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継母が体調をくずし真夜中 救急車で入院したとの連絡があったが、「今すぐどうこうと言うほどではない」とのことだったから、そのまま病院に託した。10日ほどで医者から『経過良好で安定してきたから転院させる』と電話があった。救急車で転院するのかと思ったがタクシーだった。それでも転院先は継母がかかりつけの病院だしおん年95歳でもしっかりしているから大丈夫だろう。かかりつけの病院からはすぐに連絡があった。3月初めに帰省して担当医と話をすることにした。帰省する直前に電話があった。「順調に回復して、もう家で1人で生活出来る状態だから面談の日に退院してもらって構いません。」とのことだった。1ヶ月近く留守にした家に、そのまま連れ帰るわけにはいかないから退院は面談翌日にしてもらって家の掃除をすることにしたのだが、掃除・片付けが苦手の私に出来たのは、座敷に掃除機をかけモップで拭くくらいのことだけだった。帰宅するとすぐ訪問看護師がやって来て、薬の仕分けやらあれやこれやと面倒をみてくれた。継母との話は、あちらに飛びこちらに飛び、なかなか進まない。救急車を呼んだ日のこと夜中に調子が悪くて近所の「元」民生委員宅に電話して救急車を呼んでもらったのは「利用している「緊急通報システム」がつながらなかった」からだと言うシステム会社に電話して確認した。指示により「緊急連絡装置」のボタンを押した。作動しない!コンセントを抜いて入れ直したが不可。コンセントを別のコネクターに入れ直してボタンを押したら作動!元のコネクターをたどってみたら電源から抜け落ちていた。装置はあっても電源とつながっていないのを気付かず、ずっと過ごして、肝腎な時に役立たなかった。「緊急連絡装置」に通電ランプでも付いていれば一目瞭然なのにやはり95歳の1人暮らしは危ういのか。とは言っても今さら なあ。
2025/03/07
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大久保彦左衛門コレクションに加えた掛け軸が届いた。ほとんど読めない。Aiくずし字解読アプリ「Miuo」を使ってみた。意味が通じない少し修正してみた。堀田氏の六十一の賀に 七十五翁◯山逸民信之六十へて又老?か遊か◯か 筆?りなち? よ?をこめ其?たるこの竹のごとし彦左衛門忠教やはり何のことだかわからない。数年前までは 高校の古文教師だったという かみさんの知人にお願いしていたのだが、もう無理だとのこと。孫一に頼んでみることを思いついた。そうか、校内ではスマホ禁止なのか。上手に使えば勉強の足しになると思うのだが、あの年頃では悪用の危険の方が大きいかもしれないと納得。どこか他を当たるしかないかな。この掛け軸にある堀田氏というのをスマホで調べてみた。堀田正吉正吉は織田信長、浅野長政、小早川秀秋に仕えたが関ヶ原後 秀秋が亡くなると慶長10年、義母春日局の縁により500石で家康に仕えた。子の堀田正盛は3代将軍の寵臣子正盛の異例の出世をよろこんだが,身分の低い父がいては足手まといになるとして,寛永6年2月17日自殺したといわれる。自殺したのが59歳では61歳(還暦)の賀は変なのだが、彦左衛門より11歳年少。さらに最近 図書館でコピーしてコレクションに加えた「干城録」に堀田正盛と大久保彦左衛門の逸話があった。 大久保彦左衛門忠教が堀田加賀守正盛の屋敷を訪れ、武道のことや昔の武将たちの功績について語り合った。 正盛が「今の武将は昔よりも心構えが良い」と述べたのに対し、忠教は「たしかに今の武将たちの方が昔の武将たちよりも気概は強く感じられます、しかし心構えの良し悪しは時代に関係なく、貴殿(正盛)の父親も特段武勇に秀でていたわけではありません(戦場で首一つ取ったことはない)」と反論した。 これに正盛は激怒し、言い争いになりかけたが、周囲の人々が仲裁に入り、事態は収束した。先の掛け軸は後世の誰かが、この話に触発されて書いたものと思うのだが、肝心な掛け軸の文章が読めないのだから、どうにもならない。山口市に住む同級生に助けをもとめたのだが習字の先生をあたるか
2025/03/01
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財布の中のカードを減らして行くことにした。先日 セブンイレブンのカードを使い切った、今後チャージはしない、代わりにコンビニではすべて楽天edyカードを使うことに決めていた。ところがAuのポイントが貯まっていることに気づいた。昨秋 スマホをAuからUQに乗り換えたため、ポイントが かみさんのカードにチャージされなくなったみたいなのだ。私のAupayカードは一度も使ったことがない、試しに貯まったポイントをAupayアプリにチャージしてみた。今日、セブンに買い物に行きアプリで支払いしてみた。スマホを差し出して一発で行けた!いちいち財布からカードを出さなくていいのは すごく楽だな。世の中 すごい勢いで変わっていくもうじき免許証がマイナカードに入るという。今日、スマホでレンタカーの予約をしたら免許証No.を入れなければならなかった。マイナカードと合体したら どうやってNo.を調べるのやら。変化のスピードについていけるか心配になってきた。
2025/02/26
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寒くて遠出する気にならない。と、言いながら先日は遠州二俣まで「大久保彦左衛門」の手紙「原本」を拝みに出かけた。手元に実物大の写真印刷を持ってはいても、現物を見たという経験は、何ものにも代えがたいのだ。これが呼び水になったかのように、彦左衛門コレクションに新たに加わるものが見つかった。ヤフオクで2点立て続けに落札したのが「模写」とあっても本物もあるのだが、この画は「彦左衛門忠教」の落款はまだしも右隅に「魚屋太助」の名がある。明らかな偽物に「送料込み6000円」はどうかと思ったが見逃せば2度と出会えないと思って落札した。いずれ彦左衛門偽物グッズとして分類しようか。こちらは「435円」ゴミなのかタカラなのか届くまでわからない。彦左衛門についてスマホで調べていたら江戸時代一万石未満の直臣の事績を記した「干城録」という署名に当たった。古本屋ネットやamazonにあったが何冊もある全集で、どれに大久保彦左衛門がでているのか調べようがない。岡崎市図書館に出かけたら「徳川家康文庫」にあるとわかった。干城録(五)にそれはあった。見開きページコピーしたら12ページあった。古文書解読アプリ「Miwoみを」を使って文字起こし出来る範囲で校正して今日まで4日がかりで、なんとか解読できそうだ。これにて「彦左衛門コレクション」にまた1点追加とあいなります。
2025/02/25
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昨夜の日記、飲みながら書いていて尻切れトンボになってしまった。せっかく用意していた週刊新潮のコラム『生き抜くヒント』の全文をあげておく。『生き抜くヒント』 五木寛之忘れ得ぬ言葉とは?こんど新潮選書から『忘れ得ぬ人忘れ得ぬ言葉』という新しい本が出た。私が月刊雑誌に六年あまり連載した文章を一冊にまとめたものである。これまでに出会った人々の回想記といえば月並みだが、人物スケッチのような文章だ。毎月一人ずつ書いてきたので、相当な分量になる。どうしても一冊には収録できないので、その中から四十六篇を選んで収録した。それぞれその世界で一家をなした人々ばかりだが、五十年以上親しくつきあってきた人もいるし、三〇分たらずの一瞬のふれあいだった人もいる。自分の本の紹介をするのはむずかしいものだ。ここは編集部が裏表紙にそえたコピーに代行してもらうことにしよう。<「チグハグさ」が魅力の寺山修司の才能、小林秀雄が漏らした死の真実、墓場までイメージを背負って去った八千草薫、徹夜麻雀で見せた秋山庄太郎の悪ガキ振り、瀬戸内寂聴との長く不思議な縁、徳大寺有恒がヤクザ映画の主人公のように放った一言、追放者である人間の印を「刻印」された三木卓――。甦る昭和の思い出46篇>いかにも新潮選書らしい気品のある宣伝文だ。そもそもゴシップ的要素のつよいこの本が、新潮選書の一冊として世に出るということ自体が異色だろう。書店でも新潮選書のコーナーが独特の空気を漂わせていることは読書人なら誰もが感じていることではないか。良い意味での〈教養〉とか〈知性〉といった最近失われつつあるオーラが、その棚には漂っているからである。今回の『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』は、かなりお行儀の悪い連載だった。城山三郎さんの発言にしても、矢崎泰久氏のミュージカル体験談も、とても本当とは思えない本当の話である。著者としての不安こんどの本に収録されている四十六人のお名前を列記させていただく。(敬称略)寺山修司/德大寺有恒/小林秀雄藤子不二雄四/犬養道子/深作欣二/八千草薰/秋山庄太郎/三木卓/ノリチャード・アヴェドン/石岡瑛子/城山三郎/芦田伸介/瀬戸内寂聴/林達夫/大原麗子/立松和平/加藤唐九郎/和田誠/阿佐田哲也/小島武夫/高田好胤/ワルワーラ・ブブノヴァ/野坂昭如/浦山桐郎/池島信平/桃山晴衣/奥野健男/星野哲郎/杉村春子/C・W・ニコル/藤澤武夫/岸洋子/井上靖/石川順三/矢崎泰久/馬淵玄三/田村泰次郎/野村沙知代/高橋和巳/吉岡治/沖浦和光/ローレンス・ダレル/野見山暁治/半村良/父,信藏。紙数の関係で、今回の本に収録できなかったかたがたのことは、あらためて別の機会にとりあげさせていただきたいと思う。編集部で作成した本のオビには、〈心を打たれた何気ない呟き、手紙〉〈ふとした言葉があなたを癒す珠玉〉とあるが、著者としてははなはだ不安だ。なにしろ人によっては、すこぶる行儀の悪い発言や、シモネタふうのエピソードも含まれているからである。「絶対に本当です」なかでも、故・矢崎泰久氏のオーストラリア旅行の際にシドニーで観たミュージカル『ヘアー』の話は、とうてい本当とは思えない。もし、本当なら、私は人間観を変えなければならないような気がする。一部抜粋して御紹介しよう。〈あるとき、矢崎氏がオーストラリアへ出かけてきたとで、土産話を聞いたことがある。「五木さん、シドニーで話題のミュージカル〈ヘアー〉を観ましたよ」「ほう。オーストラリアでもやってるんですか。どうでした?」「凄いです。あそこも全部出します」「それは、それは」「幕があがると、出てくる男の俳優たちが、観客のほうへずらずら並んで行進してくるんですが、これが驚いたことに――」「裸ですってね」「そう。しかも、全員、見事に直立しているのです」「まさか」「いや、本当。立派なものです」「でも、そんなことが可能なんだうか。信じられない」と、私。「幕の背後で、何かウォーミングップでもするんじゃないでしょうか「なるほど」「それが愉快なことにですね、行進している間に少しずつダウンしてくる奴が出てくる」「実るほど頭をたれる稲穂かな―というやつだな」「ところがこれも個人差がありましてね、終始一貫、身を屈せずに巨砲を天に向けているのもある」「血圧の問題かもね」「それにくらべて、こんなにちっちゃく、ほらここにあるピーナツみたいになっちゃって、ヘアーの中に身をひそめ、見えなくなっちまうのもあるのですね」「ありうることだ」「見ている観客の顔がまた面白い。しごく淡々として明かるかった」「いい話だねえ。だけど、その話、嘘でしょう?」「いや、絶対に本当です」>と、こんな調子だ。新潮選書、大丈夫だろうか。※※※※※※※※※※※※※※以上週刊新潮から無断掲載です、週刊新潮及び新潮新書『忘れ得ぬ人忘れ得ぬ言葉』良かったら読んでみて下さい。
2025/02/21
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かかりつけ医院で血液検査を受けようと一昨日はノンアルデイとしたのに、昨日は寒くて出かける気にならなかった。検査を1日延ばすことにして、ノンアルデイも1日延ばした。今朝はなんとか医院に行ってきた。2日間のノンアルが楽々出来たのだから「アル中」(今はアルコール依存症と言うらしい)ではないと、ひと安心。これで検査結果が良ければ、言う事なし なのだが、果たして?たまにノンアルでは、体調に変化はないのだが、飲まない夜は 長い。おかげで、借りてきた本が読める。五木寛之は学生時代、同じ山口県出身の先輩が直木賞受賞作品の「さらばモスクワ愚連隊」の載った雑誌を持ってきて「読め」と置いて行って以来 たまに読んでいて、最近は週刊新潮のコラムを愛読している。借りてきた本は「五木」が かつて関わりのあった著名人の『言葉』をコラムに記していたものだ。目次を書き写してみた五木寛之『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』はじめに寺山修司48ぼくはあなたよりも、あなたが読んでいる本に興味があるんだ德大寺有恒75命、お預かりします小林秀雄81人間は生まれた時から、死へ向かってとほとぼ歩いていくような存在です八千草薫88激しい豪雨ではなく日本らしい雨期になって欲しいです秋山庄太郎83鍛えれば歯茎でスルメでも噛めるんだ三木卓88ぼくらは同じ刻印を背おった人間だから藤子不二雄A88みんな薄情なんだなあ犬養道子96世の中はちょっとルーズなほうが住みやすいのよね深作欣二73嘘をつくなら壮大な嘘をつこうリチャード・アヴェドン81わたしが撮ると、すべてが美しくなってしまう石岡瑛子74優秀な人ばかりで作りあげた仕事は、百点はとれても百二十点はとれない城山三郎80この人、君のお古じゃないんだろうね芦田伸介82人生、思い通りにはいかないものです瀬戸内寂聴99鏡花賞ほしいから選考委員やめようかな林 達夫88その土地に根ざしたものより、移植されて育った植物のほうが強い大原麗子63やっぱり体温が伝わってくるって、いいね立松和平63仏教は因果を説く宗教ではない加藤唐九郎88男なら必ず振り向かなきゃ駄目だ和田 誠83絵は結局、相手が描くんだよ阿佐田哲也60普通の職業につきたかったな小島武夫82麻雀はプロだが、歌は素人だからなあ高田好胤74新しい割り箸を使って、そのまま捨ててしまうのは勿体ないワルワーラ・ブブノヴァ97詩は読むものではありません。歌うものです野坂昭如85おれは徹底的に偽悪を演じるから、あんたは偽善に徹してくれ浦山桐郎55原作をどう毀すか、ということ池島信平64どんなに立場のちがう人とでも、会って話をしなさい桃山晴衣69母音を美しく発声するには、口をあまり大きく開けないことが大切なのに奥野健男71これだけ僕が推しても、駄目ですか星野哲郎85歌も芝居も、ダレ場というものが必要なんじゃないのかな杉村春子91あなた、トモコと仲良しなんだって?C・W・ニコル80きちんとひげを剃る。そんなタイプの男が、いざという時に強かったんです藤澤武夫78若者には祭りが必要なんです岸 洋子57これ、なんだろう。フカヒレかな?井上靖84「わたしの城下町」みたいな歌を書いてみたいと――石川順三82ジャズってチンドン屋の音楽だよね矢崎泰久89しごく淡々として明かるかった馬淵玄三74うまい歌じゃなくて、いい歌をききたいんだ田村泰次郎72外国人に気やすく謝っちゃ駄目だぞ野村沙知代85同じ大変な年に生まれたんだから高橋和巳40この俺にマンボなんか踊らせやがって吉岡治76いまは童謡の時代ではないのかもしれない沖浦和光88あの海にはね、一生ずっと船の上で暮す人々がいたんだよローレンス・ダレル78年老いた作家には、これしかないんだよ野見山暁治103べつに、なーんもしてません。ただ絵を描いてるだけですよ半村 良69えっ? キョウカショ?父·信藏寝るより楽はなかりけり。浮き世の馬鹿が起きて働くおわりに名前の後ろの数字は、その人の行年をわたしが付け加えた。五木が文中で述懐している言葉は、私も同感である『人が世を去るのに、ちょうど程のよい年齢というのは何歳ぐらいだろうか。このところ友人、知己の計報を聞くことがやたらと多い。かつて仕事で競い合った仲間も、同世代の書き手も、つぎつぎと去っていく。長生きしてうれしいというより、取り残された寂寥感のほうが、はるかに大きい。』知らない人もあるが、ほとんどは知っている。中でも高橋和巳の作品は、学生の頃 愛読した。五木寛之と交流があったというのは初耳、高橋和巳『この俺にマンボなんか踊らせやがって』(無断で全文コピーさせていただく)様になっていた高橋和巳の踊り高橋和巳は優れた作家である。「我が心は石にあらず」とか『邪宗門」、「悲の器」などを聖書のように持ち歩く学生たちもいた。石原慎太郎とは対照的な文学者だったと言っていいだろう。生前の高橋和巳とは、一度だけ一緒に旅をしたことがある。九州大学の学生に呼ばれて講演をするために福岡を訪れたのだ。ちょうど地元の祭りの日だった。講演会場にもその大きな音が伝わってきて、落着いて話ができなかったことを憶えている。その夜、一緒に夕食をしたあと、私が誘って中洲の繁華街にある一軒の酒場へいった。客席の横にちょっとしたフロアがあり、バンドの演奏で踊れるようになっている。酒にに弱い私は、すぐに酔っぱらって、高橋和巳をそこに引っぱりだした。「さあ、踊ろう、高橋さん」彼はしばらく躊躇していたが、やがて意を決したかのごとくゆらゆらと動きだした。マンボの曲が鳴っていたが、まったくリズムには合っていない。「ほら、こういうふうに動くんだよ」と、私は手を取ってステップを教えた。前後に足を動かすだけの簡単な動作である。かなり酔っていた高橋和巳は、意を決したかのようにリズムに合わせて、不器用に体を揺らしはじめた。まったく踊りにはなっていない動きだったが、それはそれで様になっている感じだった。「こんなのオレには合わん」と彼は言い、やがて席にもどって飲みはじめた。博多にいくと思い出す光景やがてその店を出て、私たちは川ぞいの露店の並ぶ道を歩いた。柳の枝ごしに空に星がまたたいているのが見えた。酔った私たちは、川岸の人気のない場所で並んで立ちションをした。しぶきを飛ばしながら彼は吐き捨てるように言った。「この俺にマンボなんか踊らせやがって」「マンボはラテン・アメリカの民衆の音楽だよ」と、私は言い返した。彼は何か反論しようとしたが、肩をすくめて黙ったままだった。それから私たちは夜の街をさまよい、薄暗い一軒の酒場にはいった。ギターを抱えたゲイの主人が、すぐに高橋和巳に気がついて、「うれしか。ようきんしゃったね」と彼とごつい手で握手をした。「わたしね、あんたの本、何冊も読んどるとよ。ほんなこて、うれしか」そしてギターをかき鳴らして、何か行進曲のような歌を口ずさんだ。「うちはむかし、筑豊で炭鉱の組合の専従やっとったとたい。いまはオカマやけど」酔いの回った高橋和巳は、うん、うん、そうか、とうなずきながら、うとうとしはじめた。あれは、何十年前のことだっただろう。博多にいくと、いつもその夜のことを思い出す。高橋和巳 大阪府生まれ。京都大学文学部中国語中国文学科卒。一九六二年、河出書房文藝賞第一回長編部門を受賞した『悲の器』で注目を浴びる。その後も『散華』『邪宗門』など大作を発表。六七年、京大文学部助教授になるも、学生紛争で学生側を支持し、七〇年に辞職。妻は作家の高橋たか子。文中の「博多の酒場のギターを抱えたゲイの主人」が、後の『戒厳令の夜』に出ていた。というように酒を飲まない夜は、なかなか濃い時間を過ごせるようだ。とはいえ「人生、酒なくてなんの己が桜かな」「酒だ酒だ、酒買うてこい」(浪速恋しぐれ)今日は、酒買いに行った。帰りがけ、生食用広島牡蠣を買って夜になるのを待ちかねて酢牡蠣にした6時、酒の燗をつけテーブルに並べたパック入りの生食用生牡蠣は、余りに薄い容器だったので、気付かず2枚重ねでカゴに入れて買って来てしまった。余った1枚はかみさんに渡したら、彼女も食べれる牡蠣フライにしてくれた。なんだかよくわからないのだが先に飲み始めても今夜はかみさんの機嫌が良いのだ。おかげで久しぶりに3合の酒を飲んだ。酔った!!酔った。
2025/02/20
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古い話から始めようまだ街道ウオーキングにのめり込む前は城郭巡りに熱中していた。2007年10月、城郭探訪仲間のGさん運転の車で小田原城、駿府城を巡ったとき、駿府の華陽院に立ち寄った。ここは徳川家康が人質時代 世話をしてくれた祖母「源応尼」の墓所、家康の末娘「市姫」の墓もある。墓参りをしていたら柿が色付いていた、家康公お手植えというような説明がしてあった。記念に1個失敬した。残念なことにGさんの帰宅後、車に積んだままにしていたのを思い出した。次は2009年6月のこと静岡駅からのウオーキングで久能山に立ち寄ったときのこと。東照宮の境内に「家康公お手植え」の『実割梅の木』があった。見れば根元に梅の実がたくさん落ちている。この梅の実を10ケばかりいただいた。すぐ横には「家康公ご遺愛」の『八房梅』がありこの梅も少しばかり頂いて持ち帰って梅酒にしたら、得も言われぬ香りの酒になった久能山東照宮の梅で作った梅酒もうひとつ2017年春、長崎から江戸まで「享保の象道中」を歩いた各地で象のエサを用意したという、藁、米、笹の葉、草、麦まんじゅう、ダイダイ、九年母この九年母(クネンボ)というのがよくわからなかったのだが三百五十里(約1400km)を歩いて東京の浜離宮に到着したら 九年母の実が成っていた。この木は誰が植えたかしらないが、将軍吉宗公の時代には、ミカンといえば九年母を食べていたらしい。根本に落ちているのを拾って食べてみたかが美味しいとはいえなかった。さて15日の浜松市天竜区で立ち寄った徳川信康菩提寺「清龍寺」の境内には「家康公お手植えのミカン」の木があった。駿府城にある本物のお手植えミカンの木から増やした苗木をここに植えたとある。12月に地元の人たちが残らず収穫したらしかった。「信康廟」にお参りしたあと本堂にもお参りして帰りがけ ふと見るとお手植えミカンの木はもう一本あった。なんと、そちらの木に、たった一つだけれど小さなミカンが成っていた。これを頂いて帰った。右の小さなのが「家康公お手植えミカン」直径3cmほど。これはたぶん子供の頃、毎年末 親父が店で売っていた佐賀県の「葉つき蜜柑」と同じだと思う。このミカンは食べるよりも正月のしめ飾り用に売っていたのだ。調べてみたら「葉つき蜜柑」は江戸時代「キシュウミカン」と言っていたという。紀伊国屋文左衛門が船で江戸へ運んだ蜜柑はこのキシュウミカンだったらしい。さらに 2016年に「農研機構」のDNA鑑定により、ウンシュウミカンの親が”キシュウミカン”と”クネンボ”と推定されました。そうである。奇しくも 私が失敬した「由緒ある柑橘」が温州ミカンの両親であったという話でした。、
2025/02/17
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15日には、浜松市天竜区にある「内山真龍資料館」を訪ねて「大久保彦左衛門 詫び状」の本物を見ると決めて列車の時刻を調べておいた。そしたら身障者ETC割引手続き完了の通知が届いた。列車はやめて車で行くことにした。「岡崎東インター」から「浜松浜北インター」まで「新東名高速道路」を使った。出口料金所の料金案内に『割引』の表示が出た!無事、割引料金が使えることがわかった。昨年5月にも訪問したのだが、彦左衛門詫び状は展示されてなかった。今回のイベントでは展示されていて、実物を見ることが出来た。できれば写真に撮りたいと思ったのだが『撮影禁止』だった。手元に昨年、ここの職員が見せてくれた資料を撮ったのがあるから、不鮮明だが良しとした。列車で行ったのだったら、これで帰るところだが、車だから ついでに彦左衛門の聖地巡りと決めた。まずは二俣城址天正3(1575)年5月「長篠合戦」で織田・徳川連合軍は武田勝頼の軍に勝利、勝頼を甲斐に追いやった。その勢いに乗って家康は遠州北部の奪還を図り12月には「二俣城」を取り戻し、彦左衛門の兄大久保忠世を城主とした。この年16歳で元服、家康に御目見得を果たした彦左衛門も二俣に移り住み、翌天正4年7月「第2次犬居城合戦」に初陣 首級をあげた。以後、兄忠世に従って各地を転戦した。その頃、戦いの合間に天竜川を渡り向かいの小高い丘の上に鎮座する「椎ヶ脇神社」を訪れた彦左衛門、神社の奥にあった岩を崖下に落とした。晩年になって、このことを思い出し詫び状に添えて金子3両を使いに託して神社に奉納したということだ。昨日は二俣城から清龍寺に立ち寄り最後に椎ヶ脇神社に参詣した。鳥居を過ぎ本殿に参拝、さらに奥に行くと、坂上田村麻呂を祀った祠があった。祠のさらに奥に行くと木の間越しに天竜川が見下ろせる場所があった。彦左衛門は たぶん、このあたりにあった岩を、いたずらに落としたのだろう。『特に人を遣わしました。 私、若い頃にそちらの椎ケ脇さまへ愚かなことをいたしましたこと、当時なんの分別心もなかったことゆえお許し下さい。 私も年を取りまして、そのころのことは思慮の足りない考え違いであったと、現在だったら後悔いたしております、そちら様はさぞお腹立ちであったろうかと存じます。 それで金子3両をお送りします、これでは大層なことはできないかとは思いますが、今のお社はさぞ結構なものであるでしょうから、そのかたわらに、この金子に見合うものをお建てください。 これは右ご無礼をお許しいただきたく印ばかりのものです。もっと大そうなものにしたいとは思いますが 神様のお見通しの通り小身者ゆえにできませんで心ばかりの寄進でございます。 これから出世することがありましたときには、もっと多くの寄進をしたいと思いますが、今の身分ではできなくて、多くの寄進をしたいという思いばかりでございます、恐惶謹言十月廿五日 大久保平助 忠教(花押)かじま孫丞殿人々御中 なお、右のことをよくよく聞かせて金子3両を持たせました。 この者から小判をお受け取りくださるようよろしくお願いいたします。 以上 』この手紙が400年の間 この地の筏問屋田代家に残されていたのは、当時「大久保彦左衛門」という旗本の名前がこの地まで伝わっていたということだろう。
2025/02/16
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11月に身体障害者手帳4級(聴力障害)を交付された。その後、高速道路ETC料金減免Net申請をしたのだが、添付した車検証の一部に不備があるから送るようにとのメールが届いた。すぐに写真を添付して返送しておいたのだが、年が明けても「ナシのつぶて」変だなと、保存していたメールを読み返していたら「このメルアドは通知専用であり返信には使えない」ということが書いてあった。あらためて申請用ポータルから、必要書類総てを送った。今日「オンライン申請手続き完了通知」が届いた。今さら高速料金が半額になっても それほど助かりはしないのだが ものみな上がるこのごろだから料金半額というのは なんとなく嬉しい。大久保彦左衛門の聖地巡りにでも利用するかな。
2025/02/12
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「朝鮮通信使の道」という本を読んでいる。その中の一節『韓国では、サツマイモをコグマという。これは、対馬の孝行芋が訛った言葉である。凶作、不作のとき、サツマイモは役立つ救荒作物である。日本伝来は薩摩の地で、唐芋といわれた。対馬には自生していなかった。対馬の農政学者、陶山訥庵から、そのような話を聞いた原田三郎右衛門は、薩摩に2度潜入して種、生根を仕入れ、 対馬への移植に成功する。栽培にも余り手がとられず、食糧難の時に役立つということから、孝行芋と呼んだ。 対馬で一般的なこの名称が江戸時代、1764年の朝鮮通信使によって朝鮮に持ち帰られ、コグマといわれる。 その橋渡しをしたのが、正使の趙●【日に厳】(チョウム)だった。釜山市・影島に、それを伝える歴史公園があり、コグマを籠に背負った男性のブロンズ像が立つ。そばには馬の像もある。〈中略〉影島のチョネギという場所で栽培されたので、最初はチョネギコグマといわれたそうである。影島区では、サツマイモ歴史公園を設立し、韓国でその発祥の地として国内外にアピールしている。 江戸時代、朝鮮通信使が計12回、漢城と江戸(東京)の間を往復した。その外交使節がもたらしたなかに、民衆のためになる作物があった。』日本では、サツマイモは青木昆陽が広めたということを、ジジは小学校の頃読んだ。日本偉人伝で知った。あらためて調べてみたら目黒区・歴史を訪ねて 甘藷先生に行き当たった。要約『青木昆陽は、サツマイモの普及に尽力した人物で、甘藷先生として知られています。享保17年(1732年)に大飢饉が発生し、多くの死者が出ました。昆陽は、甘藷が痩せた土地でもよく育つことに着目し、「蕃薯考」を著して幕府に献上しました。これが将軍吉宗の目に留まり、甘藷の試作を命じられました。小石川御薬園で試作を始めた昆陽は、一度失敗したものの、二度目に成功しました。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷栽培が定着するきっかけとなりました。』2007年の第1回から1日だけ参加している「21世紀朝鮮通信使ウォーク」に今年も参加しようと思っている。今年は10回目だが爺のこれまでの参加は5回、今度は6回目。今年は大阪万博の混雑を避けて3月初めソウル出発、4月下旬東京着になるらしい。爺の参加は4月中旬になるかな。
2025/02/10
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朝、起きたら、この冬初めての積雪!今夜は雪見酒と決めた。娘たちにLINEしたら、名古屋の3女からわが家の周りの雪は、昼前には溶けたが今夜は「佐久の花」7号酵母と決めた。7号酵母というのは長野県諏訪の宮坂醸造発祥で、「真澄」は何度も飲んできた。 少し前、Facebookのしもじさんが写真をあげていたのを見て、「佐久の花」も同じ酵母を使っていることを知った。佐久の花だったら岡崎市の荒川酒店で見たことがある。昼食後、車を走らせて訪問佐久の花の品揃え沢山!「D酵母」などという面白そうなのもあったが、燗酒もいけるというのを選んだ。帰りがけ、タラの白子とサンマの刺身を買ってきた。夕方5時、タイガに餌をやり酒の肴に取り掛かるタラの白子を良く洗い、ひとくち大に切り分ける大根に鷹の爪を突っ込んで「モミジおろし」湯を沸かして白子を茹でる器に盛り、サンマの刺身を皿に移すあとは酒の燗をするだけ。かみさんが夕飯の支度を始めた、鍋の準備をしている言われて ガスコンロの準備をした。酒の燗をつけるテーブルに酒の支度をして写真を撮る台所に戻るとかみさんの機嫌が悪いかまわず鍋が出来るまでに一献うん?7号酵母って こんな香りだったかな?とかなんとか思ってる間に1合飲んだサンマの刺身が終わったころ 鍋が来た、寄せ鍋タラの切り身を最初に食べたでもう1合食べ終わる頃には かみさんの機嫌も治ったような気がする。
2025/02/08
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今年は「大久保彦左衛門コレクション」集大成の年と決めている。暖かくなったら彦左衛門の聖地巡りにでかけようと思っているが、それまではコレクションのまとめでもするか。手始めに最近あまり使わなくなったパソコンを立ち上げて2020年以来更新していない彦左衛門関連書籍リストをプリントした。このリストを作ってから4年あまりの間にコレクションは増えている。整理してリストに加える作業を始めようかと思ったのだが、関連する書籍に明治、大正の文豪の名前がない。藤村、鷗外、龍之介と調べてみたら「夏目漱石 大久保彦左衛門」で1件ヒット! 早速、青空文庫の「野分」を覗いて見た、ページを進めるのだが、なかなか大久保彦左衛門の盥登城に行きつかない。古本でも買って調べようとしていたらヤフオクにたどり着いた。思わず「入札」した。落札。送られてきた本を「野分」冒頭の373ページからパラパラパラパラめくった、380ページ.見つけた!「「したがって拘泥を解脱するには二つの方法がある。 他人がいくら拘泥しても自分は拘泥せぬのが一つの解脱法である。人が目を峙(そばだ)てても、耳を聳(そび)やかしても、冷評しても罵詈しても自分だけは拘泥せずにさっさと事を運んで行く。大久保彦左衛門は盥で登城した事がある高柳君は彦左衛門が羨ましくなった。」たったこれだけ?さらにページをめくった、660ページ「終わり」たった あれだけだった。やはり純文学の御大には、「大久保彦左衛門」など作品の対象にはならなかったのだ。夏目漱石は「三方ヶ原の合戦」に徳川家康の身代りで討死した「夏目広次」の子孫だと聞いていたから、大久保彦左衛門にも関心があるかと期待したのだがどうやら、夏目広次は漱石のや先祖ではなかったらしい。早とちりで高いものを買ってしまったようだいやいやたとえほんの数行でも、あの漱石の「野分」に大久保彦左衛門にふれた文があるちらっとしか出てこないがこの本は大正十四年発行の貴重な書籍(30刷だけど)著者名が夏目漱石ではなく「夏目金之助」ということでコレクションリストに加えることにするか。
2025/02/06
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里見八犬伝といえば、子供の頃 中村錦之助と東千代之介の映画を見た覚えがある。小学の頃だから内容ほとんど覚えていないのだが姓に犬の字がつく八剣士の物語だったということはかすかに覚えていた。昨年、図書館で山田風太郎の「八犬伝」を借りて読んだ。山田風太郎といえば高校の頃「忍法シリーズ」が人気で悪童仲間で回し読みしていた。「くの一忍法 筒枯らし」なんて文章に夢中になったものだ。山田風太郎原作の映画「里見八犬伝」を昨日、amazonプレミアムビデオで見つけて視聴した。八犬伝の物語の展開と作者「滝沢馬琴」の日常、浮世絵師「葛飾北斎」との交友。原作の方が奥深いかと思うのだが、映画で気付かされたことも多く、面白かった。
2025/02/03
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月もおぼろに白魚の篝(かがり)もかすむ春の空、冷てえ風もほろ酔いに心持ちよくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽、ねぐらへ帰る川端で、棹のしずくか濡手で粟、思いがけなく手に入る百両、ほんに今夜は節分か、西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落し、豆沢山で一文の銭と違って金包み、こいつァ春から縁起がいいわえ。節分だそうですが、わが家には「太巻き」も「鰯」もありません。豆まきだけはやりました。鬼は外福は内夕飯の支度が出来るまで豆を肴に焼酎の「お湯割り」しばらく寒い日が続きそう
2025/02/02
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買い置きの日本酒が切れたので昨夜は久しぶりのノンアルデイにした。夜中にトイレに行くこともなく ぐっすりねむった。寒さがぶり返したのに かまわず散歩に出かけた。川面が凍っていた。1月は暖かい日が多かったが2月は寒い日が続くと天気予報が言っている。寒いとウオーキングサンダルで出かけられないから困る。サンダルだと足指にしもやけができるのだ。今日 朝と午後の散歩はウオーキングシューズで歩いた、合計8000歩。それだけで1日が終わった。かみさんはプールだった。2月の予定は ほとんど白紙だが、かみさんはすでにびっしり。かみさんは年中この調子、感心するなあ2月後半にはジジも出かけるかな浜松市天竜区の内山真龍資料館ここには大久保彦左衛門の「詫び状」が保管されているのだ。拝見出来るかどうか問い合わせしてみるか今、午後8時 今夜もノンアルデイとする予定でいる。できるかな?
2025/01/31
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今週はこれと言って予定がない。することがないと歩くしかないから日曜日から4日間 毎日一万歩超え。健康的な生活みたいだが歩いた後は酒が美味いつまみなどなんでも良い昨日と今日2日で4合瓶が空いた。飲み過ぎ?このところ量を減らしていたから酔いが少し増したかな。というわけで体調はすこぶる良い。良い酔いよい
2025/01/29
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前回の免許証更新から3年目、今朝「認知症機能検査通知書」が届いた。3月下旬、警察署で受験勉強することになっている。ねらいは「高齢者の免許証返納」都会であれば公共交通網がしっかりしていて免許証などなくても構わないかもしれないが田舎住まいだと車が使えなければ簡単にはどこにも行けない。高齢者が免許証返納をすれば家に閉じこもることが多くなる家に閉じこもっていると「ボケる」かくして日本中に認知症老人が大量にはびこることになるボケたくらいではなかなか死なないから老人医療費はどんどん増えることになるのは必至認知症検査などと「嫌がらせ」をやるより、安全装置の着いた車を推奨するほうがよほど気が利いていると思うのだが、違うかな
2025/01/27
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このところ暖かい日が続いて庭にメジロが 頻繁にやってくる。ミカンの買い置きが心細くなって、次女宅の庭から採ってきてもらった「デコポン」まだしばらく熟成させた方が甘くなるのだがこれを半分に切って庭木に吊るしている。酸っぱ過ぎるかと思って砂糖を塗っていたのだがポンカンの味になれたのかそんなことしなくてもちゃんとやって来て食べるようになった。この頃は2羽がお揃いでやって来てジジババを楽しませてくれる。このまま春になるような気がする暖かい日が続く
2025/01/23
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我ら庭前の柬埔塞(かぼちゃ)ども貴殿方へ乱坊致し候て御憤之由御堪●成がたく皆御手討の由何分恐入候去ながら我ら庭前にて成長致候物と存候へば一入不憫に思はれ候間我ら懇ろに葬り度候付死骸ハ残らず御返し可被下候と申遣し釣台にて残らず引取たり近藤ハ又しても親父めに一はい喰しと思へども其戯れし頓才を感じ猶其後は無二のなかとなりにけり是ハ扨おきその頃御城内御本丸の御玄関の傍に小便所ありて大名旗本登城のをりミなここに来りて用弁を達しぬ大勢のことゆへ無沙汰によごす族も多かりせバ次第に広がりてそのはだ奥気はなハだしく松平伊豆守このはなはだ尾籠の事とおもハれこの処を破却なしたり此後この辺にて小用を達す者あらば過金として銀三枚さし出す可きもの也と厳重に制札を建られけり然るに彦左衛門この事を聞つたへてまた〱強気の思案をなし登城におよびて諸候の出仕を伺ふをり作州津山の城主松平越後守どの登城を見るより彦左衛門兼て御心安き事なれば越後どのに謁し銀三枚を借用して殿中の 役人ヘ申し奉書白木の台を乞う件の金子を包ミてそがうへゝ乗せ玄関の正面へ直し置き老中方の登城を待けるが程なく松平伊豆守どの登城ありて玄関式台へ進まれけるを見るより彦左衛門笑つぼに入てたちまち前引まくりひよろ〱としてひよぐり出し伊豆守どの御免候へ年奇といふ者は秘中薄くしてたもち難くして用所まで行く間を得ず是に依てからに狼ぜきは致せとも其元の制法は破り申さず貧乏人の彦左衛門なれども老人の持病なれば是を防がん為制札の表の進り過金三枚を出し候へバ必ず怪しみ給ふなといひて式台より白州の辺までたれ廻ハされば流石の智仁名誉と称せられし伊豆守どのもの余りの事にま興をさまし挨拶も為さずして袴の裾をよごされながら御玄関にかけ上り見れば白木の台に下札(さげふだ)にて過金を置しかば伊豆守どの是を持参して評定所に趣かれしが彦左衛門はおもふまゝに強気を振舞何気なき体にて御前へ出けるが伊豆守どのは件の事を老中がたへ吹聴なしこれまさに大久保は制札のおもてを見てわざとかくこそ振舞つらん気丈夫の老人ゆへ小便に大金を出すヿ言語に絶するところなれども過金をいだし一理をもつての我まゝなれば科むるヿ能はず然れどもこの侭にすて置ばこの後酔狂のものゝこれありて斯のごとく過金をいだし狼ぜきをなすとも咎むるヿ能はずこれによつて制札をとり捨て小便所なき時ハ然士方の供廻り国じると評義ありて一且取り捨し用所より少し間を隔て臭気のもれぬやうに用所を建られけるこれ彦左衛門が頓才なりと諸大名の供かた大きに悦びしとぞ然れば彦左衛門ハ戯道わがまゝを尽すといへども其先ずるところはその理に叶ひ非道の所行いささかもなきゆゑ自ぜんと制せらるゝ事能ハず然るに大久保若年の頃より功労をつしく七十余歳の今日に至り三君に仕へて忠誠を尽すといへども外人のヿく恩賞をうけざれば将軍家にも希ある老人と宣ひて予が存生のうち汝が願ひ叶ひなバ死後に残念なかるまじと御厚志のおん言葉をこうむり彦左衛門このうへに辞退せば却つて不忠に似たりとおもひ今少し手広なる屋敷地を願ひければいと心安き事なりとて早速三千坪の替へ地を傾城が久保へくだしおかる其時御礼のため登城なさんと致せしが折ふし乗駕損ぜしやつくろひに遣りていまだ出来なく彦左門貧窮なれば乗り替への駕篭なきゆへ家来に命じて馬のすそ盥をとり出させ細引をもつて釣をかけ自から上下を着して盥のなかへうち乗僕二人へ荷なはせて登城をなせば往来の人々この体を見て誰か笑はぬものそなくこの時本郷前田公の長屋下を行けるが窓より彦左衛門が体を見て大ひに笑ひしを大久保小耳に聞て登城なしはしなく前田公に逢しを幸ひ貴殿御長屋の窓より某が登城を見て大ひに笑ふ者あり人をして誹るハ何なる為ぞやこれ失敬の第一なりとそろ〱ねじり懸れば前田公またこの古狸人に戯れを楽む条面倒なりと思はれけん某しが長屋にハ物見の窓決して是なく是はお目違ひにて余州の屋敷にて候はんと聞き大久保大ひに笑ひそれがし老眼といへどもいかでか屋敷を違へべき貴殿が長屋に相違はあらじとの問答なせば前田公しからば退出の節同道にて見分あれと云捨つ前田公も後を取らぬ気質ゆへ早速近習を招かれ某退出までに長屋の物見残りなく塞げよと厳命により家来かしこみて御城より取てかしへ普請奉行に此由を達せしかば奉行何事の初まりしと思ひしかども君命のだし難く出入の家職数多を招き一時間にして長屋の窓を残らず塞ぎぬをりから退出の時刻移りて前田利家跡べに随ひ大久保彦左衛門此所に来りて見れば今朝しも通りしと異りて長屋の物見少しもあらざれバ心のうちにて笑(おかしく)思ひ扨ても〱前田公には見事なるお手際百万石の御威勢ハ又格別なりと言捨てこそ別れけりこれ大久保が趣意我侭に見ゆれどもさにあらず発訓ながらの戯れなり毎度往来の婦人を前田公の窓より見て血気の輩謗り笑ひて迷惑する者多きと聞き彦左衛門此窓を閉かせて往来の難をたらんと斯こそ謀りしとぞ今において加賀の盲目長屋と唱へ旧跡に残れり斯て彦左衛門は替地鶏声ケ久保へ拝領ありしより普請金調達せんと一ツの奉加帳を出来腰へ結つけて最初藤堂和泉守やしきへいたりしが度ゝの留守をつかひて出あはず高虎老年となりて吝嗇甚しきと聞ものから彦左衛門折を伺ひて退出のせつ駕より出らるゝを見極め諸共に坐敷へ通りて安坐をなし四方山の咄しより此程再々我に留守をつかひし無礼の段ひと泡ふかして呉んずと思ひ元和元年五同摂州八尾の合戦に長曽我部元親に切崩され和泉守さん〲に破北(はいぼく)して将軍家の陣中に逃こみしことどもを並べ立て物語れバ高虎どのにも家来の前へ面目なく此うへに捨置ば何ヿをか引出して迷惑さするも斗りがしたと思はれわき道に咄しをそらし貴殿今度地面御拝領のよしにて御普請なされ候はゝ旧友の好ミ相応の御用あらば何か承はり度と申により彦左門自分力に及ばず福者の大名に募り勧進帳を廻し宜しく奉加給はれと申により藤堂どのも迷惑ながら帳面を取上て見られしがいまだ誰の性名もなきゆへいる程記し申さんやと尋ぬに応じ彦左衛門貴殿は筆初といひ東三十三ケ国の旗頭なればはした金も付られまじ千両を以寄進せよと否慮なしに千両の金子を出させ藤堂殿に暇をこひて彼帳面を腰にさげ又ゝ外へ急ぎけりかくて彦左エ門は藤堂の屋敷を出て上杉どのゝやしきへ至りしが兼て彦左衛門奉加帳をもつて徘徊するよし弾正少弼どの聞伝へしかバ彼がヿを発せん先に何となく奉加を辞退せんと大久保をして坐敷へ通されまづ酒肴を出されしかして後知行所因窮のよしを述べければ彦左衛門ははや奉加を遁るゝためもく泣ヿを発するとさつし少しもかまハず扨今日はよき折なれば過越かたのおん物語りをいたさんため老人貴席へ参上せり夫につきておん尋ね申すは貴殿大坂一乱の節乗り給ひし名馬は今に存命なりしやもし勇残なりせば一覧いたし度と申すにより上杉どの彼馬を庭先へ引出せば彦左衛門庭に下り立て馬の口を取あげ上杉どのにはこの馬に何ほど知行を与へしと尋ねにければ笑はせ給ひ大久保とのにハ何を言給ふいかで馬に知行をせんやと返答あれば彦左衛門さてはい此馬足なりかといひつゝ額を撫さすりこりや己れ畜生なれども誠に真の忠臣なり数度の戦功を経るといへども●の恩禄を受ず今に主を乗て歩むよし扨々ふびんのものなるやと涙を添し泣口説ハ上杉どのを初め家臣のめんめん彦左衛門は狂気をせしと皆一同に笑ふにより上杉どのには彦左衛門へ向はれ貴殿は何をもつて馬に(これより破損)大坂接戦のミぎり貴君が軍奉行安藤治ほ右衛門が私しのはたらきにてたま〱鴫野の討てを引受思案もなくうち向ひて大坂ぜいの鉄砲にうち立られ周章ふためき大和川の浅瀬を知らず深みづ乗り込みしとき此馬なればこそかゝる大川を安々と越 へたり若此馬俊足ならずば供に溺れて死すべきを畜生ながらも其元の命の親なり今太平の御代にいたり安座して栄花を極めわれらに向ひ知行所国窮にて賄ひ等も難義なりと問ハずがたりに利口の挨拶をせらるゝもこの馬の恩を忘れ一合の扶持をも与へざりしはあまり情なき仕方なりとお思はず(破損)及びしなりせめては貴君の(破損)我等に饗応して得さすべし(破損)引あげ上杉とのが膝元ちかく連来れば近習をはじめ小性とも大いに驚きこハ狼ぜきなりと思へどもせんすべなければ主人の顔を守りて候は此時上杉どのにはこの乱坊より我古への恥辱をかたられ家来の手前も面目なくこのうへは如何なる事をかいひ出さんと底気味悪しく思ハれ少しも早く(これより破損)と申せしがば彦左衛門は帳面をとり出し藤堂公は旗がしらの格をのつてその元においても禄の高下はなけれども八百両にてよからんとうむを言はせず大金をうけ取りて上杉が屋敷をたち出たり大久保は斯のごくして諸大名へ動進帳をもつて廻り金子を集むること三十万両これを以て重請威能なし佶けり美麗を尽して老を養なひしが光陰を経て正徳四年三月廿三日命数かぎりあつて亡命すあゝ大久保彦左衛門忠教若年のころより軍功あげてかぞへ難く身命を投うつて※(忠義を尽し徳川三代に仕たるといへどもかつて恩禄を請ず口に美食を重うせず身に素服を)厭はず節倹力行なる事あたかも斉の嬰子に異なる事なし御届 明治十二年月日著者 本所外手町廿ニ番地羽田富次郎注)※()内の文章は他の資料写真を解読したもの下巻 完結大久保武蔵鐙 上巻 その1へ
2025/01/19
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大保武蔵鐙下流石ハ大守陸奥どのにハ少しも是を恨ミ給はず我あやまりて古人の語に勇士は太平に治乱を忘れず武器を以て賞かんとす我武門の家にありながら武器をわすれて無益なる蔦を望みし愚さを彦左衛門が戒めしならん金子乗馬を謀かられ是を怒り罵らバ某が恥辱をして吹聴するも同前也と其侭にして捨置しハ我ことを悔し仁者の振廻実に陸奥の大守といふべしされバ大久保彦左衛門は件の品をいくつも作りて箱へ入れ置て蔦懇望の人々を聞き合はせ拙者拝領せしゆへ譲り与へんと申すにより彦左衛門は将軍家おん気に入の人なれば拝領せしハ誠なりと思はれ諸大名ミな追従軽薄して彼蔦を申受んとするより彦左衛門は図に乗て或は幾は馬又は太刀などを所望なし其人に応じて跡より件のつくり物を送りし故腹を立怒り罵る者数多あれども己浅智にて謀られしを恥かしくおもひ内証にて恨みながら表には顕はさず互ひに隠し合こそ可笑けれされバ彦左衛門ハ斯の如くして大名十四五人欺むき金銀重宝を数多引かへ此うへハ誰をして欺かんと思案をしけるに此ほど奥御殿へ巾紗を進上せんと御約束をなしけるが奥向にて御好みハ浅黄繻子に墨絵をもつて書はづなれば先巾紗を才覚すべしと件の作り蔦を持参なし浅野対馬守が屋敷へ至り浅野公を欺きて巾紗三ツを替へものなし然す後に絵ハ誰にる書せんと思案をなしけるが幸ひ仲間の近藤登之助生得絵をこのミて彼能家の高弟あつぱれ名画と呼るゆへ彼に書せんと近藤方へおもむき対面して言けるやう某献上の品ありて御辺へ頼み度ヿあり則ち画なり是此巾紗一ツにハ八糸大二ツにハ山水花鳥のるゐを見合ハせいづれも墨絵にてねがふなり尤も急に入用なれバ少しの外用を欠てなりとも早々認め給ハれとよぎなき頼みにあるなれども登之助も緒方より前以て頼ミをうけし品の多けれバ急だの物と聞うちに外へにして頼まれにとすげなく言に彦左衛門扨ゝ御辺は薄情なり大名らが頼みなら礼物多く受るにかつそ早速にも書つらん我ら斯まで頼みしをと改ハりいふは謝礼のなきと思ひしならん是大奥へさし上る品物なれば画道の名利を好ミし者なら悦び書べき筈なり全体御辺は正しからず急ぎ物なら余人を頼めと断わりいふハ法外なり画を書者が其様に外に沢山あるべきかたとへ外あるにもせよ御辺を見懸て頼むからは心得たりと書べき筈なりいかにして我らの小身たるとも御辺が骨折ハ盗み申さず金銀の礼こそいたさずとも此程我ら拝領せし五色の蔦ハ諸大名のこん望なれども我気あひに相応せ祢バ是を与へず御辺ハ画を好みし斯様の品も後学ならんと某しせんと思ひしにし金がよくは大名に譲り大金と替えて御辺に与えん是非ともこの画ハたのむなりと諂ひもなく申スなりと兼て聞及びし五色の葛を譲らんといふ其一言に迷ひを生じ何卒乞受て画師の秘筆ともなさばやと彦左衛門に向ひ然らバ貴老拝領せし其物を我に譲りて給ハるかさすれバ某しも今より寝食をうち捨て望のごとく書申さん其替に其違なく彼蔦を玉はれよときいて大久保大いにわらひ扨々御辺は現金なり是迄ひたすら書うとば言ざりしを今蔦をして譲らんといふよりはやく飯も食ずに書うハよく〱望みし蔦にぞある最前もいふ通り年寄の所持なして入らぬものなるゆへ望む者へ与へんと思ひしからも大名方へつかわさバ謝礼進物など追従軽薄なるが気に入ず旦は道々拝領の珍物を筋なき者に与へてハ粗末になすやうに思はれて後の聞へを憚りなきにしも非ず口御辺ハ仲間といひ今度絵をかゝせし返礼に遣はせしといいゞ何の憚るところにあらず右につき御辺が懇望なる蔦のぎハ相違なく譲るゆへ少しも早く巾紗の絵を認(したた)めて給はるべしと誠しやうに言により近藤もうけがへて彼蔦を貰ハんと悦びに絶ずその日よりすぐに取懸り得たる処の筆を揮ツて三日をまたず認めたりるに彦左衛門不日ならずして自分受取に来しかバ登之助早速取出して渡せしかバ彦左衛門巾沙をとり広げ目鏡をかけて能見るに墨絵をかつて近江八景を筆勢し又二ツにハ牡丹に獅子の戯れ桐に風風その巧ミなると云斗りなく彦左衛門つく〲と打眺め扨ゝ御辺は器用の人なりこれほどは出来まじと思ひしに治の外なる美事なり定めし大奥にも御満足あるべし我らも頼みたる功見へて一入大悦せり早速献上いたさんと彼巾紗を懐中して立帰らんと致せしかば近藤は袖引とめ兼て御約束の蔦はいかゞなりしと尋ねければ彦左衛門頭べをかへしこの紙出来のほど覚束なきゆへ尋ねのため来りしかば右の品は持参なさず御家来にてもとりに越されよ我ら早速渡さんと言すてゝそ帰りしかバ近藤直に使をはせて遣りしかば大久保約束どふり渡すにより家来もち返りしに近藤これをひらき見るに紙にて作りたる五色の蔦なりさしもの近藤あいた口をふさぎもやらず呆れ果ててぞ居たりしが元より強気の若者なれバ怒り奮然として馬ひき寄せ直に股がり只一騎にて大久保が玄関へ駆け上かり大久保彦左衛門在宿なるや近殿登之助兼約束の品ものうけ取に来りしと大音声に呼はれバ彦左衛門はこれを聞くより何奴なれバ玄関にて大声あげて罵るるぞと云ツゝたちい出で是ハ誰なるらんと思ひしに近藤なるか何ようあつて参りしぞと言より近藤いよ〱怒りなにゆえとは無礼なり約束なしたる五色の蔦うけ取に来りしと半分いかんせず彦左衛門そハ御辺が家来へ渡せしと聞より近藤車輪のごとく目をむき出し汝吾を小児のごく思ふか細工の似物をもつて余人ハあまた欺むくともこの近藤ハ欺むかれじ吾汝ぢを老人と思ひ人道の礼をうやまひ殊更隣家のよしミをもつて汝が頼ミに応じ昼夜丹精をこらし望みの絵たるを与へしに頗ぶる奇怪の行跡われに恥辱を与へる条無道とや云ん非義とや云べき武士の逸分汝が為に失いたり人も人にこそ奇るべきに近藤においてハ人として終におくれを取ることなし汝君が寵の威を かり人をあざむくとも我においては聊かおそるゝ事なし速に真の蔦を渡すか但しハ武士道の立やうになすか此事他人の知るに於てをや我面目立ちがたし返答いかにと居合腰にて詰かけれバ彦左衛門ハ最前より台す火鉢に身を寄つ煩杖つきて近藤が罵りけるを聞ながら現ら〱と眠りなせば登之助は是を見て腹にたへ兼踊り上がりて足拍子どか〱と踏鳴らし彦左衛門が前へどつかと座せば大久保やう〱に目を見ひらきから〱と打笑ひ汝熊々爰に来りて無益のヿに腹を立ち老人が眠りを妨げ狂気の如とく狂ひ罵るは何事ぞや彦左衛門欺むかれしとて短気をおこしいらぬ腕だてなさば返つて自分の馬鹿を人に聞かする道理なりまずその葛といふハ此度朝せん国より献上せし世にまれなる珍物なれば将軍家の御秘蔵にて御家門といへども配分なきを我等に於て下さるべきや仮(たとへ)云下さるとも栄耀を知らぬ彦左衛門綿服でくらす旗本の何ぞ悦こんで請べきや然あればこそ我拝領なさゞるは明白ならずや然るを我一言をして実ときゝ心労して懇望なすは思恵浅きに似たり就中御辺斗りにあらず暦々の大名等ミな以て実と思ひ追従軽薄して我に請受んとす是を思へバ智者は少なし愚者は多しされども大名等ハ欺かれながら後悔するのみにて我方へ再び来らず是馬鹿のうちにも思慮ありて馬鹿を顕はさず御辺のヿく荒がはバ近藤大久保に欺かれしと知らぬ人も皆伝へきゝ自分の馬鹿を弘むる道理これいハゆる馬鹿のうちの大馬鹿なり扨又御辺我に欺かれしが名誉たるべしこれ別義にあらず此度大名等が右の葛を怨望するは只眺むるのミにて栄耀の為なり御辺が所望は絵を好む心から其形を見度思ふての事なるべし此葛こそ将軍家御秘蔵にて拝見せし人は稀なり諸大名等をきゝ及び懇望するゆへその執心を止めんと某し拝見を願ひて画を心得青黄赤白黒の紙にてつくるとも何ぞ異なることなし余の大名ハ栄櫂に好むゆへ悦びずといへどもい御辺は形を見んと謀るなれバ随分是にて事足ぬべしさすれば画道の名よともなるべきゆへ一言の謝礼をもいふ筈を却つてふ傍若無人に狼藉体ををなす此うへに多言を発すに及ばず早々かへりて其蔦を大切に画をせよかし扨騒がしき男やといふを聞より近藤ハ汝老弁をもつて何なく我を言詰たりしかし其中に一理有此度は我の免すにあり其に付ても此蔦はいよ〱真図に写せしかと尋ねにければ彦左衛門御辺画する奴なれば大概は斗り知れと云つゝ奥へ入りしと見へしが枕を取りて寐はらばひ再び起も上らずしていびきの声ぞしにけり扨近藤ハ詮方なく此親父斗りには某しも傷がたく流石は仲間の頭取と一度ハ感ぜしが又思ひかへすやう何がな事にかこ付て彦左衛門を困らせんと謀義を廻らせをる折から其年の真夏なりしが登之助庭前を眺むれハ大久保が方より生垣をしからみいで近藤が方へ柬埔塞(かぼちゃ)大いになかすだれたり登之助是を見て究竟のことなりとゑひみな柬埔塞をこと〱く切尽し諸めて一封の書翰を認めて送りたり彦左衛門是を見るに愚札持候然れば其見御地面へ生じ候柬埔塞どの両庭界の垣を乗越我等方へのたうちまハり乱妨いたし候間我等堪忍なりがたく是に依て悉く手打に致候間此段御届申候とあしりかハ彦左衛門読終りて笑を含ミ扨ハ近藤此程のい意趣晴しに我庭前のかぼちやを切て鬱憤を散ぜんとす我思ふしさいありと家来に命じて釣台を荷ハせ一書を付て近藤屋敷へ遣しけり登之助是を披見するに貴札拝見仕り候然ば大久保武蔵鐙 下巻 完結に続く
2025/01/18
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種々なる品献上なすその中に五色蔦ありしが将軍古今無類の珍物なりとて甚だ賞美し給へば諸大名も異なる珍物ゆへ皆拝領仕り度思へども御機嫌を斗りて只浦山しく思ひしかば彦左衛門是を聞て大いに笑ひ無益の品物を望むは是栄耀に余りてなり何ぞ五色の蔦にもせよ十色にもせよ差たる功能もあるまじかゝる無益の品をほしがるハ大いなる馬鹿者と独り誹りて居けるが秘かに一ツの工夫をなし金子の入用あるがゆ是を調略なさんと思ひしかば四五日下間へ引篭り人にも知らせず一物をの調ひその後仙台のやしきへ至り陸奥守へ対面なし我等小身の貧窮者にてその上家来食客数多ありてはなはだ圑窮なすにつき急に入用の金子五百両斗り是あり其許いま奥州の大国を領し福有なるとうけ給はりぬ我等借用の為に是までわざ〱参りたり御厚情あらバ御貸し下され度我に於て生れ得て追せう軽薄へつらひといふをし知らざれバ借用の御礼といふヿハ出来がたく然れども御芳志あらば無益の品にハ候へども我等爰に持参せしは定めて貴殿も御聞有ん彼朝鮮国より献上世し五色の蔦なり世に珍らしきものなりとて将軍家よりう某拝領いたせしかど年寄の貯へ置ていらざるの物なれば若其許御望ミならバ金子借用ゆへ譲るにあらず総て物ハ其好める人の持てこそ重宝なれ又好まざれば宝珠も瓦同前なりとれによつて懇望の人へ譲るヿ其品の威徳あらハるゝ道理なり陸奥どのにハ如何に候やと申スにぞ陸奥どの㐂悦の体にて先は大久保殿御深切の段忝けなし朝鮮国蔦の義に於ては某し甚だ懇望なり某に御譲りあらバ其替りとして五百両の金子ハ返金に及び申さず貴殿急事とあらば只今金子御渡し申べくや又は家来へ持せ進ずべきやといと懇に宣へバ彦左衛門の言けるハ仰せの趣きありが難く某し御云葉にあまへ申上るも恐れながら御家来の代りとして奥州駒一疋給るべし我等小身ゆへ手飼の馬にことをかき甚だ難義仕まつるゆへ其元の厚志あらば馬一匹たまはるべしと申により陸奥守どの篤心ありて究竟の逸物を引出させ鞍置手綱して是を与ふるにより彦左エ門大ひに悦び五百両の金子を借用なし自ら件の馬にば乗りて恣々然として我屋敷へぞもどりけり然れ大久保ハこの金子をもつて神君御命日の日に貧民を招ぎて施行をいだして貧者を恵みまたは鳥獣を放生なし徳を引て聊も我身につくるヿなといふ就中彦左衛門は旗本の肝入と呼れ元来男気なれば御家人の二男三男またハ諸浪人世に因じると聞けば氏素も糺さず我居やしきへ引入れかくまひおきて奉公の口入れなせば食客の絶るヿなくわづか三千石の知行にて常に家内の暮しかた三百有余人なれば是を養ふに足ず至極貧窮なれどもまたこれを貪着(とんじゃく)なさずまヿに真の無欲なれば将軍家にも御ひゐき厚く彦左エ門のヿなれば金子の入用をねがはんに千両一万両の金にても即時に調ふるヿなれども上へは少しも願はず今度彦左衛門が所存は大名の無益なる蔦を好んで立騒なす馬鹿気たるをいましめんとの了簡にて先一番に仙台公へこれを持行しを陸奥どのこれを知らず彦左衛門へ金子尊まで与しかど其後絶て見へざれば陸奥どのいぶかしく思ハれ家来へ命じて使者を遣ハし過日御約束の品もの御渡し下され候やうにと申送れバ彦左衛門立出て大いに失念せりと一ツの箱を取出してわたしければ使者これを持かへり主人へさし上れば大主これを見給ふに桐の箱に上の方に五色の蔦と書付たりやがて蓋をおし開きこれを見るにいかにも五色の蔦なれども是如何に先黄赤白黒のをそめ紙にて作りしものなれば仙台公をはじめ近習用人これをたらしの紙細工に人を欺かる彦左衛門と互に顔を見合せて余りの事に怒かもならず黙然としてゐたりける(上巻終わり)大久保武蔵鐙 下巻 その1へ
2025/01/17
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終に天下をしろし召さずと利を尽して脇道より国松君へ天下をゆづり候へとひたすら言上に及びしかバ素より御愛子の国松君といひ将軍家にも正純が言葉におん心迷ひ追て沙汰すべしとの上意にてそのゝち井伊直高を召れ正純が申せしを御相談ありしかバ直高うけ給ハりて上意の趣き天下を譲り給ふハ大切の義にて神君御遺言にハ大切の評義ハ吾代りなる大久保忠教に相談せよと御ゆひ言の御座候へば大久保を御召しありて御尋ねしかるべく候と言上なせバ将軍炙(げ)にもとうなづき玉ひ早速忠教を召されければ大久保召に応じて早速登城なして将軍側近く進ミければ右のおもむき御相談ありしかバ忠教つゝしんで承たまハり是何ヿの上意とぞんぜしに御家督の御評定先君御在世のミぎりより御家督ハ竹千代君と思しめされて御他界ありしを今改めて国松君を代なんとの御評定心得がたき上意なり然れども何れの若君も御公達にし在まさバ子を見るヿ親にしかずと古語にも申せバよく御賢慮をめぐらされ何れの若君なりとも御家督を定め給ふべししかし竹千代君なれば諸人も承知仕り国松君をもつて定め給ふならば其旨触られずんバかなふまじ日本の内は随ぶん御下知とゞくべきが聊か飛脚の届かぬ処あり大御所この世を去り給ふうへハ何をもつて此義を告奉らん此使者も御吟味あつてその上事を定め玉ふべし幸ひこの役義をつとむべきもの三人あり是は酒井左ニ門尉土井大炊頭安藤対馬守にて大御所御在世に竹千代君を主従とおもハれ此三人へ申付若君を守護し治平の理害を導きたまふに今さら竹千代君を廃し玉ふ此三人教導其器にあらずとて空しきに似さすれば何の面目あつて存命すべきや必らず切腹をとぐべしこれ迷途のかき便りなりしかしこの輩は竹千代君の守人なれバ冥途において依怙の沙汰も斗りがたく目附人として国松君に附置れし輩のうち一人を差添へらるべく憚るところもなく公然として述へけれは傍より直孝も和漢今昔の理を尽し国松君は御台所の御実子たる威をもつて上に立んヿを思し召けれども竹千代君の御母堂は妾なりといやしめ給へともことわざにいふ腹は正しく借物ことに春日の局がその先祖ハ左大臣魚名公の末孫鎮守府将軍利仁朝臣の後胤斎藤氏の族斎藤内蔵之助利之が摘子斎藤立本が娘なり又御台所は江州小谷の城主浅井備前守長政の息女にて御台所に備はり給ふヿ善因の果報なり氏素性においてハあながち勝劣なしと事をわけて言上なせば秀忠公にも両士が説ところ其理にありと思し召れ家督の義は竹千代君と決心ありて元和九年七月竹千代君家光公と改められ将軍宣下ありて征夷大将軍に任ぜらるこゝに及びて国松若ハ忠長公と改名ありて駿府へ移られ後駿大納言と申スハ此君にて渡らせ給ふ処なりしかるに家光公将軍とならせ給ひしより弥々四海静謐に帰し天下の大小名参勤に怠りなく帰伏し奉りしかは中ゝ容易に斗(はか)らふヿ能ハず然るに秀忠公か命によりて井伊掃部頭直孝を家光公の後見と定められ直孝天下の政事を預り家光公を誠佐し奉る一点の私なく政道厳にして先年御改易に仰付られたる大久保忠隣無実の罪によつて御科めを蒙り井伊掃部頭の居城に御預けとなり直孝申訳をすゝめんとすれとも忠隣織しんを思ふゆへ言訳をせす直孝忠隣が虚しく朽ちはてんヿを不憫に思ひをりを見合せゐたる処此度の▲▲御代替りといひ其身執事たる職により将軍家に謁し彦左衛門大忠を顕はすといへども一点の恩禄に預からず是らにかへて大久保の本家たれバ新に御取立ましますやうにと言上しければ家光公にも聞しめされ大久保相模守先祖ハまへ〱より功労なれバ永く捨おくべきにあらずと井伊直孝よろしく斗らふべき旨仰出されしかバ直孝有がたしと御請を申相模守こと仮にも一旦国を捨て神君より御預けとなりし身なれバ其政道を守り忠隣が嫡子忠常をもつて大久保家相続させ武州川越においては六万石をたまハり大久保加賀守忠常と号し先祖の名をおこし相模守が誠忠爰に顕はれ幾程もなく一万石加増を賜りその後又下総の国佐倉へ移り終にハ加賀守忠朝の代にいたり十万石となりて以前のヿく相州小田原の城主を給はり海道要路箱根の関所をあづかり此役料として一万石を下し置れ都合十一万石余四位侍従に任ぜられ家来以前のごとく立帰り連綿として繁盛なす是ひとへに直孝が仁慈の余情彦左エ門が武功によるものならんか然れバ将軍家光公にはいま天下をしろし召れしをこれ神君の御影なりと思し召れすでに父君秀忠公は駿河忠長公をして御夫婦とも御寵愛あつく御家督さへ定めべきを直孝彦左衛門が将軍しよくとならせ給へば彦左衛門を尊まれしかのミならす神君未期に予が代りとの御遺言にて則ち祖父君同様に思し召れことに難波合せんのミぎり身命を捨て忠功をつくし御先途を見届け奉りその㓛労はなはだし彦左衛門出仕なるときは祖父君を見奉りしヿくなりと上意にて折々は御側にめされ接戦の物語りを御聞ありその節は御装束を改め給ひ御上下ニて礼義を正されしとぞ是神君の御恩を忘れ給ハず斯のごとく重んじ給ふ彦左衛門なるゆへ将軍家わが代となりし報恩なれば本家同前に大名となすべしと再三御すゝめ有しかども彦左衛門決して受ず家光公是非に及バず只此うへハ汝が心に任すべし去りながら其方が功を賞する事にあらず祖父君の代りと思ふゆへ素略に成がたく今より後ハ汝ぢ天下の客分たるべき故出仕も心の侭に殿中頭巾杖を御免ありて只老後の楽ミ何にても好ミに任せ難義の筋は此方へ訴へべきとの上意なりしかば彦左衛門が威勢盛んなるヿ旗本といへども大名三百六十余旗本八万騎誰か一人肩をならぶる者なしとぞ然る光陰おし移りて寛永十ニ年霜月朝鮮国の使来朝し種々なる品献上なすその中に五色蔦ありしが将軍古今無類の珍物なりとて甚だ賞美しし給へば諸大名も異なる珍物ゆへ皆拝領仕り度思へども御機嫌を斗りて只浦山しく思ひしかば彦左衛門是を聞て大いに笑ひ無益の品物を望むは是栄耀に余りてなり何ぞ五色の蔦にもせよ十色にもせよ差たる功能もあるまじかゝる無益の品をほしがるハ大いなる馬鹿者と独り誹りて居けるが秘かに一ツの工夫をなし金子の入用あるがゆ是を調略なさんと思ひしかば四五日下間へ引篭り人にも知らせず一物をの調ひその後仙台のやしきへ至り陸奥守へ対面なし我等小身の貧窮者にてその上家来食客数多ありてはなはだ圑窮なすにつき急に入用の金子五百両斗り是あり其許いま奥州の大国を領し福有なるとうけ給はりぬ我等借用の為に是までわざ〱参りたり御厚情あらバ御貸し下され度我に於て生れ得て追せう軽薄へつらひといふをし知らざれバ借用の御礼といふヿハ出来がたく然れども大久保武蔵鐙 上巻 完結へ
2025/01/16
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虚々(うかうか)と生て甲斐あり仇桜と何人の言けん老て其身老耄せば何ぞ生て甲斐なからん其身盛んなりせは百年を経るとも又楽しからんや就中大久保忠教が如きは若年の頃数度の戦場を経るとも身に一毛の一疵を受ず老て猶壮年のヿし是虚々(うかうか)と生で甲斐とそあらめ況んや武蔵に猛威をふるひ其身我侭(わがまま)戯れるといへども其先(そのさきん)ずる所ハ教訓を元とす希代の老士が其功を揚て一書の小冊となし四方の書見君が春雨の伽となしぬ明治十二年中春泉竜亭是正記大久保武蔵鐙上抑(そもそも)大久保家の先祖を尋るに天津児屋根の尊より世一代大職冠鎌足公の後胤宇都宮きん綱の末葉にして左近将監泰藤より七代宇都宮左エ門五郎忠義の長子五郎左エ門忠俊三州大久保に住す大久保五郎左エ門と名乗そのゝち三州岡崎の城主徳川次郎三郎清康公一国に威をふるひ西三河こと〲くきり随ひ武勇といひ仁徳そなはり名将のきりやうなりしかば大久保五郎左エ門忠俊幕下に職し夫よりして徳川家金石の臣とよばれ軍功莫太なり忠俊男子六人あり惣領弥八郎忠友は父に先だち死したれば二男七郎右衛門忠世家名相続三男治郎右衛門忠佐四男権右門忠持五男勘右エ門忠長六男彦左衛門忠教あり皆もつて武功衆にすくれ徳川家の恩禄を承り七郎右衛門忠世が嫡子相模守忠隣これ又勤功大いなる故家康公天正八年東府御入国あつて関八州の大守とならせ給へば大久保相模守忠隣を小田原の城主になり給ひ東海道の要路を守らせ給ふ然るに慶長五年関ケ原一戦のゝちハ家康公天下の主とならせ給ひ同じく八年征夷大将軍に任じられ同十年秀忠公へ天下をゆづり給ひしとき京都大仏殿造営●●のよし普請奉行片桐市正旦元かたより飛脚以て駿府へ言上せしかば大御所見ぶんのため又は右大臣秀頼公がやうす伺はんと兼〲大久保忠隣をもつて上洛なさしめ彼地の所司代板倉伊賀守と申合せはからふべき旨忠隣へ命ぜられけり忠隣君命を荷ふてさつそく京都へはせ上りけるが此時本多佐渡守かねて大久保家と不和なれば大御所へよりてさま〲に讒言を入れけれども忠隣ハ少しもこれを知らず京都へのぼりて万面なすときに且元は太閤の恩をになひて大御所をはからんと忠隣が着せしを幸ひ密計をほどこし所司代伊賀守と大久保等をはかりて内乱を起させけりされば日月あきらかなりといへども浮雲のために光りを失ふいわんや人間に於いてをや前業のわさはひは君子たにも免れがたし蓋し大久保相模守忠隣は智勇完備にしてまことに誠忠みたしなく内に背きしふるまひ聊かもなきといへとも不運にして終に大御所の御疑ひを蒙り父忠世より相続せし小田原の城めし上られ十八万石の領地御改易ありけるに一族郎党こと〱く御科めを承り大久保次郎右衛門忠佐同権右衛門忠長同月彦左衛門忠教これらは忠隣が伯父たるによりてその罪本人に等しといへども知行過半めし上げられ旗本格にくわへらる就中彦左衛門忠教は伊豆の国沼津において二万三千石なりしが是をめしあげられ新地三千石の旗本となれども元来彦左衛門は武道一篇の男なるゆへいささかも是を恨むる気色なく本家の断絶に及びしは残念とは思へ是非なしとあきらめ随分忠義怠りなく勤仕しけり此の翌年慶長十九年の戦より元和元年正月に至る大坂合戦にハ彦左衛門槍傷の鎧兜がかき打の御難その外所々にては火水の中をさけ欽命を授かつて大御所をすくひ奉り功労言語 に尽しがたく是に依て大御所の御身全く四海一統の後彦左衛門へ大禄を給ハり御取立あらんと仰せ出されしかど堅くじして更に受ざる大久保の本家相続せバ本望なれとも我のみいか程栄ゆるとも是順道にあらずとの了簡二ツにハ其身男一人の気質ゆへ諛ひかざるをなきゆへ大御所も是非なしとおぼしめされ其代り我死後に及び大切の評義あらバ彦左衛門に相談し彼が詞に随ふべしと仰せられ偏に我代りなりと末期の上意なりしかバその後元和二年四月十七日大御所御他界給いし将箪秀忠公父君の代りとおぼし召れ彦左衛門を大切に尊ミ給ひしかバ小身の旗本なりといへともその威勢老中の上にたち御家門といへども粗略にし給こと能はず就中その頃将軍秀忠公若君御二方在して御惣領をバ春日の局の御腹に御お生し給ひて竹千君と申奉る弟君ハ政所の御腹にて国松君と申奉る然るに大御所御在世の頃より竹千代といふハ我幼名にて家督ならで八名のらず此竹千代は秀忠が嫡子ニて正しく天下の相続たるべきとて智仁勇の三徳をすゝむるやうにと則ち酒井左左衛門尉忠次土井大炊頭利勝安藤対馬守重信三人を御附人になし給ふまた国松君には本多上野之助正純平岩主計頭親吉二人おん附人なりしが本多正純何とぞ竹千代君を廃し国松君を世にたてんと秀忠公の御前へいで国松君の智仁発明にてすぐれ給ひしことを頻りに賞美し天晴武将の徳を備へ御生得なることによそ人御家督を譲り給ふやうにさぐり伺へども祖父君の御ゆひ言にて最はや摘子の義は竹千代定まりしと宣ひければ正純つゝしんで申すやうそれ天下は一人の天下にあらすその徳なきを立るときは必らず四海治まらず天下をゆづり給ふは尋常の家督にあらずよく其治まるべきをもつて立るが天道にしたがふと申すもの彼尭は舜にゆづり舜ハ禹に譲る是ミな天下をわがの物とせずたゞ大平ならんヿを欲す実子をすてて他人にゆづり給ふヿ賢王の仁徳かくのヿし君は正しく神君の四男にてわたらせ給へども天下の徳を得給ふゆへ御家督となら世給ふ越前秀康公は御兄君と申せどもその徳なきがゆへ大久保武蔵鐙 上巻その2へ
2025/01/15
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今年79になる、数え年では80歳。30年前の1月 親父が亡くなった歳私がハマっている江戸の旗本 大久保彦左衛門も数え八十で亡くなっている。と まあ、数え八十は どこから見ても大年寄りなのだろうが 自分では とんと そんな感じにならない。今日も一万歩歩いてきた。今年は「大久保彦左衛門コレクション」集大成の年と決めている。これまで集めたものを きちんと仕分けしてみるつもり。手始めに木版刷りの本を手にとっていたら昨年11月に手に入れた繪草紙「大久保武蔵鐙 上下合本」明治12年刊 羽田富次郎(泉龍亭是正)著 朝香樓芳春(浮世絵師)画 發行:丸屋 小林鐡次郎板 大久保彦左衛門 落札価格1,500円 (税込) 送料 全国一律185円(税込)これをパラパラめくっていたら、読めないのだが、なんだか面白そうなのだ。なんとかして読んでやろうと決心した。以前から使っている古文書解読アプリ「miwo」に頼ることにした。試しに上の写真を読ませてみたかなり解読してくれた。これをわかる限り修正していくと、なんとかつながった。『大久保武蔵鐙上抑(そもそも)大久保家の先祖を尋るに天津児屋根の尊より世一代大職冠鎌足公の後胤宇都宮きん綱の末葉にして左近将監嘉藤より七代宇都宮左エ門五郎忠義の長子五郎左エ門忠俊三州大久保に住す大久保五郎左エ門と名乗そのゝち三州岡崎の城主徳川次郎三郎清康公一国に威をふるひ西三河こと〲くきり随ひ武勇といひ仁徳そなはり名将のきりやうなりしかば大久保五郎左エ門忠俊幕下に職し夫よりして徳川家金石の臣とよばれ軍功莫太なり忠俊男子六人あり惣領弥八郎忠友は父に先だち死したれば二男七郎右衛門忠世家名相続三男治郎右衛門忠佐四男権右門忠持五男勘右エ門忠長六男彦左衛門忠教あり皆もつて武功衆にすくれ徳川家の恩禄を承り七郎右衛門忠世が嫡子相模守忠隣これ又勤功大いなる故家康公天正八年東府御入国あつて関八州の大守とならせ給へば大久保相模守忠隣を小田原の城主に』調子に乗って8ページの解読を終えた。上下巻合わせると80ページある。少し手強いから上巻だけ解読してみようか、暖かくなるまでは遠出も出来なく暇ばかりなのだ。それにしてもアプリ「miwo」はずいぶん進化しているようだ。スマホがあれば退屈はしないなあ。
2025/01/12
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Yahooの天気予報が雪が降り出すと言っていた。ほぼその時間に雪がちらついた、初雪。スマホの動画で撮り始めた。なんとメジロが、やって来たしかも3羽!「こいつぁ 春から 演技が 良いわい」楽天ブログに動画を貼り付けようとしたが なかなかうまくいかない。スマホではパソコン版にしないと動画が見られない。
2025/01/10
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昨夜、明日は岡崎城まで片道9kmを往復すると かみさんに宣言。朝、なんだか風が強い。迷った途中のマックでコーヒー飲んで帰るかもと言い残して出発。寒い、けれど歩いた。3.5km マックを過ぎた。5.5km いつものファミマで休憩コーヒーとシュークリームベンツの販売店を見ながらコンビニコーヒー気に入っている。いつも通り岡崎城に着いた。松の内も過ぎ人出は ほとんどない。ほんのしばらく城にいて帰路についた。帰りは足に疲れが出た、鼻水も出た、汗もかいた。1時過ぎマック空いていた。これで570円は安すぎないか。昨日行った喫茶店のモーニングはコーヒー、ゆで卵、トーストで550円。午後2時半家に着いた、29000歩。少し休んで ストレッチ。体の疲れが心地良い今年も、歩くぞ。
2025/01/08
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昨日と今日、「岡崎市自主講座成果展」に出品した ぐい呑みで「獺祭45」を飲んでいる。この ぐい呑みは昨年、友人からもらった萩焼に形を似せて作った。貫入(器の表面に亀裂が入る釉薬)がきれいにでた点はよかったのだが、釉薬が流れてしまった。それでもかなり満足。酒がすすむ困った困った。
2025/01/05
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岡崎市図書館「Libla」で開かれる市内の自主講座成果展に私たち「陶楽会」も出展しました。力作のほとんどは仲間の作品、私のは「ぐい呑み」ばかりです。かみさんは、本日「読み聞かせ会」、明日は、プールが無料開放なので そちらだそうです。私は明日4時には展示物撤収です。今年も、夫婦それぞれの趣味を追求することになります。
2025/01/04
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外孫ばかりの わが家の元日は質素なものである。寝起きに神棚から御神酒を下げてきたものの、朝から、飲むと1日が無駄になる。ラップして冷蔵庫へ出したほどの年賀状は届いていた。年下の元同僚が2月に亡くなったことを人づてに聞いた。年賀状をくれた友人たちは達者でいるということだ。年賀状仕舞をした人の消息はわからない賀状仕舞はやめておくことにした。2日朝、孫ニ姫がやって来た。書道塾の作品をくれた。1年間の進歩の跡は、、、、、?昼になって孫三太郎がやって来た、続いて孫一。大散財!ごちそうは ケンタッキーだった。3女のダンナと日本酒を酌み交わした。1合と少し飲んだところで盃をふせたのだがムコドノは焼酎をロックでグイグイ大丈夫か?飲んでいる間に孫たちは外であそんでいた。ジジも外に出てみた。孫一が持ってきた「セグウェイ」だったかな三太郎は初めてだというのに すぐに乗れるようになったやがて4時過ぎに帰っていった。ジジとババには これくらいの時間がちょうどいいようだ。
2025/01/03
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4月に若狭・丹後街道を歩いた。2017年春、長崎から東京を歩いて以来、続いた旧街道日本一周ひとりウォークも一段落した。同じ4月、現役時代から続けたスポーツジムも三軒目の店を退会した。そうしたら5月以降することもなく淡々と過ぎていった。「光陰矢の如し」いやいや弾丸の如く過ぎていくのだ。やはり私は旅の計画を立て、それを実行することにしか人生の充実感を感じられない体質になっているようだ。街道歩きは卒業したが、来年はもうひとつの趣味「大久保彦左衛門コレクション」の集大成をやろうと思う。◎彦左衛門年譜◎聖地巡り(1)合戦場巡り(2)知行所巡り(3)墓所 岡崎長福寺 白金立行寺 京都本禅寺◎彦左衛門実像と虚像――三河物語と武蔵鐙三河物語(1)陸軍省発行三河物語(2)石版刷三河物語(3)写本武蔵鐙(1)読本(2)写本◎浮世絵・芝居絵◎映画ポスター◎彦左衛門を取り上げた小説と作者春になったら「彦左衛門知行所巡り」に出かけようかと計画中。★★★★★★★★彦左衛門の足跡巡り★★★★★★★★寛永12年 彦左衛門が隠居地として三河国の一部と取り替えてもらった鹿嶋の知行地を歩くJRドリームなごや4号 岡駅東口23:44–6:03東京日本橋口 東京駅650~高速バスかしま号~852鹿島神宮 鹿嶋市田野辺村83石余り沼尾村227石余り鹿島神宮駅タクシー鹿島町沼尾(沼尾神社)鹿嶋市田野辺町(塩釜神社)鹿島神宮鹿島神宮駅鹿島神宮1410高速バスかしま号〜1625東京駅東京1649~1740JR久喜久喜シティホテルルートイングランティア羽生久喜721〜740羽生◎彦左衛門の慶長19年までの知行地彦左衛門は羽生市内の常木・川俣・発戸の二千石を領した羽生城趾羽生郷土資料館 9:00開館、火休館 羽生駅からタクシー常木神社(雷電神社)発戸(蛍の里川俣(公民館)羽生城羽生駅羽生1643〜1708久喜1734〜1812東京東京1857〜新幹線〜2105豊橋2117〜2141岡崎2150バスで帰宅やはり これが私の生きがいだなあ
2024/12/31
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保育園からの友達と会うと名古屋の3女が孫三太郎と一緒に帰ってきた。三太郎は今日が11歳の誕生日、5日前にインフルでねつを出したのだが、翌日には熱も下がり家の中でローラースケート暇つぶしの作品来たと思ったら、もうすぐ集合時間だと先日精米しておいた米、正月用の数の子を車に積み込みあっという間に出発した。正月にはまた来るのだからまあいいか3女と食べようと昨日買ってきた『冷凍ドリアン』は「いらない」とにべもない返事。仕方ない、ひとりで食べるかでもドリアン食べたら酒飲めないというからなあ
2024/12/28
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そろそろ年賀状仕舞にしてもいいかと思いながら、やはり今年も出すことにした。PCの調子が良くないから昨年に続きスマホで作成。11月末にスマホを換えたので去年のアプリが使えない。面倒だからプリンターの年賀状アプリで定番デザインを使って作成した。簡単、あっという間に出来上がり。郵便局に行き年賀状を買って来て印刷した。宛名書きは登録が面倒だから手書き。10枚も書かないうちにやめた、続きは明日。PCの動きが遅くて、2年くらい表計算ソフトとメール削除に使うだけ。中古PCを買えば良いと友人は言ってくれるのだが外付けHDDに入っている過去の写真とコレクション資料を利用するだけなのだどれも過去のものばかり、かみさんに言わせれば「ゴミ」最近の資料はColerNoteと楽天ブログの下書きに保存している。ところが数日前、プリントしようとしたら、文字の大きさの調整が出来ない。それで調べたらGoogleドキュメントというアプリを見つけた。入力した文章と写真をPDFファイルに変換して印刷する。これは使えそう。さっそく大久保彦左衛門コレクションの説明文を、こちらに移した。彦左オタク街道ウォーク日本一周が一段落したから来年はスマホを使って 大久保彦左衛門コレクションの集大成の年としようかと思っている。
2024/12/24
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今年開店したスーパーで、上物の明太子を見つけた。網に入れて吊るすこと1週間。いい色になったので、昨日 網から取り出した。硬くてうまく切れないが 味は上々。昼過ぎからちょっとずつ試食してたら夕方には なくなった。先日からあちこち探しまわった「月桂冠Shot」を今日見つけた。ただし「上撰」を1本だけだから「飲み比べ」は出来ない。スーパーやコンビニを数軒探したが わが家の近くでは並んでいない。Amazonで買うのが確実かもしれない。昨日、かみさんが障子を貼り替えるのを手伝った。アイロンで熱着するだけだから貼るのは簡単だったが、1枚だけで終わり。左から2枚目毎年貼り替えているわけではないそうで かなり白さが違う。結局今日、右から2枚目の障子を貼り替えることになった。
2024/12/23
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曇空で寒い朝、前からかみさんに言われていた生け垣の刈り込み、かみさんは「細葉を刈る」と言う。車が通らない土日しか出来ない、年末に近づくと やることがある(かみさんが)せっつかれて 仕方なく始めた。ビフォーアフターあんまり変わらんなあついでに玄関刈るより片付けの方が大変。これで 今日1日はゴロゴロ出来るかな。
2024/12/21
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先月、機種変更を機会にAUからUQに乗換えた。古いスマホの返却を、かみさんに頼んだら本人が店まで出向く必要があるとのことだった。のびのびになっていたので、一昨日 散歩がてらに行ってきた。数日前、棚の奥からナップザックに入った靴が出てきた。この靴で出かけた。片道約4km、厚底の靴は歩きにくい。古いスマホのデータを消すだけなのに30分以上かかった。帰りは すぐそばのMacに寄ってコーヒーを飲み「アップルパイ」をお土産にした。たった8キロ歩いただけなのに、慣れない靴で足に負担が大きかったのかこの夜 こむら返りを打つわ足指が引きつるわで散々だった。明けて昨朝今までの靴に履き替えて、7.5km先の西尾市「岩瀬文庫」まで歩いてきた。岩瀬文庫は明治の初め西尾の豪商が集めた多くの書籍を保管しているところで定期的に蔵書の企画展をやっている。今は日本酒にまつわる書籍のあれこれ朝9時に出発して昼1時過ぎには帰宅。途中、何か食べようと思ったが水曜日定休日の店が多く、結局家でラーメンとなった。履き慣れた靴が良かったのか、歩き終わってストレッチをしっかりやったのが良かったのか昨夜は足に異常は起こらなかった。
2024/12/19
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ABEMA「ヤンパ」さんのブログに出ていた「月桂冠 Tha Shot」を飲んでみたくてむさジイ実はもてる夕方、セブンイレブンまで歩いて行ったのだが、見当たらなくて「菊水 ふなくち」というのを買ってきた。アルコール度数19% 少し お湯を足して、さらに「ぬる燗」にした。晩飯前に、漬物を肴に飲み始めた。普段だったら、我慢して晩飯を待つのだが今日は、午後3.5キロ先のMacまで歩いて往復したから早く飲みたい気持ちに負けた。ゆず大根、隼人瓜の塩漬けどちらもパリパリした歯ざわり程よい疲れに「ぬる燗」1合ゆっくり飲めばほどよい酔が体をつつむああ 明日は 久しぶりに今日の2倍の距離を歩くかなああその前に今夜は もう少し焼酎のお湯割りでも 飲もうかな。
2024/12/17
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朝食を済ませて、夏の名残の「ヨシズ」を片付けた。くるくる巻いてヒモでしばってガレージの壁面に吊るした。片付けついでに2階のベランダへ出た。もうずいぶん前に言われて そのままになっていたボロボロの日除けネットを取り外し庭に落とした。ネットを丸めていたら何か黒っぽいものがポトリと落ちた。なんだろうと しっかり見たら、もぞもぞ動くではないか。5センチほどのものは、コウモリだった。動画も撮ったが、楽天ブログへ貼り付ける方法が分からない。Facebookにあげておいたからそちらで見て下さい。Facebook二階であれこれやっていたら、近くの農家のオバさんが、野菜を売りに来たらしい。かみさんがホウレンソウを買ったら、おまけに「隼人瓜」なるものをくれたと言う。初めて見るものだが 高知県辺りではポピュラーなものらしい。ネットで調べて かみさんに浅漬けにしてもらった。晩酌が済んで思い出した。試しに食べたらカリカリしてカリモリよりスイカの皮に近い、酒に合いそう。ということで、もう一度焼酎のお湯割りを作った。コウモリなんて珍しいものを見て隼人瓜という珍しい食べ物に出会えてかみさんの お役に立てて今日は いい1日だった。めでたしめでたし。
2024/12/15
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例年通り かみさんの実家に行って『新米』をもらってきた。米を作らなくなって以来、ずっと近所の農家に田んぼを貸している。毎年、暮れになると30キロ入りの新米が届き、かみさん姉妹がお裾分けにあずかるのだ。近所に住む次女がやってきたのでさっそく30キロをお裾分け。今日の昼は次女がくれた『牛すじ煮込み』を、ご飯にのせて牛すじ丼。残った煮汁を煮凝りにしょうと器にとって冷ましておいたら今日の寒さで冷蔵庫に入れてもいないのに固まって『煮凝り』完成。これが美味いのだがかみさんはスジ肉も煮凝りも食べない。もったいないことではある。今夜はモーニング友から干柿の消毒に使って半分残った『ホワイトホース2.7リットル』ペットボトルをいただいたのをホットウイスキーにして、牛すじと煮凝りで飲むことにしている。
2024/12/12
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午後、タイガを庭に出してトイレをさせた。先月半ばから、置いている庭のミカンにメジロのついばんだあとはないかと調べたが、何もなかった。まだ12月上旬だからないつも1月にならないとやって来ないのだ。いつもメジロが来るのはタイガを抱きかかえて家の中に戻った。ふと道路側の窓を見たらヒヨドリがいた!振り返って庭木にさしたミカンを見たらいた!メジロしかも2羽今年は早いなあミカン買ってこなくては
2024/12/10
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昨日12月8日は「日米開戦」記念日だった。このところテレビや新聞を じっくり見ることがなくなったことは確かだがこの日を忘れるとは老いてしまったのだろうか戦後79年開戦から83年それだけ経てば忘れて当然かもしれないが亡父のことを思い出した。昭和11年応召、陸軍砲兵として中国を転戦昭和17年ころ内地に送還広島宇品の陸軍病院入院退院後、福山で初年兵教育をしていたらしい。昭和19年結婚そのまま終戦。軍隊生活のことは、ほとんど聞けてない。
2024/12/09
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JR東海の「さわやかウォーキング」に参加した。出発はJR飯田線三河一の宮駅でゴールは豊川駅。昨夜までは かみさんに岡崎駅まで送ってもらいJRの電車で出かけようかと思っていたが。今朝になって、自分の車で出かけることにした。豊川駅まで30キロと少し、1時間ほどで着いた。駅前のパーキングは満車だったが、すぐそばのパーキングに「空車」の表示が出ていたので、ここに停めた。そこから電車でひと駅の三河一の宮にむかった。曇り空で寒い。それでも9時半、30人ばかりがスタート駅に降りた。前を行く人に付いて歩く。歩き始めてすぐ砥鹿神社に着いた。とよかわ楽市三明寺三重塔豊川稲荷初詣には大繁盛だが今は人影まばら。ゴールの豊川駅。やれやれ、腹も減った、帰宅途中に何か食べよう。パーキングに行って車に乗った。駐車料を払おうと駐車券を機械に入れた。ここで事件は起こったなんと駐車料金2000円!え?なに これこんな看板があった。このパーキングは隣のカラオケと漫画喫茶専用駐車券なのだ。店を利用した人は無料だが、そうでないと法外な駐車料金を取るということだった。取消ボタンを押して駐車券を取り返し、車を駐車し直した。もう一度入り口を確認した。どう見ても普通のパーキングだ。でも仕方ない、この際マン喫に入って昼食とするか。入ってみたけど、システムが分からない。店員に駐車券の話をし、駐車無料にするために食事をしたいと言ったら、時間を選んで下さいと言う。最短の90分を選び、カツカレーを注文した。食事が来るまでに店内探訪、少年向け、青年向けと沢山の漫画がある、ドリンクバーがある、ホットコーヒーをカップに注いで席に戻ると、カツカレーが来ていた。施設利用料 375円飲食料金 820円合 計 1195円隣のパーキングは24時間600円だからこの店でカツカレーを食べてコーヒー飲んで595円だったみたいなことになるかな。いや食事代820円で駐車料金が375円だったということか。ともかく少し得したと言えるのではないかな。変なところに停めたと後悔していたが駐車料金225円の得結果オーライと気をよくして帰路にするついた。午後2時ちょうどに無事帰宅した。
2024/12/07
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朝の散歩の目的地を3.5km先のMacにした。コーヒーを飲んで、今日発売の『ビーフシチューパイ』を買って帰り、かみさんとランチとする予定。風は少し強いが日差しがあって暖かい、コートなしで出発。40分ほどでMac到着、まだ客はまばら。コーヒー1杯と持帰りの『ビーフシチューパイ』2個を注文して席で待つ。やがてスタッフが注文品を運んでくれた。かなり年配の男性スタッフ。30数年前、ドイツに行った時に入ったレストランの店員が高齢者ばかりだったのを思い出す、Macは相当以前からシニアスタッフ制を実施しているようだ。高齢男性が家ですることもなく1日中「ボ〜」としているより よっぽど良いことだと思う。20分ばかり休んで帰路についた。11時半、無事帰宅、往復 11000歩今日のノルマは達成した。『ビーフシチューパイ』1個の昼メシでは物足りなさそうで、インスタントラーメンを作ったら、少々食べ過ぎの感じだった。
2024/12/04
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NHK受信料の身障者割引申請をネットで行なったのは、11月10日だった。マイナカードを使って、15分ほどで手続きは完了した。あまりに簡単すぎると思ったので市役所のホームページで受信料減免手続きの項目を見たら市役所の担当課に連絡して証明書類をNHKに送ってもらう必要があった。ホームページで連絡したら必要書類が郵送されてきた。必要事項を送り返したら11月26日にNHKから「放送受信料免除受理通知書」が届いた。さらに12月3日払込済の受信料のうち払戻し金2365円分が振替証書で届いた。翌日、郵便局に出かけて現金化して来た。これで今後の受信料は半額免除となる。11月16日、JRの身障者割引を使って継母の様子伺いのため岩国市に帰省した。7月に申請した「マイナカード」の確認をしたら、思っていた通り受け取っていなかった。継母は5年前に心臓のペースメーカーを入れたときから身障者手帳をもらっている。これまでNHK受信料免除申請するなど考えたこともなかったが、調べてみたら申請してなかった。マイナカードの受取りとNHK申請の件を支所に問い合わせたら、本人と一緒に来てくれと言われた。継母を連れていき、マイナカードの受取、暗証番号設定、健康保険証紐付けを済ませた。次にNHK受信料減免申請をした。継母の年金は最低額なので「非課税世帯」だった。なんと受信料全額免除になるそうだ。5年前に申請していれば年間2万円近く浮いていたのに惜しいことをした。申請は済ませたが、まだ受信料全額免除の決定が届いたのかどうか確認はしていない。
2024/12/03
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金曜日(29日)、かみさんと一緒にauショップに出かけてスマホの更新をして来た。かみさんのスマホは高齢者向けの機種だったので、『使い方がわからん』と言われても面倒で次女に任せていた。同じ機種だったらなんとかなるとシャープの最安値「AQUOS Sense09」に決めた。ついでにAuからUQに乗り変えた。UQの一番安いミニミニプラン、2人分の合計料金が現在一万円前後なのが八千円程度になる。機種変更に伴うデータ移行は有料でやってもらうことにしたのだが、電話帳や基本的なアカウントは移行できても完璧ではないとのことだった。木曜日夜、移行できそうもないGalaxy Noteの内容は、全てスクリーンショットで写真ファイルに保存した。このファイルは4年間、集めた古文書の写真と解読文字起こしした貴重なものだ。もうひとつColerNoteに溜め込んだ たくさんの文書がある。これはLINEのKeepメモと楽天ブログの下書きにコピーした。これで多少の移行漏れが発生してもなんとかなる。金曜日、かみさんの都合に合わせて3時にショップに行った。店員があれこれ手続き書類を作成している最中に「Galaxy Note」のデータをLINEのkeepメモに「共有」することを思い付いた。使っているGalaxyのスマホでデータをすべてLINEに「共有」移行出来た。我ながらよくやった。これであとは店員にお任せ、データ移行をしてもらった。移行完了して手渡されたスマホには登録していたアプリも移行されていた。移行されないかもしれないと、操作画面のスクショを残して置いたのだ。新しい機械にもあった!半ば諦めていたから 嬉しいことだ。アプリに使用したアカウントは、移行できていたものもあり出来なかったものもあった。一番残念なのはeメールの着信記録の移行700件が削除ファイルの中身ばかりで、仕分けて記録してあったものが消えていた事だ。古い機械にはすべて残っているのだが本文は読めても添付ファイルは読めない。ショップに持ち込めば解決できるかもしれないが、そこまでのものでもない。以外だったのは「ColerNote」アプリが新しい機械に移行されていたことだった。ファイルはそのまま残っていた。Galaxy Noteアプリはやはり残っていなかった。FacebookもXもAmebaもあったが「楽天ブログ」は消えていた。楽天ブログ以外はアプリ版だから移行出来たようだ。他にもアプリではない朝鮮日報はじめ新聞や週刊誌が移行出来なかった。土曜日の今日はすべてのアプリを使用開始することで1日が終わった。3日間のスマホ作業で右腕が腱鞘炎になったようだ。明日は休養日として、少し歩いて来ようかな。
2024/11/30
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25日の「かみさん誕生日」に続き昨日は、愛犬「さくら」の一周忌だった。3女から数年前の写真が届いた。孫三太郎は犬座りをしていることに今ごろ気付いた。11月は 珍しく忙しく過ごした、師走ならぬ爺走。1日、身障者手帳(聴覚障害4級)が届いた。10日、「身障者」のNHK受信料減免手続きをNetでやってみた。マイナカードも使って15分ほどで完了!後になって、作成した書類には身障者手帳が入っていないことに気付いた。マイナポータルでカードに紐付けされた証明書を調べたが、「身障者手帳」は入ってなかった。岡崎市の福祉課に尋ねたら、「身障者証明書」用紙を送ってくれて、これに記入して送り返した。16日、新大阪駅前での高校同期会出席に「身障者手帳」を使った。乗車券が半額になるから、ついでに新岩国まで切符を買って実家に顔を出した。往復で、ほぼ10000円割引された。26日、NHK から「放送受信料免除受理通知書」が届いた「11月から」受信料が半額になる。これに気をよくして27日、「高速道路通行料減免」のWeb申請をした。用意した書類は1.マイナカード写真2.住民票写真3.身障者手帳写真4.メールアドレス5.ETC車載機器セットアップ申込書・証明書写真6.本人名義のETC写真7.自動車検査証写真8.免許証写真5番のETC車載機器書類なんて見たこともなかったが、車検証と一緒に車の中にあった。いろいろと面倒な手順で、途中つまずいたりしたが なんとかやり遂げて受理された。これでETC半額になるはずだが、あとは回答待ち。28日、しばらく前から検討していた「AUからUQへのスマホ乗り換え」を決心して、近くのAUショップに出かけた。「電話番号とメルアドの移行」「AUでんきの移行」を確認してUQの「ミニミニプラン」で見積りしてもらった。娘たちはショップを通さず会社や機種を変更しているようなのだが、高くついても面倒でない方がよい。かみさんのスマホも古いから、一緒に今日、手続きすることにした。来月はETC割引の効果確認でもするかな。
2024/11/29
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朝と午後の散歩は快適だった。今日は、かみさんの誕生日だから、昼は近くの うなぎ屋「みかわ三水亭」に行った。タイガの世話があるから夫婦そろって出かけるのは2時間半が限度。昼の混雑が収まる頃をねらって出かけた。一組出てくるのを10分ほど待って席に着いた。「特上重」鰻とご飯が別の容器になっている。満足!最近あちこちに安い鰻屋が出てきたからか、1950円(税込)のメニューもある。爺は 1人で食べるのだったら、これでもいいな。
2024/11/25
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「お父さん 今日 どこか行く?」「ううん どこにも行かない」最近の 夫婦の会話。かみさんはプール、太極拳、買い物と 毎日出かけている。長年続けた街道ウォークは4月「若狭・丹後街道」を歩いて日本一周を歩き終えた。以来たまに、近場の日帰りウォーク、普段は家の周りを散歩で「体力維持」を図っている。土曜日は久しぶりにJR東海「さわやかウォーキングin飛騨金山」に参加しようと準備した。ところが朝6時前、起きてみたら北風強く気温も低い。とたんに行く気が萎えた。8時近くに起き出して「飛騨はすごく寒そうだから」と言い訳。このままではいけない、支度は万全、飛騨金山コースと同じ10km程度歩くことにした。家から5kmと少々のショッピングセンターまで往復。いらないと思った手袋が役にたつ北風。100均で買い物をして、「韓丼」の店で「すん豆腐チゲ」の昼食、午後2時には家に帰着。いい汗をかいたこれくらいとは、思うものの疲れた!
2024/11/24
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土曜日、新大阪駅近くで高校の同期会が開かれた。今月初めに手に入れた身障者手帳を使ってJRの割引乗車券を買うことにした。前もって調べたら「みどりの券売機」は使えないようだった。駅窓口で買うため予定より1時間前に並んで買った。ほかに客がいなかったので窓口の係員に「みどりの券売機」では買えないんだねと言ってみたらこの駅のは「みどりの券売機プラス」だから割引切符も買えますよそこのボタンををタッチしてオペレーターを呼び出し、身障者手帳をカメラの下に置くと買えます。そういえば、ジパング倶楽部手帳で割引切符を買うとき、この機械を使ったな。最初に探した情報が「係員のいる窓口で」となっていたので、間違ったが「みどりの券売機プラス」で調べればと、すぐわかったのだった。「みどりの券売機プラス」が設置してあるかどうかは、「○○駅にみどりの券売機プラスはあるか」と検索すればすぐわかる。というようなことだったが、土曜日、新大阪駅での同期会の後、岩国市の実家に顔を出そうと、記念すべき初の「身障者割引乗車券」は駅窓口で岡崎~新岩国往復を買った。特急料金は割引にならないが乗車券が半額だと「ジパング倶楽部」の乗車券と特急券それぞれ3割引と同じくらいの割引金額になった。次は「みどりの券売機プラス」を使って割引乗車券を買うことにしよう。その時は前もって「乗車券・特急券申込書」を記入しておいた方が、早く済む。ネットでも申込書印刷画面は手に入る。
2024/11/20
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土曜日、新大阪近くのホテルで「昭和40年岩国高校卒業同期会」があった。今年も無事参加できて良かった。今年の参加者は11人、去年参加したが今年は欠席、去年は参加出来なかったが今年は出てこれたと、この年齢になるといろいろとある。関西在住の者が主だが東京、広島、岩国からの参加者もいる。この1年の各自の過ごし方を話題に3時間、来年の開催を決めて別れたが最後に合唱した校歌が翌日も頭の中を流れ続けた。幹事から来年の開催は11月14日(金)を予約したとメールで連絡があった。「また会おう」
2024/11/19
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11月13日、愛犬タイガが18歳の誕生日を迎えた!!!同じ日に生まれた小麦が今年はじめになくなってタイガも足腰弱ってヨロヨロだったがなんとか18歳の誕生日を迎えさせてやりたいと珍しくかみさんと息を合わせて頑張ってきたタイガは室内犬なのにトイレは庭でさせていたのだが昨年あたりから「白内障」の症状が表れて目が見えなくなった。放っておくと、そこら中で小便を垂れる。2時間から3時間おきに、庭に出してやると小便も大便もなんとか間に合う。もう1年も、タイガの大小に付き合っている。人間と違って、なにも言わないからなんとか続いているのだが大変は大変なのだ。大変なのだが古希を過ぎた夫婦が気を合わせてタイガの面倒を見ているというのはちょっと良いと思っているのだ。タイガの好物は、かみさんの朝食のミルクティーケアが大変だけどミニピンの高齢記録(私が調べた範囲) 20歳を目指して欲しい。
2024/11/16
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