小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

母走る



齢8歳の娘が倒れた。
病院に救急車で運び込まれた。
すぐに手術をしなければ命が危ういという。
出張中の主人に何度電話をかけても通じない。
娘の手を握ってひたすら懇願するように娘を見つめる。
娘は苦しい息の下で言う。
 『お母さん。私のサボちゃんに会わせて。』
 『サボちゃん?』
 『そう。サボちゃんのパワーで守ってもらうの。』

サボちゃんとは娘のサボテンである。
手のひらに収まるくらいの小さなもので、娘の部屋の机の上に置いてある。
伊豆のサボテンランドに行った時、なんとなく買っては来たものの、普段はほうりっぱなしで世話をするものもいなかった。
ところが先日テレビで『驚異サボテンパワー』というのを見てから、娘はいきなりそのサボテンにサボちゃんという愛称をつけて可愛がり始めた。
娘いわく、
 『サボテンは人の感情がわかるのよ。』
 『サボテンには不思議な癒しのパワーがあるのよ。』

 『お願い。サボちゃんがいれば私がんばれる気がするの。』
娘の眼にきらりと光るものがある。
 『解った。お母さん急いでサボちゃんを連れてくるわ。』
娘を一人で病院に置いて行くのには後ろ髪を惹かれる思いだったが、それでも娘の願いを聞き届けずに入られなかった。
せめて医師か看護婦に断わってから行きたかったが、あいにく部屋には私以外の人間がいない。
娘の部屋を出て小走りに病院の入り口に向かった。
途中で小太りの看護婦が、点滴をしながら歩き回っているお婆さんと、話しているのを見つけたので、先を焦りながらも話しかけた。
 『すみません。先ほど運び込まれた野木ゆりかの母ですけど・・・。』
 『だからね。お婆ちゃん。ちゃんとご飯を食べなきゃ駄目でしょ。』
 『うちの嫁はほんに酷い・・・茂はいい子だのに。』
 『すみません。しばらく外出したいんですが、娘が独りになるので・・・。』
 『今日は、おばあちゃんの好きな白身のお魚の煮付けよ。』
 『嫁はな、息子が仕事で出かけとる間、ほれ、アパートの管理人の息子。あの禿げ親父と出来とるんじゃ。』
それぞれが好き勝手にしゃべるだけで、少しも話が通じない。
こうしているうちに娘の容態が悪くなるのでは・・・私は話を諦めて、早くサボちゃんを持ってこようと駆け出した。
 『あっ。病院内では走らないでください!』
うしろから誰かが叫んでいた。
病院から家までは歩いて15分。
その距離を私は膝丈のタイトスカートの裾を捲り上げる勢いで走りぬけた。

玄関には鍵がかかっていなかった。
でも、出かけるときは動転していたし、きっとかけていなかったのだろう。
靴を蹴飛ばしながら脱ぎ捨て家に上がる。
足元で飼い猫のミケがウギャっと叫び声をあげた。
どうやらいつものごとく擦り寄ってきたところを、ついうっかり蹴飛ばしてしまったようだ。
可哀想だがかまってはいられない。
娘の部屋は2階だ。
階段を上ろうとしたとたん、覆面の男とばったり会ってしまった。
男は財布、手提げ金庫、結婚記念日にもらったダイヤのネックレスと主人の時計を、片腕に抱え込んでいた。
もう片方の手にあるのは、私がテレビショッピングで買った穴あき万能包丁だ。
どうやら空き巣らしい。
 この忙しいときに!
私は猛烈に腹が立った。

 『死にたくなかったら、おとなし・・・。』
男に最後まで言わせず、私は踵を蹴り上げた。
私は美容の為『奥様バレエ』を毎週市民会館で習っているのだ。
欠かさないストレッチのおかげで足は180度開脚できる。
ビリリッ!と大きな音を立ててスカートが破けたがかまわず私はそのまま旋回し、
ジュテで飛び上がりアラベスク、続けてアチュチュードのポーズで男の股間に止めを刺した。
 『ふんっ!』
だらしなく白目を剥いて倒れた男を踏みつけて私は階段を上った。
その時ジャリッッと音がしたのは、どうやら主人の命の次に大事なロレックスの時計を踏みつけた音らしかったが、私は振り向きもしなかった。

 『ああ・・・なんてこと・・・。』
上がっていった娘の部屋で私はへたり込んだ。
娘の部屋も空き巣に荒されて、あちこちの引き出しは開けっ放し、まだ幼い下着まで放り出してあったが、私が嘆くのはひたすらサボちゃんの姿にだった。
緑色だったサボちゃんは赤茶色に変色し、触った私の手に残ってすぽっと抜けた。
どうやら娘はサボちゃんにせっせと毎日水を上げていたらしい。
ほとんど省みられず、日の当たる机の隅に置かれていたときは、生き生きとしていたサボちゃんは、娘の勘違いの愛情の前にもろくも枯れてしまっていた。
私はしばし呆然としていたが、こんなサボちゃんを娘に見せられない。
でも、病院で苦しみながら娘は、私がサボちゃんを連れて行くのを待っているのだ。
こうなったら、サボちゃんそっくりの身代わりを探すしかない!

商店街にある花屋さんまで自転車で10分ほど。
私は自転車を腰を上げたまま猛スピードでこぎはじめた。
ところが自転車がやけに重い。
商店街に行くまではゆるい坂がずっと続いているのだが、その坂を自転車はふらふらと登っていった。
 ちっと私は舌打ちした。
パンクだ。
そのまま必死でこいでいたが、空気はますます抜けて、自転車はますます重くなった。
私は道ばたに自転車を投げ捨てた。
私は再び走り始めた。
そして、100メートル9秒台のスピードで商店街の花屋に着くと、私は再び呆然とした。

 『本日休業』
閉まったシャッターと張り紙が無常に私を締め出していた。
私はすばやく考えた。
リビング雑貨やさんなんかにもサボテンって置いてあるわね。
幸い花屋の隣は赤いカードの円井デパートだ。
私は円井に飛び込みエレベーターで7階に向かおうとした。
だが、エレベーターのドアが開くとそこは人でいっぱいだった。
でもまだ乗れる。
私が乗り込もうとすると、後ろから
 『入れてください。』という声と共にベビーカーにドンと押された。
ちょうど押された位置が膝の裏だったので、私は膝カックン状態になった。
その隙にベビーカーを押した女はさっさとエレベーターに乗り込んでしまった。
とたんにエレベーターのドアが閉じる。
私はもうひとつあるエレベーターの階数を確認した。
 『13階』
不吉な数字が、私のいる1階にたどり着くまでの時間の長さを暗示していた。

私はエスカレーターを使うことにした。
動いているエスカレーターを2段飛びにしながら一気に7階を目指す。
途中で2人仲良く並んでいるカップルがいたので、邪魔な女を突き飛ばした。
ほっそりした高いヒールを履いた彼女はあっと言う声と共に倒れたが、どうせ彼氏が役得とばかり助けるだろう。
ようやくエスカレーターを降りたところで近所の田中さんに会った。
田中さんは目をまるくして私を見た。
 『あら、野木さん・・・いったいどうしたの?』
田中さんは、私の乱れてぼさぼさの髪や血走った眼、びりびりに破けたスカートを見て息を呑んだ。
私はぜいぜいと息も絶え絶えに言った。
 『サ、サボテンを買いに・・・。』
田中さんはますます目を見開いた。
 『あの・・・確かゆりかちゃんが救急車で病院に運ばれたんじゃ?』
 『そのためにサボテンが要るのよ!』
私の目からは滝のように涙が流れた。
田中さんがどこか気味悪そうに、
 『お大事に・・・。』と言ったが、私はかまわずそそくさと背中を向けた。

リビング雑貨のコーナーはしゃれたリビングのデスプレイの隣にあった。
そして確かにサボちゃんと同じ小さなサイズのサボテンたちが並んでいた。
私はサボちゃんと同じ形のサボテンを必死で探した。
が、ない・・・いろんな形のサボテンがそこには並んでいるのに、サボちゃん特有のまん丸な形、クリーム色っぽい長い棘棘のサボテンはひとつもない。
私はグルグルと絶望的に周りを見渡した。
 あった!こんなところに!
サボちゃんとまさしく同じサボテンがそこにあった。
しゃれたデスプレイの中に!
私は周りを見渡したが、売り子の姿は見えなかった。
私はそばにあったイタリア製の椅子を振り上げてデスプレイのガラスを叩き割った。
そしてやっとそのサボテンを手にすることが出来たのだ。

ところがサボテンを掴んだ手をさらに掴んだ頑丈な手があった。
 『お客さん困ります。ちょっと向こうでお話しましょう。』
ガードマンらしい制服を着た若い男だった。
 『このサボテンおいくらですか?』
私がそう尋ねたのに、男は私から無理やりサボテンを取り上げようとした。
 『これは商品じゃないんですよ。それよりこんな事をされちゃ困ります。』
私はサボテンをとられまいと下から男めがけて頭突きをかまし叫んだ。
 『む、娘が病気で、し、死にそうで、サ、サボテンを欲しがっているんです!』
騒いでいるともう一人年配のガードマンが来た。
 『いいから離して上げなさい。』
若い男は痛そうにあごをさすりながら、でもとか、強暴だとか言っていたけど、しぶしぶ私から手を離した。
 『いくら急いでいるからって、暴力はいけないよ。事情があるようだから話によっては力になるよ。』
年配のガードマンの言葉に私はわあわあ泣きながら事の次第を話した。
ガードマン達はおとなしく私の話を聞いていたが、聞き終わるとお互い顔を見合わせた。
 『気持ちはわかるし、そのサボテンは予備もあるから譲れない事もないけど・・・それ、本物じゃないんだ。』
私は愕然として手にあったサボテンを見た。
確かにビニール製のサボテンだ。触るとぷにゅっと棘が引っ込んだ。
 『病院に一度戻ってあげた方が・・・。』
そんな声も聞こえたけど、私の耳には意味を成さなかった。
私はふらふらと立ち上がった。
それから猛ダッシュで駆け出した。
後ろから待てとか止まれとか言う声が聞こえたが無視をした。
早く、早くサボテンを見つけなくてはいけない。

それからずっと私は町中をサボテンを探してさまよっている。
娘のいる病院と同じ町なのにまだ娘のところには戻れないでいる。
娘は無事だろうか・・・考えると涙が溢れてくるが、へこたれてはいられない。
私が命がけでがんばっている限り、娘もがんばって待ち続けていることだろう。

          ・・・end







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