小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

都会の箱



都会に出て、マンションで一人暮らしをはじめた。
築30年のマンションだ。
壁が薄く、隣の声や上の物音が聞こえてくる。
上からは子供が、バタバタ走り回る音。
右隣からは重低音の音楽が、ブーンブーンと震動になって伝わってくる。

引越しして来たとき、私は、蕎麦を持って挨拶にいった。
挨拶の言葉を心の中で復唱しながら、ピンポーンとドアホンを鳴らす。
『あの。今日隣に越してきました村越と言います。』
ガチャリ。ドアが開き、隙間から疲れたような女の顔が覗く。
『これ、つまらないものですが。』
そう言いながら、蕎麦の包みを差し出した。
『あ、どうも。』
女はチェーンをつけたまま、隙間から腕を伸ばし蕎麦を受け取る。
ドアはばたんと閉じられた。
奥から男の声が聞こえた。
『なんだぁ?』
『隣に越してきた人よ。
やあねえ。知らない人間から、食べ物なんて貰ったって、食べれるわけないじゃない。』
『毒殺でもされるってか?』
私はぼんやり、立ち聞きしていた事に気がつき、あわててその場を離れた。

私はおどおどした気分になりながら、反対側の隣のドアホンも押した。
『あんた誰?』
細い眼をした若い男が顔を出した。
『あの、隣に越してきましたんで、ご挨拶に・・・。』
私が言うと、男は大きくドアを開けた。
『あの、これお蕎麦なんで、良かったら召し上がってください。』
私は、恐る恐る蕎麦を差し出した。
『ふ~ん。』
男は私を、頭の先から足の先までじろじろと見た。
 やっぱり知らない人に、食べ物を渡すのは非常識なのだろうか?
男は黙って私を見てる。
私は諦めて蕎麦を引っ込めた。
『失礼します。』
頭をさげ、そのまま戻ろうとした私の腕を男が掴んだ。
『いいよ。それくれよ。』
私は男の手に、押し付けるようにして蕎麦を渡すと、男はにやりとして腕を離した。

私は、なんだかどっと疲れた気分で、階上に向った。
再びドアホンを鳴らす。
『は~い!』
明るい声がして、ドアがすぐ開いた。
血色の良い太った女が顔を覗かせた。
『あの私、階下に・・・。』
言いかけたとたん、部屋の奥から、うわぁ~ん!と言う大きな泣き声が聞こえた。
『お兄ちゃんが、僕のおもちゃ壊したぁ!』
『お前が引っ張るからだぞ!』
どたばたとした物音と、弟のほうらしい悲痛な鳴き声。
でも、母親らしい目の前の女は、何も気にしていないように見える。
『ご丁寧にどうも~。
まあ。これあなたが打ったお蕎麦?
最近の若い方には珍しくマメな方ねえ。
私なんて、作り方も知らないわぁ。』
ケラケラと笑う。
この部屋の下に住むのか。
私はちらと思ったが、子どもが起きて騒いでるような時間は、私は仕事で外出中だ。
そう思って気を取り直した。
幼稚園児と思われる子たちが、夜の11時過ぎまで起きているとは、思いもよらなかったのだ。

私の部屋の真下には、今のところ誰も入っていないようだ。
大家さんもここには住んでいないようだし、挨拶はこれくらいにしておこう。
私は一仕事終えた気分で、やれやれとつぶやきながら、自分の部屋、506号室に戻っていった。

洗面所で髪を拭きながら、湯気で曇った鏡を、見るともなしに見つめていた。
深夜2時。
仕事が終わって、そのまま職場の人たちとカラオケに行き、帰ったのはついさっきだった。
シャワーで流しきれなかったアルコールが、ゆっくりと、血管を流れていくのを感じる。
 私もだいぶ都会暮らしに慣れたわ。
そう思って、ぼんやりうつる自分の顔に微笑んでみせる。
そのとたん、洗面台の横から、低い男の怒鳴り声が聞こえて、私はドキッとし、酔いが醒める不快感を味わった。
 またか・・・。
壁越しに聞こえる、言い争う男女の声。
こんな時間にまで・・・。
私はうんざりとため息をついた。
『このアマっ×××しやがったな!』
『なによ△△△して○○っ!』
何をしゃべっているのかは、よくは聞こえないが、激しく争っている気配は感じる。
毎晩のように聞こえる怒鳴りあい。
『く、苦しい△△△。
ひ、ひいぃ~ひとごろしぃ。』
もうやめてよ!
私は思った。
毎晩毎晩、殺してやるだの、死ぬだの、殺されるだの、聞かされる身にもなって!

初めて聞いたときは、心底びっくりした。
思わず警察に、通報してしまったほどだ。
警察官が来て、隣に事情聴取に行ったが、そのあとすぐ私の部屋に来て、
『君ねえ。
夫婦喧嘩ぐらいで、いちいち警察呼ばれると困るんだよ。』と怒られてしまった。
『お隣さん、盗聴器でも仕掛けてるんじゃって気にしてたよ。
まあ。ひとんちの盗み聞きは感心しないな。』
 盗聴器?
私はぽかんとして、返す言葉も思いつかなかった。
あれだけ怒鳴りあってれば、隣に筒抜けだって、そんなことも思いつかないのだろうか?
警察官は、あ~あと、わざとらしいため息をつきながら去っていった。
同じ階層で、この騒ぎは聞こえているだろうに、どの部屋のドアも硬く閉ざされたままだ。
私はなんだか泣きたい気分になった。

今日はいつもにもまして激しいようだ。
私はドアを乱暴に閉め、ドライヤーを片手に洗面所を出て行った。
 どうせならほんとに死んだらいいのに。
私は皮肉に笑った。
私が警察を呼んだことを知った隣の女は、顔を見合すたびににらみつけ、こちらが背を向けると
『覗き魔。ストーカー。』とボソリとつぶやく。
私はいらいらと心の中で繰り返す。
 死ね。死ね。死ね。
 もう~。とにかく私の目に、いいえ、耳に入らないところに消えてよ。

それから5日がすぎ、私はふと『それ』に気がついてしまった。
毎晩聞こえていた、お隣の争いの物音が、ぱったり途絶えているのだ。
喜ぶより、私はなんだか不気味に思った。
『まさか本当に、殺しちゃったんじゃないわよね。』
そうつぶやいてみて、私はその非現実感に、思わず笑ってしまった。
『馬鹿馬鹿しい。
サスペンスドラマじゃないんだから。』
お隣が静かになってから10日を過ぎると、気になって気になって仕方がなくなった。
時々、テレビの音や男の笑い声が聞こえるが、そういえば、ずっと女の声を聞いていない。
まさか、まさか・・・でも。
どんなに疑っていても、警察には言えない。
また何を言われるかわからない。
 誰かに相談を。
でも、私には相談できるような友達がいない。
お酒を飲んだりカラオケしたり、そんな職場の人間関係はできたが、本当に親身になってくれる人なんていない。
うっかり相談すれば、職場でも覗き魔と噂されてしまうかも。
親に言ったら、とにかく田舎に帰れの一点張りだろう。
私はメモ帳をめくり、大家さんに、電話をかけた。
『それで?
もう騒音はなくなったんでしょ?
だったらもういいじゃないですか。』
私の話をよく聞いてくれなかったのだろうか?
もう一度説明しようとすると、
『じゃあ。忙しいんで。』と電話は切られた。

私は階段を上がり、上の部屋に訪れた。
『あら村越さん。』
その部屋の主婦は、憮然とした顔をした。
1月前に、あんまり子ども達の立てる音がすごいので、私は苦情に行ったのだった。
でも、私はなるべくやんわりと、夜10時過ぎは、静かにしてくれるように言っただけだ。
その後もしばしば、夜遅くにうるさい物音がすることもあったが、それはすぐ止んだし、私も二度と苦情に行く事はなかった。
だから、私にとって、それは円満に解決し、既に終わった事だった。
私は、すがりつくような思いで、隣の争いのこと、それが急に止んでしまった事などを話した。
『今度は、お隣さん?』
主婦は、口をゆがめるようして笑った。
『貴女ね。
どこの田舎から来たのか知らないけど、こんな集合住宅に住んでれば、どうしたって隣近所の物音は聞こえるものよ。
貴女、隣がうるさいって、警察まで呼んだそうね?』
この人は、私が苦情に行ったことを根に持っているのだ。
『私、子供をお風呂に入れなきゃいけないから。』
ばたんとドアは閉じられた。

私はとぼとぼと自室に戻ろうとした。
『あれ?どったの?』
のん気な声が、私にかけられた。
目の細い若い男が立っていた。
反対側のお隣さんだ。
そうだ。
私は思った。
『あのね。私この間、ここの部屋の人に迷惑かけちゃって。』
なるたけ明るい声を出してみる。
『謝りに行きたいんだけど、ひとりじゃ心細くって。』
『ふ~ん。』
若い男は興味なさそうに、そのまま自室に入ろうとした。
『あの、ここのうち奥さん最近留守ですよね。』
私はあわてて言葉を続ける。
『そう?知らないけど。』
『男の人のところに行くの私一人じゃ・・・。』
『あのさ。』
若い男はくるりと私を振り返った。
『俺とあんた他人でしょ。
俺、ごたごたに巻き込まれたくないの。解る?』
ばたんとドアが閉められた。

仕方がない。
彼の言う事は正論だ。
ただのお隣さん。
別に親しいわけでもなんでもない。
私は、溢れそうになる涙をぐっと飲み込んだ。

いっそ、知らん振りしようか。
だいたい、お隣で殺人が行われているかもなんて、考えるほうがどうかしている。
私は、洗面台の鏡に映る自分に言い聞かせる。
すると、鏡の向こう、壁の向こうで声がした。
『くそう!×死んで××俺に○○!
臭いんだ△△早く×××して△△なくちゃ。』
 やっぱり殺してたんだ!
私は思った。
 死体が匂って来たので、どこかに埋めて隠す気だ!
 でも、どうしよう。
 誰も私の話を聞いてくれない。
私は、台所に行って冷蔵庫を開けた。
中からタッパーのひとつを出す。
そしてひとりで隣の部屋に向った。

 ピンポーン!
『あの隣の村越です。』
がちゃりとドアが開き、隙間から、無精ひげだらけの男が顔を覗かす。
『これ、酢豚作りすぎちゃって・・・あの、この間のお詫びも言いたくて。』
男は、ドアチェーンをはずさなかった。
『ああ・・・もういいんだ。』
男の息はプンと酒臭かった。
それ以外にも男の背後から、すえたような、何かが腐ったような匂いがするのを、私は確かに感じた。
『あの、奥さんにもぜひお詫びを。』
そういいながら私は、男の背後を覗き込もうとする。
男は、あわてたようにドアを閉めた。
『もういいって言ってんだろ!』
ドアが閉まる瞬間、私は確かに見た。
部屋の中に転がっている、いまどき珍しい黒いゴミ袋。
何かが詰まっているように大きくふくれていた。
あれに死体が?
私は部屋に戻ると、震える手に受話器を握り、ゆっくりとボタンを押し始めた。

私が通報して5分足らずで、パトカーのサイレンの音が聞こえた。
 良かった。
私は思った。
刑事がどやどやと隣の部屋に踏み込んだ。
これはあとで聞いた話だが、部屋はゴミだらけ、台所は腐った生ゴミが排水溝を塞いでいたそうだ。
黒いゴミ袋を開けると、中から出てきたのはただの古着だった。
なんだこれは?奥さんはどうした?と騒いでいるところに、殺されたとばかり思っていた妻が帰宅した。
話によると、2人は大喧嘩したあげく、奥さんはしばらく実家に戻っていたらしい。

私は今度こそ、こってり警察で絞られるハメになった。
別に追い出された訳ではないけど、あまりにもいずらくなってしまって、しばらくして、他のマンションに引っ越をした。
おかげで貯金はすっからかんだ。
新しく引っ越したマンションでは、私はどこにも挨拶など行かなかった。
この狭い箱の中で、しょせんは他人。
知り合いになりたくないし、どんな人かなんて興味がない。
隣で野垂れ死にしてようが、夜逃げしようが私の知った事ではない。

私はぜんぜん知らなかった。
私が住んでいたマンション。
あそこの1階で、女が同棲中の男に殺され、しばらく死体はマンションの一室に置かれていた事を。
洗面台の裏には太い排水パイプが埋まっていて、下の物音を、まるで壁の向こうの音のように、鮮明に響かせていた事を。



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