵の現れたきょう(8月9日)、やっと断行しました。 これまで、きょうのような雨の日祝日はいくらもあり、その所用を決行する機会は何度もあったはずですが、きょうという日に即応できたのはなぜか。このところ多くなった気に病むような出来事、自身の加齢による寂しさなどに気持ちが沈みがちで、それを鎮めようと苦慮していたときに、正に敵対が来てくれたのです。所用とは、兵庫県宍粟市山崎町の禅寺に眠る、あるご夫婦の墓参です。 地図で調べると、名神高速道と中国自動車道を車で飛ばせば簡単に行けそうな町だと解りました。とはいうものの、初めて出向く土地です。独りぽっちの運転で道に迷ったり、眠くなったりしないかという不安を抱えた上、雨天の走行を大儀に感じたりして気が進みませんでした。ならばと、雨に打たれこそするものの電車に揺られて、のんびり行ったほうが気が楽ではないかと思い付き、了見を変えて徒歩による小さな旅に仕立てて出立することにしました。 ご夫婦は神戸市に在住でした。が、山崎町にお墓があるのは、同町がご主人の出身地だったからです。ご夫婦には長い間、ずいぶんとお世話になりました。 京都を発つ前、お寺へ電話を入れて最寄り駅と道順を訊きました。JR山陽本線姫路駅、同じくJRの姫新線播磨新宮駅からどちらもバスという2つのルートを教わりました。後に、選択を誤ったと気づくのですが、そのとき選んだルートは後者でした。地図を広げて、山崎町へは播磨新宮駅を起点にしたほうが近い、と知ったからです。しかし実際には、播磨新宮駅から山崎行のバスは2時間に1本という呑気な運行、不便でした。そこで、往きのお寺まではタクシーで行き、復りは山崎町から便数の多い姫路行のバスを利用しました。 京都から乗車した電車が、昨年の暮れに高架化されたというJR姫路駅のホームに到着したとき、雨の降りは台風の接近に伴って、自宅を出たころより強くなっていました。その真新しいホームに降り立つと、見渡せたのは雨に煙る世界遺産の姫路城でした。二度ほど見学したことがありますが、白さの際立つ、大きい、高いお城という印象を改めて得ました。 乗り換える姫新線は、岡山県の新見駅とを結ぶ単線です。姫路駅を出た電車は佐用行、のんびりとおよそ30分をかけて播磨新宮駅に到着しました。着くまでの車窓から、「そうめん処」、「揖保そうめん」、「播州そうめん」の看板を幾つも目にしました。そういえば、この辺りは醤油の名産地でもあったように記憶しています。そうめんと醤油、互いに良さを引き合って発展したのでしょうか。 新宮駅から山崎町への道路は、特産品のそうめんの名前にも冠される揖保川の左岸を北上します。バスではなくタクシーで向かったことは、先に述べたとおりです。川面はどんな流れを、川原はどんな茂みを、川岸はどんな佇まいを見せるのか、と首を伸ばしてみましたが、実態を目で追うことはできませんでした。 お寺は小高い山を背にして、ひっそりと建っていました。出迎えてくれたのは、恰幅のよい和尚さん。お経を読むとき、しゃっくりのような声を出して息継ぎをする特徴がありました。数度お会いしていますが、ボクのことは憶えてもらっていなかったようです。 通された本堂で、いろいろと話を伺い、お寺で預かることになったという色あせた、ご夫婦の先祖のものと伝わる仏壇を拝した後、山の斜面の墓地へと進みました。ご夫婦のお墓は、いくつもの親族の墓石に囲まれていて、小さな石碑にはお二人の名前と亡くなった日、享年が刻まれていました。和尚さんは「このお墓へは思いがけない人が、ときどきお参りにみえます」と穏やかな口調で語りながら、故人を偲んでくださいました。そして、「雨が降りますのに、よくお出でくださいました」と頭を下げられました。同じように会釈を返し、ボクは一言応えようとしました。しかし、それが不用意な言葉だと咄嗟に気づいて、慌てて自らを制しました。「雨が降る日でないと来られないのです」という罰当たりな言い訳です。 お参りに来て、ご主人は13年前、夫人は7年前に亡くなっていることを確認しました。なんと長い歳月、無骨にも心を遠ざけてきたことでしょう。初めての墓参です。在りし日を思い起こして、目に浮かぶご夫婦の面影に深く詫び、疎遠にした事情にお許しを請いました。雨の降りしきる中、片手で傘を支えて少し長い時間、首を垂れました。 お墓から望めた山崎の町は、四方を山で囲まれた小さな盆地でした。材木の集積地として栄えたそうですが、近年は人口が減って淋しい、と話す和尚さんの声は少し元気がなく、物侘びしく聞こえました。けれど、柔らかな風が吹いて緑が多く、澄んだきれいな水が流れる町、天気のよい日は草木が輝き、青い空の広がる町、そんな風光が心の中に映し出されるようでした。ご夫婦は今、この静かな山間の町に、安らかに眠っておられるのでしょう。 念願を果たせました。またいつか、お参りに来たいと思わせるお寺、お墓であり、ゆっくりと歩き訪ねてみたいと思わせる町でした。いい一日だったと思います。すっきりして清々しい、さっぱりして軽やかな、そんな気持ちで帰宅を急ぎました。 ところが、飛んでもないことが起きていて、目を疑いました。戻った自宅のテレビが「佐用町に豪雨。川が氾濫、住宅が流され住民が行方不明。中国自動車道の山崎・佐用間は上下線とも通行止め」と報せていたのです。ただただ、驚きです。テレビは続けていました。「鉄道と道路は一部が不通、死者は20人を越す」と。きょう乗ったあの電車の終着駅、タクシーの窓から眺めようとしたあの川、利用しようとしたあの高速道路が、まさか……。台風9号がもたらした惨害、忘れられない日になりました。にほんブログ村にほんブログ村
2011.07.28
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2009・7・21(火) 午後3時、勤め先の事務所横の道路脇から、ガラガラという妙な音が聞こえてきました。 この辺りは住居が少なく、小さな工場や倉庫、事務所が集まる地区で、道路を行き交うのはトラックや商用の自動車が大半を占めます。次いで通学などの自転車が多く、歩行者はちらほら見かける程度です。そんな道路で「ガラガラ」は耳慣れない音。事務所から外へ目をやると、その音を響かせて接近する女子の親子連れが見えました。 母親は自転車に乗り、少女は私学の小学新1年生らしく、真新しい制服を着て子ども用乗り物を足で漕いでいました。白いブラウスの上に吊りスカートとベストを着込んだ少女は、大きな赤いリボンを襟元に結んで、ひさしの小さな帽子を可愛らしくかぶっていました。スカート、ベスト、帽子は、どれも同じチェック柄。長い白のソックスと黒い皮靴を履いて、とても凛々しく見えました。 「ガラガラ」音を発する正体は少女の乗る、キックボードと呼ばれる子ども用スクーターの鉄製の車輪でした。道路との摩擦で金属音を出していたのです。親子は、窓際に立つボクの目の前を、さっそうと通り過ぎていきました。 「なぜ、そんな乗り物を漕いで、こんな路上を走るのか」と不審に思いつも、つい忘れがちに過ごして、うっちゃっていたところ、数日後、その「ガラガラ」音を窓越しに聞きつけると、急いで事務所を飛び出してしまいました。「なぜ」を突き止めようと、じっとしていられなくなったのです。すぐさま自転車にまたがり親子を追跡、情報収集に乗り出しました。 目に留まったのは、母親が自転車の前カゴに乗せていたランドセルです。それを見て、学校帰り、塾帰り、母親との買い物帰りのどれかに違いない、いずれにしても親子は帰宅途中なのだ、と推測できました。その見方は正しく、親子が行き着いたのはボクの勤め先から800メートルほど離れた住宅地に建つ、その親子の自宅でした。 その日の情報収集で解ったのは、少女の自宅の在処だけですが、翌日以降に解ったのは、ボクの勤め先の事務所の横が少女の下校道だったことです。土曜日は昼過ぎ、平日は3時ごろに「ガラガラ」を漕ぎ、ランドセルを母親の自転車に乗せて自宅へ帰る少女を見届けたのです。ただ、どこから「ガラガラ」に乗って帰ってくるのか? それは、まだ解らず、「なぜ」への好奇心は、益々募っていきました。 さらに2日後、いつものスタイルで、いつもとは反対方向へ向かう「ガラガラ」親子を朝の8時に見つけました。事務所から遠いほうの道路脇を走っていたため、ボクは「ガラガラ」の音には気づかなかったものの、偶然窓の外を眺めていて目に入れたのです。そうです。朝の8時といえば多くの学校の登校の時間帯です。事務所の横は少女の登校道でもあるのでは? そんな気がしました。 その日以降、朝は事務所の窓に釘付けで、少女が通りすぎるのを待ちました。2日目、3日目、8時ピッタリに親子が現れました。そして母親の自転車の前カゴに乗ったランドセルを見て、事務所横の道路は少女が登下校する通学路だと、やっと確信するに至ります。けれど、「なぜ、そんな乗り物を漕いで、こんな路上を走るのか」という疑問は、依然として解くことができませんでした。 少女が、学校まで「ガラガラ」を漕いでいくとは考えられません。この地域から自転車や徒歩で行けるような近い距離に私学がないからです。「なぜ」は難解でした。以後も答を引き出せないまま、少女が登下校する朝の8時と午後3時ごろ、事務所の横を通りすぎる一風変わった親子連れを眺め続けました。 そんな日を送っていたとき、少女はスクールバスか市バスを利用して通学しているのではないか、少女の乗る「ガラガラ」はバスが通る大通りまでの徒歩に代わる「足」ではないかという推理が、ふと頭に浮かびました。これまで知り得た情報を整理して一つに繋ぎ合わせ、さらに観察を重ねました。 果たして、その推理は的中したようです。8時15分、母親がランドセルの代わりにキックボードを自転車に積んで独りで戻ってきたのです。以後も、大抵同じ時間にです。大通りと事務所までは10分もあれば往復できる距離でした。 耳慣れない音、風変わりなパフォーマンスに惑わされ、ヤキモキさせられた「ガラガラ」騒動。その「なぜ」は、ほぼ解けて全容が判明しました。事務所横の道路は通学路、「ガラガラ」は自宅とバスに乗る大通りとの間の移動手段、小さな「マイカー」だったのです。ある親子の、他愛もない日常の一コマでした。この上は、親子のプライベートに、みだりに踏み込むことは慎まなければいけません。 少女が、いつまで「ガラガラ」に頼るのか、どんなふうに成長していくのか、そっと見守ることにしました。にほんブログ村にほんブログ村
2011.07.10
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2009・7・13(月) 前回の、女性の話の続きです。ある日、その女性と、いつもの鴨川の土手で出会ったとき、見ているだけでは飽き足らず、つい調子に乗って例のウォーキングの「天上を突き刺す」仕種を、見真似で演じてしまいました。 歩くという動作は、左右の足を交互に前へ出す単純な作業です。が、その歩き方は一様ではなく、足の運びや腕の振り、身体の揺らし方などによってスタイルは多様に生まれ、型破りなものも誕生します。あの女性が見せたのは、目を引くウォーキングでした。 足の向きによって分けられる歩き方には、カタカナの「ハ」の字に足を置く内股と、内股の逆で「ハ」の字を180度回転させるガニ股があります。内股は女々しいから男は強(したた)かにガニ股で歩を運べ、ガニ股は下品だから女は淑やかに内股で歩を移せ、と説いた雑話を聞いたことがあります。 ボクの兄は少しガニ股で、腕は進行方向に向かって平行ではなく、横に振る癖がありました。その腕はボートのオール(櫓)の形状に似て、漕ぐときに見せる水面を切るような動きをしていました。年少のころは気にもせず見過ごしていた兄の個性ですが、物心が付くようになって気づいたときは、身内のことだけに気恥ずかしい思いをしたことを憶えています。 小学生時代の、運動会の行進の練習中に、友だちが先生に怒られっぱなしだったのも、変わった歩き方が原因でした。右足と左手、左足と右手をペアにして腕を振るのが自然な歩き方なのに、その友だちは何回注意されても右足と右手、左足と左手をペアで動かす歩き方しかできなかったのです。へんてこりんでした。腕の振り方ひとつで、歩く全体のイメージが変わる不思議な味わいを知り、意外なおもしろさに目を開きました。 さて、「天上を突き刺す」演技の続話に戻りますが、長く観察してきた成果が実って、簡単に真似ができそうでした。問題だったのは、いざ実演する段になると、カッコ悪い、恥ずかしいという気持ちを振り払う勇気が必要だった上に、演技を始めるに当たっては、人目をはばからないといけない、という気遣いを強いられたことです。 けれど決心しました。誰かに教えるだけの値打ちがある、そのためには、きちんとマスターしなければ、と思ったのです。辺りを見回し、人影のないことを確認して始めました。何度も気合いを入れて試した後は事の弾みで、お尻ふりふり、足をふらふら、腕をだらだらとさせ、本来の目的から逸れた、いい加減な「実習」に打ち込んでしまいました。おもしろみに乗じて羽目を外すという始末、少し張りきり過ぎました。 そのとき、「わっ、はぁっ、はぁー」という大きな笑い声が土手の下から聞こえてきました。周りの状況と自らの行動の意味を推し量れば、その笑いが誰に向けられたものかは明白です。目配りが足りなかったようです。一変に顔が赤らんでいきました。 見知らぬおじいさんが突っ立っていました。「いや、失礼」と謝ります。そして、「よく研究しましたね。似ていましたよ。バッチリです」と誉めてくれました。 おじいさんは、土手を散歩する人の様子を下からずっと眺めていたのでしょう。あの女性が通りかかったときは「天上を突き刺す」仕種に目を奪われ、しばらくして登場したボクが、その仕種を真似たときは思わず二人を見比べようとしたに違いありません。それに加えて、ボクがふざけた格好を見せたものですから、おじいさんは笑いを抑えきれなかったのだと思います。 照れくさかったボクは「はぁ」と小声で答え、軽く頭を下げて足早にその場を離れました。その後、顔の火照りが消えて落ち着くと、再びおじいさんの誉め言葉が聞こえてくるような感じがして、大いに気をよくしました。演技は成功、見せ物として通用する、と確信したのです。ならば、今度あの女性と会ったら、真正面からこの演技を見せることにしようか。女性は驚いた拍子に、きっと「正体」を見せてくれるはず。念願の「判定は、いかに」の答は、すぐに判明できるのではないか、というふうに思い至りました。 しかし、そんな行動を起こす度胸が、ボクにあるはずがありません。小心で臆病なことは、すでに告白済み、知れ渡った珍談です。 解っています。大事にすべきは、鴨川を散歩する目的を失っていいのか? 念願が叶っても失望しては元も子もないではないか? という問いかけを持ち続ける根性です。そのためには「判定は、いかに」という追究が必要で、それを口実に仕立てる上げる図太さも肝心、と思いました。 にほんブログ村にほんブログ村
2011.06.11
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2009・6・29(月) 気になる人がいます。いや、目を楽しませてくれる人がいる、と言ったほうが当たっているかも知れません。もちろん女性で、一風変わった姿、珍しい行動を見せてくれる人です。 月に一、二度という頻度で散歩中に出会います。年齢は20代後半と見られ、鴨川の土手の小道が会う場所です。たぶん、その女性は毎日同じ時間に現れるのでしょう。たまにしか顔を合わさない訳は、ボクの歩く時間がバラバラだからです。 ウォーキングに、いそしむ女性でした。黒の上下お揃いのジャージーと、同じく黒のキャップを着用しています。足元はスマートなシューズで固め、手は木綿の手袋でガードという保身の身支度、どちらもまぶしい白い色です。全体を黒ずくめで調えながら、手と足の先は白で目立たせ、見た目に異様な明暗を印象づけていました。ただ、キャップのひさしは長いサイズで、内側へ丸く押し曲げて深々とかぶっているため、顔はよく見えません。よって、出来(美人かどうか)を「判定」するのは、むずかしい問題でした。 さて、その女性のどこが「気になる」というのでしょう。なにが「目を楽しませてくれる」というのでしょう。 たしかに、その女性の身なりとキャップのかぶり方は少し変わっています。長袖とロングパンツ、ひさしの長いキャップという着こなしは、日焼け防止のためなのでしょうが、その色合いは熱を吸収しやすい黒、この時季には不釣り合いな気がします。だけど、それらが答ではありません。 歩く姿勢は、とてもきれいです。あごを引いて視線をまっすぐ前方に向け、顔は揺らしません。TVのウォーキング講座などでよく聞く「背筋をピーンと伸ばして大きく腕を振り、おへそを前へ突き出すように歩きましょう」の教えどおりの歩き方です。歩幅を広く保って地面を力強く踏みつけ、かかとを軽快に蹴り上げて進みます。お尻はピクンと迫り上がって真ん丸、腰の上部は細くくびれて悩ましい曲線、なかなかのスタイル、いい「眺め」です。―― これこれ、そういう私的な安っぽい趣向は、やたらと口にするものではない。「気になる」、「目を楽しませてくれる」の答が、あたかも、そんな卑しい見方にヒントがあるかのように聞こえるではないか。―― 答は、そんな外観が対象ではありません。 正解は腕の振り方です。 では、女性のウォーキングフォームを再現してみましょう。まずは手と肘のポーズからです。親指を除く4本の指を、何かを握るように丸めます。肘は90度に折って、肘と身体の間は隙間をつくらないように脇を締めます。 次は、腕を上下に動かす範囲と位置の確認です。準備のできた双方の腕を身体の左右に置き、90度という角度はそのままに、手を胸の高さに揃えます。続いて片方の手を頭の高さまで持ち上げ、もう一方は腰の位置まで下げます。それが腕を振る範囲、スタート位置です。両方とも、それ以上に上げたり下げたりしてはいけません。 では、試してみましょう。実際に腕を振ってみてください。 どうです? 何か問題になるような、おもしろいとか変だというを感じを得ましたか? おそらく、振り上げた手の位置が少し高すぎるように感じるけど、それ以外はふつうの体勢、というのが感想でしょう。 答の鍵を握るのは親指です。他の4本の指のように曲げるのではなく、ピンッと上に立たせます。「OK、Good」という意思を伝えるとき、親指を立てることがあるでしょ? そう、あの指の形にするのです。その親指は、腕を振る最中も形を変えず、頭の高さで天上を「突き刺す」ように真上に向けます。「刺し」終えると腕を引き下げ、もう一方の腕と交代して、振りを繰り返します。腕は、足の動きに合わせてリズミカル、スピーディ、シャープに上げ下げします。さあ、どうです? 説明した女性の服装を想像しながら腕を振ってみると、その動作が、いかに異様で奇妙であるかが分かると思います。親指の形と動きを少し変えただけで、全体の動作が思わぬイメージを生み出すようです。 実際、黒い帽子をかぶった頭と顔は仮面、黒のジャージーを着た身体は鎧に変身したように見えます。手袋とシューズの二つの白の動きは機敏さを伝え、黒と白に暗影と光明のような対比をつくって、よりリアルに知覚を広めます。そんな目立つ「物体」が機械的、かつパワフルに前方から迫ってくれば、誰しも目を据えて間近で見物しようと思うはずです。 すれ違う瞬間は気づかれないように、そっと足を止めて見送ります。失礼ながら女性の顔を「拝む」ためです。けれど、前述のように女性は顔を隠して、鼻と口元をチラッと見せるだけです。その歩行体勢は一度も崩さず、拝めるような好機は、まだ与えられていません。 「天上を突き刺す」親指の動きには、大それた罪深い心情を抱きますが、見慣れぬ異国の舞踏でも見るような、奇異な興奮をも覚えます。しかし、わが身を見物の目当てにされていることに全く気づかないか、あるいは無関心であるかのような女性の凛とした身のこなし、それには脱帽です。また、その所作は一途な真剣さを表して近寄りがたく、実に立派だと思います。何度見ても飽きさせないムードがあり、気になる人になりました。 そんな中、久々に女性と、きょう出会いました。けれど、あの「判定」は、またお預けになりました。にほんブログ村にほんブログ村
2011.05.30
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