小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

人魚姫(act.1)




   『人魚姫』act.1

ハンドルを回し、切り立つような崖のふちを、なぞるようにカーブしていく。
崖は下界に向って黒々と落ち込み、真っ白な潮の飛沫を、絶え間なくその裾に受けている。
界下の海は灰青色の澱み。
いつの間にか霧が出てきたようだ。
濃霧になる前に急がなければ。
濡れた緑が、窓の外をぼおっと流れていく。
私はワイパーのスイッチを押した。

兄が娘を連れて失踪してから、今年で10年にもなる。
義姉が交通事故で亡くなってから、もう10年もたったということだ。
義姉と娘が担ぎこまれた病院は、兄が外科の助教授を勤める大学病院だった。
義姉は既にその時、もはや助かるまいと誰もが思った。
手術するだけ無駄だ。
だが、兄はそうは思わなかった。
いや、そうは思いたくなかったのだろう。

強行に手術した医師は兄自身だった。
あとで聞かされた話によると、いつもは冷徹に見える兄が、あの時は狂ったようになっていたという。
動きを止めた心臓に何度も何度も電気ショックを与え、とめようとした医師達を跳ね飛ばし、冷たくなっていこうとする体に、またメスを入れようとする。
唸るように慟哭する兄の姿が、目に焼きついてはなれないと、話してくれた医師は疲れたように肩を落とした。

その間、娘はどうしていたのだろう。
知らぬ間に母を亡くした5歳の娘は、その頃、別の医師にかかり、折れた背骨の手術をしていた。
その医師が悪かったわけではない。
だがもし、その手術をしたのが、天才外科医と言われていた兄だったのなら。
そうだったら、また運命は変わっていたのだろうか?
何も変わらなかったのかもしれない。
だが、拘束され、安定剤を注射された兄が、次に目覚めたとき、娘の足は二度と立てぬものになっていたのは確かだった。

生い茂った緑の木々が、行く手を遮るかのように、左右から迫ってくる。
急に目の前に、さび付いた鉄の門が現れた。
目を凝らすと門の向こうに霧に霞んで、道らしきものがあり、そのもっと先に、古風な洋風の館が亡霊のようにぼんやりと浮かび上がった。
古色蒼然とした、アーチ型を描く門は、締められたままだ。
背高く生い茂った夏草が、この扉が長い間、そのままの状態でいることを物語っている。
私は車を降りると、その扉を開こうとした。
扉はびくともしない。
よく見ると、地面にめり込んでいる。
諦めて、車をそこに置いたまま、私は崩れた門の隙間をくぐり抜けた。

館への道をたどりながら、私は、行方不明だった兄と姪にようやく会えるのだと、そう思いながらも、心はどうにも沈んでいた。
年の離れた兄は、早くに両親を失った私にとって、親代わりのようなものであったし、この10年、この日を待ち焦がれない事はなかった。
それにもかかわらず、この気分は、館の陰鬱な雰囲気のせいだろうか。
近づくに連れ、霧の中から現れるその館は、生い茂る蔦や、もはや庭とも呼べない野草の生え茂る中にあって、まるで眠れる森の古城のように優美だった。
だが、長い年月にさらされ、石組みはあちこち破損しているのが見え、灰色の壁には亀裂がいく筋も走り、朽ち果てた廃墟にしか思えぬものでもあった。
そして私が驚いたのは、この館が、まるでせり出すように、崖のふちに乗り出して建っていることだった。
この高い崖から、海に向って身を投げ出そうとしている。
そんな風にこの館は見えたのだ。

私が館の入り口を探していると、どこからか鳥の鳴き声がした。
細く細く高く澄んだ声。
そういえば不思議だ。
これだけ緑濃い中にあって、今まで鳥の鳴き声を耳にした覚えはない。
海も近いのだから、海鳥の鳴き声もしそうなものだ。
それとも、この濃霧に、鳥達もねぐらに潜んでいたのだろうか?
私は、誘われるように、その声を追って顔を上げた。

 『ラプンツェル、ラプンツェル、
 お前の髪をたらしておくれ!』 

私は心の中でそんな声を聞いた。
海に向って開いた、出窓に座り込んでいるひとりの少女。
鳥の鳴き声と思ったのは、その少女の口から漏れる不思議な音楽だった。
それは、魔女や王子を呼び込んだラプンツェルの歌声のごとく、まるで私をその館に誘い込むかのように思えたのだった。


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