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フィギュアスケートの高橋大輔選手が、2009-2010シーズンのフリーに使った、ニーノ・ロータ作曲の「道」。この楽曲はロータが、フェデリコ・フェリーニの同名映画(1954年)のために作ったもの。だが、高橋選手がカメレンゴ振付で表現した世界と、フェリーニ映画の物語とには、直接的な関連はないと思う。映画「道」は、フェリーニ作品の中では、かなり筋が「マトモ」でわかりやすい。重い作品だが、リアリズムとファンタズムが交じり合う世界はフェリーニ独自のもので、かつ一種の「ロードムービー」としての魅力もある。そして、「道」はのちの「サテリコン」(1969年)とコインの裏表のような関係になっている。古代ローマ帝国の退廃を描いた「サテリコン」とイタリアの貧困を描いた「道」は、一見まったく異質な作品のようだが、サテリコンも青春の放浪をテーマに据えた一種の「ロードムービー」的ロマンチシズムをもち、かつ物語の展開のカギになるのが、2人の主要人物のうちの一方が第三者に抱く「嫉妬」であるということも「道」と共通している。「サテリコン」は原作では、貴族階級のエンコルピオが美少年奴隷のジトーネと南イタリアを旅する物語だが、フェリーニはそれを、エンコルピオ(ブロンド君)と同年代の青年アシルト(黒髪君)との旅に作りかえている。フェリーニによれば、2人はローマ時代の「ヒッピー」。エンコルピオが少年ジトーネに夢中になったことにアシルトが嫉妬して割り込んだことが発端となって、2人の運命は変転し、果てしないさすらいが始まる。「道」では、女主人公のジェルソミーナを連れて旅する大道芸人のザンパノが、ウマの合わない綱渡り芸人「イル・マット(キチガイ君というような意味の仇名)」をケンカのはずみで殺してしまうことで、2人の運命が暗転することになる。ザンパノとイル・マットが些細なことでことごとく対立するのは、2人の相性が悪いからというだけでなく、イル・マットが微妙にジェルソミーナにちょっかいを出すのが、ザンパノのカンに触ったためでもある。男がいかに嫉妬深い生き物か、フェリーニはよく知っているようだ。主人公のザンパノ。野性的な男で、その肉体の強さを生かした大道芸でなんとか食いつなぐ日々を送っている。見るからに軟派のイル・マット。「うらみはないが、ザンパノの顔を見るとからかいたくなる」などとふざけている。この軽い気持ちの「ちょっかい」が後に、深刻な悲劇を招くことになる。そして、もう1つの隠されたテーマ。それはキリスト教的価値観の扱われ方なのだ。「サテリコン」の宣伝コピー「Rome. Before Christ. After Fellini」というのは、空気を吸うようにカトリック的な価値観・倫理観を刷り込まれて育つイタリア人にとっては、実際のところかなり挑戦的なテーマだ。キリスト教的価値観に支配される前のイタリアを描こうとしたのが「サテリコン」なら、キリスト教的倫理観に徹頭徹尾裏打ちされているのが「道」だと言える。「道」のワンシーン。キリスト像をかかげて行列する人々の列。イタリアといえばこれ、の感がある。みずから跪く人々。ことにジェルソミーナの信心深さが端的に表われるシーン。ジェルソミーナの敬虔さは、ザンパノの大罪を目撃したあと、ジェルソミーナ自身の正気を奪い、ザンパノの良心そのものに変化(へんげ)して、ザンパノを追い詰めることになる。フェリーニ作品に共通して満ち満ちているもの――それは、ヒューマニズムだ。「サテリコン」でもっともヒューマニスティックなシーンは、死んだ友を主人公が悼むシーン(こちら)だが、「道」であまりにも印象的なのは、軟派でいい加減なイル・マットの口を通じて、神がジェルソミーナに語りかけるかのような言葉。「この世で役に立っていないものなんて、何もないんだよ・・・」「・・・(何の役に立つのかは)神様が知っている」観る者に生きる勇気を与えるこの台詞が、映画「道」を不朽の名作にしたと言ってもいいかもしれない。フェリーニは海辺の町リミニの出身。「サテリコン」でも海が効果的に使われているが、「道」でも同じ。海に向かって駆け出すジェルソミーナ。貧しく不運な彼女の人生の中で、数少ないが、確かにあった幸せな瞬間の1つ。思い切り走る彼女の背中には、みずみずしい無邪気さと活力に溢れている。生きる喜びはこんな些細な瞬間に宿る。人生の幸福とは、なにも人並みはずれた大きな目標を成し遂げるとか、誰も経験できない特別な時間を体験することではない。そして、ザンパノへの愛と未来への希望も。それは海とともに、確かにあったのだ。「主人公が出会う人間たちが、さながら大地の泡のように現われては消え、消えては現われる」というのは、フェリーニ作品にしばしば見られる特徴だが、「道」も「サテリコン」も例外ではない。途中で出会った尼僧と妻であるジェルソミーナを乗せて走るこのシーンは、Mizumizuが視覚的にもっとも好きな場面。ロードムービーの楽しさに溢れ、かつザンパノの、野卑だが男性的な魅力がよく出ている。ジェルソミーナも幸せそうな顔をしている。この尼僧との出会いは、ジェルソミーナにとってはザンパノから離れるチャンスでもあった。ジェルソミーナは不幸だとなんとなく察した尼僧は、「あなたがそうしたいのなら、ここ(修道院)に留まることもできるのよ」とささやきかける。まるで神からのメッセージのよう。神は尼僧の姿を借りて、ジェルソミーナに別の人生の選択肢――哀しい死から逃れる道――を示したのだ。だが、ジェルソミーナは自分の意志で首を横に振る。神に仕えるのではなく、人間の男性とともに生きる道を、彼女は自分で選んだのだ。ザンパノとともに去っていくジェルソミーナを見つめる尼僧の目は、彼女の行く末を知る神の目のようでもある。「悲劇」のあと、旅の風景も寒々しく変わる。2人の道は、さらに寒い場所へ向かう。これがこの映画、そしてこの世での、ジェルソミーナの最後の姿。言い訳のようにラッパを置いていくザンパノの卑劣さが哀しい。ジェルソミーナの末路を人づてに聞くザンパノ。このときの表情の変化、役者(アンソニー・クイン)の「表現力」は素晴らしい。そして、ラストシーンは夜の海へ。波打ち際での「ザンパノの涙」の長回しは、1つの作品のクライマックスに留まらない、映画史上に残る屈指の名シーンと言っていいと思う。観客の心にも、さまざまな感情が引き起こされるはずだ。Mizumizuが強く感じるのは、ここには極めてキリスト教的な罪と罰の解釈があるということだ。ザンパノ以外、誰もザンパノの罪を、それも二重の大罪を知らない。ザンパノが世間的・法的に罰せられることは、おそらくはないだろう。だが、海辺に突っ伏し、空を見上げて1人嗚咽するとき、ザンパノはこれ以上ないくらい罰せられていもいる。それはキリスト教的な言い方をすれば「神」によって。神をもたない人間から見れば、「良心」によって。ザンパノはジェルソミーナを愛していた。そして、ザンパノはそのジェルソミーナを失ってしまったのだ。永遠に。それはザンパノにとって、これ以上ないくらいの罰なのだ。Mizumizuはときに、罪人に対する日本人の強く、激しい懲罰意識にたじろぐことがある。罪を犯した人間は、もしかしたら誰も見ていない場所で、「神」(あるいは「良心」)によって強く長く罰せられているかもしれないのに。善良に生きていればいるほど、人はそうした想像力が働かなくなるようだ。ことに神をもたない日本人は。同じ先進国でもキリスト教国の多くで死刑が廃止され、日本では決して廃止されないであろうことも、神なしに自分たちの社会のモラルと秩序をどう守るか、日本人が伝統的・習慣的にその方法を知っているからだろう。罪と罰の意識の問題は、その国の社会や人々の精神が、進んでいる・遅れているといった二元論では語れない。だが、自分たちが大切にしている価値観を守ろうとする意識が、ときにヒューマニスティックな想像力を殺してしまうのは確かだ。ザンパノの転落は、なにもザンパノだけでなく、誰の身にも起こりうることなのだ。人はザンパノの行為を責めることはできる。だがザンパノの魂まで断罪することは、恐らく誰にもできない。それは神の領域なのだ。救いようもなく暗く重い物語のようでありながら、殺されてしまった男の「石ころだって役に立っている」という言葉と、殺してしまった男の言葉にならない涙が、不思議に観る者――神をもつ者も持たない者も――が背負った人生と心の重荷を軽くしてくれる映画だ。
2010.05.10
<きのうから続く>黒髪君(アシルト)を失ったブロンド君(エンコルピオ)は、元詩人で今は大富豪の出す船に乗せてもらおうと海へやってくる。ところが彼はすでに死に、「遺産が欲しくば、私の死肉を食え」と遺言を残していた。「カネが入れば、あとからうまいものがたらくふ食えるから…」と、遺産を目当てに人肉を食らう人々。そんな中、初対面のブロンド君に「一緒に船に乗るかい?」と誘う青年。知的で物静かな雰囲気の、ギリシア彫刻風に整った顔立ち。彼に見つめられてなぜか…ブロンド君、微妙に恥らってる?(キミ、つくづく守備範囲広すぎ)顔のアップも、ワンカットワンカット工夫しているのにご注目。背景にまったく何もないショットの次には、カメラの絞りを開け、後ろに船の一部をぼかして入れて周囲との距離感を出したショットが来る。どの角度から撮った顔を、横長の画面のどの位置にどう入れるか、1つ1つ工夫している。「Si(=Yes)」と答えるブロンド君に、ギリシア彫刻君が言う台詞、それは奇しくも黒髪君の最後の台詞と同じ、「Andiamo(=Let's go)」だった。(なぜか、このAndiamoという台詞には字幕がついていない)。いいカンジに見つめ合って、並んで船へ向かう2人。ここから先は、海上に浮かんだ島が映り、ブロンド君のナレーションになる。「その夜、私は彼らと船出した……初めて聞くケリシャやレクティス。香草の香る島でギリシアの若者が昔話を…」ここでいきなりナレーションが途切れる。そしてブロンド君のアップが映り、それが壁画の絵に変わっていく。音楽はニーノ・ロータ。だが、音楽といえるほどの音楽はほとんどない。盲目の吟遊詩人がつまびくような、シンプルな――聞きようによってはたどたどしい――竪琴の弦の音が風の中から聞えてくる。風の音はどんどん強くなる。弦の音をかき消すほどに。カメラが引いていき、観客が目にするのは…壁画の中の人物となった登場人物たち。ブロンド君、黒髪君、2人が争った少年、暴将リーカ、自殺した善き貴族もいる――こうしてギリシアの若者から昔話を聞いたブロンド君自身が、昔話で語られる存在となったところで、フェリーニの『サテリコン』は終わる。物語の冒頭で、壁画の残る壁に向かって、「大地も嵐の海も俺をのみこめなかった」と叫んでいた若者の強烈な自意識。それから、怒りがあり、諍いがあり、失恋があり、享楽があり、快楽があり、危険があり、戦いがあり、悪巧みがあり、どんでん返しがあり、挫折があり、奇跡があり、永遠の別れがあり、新しい出会いがあり、そして遠い未知なる世界への出立があった。これはある意味、あらゆる少年が憧れ、夢みる壮大な冒険の旅そのものだ。誰かを愛し――キリスト教の狭い道徳観に縛られない愛は自由で奔放だ――誰かに愛されたとしても、ある日、心を痛めてその人と別れることになる。だがそのあと、また別の誰の人と出会って、さらに遠い、もっと広い海へと船出するのだ。そして、すべてをのみこんで時が流れる。最後には誰も彼も、切れ切れの弦の旋律の混ざる、強い風の音の向こうに消えてしまった。<終わり。明日からフィギュア・スケート、中国大会についてです>
2008.11.06
<きのうから続く>ブロンド君が「剣」を取り戻しているころ、1人で外にいた黒髪君は、刃物をもった暴漢に突然襲われる。自分の命が危険にさらされたとき、黒髪君は思わず大声で、「エンコルピオ!」と、ブロンド君の名を叫ぶ。「助けてくれ」の言葉はない。だがそういう意味だ。黒髪君がブロンド君を頼ったのは、このときが初めて。物語の最初で2人は、1人の少年をめぐって取っ組み合いの大喧嘩をした。「もう友達ではいられない。別々の道を行こう」とブロンド君に言われて、黒髪君は彼のもとを去った。だが共に奴隷として捕らえられた船の中では、ブロンド君が集団暴行を受けると、黒髪君が助けに来たのだ。もちろん、黒髪君の叫びは、「剣」を取り戻すべくエノテアを待っているブロンド君には届かない。なんとか暴漢を倒したものの、致命的な重傷を負った黒髪君。それでも、よろよろしながらブロンド君のところにやってくる。これまでどちらかというと下品で粗野だった黒髪君。ところが、ブロンド君に「Andiamo(行こうぜ)」と声をかけるこのときの表情は、ひどく真剣で、これまで見たこともないぐらい美しい。「剣」を取り戻して有頂天のブロンド君は、黒髪君の異変に気づかない。外へ出たとたん、力いっぱい走り出す。黒髪君にはもはや彼を追う力はない。倒れそうになりながら、無言のまま元気に走っていくブロンド君を見ている。…と、希望にあふれた声で黒髪君を誘うブロンド君。彼らはいつもなぜか一緒にいたが、はっきり口に出して「一緒に行こう」とブロンド君が黒髪君に言ったのは、これが初めてなのだ。もともとの身分は黒髪君のほうが低かった。冒頭で2人のしゃべる台詞を聞いても、語彙や表現力に「格差」がある。黒髪君にはブロンド君のような教養はない。ブロンド君は、黒髪君のことを「体を売って自由になった男」と蔑んでいた。黒髪君は「友情なんて、都合のいいときだけさ」とうそぶいていた。だがとうとう、ここでブロンド君は黒髪君に、「お前と一緒に、どこか遠くへ行きたい」とハッキリ言葉にして言うのだ。その台詞を聞くか聞かないかのうちに、黒髪君は倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまう。最後の最後まで、「痛い」も「苦しい」もない。黒髪君のブロンド君へのこの世での最後の言葉もまた、「Andiamo(行こうぜ)」だったのだ。一緒に行こう――お互いにそう言いながら、結局2人はもうそれ以上、一緒に行くことはかなわなかった。黒髪君が死んでいるのを見つけ、初めて彼が深い傷を負っていたことを知るブロンド君。観客は暴漢に襲われた黒髪君が、ブロンド君に助けを求めたことを知っている。ブロンド君は、知らない。だからなおさら、ひざまずいて友の死を悼むブロンド君の独白が、観る者の胸にいっそう切なく響いてくる。ブロンド君(泣きながら黒髪君の手に自分の手を重ね)「あの傲慢なお前はどこに行った……はかなき者よ、心を夢で満たそう。神々よ、何と目的地から離れていることか」「はかなき者」とは誰のことだろう? もちろんはかなく死んでしまったのは黒髪君だ。だが、黒髪君の死を通して、ブロンド君は自分も同様に「はかなき者」だということを知ったのだ。そして、生きとし生けるすべての者は「はかない」のだ。だからこそ、「心を夢で満たして」生きようと、ブロンド君は語りかけている。「何と目的地から離れていることか」――ブロンド君は黒髪君と遠くへ行きたかった。どこかはわからない。だが、ここではないどこか、夢がかなう場所だ。自分はまだ、そこからは遠いところに留まっている。これもまた、あらゆる時代の若者が、未来への憧憬とともに抱く焦燥感だ。そして、物言わぬ友を悼む青年の心そのもののように、重く垂れ込める雲。画面の3分の2を、大きな曇天が占めている。『サテリコン』の映像の魅力は、こうした非常に広い景色を大きく撮ったショットと、登場人物の感情の動きをハッキリ映し出すドアップのショットが効果的に使われることにもある。観客は、あるときは壮大なランドスケープの中の小さな存在となり、あるときは同じく小さな存在であるはずの登場人物の感情に、至近距離で寄り添うのだ。共に旅してきた友の突然の死。ひとしきり悲嘆に暮れたあと、青年は立ち上がり、1人で歩き出す。少しだけ雲が上がり、天と地の間から、明るい光が射しはじめた。光に向かって歩くブロンド君。この黒髪君の死の場面に満ちあふれるのは、ヒューマニズムだ。そう、フェリーニという人は、どんなにグロい映像を撮っても、どんなに倒錯した世界を舞台にしても、ヒューマニズムを決して手放さない。それがヴィスコンティやパゾリーニにはないフェリーニの魅力。そういえば、この粗野・乱暴・身勝手・奔放・天真爛漫・純粋な黒髪君のキャラクターは、どことなく『7人の侍』(黒澤明監督)の菊千代に通じるものがある。フェリーニ自身も、『7人の侍』でもっとも印象に残ったシーンとして、戦火の中で、燃えさかる水車小屋から間一髪助け出された百姓の赤ん坊を、ミフネ演じる菊千代がその手に抱いて、「この子は俺だ。俺もこうだったんだ」と叫ぶ場面をあげている。菊千代は他の仲間の侍とは違い、実は百姓の出。見かけは屈強だが、侍にはあるまじき振る舞いの数々で、仲間には出目はバレている。菊千代自身は身分を隠していたのだが、実は焼け出された赤ん坊と同じく戦争孤児だったということを、その場面で間接的に告白した。そして、「この子は自分」だと菊千代が言うことで、彼が戦闘で――わりあい「簡単」に――死んでしまっても、観客の心は救われる。「菊千代は死んでしまった。でも、あの赤ちゃんは生きているじゃないか」と。そうやって菊千代と赤ん坊の命がつながっていくのだ。『サテリコン』でも、ブロンド君が黒髪君の手を握り、「はかなき者よ、心を夢で満たそう」と語りかけることで、終わった命がまだある命に重なっていく。人はある時、あっけなく死ぬ。だが、死ぬまでは、誰しも心を夢で満たして生きることができる。<明日へ続く>
2008.11.05
<きのうから続く>「剣」を取り戻すべく「快楽の園」にやってきたブロンド君&黒髪君。ブロンド君には回復のための治療(祈祷?)が行われる。それは、女性たちが笛を吹きながら、細い棒でブロンド君のお尻をペチペチするという意味不明の行為。お尻むき出しでガマンのブロンド君役マーティン・ポッター。イケメンなのにねぇ、何の因果でこんな恥ずかしいカッコ……一方、「剣」をもつ黒髪君は、そんなブロンド君を尻目に大はしゃぎで「快楽の園」へ。複数の美女&非美女(この彼も守備範囲は相当広い)をとりまぜて巨大なブランコに一緒に乗り、ぐるんぐるん振り子運動。黒髪君と女性たちとの戯れのシーンでは、カメラもブランコに乗って移動し、視点が黒髪君になったり、一緒に乗ってる女性になったりするので、観客はエロチックなお遊びに自分も参加しているような気分に酔う。まさに「男の夢」を寝床の夢で見ているような、浮遊感と昂揚感を同時に味わわせるニクイ演出。超お楽しみの黒髪君を見て、置いてけぼり状態のブロンド君はいてもたってもいられない。と、必死の形相。この場面、イタリアの映画館だったらゼッタイ爆笑だったと思うのだ。DVD観ながらMizumizuは身悶えて笑ってしまった。しかし、映画封切り当時の日本の観客はきっと笑うことなく、「なんじゃこれ」と呆気に取られつつも真剣に観ていたんだろうな~、と想像するとまた可笑しくなってくる。「まじめ」に解説すれば、病気を治したい一心で、怪しげな治療(祈祷?)にハマる現代人への風刺だろう。でも、そんなことより、役者が真剣さが返って笑いを誘うコメディーだ。さんざん遊んだあと、美女に抱かれて、シアワセそうに眠る黒髪君(ほんっと、遠慮のないヤツだ)。そのすぐそばで、哀れブロンド君は……じと~ん。しかも、治療士(祈祷師?)は……「あなたはお手上げだわネ」と、あっさり見捨てて行ってしまう。万事休すか…… と思ったところに、掃除人が「魔女エノテアなら治せる」と耳寄り(いい加減?)な情報。溺れるものは藁をも掴む。さっそく黒髪君をともなって、魔女エノテアに会いに行くブロンド君。「俺に会うために出てきてくれるかなぁ」と、黒髪君に不安な気持ちをぶつけるブロンド君(いつも精神的に頼ってる)。伝説によれば魔女エノテアは、小麦色の肌に青い瞳が美しい、超スリムな美女。ところが、ブロンド君の前に現れたエノテアは……推定50キロは体重が増えていた! なんというか、いいオジサンが、昔憧れていた教室のマドンナに30年ぶりに同窓会で会って、あまりの変化にショックを受けるときって、こんなカンジかね。アリですか? この変わりよう。つーか、別人でしょ、単に。本当にエノテアなのか?唖然とする観客を尻目に、ブロンド君はエノテアが現れてくれたと大感激。よくエノテアだってわかるよね。疑問はないわけ?疑問はまったくないらしく、ブロンド君に迷いはない。この変わり果てたエノテアと狂喜しながら(熱演、ご苦労さまです)交わり、見事に「剣」を取り戻す! ということは、やっぱエノテアだったのね。大喜びのブロンド君。だが、そのころ、ブロンド君から離れて外にいた黒髪君には大変なことが起きていた。<明日へ続く>
2008.11.04
<きのうから続く>どういうワケか、山から突き落とされたブロンド君は、迷路のような決闘場に強引に導かれ、仮面の怪人と戦うことになる。しかし、じーさんのリーカにも負けたブロンド君は、案外弱い。あっという間に地面に叩きつけられ、勝敗は明らかに。物語冒頭では、黒髪君のことを、なんつって蔑んでいたクセに、決闘に負けて命が危なくなったとたん、ブロンド君たら、怪人に向かって、ぬぁんて、色仕掛けで命乞い。リーカで味をしめたか?字幕ではスッパリ抜けてしまっているが、この命乞いの場面、ブロンド君は、怪人に「Caro, Minotauro(親愛なるミノタウロスよ)」と呼びかけている。これは重要なポイントなのだ。つまり、ブロンド君が闘ってる相手はギリシア神話で、クレタ島はミノス王の迷宮に住んでいた、人身牛頭の怪物ミノタウロスのイメージなのだ。これがそのミノタウロス。しかし、なんだろうね? イボイボのついた見るからにいかがわしい棍棒といい、紙粘土かなんかで作ったようなテキトーな仮面といい、遊んでるでしょ、制作者。マジメに解説すると、怪物ミノタウロスはギリシア神話では、アテナイの王テセウスによって倒される。そして、テセウスはミノス王の娘アリアドネと恋に落ちる。さて、ブロンド君を倒したミノタウロスは仮面をとると、けっこう善人そうな精悍な顔立ちの青年で、リーカと違ってソッチ系の趣味はないらしく、と見物人に向かってさわやかに宣言。はあ? それじゃあ何だったの、今までの決闘は??何が何だかわらかにうちに、見物人のお偉いさんからも、「詩人とも呼ぶべき教養ある若者よ!」といきなり持ち上げられるブロンド君。なんで、そーなるの?(もちろん、「まじめ」に解釈すれば、たいしたことしてないのに、突然周囲に祭り上げられてしまう、現代の「にわかスター」を皮肉ったスクリプトだ)。さらに、「アリアドネが待っておるぞよ」と、ミノタウロスを退治してもいないのに、なぜかアリアドネを与えられるブロンド君。もはや問答無用のハチャメチャな展開。さらにさらに、衆人看視の露天ベッドで、ヤル気満々でブロンド君を待っていた「アリアドネ」姫は、ギリシア神話のイメージからは程遠い、厚化粧のオバサン領域の女性。それでも、喜んで(?)身を投げるブロンド君。ところが肝心のものが役に立たなくなったようで、アリアドネは大激怒。「太陽のせい」「もう一度……」と必死にトライ(というのか、そーゆーの?)しようとするブロンド君なのだが、アリアドネは、聞く耳を持たず、「schifo! (汚らわしいわよ!)」と、ブロンド君を罵倒しまくる。どっちかというと、キミの金銀緞子みたいな奇抜なメークのほうが、schifa(胸がむかつく)だと思うのだが、快楽主義のこの時代、そういう男性は一番面目が立たないらしく、金銀緞子化粧のアリアドネに思いっきり蹴り倒され、「わ~!」と派手に溝に落ちてしまうブロンド君。もうギャクでしょ、この展開。テセウスによるミノタウロス退治をパロッたコメディーだとしか思えない。テセウスになれなかったブロンド君は、半ベソかきながら、なぜか黒髪君に……当然、黒髪君には、笑われる。「剣」を失ってドヨヨ~ン状態のブロンド君。「快楽の園」で治療ができるとかで、黒髪君と連れ立って旅立つ(なんで黒髪君までくっついていくんだ?)。<明日に続く>
2008.11.03
<10/24のエントリーから続く>若者の放浪記に必要なもの。それはやはり「アバンチュール」。『サテリコン』にはちゃんと、青春時代の刹那の出会いと呼ぶにふさわしい夢幻的エピソードも織り込まれている。ブロンド君の将軍妻が殺され、美(??)少年ジトーネも奪われたあと、ブロンド君と黒髪君はこれまでの諍いがウソのように、仲良くよりそって冒険の旅を続ける。これは失脚が明白となり、自殺を選んだ善き貴族の館に迷い込んだ2人。不気味な静寂が流れる中、ただならぬ気配と光景に思わず黒髪君を抱き寄せるブロンド君。2人が来る直前、館の主夫妻はみずから命を絶っていた。キリスト教では自殺は許されざる罪だが、ローマ時代は美学だった。このあたり、日本のサムライのハラキリ文化に似ている。ローマ時代の自殺の作法は、リストカット。そして意識が遠のくまで会話をするのが、たしなみのある者の流儀だった。静寂の中で、2人の若者が見たものは、みずから息絶えた館の主とそのあとを追った妻。もぬけの殻に見えた屋敷だが、ブロンド君はそこで、黒人の美人奴隷が1人残っているのを見つける。彼女は小鳥のさえずりのような不思議な言葉を話す異邦人。一目で気に入ったブロンド君は彼女をつかまえてニッコリ(ほんっとキミ、守備範囲広いね)。ブロンド君のもってるいいモノは、なんでも横から欲しがる黒髪君も途中から割り込んできて、3人ではしゃぎながら水浴びなどしたあと……スリム・ビューティーを仲良く分け合う2人。そのうちに、黒髪君の目が潤んできて、ブロンド君の髪をやさしく愛撫。ブロンド君もすぐに指をからめて、すっかり「友情を逸脱した行為」に入る2人。黒人のスリム・ビューティは、どこまでも楽しげ。いいムードで盛り上がってきた2人にベットを譲り、自分は部屋の隅で眠るものわかりのよさ。しかし、なんなんだろうね、この2人の若者は。物語の最初では、ブロンド君は壁に向かって、黒髪君のことを、なんて罵り、黒髪君は黒髪君で虚空に向かって、ブロンド君のことを、「あいつは暗闇でしか人を殺せないウスノロさ」などとバカにしていたのだ(しかし、どーゆー悪口やねん?)。結局あれは、痴話ゲンカだったということネ。ブロンド君が美(??)少年に熱を入れ始めたのが気に入らなくて、黒髪君が割って入り、売り飛ばして遠ざけたということか。すっかりくつろいで、青春のアバンチュールを堪能した2人。黒人・スリム・ビューティーに食べ物までサーブしてもらい、「うめ~」とご満悦。だが、それもつかの間、新皇帝の部下が屋敷に押し入ってきたのを見て、逃げ出す2人。このあと、「神の子」と呼ばれる両性具有の子供をさらって一儲けしようなどと悪巧みをするのだが、肝心の神の子は超虚弱体質で、太陽の光にあたって死んでしまう。それの罰ってわけなのか、急に高い山の坂から突き落とされて、決闘を強いられることになるブロンド君。ほとんどハダカ同然のカッコで、土ぼこリを上げながら転がり落ちるブロンド君。いや~、主役とはいえ、大変だなあ、この映画の撮影。泥だらけで数十メートル転がり落ちたり、リーカとの肉弾戦では、体中にオイル塗りまくって抱き上げられたり、投げ飛ばされたり。このあとも蹴り倒されて溝に落ちたりするブロンド君役マーティン・ポッター。おつかれさまです。<明日へ続く>
2008.11.02
<きのうから続く>『サテリコン』の時代の人々の運命は、風に弄ばれる木の葉のよう。浜辺でブロンド君が、自分を捨てて友と去った美(??)少年を想っていると……皇帝の側近、暴将リーカに捕らえられ、黒髪君と美少年ともども奴隷同然に彼の船に乗せられてしまう。そして、船は行く。アドリア海に面した街、リミニ出身のフェリーニ。海、そして船はフェリーニ映画とは切っても切れない関係。甲板に立つたくましい男。レスパリエ(拍子をとる漕ぎ手)の声が響く。非常に美的な仰角のカット。船の中では、仲睦まじい黒髪君と美(??)少年の姿に苦しむブロンド君。だが、ブロンド君のチュニカに目をつけた連中が、集団でブロンド君に襲い掛かると、なぜか黒髪君が助けにやってくる。ブロンド君のほうは暴将リーカに呼び出され、素手の勝負をすることに……初めからスケベ心ムンムンなリーカ。おじいさんだが、腕っぷしはめっぼう強く、取っ組み合いながら、「お前の身体は若くて柔らか~い」「澄んだ目をしてる。青い目じゃ~」とブロンド君をさんざん弄ぶ。とんでもないヘンタイ・リーカだが、演じているのはフランスの名優アラン・キュニー。フェリーニ監督の『甘い生活』では、インテリジェンスな哲学者役だった(下の写真の左)。それが、『サテリコン』では……ジタバタと抵抗するブロンドの美青年(ほとんど裸)を力ずくで簡単に組み伏し……ブロンド君も観念したのか、途中で抵抗をやめて、素直に受け入れる。これを見て周囲は、なぜかヤンヤの喝采で盛り上がっている。(謎)暴将リーカはむちゃくちゃブロンド君が気に入り、(……だそうな)結婚することに。(呆)リーカとブロンド君の結婚式は甲板で。このワケのわからない成り行きに、悪友の黒髪君が吹き出して爆笑している。それを見たブロンド君も……なぜか自分でも笑ってる?リーカは大真面目。しかも、なんと、リーカのほうが「花嫁」で、ブロンド君が「花婿」なのだ!リーカはヘリオガバル・タイプということネ。なるほど~(と感心してどーする?)。マジで嬉しそうなリーカ。このあと花婿と手をつなぎ、愛情たっぷりに頬にキスしたり、じっと熱いまなざしで見つめたり、どこからどう見ても嫁ぐ女性そのもののほほえましさ(なワケないって!)。いやあ、アラン・キュニーは本当にうまい役者だ。しかし、マルセル・カルネ監督の『悪魔が夜来る』のころのキュニーは、こんなシリアスなイケメンだったのに……突然、暴将の花婿にさせられてしまい、「花婿は過去の少年への愛を忘れ去らねばならぬ。夫として従順であるように」などと余計なお説教までされ、ブロンド君はさぞや我が身の不運を嘆いていると思いきや……え? 幸運だったの? まあ奴隷よりは花婿のがいいワナ。だが、その運命も、海から引きあげられた腐体が暗示するように、あっという間に変わる。皇帝が死に、新しい皇帝が戴冠した。旧皇帝の側近だったリーカはたちまち逆賊となり、問答無用で首をはねられ、海に浮かぶハメに。やっぱりこのリーカのモデルはヘリオガバルだな。切り立った白い岩肌を見ると、ロケ地はやっぱりアドリア海側なんだろうな~。などと考えているうちに、船でのエピソードは終わる。新皇帝の部下に、美(??)少年ジトーネは連れ去られ、残された黒髪君と「妻」を殺されたブロンド君は(なぜか)一緒に放浪の旅に出ることに。<11/2のエントリーへ続く>
2008.10.24
抑圧されたセクシャリティというのは、ヨーロッパ映画ではしばしば取り上げられるテーマだが、そもそも「(大多数の)人と違う」セクシャリティをもった人々が、それを隠して生きなければならなくなったのは、キリスト教的価値観がヨーロッパ世界を支配したため。キリスト教では、生殖目的以外のセックスは罪だとみなした。ある意味、イエス・キリストは性の弾圧者の1人なのだ。キリスト教国はこの価値観を、武力をもって、植民地政策とともに世界中の国々に押しつけた。比較的自由でいられたのは、アジアでは日本やタイなど、欧米列強の毒牙にかからなかった国だが、そうした国でも「進んだ国」からの干渉は免れえなかった。今もキリスト教徒は自分たちとは違ったモラルに生きる人々を後進的だど決めつけ、直接的、あるいは間接的な洗脳運動に余念がない。『サテリコン』は、こうした「キリスト教的な性のモラル」が生まれる前のローマが舞台。予告でのこのキャッチコピーがすべてを物語っている。一般に『サテリコン』は、古代ローマの退廃と堕落を現在社会になぞらえて風刺したものと解釈される。たしかに「まじめ」に考えればそうかもしれない。だが、この映画を見る限り、フェリーニはキリスト教的なモラルのない世界を、ある程度の共感をもって、楽しみながら再現しているように思うのだ。なぜなら、この映画、相当「おかしい」のだ。相当「笑える」のだ。批判精神だけで、こんなにどっぷりと、こんなに情熱をもって古代ローマの世界を再生できるものではない。監督はこの時代のこの雰囲気が、「好き」なのに違いない。『サテリコン』は難解だ、という人がいる。確かに筋はハチャメチャだし、本筋と関係のない独立したエピソードが突然入り込んできたり、マジに理解しようとすれば難解かもしれない。だが、この映画は映像の移り変わりを見てるだけで楽しめる。理解しようとすると苦行になってしまうかもしれないが、あたかも夢に身を任せるごとく、フェリーニの世界に「付き合う」ことができれば、これほど楽しい映画はない。『サテリコン』の制作は1969年。ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』とかぶってくる。1970年代に入るとヨーロッパ映画は不安定で緊張した社会情勢を反映するように、個人の精神の破壊を描いた退廃的なものが増える。イタリア映画もその一翼を担うが、フェリーニは、一方にパゾリーニの世界、他方にヴィスコンティの世界を見ながら、やじろべいのように双方に揺れ、しかもパソリーニにもヴィスコンティにもない微笑みを浮かべて、みずからの均衡を保っているような気がする。たしかに『サテリコン』は隠微で退廃的だ。グロテスクでもある。だが、それでいて、やっぱりこの作品、相当のコメディであることも確かなのだ。物語は、壁画の描かれた壁に向かって1人で叫んでいるブロンドの美青年の姿から始まる。この台詞と情景はエンディングとぴったり呼応することになる。主役を演じているのはマーティン・ポッター。全然知らない役者で、どんな映画に出てるのかな、と思って調べてみたら、実写版『ベルサイユのばら』のジェローデル役をやっていたそうで…… へ~X3。とにかくこのイケメンのブロンド君、「アシルト」という男にむちゃくちゃ腹を立てている。よくよく聞いてみると、ブロンド君が所有し、かつ寵愛しているジトーネをアシルトが奪ったらしい。この黒髪の青年がアシルト。ブロンド君の愛人ジトーネと甘い一夜を過ごし、そのあと売り飛ばしてやったのだという。いつも思うことなのだが、『ルー・サロメ』にしろ、この『サテリコン』にしろ、もともと役者は口パク状態で、イタリア語を話していない。原語版からしてすでに吹き替えなのだ。なのに、なんで日本では常に字幕なんだろう? 字幕は文字制限があるから、どうしても情報が足りなくなる。たとえば、この場面、「拒んだ理由」は日本語では説明されていないのだが、イタリア語では、"Forse voleva dormire(たぶんジトーネは眠かったんだろう)"と言っている。つまり、拒んだ理由は、黒髪君がイヤだったとかブロンド君のことを考えていたとか、そういう深い理由ではなく、単にジトーネが眠かったからなのだ。こういうふうに、少しずつ少しずつ本来の意味が欠けていってしまうのが字幕の欠点だ。日本語で吹き替えしてしまえば、しゃべる速度はもっと速いので、より詳しく台詞を訳せるはずだ。役者がイタリア語をしゃべっていない映画まで字幕にこだわっていたというのが、よくわからない。字幕を見ていると、せっかくの映像を見逃してしまう。さて、イケメンのブロンド君ご執心のジトーネというのが、これ↓チョイおばちゃんが入っている美(??)少年。ブロンド君は黒髪君を呼び出して、腕づくで美(??)少年君の行方を聞きだし、連れ戻すのだが、せっかく2人になったところに、また黒髪君がやってくる。でもってブロンド君は……って……。友達だったんかい!? そうは見えなかったが(実はこの2人の「恋敵」は、最後まで「友達」なのだ)。ブロンド君と黒髪君は実は一緒に暮らしていたらしく(そうだったの!?)、「別々の道を行こう」と離婚する夫婦のように物を分配しはじめる。でもって、黒髪君の言うことにゃ……とうことで、ジトーネにどちらと一緒に行くか選ばせる。すると、売られた自分を連れ戻してくれたブロンド君ではなく、自分を奪ったあげく売り飛ばした黒髪君を選ぶジトーネ。2人はじゃれあいながら、楽しげに去ってしまい……ものすご~~くガッカリするブロンド君。よしよし。このあとブロンド君は2人に殺意を覚えるのだが、地震が来てそれどころではなくなる。話はかわって、金持ちの晩餐に参加するブロンド君。なぜそ~なるのかは、あまり追求せずに観よう。これは、あなたが夜見る夢のように展開していく物語なのだから。カネにあかせたグロテスクな食事シーンはまさに現代社会への風刺。ご相伴にあずかっている男のこの台詞など……まるで今の日本人のことを言っているよう。生の実感がないまま浮遊する人々。そのたよりない感覚に身をゆだねて、短絡的にエロティックな行動に走る姿を、フェリーニのローマ世界はあますところなく映し出す。<続く>
2008.10.23
<きのうから続く>友人の死という現実から逃れるために、マルチェロはひとときの快楽に身をやつすが、その果てに見たものは……腐敗を始めた肉塊……彼とコミュニケーションを取ろうとする娘が現れるのだが、彼にはその心の声が聞えない。この水辺のシーンは、マストロヤンニの最晩年の傑作『みんな元気』に出てくる海水浴のシーンと似ている。名優マストロヤンニの若き日の名作『甘い生活』に対する、オマージュ的な意味合いがあったのかもしれない。つながることのできない人々の孤独やむなしい妄想や虚飾を描きながら、しかし、フェリーニの作品には、常にどこか不思議な明るさがある。『甘い生活』に関しては、主役を演じたマストロヤンニという人が初めからもっている、雑草のような生命力がその印象に寄与したかもしれない。フェリーニのファンでもあるアメリカ人監督マーティン・スコセッシは、そうしたフェリーニ作品の魅力について、「フェリーニは観る者に、『ぼくを信じて! さあ、ぼくの映画の中へ入っておいで』と語りかけている」と表現した。つまり、ここに妄想と創作の違いがある。フェリーニの登場人物たちが――あるいはそれが一般人であっても――抱く妄想は、それ自体は他者を必要としない。妄想はあくまで自分の欲望に奉仕すればいい。妄想は百人百様であり、第三者からの共感なぞ関係ない、他者の眼はむしろ邪魔なのだ。だが、創作は違う。創作というのは他者へのメッセージなのだ。だから、他者がたとえ存在しないとしても、創作は常に楽しい。自分のメッセージを受け取ってくれる人が、この世のどこかに、たとえ1人でも存在するかもしれない……そう思うことが、期待であり、希望であり、意欲になるからだ。フェリーニという人は本能的に、その楽しさを知っている。だから、どんなにエキセントリックな世界を描いても、たとえ古代ローマの最高に退廃的な倒錯の世界が舞台でも、どこかに突き抜けた視線があり、ヒューマニズムがある。きわめて独りよがりな人々を描きながら、決して独りよがりにならない――だから、スコセッシのように強くメッセージを受け取る若者が現れる。暗く狭い世界で、他者を拒否することで得る、むなしい快楽だけに惑溺しない大きさがあるのが、フェリーニが巨匠と呼ばれるゆえんだろう。実際、『甘い生活』の6ヶ月の撮影は、非常に楽しいものだったとマストロヤンニは自伝で語っている。「彼(=フェリーニ)にとって映画とは、いつだって遊びであり、お祭りであり、それもいつまでも終わらないお祭りだったのです」(『マストロヤンニ自伝』より)マストロヤンニはあまりに楽しかった撮影の日々が、たった6ヶ月で終わってしまったのが残念だったという。さらに6年ぐらい続いてほしかったと思うぐらいに。それはマストロヤンニにとって、俳優としてだけではなく、人間としても人生のなかでもっとも素晴らしい時間だったのだ。フェリーニ作品と切っても切れない俳優になったマストロヤンニは、監督フェリーニを「長い旅を一緒にした」親友だと言っている。その旅の果てに、親友が快復の見込みのない病に倒れたとき、マストロヤンニは目立たないようひそかに彼の病室を見舞い、そこで幻覚に悩まされていると言うフェリーニの話をつぶさに聞く。聞き終わったあと、マストロヤンニは、「それでオープニングシーンは決まりじゃないか」と、フェリーニの幻覚を、2人で次に撮る映画のテーマに――という夢に変えて話している。「そこから撮りはじめるとして、ラストシーンは君の故郷のリミニの海岸というのはどうかな。あっちこっちにスピーカーを置いてさ。君の映画音楽を流すんだ。ニーノ・ロータの音楽をね。すべてがリミニの海岸にとけこんでいくとき、ニーノの見事な旋律が流れてくる――フェデリコ、きっと素晴らしい映画になるよ」観客のいない病室で2人だけで交わした会話、そこに混ざり込む2人の現実と夢……つまりは長い旅である人生そのもの――20世紀を代表する名監督と名俳優が最後に作りあげた、最高の「友情のシーン」だろう。
2008.09.24
ルキーノ・ヴィスコンティ監督、マリア・シェル+ジャン・マレー共演の『白夜』で、ナストロ・ダルジェント賞を獲得し、10年間におよぶ映画界での下積み生活から脱出したマルチェロ・マストロヤンニ。その彼が、さらに大きな飛躍を遂げることになったのが、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)。社会風刺に富んだ鋭い切り口と、誰にも真似できない独特の幻想的な映像美で世界中に衝撃を与え、賞を総ナメにしたイタリア映画の金字塔だ。マストロヤンニはヴィスコンティによって見出され、育てられたといってもいい(ヴィスコンティとの出会いについてのエピソードは3/19のエントリー参照)が、彼を世界的な大スターにしたのはフェリーニのほう。相性でいっても、ヴィスコンティより明らかにフェリーニのほうがいい。音楽家のニーノ・ロータも最初はヴィスコンティと組んでいたが、やがてヴィスコンティとは離れ、フェリーニ作品とより深く結びつく。フェリーニ監督の『甘い生活』は、1950年代後半の国際都市ローマが舞台だが、その退廃と倦怠、将来に対する不安、個人ではどうにもならない閉塞感は、まるで今の日本のようでもある。ほぼ50年たって、アジアで最初に近代化を成功させた国家の国民の精神が、ヨーロッパの爛熟に近づいてきたのだろうか。『甘い生活』の主人公マルチェロは、作家になるという夢をかなえられず、ゴシップ記事の記者として自堕落な生活を送っている。監督のフェリーニがマストロヤンニにこの役をもちかけてきたときのエピソードは、『マストロヤンニ自伝』(小学館、押場靖志訳)に詳しいが、最初プロデューサーはポール・ニューマンを呼ぼうとしていたらしい。主役にはマストロヤンニを、と考えていたフェリーニは彼を呼び出し、「確かにニューマンは偉大な俳優さ。スターだよな。でも、彼じゃ大物すぎる。ぼくに必要なのは、どこにでもある顔なんだ」と言った。まったくの初対面でのこの失礼な言い方にも全然傷つかないのが、マストロヤンニのいいところ。さっそく、「それならおまかせください。どこにでもある顔といわれたら、ぼくしかいませんよ」と返している。フェリーニ映画に出たかった若きマストロヤンニは、そのあとちょっとだけ格好をつけて、でもできるだけ控えめに、「台本をざっと見せていただければ嬉しいのですが」と、プロの役者なら、まあ当然のことを要求した。すると、フェリーニは、「もちろん」といいながら、台本ではなく自分の描いた卑猥な絵を見せた。マストロヤンニは、一瞬、――からかわれてる?と戸惑うが、ここでカッとしないのが、また彼のいいところ。「とてもおもしろいですね。で、どこにサインすればよろしいんでしょう?」と契約を申し出た。これでマストロヤンニは、――この人には、台本を見せろと言っちゃいけないわけねと悟る。癇癪持ちのヴィスコンティの下で10年以上もやってきたマストロヤンニは、難しい監督ともうまくやっていく術を身につけていたのだ。それ以来、フェリーニから仕事の依頼があると、マストロヤンニは台本を読まずに承諾するという流儀を貫いたという。さて、『甘い生活』といえば、やはりトレビの泉。噴水に浸かった美女に呼ばれて、言われるままに近づく主人公マルチェロは……常に空虚な焦燥感を漂わせている。「舞台で大切なのは声の演技、映画で大事なのは目の演技」と言っていたマストロヤンニだが、『甘い生活』で見せる視線の孤独な虚無感は、確かに『白夜』にはなかった。彼を取り巻く女性も、外見だけは華やかだが、常に満たされない欲望をかかえている。衝動的に語られる「おいしいもの」への妄想。明るい瞳が、返って異様。こちらの彼女がとらわれているのは……愛の名を借りた肉欲と独占欲。娼婦に……という妄想で自らを慰めている。空虚なマルチェロの心の支えは、地に足をつけた生活をしている(ように見えた)友人。彼への憧れと尊敬を隠さないマルチェロ。だが、彼も内面には、解決できない悩みを抱えていた。子供2人を殺しての自殺――マルチェロの幻想を打ち砕く最悪の結末。身内同士で殺しあう……これこそ、まさに今日本で頻繁に起こっていること。さらに、夫と子供の悲劇を知らずに戻ってきた妻に、むらがるカメラマン。パパラッチというイタリア語は、この映画で世界中に広まった。無言でシャッターを切るパパラッチに、最初は笑顔で「なぜ?」と尋ねていた妻も、次第に尋常でないことが起こったと悟り、取り乱し始める。何も言わずに、ただフラッシュをたき、シャッターを切るカメラマンたち。人の不幸さえ食い物にするマスコミのおぞましい行為は、近代的なビルが建っているだけの、殺伐とした風景の中で続けられる。「無言」が、せめてもの、パパラッチたちの良心か、それとも……だが、1人がシャッターを切れば、負けじともう1人がまたシャッターを切り、その乾いた連続音が、観る者の怒りとやるせなさをいやがうえにも高めていく。<続く>
2008.09.23
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