小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

デパートにて



私はデパートの中にいた。
肌を刺すような熱から逃れて、ほっとため息が漏れ肩が落ちる。
空気はひんやりと肌に馴染む。
デパートの中は人影もまばらだ。
売り子の姿でさえ、ほとんど見えず、陳列台の影、カウンターの後ろにぼんやりした気配があるばかりだ。
最近は不景気だからなぁ。
そう思いながらも、実はうるさく付きまとう売り子がいず、心ゆくまで商品を眺められる環境は、不便と思うよりも心地よく感じてしまう。
これと言って買い物のあてもないが、せっかく暑さを逃れて入ったのだ。
少し涼んでいこうか。

私はぶらぶらと、高級化粧品のカウンターの並ぶ辺りを通り過ぎる。
プンと漂うおしろいや香水の匂い。
最近はオリエンタルブームで、どこか和風の香りのものが多いようだ。
ねっとりと甘い香水より、若々しく刺激的な香水より、私はこの白檀に似た香りに心癒される。
さらさらと砂が落ちる音が僅かに聞こえ、途切れ、しばらくするとどこからともなく聞こえてくる。
パウダーの量り売りでもしているのだろうか?

私はエレベーターに向った。
上へ行くボタンを押す。
隣にいた若い男が、
『上に行くんですか?』と聞いてきた。
『あなたもう、食事を済ませましたか?』
下手なナンパだ。
『ここの地下で、へグイが食べれますよ。』
私は馬鹿じゃないのと思った。
珍しい食べ物かなんか知らないが、いくらなんでもデパ地下での食事に誘うとは。

やがてエレベーターが上がってきて、私は黙ってそれに乗り込んだ。
鉄の厚いドアがしんと閉まる。
私は4階のボタンを押した。
エレベーターの中は驚くほど狭い。
それにエアコンの故障か、それとも省エネ対策なのか、エレベーターの中はひどく暑かった。
私の額に汗がにじむ。
エレベーターはのろのろと上がっていく。
私の汗は顔からも体からもどろどろと流れおちた。
目の中まで熱い。私は目を閉じた。
思わず口を開けて犬のように呼吸しようとしたら、肺の中にまで熱気が入り込んできた。
冗談じゃない。
体が溶けちゃうよぉ。思わず叫びたくなる。

     チーン!

エレベーターは軽やかな音と共に止まった。
ドアが開き、ようやく涼しい空気に触れる。
体が驚くほど軽くなった。
熱さで体中を燃やし尽くされたよう。
案内カウンターのところにねじ込んでやろうかしら?
そう思ったが、今すぐ1階に引き返して、カウンターまでいくのも面倒だ。
私が行かなくても、他の誰かが苦情を言うだろう。
私は気を取り直して、CDショップに入る。

ショップの中には、たゆたうような音楽が流れていて、私の心を静めてくれた。
曲の中に低く低く歌声がある。
何語だかよくわからないが、どこかで聞いた事のあるような歌だ。
たまにはリラクゼーション音楽もいいな。
アルファー波だったっけ?
頭もよくなります。ストレスも解消されます。ダイエット効果もあり。
ついでに牛の乳の出もよくなるんだっけ。
私は思わずくすくすと笑った。

そうだ。もうすぐお祭りだし、浴衣でも見に行こうかな?
私は6階の着物売り場に行こうと思った。
エレベーターホールに向いかけて、足を止める。
やっぱりエスカレーターにしよう。
エスカレーターに足を乗せると、手すりに手をかける。
手すりからは僅かなぬくもり。
熱いのは嫌だが、冷えた空気の中で感じるその温かさは悪くない。
なんとなく遠い昔の母の手のぬくもりを思い起こす。
上へと押し上げられていく体の感覚も、狭いエレベーターの中よりずっといい。

着物売り場で、私が浴衣を選んでいると、絣の着物を着たおばあさんがやって来た。
『これなんか似合うと思いますよ。』
皺のよった口で、にこにこと、涼しげな白い浴衣を差し出す。
着物売り場では、高齢の店員さんもいるんだ。
めったに来ない場所なだけに知らなかった。
上品そうなおばあさんは、私の肩にさらりと布をかけた。
私の肩に反物を押し当て微笑む姿は、なぜか懐かしい人を思い出しそうになる。
誰だったっけ?これはデジャブ?
『今年は、白い着物がはやりなんですか?』
売り場は美しく白い着物でコーディネイトされている。
純白が目にまぶしいほどだ。
『そうですねえ。最近はいろいろありますが、やっぱり白がいいと思いますよ。』
私もまるで白鳥の羽を思わせるような、その無色の清浄さがいいと思った。

浴衣も買ったし、さて次はどこを回ろうか?
そう思ったとたん、私のおなかがグウとなった。
上のレストラン街でも行こうかな?
私はふと、さっきエレベーターの前であった男の言葉を思い出した。
確かここのデパ地下で、何か珍しいものが食べれるって言ってたような・・・。
好奇心の強い食いしん坊の私は、名産品の食べ物とかに弱い。
行って見ようか?
私は下りのエスカレーターに乗った。

グルグルと螺旋を描いて降りていくエスカレーター。
体の現象は、心をも左右する。
浮上感と共に上に上がるのとは違い、下っていく感覚はあまり好きではない。
ジェットコースターもバンジージャンプも大嫌いだ。
私は心の中で、オーバーにたとえてみる。
エスカレーターは緩慢だけれど、でもこれだって堕ちていく感覚だ。

やがて地下1階の食料品売り場に着く。
ざわざわとした潮騒のような気配。
フロアの半分は食料品売り場、もう半分は名産品売り場になっているようだ。
私は、美味しそうな匂いの漂うあたりを目指した。
そこには特設会場が設けられ、屋台が出来ていた。
私はさっそく、おなかを鳴らさないよう腹筋を引き締めながら飛び込んだ。
『いらっしゃい!』
赤ら顔のおじさんが、湯気の向こうからドラ声で迎えてくれた。
なんだか強面だが愛想はいい。
カウンターを挟んで椅子に腰掛け、調理場を見渡してみる。
まな板の上には、ドキッとするくらいぎらぎら輝く肉切り包丁が突き刺さり、てらてらと血でぬれている。

『ええと。へグイってありますか?』
私はさっき聞いた料理の名を思い出しながら聞いてみる。
『へい!へグイ一丁。』
おじさんは大きな中華なべをゆっさゆっさと片手でゆする。
大きな炎が、一瞬、天井に届きそうなほど上がる。
もうひとつのコンロでは、何かがぐつぐつとよく煮えているようだ。
私の隣で母子が、仲良く食事を取っていた。
『ほらほら、こおちゃん。こぼさないで。』
母親が幼い男の子の口を拭いてやっている。

やがて私の前に、料理が運ばれてきた。
なんだか中華粥のような代物だ。
なんだ、こんなものかとがっかりしながら口に運ぶ。
私はびっくりした。
うまい。
こんなに美味しいものを食べたのは生まれて初めてだ。
私はどんぶりの底までその味を堪能した。

勘定を済ませて、屋台を出る。
そろそろ帰ろうか。
私はそう思って、エスカレーターに乗った。
でもなにをぼんやりしていたんだろう。
私が乗ったのは、下りのエスカレーターだった。
地下二階って何売り場だろう?
下っていく先は妙に薄暗い。
ぼんやりと黄色い明かりが見える。裸電球のようだ。
その先はただ真っ暗、光も届かない。
地下駐車場?
それにしても暗い。
とても客が訪れる場所に思えない。
倉庫かな?
エスカレーターはどこまでも下っていく。
寒い、寒い・・・暗くてよく見えないが、私の吐く息は白く凍っているのに違いない。
私はとてつもない不安に襲われる。
行ってはいけない。この先へは。

突然がくんという衝撃と共に、エスカレーターが止まった。
『お客さぁん。』
上から声がかけられた。
『すみません。そっちはお客さんは立ち入り禁止なんですがぁ。』
助かった。なぜか私はそう思った。
止まったエスカレーターを、自力で歩いて上に出る。
ようやく地下一階に戻ると、膝がガクガクとしていることに気がついた。
『大丈夫ですかぁ?』
私を引き戻した声の主は、つるつるの頭をした青年だった。
『すみません。上りと間違えちゃって。』
『上に行くならエレベーターをお使いください。』
エレベーターは・・・と私はいいかけたが、押されるように誘導されてしまう。
『大丈夫。もう熱くないですよ。』
そんな私の心を読んだかのように、禿の青年が言った。
ドアが閉まる前に、私はあの下りのエスカレーターに、ぞろぞろと数人の客が乗り込むのを見た。
あっと、思うまもなくドアが閉まる。

確かにエレベーターは、快適な温度だった。
だがこのエレベーターは、なんと屋上直通ではないか。
私は1階に行きたかったのに、これではとんだ大回りだ。
エレベーターは、ぐんぐんと上がっていく、それと共に私の気持ちもなんとなく浮き立って、まあいいかと思えるようになった。
もう外も涼しくなった頃だろう。
デパートはエアコンが効いているが、少し息苦しいなと思っていた。
屋上で風に吹かれるのも悪くない。
そしてエレベーターのドアが開いた。

屋上は庭園風になっていた。
色とりどりの花が咲き乱れている。
空はもう薄紫とオレンジの夕暮れ時だ。
庭園のあちこちに明かりが灯っている。
私は思い切り息を吸い込んだ。
花の香りと新鮮な空気が胸に満ちた。
屋上の端にある金網のところには、何人かの人がいて、みなコイン式の望遠鏡を空に向けていた。
『なにを見ているんですか?』
私はひとりの老人に声をかけた。
『もうすぐね。流れ星が見えるんですよ。』
望遠鏡から顔を離さず、老人は答える。

そのとたん、あたりの明かりが消えた。
デパートの下に広がっていた明かりもだ。
『停電?』
私が驚くと老人は、
『なに、流星を見るために、明かりを消しているんですよ。』と答えた。
なるほど、地上に明かりが煌々と灯っていたら、星は見えずらいだろう。
今日は流れ星のイベントだったのか。
『ほぉ!』
老人の口から短い感嘆が漏れた。
私は惹かれるように夜空を見上げてみた。
日はいつの間にか沈み、空には無数の光が満ちていた。
見える。流れ星が。
望遠鏡で見なくても、私の瞳には、はっきりと見えた。
強い光、弱弱しい光、大きな光、小さな光。
たくさんの輝きが、それぞれの命を燃やし、輝き流れていく。

『流れ星をみたのは初めてです。』
私は、ため息をもらした。
『星を見ることも忘れていた。』
私の頬はいつのまにか濡れていた。
『疲れていたんですね。』
老人は望遠鏡から目を離し、私のほうを向いていた。
『どうですか。もっと星をご覧になりませんか?』
老人は優しく私の手をとった。
私の手。
さっきまでぴんと張り詰めて、すべすべだったはずの私の手。
今は皺皺になった小さな手。
そうだ。これが私の手だった。
89歳の年齢にふさわしい、年月の刻まれた手。

ふたりの老人は、花々の咲き乱れる庭園の中にあるゴンドラに向った。
係員が丁寧に二人が乗り込むのを手伝った。
『片道にしますか?それとも往復?』
係員が聞くと、二人は少し悩んだ。
『そうですねえ。苦労も多かったし、病気も長く苦しかったし、早くあっちへ行きたいとそう思っていましたが・・・。』
『私もねえ。借金をこさえて、一家は散り散り、寂しいもんでした。』
『でもね。』老婦人がほっこり微笑んだ。
『孫が結婚するんです。まあなんですか・・・ひ孫ももうすぐ生まれるんですよ。』
『それは、それは・・・。』老人も微笑んだ。
『私もね。ずっと音信のなかった息子から、去年手紙を貰ったんですよ。
いまさら合わす顔もないと、無視したまんまでしたが・・・。』
係員はふたりに往復の切符を渡し、
『お気をつけて。』と声をかけた。

ふたりを乗せたゴンドラは、遠く遠く空に昇っていった。
やがてぱしゃんと、水の撥ねる音が響いて、ゴンドラは星の川にたどり着いた。
『私、存じませんでしたわ。三途の川が天の川だったなんて。』
老婦人がおかしそうに笑う。
『ここは、命が地上に向けて、下りていく川でもあるのですよ。』
老人も笑う。
『いつかまた、私たちも。』
『ええ。私たちも。』
ふたりを乗せたゴンドラは、静かに星の川に漕ぎ出していき、たくさんの星の中にやがて見えなくなっていった。



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