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2010年11月11日
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(千尋……どうしてあなたは……)


 時の螺旋をぐるり回して、あなたがまだ誰のものでもない時空に戻したのに。


 風早は悩んでいた。役目が終わるまで、永遠にでも千尋と共にあらねばならぬという白き龍との誓約とは別の次元でわき上がる熱い物を、最近、風早は持て余しぎみだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 常世での日々は、風早には苦しみ以外の何ものでもなかった。
 千尋の心は日に日に常世の皇子に傾き、それは中つ国にとっては恒久的平和を約束される悦ばしきことだったが、その熱き想いに政治的思惑など何の関わりもなく、「千尋を我がものとせよ」と風早を嘖む。

(それは俺には許されていない……)

 常世と中つ国は政治的手段として婚姻を結んだ。今の常世の混乱が収まるまでの形式的なものとして皇子も了解していた。婚姻の実質は伴わない、と。
 ところが、それは日々形を変え、いつか千尋の中で恋に変わっていた。





 千尋は、皇子の妃として別室を与えられていた。
 千尋が風早を手放すのを拒んだから、風早は今まで通り妃づきの武官として、そして、次の間を控え室にするという別格の扱いを受けることになった。
 結婚は困ったことだが禍日神を倒して中つ国に帰るまでの方便と千尋が考えているうちはよかった。中つ国にいた頃、橿原の借家にいた頃と同じように、風早は思うままに千尋の側にいられた。



 ……抱きしめればわかる。
 千尋が何を考えているのか。


 黒い悩みの影が広がる。


 時が訪れたのを風早は知った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 その夜も、リブが千尋に茶を淹れに来た。
 穏やかな眠りを誘う茶を、遠夜も千尋に用意していたが、アシュヴィンのための茶はリブが準備していた。ある日、アシュヴィンがどんな茶を飲んでいるのか知りたがった千尋がリブにねだり、それを千尋はいたく気に入ったところから、千尋の寝しなの茶はリブが淹れることになってしまった。
 そんな頃からだった。千尋の様子が少しずつ、目に見えて変わってきたのは。


(恋を、してしまったのですか、千尋……?)

 中つ国のため、中つ国の将来のため、人の世と人の本質を見極め、白き龍に報告するのが我が身に科せられた白き龍との誓約……。
 言い聞かせても荒立つ心は抑えかねる。ふと顔に出たのを千尋が見とがめた。

「どうしたの、風早?」
「え、いえ、何でもありませんよ、千尋。」

「大丈夫です。そんなに俺、具合悪く見えましたか。」
「ううん、ちょっとね、苦しそうだったから。」

 この姫にはすべて見透かされる。


 そんな会話を思い出していたら、目の前に千尋が立った。
 何か言いにくそうに、でも、何かをはっきりと決めた目で、風早に告げた。

「アシュヴィンにお茶を届けてくる……」

 言ったとたんに耳まで赤くなった千尋を見て、風早の心は物狂おしく揺れた。引き留めたかった。全力で止めたかった。

(いけません、千尋。行ってはいけない。)

 あなたを愛しているのは俺ですと、幼い頃から慈しんできた小さな手を握りしめ、腕の中に引き寄せて! 行かせてなるかと身動きもできないほど固く抱きしめて、本当に、それができるならどれほどいいか!

 引き留める権利などないのを風早は知っていた。

「……わかりました。」

 努めて平静を装ったつもりだったが、千尋はきっと何かを感じたに違いない。何よりも愛しいと思うその唇が「ごめんなさい」という言の葉を紡ぐのを風早は見た。小さな足音が外へ出た。ドアがぱたんと閉まったその瞬間に、風早はきっと唇を引き締めた。

 時の螺旋が音を立てて巡る……



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 経巡った時空でも、風早は千尋の手を取ることはできなかった。

 鳥船の中での千尋の常の居場所は、自室でも堅庭でもなく、書庫だった。

「ここに書いてあるのはほんとに事実なの?」
「ええ、我が君。竹簡は何でも教えてくれます。我が君のこれから歩かれる道、既定伝承です。」
「それを変えることはできないの? 柊、あなたは……」
「私の将来に何が待ち受けていようと、それが私の既定伝承です、我が君。」
「そんな……」

 千尋の蒼い目から大粒の涙がこぼれ落ちる。何が書かれているのか、風早はよく知っていた。

(その男は危険すぎます、姫。)

 あなたを連れて常世へ向かったなら、きっとあなたは悲しい目に遭う。その男と一緒にいてはいけない。引き離さなければ。

 しかし、近づけば近づくほど、千尋との距離が遠くなる気がした。柊の隻眼が自信ありげににやりと微笑む。

(これも既定伝承というものですよ、風早。)

 千尋が柊の言う既定伝承にない運命を選択したと知った瞬間、風早の意思は迷いもなく時の螺旋を巡らせた。今度こそ、千尋がこちらを向く運命へたどり着くのだと……



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「風早、風早!」

 千尋の声がする。
 風早は閉じていた目を薄く開けた。この家でもっとも日当たりの悪いあげくに窓際まで本棚を置いた部屋は昼間でも薄暗いが、それでも千尋が開けたカーテンから細く朝日が射し込んで、新しい1日が始まったことを告げている。

「ねえ、起きて。朝だよ! 遅刻するよ!」

 いつもの仕返しとばかりに激しく揺すり起こす千尋に、風早は容易に応えようとはしなかった。これが望む運命でなければ、すぐにでも時を巡らせる……。

「ほっとけば? 先生が遅刻するなら僕たちには好都合だし。」
「そんなのダメだよ! ちゃんと起こすって約束したんだもん。」

(那岐、ですか……)

 風早は渋い顔をして寝返りを打った。揺り起こしていた千尋の手がはっと止まった。気まずい空気が流れる。布団に触れた指が小刻みに震え、怯えたように離れるのを感じた。部屋を出る足音が重く響いた。

「……どうしたの。」
「何でもない。」

 強がる声が涙を含んでいるのを感じて、風早は体を起こした。

(俺が泣かせたんですか? 千尋を。)

 耳を澄ませた。

「風早の朝が不機嫌なのはいつものことじゃないか。どうせ昨夜も遅くまで本を読んでたんだろうし。寝不足だよ。」
「でも……あんな風に避けられたの初めてだもん。」
「千尋の気のせいだよ。たまたまだろ。」
「違う。気のせいなんかじゃない!」
「じゃあ、いつまでもそうやって悩んでれば? 勝手に思って勝手に決めて、千尋はバカだ。」
「バカじゃないもん!」

 そのまま声が聞こえなくなった。風早はゆっくりと起き出した。すぐにも行って抱きしめたいところだったが、那岐の言うとおり寝不足の頭は思うように体を動かしてくれない。

「僕はもう行くよ。とばっちりで遅刻くらっちゃ敵わない。」
「私も行く、待って、那岐!」
「ごめんだね。千尋はあいつと来ればいいだろ。」
「もう、那岐!!!」

 風早の足取りが止まった。千尋の心が今度は那岐に傾いているのを感じた。

(俺の姫はあなただけなのに……あなたは私だけのものではいてくれないんですね、千尋。)


 白き龍との誓約が頭をかすめた。

(そういうこと、か……)


 守りたいもの。守るべきもの。それは、人として愛の対象とするのではなく、神として守護するということ……


 玄関の戸が閉まる音。風早はようやく台所に立った。千尋の用意したと思われる朝食を食べ、上着に手を通して家を出た。
 畝傍山から遠雷に似た音が聞こえる。

(ああ、またあの日……)

 今度はどの運命を辿ることになるのか。
 小さな印も見逃すまいと、風早は注意深く、学校への道を歩いていった。





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最終更新日  2010年11月11日 23時59分35秒
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