小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

琥珀の人魚




ぽつんぽつんと、アスファルトの上に、小さな水玉模様が生まれた。
オープンテラスで一人、紅茶のカップを前に座っていた僕は、テーブルに差しかけてあるパラソルの下から、ぼんやりと空を眺めた。
ふと気が付くと、あたりはうっすらと暗い。
もう夕方なのだろうか?
いや・・・朝から曇っていたから、実はまだ早い時間かもしれない。
こんな中で彼女を待っていると、何時間も、何日も、何年も、ずっとここにいたような気がしてくる。
こんな肌寒い曇りの日に、外でお茶をしていた酔狂な何人か(たいていはカップルだったが)は、降り出した雨に、次々と席を立っていった。
小さな水玉がいくつも、灰色のアスファルトを黒く染めていく。
重なり合った点は、やがて大きく滲んで、形をとどめなくなった。
店内から出てきたウエイターが、手早くパラソルを閉めて回っている。
とうとう、開いているパラソルは、僕のテーブルだけになった。
『お客様。雨が降っていますから、店内にどうぞ。』
白いシャツと髪を濡らし、若いウエイターが私の前に立った。
『もう少しだけ、ここにいては駄目ですか?』
僕の言葉に、一瞬困ったような顔をしたようだが、彼はおとなしく一礼して、店内に消えていった。
ぽっと、明かりが灯る。
誰もいなくなったテーブルの群れを照らすように、いくつも灯った光。
その光は紅茶に映って、小さな星のように見えた。
彼女は来ないのだろうか?

『もう疲れたの。』
あの日、いつも快活だった彼女は、たった一言そういって黙り込んだ。
好きになったのは、確かに僕が先だった。
同じサークル仲間の中で、光り輝くような彼女と、気弱でさえない僕。
見つめるだけでいい、同じ活動が出来るだけで。
そう思い続けていた日々、幸せな僕。
それなのに、彼女のほうから好きだと言ってくるとは・・・。
『ほっとけないから。』
そう言って彼女は笑った。
アイドルの突然の告白に回りは騒然となった。
うらやましいとか、何でお前がとか、うまくやれよとか、祝福だの妬みだのの嵐の中で、僕がそのとき感じていたこと。
僕はひたすら困惑していた。
星が欲しいと夢見るように、彼女を欲していた。
だから、本当に手に入ってしまって、僕は、どうしたらいいのか、わからなくなってしまった。

誘われて、何度もデートを重ねた。
彼女はいつも、きらきらと笑っていた。
無口な僕の分もしゃべるように、彼女の話は尽きなかったが、そのどれもが明るく、思いやりに満ちていて、いつまでも聞いていて飽きなかった。
初めての口付けも、初めての夜も、彼女が恥じらいながらも僕を誘った。
僕は、求められるもの全てを、彼女に与えたかった。
彼女の言葉は僕には神託。
彼女の笑みに、彼女の体に、彼女のすべてに僕はひれ伏していた。
彼女の望むがままに、彼女の言うとおりに。
だから、別れたいと言われたとき、僕は黙ってうつむいた。
そんな僕に彼女は、
『最後まで、何も言ってくれないのね。』
小さくつぶやいて去っていった。
そう。この場所で、このパラソルの下から。
あの日も雨が降っていた。
だから彼女の頬が濡れていたのは、あれはきっと雨のせいだったのだ。

あれから数え切れないほど、僕はここに訪れた。
何度も何度も。
古ぼけたレコードに繰り返し針を落とすように、いつかは記憶も飛び飛びになり、不鮮明になって、ただ懐かしさだけ残っていくのだろうか?
椅子に座ったまま、のけぞって、パラソルの端から空を眺める。
ポツリと雨の粒が、僕の瞳の中に落ち込んできた。
あっと驚いて目をぎゅっとつぶる。
瞳を閉じたまま座りなおし、手探りで冷めたカップを手繰り寄せた。
カップのふちにつけた唇が震える。
そっと瞳を開くと、しずくがぽつんと、僕の瞳からカップの中に落ちていった。
こんなに近くから落ちたのに、しずくの落ちた残像は、ひどくゆっくりと僕に感じられた。
一瞬。王冠の形に開いたしずくは、いくつもの輪を生み出していく。

    ぴちゃん。

琥珀の液体の中に、小さな銀の尾を翻して、彼女がやっと現れる。
彼女の口が微笑んで、とある形を紡ぎだす。
『好きよ・・・好きよ・・・。』
僕も声にならない言葉で彼女に告げる。
『ああ・・・僕も君が好きだよ。誰よりも愛してる。』
ほんの一瞬の逢瀬。
滲んだ視界の中、彼女はいつものように、琥珀の海に消えていく。
聞こえてくるのは、雨の中を走る車の音ではない。
あれは遠い遠い潮騒の音なのだ。

あの日、席を立った彼女の前で、項垂れていた僕。
これでいいのだと、彼女の望んだことだと、所詮、僕には分不相応だったのだと、頭の中は、そんな風にぐるぐると回っていたから、そのときの僕の行動は、本能だったのかもしれない。
僕は叫んでいた。
恥も外聞もなく。
『君が好きなんだ!!』
彼女は、その言葉に立ち止まって振り向いた。
そのときの彼女の顔を、どうしてだか僕は覚えていない。
あきれたような顔をしていただろうか?
怒った顔をしていただろうか?
それとも・・・微笑んでいたのだろうか?
信号が変わりかけた横断歩道を、走って渡ろうとしていた彼女は、次の瞬間、大きく宙に舞っていた。
全ての音が止む。
周りの光景がスローモーションで動く。
泳ぐようにふらふらと歩み寄り、彼女のそばにかがみこんだ。
がっくりと首を垂れ、息絶えていた彼女。
抱き上げた体は、驚くほど儚かった。

彼女はこんなに小さく、細く、弱弱しかっただろうか?
強く強く光り輝いていた彼女。
星に恋するように、僕は彼女に恋をした。
星の見えないこの空の下で、僕は寂しそうに涙を流した彼女を、愛していると、誰にも渡せないと、そのとき初めて気が付いた。



もう一度、そして何度でも・・・僕は彼女に告げるのだ。
『愛してる・・・愛してる・・・。』
そして二人で、星を探そう。
この雨の降る空の下。
奇蹟のように輝く星を。

ふらりと僕は、遠い潮騒の中に身を任せた。




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