三河の住人の庵

三河の住人の庵

年表 松平3代信光から8代広忠

 和   暦 
 西 歴 
  歴 史(主な出典「改正三河後風土記」) 
文明3年
1471
松平3代信光 安祥城を攻略
長享2年
1488
信光の死去により3男親忠 松平4代 安祥城主となった。
明応5年
1496
父の隠居により3男長親松平5代家督を継ぐ
永正3年
1506
今川氏親の三河侵攻を辛くも撃退。長親、嫡男信忠に家督を譲る
大永元年
1521
この頃 信忠3男康孝 西浅井城に入る
大永3年
1523
松平一門衆が6代信忠(34)を隠居させて、清康(13)に安祥松平の家督を継がせる
大永4年
1524
清康 山中城を攻撃して西郷信貞を屈服させて岡崎に進出
大永5年
1525
足助城を攻略
大永9年
1529
尾島(小島)城を攻略
大永10年
1530
尾張に出兵
大永11年
1531
東三河牧野氏の吉田城を攻め落とす
田原の戸田氏を降服させる。設楽の菅沼氏なども従属を申し出た
八名郡宇利城の熊谷氏を包囲、攻め落とした。ここに三河統一達成
天文4年
1535
尾張守山の陣中にて松平清康(25)が家来阿部定吉の子 弥七郎に殺される(森山崩れ)
仙千代(広忠)は阿部定吉を赦す
織田信秀が岡崎城を攻撃、井田野にて 清康祖父(長親)・弟(信孝)らが これを防ぐ
桜井松平内膳信定により松平仙千代(広忠)が岡崎城を追われる
仙千代(広忠)は阿部定吉・大久保忠俊の尽力により東条城吉良持広にかくまわれた。元服して広忠と名乗る
天文6年
1537
持広病死 以後 広忠は今川を頼る。義元の計らいで三河「牟呂城」に移される
松平広忠が叔父松平蔵人信孝、大久保忠俊の尽力により、岡崎城に帰城
桜井松平内膳信定が許しを請い 広忠、これを赦す
天文10年
1541
松平広忠、正室に緒川城主水野忠政の娘、お大を迎える
天文11年
1542
小豆坂の戦いで 今川・松平連合軍が織田軍に敗れる。 広忠に嫡子竹千代(家康)誕生
天文12年
1543
三ツ木松平信孝が広忠名代として駿府を訪問中広忠により所領を没収される。信孝は織田方へ奔り山崎城を築く
天文14年
1544
広忠正室お大の兄水野信元が織田方に付いたため 離縁。17年 阿古居城主久松俊勝に再嫁
広忠が安祥城を攻めるが撃退される。本多忠豊討死
天文16年
1547
渡川原で松平広忠が松平信孝を破る
竹千代(家康)を今川方に人質として出すが途中奪われて織田家に囚われる
天文17年
1548
3月小豆坂にて今川・松平連合軍が織田軍を破る
4月 松平信孝、岡崎城を攻めて明大寺耳取畷で討死
天文18年
1549
松平広忠 24歳で死去
2012.04.19作成

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