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2010年11月06日
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 京に涼風が立つようになった頃。
 友雅はいつも思い出すのだった。

 大堰の山荘で迎えたあの息苦しい夜。
 守るだの支えるだの言葉にはしても、何もすることができず拳を握る、自分の無力さを思い知らされた夜。
 そしてもたらされた大きな喜びに思わず涙する己に絶句し、守るべき者を得た自分がいかに変わったかを改めて感じた朝。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「友雅さん♪」

 愛しくてならない者が目の前にある。

「おとうちゃま。」


 友雅は宝を抱き上げた。あかねが時々嫉妬するほどの優しいとろけそうな笑みを浮かべて。

「もう、ふたとせか……姫は三つになるのだね。」

 生まれた年を1才と数えるのが京の習わしなら、二度目の誕生日を迎えた姫はこれで3才になったことになる。

「袴着のことを、そろそろ考えなくてはならないねえ……。」

 東宮妃にと約されている姫だった。気兼ねのいらない大堰の山荘住まいで、五十日や百日といった誕生の儀式を簡単に済ませてしまっていたから、そろそろきちんとその手の儀式を執り行って、橘の家にこの姫有りと世間に示しておかなければならない。鄙育ちの姫よと軽んじられないために洛中に邸を構えたのだ。面倒だなどと言っている場合ではなかった。
 土御門では昨年、その東宮となるべき親王の袴着が行われた。祖父である左大臣が袴親を勤め、土御門の威信翳ることなしと世間に知らしめた。そのまねをする気は更々ないが、「あの橘友雅」に、親王と釣り合いのいい娘有りと世間に知らせておくのは、姫の入内後の障害を取り除く布石になる……ちい姫が後宮ですぐれてときめくための。

 急に黙り込んだ友雅の顔を、あかねがのぞき込んだ。

(友雅さんは変わった……)

 出会った頃とはまったく違う。あかねが知らなかっただけかもしれないが、あかねの知る友雅はいつも飄々として、どこか投げやりな感じまでするほどだった。「変えたのは君だよ。」と友雅はいつも言うが……

(ほんとに友雅さんを変えたのはこのおちびさんだわ。)

 土御門では決してみせることのなかった顔。



 少納言が言った。

「どういうこと?」
「お方さまもご存じであられましょうが、橘は古く南都からつながるお家、土御門の藤原と並び称されるお家柄でございます。ところが、藤原がうまく立ち回ったおかげですっかり日陰に周り、今では『落ちぶれた』とまで言われる家になってしまいました。」

 あかねは静かに頷いた。学校で習った歴史の項目がちらと頭をよぎった。

「袴着を、するのね? 友雅さん。」


 渋い顔を見せる友雅に、よく知っている友雅を見て、あかねはほっと安心した。

「君にもいろいろ頼まなければならないけれど、少納言とよく相談して……」
「心得ております。」

 少納言がとんと胸元を叩いて微笑んだ。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 しかし、友雅が大きく宴を張ることはなかった。
 源平籐橘と並び称されるとはいえ、皇室につながる源平ならともかく、今の「藤」の威勢はあまりに強大だった。橘友雅個人の威勢だけで何とかなるものではない。それは、八葉の勤めを終えてもぴくりとも動かない友雅の位階がはっきりと物語っていた。

(土御門もこういうところは辛辣だからね。)

 慰労として俸禄が多少増やされたほどで、役職もそのままだった。もっとも、昇進させてやると言われても友雅の方から断っただろうが。
 ちい姫の袴親を、友雅は自ら勤めることにした。藤壺中宮から是非にとお声掛かりがあったが、丁重に辞退した。口ではわがままめいたことを言っても友雅の難しい立場を理解していないわけではない中宮だから、多くの祝いの品を名代の女房に持たせて寄越された。

「その女房を、そのままちい姫づきにしてちょうだい。入内の後も困らないように。」

 友雅はありがたく受けた。女房は衛門と呼ばれて、西の対でちい姫に仕えることになった。和漢の学に秀で、楽もそれなりにこなす女房だったから、ちい姫の手ほどき係にうってつけだった。

 どんなに大きな宴になるのかと北の方あかねはドキドキしていたが、御所から祝いの品が届いたのを聞きつけた公家仲間が挨拶に来たくらいで、宴と言っても連なったのは藤姫と鷹通、その他は庭で和気藹々と、まるで大堰の山荘そのままの宴になった。

「これでいいの? 友雅さん。」
「いいさ。袴着だからね。」

 西の対の畳を積み上げた上にちい姫を立たせ、きゅっと袴の紐を結んでやって、友雅はちい姫に「とんと降りてごらん」と促した。友雅の膝ほどの高さの畳だったから、ちい姫は嬉しそうに頷いて元気よく飛び降りて見せた。

「うん、いいね。これで元気に育つ。」

 得意顔のちい姫の頭を撫でてやりながら、友雅も満足げに頷いた。
 今まで単衣だけでいたものが、小さな袴をつけ、脱げないようにと袴紐を両肩で華やかに結んでいる様子は、あかねの世界のジャンパースカートのようだった。

「可愛い。」

 大人の着ける袴と違って、丈短く、足が抜けるようにしてあるから、今までと変わらずに、おぼつかない足取りながらよちよちと歩いて、あかねのところへやってくる。少し幅広に仕立ててもらった袴紐を蝶の羽のように広げてやるとそのかわいさは更に増した。

「まあ、なんて可愛い! 私にもこういう妹が欲しかったのですわ!」

 あかねから藤姫を抱き取って、藤姫が言った。六条に友雅が邸を構えてから、暇さえあればここに来ているから、ちい姫もすっかり藤姫に懐いている。

「妹とは……いずれ藤姫も母上になられるのではないのかな? そろそろそういうお話があってもよい頃だ。」
「存じません!」
「おや、いろいろ聞いていますよ。私が中宮様の妹姫に近しいと聞きつけて相談を持ちかける公達が引きもきらずでねえ……」
「友雅殿!」

 きっとにらみつけるのを、あかねと鷹通が止めた。

「この姫の入内の頃に、友雅殿がどんなお顔をしておいでか、是非とも拝見したいですね。」
「さて、入内と恋は違うからね。」

 言葉の底に、ひやりと冷たいものを感じて、あかねは背中がぞくんとするのを感じた。

「友雅さん……?」
「ああ、大丈夫。ちい姫が不幸になるようなことはさせないよ。ちい姫には嫁ぐお方がどなたよりも大切で愛しいお方だ。誰よりもときめき、誰よりも愛されて後宮に君臨する、最高の姫君に育てなくてはね。」

 鷹通が力強く頷いた。それでもまだ不安そうなあかねに、藤姫が囁いた。

「東宮様以外の男君なら決してこんな風にはおっしゃいませんわ。友雅殿は本当に変わられた……神子様のお力ですわ。」

 ちい姫はよちよちと縁まで歩いていっては庭の仲間に愛嬌を振りまいている。イノリなどが「可愛いなあ、ほんとに可愛いぞ、あかねそっくりだ!」と叫んでいる。その声に喜んで庭に降りてしまいそうになるのを乳母が慌てて抱きとめている。

(最高の姫君に。)

 明日からちい姫には后がねとしての手ほどきが始まることになっていた。日常の起居、手習い、楽、絵、香……基礎を学び、極めるべきことが山ほどある。13,4歳で成人の式である裳着を行うのだというから、あと10年ほどで、そのすべてをある程度身につけ、さすがと言われるほどのレベルになっていたいとすると。しかも、裳着の直後におそらく入内のことが待っているのだとすると。
 あかねは身震いした。どう考えても、自分のしてきた程度のことでは間に合わない。

「大変だ……」

 ぽつりもらしたため息に、友雅も、鷹通も反応した。

「大丈夫だよ、あかね。京の姫君なら当たり前のことだ。私と君の姫なのだしね。」
「だから心配なんじゃない……」
「お任せください、神子殿。私もお力添えをいたしますから。」

 鷹通の言葉にあかねは安心して頷いた。

「まったく、未だ信じていただけないのかねえ……」

 友雅の嘆息にあかねは少し慌てた。

「違うの、友雅さん、あの子の半分は私だから!」
「だからどうだっていうんだい? こちらへ来てからの君の飲み込みの早さは目を見張るものがあったよ。さすが龍神の神子だと舌を巻いたからね。」
「でも、でも、まだできないことがいっぱいあるし……」
「全部できなくてもいいのだよ、中宮様だって決してすべてに長じておられるわけではない。そうだね、藤姫。」
「ええ、神子様。姉上にもできないことはたくさんおありですわ。」
「中宮様が優れて見えるのはね、周りに優秀な御達を多く侍らせているからだよ。君の少納言と同じでね。」

 少納言の目でしっかり者の乳母をつけ、中宮様からは衛門を賜った。友雅の才、鷹通の知。ちい姫に不足するものは何もない。


 夜もすっかり更けていた。
 庭の篝火が、ちい姫を見守る者の顔を、赤く照らしていた。





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最終更新日  2010年11月06日 19時14分12秒
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