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『ルー・サロメ 善悪の彼岸』の時代背景は20世紀直前のヨーロッパ。ブルジョアジー(資本家)とプロレタリアート(労働者階級)の貧富の差が社会問題になっている。赤い旗を立てて演説する人。戦争を仕掛けてますます富を蓄える資本家を糾弾している。「…気がすむんだ」。この部分、よりイタリア語に忠実に訳すと「裕福な者がますます裕福になる」と言っている。いつの時代、どの国でも、戦争で水ぶくれする資本家がいる一方、戦地に借り出されて悲惨な捨て駒になるのは、貧しい人々なのだ。知識階級は、こうした社会矛盾を主義・思想で何とか解決しようとしていた。それが19世紀末のヨーロッパであり、ルーもこうしたリベラルな知識階級のサロンに出入りしている。ニーチェもまた、彼自身の哲学によって人間的な生のありようを追究した。フリッツ(=ニーチェ)は映画の中で、赤旗を立てて演説する人に向かって叫ぶ。「ヨーロッパはナショナリズムと現実主義という病に侵されている! 国家を破壊しろ……」「感傷的な正義」と訳された言葉は、イタリア語で聞くとvostro sentimento、つまり「おまえたちの感傷」と言っているだけ。字幕の訳者はおそらく「国家を破壊しろ」にからめて、「そのためには感傷的な正義にかまけるな」と解釈したのだろう。だが、Mizumizuの耳には、この部分は単にragione(理性)に対立するものとしてのsentimento(感情)に流されるな、と言っているように聞えた。「国家を破壊しろ」というのも、いわゆるアナーキズムではなく、個人の内面において国家という枠にとらわれるな――ナショナリズムという病にかかるな――という主張ではないかと思う。このあとフリッツは、「そうすれば(人)生が戻ってくる(la vita tornera')」と言っている(字幕は、もっと突っ込んで、「そうすれば、人間は生を取り戻せる」になっていた)。この部分のニーチェの主張のMizumizu流の解釈は、「国家を破壊しろ、感傷的な正義を捨てろ、そうすれば人間は生を取り戻せる」というやや難解な字幕とは違って、「国にとらわれるな、感情に流されるな、そうしてこそ人は本来の生き方ができる」というシンプルなものなのだが、多少の解釈の差は訳す人間が違えば生じてくることで、たいした問題ではない。重要なのは、後に超人の哲学者として思想史にその名を刻むことになるニーチェの叫びを、このとき周囲の人たちは、まったく聞かなかったということだ。事実、生前のニーチェはその壮大な思想が理解されず孤独だった。映画では、このあと治安部隊によって追い払われる赤旗の演説者の姿が映し出される。演説を聞いていた人々も逃げてしまい、フリッツはむなしくその場に残される。『ルー・サロメ 善悪の彼岸』では、ニーチェの精神が自壊したとき、パウルも心中のように破滅する。だが、ルーは破滅も自壊もしない。映画の最後で彼女は、自宅に戻ったフリッツに会いに来るのだ。狂気のフリッツは、もはやルーを見ても何も反応しない。そんな彼の肩を抱き、まるで同志を鼓舞するかのようにルーは、とささやく。このあとフリッツの家族に見つかって追い出されたルーは、馬車で立ち去る。馬車の中には新しい恋人が彼女を待っている。このルーの行動は非常に奇妙だ。ふつう女は、昔振った男が重い病にかかったからといって、見舞いに行ったりなぞしない。別れてしまえばそれっきり、それが女というものだ。帰りの馬車の中でルーはフリッツとの思い出にふけるのだが、それは、林の中で、まるで男の子同士が取っ組み合うように2人してふざける場面。ルーは楽しげに声を上げ、顔まで泥だらけになる。ルーが微笑みを浮かべながら回想するのは、フリッツとのこの「じゃれあい」なのだ。だが、ルーは、フリッツがルーのオンナの部分を肉体的に求めてくると、嫌がって逃げていた。あるいは、多少応じながらも、軽蔑したような表情を浮かべていたのだ。フリッツとの議論なら、何日でも応じるルーだが、自分をオンナとして見るフリッツはうとましいのだ。このルーのセクシャリティを読み解くのに、打ってつけの小説がある。ジャン・コクトーの『白書』。コクトーは公式には性倒錯者をテーマにした作品は一切発表していないが、匿名で出版したこの小説は倒錯者のオンパレードだ。死んだパウルはルーに、「自分は女になりたかった」と告白するが、コクトーもジャン・マレーへ捧げた秘密の詩の中で、「ヘリオガバルになりたい」と書いている。ヘリオガバルはいうまでもなく、男性奴隷の妻としてふるまったローマ皇帝のこと。そして『白書』の主人公は、「ずっと昔から男性が好きだった」と自覚している男性の「私」。だが、「私」が惹きつけられてしまう女性もいる。そうした女性を「私」は「男色家の女」と奇妙な呼び方をしている。具体的にそれはジャンヌという名の、見た目は美しい女性だったが、結局のところ彼女の内面は男であり、その男の部分を「私」は愛したのだ。ジャンヌが女性とも関係をもっていたことで、「私」はそれに気づくのだが、要は肉体的には女性で、外見上も特に男性の真似をするわけでもないのだが、内面は男性であり、かつ恋愛対象としても男性(ただし、多分に女性的な部分をもった男性)を選ぶ――それが「男色家の女」であり、世の中にはそうした女がいるというのだ。ルーはまさにこのタイプ。ルーの自由な生き方は、従来は彼女の主義・思想からもたらされたものだとされてきた。だが、男と女は主義や思想で引き合うわけではない。ルーが男だと考えると、ルーの哲学者フリッツに抱く尊敬の念と友情も、自分をオンナとして求めるフリッツを拒否するわけも、「女になりたい」と密かに思っていたパウルなら受け入れるわけもすべて理解できる。ルーは男であり、男の部分でフリッツに友情をいだく。そして男の部分でパウルの女を受け入れるのだ。ルーはカールとも関係をもつが、その理由について、「獣のマネをするカールがおもしろいから」などとおよそ女とは思えない台詞を吐く。ルーにとってはカールとの関係は好奇心を満たすためのゲームにすぎないし、彼と結婚する気など毛頭なかった。ルーにとって結婚は束縛に他ならない。ルーは束縛を恐れている。犬の脚をきつく拘束して自由を奪うと、雄犬はたけり立ち、自由になろうと時には自分自身さえ傷つけるほど暴れるという。雌犬のほうは同じ状態にしても、しばらくすると諦めておとなしくなる。オスはメスよりも束縛に耐性がないのだ。男のように束縛を嫌っていたルーだが、カールが自殺未遂をすると、一転して「男らしく」責任をとって愛のない結婚に同意するのだ。こうした特異なキャラクターを演じるのに、ドミニク・サンダほどふさわしい女優はいない。サンダは非常に美しい女性だが、その整いすぎた顔はどこか中性的だ。彼女はいわば「ドレスを着たオスカルさま」であり、コケティッシュなマリリン・モンローやブリジット・バルドーとは違うのだ。正気を失ったフリッツの前に立ち、話しかけるルーの姿勢は、まったく女性らしくない。いかにもラフで男性的だ。そして、彼女が馬車の中に待たせている新しい恋人は、どこか女性的な雰囲気を漂わせている。ルー・サロメの実際の恋人だった詩人のリルケのイメージかもしれない。『ルー・サロメ 善悪の彼岸』はだから、むしろ隠されたセクシャリティをテーマとした作品なのだ。ところが、日本版のDVDときたらポニーキャニオン ルー・サロメ-善悪の彼岸 ノーカット版-こんなパッケージで売っている。「ノーカット版」というコピーといい、これじゃまるでふつうのソフト・ポルノみたいだ。おまけにあの美しいドミニク・サンダがまったく美しくない。これを見て「買いたくなる人」は、この作品全編に漂う倒錯した雰囲気に期待を裏切られたと感じるはずだ。主演女優のドミニク・サンダのヌードより、オトコのハダカのほうが多いのだから。逆に、こうしたテーマに理解のある人は、こんなパッケージじゃ見たいとは思わないだろう。たとえば男性でパウルの心情が「わかる」人は、福島次郎のようなタイプなのだ。そうした人は、このパッケージでまず引いてしまうだろう。要するに、宣伝方法がまったく間違っているということ。イチゴのパッケージで中身が強烈なゴルゴンゾーラ・ピカンテ……ぐらいの齟齬がある。イチゴと思って買ってゴルゴンゾーラを食べさせられて、気に入る人も中にはいるかもしれないが、それはごく少数だろう。ゴルゴンゾーラはゴルゴンゾーラを好む人に売るべきなのだ。
2008.10.22
<きのうから続く>ニーチェの実在の妹エリザベート・ニーチェは、兄の死後、自分に都合のよい兄の虚像を広めることに哀れなくらい心血を注いだ女性。でっちあげの伝記を書いたり、遺稿を勝手に改竄したりして後の研究者から怒りを買った。その動機は、主としてエリザベートが時の権力ナチスに擦り寄ろうとしたためだとされているが、『ルー・サロメ 善悪の彼岸』では、エリザベートが「偉大な思想家」にふさわしい――と彼女が信じる――モラリスティックな理想像を兄に押し付けていた様子が描かれている。特に道徳観において、現実の兄は妹からすれば、あってはならない行動を取る男だった。妹はそれが許せなかったし、受け入れられなかった。兄を堕落させたのはルーだとエリザベートは思い込んだ。実際のエリザベートも兄が連れてきたルーと面識があった。そして、彼女がルーを敵視していたことは、ルーへの中傷行為や密告からも間違いない。映画ではルーを伴って実家を訪れたフリッツ(=ニーチェ)への、妹エリザベートの恋情にも似た屈折した感情が描かれている。ルーを追いまわし、結婚してくれと叫ぶ兄に、妹は苛立ち、モノに当たったり、奇声をあげたり、病気だと言って兄の同情と関心を引こうとしたりする。そんなエリザベートを見て、ルーはフリッツに、「あなたは……」兄のほうは、そんな妹をうとましく思っている。代々牧師のお堅い家庭に育ったフリッツとエリザベート。だが、フリッツは男に縁のない純潔な女性というものが、いかに偏狭で、身勝手な妄想にふける生き物かを熟知していた。フリッツはルーに「処女だった叔母」の話をする。彼女はお堅い仮面の下に、常に満たされない性的な欲望を秘めており、自室で1人いやらしい行為にふけっていた。幼いフリッツはそれを盗み見して笑っていたのだ。そんなルーとエリザベートは、ある日とうとう直接対決する。それはルーも認めている。だが、フリッツは一方で、半ばだまされて入ってしまった娼館で、シチリア出身の若い少女と関係をもち、それ以来梅毒と娼婦性をもったオンナのカラダにとりつかれてしまった中年男。今は阿片にも溺れ、肉体的には自分に関心を持たないルーに対して、「ねぇ、ソコ、触らせてよぉ」などと必死に、情けなく迫るただのエロ親父なのだ。自分の中にしかいない虚像の兄に心酔している妹。そんな彼女をルーは吹き出さんばかりに、おもしろそうに眺めている。エリザベートはルーの身辺を調査し、「男だけのいかがわしいパーティに行った」ことも知っていた。だが、非難するエリザベートにルーは平然と、「言いたければ、フリッツに言えば?」。エリザベートはいわば、従来の保守的な価値観を守る女性。ルーは因習や習慣を離れて自由な自己を形成しようとする女性。もともと2人は水と油なのだ。だが、オンナ対オンナの闘いで、価値観や生き方とは関係なく、決定的ともいえる1つの残酷な勝敗の原則がある。それは、「愛されていない女」は「愛されている女」には心理的には決して勝てないということだ。どんなに時代が移り変わろうと、女性が精神的自由を獲得しようと、経済的に自立しようと、女性にとっては「愛されているかどうか」が自分の存在意義にかかわる大問題であることに変わりはない。現代女性がダイエットしたり、エステに行ったり、高価な服や装身具で身を飾ったりするのも、その目的は突き詰めれば、愛される存在になりたいからに他ならない。ルーはぐっさりそこを突いてくる。伝統的な価値観に忠実に、「純潔」を守っているエリザベートが一番認めたくないこと。それは、貞淑さとは程遠いルーにフリッツが一方的に惚れこみ、みっともないぐらい追いかけているという事実だ。そもそもモテナイ女はモテル女を許せない。エリザベートはあくまで「ルーのほうがフリッツを誘惑し、堕落させた」のだと信じていたいのだ。エスカレートするエリザベートの干渉に、フリッツの堪忍袋の緒が切れる。エリザベートに、「兄であると同時に恋人であってほしいんだろ? 認めろよ!」と詰め寄る。「おまえたち」とは妹と母のこと。エリザベートはここで自分が後生大事に守ってきた「純潔」が、兄にとっては価値のないものだと知るのだ。最愛の兄との関係が破綻したあと、彼女は結婚に走る。だが、兄が「偉大な思想家にふさわしい道徳的な存在」であってほしいという願望は変わらない。兄への書簡でこんなことを書いている。「あなたは…」ところが実像は、半ば狂った状態でも、道を行く若い女性に熱い視線を向け、帽子をとって挨拶し、ナンパの真似事をするようなオヤジなのだ。このあと兄が完全に狂気の世界の住人となり、精神病院に入ると、妹は兄の虚像を作るべく夫をそそのかして工作を始める。「ニーチェは医師との対話をとおして、道徳観を変えた」ことにするよう、医師に圧力をかけるエリザベート。彼女はそのために政治的な力も利用する。『ルー・サロメ 善悪の彼岸』で伝統的な因習と価値観に縛られた、凡庸な存在として描かれたエリザベート。平凡さゆえに非凡な兄に心酔し、現実とまったく違った、高い道徳意識をもった清廉な男性という虚像を彼の中に追い求めた。兄はそんな妹をどこかで嫌悪していたが、正気を失った晩年は、結局はその妹と実の母に生活の面倒を見てもらうことになる。「むしずが走る」とまで言った平凡な女の介護なしには、生きていくことさえできなくなるのだ。逆説めくが、生をまっとうする力という意味において、天才は常にもろく、平凡は常にたくましい。<明日へ続く>
2008.10.20
三島由紀夫の映画『憂国』――このフィルムを後に三島夫人は焼却して、この世から消そうとした――を見たとき、彼の愛人だった福島次郎は、内臓まではみだしてくる凄惨な切腹シーンに、三島の性的嗜好を感じ取っている(『三島由紀夫――剣と寒紅』より)。三島由紀夫が森田必勝といううら若き青年と、いわば心中のように割腹自殺を遂げたことは、表向き三島が主張した「憂国」という高邁な志の裏に、同性愛と切腹マニアという二重の倒錯性があったと推察できるし、実際に三島の自決は単なるオカマのヒステリーだと切り捨てた人もいた。この三島の最期を思うとき、奇妙に重なって思い出される映画がある。イタリアの女流監督リリアーナ・カヴァーニによる『ルー・サロメ 善悪の彼岸』だ。この映画の主人公は19世紀のヨーロッパ社交界で、幾多の知性を虜にした実在の女性ルー・サロメ(ドミニク・サンダ)。ルーのあまたある男性遍歴の中から、カヴァーニは比較的初期の「三位一体の友情」と呼ばれるニーチェとレーの2人の男性とサロメの共同生活を中心に、3人の出会いから関係の破綻、レーとニーチェの死までを、ルーの結婚をはさんで描いている。三島との共通性を強く感じさせるのは、パウル・レーという男性のキャラクター設定だ。レーは実在の人物で、哲学者でもあり医師でもあった。最初ニーチェと出会い、友情を結んだあとルー・サロメに恋し、ルーの申し出に応じるかたちでニーチェとの共同生活を始める。だが、まずレーとニーチェの友情が破綻し、次にサロメとの関係も終わり、医師としての生活を始めるのだが、その後謎の死を遂げている。この実際の人物にカヴァーニは、「同性愛」と「マゾヒズム」という隠された二重の倒錯性を与えることで、サロメとニーチェとの奇妙な三角関係を解き明かそうとした。映画『ルー・サロメ 善悪の彼岸』の冒頭で、パウルは奇妙な行動を取る。彼は友人のフリッツ(=ニーチェ)が自室に呼んだ娼婦と戯れる姿をこっそり覗き見するのだ。この窃視は、死の直前のパウルの脳裏にも別のイメージを伴った記憶として蘇ることになる。それから、パウルは才色兼備のルー・サロメに出会い、心惹かれる。ところが、ルーに話すことはといえば、友人のフリッツがいかにすぐれた思想家かとういことばかり。そんなパウルをルーは夜、「聖セバスチャン通り」という意味深な名前の通りで行われている、男だけのいかがわしい野外パーティに連れて行く。今風にいえば、そこはハッテン場。複数の男性にもてあそばれているこの若い青年は、映画の後半で自称キリストとなって、フリッツの、そしてパウルの幻想にも現れることになる。あまりの卑猥さにショックを受けたパウルは、ルーに「行こう」と促すのだが、ルーは平然と……男性ばかりの痴態を眺めている。こうした情景を見てるうちに、なぜかパウルは昂奮してしまい、ルーに襲いかかる。ルーは拒否するのだが、一方で、「2人の男性と暮らすのが私の夢」だとパウルに奇妙な提案をする。とまどうパウルにルーは、「もう1人の男性は…」ルーは「人の本性を一目で見抜く」女性。パウル自身が気づかないでいる彼のセクシャリティをすでに理解している。フリッツもルーに会うと一目で恋に落ちる。だが、フリッツは以前娼館で梅毒をうつされ、今は阿片にも溺れて男性としてはほとんど役立たずの状態になっている。3人はローマで共同生活を始めるのだが、奔放に交わる若いルーとパウルの姿にフリッツが嫉妬してしまい、破局へと進む。ルーは「大学で勉強がしたい」とベルリンへ。パウルはルーに同行し、フリッツは2人と別れてベネチアへ旅立つ。ベルリンでルーはカールという大学教授と関係をもつ。2人をなすすべもなく見つめるパウルだが、カールのほうはパウルの特殊性に気づいている。パウルはルーに、「カールとのセックスが好き?」などと、自分自身が傷つく質問をわざわざしては、あけすけなルーの返事に哀しげに笑っている。一方、ベネチアで死の幻想につきまとわれたフリッツは、パウルとルーのいるベルリンへ戻ってくるのだが、ルーはフリッツに会ってくれない。心配して様子を見に来たパウルに、絶望したフリッツはカミソリを持ち出し、「オレを切ってくれ」と懇願する。パウルは拒否するが、フリッツは「ルーならやるぞ」と迫る。パウルはパニックを起こし、ヘタレ感たっぷりに逃げ出す。ルーが現れる前は、友情で結ばれていたパウルとフリッツの関係は、これで完全に終わる。このあと、フリッツは梅毒の進行もあって、自傷行為に及んでいく。一方、ルーのほうものっぴきならない状況に陥る。思いつめたカールが、「結婚してくれなければ死んでやる」と腹にナイフを突き立てたのだ。ショックを受けたルーは、カールとの結婚を承諾するのだが、このとき初めてパウルに精神的にすがろうとする。病院に運ばれたカールの血痕の残る部屋で、ルーはパウルに、泣きながら「あなたも一緒に暮らして」と懇願する。ところが、ここでもパウルはヘタレぶりを最大限発揮。これまでどんな残酷な仕打ちをされても、ルーにつきまとって離れなかったクセに、ルーから初めて精神的なサポートを求められると、「No!」と絶叫して彼女を振り払い、逃げ出すのだ。実はこれは、パウルのもう1つの隠された特殊性が露わになっているシーンなのだ。それは「マゾヒズム」。パウルはルーが高圧的で手の届かない存在である間は、追いまわし、ひれ伏し、言いなりになっている。ところが誰かを必要とする弱い女性になったとたん、彼女から逃げ出す。この強烈なエゴイズムはマゾヒストの特徴であり、彼がフリッツに対して行っていた窃視も彼の嗜好の表われだったと理解できる。そう、パウルはずっとフリッツを愛していた。だがフリッツにはそのケはまったくない。フリッツは娼婦性をもった若いオンナに燃えるタイプだったのだ。フリッツは3人で生活していたときに、「パウルがルーを好きなのは、簡単にセックスできるから」だと言っていた。それはあながち嫉妬だけの台詞ではなかったことが、物語が進行するにしたがってだんだんに明らかになる。決定的になるのは、フリッツが発狂して精神病院に入ったとパウルが知ったとき。フリッツともルーとも別れたパウルは人生を立て直そうと、医師として1人で再出発していた。貧乏な患者からは治療費を取らず、逆に金銭援助をするなど、いわば「赤ひげ」としてふるまっていたのだが、あの偉大な思想家フリッツが、「馬に話しかける」ような状態に陥ったと聞かされたとたん、パウルの人生はまったく意味を失ってしまう。以前フリッツと娼婦の絡み合いを盗み見した記憶が蘇り、誰もいない自分の診察室のドアをそっとあけ、覗き見をするパウル。そこで彼が見たのは、女性ではなくたくましい男性を抱くフリッツの幻想。この男性は、ハッテン場で彼が見た若者でもあり、ベネチアではフリッツの幻想にも自称キリストとして登場する。幻想の中で2人の男性をつなぐ役割を果たしている。パウルは1人で酒場に行き、見ず知らずの青年たちに誘いをかけ、彼らから激しい暴行を受けて、川に突き落とされて溺死してしまう。暴行されながら、瀕死のパウルが見る幻想は衝撃的だ。手首を血がにじむほどしばられ、複数の男性にもてあそばれるパウル。マゾヒズムと同性愛というパウルが秘めていた二重の倒錯性を、カヴァーニ監督はここで容赦なく見せる。この残酷で嗜虐的なシーンには、奇妙なことだが、「女性」を強く感じる。これは女性が作った映画だな、と。パウルの人生はこうして終わるが、降霊術師のもとを訪れたルーに、あの世から戻ってきたパウルが最後にこう告白する。字幕にはないが、イタリア語を聞くと、この場面でパウルは"Sono felice"と言っている。「(そうわかったから、今は)自分は幸せだ」という意味だ。行きずりの男たちに痛めつけられ、虫けらのように殺されてしまったパウル。だが、自分自身を知った彼は「幸せ」なのだ。パウルの霊は「(このことを)フリッツに言えよ」と言って高笑いをし、消えていく。ルーも涙を流しながら笑い出す。やりとりを聞いていた「常識的な」老婦人は、「なんて恥知らずな!」と軽蔑と嫌悪感を露わにする。彼女はつまり、世間一般の感覚を代表する存在。思想家としてのニーチェが発狂という形で終わったとき、彼を愛していたパウルはもはや生きていくことができなくなる。そして、みずからたぐり寄せた死の瀬戸際で、パウルはこれまで隠してきた、自分が最高に昂奮する妄想に浸る。そんな自分に会いに来たルーに、今は「幸せ」だと笑うのだ。実在のパウル・レーがこうした人物であったという証拠は何もない。これはカヴァーニ監督の仮説だ。レーは哲学者としてニーチェの思索にも影響を与え、医師としても活躍したすぐれた人物だった。だが、高い知性の裏には、常にではないにせよ、しばしば、複雑に屈折した倒錯性が寄り添っていると、非凡な知性と才能をあまた生み出してきたルネサンスの国イタリアの女流監督ガヴァーニは見抜いている。
2008.10.18
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