小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

貝殻骨



その海は、腕を広げた陸に抱かれていた。
穏やかに打ち寄せる波。
私はぶらぶらと波打ち際を歩く。
『おとうさ~ん!』
膝小僧まで海水に浸かった息子が手をふる。
砂地は黒っぽく湿っているが、海は空に溶けた蒼だ。
足元に、小さな芽を出した椰子の実。
どこか南の島から流れ着いたものだろうか?

『この海はいろんなものが流れ着くからなぁ。』
いつのまにか私の隣には地元の古老らしい姿がある。
袖のない肌着に、細い棒のような足を出した作業ズボン。
つばの広い帽子に手ぬぐいをかけて、あごの下で固く結んでいる。
その下の顔はよく日に焼けて、異国的に見えるほど彫りが深かった。
老人は腰をかがめて椰子の実を拾い上げると、ひょいと背負っていた籠に投げ込んだ。
籠の中には、椰子の実の他に空き缶や花火、しぼんだ浮き輪、何か白い紙の入ってるガラス瓶、木彫りの人魚の像までが一緒くたになって入っている。
『ずいぶんいろんなものが漂着するんですね。』
私はしげしげと覗き込みながら言った。
老人はかがめていた腰をよっこらしょっと伸ばしながら、
『この浜はいろんなものが流れ着く。
時には異国のものまでなぁ。』と言った。
こういった海辺があることを私は知っている。
海流の関係で、湾外のものが吹き溜まりのように流れつき、そのまま出て行かないのだ。

『時には人の死体も。』
老人がそういったので私は嫌な気持ちがした。
『ほらそこにもあるだろう。』
老人が指差した先に白く光るものがある。
私はぎくりとした。
日の光に目を細めてその白いものを見る。
『やだなあ。これは貝殻ですよ。
ずいぶん大きいなあ。』
私はほっと息をついた。
『貝殻骨というのを知っているかな。』
老人はそういって自分の背中を籠越しに指差した。
『人の翼の名残だそうだよ。』

『海に清められ天に帰れた者はいい。
だがなぁ。
清められぬまま浜に流れ着く者もある。』

溺死体のことだろうか・・・そう思ってぎょっとする。
『波になぁ。時折たぷたぷと運ばれてきおる。』
老人の視線が波に戯れる息子を捕らえた。
私は息子を、この禍々しい海から引きずり出したい衝動に駆られた。
老人が私の顔を覗き込むようにして笑う。
『なぁに。海じゃない。
この海がいけないんじゃない。
みな人の流したもんだ。
この海はそれを返してるだけだよ。』
風に混じる潮の匂いがきつくなった気がした。
生臭い匂い。
『人の心は自分でもままならぬもの。
思いを流したと思っても、いつかまた帰ってくるからなぁ。』
日差しはぎらぎらと照らしつけ私は軽い眩暈がした。

突然穏やかだった海にうねりが生まれた。
足元をさらっていた水が大きく引いている。
これは・・・大きな波が来る。
私は夢中で息子のほうへ駆け寄った。
『○○!早く!はやく浜に上がるんだっ!』
あんまり焦っているので息子の名前が出てこない。
たった一人の息子なのに。

息子の体に触れかけたとたん、上から叩きつけるような波にさらわれた。
ごぼごぼと水を鼻から吸い込み、おぼれそうになりながらも息子を探す。
青く見えた水は、今は黒々と私を包み込んでいた。
気泡が当たり一面に立ち上って視界を惑わす。
足元にゆらりと髪の毛が見えて、私はあわてて片手で探った。
そのまま下をまさぐると小さな冷たい顔。
必死で引きよせ腕の中に捕らえる。
 ○○っ!
こんな時なのに、やはり息子の名前が思い出せない。
息子は苦しいのか、まるで私の手から逃れようとするかのようにもがく。
力ずくで押さえつけると、腕の中で細いからだがビクビクと震えた。
 震える事はない。
 父さんが助けてやる。
息子の背中にあるくぼみ。
この両脇にあるのが貝殻骨だ。
まだ穢れを知らない息子の、清らかに白い翼が埋まっている。
弱弱しくもがいていた息子から力が抜けていく。
私はそれを繋ぎとめようと強く抱きしめる。
それでも息子は私の手を逃れようというのか、次第に小さく小さくしぼんでいくのだ。

ようやく海面に浮かび上がると、私はごほごほと咳き込みながら、潤んだ目で自分の腕の中を見た。
赤い胎児。
この世に生まれぬまま、彼岸に去って逝ったもの。
私は腕をとき息子をしずかに波間に沈めた。

風が、
 あなた、あなた、あなた・・・と泣いた。
 なぜ?愛してたのに・・・。

そのほっそりした白い首に手を廻したとき、奈美子は黒々とした目を最後まで閉じなかった。
 この子だけは許して・・・。
もうおろす事も不可能なほど育ってしまった子。
父親に望まれぬ子ども。
 お前の罪だ!
私は奈美子に叫ぶ。
 お前が死ぬのも、オレに子殺しをさせるのも。
女房がいてもいい。
ただ俺に愛されたいだけといったのはウソだったのか?
 なぁおい。
 オレを恨んでいたんだろう。
 いつか復讐したかったんだろう。
くたりとした奈美子の体。
俺の好きな白いワンピースを着たその姿は、もはや人ではない。
首を垂れた白鳥だ。

ああ・・・岸が遠い。
降り注ぐ日に焼かれ、冷たい海に半身を沈め、
私はこのまま漂うしかない。


         ・・・end






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