小説 こにゃん日記

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人魚姫(act.8)



『人魚?』
兄は何を言いたいのだろう?
『あの童話ですか?
人間になるために、魔女に、声と引き換えに足を貰った人魚姫。』
私はふと考えた。
足で立つこともできず、しゃべる事もできない美祐。
これが人魚の話なら、まったく片手落ちだ。
それから、私の意識に、ふっと浮かびかけたものがあった。
人魚・・・そういえば、昨日の晩。
私は人魚の夢を見なかっただろうか?

『人魚の伝説は世界中にある。
セイレーン、オンディーヌ、マーメイド、メロー、ベドォン・ヴァーラ、マーマン、ユナイマタ・・・日本にも八百比丘尼の伝説なんかがある。
「日本書紀」にも、推古天皇の御世に、人のような魚のような生き物が現れたと、記されているんだ。』
私は思わず兄の話に引き込まれた。
『へえ。「日本書紀」にそんな記述があるんですか。』
『人魚は日本だけでも、津軽、能登、若狭、近江、出雲、伊予、九州、沖縄でも目撃されている。
滋賀の観音正寺には、人魚のミイラが収められているという。』
私はあっけにとられた。
兄がこんなに、人魚について、知識を持っている事が意外だった。
私が知っていた兄は、およそ、そういった未知の生物に、ロマンや興味を持つような人間ではなかった。
医者としても、研究を重んじる学者というよりは、手先の器用な技術者的な人間だった。

『まてよ。確か、人魚の正体は、ジュゴンという海洋哺乳動物だったんじゃ。』
私が思わず反論すると、兄は苦笑した。
『小説家の癖に、お前は現実主義者だな。』
『兄さんこそ・・・まさか兄さんと、人魚について語り合う日が来るなんて、思ってもみませんでしたよ。』
カップのぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。
兄は、テーブルの上の銀のシガーケースから、葉巻をつまんで口に咥えた。
『お前、美弥を愛していたのか?』
唐突な兄の言葉に、思わず私は飲んでいたコーヒーにむせた。
『に、兄さん?』
兄は私から目を離し、俯いたまま声をふりしぼる。
『すまない祐樹。』

私の頭は混乱した。
美弥・・・義姉さん・・・。
愛してた?
違う。私は、私は兄を盗られまいと、愚かなほど必死だっただけだ。

 ダカラ サソイニ ノッタノカ 
 サイアイノ アニヲ ウラギッタノハ ダレダ

私の心の中のように、窓の外には霧が立ち込める。

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