小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

仏師医



今日もまたぱりっとした白衣に着替える。
 『若先生。おはようございます。』
 『うん。おはよう。』
私は重たい足取りで診察室へ向う。
ひいじいさんから代々継いだこの仕事。
親も当然のことと思い。
私自身も疑問を持つことすらなく進んできた道。
だがこうやって大学を出て、先生と呼ばれるようになっても、私にはつくづく向いていない仕事だと思う。

私は本当は仏師になりたかったのだ。
荘厳に美しいそんな仏像を彫っていたかった。

私は子供の頃から手先が器用だった。
ナイフで木切れを削り、うさぎや馬を彫り上げる事もできた。
一度は都内の美術展で金賞を受賞したこともある。
小学校の修学旅行。
先生に引率されていった日光で、輪王寺の千手観音に圧倒された。
親しみの感じられる表情なのに神秘な威容が漂っていた。
わいわいはしゃいでいるクラスメートに、押されるようにしてその場に離れたが、もし私一人ならいつまでも見とれていたかもしれない。
思えばその頃から、私は仏師にあこがれていたのだろう。
だが私は、自分の中にあるそんな気持ちに気づかぬまま人生を生きてしまった。

私がそれに気づくきっかけになったのは、とある新聞広告だった。
何気なく見ていた生涯学習の広告に『仏師入門ー初めての彫刻ー』があった。
どきんとした。
これだ。私は思った。
日曜講座もある。場所もさほど遠くない。
私は出かけてみることにした。

講師として現れた仏師は、想像と違って平凡そうで地味な男だった。
気難しい芸術家。もしくは坊主のような説教臭い人物だと思っていた私は拍子抜けした。
仏師はニコニコと愛想良く親切だった。
私たち生徒はまず基本の地紋彫りを習った。
仏像の台座に使われる模様の彫り方だ。
すぐにでも仏像が掘りたいと思っていた私は、肩透かしを食らった気分だったが、その地味な彫り作業もやってみればなかなか楽しかった。
最初はたどたどしかった私の彫りも次第に洗練されていく。
徐々に難しい彫りも覚え、いよいよ仏像を彫ることになった。
私は胸を高鳴らせ、次の日曜日が待ちきれないほどだった。
ところが突然講座は休止になった。
思ったほど人が集らず、数人の受講生達も地味な作業の連続に、次々と飽きて辞めていた。
いつのまにか教室は、私と講師の二人きりになっていたのだ。

残されたのは仏像を彫りたいという思いばかり。
生涯学習センターの受付の人は、代わりに『手彫り工芸』の講座をすすめてきたが、私は力なく断わった。
いっそ、仏師の弟子にしてもらおうかとも思ったが、そんなことをすれば間違いなく勘当だ。
身ごもっている新妻を食わせていくこともできない。
私は物思いを振り捨て診察室のドアを開けた。

患者の前に立ち、レントゲン写真をまず見る。
 『痛いですか?』
 『麻酔をかけますから大丈夫ですよ。』
私は患者を安心させるように微笑みかけた。
まぶしいほどの照明で患者を照らす。
私は消毒液に手を浸した。
慎重に患部に麻酔をほどこす。
手に取った銀色の輝きが、私に彫刻刀を思い起こさせた。
私は思わずぎゅっと目をつぶり気を取り直して目を開く。
患者の顔を見て私はあっと思った。
患者はあの仏師に似ていた。
なぜ気がつかなかったのだろう。
平凡な中年の顔。
さして特徴のない顔。
 『小手先じゃない。木の中にいる仏を、魂を込めて外に出してやるんだよ。』
突然仏師の言葉が蘇った。
私の前に横たわった仏師の姿。
いや、それは仏師ではなく、一個の大きなやなぎの丸太だった。
木の中から仏が私に語りかける。
 『ここから私を世に生み出せるのはお前だけなのだ。』
私の手がブルブル震える。
照明が後光のように慈愛に満ちて輝いている。
私にはもはや迷いはない。

数刻が経ち。
私の手から銀の輝きが落ちた。
私はなんということをしてしまったのか。
目の前が真っ暗になった。
深い悔恨が私を襲う、でももう全ては遅いのだ。
私の前に物言わず横たわる患者。

その口の中には、白く輝く小さな仏が微笑んでたたずんでいた。






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