小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

僕の怖いもの



僕には怖いものがたくさんある。
お母さんと買い物に行った帰り道。
背高のっぽの電柱が、暗い空にぐんぐん伸びていって、僕をじろりと見下ろしてたんだ。
僕はきゅっとお母さんの上着を握る。
『たかしは怖がりね。』
お母さんは笑う。
でも、お母さんは知らないんだ。
僕たちのあとを、ずうっと、黒い黒い電柱の影が、追いかけてきた事を。

僕には怖いものがたくさんある。
2丁目の角の赤いポスト。
古ぼけて、ところどころ塗装のはげた赤いポスト。
夕焼けに照らされて、まるで血だらけみたいに見えたんだ。
だから僕はその道は通らない。
ぐるっと遠回りして、けっして近寄らないんだ。
だって、ある日突然、ポストの口がガバッて開いて、僕を飲み込んでしまうかもしれないじゃないか。

僕はお父さんも怖い。
お父さんはいつも忙しそうだ。
僕が寝てしまってから帰ってくるし、僕が起きる前に会社に出かけていくんだ。
お休みの日だって、書斎に閉じこもっている。
ご飯を食べるときだって新聞を大きく広げている。
もしかして、僕のお父さんが、のっぺらぼうだったらどうしよう?
僕はそうっと新聞の端から、お父さんの顔を覗いて見た。
そこには難しい顔をしたお父さんがいた。
でも、なんだか僕は、のっぺらぼうよりその顔が怖かったんだ。

ある日、僕は仲良しのノブヒコの家に遊びに行った。
ノブの部屋で夢中でゲームをしていたら、
『お~い!開けてくれ~。』と大きな声がした。
ノブがめんどくさそうにドアを開けると、そこにいたのはノブのお父さんだった。
僕はびっくりした。
ノブのお父さんは、トランクスを穿いただけの裸だったんだ。
僕のお父さんなら、家にいるときだって、こんな格好はしない。
いつもきちんとぱりっとしたシャツと、お母さんがアイロンをかけたズボンを穿いている。
『ふぅ~あっちなあ。
お前ら、腹減っただろ?』
ノブのお父さんは、両手に大きなお皿を持っていた。
そして、僕とノブに、
『ほらよ。』と渡してくれた。
お皿の中には大盛りの冷やし中華。
僕はとたんにお腹がぐうっと鳴った。
『食えよ。お父さんの作った冷やし中華はうまいよ。』
ノブはさっそく箸をとって僕に言った。
『いただきます。』
一口食べて、僕はびっくりした。
こんな美味しい冷やし中華を食べたのは、生まれて初めてだった。
ノブのお父さんは、冷やし中華を夢中で頬張っている僕とノブを、ニコニコと見ていた。
『お前ら、せっかく天気がいいんだ。
部屋に閉じこもってないで、野球しろ野球。
なんだったらオレがピッチングを教えてやるぞ。』
ノブのお父さんは言った。
ノブは麦茶をごくごく、冷やし中華と一緒に飲み下すと、お父さんに向って、
『いいから、お父さんは向こうに行っててよ。
僕たち今日中に、このゲーム、クリアするんだから。』と文句を言った。
ノブのお父さんは、げんこつでノブの頭を軽く小突くと、部屋を出て行ってしまった。
僕はちょっぴり残念だった。
ノブのお父さんと、野球をするのは楽しそうだと思ったからだ。

僕の怖いものはたくさんある。
夜おそく、僕はおしっこがしたくなって目が覚めた。
ベッドを降りて、しずかに部屋のドアを開け、そうっと音を立てないように階下のトイレに向う。
だって、大きな音を立てたら、お化けがワッと、飛び出てくるかもしれないもの。
おしっこをすませて、そうっと部屋に戻ろうとした僕は、居間から明かりが漏れていることに気がついたんだ。
僕はこっそりドアの隙間に目を当てた。
お父さんとお母さんが、向かい合わせで座っていた。
お父さんは、頭を抱え込むようにして、ひじをテーブルについていた。
お母さんは顔を伏せて、顔にエプロンの端を押し付けていた。
2人とも、ぼそぼそと低い声でしゃべっていたのと、難しい言葉が多くて、僕にはよく解らなかったけど、

   『トウサン』『サシオサエ』『ハサンセンコク』

呪文のような言葉が耳に入った。
僕はすっかり怖くなった。
おまけにお父さんの
『来週にも来るだろう。』という声が、はっきりと聞こえたからだ。
僕は、見つからないように、自分のベッドに戻ると、グルグルと布団を体に巻きつけた。
何かわからないけど、恐ろしいものが、もうすぐ僕のうちにくるんだ。
お父さんが頭を抱え、お母さんが泣き出してしまうような怖いものが。
僕はその晩なかなか眠れなかった。
そしてずいぶん久しぶりにお漏らししてしまった。

僕はそれから、ビクビクと毎日を過ごした。
相変わらずお父さんは家にいなかったし、お母さんもビクビクしているようだった。
ある日幼稚園に、なぜか隣町に住んでいるおばあちゃんが、僕を迎えに来たんだ。
『たかしちゃん。
今日はお父さんもお母さんも忙しいからね。
おばあちゃん家でお泊りしようね。』
おばあちゃんは笑顔を浮かべていたけど、なんだかその笑顔が怖いものに見えたんだ。
おばあちゃんが、こっそり涙を拭いているのを、見てしまったせいかもしれない。
僕はおばあちゃんの手を振り切った。
『たかしちゃん!』
おばあちゃんの叫び声が聞こえたけど、僕は振り返らず、どんどん家の方に向ってかけていった。
 僕の家にとうとう怪物が現れたんだ。
僕は泣きたくなるのをこらえて走った。
僕は本当に怖かった。
怪物が怖かったんじゃない。
お父さんとお母さんが、怪物にやっつけられちゃったのかもと思ったからだ。

僕が家に着くと、玄関のところで、グレーの背広を着て、痩せた男がお母さんに頭を下げているところだった。
『それでは、お邪魔しました。
あとはよろしくお願いします。』
男の人はそういうと、息を切らしている僕に、くるりと向き直ったんだ。
『たかし!』
お母さんも僕に気がついて、あっけに取られたような顔をしている。
『おや。
ぼうや、今幼稚園の帰りかい?』
男の人はかがみこんで、僕の頭をなぜた。
そしてポケットから、飴玉を二つ取り出して僕にくれた。
『ぼうやにひとつ。お母さんにひとつ。
君は強そうだからね。
これから、お母さんを一生懸命守っていけるよね。』
男の人はそう言うと、お母さんは黙って頭を下げた。
僕は家に入ってびっくりした。
家中いろんなものに、赤い紙が貼ってあるんだ。
僕は思わずお母さんに聞いた。
『今日はお誕生日なの?』
幼稚園では毎月、お誕生会があって、部屋中に折り紙で飾り付けをするんだ。
こんな風に赤い紙だけじゃなくって、青も黄色も桃色も、いろんな色で飾るけど。
『まあ、たかしったら。』
お母さんは大笑いした。
あんまり笑ったので、途中で泣き笑いみたいになっていた。

それからすぐ僕たちは引越しをした。
あんまり急だったから、お別れはノブにしか言えなかった。
ノブは僕に、新品の野球のボールをくれた。
『元気でな。』
ノブの顔を見て、僕は涙がこぼれた。
お母さんがノブに、
『ありがとうねノブ君。
おばあちゃん家が近くだからね。
きっと夏休みには遊びに来るわ。』と言った。
『そろそろ出発するぞ。』
車の窓からお父さんが顔を出した。
僕はノブにお別れを行って、僕の家をあとにした。
途中で、3丁目の赤いポストが見えた。
『バイバイ。』
僕はポストに向って小さく手を振った。

新しい家は、前の家より、ずうっとずうっと小さかった。
あんまり小さくて、部屋も、居間と台所、それに寝室はひとつだけ。
お父さんは、引っ越してからは会社に行かなかった。
なんだかぼんやりと、居間に座ってテレビを観てる。
僕は膝を抱えて、そんなお父さんの顔を見てる。
ある日、そんな僕にふと気がついたように、お父さんが言った。
『なんだ、たかし。
お父さんの顔に何か付いてるか?』
僕は首を振った。
『いまのうちにお父さんの顔を見ているんだ。
だって、忘れてしまうと、のっぺらぼうみたいで怖いんだもの。』
お父さんは、さっぱり訳のわからないって顔をする。
『だって、またお父さんお仕事行くんでしょ。
お母さんそう言ってたよ。
そうしたら、僕、お父さんの顔忘れちゃうもの。』
僕は、お父さんの顔をじっと見る。
お父さんは、僕がもてあそんでいた、野球のボールに目を止めた。
ノブがくれたボールだ。
『キャッチボールでもするか?』
お父さんがいきなり言った。
僕は撥ねるように立ち上がって、大きくうなずいた。

新しい家には、庭なんてなかったから、僕とお父さんは、近くの公園までぶらぶらと歩いて行った。
『なあ。たかし。』
お父さんは言った。
『お父さんもう一度働くよ。
働いて、がんばって、もう一度やり直す。
しばらくは忙しくて、やっぱりお前と顔を合わせられない生活かもしれない。』
僕は言った。
『お父さんががんばるなら、僕もがんばるよ。
僕とお父さんで、お母さんを守らなくっちゃね。』

お父さんは野球が下手だった。
僕が投げたボールは、おっとっとと取りこぼし、お父さんが投げたボールは見当違いのほうに飛んでいった。
でも、そんなひょろひょろボールを、僕は力いっぱい受け取った。
お父さんも、真剣な顔をして僕からのボールを掴んだ。
僕は思った。
本当に怖かったものはなんだったんだろう?
お父さんとお母さんが怖がっていたもの。
僕にはそれがなんだったのか解らない。
だけど、きっと僕たちはそれから逃げられたんだ。
だって、僕はこんなに、胸が痛いくらい幸せだから。
お父さんの顔も、夕焼けに輝いて、とても嬉しそうに見えるから。

僕とお父さんは手をつないで、小さな家に帰る。
家の中から美味しそうなにおいがして、僕とお父さんのお腹は、そろってぐううっと鳴った。
『ただいま。』
僕にはもう怖いものはない。



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