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前回に引き続き三輪山セミナー講習録『女王制と三輪山祭祀』(大三和台15号より)より前田晴人先生の説を紹介させて頂きます。女王制が七代ほど続いていましたが、男王制に移行する倭の五王の時代と言うのがあります。男王制の時代が来た原因は東アジア世界の政治情勢の転換です。直接関係があったのは百済王権と倭王権の同盟関係の締結、軍事同盟を結んだということです。こういう政治的に大きな変化がありまして、そこで女王制を廃止して男王政に移行したというのが前田先生のお考えなのです。ホムツワケという王がいつ生まれたのかわかりませんが、だいたい四世紀の後半と考えてもいいのかも知れません。おそらく、ヤマト王権は女王に御子を妊らせる、男の子を産ませる政策をとりそうして生まれたのがホムツワケだろうということなのです。最後の女王サホヒメの夫になった人物はだれなのかということなのですが、女王は当時の日本の社会の中で倭国では一番身分が高い人です。それ以上高い地位の男性はいません。前田先生の考えではクメノイサチという人物が選ばれたのだそうです。クメノイサチといえば、天皇の実名に詳しい方は垂仁天皇のこととすぐに分かるかもしれません。なぜ、垂仁天皇の后妃になった女性の伝承が多いのでしょうか。垂仁天皇の名前はイクメイリヒコイサチといいます。古事記、日本書紀ともいっしょです。イサチという部分が実名です。イサチ、首長の名前です。イクメとは魏志倭人伝の邪馬台国の官名に「伊支馬(イキマ)」あるいはイクマと言う官名が出てきます。内藤湖南が有名な論文でイクマ、イクメ、邪馬台国の官名についてクメのことだろうといっています。イというのは接頭辞なのだそうです。「斉(イ・ユ)」と同じ意味で聖なるという意味をもった接頭辞です。クメとといいますとたくさんの文献にでてきますね。クメは軍事集団です。神武東征伝承に「大来目」や「来目部」がでてきます。「来目歌」という歌詞は神武東征のところで出てきますよね。クメというのは本拠地は奈良県橿原市に久米町というのがあります。垂仁天皇が来目に領地をもっていたという伝承がありまして、垂仁天皇がある時、「来目」というところに行幸して高官という宮殿におわしますとあります。垂仁天皇は実は本来天皇ではなくて、クメ集団の統率者であって、かなり身分の高い邪馬台国の高官で今でいったら総理大臣と防衛省の大臣を兼ねたような人だったらしいのです。そういう人物と女王と結婚させて住吉の神に子供を授かりたいと祭りをしたそうやって祈って出来た子供がコムツワケではないかというのが前田先生のお考えなのです。そして、イリヒコということですが、三輪王朝の始祖王崇神天皇が三輪の地に来臨にしたことからイリヒコ、外部から三輪に入ったのでヒリヒコという説もあります。従来言われている天皇系譜とは全然違う系譜が考えれます。七代ほど女王が続いたあと、四世紀後半に東アジアの大きな情勢の変化を原因にしてホムツワケという王が誕生したというのです。これが、倭の五王の最初の倭王讃(応神天皇)ではないかというのです。古事記と日本書紀によれば、古事記日本書紀が編纂された七世紀の終わり頃には継体天皇の祖先は応神天皇だということになっています。(確かに、今の天皇の始祖王は応神天皇だとおもいます。孝謙天皇が道鏡を天皇にするかどうかと迷った時に、御伺いを立てたのは伊勢神宮でもなければ出雲大社でもなければ住吉神社でもありませんでした。御存じのとおり宇佐八幡だったのです。宇佐八幡と言えばホムツワケ(応神天皇)を祀っているところなのです。自分の始祖にお伺いを立てるのが一番の筋だと考えたのは自然なことなのです。孝謙天皇は自分の先祖が誰かを知っていたのだとしか考えられませんね。)古事記・日本書紀はホムツワケ王と実際に実在した始祖帝王を隠そうとしているかもしれません。何故ホムツワケ王を始祖帝王として認めることが出来なかったかというと、実はこの人を始祖帝王にすると、その前の時代が女王制時代だった、女王が続いていたということになってしまいます。それでどうしても隠す必要があった、女王制の存在を認めることが出来なかった、そしてホムツワケ王にかわって応神や仁徳という本来実在しない天皇を造作し当てはめたといのが前田先生の説なのです。確かに、応神・仁徳同一説とかもありますよね。とにかく、応神は謎が多すぎます。仲哀天皇と実在しない(?)神功皇后との間に生まれたことになっているのですから。色々な説があり面白いですね。さて、次回は話を卑弥呼に戻しましょう。なんだかややこしい話で、あまり興味のない方にはめんどくさい話だったとおもいます。さて、今回は何人の方が読んでくださったでしょうか。次回は卑弥呼が登場しますので、今回はすみませんでした。では、今日はここまでです。読んでくださってありがとうございました。
2008.08.05
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