凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

2016.06.27
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カテゴリ: 矢延平六
チラシsn.jpg矢延平六リサーチプロジェクトについて


高松市美術館で開催いたします、特別展「ヤノベケンジ シネマタイズ」
2016年7月16日(土)~2016年9月4日(日)
チラシ.jpg
この関連イベントで、

ヤノベケンジ×矢延平六「リサーチプロジェクト」
が開かれます。

以下、高松市美術館ホームページより転載

内容:
江戸時代に治水事業で功績を上げた高松ゆかりの人物・矢延平六(やのべ へいろく)。同じ姓をもつヤノベケンジも活動の初期から水を重要なモチーフとしてきました。 2人の鬼才による時代を隔てた水をめぐる物語に迫ります。


2016年8月7日(日)15:30~16:30 ※15:15開場

会場:
高松市美術館

講師:
ヤノベケンジ・南正邦(彫刻家)

入場料:
無料

お申込み:
先着180名(当日12:00より1階受付にて整理券発行)



このプロジェクトについて、
疑問の声が寄せられてきました。


Q2:なぜ、ヤノベケンジと矢延平六なのですか。
Q3:講師の南 正邦とは、どういう人物ですか。
Q4:彫刻家と書いていますが、どんな彫刻を作っていますか。
Q5:なぜ、南正邦が矢延平六なのですか。
そして、



それらについて、ご説明いたします。



Q1:矢延平六とは、誰ですか。


矢延平六
慶長15年(1610)~貞享2年(1685)

讃岐に数多くのため池を造って水不足に苦しむ農民を救ったのですが、

大きい池を作った為に、罪人となって追放されたという伝説の人です。

ひょうげ祭り(Wikipedia)

この展覧会をきっかけに、
Wikipediaに「矢延平六」の項目が新たに追加されました。
矢延平六





香川県技監 佐戸政直氏の記述より。



矢延平六の公式の記録は、ほとんどない。

平六の名が史実に残るのは、「松平登仕録」の矢延平六の条に、
「矢延庄平、初、平六郎、天和元年酉、改庄兵衛……」とあるぐらいである。


名前の呼び方も、書物によってさまざまに書かれている。
全讃史では、「矢野部平八」
讃岐香川郡志、讃岐人物伝、満濃池略史、新修香川県史などでは、「矢野部伝六」
消暑漫筆では、「矢延平六郎、庄之助」

中尾家の由緒書では、「矢延平六叶次」と書かれている。

呼び方にも、「叶次」を「やすつぐ」とする文書もあるが、
子孫は、「かのじ」と読んでいる。

中尾家の由緒書では、寛永19年(1642)高松藩に国替となった初代領主松平頼重に従い、常陸国(現茨城県)下館から来往したといわれている。


以来、郡奉行配下の代官、手代、郷方手代となり、水利、土木普請の技術者として、ため池築造等水利開発に大きく貢献したと伝えられるが、根拠は不明である。

特に、香川町の新池の築造にまつわる、ざん訴により、阿波国(現徳島県)へ追放されたという民間の伝説は有名である。

その徳を慕って農民は、彼の行方を探したが、遂にわからず、そこで新池の見える山頂に平六を祀り、彼の追放の日を命日とし、今なお「ひょうげ祭」として祭典が受けつがれている。

また、中尾家の由緒書では、仁池の築造についても、その池が大きすぎて藩に負担をかけたと、一時阿波国へ追放の身となるが、後に復職、晩年は富熊村(現綾歌町)に移り住み、貞享2年(1685)76才で天寿を全うしたと伝えられる。

元禄10年(1697)には、平六を仁池の側へ飛渡神社として祀り、神社の石碑には彼の功績が彫り残されている。

いずれにしても、平六の功績は大きく、生駒藩時代の寛永二年(1625)讃岐へ来住し、郡奉行と普請奉行を兼ね、県下に多くのため池を修築した「西嶋八兵衛」と並び称される人である。

しかし、西嶋八兵衛の史実が多く残されているのに比して、軽輩なるが故か平六の史料は乏しく、殆んどが伝説の中へ埋没してしまっているのは誠に残念である。

しかし、こうした農村の水にまつわる伝説はあれこれ詮索せずに、それは、それとして素直に語り継ぐべきものかもしれない。

佐戸政直(讃岐のため池、編纂者)





中尾家文書の要旨



飛渡(ひわたし)霊神と奉る祭神は、
讃岐、富熊村の飛渡(ひわたし)神社の祭神。

その由来は、松平家高松藩主の祖、松平頼重。
徳川家康の二男、水戸頼房の長男である。

たどれば、松平頼重公が、下総の国の藩主であったとき、
寛永十九年に、当国へ、国替になって、移転し入国したときの、お供に、矢延平六叶次がいた。

平生、忠孝仁にして、万事、行き届く技術者であった。

しかし、当国は、田畑は広大であっても、用水に不自由して、人民の苦しみ痛みが少なくなかった。

その前の国主、生駒殿の治世の時、西嶋八兵衛と申す者が、苦心して大きな池を沢山作った。

その後、矢延平六叶次が、讃岐の国の有様を見聞し、山川、海陸、遠近、高下の弁を見て、大きな計画を立て、広く水を渡らせる仁池を作った。

仁池が無事出来ると、矢延平六叶次は、喜ばれると思ったが、そうではなかった。

知識の乏しいものから、矢延氏を陥れるために事実でない悪口を言われ、上司に伝わった。

すると、上役から尋問があった。

「こたびの、その方の、仁池を築いた旨。気になる事を聞く。水は、何日分ほど溜められるか。」

矢延は答えた。
「五月中旬より百日は、用水はございます。」

すると、上役は、
「稲は、植付より七十五日で、穂が十分に熟し、刈り取るべき所。
それ以外に用いる水は不要である。
そんな過分の出費をさせたるとは、甚だ不届き千万。」
と、矢延に浪人を申しつけた。

矢延平六がしたことは、君の為、人民を補助した事。

上下に莫大の功績がある者には、忠実な恩賞が与えられるべき所が、かえってとがめられる事がある。

昔、源義経公が、天下の為に大きな功績を上げたのに、その益がなかったように、これは世の常であろう。

矢延平六は、その時、阿波の蜂須賀様の家臣に縁があり、蜂須賀駿河殿が矢延氏と会われ、その身上話を聞いて、家臣として雇い、四十有余年過ごした。

しかし、妻子もいないまま年をとっていた。晩年になって嫁をもらい、子供ができた。
七十四で、病気になり、讃岐の富熊村に隠れ住んで七十六歳で亡くなった。




仁池の堤にある、飛渡神社には、国学者の古川喜九郎が、この文書を元に、矢延平六について、碑文に刻んでいます。



丸亀市飯山町上法軍寺
仁池にある、飛渡神社碑


貴族院議員正三位勲二等伯爵松平頼壽閣下篆額


飛渡神社は矢延平六叶次を祀る。
叶次、高松藩主松平頼重に仕え、水利に功あり。

民、これを徳とし此の祠を建つ。

抑も讃岐国たる田野、夙に開けしも、灌漑の利、全からず。

生駒氏の高松に封せられし時、其の臣、西島八兵衛、四十八池を築きしが、猶未だ洽きを得ず。
寛永十九年。頼重、此地に移封せられるや大に池溝に役を興し、叶次を挙げて任に當らしむ。

叶次、拮据経営四十余年。東は大内郡より、西な那珂郡に至り。
工を起すこと一百余所に上る。

仁池は、即ち其の最も著しきもので、慶安元年六月二十八日、着手し、翌二年三月二十五日、功を竣り其の利の及ぶ所、上法軍寺村富熊村より、字足津村に至るまで、実に、十村一千町に達せり。

人或は、仁池の工事の過大なるを讒す。
叶次、之によりて、罪を獲て、退けられしが、幾くもなくして複が任用せらる。
叶次、心を池溝に専にし、老に及ぶも、娶らず。

弟、平次を養うて嗣となす。
其の後、始めて妻を迎え、子、太郎右衛門を生む。

七十四歳に至り、病を以て致仕し、富熊村に隠棲す。
後二年にして没す。
時に、貞享二年七月朔日なり。

村人、叶次の徳を慕い、厚く之を葬り、元禄十年、地を小字飛渡に相して、祠を建つ。
爾來、祭祀怠らず、今に至るまで、二百三十四年。
旱に雨を祈れば、必ず験あり。
頃者村 人相謀り、祠の由来を碑に刻せんとし、余が、其の後、裔なるの故を以て、文を余に需む。
乃ち、古記を探りて、其の大略を録すと云爾。

昭和五年十一月 
学習院教授正六位勲五等 古川喜九郎撰
従七位 泉田穀穂書





高松市香川町の
新地築造之碑



新地は、江戸時代初期に矢延平六が築造したと伝えられる。
平六は矢野部平六・伝六・兵六とも呼ばれた水利土木技術者で、浅野一帯の水利の乏しきを憂い、有志と謀り、地を卜し、香東川より取水せんと、暗夜に松明を用いて、土地の方位高低を測るなど、苦心惨憺し、多くの労力と歳月を費し、遂に川内原に面積二十六町歩の溜池を築造。
その後、連年、嘉穀を得るに至る。

伝承によれば、新地築造は、「高松城を水攻めにせんがためだ」との讒説が広まり、之により、平六は、八月三日、裸馬に乗せられ、阿波国へ追放さる。
農民達は、東奔西走して踪跡を求めしが、遂に探し得ず。
人々は、相集り、その恩に報いんと、新池を俯瞰する高塚山頂に、小飼を建立し、新池神社として崇めた。

神事は旧暦八月三日、浅野地区の人々によりて執行され、神輿の渡御は、神社から新池に到る沿道二キロにわたって行われ、その神幸の行列の様が滑稽であるがために「ひょうげ祭」と呼ぶ。

祭に用いられる神具一式は、農作物などで作られ、それらは、昭和四十年、香川県民俗資料の指定を受け、昭和五十年、香川県指定有形民俗文化財となる。

此度、新池神社の修復を機に、平六の偉功を偲び、祭の由来を刻したる碑を建立し、永く後世に伝えんとするものである。

香川町浅野土地改良区
昭和五十九年八月吉日
中原耕男撰
宮本正書



Q2:なぜ、ヤノベケンジと矢延平六なのですか。


ヤノベケンジ氏が水に興味を持つ自己のルーツを、ひょうげまつりの祭神の矢延平六と関係性に興味を持ったからです。

家系図的には、矢延平六以降の系図にはつながっておりませんが、矢延平六以前の家系図で、きっとどこかで、つながっているのではないかと考えるのもロマンです。

芸術は、集客も発信も大切ですが、それと同じく、人々の感動です。
その感動の光が照らし出すものは、私たちにとって足元の発見だと思います。

瀬戸内芸術祭で、海外や、県外の方々が、その芸術を鑑賞する為、大勢の方々が高松にいらっしゃいます。

そこで発見するのは、瀬戸内国立公園の海と島々と、山々と重なる美しい風景の財産です。
また、地域に根差す伝統の景色です。

私たちは、瀬戸内芸術祭によって訪れる人々によって、普段、何も知らず、気付かない足元の景色が、世界に通用し、人々に共感を与える、大きな財産だったことを逆に教えられています。

それが、瀬戸の海と島々と山々に囲まれる風景であり、栗林公園、四国遍路です。
しかし、「水のある景色」、讃岐のため池や水路なども地域文化の貴重な財産です。


今回の瀬戸内芸術祭で、ほとんど誰に知られず、伝説でいる矢延平六をとりあげ、水の文化を照らし、松平頼重、高松城、法然寺など江戸時代の高松独特の文化を照らし、ため池、用水路など、水を求めて工夫して生きて来た「水文化」をふるさとが誇る文化の財産として掘り起こし、世界の人々に共感と感動を伝えられれば、そこから次の観光文化振興のありかたを示すことができればいいと思います。

「水」をテーマに、ヤノベケンジ氏が、高松の足元にある、ふるさと文化の底から、矢延平六を釣り上げて、それがヤノベケンジ氏の次世代の芸術風景と共鳴して、あらたな文化を作るきっかけづくりとなればいいと思っています。



Q3:講師の南 正邦とは、どういう人物ですか。



南正邦
彫刻家
香川県美術家協会会員

1959年 高知県高知市に生まれる
高松幼稚園、亀阜小学校、紫雲中学校、高松第一高等学校卒
1981年 すいどーばた美術学院彫刻科修了。吉野毅、登坂秀雄、島田勝吾に師事。
1985年 東京造形大学造形学部美術学科2類彫刻専攻卒業。佐藤忠良、岩野勇三に師事。
1986年 第51回香川県美術展県教育委員会奨励賞(同賞94、09年)
1989年 二科展初入選
(以降90,92,94,95,96,97,98,00,01,02,03,05,06,07年入選)
第3回橋の美術展奨励賞
(以降90準大賞、91奨励賞、93奨励賞、94準大賞)
1989年 個展(宮武画廊、同95, 05年)
1989年 第12回国民文化祭・かがわ97美術展入選
2000年 高松市文化協会協会賞
2009年 ワンダーフェスティバル2009夏参加
2010年 「森村泰昌まねぶ美術史」(高松市美術館)制作
2011年 「トリック・アートの世界展 視覚の迷宮へようこそ」(高松市美術館)出品。
2014年 第79回香川県美術展 高松市教育委員会賞受賞
2016年 アンリデュナン像(日本赤十字社愛媛県支部)
2016年 エッシャーの世界展ワークショップ(高松市美術館)

高松市塩江美術館収蔵
高松市長 脇信男像(あゆみ園)

穴吹情報専門学校教務、穴吹デザインカレッジ教務を歴任

西日本放送法廷画家。
ふるさと研究会副会長。
共著「高松なんでもウォッチング」



Q4:彫刻家と書いていますが、どんな彫刻を作っていますか。



南正邦作品、ブログ内リンク

肖像彫刻

アンリ・デュナン(日本赤十字社愛媛県支部)

http://plaza.rakuten.co.jp/masakuni/004003


YouTubeにアップしているものです。


NHK高松情報BOXかがわオープニングタイトル

https://www.youtube.com/watch?v=3SgCntA-0RY


南正邦インタビュー1
https://www.youtube.com/watch?v=K0512l3oVv4

南正邦インタビュー2
https://www.youtube.com/watch?v=_SDt47WshEQ

南正邦肖像彫刻
https://www.youtube.com/watch?v=3kJ8WdMerT0

3DCGデータを手作業で立体造形(自動車編)
https://www.youtube.com/watch?v=ZveWb57IMuY

1995Mural Painting Work (高松市成人式舞台壁画製作)
https://www.youtube.com/watch?v=eMiv_O_9v-Q


ナオミ
https://www.youtube.com/watch?v=3kJ8WdMerT0

日赤県支部移転、新事務所の開所式・愛媛新聞
https://www.youtube.com/watch?v=e-f7qAeZ5VY

トリックアート、円柱鏡反映立体アナモルフォーシス。
https://www.youtube.com/watch?v=3BNCe7qPvmQ

エッシャーの滝の立体化ワークショップ
https://www.youtube.com/watch?v=Mh8QTMmV77Y

見てみMy高松(平成28年5月16日)
https://www.youtube.com/watch?v=MvZoeW7zrBI&feature=youtu.be

ワンダフルたかまつNEXT(平成28年5月21日)
https://www.youtube.com/watch?v=VoM7R1WvcyE&feature=youtu.be



ニコニコ動画


3DCG画像を10メートルに手描き
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6924110

1994年制作の3DCGアニメ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6921579c

1995情報ボックスかがわメイキング
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6925465

岡山研精堂印刷CM(アニメーションスタッフとして製作)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6924455


法廷イラスト

http://plaza.rakuten.co.jp/masakuni/diary/?ctgy=26


肖像画

http://plaza.rakuten.co.jp/masakuni/diary/?ctgy=24



カマタマーレ讃岐フィギュア

http://plaza.rakuten.co.jp/masakuni/5007/



スライスフィギュア

http://plaza.rakuten.co.jp/masakuni/diary/200808210000/

ワンダーフェスティバル2009夏出品
http://plaza.rakuten.co.jp/masakuni/5008/


Q5:なぜ、南正邦が矢延平六なのですか。



私の母親は、人形作家です。

香川町浅野出身で、高塚山の麓で生まれ育ちました。

昭和54年、香川町から、ひょうげ祭りの行列を人形で再現して欲しいと言う依頼があり、婦人会を中心に人形を製作いたしました。

その時、伝説の矢延平六の調査をしていくと、文献にはない、地元の伝承で矢延平六が生き続けている事を知り、それをまとめて本を自費出版しました。

その本の編集の手伝いをしたのが、私の郷土史研究のきっかけです。


南久榮(衣栄文)

昭和2年  香川町浅野で生まれる
昭和37年 日本人形作家協会会員
昭和38年 香川県知事認可各種学校 みなみ人形学校設立
平成11年 高松保健所 社会適応訓練協力事業所認定
平成21年 日本人形作家協会本部永世会員

受賞
平成4年  香川県知事表彰(福祉)
平成11年 厚生大臣表彰(福祉)
平成14年 香川県知事表彰(教育)
平成16年 高松市長表彰(福祉と教育)
平成18年 香川県知事表彰(精神福祉向上)
平成27年 瑞宝単光章

著書
わたしと人形
人形の里
人形と共に

矢延平六人形
NHK高松放送局ローカルニュース
845かがわ
2015年11月11日放送より

矢延平六人形
南久栄作



それから、母の縁で、香川町浅野農協から私に、ひょうげ祭りをPRする壁画の依頼を受けました。







その後、私は、文化懇談サロン座長、文化高松編集委員、を歴任
現在、香川風土記の会会員、香川学会の監査、ふるさと研究会副会長です。


高松藩の水利計画の考察
http://www.geocities.jp/m_minami1030/

私は、今、「香川の風土記」という同人誌に、「超読み大蔵経へんろ」という随想を連載して発表しています。



Q6:なぜ、ヤノベケンジと南正邦なのですか。


聞くところでは、高松市美術館の学芸員の牧野さんが、ヤノベケンジシネマタイズ展の準備をしていたところ、ヤノベケンジ氏から、「香川県に矢延平六という人物がいるそうだけど」と、持ちかけられました。
そこで、美術館の牧野さんが、矢延平六で検索すると、南正邦がヒットしたそうです。

南正邦は、その時、エッシャーの世界展のワークショップの打ち合わせなどで、牧野さんの眼の前を出入りしている最中でした。
そこで、牧野さんは、私に「矢延平六について詳しいそうですが」持ちかけてこられました。
私は、鳥肌が立ちました。へえー。レクチャーできますけど。

そして、その牧野さんが仲立ちをして、この企画が生まれました。

ヤノベケンジ氏に、白羽の矢を打っていただき、感謝申し上げております。

むしろ、矢延平六のリサーチによって、南正邦が地の底から掘り出されたというのが本当です。

南という誰も知らないけど、こんな人物も高松にいるという事を、美術館の講堂に展示されるというのが、私の感想です。




Q追加:南正邦は、今後、何を目指しているんですか?


専門は、肖像彫刻と銅像です。
サモトラケのニケのような彫刻を、積層法で作りたいと思っています。





http://plaza.rakuten.co.jp/masakuni/4000/


今回の香川県美術展覧会には、作品を出品する予定でしたが、時間不足と力不足で、出品を見送り、製作中の作品は破壊しました。来年の県展には、それを出品したいと思っています。

夏の、香川県文化会館で開催される、香川県美術家協会作品展では、銅像になった高松市長脇信男の胸像の原型を出品する予定です。


次は、この矢延平六リサーチプロジェクトで、紙芝居を描いています。それが弾みがついた内に、矢延平六像を造りたいと思っています。


いろんなプランが考えられます。4つのプランを考えてみました。

1、水路の測量をしている矢延像。
2、大勢の工夫に向かって工事の指揮をしている矢延像。
3、池が出来て、水がたまって満足している矢延像。
4、罪人として、裸馬に乗って追放されている矢延像。

私は、4の裸馬に乗って追放されている矢延像プランがいいと思います。
12月に展覧会がありますので、それに向かって試作を製作しようと思います。











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Last updated  2016.07.14 06:34:39 コメントを書く
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