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蒲刈(かまがり)島が見えてきました。画面の左手前に見える島が、上蒲刈(かみかまがり)島。そのむこう、画面ほぼ中央に見える島が、下蒲刈(しもかまがり)島です。いまは、本土側の仁方(にがた/画面右側)と橋で結ばれています。その橋の下の海域が、船の難所として知られる蒲刈の瀬戸(女猫の瀬戸)になります。上蒲刈島と下蒲刈島は、古くは、日高上(ひだかかみ)島・日高下(ひだかかみしも)島と呼ばれていました。奈良・興福寺の荘園であった日高荘があったからです。その後、室町時代になると、日高上島(上蒲刈島)は、日高島、日高下島(下蒲刈島)は、蒲刈島と呼ばれ、「蒲刈」といえば、下蒲刈島をさすようになりました。ついで江戸時代になると、両者を含めて蒲刈島と呼ぶようになります。15世紀の記録(『老松堂日本行録』)には、「可忘家利」と記されていますから、古くは「かまかり」と濁らずに呼んでいたようです。いまは「蒲刈」と言っても、ご存知ないかたが多いでしょうが、中世、瀬戸内海を旅するものにとって、蒲刈は、たいへん有名な場所でした。それは、ここが海賊の巣くう拠点のひとつだったからです。1410年(応永17年)、朝鮮の使者は、この海域で海賊に襲われ、衣服や食料、さらには船まで奪われています(『老松堂日本行録』)。しかし、中世の海賊は、海の強盗集団ではありません。彼らは、いつも船を襲い、掠奪を繰り返していたわけではないのです。彼らの主たる収入は、通行料でした。海賊たちは、島や、半島の先端に城を築き、その周囲の海を縄張りにして、そこを通過する船から「関銭」(せきせん)と呼ばれる通行料を徴収していました。また、船を警護して、「警固料(けいごりょう)」という名前の収入も得ていました。このほか、海運にも携わり、国内の交易にとどまらず、朝鮮や中国との貿易にも深く関与していました。このように、中世の海賊とは、海を支配する領主、海の武士団だったのです。彼らは、こうした通行料や警固料を徴収する見返りに、船の安全運航に関する情報を教え、ときには外敵から船を守ってくれました。しかも、こうした徴収行為は、社会的にも認められていました。そうなると、海賊は、海の強盗集団どころか、海の平和を守る集団だったといってもよいでしょう。しかし、自分たちの海を、通行税や警固料も払わずに通る者に対しては、強制的に徴収しようと、船を襲撃して、強制的に通行料を徴収しました。いまなら、電車をキセルして、割増料金を取られるのと同じです。また、通行料も一定ではなかったため、交渉を決裂させて、船を襲撃することもありました。そうなると、確かに海賊です。しかし、敵の船ではない限り、いきなり襲撃はせず、まずは、通行料の交渉から始まります。そして、一定の銭を支払いさえすれば、彼らは、むしろ船を守ってくれたのです。瀬戸内海には、こうした大小の海賊たちが、あちこちに縄張りをもって暮らしていました。そのなかでも、重要拠点のひとつが、この蒲刈だったのです。1420年(応永27)に来日した朝鮮の使節ソンギヒョンは、蒲刈島(下蒲刈島)には、東西の海賊がいた、と記録に残しています(『老松堂日本行録』)。そして、東から来る船は、東の海賊を一人のせてくれば、西の海賊は手を出さず、西から来る船は、西の海賊をのせていれば、東の海賊は手はださないというルールが出来あがっていたことも記しています。この東西の海賊の名前は、はっきりしませんが、少なくとも蒲刈島は、東西の海賊たちに属する島として認識され、その連絡地点とされていたようです。このころの瀬戸内海には、島伝いに、こうした海賊たちのネットワークがいくつもできあがっていました。戦国時代、日本一の海賊と呼ばれた能島(のしま)の村上氏や、来島(くるしま)の村上氏も、こうしたネットワークを基礎にしながら、やがて大きく成長した海賊たちだったのです。その蒲刈の海賊たちの海に、これからはいります。今日は、東の海賊を乗せていないので、どこからか海賊が近づいてくるかもしれません。緊張の一瞬です。中世の人々は、そんな思いをいだきながら、この風景を見ていたのでしょう。時刻は、午前8時29分です。
Oct 16, 2005
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陽が傾くとガラスの森が輝きはじめる続きは新ブログで♪http://makobei2008.blog82.fc2.com/URLをクリックすれば新しいブログにとびます
Nov 20, 2009
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初飛行(1962年8月30日)から44年間日本の空を飛び続け夢を運んでくれた国産唯一の旅客機YS11きょうはラストフライトでしたこの写真はJACのHPの壁紙ダウンロードを利用したものですhttp://www.jac.co.jp/entertainment/wallpaper.html暖房の効きが悪い悪天候だと揺れる最新ジェットとくらべれば乗り心地は比べものになりませんが巡航高度4000メートルの空の旅はジェット機では味わえない日本の旅を楽しめました機体が揺れても 頑丈なYSならば大丈夫そんな安心感があった日本の飛行機でした衝突防止装置の義務づけがきっかけでついに引退に追い込まれてしまいましたが思い起こせばYS11のエンディングは15年前からはじまつていたようです1991年 全日空からの退役1996年 日本エアシステムからの退役1998年 日本トランスオーシャンからの退役そしてきょうの最後のフライトは日本エアーコミューター沖永良部15時55分発 鹿児島行きJA3806便でしたその名誉ある大役を務めたのはYS11A500のJA8768(YS11 2147)1970年8月25日に製造され東亜国内航空(日本エアシステム)などをへて1994年から日本エアーコミューターの機材となり36年間 飛び続けてきましたいまはラストフライトの任務を無事おえて焼酎を飲み(機体にかけられて)翼を休ませているころでしょうしかしJA8768機はまだまだ元気です日の丸の翼は もう見れませんがふたたび世界の空で活躍してくれることでしょうわたしのデスクにもエアーニッポンのラストフライトを務めたJA8761機がいまも飛び続けています ありがとう日本の翼そしておつかれさまYS11
Sep 30, 2006
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