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前回掲載した越前市岩本町の岩本神社からの引き続きとなる今回は、岡太神社・大瀧神社を掲載します。社頭手前に聳える岡太神社・大瀧神社の大鳥居から、車で数分走れば岡太神社・大瀧神社下宮のニノ鳥居と社号標が見えてきます。ニノ鳥居から社地を左に見ながら奥に進むと右手に参拝者駐車場があるので、岩本神社や岡太神社・大瀧神社を訪れるならそちらが便利です。写真は岡太神社・大瀧神社ニノ鳥居と「縣社 大瀧神社」社号標。ニノ鳥居は朱の明神鳥居。写真は11/11参拝時の岡太神社・大瀧神社境内の様子となります。この時期では鳥居両脇の二本の大銀杏の黄葉は終わりを迎えており、落葉の色合いも精彩はないが境内随所で見られる苔の緑が鮮やかだった。越前和紙のはじまりの地だけに、マンホールにも和紙を漉く女性の姿がデザインされている。この岡太神社・大瀧神社は1500年前、この地に紙漉きの技術をもたらした紙の祖神とされる川上御前をお祀りした岡太(オカモト)神社が起こりとされ、延喜式神明帳の式内社にも記されている。ニノ鳥居額は岡太神社・大瀧神社とある。神社は大徳山の麗に鎮座し、ここから御神体である大徳山の頂に鎮座する岡太神社・大瀧神社上宮へは、枯れ葉に覆われたつづら折れの参道を登っていきます。行き交う人もない心細い道で、鳥居までは辿り着きましたが、道は更に奥に続いており、獣との遭遇が脳裏をよぎり途中で引き返してきました。ニノ鳥居の先の境内を守護する狛犬。狛犬の左に立てられている由緒。「御祭神旧縣社 大瀧神社 国常立尊・伊弉諾尊式内社 岡太神社 川上御前(岡太大神)当神社は御神山である権現山の山頂付近頂に建つ奥の院(上宮)と里宮その麓に建つ里宮(下宮)から成り立ち、奥の院には大瀧神社と岡太神社の本殿が並び建っている。この山麓にある社はその両社の里宮である。大瀧神社の創建は社伝によれば推古天皇の御代(592~638)大伴連大瀧の勧請に始まる伝わる。ついて奈良朝に至って元正天皇の養老3年(719)この地を訪れた泰澄大師は、大徳山を開き水分神であり紙祖神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊・伊弉諾尊の二柱を主祭神とし、十一面観音をその本地とする神仏習合の社を建て、大滝兒大権現、または小白山大明神と称し、その別当寺として大滝寺を建立し社僧を置き神事を司らしめた事を伝えている。岡太神社はこの村里に紙漉きを伝えたとされる川上御前を祀り「延喜式神明帳」(926)に記される古社で、往古よりこの神域に摂社として祀られた。この紙祖神としての川上御前に対する里人の信仰は篤く、神の教えに従い古くから大滝神郷一円を中心に優れた紙を漉いてきた。中世には大滝寺は平泉寺の末寺となり、四十八坊の堂塔伽藍が山頂、山麗に並び、社僧六、七百人を擁して隆盛を極め、神領那七十余町、日野川以東の村落四十八ヶ村を氏子とするに至った。南北朝時代には足利の軍勢に抗し、その兵火により一時衰退、室町時代の中葉、国主朝倉氏の帰依篤く再び社運は興隆したが、天正三年(1575)、織田信長の一向一揆攻略により再度兵火に会い一山ことごとく灰燼に帰した。その後領主となった丹羽長秀により復興され、江戸時代には初代藩主・結城秀康を初め代々藩主の崇敬篤く、兵火のため焼失した社殿も再建された。その後老朽化により、天保14年(1843)に江戸後期の社殿建築美の粋を尽くした現在の里宮の本殿・拝殿が再建された。明治維新後、神仏分離令により「大滝児大権現」は大滝神社と改称、昭和三年には県社に列せられ今日に至る。大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に摂社岡太神社の分霊を奉祀し、紙祖神川上御前は名実共に全国紙業界の総鎮守として多くの人々の信仰を集めている。昭和五十九年(1984)、元里宮の本殿・拝殿は歴史記録の確かさと建築の美しさが認められ国の重要文化財に指定。平成四年(1992)、神門・回廊・奉楽電が造営された。祭礼春例祭(神と紙の祭り) 五月三日(お下り奥院~下宮)~五日(お上がり下宮~奥院)秋例祭 十月十一日(お下り奥院~下宮)~十三日(お上がり下宮~奥院)式年大祭(御開帳) 三十三年目毎御神忌(中開帳) 五十年目毎文化財 重要文化財本殿・拝殿一棟(天保一四年建立)文化財(県・町指定)奥之院岡太神社本殿(江戸初期再建・町指定)奥之院大滝神社本殿(江戸中期再建・町指定)神宮堂 木造虚空蔵菩薩坐像(平安時代・県指定)観音堂 木造十一面観音坐像(平安時代・町指定)天然記念物大杉(奥之院付近)根回り9.8㍍・高さ23㍍ぜんまい桜(同)根回り4.5㍍・高さ18㍍ブナ社叢林(同)」丁寧に書かれており分かりやす由緒。ここで川上御前の謂れもここで書いてしまおう。この地の紙漉きの歴史は古く、正倉院の越前国正税帳(730年)にも越前和紙が用いられているという。越前和紙のはじまりは1500年前に遡り、岡太川の上流に現れた一人の女性(川上御前)が村人に紙漉きの技術を授けた事から始まると伝わる。上は駐車場に前に掲げられている川上御前の解説板。「今から1500年ほど前の事、岡太川の上流の宮ヶ谷に、ある日美しい女性があらわれ、「この村里は、谷あいで田畑が少なく、生活に困っているだろう。しかし、この村には清らかな水と、豊な緑の樹々に恵まれているから、紙漉きを生業とすればよい」と告げ、自ら衣を脱いで紙漉きを教えたいう。村人が名を尋ねると「岡太川の上流に住むもの」とだけ言い残し姿を消したという。以来、里の人は紙漉きを生業とし、この美しい女性を川上御前と崇め、紙祖神として岡太神社に祀ったのです」参道左の手水舎。後方の建物は木造十一面観音坐像を安置する観音堂で岡太神社・大瀧神社は神仏習合時の名残が漂う神社。まずはその観音さまを拝みに行こう。観音堂に向け苔生す境内を進む、途中に辨財天堂跡の石標が立てられていた。参道の両脇には観音堂まで複数の燈籠が立ち並ぶ。右手に苔に包まれた手水鉢、そこに小さな龍の姿があった。小さな龍ですが、大きな口を開け、岩を掴む鋭い爪など、繊細に作られた威厳のある姿をしています。よく見ると右と左で角や耳に違和感を覚える、この龍の身の上になにかあったのか。入口の色褪せた観音堂の額。切妻瓦葺平入の薄暗い堂内は右が外陣、左が内陣になっており、外陣には時代不明の奉納絵馬が掛けられている。内陣の木造十一面観音坐像(町指定文化財)。「大滝神社文書「大滝権現開帳記録」や「大滝権現明細帳」などに奥之院十一面観音、末社龍児権現本地にあたる観音像と思われる。現在は観音堂(絵馬殿)に安置されているが、像容は左手臂を屈し、拳には蓮華をを持し、右手は膝上で掌を延ばし、頭部最上部三面、下部七面の仏頭が飾冠されている。胸や両腕は厚手で豊満な仕上がりで、衣文などが単調なのは、補修や彫り直したためと考察されているが、尊顔などは往事のままで、平安時代前期の尊容を留めている」里宮全景。年輪を重ねた樹々が聳える境内北側に、石垣が高く積まれ、その上に神門と左右の回廊が繋がり拝殿・本殿を取り囲んています。綺麗な外観は由緒にあるように平成四年(1992)に造営されたもの。神門・回廊・奉楽電が造営された大徳山の麗に鎮座し、苔と杜に包まれた外宮とそこから御神体の大徳山を登った頂に鎮座する上宮を持つ神社。里には両部鳥居の一ノ鳥居と境内入口のニノ鳥居を構えている。和紙の里だけにマンホールにも和紙を漉く女性の姿がデザインされていた。この岡太神社・大瀧神社は1500年前、この地に紙漉きをもたらした紙の祖神とされる川上御前をお祀りした岡太(オカモト)神社が起こりとされ、延喜式神明帳の式内社にも記されている。大瀧神社は、推古天皇の時代(592~638)に大伴連大瀧が神様の降臨を請う「勧請」をおこなったことが起源とされ、養老3年(719)、泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒大権現(オオタキチゴゴンゲン)を建立したという。その際、別当寺として大徳山大瀧寺(後に破却)が創建され一時は48坊を有し社僧6700名を擁する一大勢力となったが、信長によりそれら焼き払われ一時は衰退したが秀吉・徳川、松平氏と保護を受け社殿は再興されていった。後の神仏分離により大瀧兒大権現は祭神を国常立尊と伊弉諾尊とする大瀧児(オオタキチゴ)神社に改め、明治8年郷社に列せられ岡本村の總社氏神となり社号も大瀧神社となり、昭和3年県社に列せられ、現在の岡太神社・大瀧神社となった。軒唐破風の付く神門前景。石垣前には銅製燈籠や狛犬があり、門の先には檜皮葺の屋根が連なる社殿が見える。一度訪れて見たいと思いながら、縁がなくやっと訪れることができた。神門前の狛犬。神門から拝殿の唐破風向拝と千鳥破風、その先には本殿の唐破風向拝と千鳥破風が重なるように連なる。岡太神社・大瀧神社ならではの眺めです。檜皮葺の苔むした屋根は本来あまりよくないものですが、趣のあるこの社殿にこの苔は必要不可欠なものに思える。日本一複雑な構造の社殿とされ、四層の屋根が折り重なるこの造りは特に定義されていないようですが、造の一つに加わってもいいほどの独創性を持つものです。構造は入母屋妻入りの唐破風向拝が付く拝殿が後方の一間社流れ造りの本殿の屋根に連なったもので、山々の重なりを表現したくて、其々の基礎の高さを決めたのかと思えるくらいです。今の建物を手掛けたのは永平寺山門前で代々永平寺大工を務め、永平寺勅使門を手掛けたとされる大久保勘左衛門(1801~1859)によるもので、1992年に神門、廻廊、奏楽殿の造営の際に拝殿屋根の葺替えが行われたもの。社殿の懸魚をはじめ、欄間や木鼻、向拝の手挟や虹梁に錫杖彫が施されるなど、全体に細かな彫が施されており、とても見応えのあるもの。唐破風の鬼板には葵紋が入れられています社殿左からの斜景。緑に包まれる社殿の屋根の連なりが一番美しく見え、日の出とともに本殿に朝日が差し込む時の姿は神々しさが漂う。拝殿向拝装飾、龍や鳳凰、獅子に草花の彫が一面に施されている。左桁隠し。右桁隠し。向拝桁隠し、海老虹梁、手挟、木鼻の装飾。手挟の雉と木鼻装飾。今にも動きだしそうな龍。拝殿額も龍の装飾。拝殿から朝陽が差し込む本殿の眺め。拝殿側面から本殿の眺め。大棟の千鳥破風と唐破風が流造の庇の上に乗り、庇に拝殿の棟が入り込み唐破風が大棟の上を覆う。妻壁や脇障子、木鼻などにも彫が施されている。本殿破風には鶴。本殿左の壁面装飾。長押の獅子と木鼻の獅子。肘木装飾。本殿向拝の木鼻装飾。境内左の高みに鎮座する護国霊社、氏子祖霊社。社殿側面全景。朝日を浴びる本殿右。こちらの面にも図柄の違う彫が施されています。神輿殿。境内右の切妻の建物で、桁側四間の開け放たれ間には金色の神輿が保管されている。春例祭・秋例祭ではこの神輿を担ぎ、里宮から上宮に続くつづら折れの参道を往復するという。里宮参拝後、上宮に続く参道を鳥居付近まで登ってみました。落葉が積もって足元は滑りやすく、何も持たなくても苦労したあの山道を担いでいくという。1992年に造営された神門、廻廊、奏楽殿。落ち着いた佇まいの社殿に調和するように考えられたのだろう、光り輝く飾り金具や彩色はない。神門左の境内。右側の燈籠群。境内の樹々がつくる木陰には苔が生し、初夏に訪れるとさらに綺麗だろう。境内南の鳥居。ここから社地沿いに右方向の駐車場へ。駐車場から最も近い社地東側の鳥居。ここから県道を上り、奥宮へ向かってみました。上県道から左に燈籠が連なる参道、そこから鬱蒼とした大徳山山頂に鎮座する上宮へ続く。下参道入口の「山伏岩の跡」大徳山に続くこの道は泰澄大師が開いた修験道。上参道は整備され、上り始めは傾斜も緩いので手軽に行けそうに感じました。しかし、途中から傾斜も増し、落葉が積もって滑りやすくなりトレッキングシューズとポールが欲しくなる。下熊との遭遇を予感させる山道を進むと「神馬神くら化石跡」の石標。参道口からここまでは撮影時間で見ると約15分。奥宮の木造明神鳥居。社殿も近いと信じて鳥居をくぐり更に進むが、つづら折りの山道だけが上に続く。鳥居から5分を過ぎたあたりの「神馬の足跡」先は一向に見通せず、奥宮までの距離感が掴めず参拝はここで諦める。以外に次の坂を登れば見えたのかもしれないが、それを繰り返してここまできたが、足の疲れと熊の恐怖から悔いは残るが引き返す。自分一人ならともかく、かみさんと二人のところを熊とバッタリ遭遇はなんともならない。戻ろうか?振り返るとかみさんの手にはしっかりと枯木が握られていた。奥宮には結局辿り着けなかったが、岡太神社・大瀧神社はもう一度訪れたいと思う神社です。御朱印は新在家町の「越前和紙の里 パピルス館」で頂けます。岡太神社・大瀧神社創建 / 推古天皇の御代(592~638)祭神 / 国常立尊・伊弉諾尊・川上御前(岡太大神)所在地 / 越前市大滝町13-1参拝日 / 2023/11/11関連記事 / ・セイコ丼を求め越前町へ・越前市岩本町「岩本神社」・福井県勝山市平泉寺町 「平泉寺 白山神社」
2023.12.31
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11月30日、奈良市春日野の春日大社境内で江戸時代から続く、春日荷茶屋の月替わりの万葉粥を食べるため早朝に名古屋を発つ。大和八木で乗り換え西大寺駅から奈良駅へ向かう。通勤時間と重なり奈良までは生憎立ったままだった。約3時間ほどで近鉄奈良駅に到着。春日大社に向かい参拝を済ませ、かみさん待望の万葉粥(きのこ)を目指し春日荷茶屋へ。冒頭書いたように春日荷茶屋の万葉粥は月替わりのため、11月のきのこ粥はこの日が最後。やさしい味わいで温かい粥を頂き今回最大の目的を果たした。この後は奈良市内の寺社を巡り散策してきました、今回は御霊神社を掲載します。猿沢の池から南に10分程、春日大社では海外からの旅行客や修学旅行生で溢れていたが、ならまちに入るとそれまでの人波は嘘のように消え、風情ある街並みを感じることができる。ならまちを進み薬師堂町の史跡元興寺の南に接して御霊神社が鎮座する。古い町割の町並みに溶け込む様に社頭を構えている。社頭全景。このあたり一帯は元興寺の元寺領で、嘗ては南大門もあったという。朱の鳥居の先の表門の門前に狛犬の姿がある、外観は見慣れた狛犬の姿とは少し違うようだ。少しやせた体格で、凛々しいと云うより愛嬌のある顔つきの狛犬で、足には無数の赤い紐が結ばれている。「狛犬の足止め祈願」と呼ばれ、江戸時代から伝わる願掛けの方法で、家出人や悪所通いの足が止まりますようにとの願いや、ならまちでは子どもたちが神隠しにあわないように狛犬の足に紐を結んで願掛けをしたものだといいまいす。近頃では「恋人とこれからも一緒にいられますように」「客足が遠のきませんように」などの願いを込めて紐を結ぶようになったという。その狛犬の足元に御霊神社の解説プレートが置かれている。「御霊神社は、社伝によると井上皇后・他戸親王ら八神を、お祀りします。このあたりは、奈良時代には元興寺の寺領であり、御霊神社付近には南大門があったと推定されます。古くはその門前に御霊神社の社地があり、御霊をなぐさめる御霊会が催されたと言い、十五世紀には猿楽などの芸能も行われました。今も奈良町を中心に、広範囲な信仰を集めています」その昔、都で疫病流行の際には、中街道に井上皇后、上街道に早良親王、下街道に他戸親王の神輿を据え、疫魔の侵入を防ぐという信仰があり、現在も70ヶ町5000軒を超える氏子層を持ち、健康長寿、家運繁盛、平和の神として広く崇敬され、例祭では神輿が2年かけて70ヶ町全てを巡る行事が今も受け継がれている。上は寛政3年(1791)に纏められた大和名所図会から当時の元興寺と御霊神社を描いた挿絵、この年代では南大門の姿は見られないが、現在の元興寺には見られない五重の塔や鳥居のない御霊神社の姿が描かれており、「御霊前町にあり。洛陽御霊八所に同じ。勧請の年季詳らかにならず。例祭9月13日。」と短く語られていた。平城京から新都に遷った平安京では疫病が流行し、その原因は怨霊であるとした桓武天皇は、旧都である平城京に入る大和三道の3つの入り口の、上つ道には早良親王を祀る崇道天皇社、下つ道には他戸親王を祀る他戸御霊社、ここ中つ道の現在の井上町に井上皇后を祀る井上御霊社が造営された。延暦19年(800)、創建されたばかりの大和国宇智郡(五條市霊安寺町)に嘗てあった霊安寺の御霊神社から井上皇后の御霊を勧請し当社が創建されましたが、宝徳3年(1451)におこった土一揆により元興寺は焼き討ちされ神社も消失し、当時の鎮座地から北の現在の地に遷宮されたという。以後は挿絵にあるように元興寺の鎮守社として明治を迎え、村社に列せられた。表門をくぐった境内の眺め。提灯櫓の先の拝殿は入母屋妻入りのもので、しっとりとした佇まいを漂わせている。境内は拝殿・本殿を中心に右に社務所、左に境内社、本殿右にも境内社が祀られています。手入れの行き届いた境内は、海外から訪れる観光客もなく、古都らしい静かで落ち着いた趣がある。境内左の境内社。左は瀬織津比咩神、速開都比咩神、気吹戸主神、速佐須良比咩神、市杵島比売神を祀る祓戸社。右が倉稲魂大神、猿田彦命、大己貴命、天鈿女命、保食命を祀る出世稲荷社で昭和27年(1952)に京都の出世稲荷神社から勧請されたものという。出世稲荷社には「えんむすびの神」の提灯が架けられ、そうした御利益もあるようです。曇天の空の下で鮮やかな朱色と白の春日造りの社が印象に残る。境内社や社殿は近年改修を受けているようですが修復履歴は分からなかった。本殿域西側の眺め。春日造りの本殿には井上皇后、他戸親王の二柱が祀られ、本殿左右には東神殿、西神殿がある。西側から本殿、西神殿の眺め。西神殿には伊豫親王、橘逸勢、文屋宮田麿の三柱が祀られています。東側から本殿、東神殿の眺め。東神殿には早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人の三柱が祀られています。八所御霊大神と呼ばれるのは、祀られる八柱からそのように呼ばれるようです。拝殿左の由緒。「御霊(りょう)神社御祭神 井上皇后、他戸親王、事代主命、早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人、伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿。由緒当神社は延暦十九年(800)人皇第五十代 桓武天皇の勅命により御創祀された社。御祭神の井上内親王は人皇第四十九代光仁天皇の皇后で聖武天皇の皇女にて称徳天皇の異母姉であります。宝亀元年(770)白壁王が即位され光仁天皇と同時に井上内親王は皇后となり、翌年には御子他戸親王も皇太子となりました。しかし宝亀三年(772)天皇を呪詛した疑いをかけられ皇后位は剥奪、他戸親王も皇太子を廃され、大和国宇智郡(五條市)に幽閉、され宝亀六年(775)四月二十七日、母子ともに薨去されました。薨去後、都や桓武天皇東宮に天変地異や疫病が流行したことから、母子の祟りと恐れた天皇は諸国の国分寺の僧侶六百人に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、手篤く慰霊された。平安時代の人々は、無実の罪を着せられ非業の死を遂げた人の怨みの心が怨霊となって災いを起こすと恐れました。しかしその怨霊を丁重にお祀りすれば御霊となり守護してくれる神になるという風に考えるようになりました、これが御霊信仰の始まりです。奈良時代の混乱と政権争いの中で、光仁天皇の第一皇子で渡来氏族の高野新笠を母とする山部親王(後の桓武天皇)を擁立する藤原百川の策謀によるものと伝えられています。薨去後、都に天変地異が相次ぎ疫病が流行した為、母子の祟りと恐れた天皇は諸国の国分寺の僧侶六百人に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、手篤く慰霊されました。奈良時代、平安時代の人々は無実の罪を着せられて非業の死を遂げた人の怨みの心が怨霊となって災いを起こすと恐れました。しかしその怨霊は丁重にお祀りすれば御霊となり守護してくれる神になるという風に考えるようになりました、これが御霊信仰の始まりです。本殿に井上皇后、他戸親王の神霊三座、東側社殿に早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人の神霊三座、西側社殿に伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿の神霊三座をお祀りし、あわせて八所御霊大神と申し上げます。奈良町の中心に位置し、県下唯一の広範囲である氏子地域七十余町を守護する氏神さまです」拝殿から右奥に進んだ本殿脇に祀られる二社。右が水蛭子社。海上安全、豊漁守護、商売繁盛の御神徳が得られる蛭子命が祀られています。中央が若宮社。学問の神として知られる菅原道真が祀られています。道真もその才能を妬まれ無実の罪を着せられ大宰府へ左遷され、大宰府で非業の死を遂げた道真の怨霊が陥れた者に復讐する伝承は良く知られ、後に神格化され彼の才能を授かれる馴染みのある神社です。しっとりとした古都奈良。ならまちの町並みに鎮座する御霊神社は、古都らしい佇まいと静けさが残る神社です。御霊神社創建 / 延暦19年(800)本殿祭神 / 井上皇后、他戸親王、事代主神西神殿 / 伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿東神殿 / 早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人境内社 / 祓戸社、出世稲荷社、水蛭子社、若宮社所在地 / 奈良県奈良市薬師堂町24名古屋から近鉄利用 / 約2.5H近鉄奈良駅より御霊神社 / 徒歩15分参拝日 / 2023/11/30
2023.12.30
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地下鉄東山線「本陣」2番出口から北へ徒歩10分程。中村区栄生町の住宅の立ち並ぶ一画に八幡社の杜が見えてきます。社頭全景。東西に長い社地を持ち、東向きに社頭を構え、参道は西に続きます。社頭は見ての通り間口が狭いのですが、船の舳先のように奥に向かう程幅が広くなっていきます。左手には街中にしては珍しい、松の老木が空に向かって真っすぐに聳えています。社頭の右側に「村社 八幡社」の社号標(寄進年未確認)、その先に一対の常夜灯と一ノ鳥居と続きます。提灯櫓から参道を見通す。住宅街に長い社地を持つことから、参道中ほどには公道が横切っており、一ノ鳥居のあるこの一角は離れ小島の様に分断された格好です。一ノ鳥居は石造の明神鳥居で大正12年(1923)に寄進されたもの。連日季節外れの暖かさが続いたが、12月に入り一気に冬到来となり、参道に植えられた桜も冬支度がはじまり彩りが少なくなった。一ノ鳥居の八幡社額。鳥居を過ぎると公道が横切っており、道路の先が社殿のある境内となる。車の往来があるので横断時には要注意だ。公道に面し提灯櫓があり、そこから先の境内に木造の明神鳥居と蕃塀があり、左に手水舎がある。八幡社は史跡散策路日比津・大秋の里散策コースの一つになっているようで、その概説は以下のようなものでした。「慶長15年(1610)、今市場(現・名古屋城敷地内)といった所にあったのを、名古屋城築城に際して、普請奉行の1人、佐久間河内守がこの地に移したと伝えられます。広い境内にはクロマツ等の古木が多くあり、また、遷座当初のものといわれる元和2年(1616)の銘の燈篭もあります」とあった。境内には由緒は掲げられておらずこの概説が頼りとなります。笠木の造形が綺麗な木造明神鳥居と蕃塀。手間はかかるけれど温もりのある色合いは木造ならではのもの。木造の手水舎と手水鉢、龍の姿もある。威厳があり、なかなかいい姿をしている。参道には更に提灯櫓が建てられており、4つの提灯櫓があり、それらに提灯が架けられ、幟旗や紋幕で飾られる祭礼の時はさぞかし華やかな事だろう。境内はこの先から横に広がり境内社や社務所が建てられています。参道右に堆く岩が積まれた岩山がある。山丸三の紋は御嶽神社。山の頂には御嶽神社、右に猿田彦大神、左に三笠山神社、麓には不動明王や複数の霊神碑が建てられています。創建時期等は不明。社殿全景。切妻瓦葺の妻入り拝殿は左に渡廊で舞殿と繋がっており、どちらも吹き抜け。境内には神社の歴史を語るかのように、見上げるばかりの樹々が聳えています。拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。幣殿へは渡廊で繋がり、渡廊の両側に一対の狛犬の姿がある。渡廊の両脇で本殿域を守護する狛犬(寄進年不明)拝殿右側の境内社。左の一間社流造の社は熱田社、金刀比羅社、天満宮の三社相殿。創建時期等は不明。その右が八幡稲荷神社。近年建替が行われたのか、朱も鮮やかな鳥居が連なる。八幡稲荷神社の本殿。本殿扉の前に遣いの白狐の姿がある。社務所前に聳えるクロガネモチ、葉は落ちて艶のある木肌と広がった枝が露わになり冬支度を終えたようだ。社務所左脇に板宮造の津島神社が祀られています。創建時期等は不明。社殿後方から眺める八幡稲荷神社本殿の全景。手入れされたこともあるのだろう朱が鮮やかだ。創建時期等は不明。八幡稲荷神社の脇から八幡神社社殿全景の眺め。こうして見ると幣殿は切妻平入で左右に脇殿が付くようで、覆殿の棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が付くもので、内部に納められる本殿の姿は不明。この八幡社について、名古屋市史の村社の一覧、尾張誌、西春日井郡誌、那古野村絵図など目を通すも、今市場から遷座したとある八幡神社には辿り着けなかった。しかし、遷座当初のものといわれる元和2年(1616)の燈篭から歴史はかなり古そうです。また、明治40年(1907)に天地社を合祀したとも聞きますが、額などに名は現れておらず、定かな所は分かりません。祭神も概説に記載はなく、恐らく応神天皇あるいは誉田別尊と思われます。いずれにせよ、その答えはこの覆殿内に収められています。八幡社創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内社 / 御嶽神社、熱田社・金刀比羅社・天満宮相殿、八幡稲荷神社、津島神社所在地 / 名古屋市中村区栄生町29-6公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線「本陣」2番出口から北へ徒歩10分参拝日 / 2023/12/08関連記事 /・「屋根神」西区名駅・ノリタケの森 日陶神社
2023.12.29
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越前市岩本町岩本神社。北陸自動車道武生ICから県道262号線で東に10分程の権現山の麓にある五箇地区(不老・大滝・岩本・新在家・定友)と呼ばれる集落の岩本地区に鎮座します。来年の大河の主人公紫式部、生涯で唯一都を離れ、ここ越前で過ごしたことから、越前は大河ブームで盛り上がっている。岩本神社が鎮座する一帯の五箇地区は、越前和紙のブランドで知られ、地区を流れる岡太川を利用した和紙の生産地で、新在家には越前和紙の里や紙の文化博物館があり和紙の歴史や紙漉きの技術を発信しています。この地の紙漉きの歴史は古く、正倉院の越前国正税帳(730年)にも越前和紙が使われているという。その技術のはじまりは1500年前に遡り、岡太川の上流に現れた一人の女性(川上御前)が現れ、田畑の少ないこの地区に岡太川の水を利用した紙漉きの技術を授けた事から始まると伝わる。岩本神社は、川上御前をお祀りする岡太神社に向かう参道の、岩本町内の中ほどに建つ岡太神社一ノ鳥居を過ぎた右に鎮座します。参道右の大岩には「大瀧神社 岡太神社」と刻まれた社標が立てられています。岡太神社一ノ鳥居全景。朱の両部鳥居と一対の常夜灯(1940年寄進)があり、岩本神社の社頭は鳥居をくぐった右側にあります。岩本神社社頭全景。道路手前に社標(1928年寄進)があり、道路の先に南北に長い四段に造成された社地が広がる。一ノ鳥居(1928年寄進)から社殿方向を見上げる。社地の三方は深い杜に包まれ、静まりかえった境内が奥に続きます。一ノ鳥居をくぐった境内から社殿全景。石段左に手水舎があり、上の境内の右手に岩本地区の公会堂、ニノ鳥居と左に鐘楼堂のような絵馬殿。その先の境内に拝殿、右手に境内社の鳥居の姿がある。手水舎と手水石。境内には雪囲いされた樹々の姿があり、間もなく訪れる冬の過酷さが伝わってくる。手水石は自然石をそのまま生かした舟を思わせる形のもので、龍はいるが石垣から湧き出る地下水を引いているようだ。立派な髭を蓄えた龍はいるのだが、佇まいはどことなく寂し気に見えてくる。ニノ鳥居から拝殿の眺め。入母屋瓦葺の拝殿は千鳥破風と向拝にも千鳥破風が付き、周囲には高欄が廻されています。福井県神社庁から岩本神社を調べる。「祭神は菅亟相、軻遇突智命、手置帆負命、彦狭智命、猿田彦命、菊理媛命。境内社に白山神社、稲荷神社」と記すにとどまり、創建等は不詳のようです。境内の概説には以下のように紹介されていました。「創建年代は不詳ですが、元々白山宮で岩本村の鎮守でした。江戸時代までは、薬師堂を本社として、本尊に薬師如来、脇侍に日光・月光菩薩、十二神将が祀られ、白山宮は稲荷社とともに薬師堂の末社でした。堂は、南北二座の「堂の講」によって運営され、大正十二年までは大瀧児権現(現大瀧神社)ゆかりの独特の祭事「花の堂」などが行われていました。明治維新の神仏分離令によって社号を天満宮と改称しますが、明治四十一年に粟田部愛宕神社、同川濯神社を合祀し、社号を岩本神社と改めました」とある、霊峰白山を間近に望むことから古くから神仏習合の山岳信仰からはじまったようで、今も当時の名残が残されています。その一つともいえる当社が所蔵する木造薬師如来坐像の解説がある。「越前市指定文化財 岩本神社木造薬師如来坐像 一躯像高55㌢の一木造の像で、左手に薬師壺を捧げ、右手は臂を屈し、拳を前にして立て、編袒右肩の衣を着け、右足を外にした結跏跏趺の姿勢をとっている。頭部にはやや大粒の螺髪を彫り出し、白毫には水晶が嵌入されている。胸や両脚は厚手で、脚の組み方のしまった形や背筋の通った堂々たる姿には趣がある。また、張りのある丸顔に眼鼻や唇を慎ましやかに刻んだ表情には落ち着きが感じられる。このような作風から、平安時代中期頃(十一世紀前半)に制作されたと考えられる。」手の込んだ像の様ですが当然拝観は叶わない。境内左の苔むした石仏と不動明王像。現在の拝殿・本殿の再建時期等定かではありませんが、雪深い山里にあって綺麗な外観を保っています。降雪期になると高欄沿いにシートが降ろされ守られているのだろう、雪深い土地柄では雪の降りこみを防ぐためシートや透明樹脂などで囲っている姿をよく見かける。本殿前の狛犬。境内に狛犬は二対ありますが、こちらは拝殿前のもの。拝殿に架けられた岩本神社の額。向拝には木鼻に獏や蟇股の獅子などの彫飾りが見られます。残念ながら拝殿内の様子は窺う事は出来ませんでした。拝殿側面から鞘殿の眺め。鞘殿は拝殿から幣殿を経て一体となっており、本殿の造りは見ることができません。拝殿右に境内社の白山社(手前)と稲荷神社(奥)の二社が鎮座します。白山社、創建時期などは不明。右は稲荷神社。赤御影石で作られた鳥居の先の小さな堂には使いの狐の姿もある。こちらも創建時期などは不明。江戸時代には神仏習合の薬師堂として岩本地区の人々から崇敬され、時代の流れに翻弄された周辺の神社を合祀しながら今に伝わる神社。拝殿から社頭を眺めると氏子達の住む岩本地区が見渡せる。岩本神社には参拝者駐車場は見当たらず、社頭の前の道路は幅員の狭い県道で、交通量もあるので大瀧神社・岡太神社駐車場に駐車する事をお勧めします。岩本神社創建 / 不明祭神 / 菅亟相(菅原道真)、軻遇突智命、手置帆負命、彦狭智命、猿田彦命、菊理媛命境内社 / 白山神社、稲荷神社所在地 / 福井県越前市岩本町18-1参拝日 / 2023/11/11車アクセス / 北陸自動車道武生ICから県道262号線を東進10分程関連記事 / セイコ丼を求め越前町へ
2023.12.26
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さいたま市緑区鎮座の氷川女體神社で参拝を済ませ、最寄りの朝日坂上バス停からJR浦和駅に向かう。約50分程の移動時間。埼玉最後の訪問地浦和の調神社へは、浦和駅西口から住宅やビルが立ち並ぶ一帯を南北に貫く県道213号線を約15分程南下した浦和区岸町に鎮座します。県道は旧中山道にあたるようで、歩道の所々にこうしたタイルが埋め込まれている。調(つき)神社社頭全景。調神社は旧中山道沿いに社頭を構え、右に「縣社 延喜式内 調神社」の社標が立てられています。社頭を守護するのは狛兎で、万延2年(1861)に寄進されたもの。うさぎと云えば月がつきもの、「つき」を呼ぶという事から境内ではうさぎの姿が見受けられます。この社頭の他に右側に金毘羅神社への参道と南・北側にも脇参道がありますが、これらの参道には金毘羅神社を除き鳥居の姿はなく、代わりに門柱が立てられています。その理由は参道脇の略記に書かれていました、以下のような内容です。「当社は天照大御神、豊宇気姬命、素戔鳴尊の三柱を祭神とする。延喜式内の古社に古くより朝廷や武门の崇敬篤く、調宮緣起によれば第9代開化天皇乙酉三月所祭奉幣の社として創建され、第十代崇神天皇の勅命により神宮齋主倭姫命が参向、この清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御蔵を建てられ、武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定められる。倭姫命の御伝により御倉より調物斉清の為の当社に搬入する妨げとなる為、鳥居、門を取拂はれたる事が起因なり、現今に至る」 兎が見つめる参道から境内を進むと左側に神輿庫と授与所?参道右に手水舎があり、手水鉢には龍の姿が…あるはずどうやら調神社は兎と所縁があるようで、大きな兎の小さな口から清水が注がれていた。境内には他にも兎の姿がある。過去の狛兎なんだろうか、手前はすぐにそれとわかるが、左は耳が欠けてしまっているようで痛々しい。授与所?社殿の眺め。拝殿斜景。社殿正面、右側が社務所のようで御朱印はこちらで頂けるようです。拝殿は銅葺入母屋造の平入で千鳥破風と軒唐破風が付くもので、祭神は天照大御神、豊宇気姫命、素盞嗚尊を祀り、社格は式内社⁽小⁾で旧社格の県社。創建(略記)は第9代開化天皇乙酉(BC156)とされる古社で、後の崇神天皇御代に武総野から伊勢神宮へ献るための初穂米調集納蒼運搬所に定められたようです。拝殿以外は良く見通せず本殿の造り等は不明。拝殿の千鳥破風と軒唐破風。日暮れが迫ると向拝の下の照明に明りが灯され、透彫りがライトアップされる。向拝柱の獅子の木鼻。沿革は南北朝時代の延元2年(1337)に、足利尊氏が一色範行に命じ荒廃していた社殿を復興したと伝えられています。その後、戦国時代末期の天正18年(1590)小田原兵乱で、焼失しますが、徳川家康の関東入部後から江戸時代初期にかけ次第に再建されたようです。現在の社殿は、安政6年(1859)に竣工された総欅の権現造り。境内東側の神池の畔に鎮座する稲荷社の本殿は調神社の旧本殿を移築したもの。安政以降も補修の手は入っているようで、全体的に大きな劣化は見られず、綺麗な社殿の印象をうけます。社務所右の境内に神楽殿。兎の神社に今年の干支、兎の絵馬が置かれていた、偶然とはいえ、つきがあるのだろうか。来年はここに龍の姿が現れる。神楽殿左の神池、この中央にも兎がいる。古来より調神社は月待信仰と深い関りを持ち、調神社も月宮殿にされるようになると使姫である兎の彫刻が各所におさめられていったようです。よく見れば左に甲羅干し中の亀、兎と亀だね。神池に架かる神橋の先が境内社の稲荷神社。神橋の先は朱の木造両部鳥居。この鳥居と先に見える鳥居ともに額は架けられていなかった。石の明神鳥居の先が稲荷神社の覆殿。調神社の旧本殿と云う稲荷神社の本殿は、覆殿の周囲を透明の樹脂板で包まれており、外光が反射して調神本殿の姿は良く見えない。まるで温室のような覆殿と左は稲荷神社仮殿。なんとか本殿の姿を一枚収める。杮葺きの一間社流造で脇障子が付き、彫物にも兎らしき姿が見える。破風板や各所に金の飾り金具や彩色が施され、派手ではないが上品な華やかさを備えたもので、享保18年(1733)に作られ、安政年間(1854~1860)まで調神社の本殿を務めた。移築後の平成29年(2017)に補修の手が入れられ、以前は銅板葺きだった屋根を柿葺きへ戻されたようです、覆殿に囲まれているからか、300年を経た今も綺麗な状態を保っているように見えます。周囲を透明樹脂で覆うのは、豪雪地帯などでよく見かけ理にかなっていると思いますが、偏光フィルターでもあればいいが、写真に収めると乱反射して綺麗に撮れないのが難点。覆殿左の堂。右脇に狐が姿が見え、正面には額が架かっていますが文字が読み取れず詳細は分かりません。境内南側の境内社。左の流造の社が天神社で右の寄棟の堂が金毘羅神社。天神社。例祭 1月25日、月次祭 毎月23日、祭神は菅原道真。祭礼は初金毘羅祭 1月10日、月次祭 毎月10日。正参道右側の旧中山道沿いの参道は唯一鳥居を構え、参道の先は金毘羅神社。旧中山道に鎮座する調(つき)神社、勝負運や金運に御利益があるとされ、浦和ではよく知られた神社のようで、つきをもたらす兎が出向迎える歴史のある神社のようだ。浦和は出張で幾度も通り過ぎていたが、駅から容易に訪れられるのであれば、あの頃に道草しても良かったのか。とはいえ、週末でもないのに出張先で道草する発想はなく、一刻も早く名古屋に戻りたかったのが本音かな、今回埼玉の社寺を訪れましたが、帰路が遠く感じるのはなんだろうね。調神社創建 / 第9代開化天皇乙酉(BC156)祭神 / 天照大御神、豊宇気姫命、素盞嗚尊境内社 / 稲荷神社、天神社、金毘羅神社。(本殿域にも社の姿がある)所在地 / 埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25参拝日 / 2023/09/26朝日坂上バス停(氷川女體神社)からJR浦和駅バス移動 / 約50分浦和駅から徒歩 / 県道213号線を南へ15分程関連記事 /・一泊二日武藏國一之宮巡り 二日目「大宮・浦和」・鐘塚稲荷神社(さいたま市大宮区)・武蔵一宮 氷川神社(一ノ鳥居から三ノ鳥居まで) ・武蔵一宮 氷川神社(氷川稲荷神社から本殿)・氷川女體神社(さいたま市緑区)・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院・喜多院 「白山権現、仙波日枝神社」・瘡守(カサモリ)社・川越総鎮守 氷川神社・川越市喜多町「広済寺」・川越時の鐘・薬師神社・川越熊野神社・川越八幡宮
2023.12.25
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岐阜市玉宮町「屋根神」岐阜の玄関口JR岐阜駅北口から歩道橋を渡り、左手の路地を北に向かう。車一台通るのがやっとの路地が北へ続いてます。上は玉宮町2の玉宮通り商店街の光景。空を近くに感じられる低層の店舗や飲食店が軒を連ねる光景は、昭和生まれの自分には昔懐かしいものがある。背の高いビルに囲まれると圧迫感があって居心地が悪いが、道幅が狭くてもこうして上が開けているだけで妙に落ち着ける、ましてや敷居の低いお店が連なり、食欲をそそる香りが漂ってくるとついつい吸い込まれそうな魅力的な通り。屋根神様はその通りにあるスポーツ用品店の角っこに佇んでいた。店先の右角に櫓が作られ、その上に板宮造りの社の姿があった。町の景観に溶け込み存在に気付くこともなく、足を止めることはないけれど、この通りのお店・町内の鎮守のために祀られた屋根神さまだったのだろう。名古屋の場合、多くは熱田神宮、津島神社、秋葉神社の三社をひとつの社に祀ったものが多いが、岐阜の屋根神さまはあまり知らない。先人により身近な神様として祀られた屋根神も、時代の移り変わり、住宅の建替、崇敬者の高齢化などから数は減る一方なのが現状の様です。こちらでは今も榊が供えられ、お参りに訪れる方が見える様です。少し前は流行病に怯え、通りから人影が消えシャッターを下ろした店が目に付いた時期があったけれど、正体も分かり、通りには人が戻り活気を取り戻してきた。ここの屋根神様は賑わいを取り戻した玉宮通り商店街の鎮守としてまだまだ現役だ。屋根神様創建 / 不明祭神 / 不明参拝日 / 2023/10/28所在地 / 岐阜県岐阜市玉宮町2-9公共交通機関 / JR岐阜駅から北へ徒歩5分関連記事 / ・金神社・縣神社・八幡神社
2023.12.24
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武蔵一宮氷川神社から大宮駅東口に戻り、そこからバスに乗り氷川女體神社に向かいました。一向にお腹も空かないので少し手前の染谷新道バス停で降車。ここから芝川を越え、一面田畑が広がる約3㌔を歩いて氷川女體神社に向かう事にしました。写真は芝川に架かる宮後橋から、下流のさいたま新都心方向の長閑な眺め。上は現在の地図にかつての見沼を落とすとこんな大きさ、降車駅の染谷新道停から氷川女體神社まで徒歩で向かっていますが、その道筋は見沼の縦断する事になります。バス移動の際に中山神社最寄りバス停(片柳)を通過しましたが、時間の都合から今回は諦めました。見沼代用水西縁と呼ばれる灌漑用水沿いに遡ると、正面にこんもりとした氷川女體神社の杜が見えてきます、社頭へは杜の左側を目指します。社頭入口の見沼たんぼの解説。見沼田圃の散歩みちのひとつで、遡ってきた見沼代用水西縁沿いは桜並木が続き、花の時期にはさぞかし綺麗な事だろう。遥か昔はこの辺りまで海が迫っていたようで、一帯は氷川女體神社や磐船祭祭祀遺跡など見沼田圃の歴史に深く関わる見所が残されています。武蔵一宮氷川神社でも現れた見沼ですが、ここに来て見沼の姿が見えてきます。見沼の畔に突き出た台地の突端に氷川神社、中山神社(中氷川神社)、氷川女體神社が直線上に祀られており、その三社を氷川神社と捉える説があるのも、大宮の氷川神社を男体社、氷川女體神社を女体社として称する理由も分からなくもない。見沼田圃を見下ろす高台に鬱蒼とした社叢に包まれる氷川女體神社。石段脇に縁起が掲げられており、そこには以下のように記されています。「武蔵国一宮 御縁起 (歴史)当社は見沼を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保12年(1727)の新田開発までは、12平方キロメートルという広大なものであった。この沼は御手洗として当社と一体であり、ここに坐す神は女體神、すなわち女神であった。創建の由緒は明和4年(1767)に神主武笠大学の記した「武州一宮女躰宮御由緒書」によると「崇神帝之御勧請」「出雲国大社同躰」とある。また「神社明細帳」控えには、見沼近くにある当社と現在のさいたま市大宮区高鼻鎮座の氷川神社、同市中川の鎮座の中山神社(氷王子社)の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀は北条泰時の奉納と伝える。祭祀は御船祭と称し、隔年の9月8日に見沼に坐す女神に対して行われた。しかし、古来より続けられてきた御船祭は享保12年(1727) 見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。このためやむをえず磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同14年(1729)9月から斎行された。下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹」の地名が残るが、近年の調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹であることから、昭和56年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。御祭神 奇稲田姫命、大己貴命、三穂津姫命御祭日 歳旦祭(一月一日)、祈年祭(二月十八日)、祇園磐船龍神祭(五月四日)、名越大祓(七月三十一日)、お日持(十月七日)、例大祭(十月八日)、新穀感謝祭(十一月二十三日)」上に記された中山神社は今回訪れなかったが、地図上で三社の鎮座地を見ると一直線上に鎮座しており、三社を合わて氷川神社と云われると訪れておくべきだったのかも知れない。社頭の鳥居に掲げられた額には「武蔵国一宮 氷川女體神社」の額が掲げられています。鳥居から境内の眺め。境内左が社務所、参道の先が社殿、右側に龍神社と参集殿があり、社殿後方には複数の境内社が祀られています。鳥居をくぐった右側の手水舎から社務所方向の眺め。手水石には絶えることなく清水が注がれ、再び台地に戻って行く。参道から拝殿の眺め。社地を包む杜は楠木、モチノキ、タブノキの他に多様な樹々で形作られ、樹齢が300年を越えるとも云われる杉の大木などが聳えています。現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川幕府四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立したものです。氷川女體神社は中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されているといいます。拝殿は銅葺入母屋造りで千鳥破風、軒唐破風が付くもの。本殿は全面に朱の漆が塗られた三間社流れ造りで、拝殿と相の間で結ばれた権現造りの建造物です。拝殿向拝に「武蔵国一宮」の額。女體神社社殿解説。「寛文七年銘棟札一枚 平成19年3月16日埼玉県指定有形文化財(建造物)この社殿は17世紀の造営であり、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿です。一番奥にある本殿は朱塗りの三間社流造です。三間社とは、正面の柱となだらかな曲線を描く「流造」となっています。本殿と拝殿をつなぐ幣殿は間口の柱の空間が三つあるので「三間社」と表現します。屋根は切妻造の前方が長く延び、本殿に合わせ、屋根は切妻造で二方向に葺下しています。拝殿は入母屋造で屋根の正面には、「千鳥破風」と、軒から起こり曲線を持つ「軒唐破風」が施されています。現在、屋根は銅板葺ですが、平成23年の社殿保存修理時に、古い杮葺が残存していることが確認されました。寛文7年(1667)銘の棟札には、四代将軍徳川家綱が忍藩主阿部忠秋を奉行として「武蔵国一宮厳河女躰大明神社」本殿の工事を行った記載があり、江戸幕府の公式歴史書「徳川実紀」には、その修理費用が三百両であったとも記録されています。この本殿は埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物で幣殿・拝殿を含め社殿として一括して埼玉県の文化財に指定されています。」その社殿も当時のままで、現在は一部雨漏りが発生し、早急な修復に迫られているようです。参集殿左から見る社殿。同じ武蔵国一宮を冠する大宮の氷川神社神社と比較すると、規模の小さい社殿で参拝に訪れる人影が少ないのは意外、個人的にはこの佇まいの方が落ち着ける。本殿の棟には4本の鰹木と内削ぎの千木が置かれ、拝殿から透塀で本殿が囲まれています。この神社は古くから豪族や武将からの尊崇があつく、中世を中心にそれらに関する文化財も多い。その中の一つとして鎌倉時代金工品の優品として三文兵庫鎮太刀があり、刀と吊紐をつなぐ帯執りが針金で編んだ鎖となった兵庫鎖太刀で、多く寺社奉納に使われた。この太刀も刀身は鉄の延板で奉納用として作られ、社伝では北条泰時の奉納と伝えられ、全面に三鱗文が施されているという。古社宝類のひとつとして、正応6年(1293)佐伯弘の銘がある飾鉾など、多くの文化財を所蔵する。境内右の龍神社。さいたま市の竜伝説に因んだ龍神様を祀る。傍らの解説の概要は以下。今は消滅した見沼の辺に鎮座する氷川女體神社には、14世紀より神輿を乗せた舟で沼の最深部に漕ぎ出して、見沼の主である龍神様に御船祭を執り行っていたと伝わり、享保12年(1727)に見沼新田の開発にともない、干拓後は磐船祭として現在まで執り行われている。創建など詳細は不明ですが、祭が14世紀には行われていたと伝わる事や、女體神社の創建が崇神天皇の御代と云う事から、それよりかなり遡る事になるのだろう。龍神社の傍らに、伊勢講で行われた太々御神楽の記念碑が並んでいます。「伊勢参宮太々御神楽」とありますが各々の年代は未確認。参集殿後方の境内社。左から。天神松尾合社・祭神 / 少彦名命、菅原道真住吉明神社・祭神 / 大巳貴命坂東神社・祭神 / 不明石上神社・祭神 / 布都御魂、布留御魂、布都斯魂大神本殿後方の二社。上は今宮神社、下神明社(天照大神)。社務所から拝殿、参集殿の眺め。社殿は一部雨漏りが発生し、早急な修復に迫られているようです。上拝殿前の燈籠は文化10年(1813)寄進のもの。下境内の力石。重さは262.5㎏(70貫目)ある石で、昔の若者はこうした力石で自らの存在を誇示したようで、集落の娘はその姿を羨望の眼差しで見つめ、嫁に目娶られることを夢見る時代もあったようです。それにしても262㎏に挑戦とは信じられないが、多くの力自慢が挑戦したのか石の表面は艶やかだ。本殿左の境内にも複数の境内社が祀られています。御嶽神社(国常立尊命)と霊神碑?。上稲荷社(宇迦之御魂神)下稲荷社(宇迦之御魂神)近隣の開発によりこちらに遷座して来たのだろうか。氷川女體神社参道鳥居。神社から北西約500㍍程の住宅地の生活道路に石の明神鳥居が立っています。柱には安政2年(1855)己卯8月と銘が刻まれており、鳥居が寄進された年の10月には安政江戸地震が起きており、この辺りも強烈な揺れに見舞われた事だろう、外観に修復の跡は見られず、この鳥居は震災で倒れるのを免れたのだろうか、だとするとこの鳥居はなにかもっているのかもしれない。今のご時世、鳥居にとって最大の脅威は地震ではなく車なんだろうか、柱の前後左右にはガードバーが設置され保存されていました。最近夫婦ともども些細な起伏で躓いて転ぶことがある、倒れなかった?鳥居にゲン担ぎで触れさせてもらい氷川女體神社を後にする。氷川女體神社、縁があれば神社東部の見沼たんぼの散策を含めのんびり歩いて見たい、大陸からの観光客もなく、個人的には再訪したい神社のひとつかもしれない。氷川女體神社創建 / 崇神天皇年間祭神 / 奇稲田姫命、大己貴命、三穂津姫命境内社 / 龍神社、今宮神社、神明社、坂東神社、石神神社、住吉明神社、天神松尾合社等所在地 / 埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1参拝日 / 2023/09/26大宮駅からバスで染谷新道まで / 約30分染谷新道から氷川女體神社まで徒歩 / 約3㌔40分関連記事 /・一泊二日武藏國一之宮巡り 二日目「大宮・浦和」・鐘塚稲荷神社(さいたま市大宮区)・武蔵一宮 氷川神社(一ノ鳥居から三ノ鳥居まで) ・武蔵一宮 氷川神社(氷川稲荷神社から本殿)
2023.12.23
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便器の水面が僅かに揺れ、微妙に水が漏れているのに気づき排水弁パッキンを交換したが、あれから3年遅れて2階の手動式トイレに同じ症状が現れた。今回は一般的な手動式トイレの便器に水が僅かに漏れる場合の対応について。随分誇張した写真ですがこんな感じで、給水タンクの上の手洗いから水が給水されるところまで酷くはない。上の右の図が給水タンクの構造図。給水タンク外部に水が漏れていない場合の大半は、赤丸で囲った給水弁と呼ばれるタンクに貯水した水を便器に水を流すための二つの弁についているパッキンの劣化から水を止めきれず便器に流れ込んでしまうのが原因。左の図が拡大した構造図。構造は二つの弁が二段重ねで一つとなり、それぞれ弁は鎖に繋がれており水を流す時に操作するレバーに繋がっているだけで、小にすると上の弁が鎖で持ち上げられ便器に流れ、弁が閉じる。大を選択すると下の弁が小の弁ごと持ち上げられ、給水タンクの水を全て流しきる仕組み。空になったタンクはフロートが下がる事で水が供給され、上がり切ると給水が止まる仕組み。なので漏れが酷くなると給水タンクの水位が下がり、フロートも下がるので、使用しなくてもタンク上の手洗いから水が注がれタンク内に供給されるようになる。給水タンク上の手洗い。これ上に持ち上げられるので、タンク内の給水用のホースが手洗いにはまっているだけなので、やさしく垂直に持ち上げれば手洗いは簡単に取り去ることができる。(少し持ち上げれば隙間から中のホースの状況が見られる)20年程前に設置した給水タンクの機種番号。ここからメーカーサイトより先程の構造図を探し、給水弁の一式図面、消耗部品リストHH11027に辿り着く。因みに、3年前一階の電動式のトイレの給水弁で使用した消耗品パーツと同じ番号だった二枚のパッキンの価格はWEB取り寄せで@1100~1300程。3年前は税込み@900だったがなんでも値上がりしている。上がらないのは小遣いと年金くらいだ。さて交換、必要な工具は給水バルブを閉める際に必要な-ドライバー、なければ10円硬貨で開け閉めできる。最初にトイレの傍らにある給水バルブは忘れずに閉めておきます。上手動手洗い付きのタンクは初めての経験、覗いたことすらない。給水タンクは2重構造、上にプラスチックの蓋が付き上部の突起と手洗いのホースが繋がり、下の穴からタンクに注がれる。下蓋を取り去ると内部が見えてくる。右の長いのが操作レバー、先端の鎖が弁に繋がっている。その上の筒状のものは給水バルブが壊れた場合、水を便器側に流し給水タンクを溢れさせないようにするもの。赤いのは錆や水垢を除去するフィルター。左の白く丸いのが水位によって上がり下がりするフロート。問題の部分はタンクの底にある黒い重しの付いた弁。全部外せは作業はしやすいが、取り付けの構造が不明なもので、樹脂製パーツのものは思わぬ破損を招くので避けたい。フロートを持ち上げると充分に手が入るので、手を入れて最初に小用の弁を取り外す。上軸に樹脂製の弁体の両脇の切り込みに差し込んであるだけなので、赤丸部分を持って垂直に持ち上げれば取ることができる。注意1.力任せに取ろうとすると左側の両脇の切り込み部分が折れる。2.重しと鎖で繋がっているので、その範疇以上引っ張ると鎖が切れるなど二次災害が起こる。下外した小用の弁を裏向きにするとパッキンが現れる。これは漏れるわ。上新旧パッキンの違いは一目瞭然。下鎖の範疇でパッキンを交換。注意 パッキンは本体の溝に入れ込む。この弁はそのまま、タンクの端に置いといて、その下にある大用の弁を軸から取り外す。取付は小用と同じで固定された軸の両端に弁の切り込みで止まっているだけ。右側の切り込みの下に突起が見えますが、ここに小用の切り込みが入り一体となっている。メーカーの交換要領は小用からとなっているので従ったが、この構造から最初に大用の弁を取ると小用ごと取れる構造か?まあいい、パッキンを見て見よう。上庄に比較すると劣化は少なく、パッキンの柔軟性も残っていますが、パッキンは大・小セット販売なので交換。下交換した大小の給水弁。これを先程の逆の順番で軸に差し込んで完成。大・小供に流してみて、便器の水面が鏡のように落ち着いていれば交換作業の効果は完璧。所要時間は10分程。…タンク内清掃した方がいいんだろうが、やらない。電化製品は10年故障タイマーがもれなく付いてくるようだが、20うん年使用し続けたパッキン、良くもったものだ。最近こうした修理を検索すると、消耗部品交換で済むものを一式交換で見積もられ、高い金額の修理代を当たり前のように見積もってきます。この程度は文系出身の人でも出来るので、一度経験すればパーツの相場や業者の良し悪しが見えてくる。世の中本当に何を信じていいのか分からなくなってきた、高い修理代はその後でもいいのでは。関連記事 / 雨・・・・・トイレのリニューアルやるか 其の3
2023.12.20
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ノリタケの森へ写真展を見に訪れた帰り道。このまま帰るのもなんだし、10分程東に歩いた円頓寺本町商店街にある立ち飲み屋で昼飲みしに向かいました。円頓寺本町商店街のアーケードを前にして、西区那古野二丁目交差点の信号に行く手を阻まれ、やむなく菊井通歩道橋を渡る事にした。手摺に手をかけ上り始めようとした時、歩道左側に屋根神様の姿があることに気付いて立ち寄ってみました。上は西円頓寺商店街の東外れの菊井通歩道橋脇から菊井町交差点のある北方向の町並み。普段あまり眼鏡をかけないけれど、今日は写真展もあり眼鏡をかけていたのが良かったのかな。その屋根神様は赤いテントの手前に祀られていました。若い年代層も良く見かけるようになった円頓寺本町商店街や円頓寺商店街に比べると、ここから西に続く西円頓寺商店街は今一つ人影が少ないようで、このお店も古くからお店を営んでいたようですが、既に廃業されたのか看板もなくシャッターが降ろされていた。屋根神様はそのお店の一階端っこに建物にはめ込まれる様にスペースが作られ、その一番高い所に社は祀られていました。社は5本の鰹木と内削ぎの千木が付き、軒先に幕を張るための金具も付けられている。三つの扉が付いており、恐らく津島神社、熱田神宮、秋葉神社の三社が祀られているのだろう。廃社なのか、今も現役でこの一角に降りかかる様々な災いから護っているのかは定かではない。現役であれば祭礼の日(恐らく1日・15日)にはここに三つの提灯が吊るされる事だろう。こうした屋根神様は住宅が連なる一帯の町毎に祀られ、明治から昭和初期にかけて多くが残っていたそうですが、終戦以降は生活スタイルも変わり、地域の結びつきが希薄となり残っているの少ないという。この近くでは堀川沿いの世間道付近で幾つか見ることができます。屋根神様創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区名駅2-2-23-14公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線亀島駅から東へ徒歩15分程関連記事 / ノリタケの森 日陶神社
2023.12.19
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岐阜市八幡町「八幡神社」岐阜の玄関口岐阜駅から徒歩10分程の場所にある金公園。そこから東に1分程の住宅に囲まれた一角の八幡町15に「八幡神社」は鎮座します。八幡と付く町名は結構聞きますが、県外に住む者から岐阜の八幡町というと、郡上市の八幡町を思い浮かべてしまいます。そうした八幡の町の由来の多くは地内に八幡神社が鎮座することに由来する例が多いものです。ここの八幡町はあまり馴染みもなく、八幡神社がある事すら知りませんでした。たまたま金公園で開かれていたイベントで訪れ、八幡神社に立ち寄ってみたらそこが八幡町だった。八幡神社社頭。街中に大きな樹々が聳え杜を形作り、南北に長い社地に南を向いて鎮座します。社頭左に赤い鉄柵に囲われた小さな不明社、正面に石造の明神鳥居を構え、鳥居左側に大正4年(1915)に寄進された「八幡神社」の社標が建てられています。鳥居扁額。当日は参拝に訪れる方の姿もなく、閑散とした境内ですが、奇数月の第一土曜日に市が開かれるようで、その日ばかりは境内は人で賑わうようです。社殿全景。大きな楠木の下に切妻瓦葺の拝殿とその先の本殿と両脇に摂社が祀られています。当神社の由来について岐阜県神社庁では以下のように解説されていました。「当社延喜年間(901~923)に一祠を創立し、その後暴風のため古社破壊す。其の後宝徳三年(1451)岐阜稲葉山の城主斉藤越前守利永普請奉行を以て右社を再建す。然るにその後又風雨のため傾斜するにより改めて建立すと言えども、事実不詳。さらに第二次世界大戦にて被爆焼失するも、再建し現在に至る。その昔、織田信長(1534~1582)が此の社を休憩所とし、枇杷を食し「枇杷を家紋とせよ」と賜う。その後も織田信長の庇護を受ける。主祭神は応神天皇、摂末社に安閑天皇、祖神」とある。地史は調べてはいませんが、これからすると見た目から想像できない長い歴史を持つ神社のようです。参道脇の狛犬(寄進年未確認)拝殿から本殿域。左に太い幹の楠木が聳え、社の姿を遮っていますが三社が並んでいます。流造の三社が祀られていますが、本殿は中央としても左右の摂末社には社名札はなく、摂末社の安閑天皇、祖神がどちらなのか、創建時期等は定かではない。本殿域で見かけた二つの石。原形がイメージできませんが、人の手で刻まれた跡が残り往古の狛犬だろうか。目を見張る派手さのない、小さな神社かも知れませんが、武勇に秀でた信長も訪れたいう長い歴史を誇るのが八幡神社です。八幡神社創建 / 延喜年間(901~923)祭神 / 応神天皇例祭 / 4月4・5日所在地 / 岐阜県岐阜市八幡町15名鉄岐阜駅から徒歩 / 名鉄岐阜駅前から国道157号線を北へ10分程関連記事 /・金神社・縣神社
2023.12.18
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長い参道を持つ武蔵一宮氷川神社、先に掲載した一ノ鳥居から三ノ鳥居の続きとなる今回は、神池畔に鎮座する氷川稲荷神社から氷川神社社殿を掲載します。まずは、神橋の手前から左に伸びる参道の先に鎮座する氷川稲荷神社に向かいます。新池南側の緑濃い杜のなかに、鮮やかな朱の奉納鳥居と幟が連なる稲荷神社が見えてきます。石の明神鳥居をくぐると奉納鳥居が連なる朱のトンネル。拝殿全景。銅葺屋根の切妻平入で千鳥破風、唐破風向拝が付く。いかにもいなりらしい佇まいの拝殿、その前には倉稲魂命の使い狐の姿がある。拝殿から先の本殿には「右廻り一つ稲の丸」の紋幕と両脇にも稲を護る狐の姿が見える。拝殿右脇の稲荷社。脇参道から社殿眺める社殿全景。拝殿から本殿を覆う覆屋は一体となり、本殿上の屋根には千木と3本の鰹木が施されており、覆屋の下には本殿以外に両脇に額が付けられた鳥居が見え、それらも含めて覆っているように見えます。本殿正面の写真から両脇の鳥居を拡大すると右が「苑宮」、左が「震宮」と書かれているように見えますが、本殿の造りや覆屋の構造、由緒等の詳細は良く分からない。氷川稲荷神社創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命氷川稲荷神社の向かい、神池に浮かぶ小島に鎮座する社が宗像神社。まだ訪れた事はありませんが、福岡県の宗像市に鎮座する宗像大社を本宮とする宗像神社の一つで、三柱の女神を祀る神社。木造の明神鳥居を構え、赤い神橋の先に本殿が祀られています。神池の中ほどに建てられた本殿は一間社流造で、棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が施されています。祭神は宗像三女神の多起理比売命、市寸島比売命、田寸津比売命をお祀りします。新池左側から眺める宗像神社全景、左の赤い橋が三ノ鳥居から楼門に続く神橋。新池の水面に写り込む社の姿、紅葉や雪の時期には趣のある姿を見せてくれれるだろう。この光景は江戸名所図会にも描かれています。宗像神社創建 / 不明祭神 / 宗像三女神写真は西駐車場から楼門へ続く参道に架けられた神橋。その下を流れる細い流れは蛇の池から神池に注がれている。神橋を渡り楼門に向かう参道沿いに龍が描かれた水盤。楼門前の手水舎。荘厳な佇まいの楼門、左右の廻廊は社殿域を囲い楼門に繋がる。江戸名所図会が描かれた当時にはこの廻廊や楼門は描かれておらず、HPの年表によれば現在の本殿・拝殿・舞殿・幣殿・楼門は昭和15年(1940)の竣工とされ、過去に遡ると徳川幕府、源頼朝などから庇護されてきた。古めかしい社殿を求め氷川神社を訪れるとものたりないかも知れない。氷川神社は埼玉県・東京・神奈川県下だけでも280社を数え、当社はその本社で祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱をお祀りする。楼門から境内。正面に見えるのは舞殿。境内全景。右から舞殿、拝殿、本殿。入母屋銅葺屋根の妻入りの舞殿。舞殿右から拝殿、本殿の眺め、ここの右には東門があり門客人神社に繋がります。舞殿から拝殿の眺め。入母屋銅葺屋根の拝殿。氷川神社の創建は伝承によれば孝昭天皇の御代3年(BC472)の創立と云われ、2500年近い歴史を誇る。社名の由来は二つの説があるとされます。一つは、出雲の国の杵築大社(出雲大社)を遷して氷川神社の神号を賜ったことから、出雲の大河である斐伊川からちなんだ。もう一つは、鎮座地の「高鼻」が、見沼の低地に突き出た大宮台地上にあり、古代からの湧水地で、清冽な泉は原始の氷川祭祀の対象で、古語で霊験あらたかな泉を表す氷川が社名となったとも云われます。往古の当地は見沼と呼ばれた大きな沼があり、その畔に現在の氷川神社、中山神社(中氷川神社)、氷川女体神社が祀られ、その三社を合わせて氷川神社と捉え、氷川神社を男体社、氷川女体神社を女体社として称したとも云われる。また、氷川神社と氷川女体神社の双方が武蔵国一宮を称しているのは、三社一体の捉え方によるものかもしれない。いずれにしても二つの一之宮は、全国一之宮マップ塗り潰しを目論むかみさんにすれば、御朱印の懐具合と旅行の行程を作る上で悩ましいようだ。こうした例は他でもあることですが「一つじゃいけないの」と以前も言っていた気がする。江戸名所図会の挿絵には読みにくいが男体社・女体社・簸王子社と記されているが、これと先の三社は別物だとも云う、ならば挿絵の三社のその後はどうなったのかは良く分からない。拝殿右の神輿舎と後方の本殿。神厩舎横の力石(上)と歯固め石。神厩舎から拝殿側面。本殿左の神饌所。舞殿から楼門の眺め。参拝に訪れる人波は途切れることがない。舞殿左から見る楼門と廻廊の眺め、昭和の竣工とはいえ、荘厳で美しい姿であることに違いはない。東門から境内を出た左に鎮座する二社は摂社の門客人神社(左)と御嶽神社。氷川神社本殿が現在の形となるまで御祭神の男体社、女体社、簸王子社には其々本殿があったが、女体社の本殿は右の御嶽神社に、簸王子社の本殿は天津神社の社殿となったようで、何れも旧本殿と云われ、寛文7年(1667)に造営されたもので市の文化財に指定されているそうだ。御嶽神社から門客人神社の眺め。銅瓦葺の三間社流造で旧本殿と云われれば、前回記載した天津神社に通じるものがある。門客人神社創建 / 不明祭神 / 足摩乳命、手摩乳命御嶽神社創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命御嶽神社から更に右に進めば瓢箪池を経て大宮公園に至ります。「大いなる宮居」として大宮の地名の由来になった氷川神社は規模・歴史ともに埼玉を代表する古社だった。武蔵一宮 氷川神社創建 / 第5代孝昭天皇3年祭神 / 素佐之男命・大己貴命境内社 / 稲荷社、宗像社、門客人神社、松尾神社、御嶽神社など所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町 1-407大宮駅から徒歩 / 約1時間参拝日 / 2023/09/26関連記事 /・一泊二日武藏國一之宮巡り 二日目「大宮・浦和」・鐘塚稲荷神社(さいたま市大宮区)・武蔵一宮 氷川神社(一ノ鳥居から三ノ鳥居まで)
2023.12.17
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埼玉二日目の最初の目的地は武蔵一宮 氷川神社を目指します。大宮駅から氷川神社三ノ鳥居まで徒歩で約3.5㌔50分程の歩き。大宮駅から一旦南下し、旧中山道の県道164号線を経て一ノ鳥居を目指しました。旧中山道の左に氷川神社の赤い大鳥居と武蔵国一之宮の石標に到着。日本一長い参道とも云われる氷川神社の参道は、ここから延々と約2㌔続き、ゴールの三ノ鳥居まで写真データでは30分はかかっています。今回は、氷川神社の一ノ鳥居から三ノ鳥居をくぐった境内の一部までを掲載します。尚、参考所要時間として写真撮影時間を入れておきます。9:32参道左には享保7年(1722)に寄進された氷川大明神と刻まれた社号標が立てられています。旧中山道から旅の途中に氷川さんにお参りとばかり参道を進めば、先も見えないなっがーい参道が待っている。この一の鳥居は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊し、昭和9年(1934)に三ノ鳥居を移設したが、老朽化により昭和30年(1955)に新しく建て替えられたもの。しかし、耐震補強が必要となり、2023年春にリニューアルされたばかりで、朱も鮮やかなピカピカの明神鳥居。その傍らに「氷川神社 是より宮まで18丁」と刻まれた石柱があります。真っすぐに伸びる参道の先に社殿は見えない、一丁が約109㍍なので18倍…遠いぞと言う事だ。毎年8月1日に行われる氷川神社の例大祭では、皇室からの勅使もこの「一の鳥居」から参道を通って参向されるという。上は天保年間(1831~1845)、斎藤月岑が7巻20冊で刊行した江戸名所図会、その13冊にある氷川神社の社頭の挿絵。手前は旧中山道(現在の県道164号線)で、そこにも社標と鳥居が描かれており、周囲の光景は様変わりしますが街道と参道の位置関係は今も何ら変わっていません。参道には並木一八丁と書かれており、現存する当時の丁石は二丁、六丁、九丁、拾丁、十六丁の5基が神社や博物館で保管されているそうです。現在参道で見られる丁石は、氷川神社崇敬者により寄進されたものだそうです。けやき並木が続くなっが~い参道。真っすぐに伸びる参道は個人的にも好きですが、氷川神社の参道は日本一長いと称するだけの事はあります。社殿はまったく見えないが、丁石を探しながら進めばやがて見えてきます。楢姫稲荷神社吉敷町の崇敬者によりお祭りされている稲荷神社。9:37入母屋瓦葺のこぢんまりとしたシックな建物に朱色の明神鳥居と拝殿扉が印象的。この建物はここから5分程北東に大宮南小学校が建っています。かつてその場所に大宮南尋常高等小学校があり、そちらで天皇・皇后両陛下の御真影奉と教育勅語を納めるために建てられた奉安殿(昭和7年頃建立)でした。戦後解体される事無くここへ移築し、奉安殿から稲荷社本殿に姿を変えたもの。毎年3月第1日曜日には初午祭が行われます。こうした奉安殿は国の威信を象徴する性格から、豪華なものが多く、空襲から守るため蔵のような堅牢なものも多かったが、終戦後そうしたものは取り壊され、一部こうして流用されたようです。楢姫稲荷神社は奉安殿移設前から鎮座していたものと思われ、いつ頃建立されたのかは不明。境内には狐の姿は見られず、唯一鬼瓦に宝珠の紋が入っているくらいです。楢姫稲荷神社創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂神所在地 / さいたま市大宮区吉敷町2-142広い参道両脇の杜は往古、主に松や杉が主だったそうで、大正から昭和初期にかけて鬱蒼とした杉並木が続き「並木十八丁鉾杉つづき」と称されたようです。現在は杉に変わって欅やスダジイや楠木などが主で、樹の種類が変った背景には戦中、戦後の資材難でそれらが伐採されたことが一因にあるようです。現在の樹々の多くが昭和60年に入って植栽されたもので、参道沿いには今も伐採された切株が残されていました。訪れた時は丁度彼岸花が綺麗な時期で、緑のトンネルに鮮やかな赤のアクセントを加えていました。参道にはこうした丁石が立てられています。これが18になれば到着なんですが先はまだ〃先。9:42庚申神社歴史を感じさせる風貌の石仏は、宝暦10年(1760)大宮宿下町講中が建立したもので、台座に三猿の姿を彫り込み、その上には餓鬼を踏まえた青面金剛の姿があります。参道右脇の側道に写真の覆屋があり、中には一体の古びた石仏が安置されています。9:45八丁石 9:50十三丁石 9:59丁石は意表を突く場所に立っていたりするので丁石全てを見つけきれなかった。天満神社(氷川神社末社)二ノ鳥居手前の車道脇に鎮座し、菅原道真を祀った神社です。参道から横断歩道を渡って向かってみました。10:00天満神社全景。一間社見世棚造り流造の本殿と拝所があり、周囲は朱塗られた玉垣で囲われたコンパクトなもの。社殿の他に境内左に収蔵庫らしき建物がある。本殿に掲げられた額は天満神社。祭神は学問の神として知られる菅原道真で、本殿扉には金色の梅鉢紋が施されています。気が付かなかっただけか?、天満宮につきものの撫で牛の姿がなかった気がする。境内左は収蔵庫だろうか、シャッターが降ろされ中の様子は窺がえない。その手前に大岩が置かれ、水が張られた水盤があった。挿絵の中に姿は見られず、氷川神社HPも創建時期について語られておらず詳細は不明。氷川神社摂社 天満神社創建 / 不明祭神 / 菅原道真所在地 / さいたま市大宮区東町210:04参道を横切る県道2号線の先にニノ鳥居が見えてくる。左側に官幣大社氷川神社の社号標が立っている。ここが社頭と見間違うかもしれないが、三ノ鳥居まで全長2㌔の参道の2/3にすぎない。ニノ鳥居。約1.6㌔地点に聳える朱の鳥居。江戸名所図会の挿絵にはこの二ノ鳥居は描かれていません。氷川神社HPによれば、この鳥居は明治30年(1897)に北足立郡酒造業組合より寄進された木造の神明鳥居からはじまったものという。現在の朱塗りの明神鳥居は、昭和51年(1976)に明治神宮より移築された大正9年(1920)に建立されたもの。高さは約13㍍、幅約17㍍の木造の大鳥居で、関東最大級の規模を誇ると云う。鳥居に用いられている材木は、大正9年(1920)台湾の阿里山で伐採された樹齢1200年以上の桧で作られているといわれます。10:08ニノ鳥居の前には角付きの威厳のある狛犬が訪れる者に睨みを利かせている。氷川神社由緒。「氷川神社は、第五代孝昭天皇の3年4月未の日の御創立と伝えられます。古くから武将の崇敬をあつめた由緒ある大社としてその歴史を誇り、大宮の地名も氷川神社に由来する。古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足を止め祈願された。また、成務天皇のとき武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引き連れこの地に移住し、氷川神社を奉崇した。称徳天皇の天平神護2年(766)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。更に醍醐天皇の延長5年(927)には延喜式神名帳に名神大社として社格が与えられた。この他、鎌倉時代には治承4年(1180)源頼朝により社殿の再建と社領3000貫が寄進されたとされ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後江戸時代の慶長9年(1604)には徳川氏より社領300石が寄進され、文禄5年(1596)、寛文7年(1667)には社叢の整備と社殿の造営が行われた。その後、明治元年(1868)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定め、明治天皇自ら親拝された。同4年(1872)官幣大社となり、同15年(1883)に本殿・拝殿等を改修。昭和15年(1940)、本殿・拝殿・回廊等造り変え現在の景観となる。祭神は素佐之男命・大己貴命。例大祭は8月1日。他に神事で有名なのが12月10日の大湯祭である。」ニノ鳥居から300㍍ほど先の石灯籠。右の燈籠の竿には「武蔵国一宮東国総鎮守氷川両本宮」の銘があり安政6年(1859)に寄進されたもの。左の燈籠の竿の正面には「氷川大宮御橋内」右面に「武蔵国総鎮守一宮式内名神大月次新嘗」刻まれており、文化14年(1817)に寄進されたもの。10:13この辺りに十七丁石 10:14参道右に並行して伸びる車道の先に朱の鳥居と社殿が見えます。後方の建物は氷川神社の関連施設「呉竹荘」10:15参拝にと思いましたが、鳥居や覆殿の周囲は見ての通りで、一般の参拝を拒むかのように竹垣で囲われ施設神社的な雰囲気で詳細は不明。Gマップでは稲荷社とあり、見た目もその雰囲気が漂う、しかし狐の姿がある訳でもなく、なんとなく狐につままれようだ。ここから左を眺めると参道の先に朱の鳥居が見えていますが、それも狐につままれているのかナ?稲荷社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / さいたま市大宮区高鼻町2-266写真を撮りつつ、小休憩を交え約50分程で三ノ鳥居到着。鳥居をくぐれば左右に境内が広がり、参道は更に奥に続きます。江戸名所図会の挿絵から現在の三ノ鳥居周辺。境内入口の鳥居として建てられ、老朽化から明治44年(1911)に建て替えられたそうで、現在の鳥居は昭和9年(1934)に奉納されたもの。挿絵が描かれた当時は、鳥居の前に相撲土俵があった様ですが、現在の参道には見られないものです。10:21氷川神社境内案内図。広大な社地には神池、白鳥の池、瓢箪の池を湛え、稲荷社、宗像社、門客人神社など多くの境内社が鎮座します。挿絵には鳥居をくぐった先の境内の様子も描かれており、この絵にあたるのが以下の境内社と思われますが、当時とは多少配置が変っているかもしれない。境内左の社務所付近の「戦艦武蔵の碑」碑文は以下。「戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。パナマ運河幅の制限から、40㌢(16㌅)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46㌢砲三連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、四季が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名戦死、生存1329名もマニラ防衛戦等に投入され最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。平成27年10月24日建立 戦艦武蔵顕彰会」大和型1番艦「戦艦大和」は不沈戦艦と称され、同型の戦艦として2番艦の「戦艦武蔵」、3番艦として信濃が建造されましたが、信濃は建造中に戦艦から航空母艦へ構造変更され、竣工前の昭和19年(1944)、横須賀から呉に回航中魚雷攻撃で沈没した。艦船には艦内神社が祀られますが、大和は天理市の「大和神社」、武蔵は「氷川神社」、信濃については確かな事は分からないが信濃國一之宮 諏訪大社だったか?資源を持たない国、戦争は避けられなかったのかもしれない。戦後の今も食物すら満足に自給できない現実を考えると、なにをすべきか道筋は見えていると思うのだが。挿絵右の入母屋造の建物は現在の神楽殿(右)と思われ、左に額殿が建てられています。上は神楽殿の額と額殿に掲げられている奉納額の一部。ずらりと並んだ菰樽。ここ大宮へは幾度か出張で訪れ、酒席で飲む機会は多かったと思う、そうした酒は全く印象に残っていない。旅先でも毎度〃美味しい酒は飲ませてもらうが、ラベルやボトルの写真は増え〇△✖の分類は出来ても、味わいまで思い出せないのが悲しいところ。額殿左の銅瓦で葺かれた三間社流造の社は摂社天津神社で少彦名命を祀る。天津神社左に鎮座する六社。挿絵が描かれた当時は、境内に社ごとに祀られていたようですが、どの時点からこうして纏められたかは不明。左から住吉神社、神明神社、山祇神社、愛宕神社、雷神社、石上神社の六社が祀られており、祭神は以下。住吉神社 / 底筒男命、中筒男命、上筒男命神明神社 / 天照大御神山祇神社 / 大山祇命愛宕神社 / 迦具土命雷神社 / 大雷命石上神社 / 布都御魂命摂社 松尾神社境内左に鎮座し、銅葺屋根の三間社流造で大山咋命を祀る。松尾神社から三ノ鳥居方向の眺め。氷川神社の歴史を物語るかのように、見上げるばかりに伸び、枝をはった杜に包まれています。ここから左を眺めると神橋の先に朱の楼門が見えています。随分長くなったので今回はここでひと区切り、次回は神池周辺から先を掲載します。武蔵一宮 氷川神社所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町大宮駅から一ノ鳥居経由三ノ鳥居 / 約50分参拝日 / 2023/09/26関連記事 / ・一泊二日武藏國一之宮巡り 二日目「大宮・浦和」・鐘塚稲荷神社(さいたま市大宮区)
2023.12.14
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日陶神社。地下鉄東山線亀島駅から東に10分程の「ノリタケの森」この日は園内のギャラリーで開かれていた写真展を見に訪れました。師走とは思えない、風のない、温かい日差しが降り注ぐ園内には多くの入園者が訪れていました。明治37年(1904)にノリタケの前身「日本陶器」が日本で初めて白く輝く白磁器の製造を確立し、ノリタケチャイナとして世界的に広め、ノリタケの森はその工場跡地を整備・解放したもの。街中にありながら緑を多く残した憩いの場で、広々とした園内には歴史を感じさせる赤レンガで作られた建物や6本煙突モニュメントなどが残され、ノリタケの歴史館や製品販売・レストランもあり、商業施設とも隣接することから訪れる人は多い。名古屋駅から近い事もあり、この時期は紅葉に彩られた煉瓦棟をバックに、思い〃のポーズをとって撮影する海外からの観光客も多く見られた。園内は噴水塔や芝生広場への人の流れはあっても、この森に向かう方は意外に少なく、ここに神社がある事に初めて気が付く方も多いかもしれない。日陶神社は、園内の噴水塔西側のノリタケスクエア南側の小さな森にひっそりと佇んでいます。日陶神社社頭全景。所謂企業神社で、よく会社の敷地にお稲荷さんが祀られたりしますが、日陶神社もノリタケの社運の隆盛と安全祈願を込めて昭和15年(1940)に祀られたもので、天照大神、熱田大神、迦具土神の三神を祀っています。一般的に企業神社に部外者の立ち入りは許されないものですが、園内に鎮座する日陶神社は誰しも参拝することができます。小さな森の小さな神社ですが、街中で四季の移ろいを感じられ場所でもあり、この時期はやはり紅葉でしょう。社頭右に日特神社の解説が掲げられています。内容は以下。「社運の隆盛と安全の祈願を込め、天照大神、熱田大神、迦具土神の三神を祀り、1940年11月19日に建てられました。ノリタケの初代社長、大倉和親はこの工場敷地内に家を建て、陶磁器産業の発展に全力で立ち向かいました。その後、大倉和親邸の跡地に当社殿は造営され、石造の狛犬は1941年4月に社内婦人会有志によって寄進されました。」日本陶器の発展は伊勢神宮・熱田神宮・秋葉神社の三神が担ってきたわけですが、神社が鎮座する西区には住宅が密集する四間道など歩いていると、軒下に津島神社、熱田神宮、秋葉神社などの神さまを一つの社に祀った「屋根神さま」を見ることができます。こうした社は軒ばかりか、密集地の僅かな一画に祀られていたりして、町内の災い除けとして住民から崇敬されています、当初はそうした規模の社からはじまったのかもしれません。参道から境内全景。一対の石灯籠の先には胸を張った凛々しい姿の狛犬が境内を守護しています。その先の一段高く築かれた社殿域に木造鳥居と本殿が祀られています。赤や黄に色付いた樹々に囲まれていますが、陽が良く差し込み明るい空間です。石造の狛犬の台座には昭和16年(1941)4月1日、森村婦人会、婦人心友会有志と刻まれています。背筋を伸ばし、厚い胸板を誇るかのような勇ましい姿をしています。大きなビルが林立する名古屋駅の北側ですが、ここは陽当たりも良く、境内の紅葉が赤みを増して綺麗に見せてくれる。本殿は外削ぎ千木と6本の鰹木が施された神明造りで、ノリタケの企業神社だけに綺麗に維持されています。後方の煉瓦造りの建物は森村・大倉記念館。社殿全景。暖かい彩りと日差しに照らされた温もりのある境内です。6本煙突モニュメント。個人的にノリタケの森を象徴する印象がある。昭和8年(1933)工場大改造時に建造された陶磁器焼成用トンネル窯の跡で、その根元には窯から排出される煙を煙突に送り出す施設の名残が残されています。現役時代は45メートルの高さを誇る大煙突で、テレビ塔が建つまでは名古屋城と並ぶ高さを誇ったそうで、昭和54年(1979)の工場移転時に現在の部分を残し撤去されたもので、季節によって飾り付けは変わり、今はXmas仕様になっています。ノリタケの森各施設の営業時間は則武施設案内から確認する事をお勧めします。日陶神社創建 / 昭和15年(1940)祭神 / 天照大神、熱田大神、迦具土神参拝日 / 2023/12/08所在地 / 名古屋市西区則武新町3-1
2023.12.13
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さいたま市大宮区桜木町「鐘塚稲荷神社」武藏國一之宮巡りのため埼玉を訪れ、大宮駅からほど近いパレスホテル大宮で迎えた二日目。まだ静かな大宮の街中、ホテル北側にある鐘塚公園方向からラジオ体操の音楽が聞こえてきた。朝の散歩がてら、音に導かれように桜木町の細い路地に入り込む。路地の先に神社の社殿らしき姿が見え、ラジオ体操の音楽もより一層はっきりと聞こえて来た。路地を進み右を見ると写真の拝所が見えてくる。赤と白の格子戸、その前には抱き稲紋の入った提灯が吊るされた鐘塚稲荷神社に辿り着く。音の出どころはこちらの境内からだ。鐘塚稲荷神社社頭全景。町内の方が境内に集まり、音楽に合わせ体をほぐす光景があった。この境内で毎朝住民の方がラジオ体操をされており、体操が終わると総出で境内を掃き清め、其々の一日がはじまる、このお稲荷さんが住民のコミュニテイーの一つとなっているようです。鐘塚稲荷神社はさいたま市大宮区桜木町のビルや住居が立ち並ぶ一画に鎮座する神社。体操を終えた方と雑談をしていると「百年以上前から続く神社」だと伺いました。その後、由緒の詳細を調べてみるが定かなところは分からなかった。箭弓稲荷神社(東松山市箭弓町)から分祀された神社で箭弓稲荷大明神をお祀りするようです。創建時期は江戸時代末期、明治とか諸説あるようですが、地元の方の「百年以上前から」から察すると明治に入り造営されたものではないだろうか。社名の「鐘塚」はその昔この辺りが「字鐘塚」と呼ばれていたことからきているようです。意味深な字名の「鐘塚」の由来は、戦国時代ここから北(現旭町)辺りに旭坊という坊があり、その鐘を供出するよう命じられ、供出を拒んだ僧侶はその鐘を埋めてしまったことから「鐘塚」と呼ばれたようです。今ほど開発の進んでいない大正時代の地図でも桜木町とあり「字鐘塚」の名は見られず、さらに昔に遡るようです。その字名も今は鐘塚稲荷の社名と鐘塚公園だけに名が残るだけで、公園には「何処からともなく鐘の音が聞こえる」と記された碑が建てられています。拝所から社頭の眺め、奉納鳥居が隙間なく立ち並ぶ参道脇に一対の狛狐と手水舎がありましたが寄進年は未確認。覆殿正面の眺め、内は見通せず本殿など詳細は不明。拝所に掲げられている「鐘塚稲荷神社」と鈴、鈴に寄進年が刻まれていたが元号まで見られなかった。そろそろ鈴紐も降ろしていい時期かもしれないね。きれいに掃き清められた境内と鐘塚稲荷神社全景。鐘を埋めた塚の所在がどこなのか、今も定かではないようで、境内や散策した範囲には塚らしきものは見当たらなかった。今も神社の西側など再開発が進んている。言い伝えが事実だとするといつか見つかるのかもしれない。今は鐘の音は聞こえないが、再開発の進むこの街には「新しい希望の朝」を伝えるラジオ体操の音楽が流れている。鐘塚稲荷神社創建 / 不明祭神 / 箭弓稲荷大明神所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区桜木町2-181JR大宮駅から徒歩アクセス / 西へ徒歩5分参拝日 / 2023/09/26関連記事 / 一泊二日武藏國一之宮巡り 二日目「大宮・浦和」
2023.12.12
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岐阜市県町鎮座「縣(あがた)神社」岐阜の玄関口名鉄岐阜駅から国道157線沿いに北へ進み、飲食店や住居が立ち並ぶ一画に鎮座する神社。5分もあれば社頭に辿り着ける距離にあります。社頭全景。社地の東向きに縣神社の社頭、右手には県町稲荷神社の社頭を構えています。社頭には石の靖国鳥居(大正4寄進)が立ち、右手の樹陰に「縣神社」の社標が建てられています。右手の県町稲荷神社の社頭。地元から崇敬篤いようで、社頭から先の参道には複数の奉納鳥居が立てられています。縣神社正面から社殿の眺め。鳥居をくぐった境内右手の眺め。参道右に手水舎があり、奥が県町稲荷神社。参道正面の境内。左の建屋が社務所で正面の入母屋瓦葺の建物が縣神社覆堂。そちら続く参道には一対の常夜灯と狛犬が守護する。狛犬は子連れ毬持ちのもの。妻入りの覆堂の鬼瓦には「縣」の文字が入り、軒下の紋幕の神紋は、菊の葉に包まれた菊紋が施されています。覆堂の前に掲げられている解説と年中行事。内容は以下。祭神は擁烈根之命(だきつらねのみこと)由緒擁烈根之命は第十一代垂仁天皇の御子である五十瓊敷入彦命(伊奈波神社の御祭神)の御子で、御母は五十瓊敷入彦命の功臣乳父であった毛里(日置部)倫満の娘で、第十二代景行天皇の十四年竹内宿禰をして、伊奈波神社が創建された時、毛里倫満の長男李倫が初代神職を命ぜられ、同十八年には縣宿禰の姓名を賜ったので毛里(日置部)姓を縣姓に改めました。又第十三代成務天皇が全国に県を置き、その長として県主を定められ、御祭神擁烈根之命は美濃国厚見県の県主に命じられ、この地域開発に力を尽くされました。その功績を称えてこの地に神社を建て、命をお祀りしたのが縣神社の起こりと伝えられます。今から千九百年も昔の事です。この地域の開発振興に多大な貢献を為された事から、家内安全、事業繁栄、子供の護り神として厚く信仰されています。」岐阜県神社庁の同社の解説は以下のようなものだった。「擁烈根之命は五十瓊敷入彦命の御嫡男市隼雄命の御弟にして人皇十三代成務天皇の御宇(131~190)に一祠をこの地に創立し、その后度々暴風の為に社頭傾頽すと雖も氏子等心を合わせて其の時々改め建立す。」とある。金金キラキラの金神社の始まりが成務天皇5年(135)とあるので、縣神社も同じような古墳時代に原形が出来ていたという。見た目から想像できない程の長い歴史を持つ神社といえます。現在に至る迄の修復履歴、特に空襲による被災があったのか定かではないけれど、覆堂はじめとする社殿は傷みもなく、氏子はじめ崇敬者から手厚く護られてきている神社なのだろう。覆堂の蟇股には龍の姿があります、建物の外観は個人的に好きなシックな佇まいのもの。御神徳は家内安全、事業繁栄、子供の護り神という事、僅かな賽銭に大きな願いを託しパン〃。覆堂と右の境内社。覆屋の中に祀られた一社とその左に小さな社が一社祀られています。覆屋の中の社は秋葉神社、左の絶妙なバランスで祀られた社は恵比須神社。社地の東に鎮座する県町稲荷神社。岐阜は随分久し振りに訪れましたが、以前はシャッターを閉じた店が目立った印象がありました。現在は若い層をターゲットにした活気のある店舗も現れ、少し賑わいが戻って来た、そんな印象を受けました。そうした賑わいもこのお稲荷さんのお陰なのかもしれない。通りを隔てた飲食店や金神社には多くの人が列をなすが、地域の開発振興に貢献したたとされる擁烈根之命のもとへ訪れる参拝客の姿が少ないのは以外だった。縣(あがた)神社創建 / 成務天皇の御宇(131~190)祭神 / 擁烈根之命境内社 / 秋葉神社、恵比須神社、県町稲荷神社所在地 / 岐阜県岐阜市県町1-4-1公共交通機関 / 名鉄名古屋駅➡名鉄岐阜駅➡北へ徒歩5分程参拝日 / 2023/10/28関連記事 / 金神社(岐阜市金町)
2023.12.11
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川越八幡宮前回掲載した川越熊野神社から南に向かい、小江戸蔵里ききざけ処 昭和蔵を過ぎてから左に入り、八幡通りを南下すると川越市南通町に鎮座する川越八幡宮の裏参道に至ります。社頭右脇に新富町2丁目の鏡獅子の山車を保管する山車庫が建っています。川越八幡宮裏参道全景。左に社標、石畳の参道の少し先に石の明神鳥居を構えています。最初に境内に掲げられた由緒を挙げておきます。川越八幡宮由緒「・御祭神 譽田別命(応神天皇)・鎮座地 川越市南通町19番地1(旧脇田町)・例祭日 5月4日(春季例祭)、10月14日(秋季例祭)由緒・第68代 後一条天皇の御代の長元3年(1030)、甲斐守 源頼信により創祀。・長元元年(1028)、下総国(千葉)城主 前上総介平忠常が朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従い、武蔵国に攻め入りました(長元の乱)。・これを憂慮した朝廷は、長元3年(1030)甲斐守源頼信に平忠常追討の倫旨を下した。 命を受けた頼信は、この地で必勝祈願をし、三日三夜にわたる戦の末に乱を平定、宿願を果たした頼信は現在の大分県宇佐八幡宮(八幡宮本社)より勧請し八幡宮を創祀した事がおこり。・頼信は同時期に東松山市箭弓稲荷神社の社殿も造営する。・長禄元年(1457)、川越城が築城され、太田道真、道灌は当神社の分霊を城内の守護神として奉斎、歴代城主から崇敬された。・天正18年(1590)以来、城主 酒井氏一族の崇敬は篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次いだ。ました。酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納しました。・文化9年(1812)7月1日、姫路城主・酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(向鳩文字)の額と掛物一幅を奉納、これにより寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参の折、酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。・明治維新の際、別当万蔵寺を廃寺し、川越城主の領する地の人々は当宮を氏神として崇敬した。御神徳・八幡の神は数多く、全国八万社のうち分霊社は一万五千社を超え、九州宇佐八幡宮である。・御祭神は第十五代天皇の応神天皇で、母親の神功皇后と共に大陸文化を日本に取り入れ、日本文化の興隆をはかられた。・八幡神は後の源氏が氏神として、崇敬武運長久の神、勝負の神として広く崇敬されるようになる。・応神天皇は神功皇后に抱かれる嬰児の姿で表現され、母子神の信仰、即ち母が子を抱きかかえ、これを大切にし、自分の子(応神天皇)を自分の替りとしてこの世に下された姿である。・八幡様の信仰は母が子を抱きかかえた慈愛を以てこれを育み育てる大愛を本願とするもので、母の愛こそは純の純たるもので八幡信仰の基である。年間祭事・1月1日 歳旦祭・5月4日 春季例祭・6月30日 夏季大祓・10月14日 秋季例祭・12月最終日曜 大祓」小江戸川越の初日の予定はここ川越八幡宮で締めくくる。先に訪れた仙波東照宮はこの川越八幡宮の境外末社だという。由緒にあるように創建が長元3年(1030)と長い歴史を誇り、必勝祈願や合格祈願、縁結びに目の病にも御利益があるとされ、そうした御利益を授かりに参拝客で賑わうそうだ。参拝当日の境内は修繕工事中で、工事車両、作業に追われる職人さんの姿が多く、2030年の創建1000年大祭に向けて境内・社殿が一新されているようで、どこを見渡しても古めかしさは感じられなかった。鳥居をくぐり石畳の参道を進む。両脇には朱の奉納燈籠が立ち並び、夕方になると明りが灯されるという。裏参道に入った左にピカピカの境内社二社が祀られている。稲荷神社。祭神は倉稲魂神、稲に宿る神霊で五穀豊穣をもたらし、稲1粒から多くの実りをもたらすことから、商売繁盛の神として広く崇敬されている。左は川越三峯神社。明治元年(1868)に三峯山の遥拝所として創建されたもの。祭神は伊弉諾命、伊奘冉命の二柱。三峯神社は江戸時代後期に参拝が流行し、川越からも多くの人々が秩父・三峯神社を詣でたとされます。川越八幡宮創建一千年大祭の一環として、新たに整備されたものといい、運気上昇、家内安全、商売繁盛、良縁の神様として親しまれているといいます。右後方に見えているのが川越八幡宮本殿で、こちらも綺麗に改修され、金色の飾り金具が施された外削ぎ千木に5本?の鰹木が輝いていた。三峯神社の左に安置されている「ぐち聞き様」よく聞く「10人の話を同時に聞き分けた」とされる聖徳太子の姿を現しており、苦しみや悩みを持つ人々の声を聴き、救いを与え人々の拠り所となったという。身近のどこぞに口だけで、聞く耳を持たぬ権力者がいるが、ぐち聞き様から見れば「一緒にするな!」とお叱りを受けそうだ。ぐち聞き様には、国を指揮者や利権にまみれた国民の代表に対するモヤモヤした愚痴を聞いてもらい、ほんの少しスッキリとした?民部稲荷神社。裏参道から境内に出た左側に鎮座し、足腰の健康に御利益があるとされる。こちらの見世棚造りの社殿も、立て替えから間もない様で全てが新しい。「相撲稲荷」とも呼ばれ、「足腰の健康」に御利益があるとされ、アスリートからも崇敬されているという。大正6年に出版された三芳野名勝図会に宮部稲荷社として記載があり、そこには言い伝えが記されていました。「その昔、八王子の山寺辺りに住んでいた老狐は、民部と名のり人に化けて暮らしていた、ある時老僧に正体を知られ、民部は入間郡川越の梵心山に移り住むことなった。去るにあたって老僧に捻挫や打ち身などの手当の仕方を教え八王子を去っていった」との言い伝えが記されている。寛永年中(1624~1644)には民部稲荷と称されていたようで、ここで云う梵心山は現在の新富町2丁目にあたるという、後に川越八幡宮境内に遷されたようです。祭神は倉稲魂神。夫婦イチョウ。民部稲荷神社の右に聳えるイチョウの老木で、昭和8年、川越八幡宮の神職により男イチョウと女イチョウ2本を植樹しました。その木はやがて根元で寄り添いひとつとなって固く結ばれ、空に向かって聳える2本の大イチョウの御神木となったもの。こうした連理木は夫婦や家族を象徴するものとして、縁結びや夫婦・家庭円満を祈願し崇められる。連理木に限らず、街角でフェンスと一体になった樹など、想像を絶する光景を目にする時があります。自然の逞しさを感じるとともに、自然から励まされているように感じる時でもある。上の写真は名古屋市北区金城鎮座「多奈波太神社」境内の乳イチョウの「乳垂」過去記事 / 『多奈波太神社』こうした大イチョウには木肌からこぶのような突起物が生まれ、その形態が乳房と似ていることから「乳」や「乳垂」と呼ばれ、母乳を授けてくれる象徴として女性から崇敬されます。川越八幡宮の夫婦イチョウにも「乳」が生成され、手に触れたり、手を合わせると良縁に巡り逢えると言われているという。境内から表参道の眺め。東西に長い社地、社殿は社地西側に建てられ東向きに鎮座し、拝殿前のニノ鳥居と社頭に一ノ鳥居の二つを構えています。鳥居左手に手水舎、境内北側が社務所・授与所になっており、表参道右脇に神楽殿が主な建物。「八幡宮」の額が掛かるニノ鳥居から拝殿の眺め。こちらを訪れたのは9/25、この時は手水鉢に花が浮かべられ、花手水で出迎えてくれた。はるばる遠方から訪れた者にはこの花手水は嬉しいもの。入母屋銅葺の拝殿には千鳥破風と唐破風向拝が施されている。拝殿前には二対の狛犬が守護する。昭和58年(1983)寄進の狛犬。その先の狛犬はかなりのキャリアを感じさせる風貌で、嘉永6年(1853)に寄進されたもの。向拝に施された彩色も色鮮やか。八幡さんと云えば鳩がつきものですが裏参道やニノ鳥居の額には見慣れた鳩の姿はありません。代わりと云ってはおかしいけれど、裏参道の鳥居の島木の上などに羽を休める石の鳩が見られます。鳩は一羽だけではないようなので「隠れ鳩」探して見ては。拝殿右からの眺め。現在の拝殿・幣殿・本殿は昭和48年(1973)から2年をかけ新築され、昭和51年に竣工したもので、この際に拝殿と本殿を結ぶ幣殿が新たに建てられたと聞きます。拝殿横の厄除け(桃)の神様。由来(HPより)「古来より、桃は魔除けの果実として崇められており、昔話の桃太郎の鬼退治も魔を祓う桃の霊力に由来します。日本神話『古事記』の中でも伊弉諾命が魔物を追い払う際に桃を投げる様子が描かれています。このため、桃はのちに意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という名の神様になったと記されています。」この参道正面にモダンなモニュメントの「目の神さま」があるが、当日はこれ以上進めなかった。大国主命と少彦名命を祀り、「眼病平癒」の御利益があるという。菅原神社。名が示すように菅原道真公をお祀りするもので、平安時代の学者・歌人として知られ、学問の神さまとして、誰しも訪れたことのある神様だと思います。絵馬掛けには其々の願いが書かれた絵馬が掛けられていた。上は今回訪れた川越の町、左は大正、右がほゞ現在のマップに今回訪れた社寺の一部を示してあります。明治26年の川越大火で焼失した時の鐘の南にあたり、川越八幡宮や熊野神社の由緒に被災の記述は出てこなかったことから、火の手もここまで迫ってこなかったようです。今や小江戸川越の玄関口は古い街並みと新しく建ったビルや住宅がひしめき合う、川越八幡宮は駅から一番近い古社のようだ。川越八幡宮創建 / 長元3年(1030)祭神 / 応神天皇境内社 / 川越三峯神社、稲荷神社、菅原神社、民部稲荷神社、境外社 / 仙波東照宮所在地 / 埼玉県川越市南通町19-3参拝日 / 2023/09/25川越熊野神社から川越八幡宮徒歩移動 / 南へ1㌔約15分関連記事・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院・喜多院 「白山権現、仙波日枝神社」・瘡守(カサモリ)社・川越総鎮守 氷川神社・川越市喜多町「広済寺」・川越時の鐘・薬師神社・川越熊野神社
2023.12.08
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11/24、この日は白髭神社飛地境内社「天満宮」を訪れた後、そこから15分程北上した海上の森を歩いてきました。14:26海上の森入口駐車スペース到着、移動時間は15分程。時間は午後過ぎと言う事もあり駐車場は5~6台の車が駐車するのみ。海上の森として整備され、愛・地球博が行われる前の若かりし頃、当時はまだ車の進入が規制されておらず、山道を走りたくなると良く訪れた事があった、ウン十年前の事。現在はここから奥へは一般車の進入が規制されています。ここから海上の森に出入する際には、駐車場のトイレ脇に設置された消石灰で靴底の消毒をお忘れなく。以前はこうした駐車場はなく、周辺には不法投棄された廃材が山積する荒れ地だった。駐車場から先は行き止まり。そして「クマ注意」の看板。昔も夜中に山中を走ると色んな動物と遭遇したけれど、さすがに熊と出逢ったことはなかったが、今や市街地から5分程のこのあたりにも熊が出没するようになった。今年も5月に物見山近辺でクマの目撃情報があるようで、アップデートされた情報はあいち海上の森センター(0561-86-0606)で情報を得たうえで山に踏み入るのがいいかもしれない。今日は熊鈴とストックを持参したつもりだったが、熊鈴は携帯と共に家に置き忘れてきてしまった。心細いがストックだけ握りしめ歩き出す。駐車場を後に海上川左岸沿いを海上多度神社とそこから奥の海上砂防池を目指し歩き出す。携帯を忘れ所要時間も歩行距離も分からず、普通に歩けば1時間もあれば戻ってこれる距離ですが、空が薄暗くなってきたら引き返そう。14:30 四つ沢分岐最初の分岐、橋を渡り進路は右です。海上川を左に見ながら進んできましたが、この辺りから川を右手に見て進みます。この分岐を左に行くと海上砂防池の下に行けそうですが、行く気にさせない雰囲気。クマ注意看板の下の地図には、北海上川沿いに砂防池に続く道はあるようですが✖となっており、周回が出来ないようなので緑色の線の道筋で往復しました。最初の目的地は赤い鳥居の印をつけた海上多度神社に向かいます。14:39道は左の舗装路を進みます。先が見通せないところでは柏手を打ってから進む。14:42 物見山分岐ここも左を進んでいきます。道沿いには脇道がありますが鎖のある道には進みません。14:48見通しのきかない道の前方が開け田畑が見えてきます。この先の右側に多度神社に続く参道(山道?)があります。道路右側に「多度神社入口」の案内板が立っています。昔は夜な夜なこの道を通ったけれど、多度神社の標柱は見覚えがない。ここから右手の丸太橋を渡り、荒れた道が尾根に続きます。14:58細い流れの海上川に架けられた丸太橋。斜度はさほどでもないですが、道は枯れ葉が積もり滑りやすいので油断できない。砂防指定地の石標から先はやや傾斜が増してきますが、前方には木漏れ日が差しており不安感はない。ここを上りきれば尾根に出ます。上りきると前方に手水石と右に「本地八幡社」の名と「五穀豊穣」と書かれた幟が掛けられています。この辺りで本地と云われ思い当たるのは、ここから下流の赤津川を車で15分程下った西本地町に八幡社がありますが、関係があるかは不明。境内には解説などはなく、マップには多度神社とはあるが創建など詳細は全く分からない。14:53尾根の北側に鎮座する多賀神社の境内に到着。樹々に囲まれた南北に長い尾根の北側に二段に石垣が積まれ本殿域が作られている。木漏れ日の差し込む多賀神社の姿は神々しさが漂う。丁寧に積まれた石垣はこうして見ると城壁のようにも見えてくる。石段の手前になにかの礎石だろうか、不自然な石が現れていました。上段の本殿域には多賀神社本殿と左に小社と石の祠が祀られています。石段を上り本殿域へ。本殿域全景。銅葺屋根で見世棚造りの多度神社本殿、内削ぎの置き千木と4本の鰹木が施されている。左側の不明社と山神。過去を知る手掛かりは燈籠と手水鉢にあるのか。綺麗な曲線を描く石垣。あの参道からこれだけの石材を運び上げて築いた、だよねぇ。本殿域から境内の眺め。こうした立地の神社には、時に祭礼用の整備された道があったりしますが、ここ多度神社へはあの参道しかなさそうです。上ってきた道を戻るしかなさそうです。15:00尻もちをつくことなくルートに戻る。ここから冬支度を始めた里山の稲田が良く見える。正面の綺麗な盛り上がりを見せる山、何かありそうな気がしてくる。多度神社の詳細は分からなかったが、神社が見守る先はこの山里であることに間違いない。海上の森 多度神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 山神、不明社所在地 / 瀬戸市広久手町標柱から少し先の道沿いに小さな祠があります。中には素朴な姿の馬頭観音像が安置されています。15:03海上集落到着。田畑を取り囲む柵や電気柵は今やどこでも見慣れた光景になってきました。右手の建物は弘法堂、ここから左に進み里山サテライトへ。里山サテライトの案内図。古民家を再生したもので里山の情報発信基地として、イベントや休憩施設が設けられトイレやベンチもある。この施設のライブカメラに熊が捉えられていたという。軒下の長椅子に腰掛けながら、柿の実が成る里山を眺めていると、こうした長閑な景色はつい最近まで身近にあった気がする。15:07里山サテライトを後にして海上砂防池に向かう。15:11 海上砂防池入口分岐。道はここで二手に分かれ砂防池はここを左に進みます。現在はどの林道も施錠され車の通り抜けは出来ません。以前はここから奥の湿地にモウセンゴケが普通に生え、その傍らに不法投棄された電化製品が転がっていたりした。愛知万博を契機に車の立ち入りが禁止され、保全も進み改善されているのだろう。自宅周辺では姿を消したモウセンゴケ、ここでは今も見られるかもしれない。分岐左の海上砂防池入口。ここを下っていくと海上砂防池です。15:15海上砂防池解説のある場所が盛期の池畔になります。この池は4月頃から10月頃の間だけ水を湛水する農業用の人造湖。水を湛えた頃の早朝に訪れるとひと昔前の大正池を思わせる光景が見られます。本家の大正池は立木がなくなり、かつての面影は失せてしまいましたが、久し振り訪れた砂防池の立木は今もたくさん残っています。これなら水を湛え始めた頃に再び訪れて見よう。立木には苔が生え、新たな杉の株が根付いている、満水時にはここまで水面がくるようだ。水が抜かれるこの時期は、干上がった池の底に小さな流れがあるのみで、小魚の姿や水辺の生きものの気配は感じられなかった。人の足跡以外に獣の痕跡は見られなかった。入口方向の上流の眺め。立ち枯れた樹々の色合いを見る限り、満水時に姿を現す立木は意外に少ないのかもしれない。満水前に訪れるのがいいのだろうが、まめに来ないとそのタイミングが分からない。15:30 里山サテライトに戻る。夕日を浴びて黄葉が色鮮やかに輝きだした。開けたこの辺りはまだ〃明るく感じるけれど、ここから先は山の陰になり薄暗く感じる。15:41物見山分岐手前の雑木林で見かけた紅葉に足を止める。今年も紅葉は冴えないけれど、夕陽に照らされ燃えるように輝くこのもみじは印象に残る。15:55海上の森入口駐車スペースに辿り着く。駐車場の車は自分以外一台もなく、この時間まで山中を徘徊していたのは自分一人だったようです。海上多度神社・海上砂防池参拝日 / 2023/11/24関連記事 / 白髭神社飛地境内社「天満宮」白髭神社飛地境内社「天満宮」から海上の森 入口駐車スペース / 国道155号線を北上、山口町交差点右折、次の信号を右折、赤津川(矢田川)を越え国道を横切り左折、海上川沿いの駐車スペースまで車で15分少々
2023.12.07
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川越市連雀町鎮座「川越熊野神社」前回掲載した時の鐘・薬師神社から、歩道が混み合う県道12号線を避け、時の鐘から東の一本先を右折し南下、大正ロマン通りを横切り県道15号線方向に歩く事約8分の所に今回の「川越熊野神社」は鎮座します。県道12号線を南下するより幾分人波は減り歩きやすい印象がありました。熊野神社社頭。両脇を店舗と民家に挟まれた僅かな場所に忽然と社頭が現れます。社頭の右に熊野神社の社標と石造靖国鳥居を構え、石畳の参道がその先の拝殿まで続きます。面白いのは参道左の「足踏み健康ロード」だ、参道に玉石が埋め込まれており足つぼを刺激してくれるらしい、罰ゲームじゃないが誰もやらんだろうと思いきや靴を脱ぎすてチャレンジする人がいるのには正直驚いた。足踏み健康ロードのゴールはニノ鳥居、かみさんから「やってみゃあー」と煽られるが、そこは断じて断る、間違いなく瞬殺なのは見えている。鳥居の額は…読めない。恐らく熊野神社だろうが、下の神社くらいは読めるが上の「くまの」の文字が読めない。ひょっとして「熊埜」?と刻んであるのか。社標右手の境内マップ。両サイドに建物が迫る参道からニノ鳥居を過ぎると、境内は左右に広がり意外に広い社地を持っている。東向きの社殿を中心に北側に境内社、南側に社務所、神楽殿が配置されています。ゴールの先の境内。目の前に茅の輪のような「八咫烏鈴の輪くぐり」がある。要領は茅の輪くぐりと同じ、違うとすれば輪の上に鈴が吊るされている。春詣と秋詣での期間に行われるようで、ここをくぐって罪穢れを祓ってから拝殿で参拝するのが作法。ニノ鳥居右の手水舎と加祐稲荷神社の運試しの輪投げ。いまになって気が付くが、ニノ鳥居(石造明神鳥居)を一枚も撮っていなかったようです。境内右の加祐稲荷神社から参拝。由緒通称「かすけさま」「おいなりさま」生命の元になる食物(稲)の実りを守り、人々の願いの実りを助けて下さる福の神。御祭神 倉稲魂命由緒新編武蔵風土紀稿及び武藏三芳野名勝図会に当社の名は記されているが、御由緒は不詳。口碑によれば蓮馨寺開祖以前からあり、この神を帰信したところ、種々の災厄から免れたことから神が祐を加えて下さるということで「加祐」という名前を社号に冠し崇め来た。その社号が古旗に書かれているのが残っていたと言われる。そのことから室町時代永禄年間(1558~1570)には既に存在していたと推測できる。明治2年蓮馨寺境内より遷座し熊野神社の御末社となった。御祭礼日 例祭 3月第二日曜日縁日 毎月第二日曜日覆殿全景。写真の石の明神鳥居の先は、左に銭洗い弁天厳島神社、右に白蛇神社の二社が祀られている。鳥居脇の銭洗い弁天厳島神社由緒。通称「べんてんさま」「銭洗い弁天」芸能、福智、延寿、除災、特勝、財運の神。平成28年6月新たに安芸の宮島より弁財天像をお祀りする。御祭神 市杵島姫命由緒武蔵三芳野名勝図会(享和元年1801)によれば、その昔は蓮馨寺の南側林中にあったが、当時、秋葉神社の西側移したと記されている。由緒は不詳であるが口碑によれば蓮馨寺開祖以前より寶池(熊野神社裏より蓮馨寺境内にかけてあり)に鎮座していた当社を崇敬し、池名「寶池」を寺号とし、寶池院としたと言う。明治2年蓮馨寺境内より遷座し熊野神社の御末社となった。御祭礼日 例祭 6月第三日曜日縁日 毎月第三日曜日左が銭洗い弁天厳島神社。こちらを参拝した後、虎の子をざるに入れ御神水で洗い清める作法。銭洗い弁天厳島神社由緒。右の石の社が白蛇神社本殿。願いを込め二つの白蛇様の部位をなでるとその部位に応じた御利益を得られる。周辺は蜷局をまいた白蛇の子が数えきれないほどいる。蛇は…苦手だ。秋葉神社覆殿全景。秋葉神社由緒(通称は省略)御祭神 火之迦具土命御由緒 新編武蔵風土記稿によれば、第十代川越藩主秋元喬房氏により、享保8年(1723)年に建立。秋元氏が蓮馨寺住僧東誉円悦なる者に議り、当社安置の地を熊の神社に卜して丘を築き勧請させた。昭和32年まではその小丘が残っていた。例祭日 例祭11月第三日曜日縁日 毎月第四日曜日中には白狐に乗った秋葉大権現の像があります、人が集まり集落ができると火伏の神が必ず祀られていきます。川越は寛永15年(1638)、明治26年(1893)の川越大火と幾度も大火を経験し、趣ある蔵造りの町並みはこうした過去の学びの結果。大鷲神社と左にある石碑には「山さくら咲けば白雲散れば雪 花見てくらす春ぞすくなき」と記され、「もとのもくあみ」の語源となった落栗庵元杢網(1724 〜1811)の歌碑が建てられています。大鷲神社由緒通称 12月3日の酉の市は「おとりさま」と呼ばれ、戦時中は武運長久の神として、現在は家内安全、商売繁盛の守護神として信仰されている。御祭神 天之鳥船命御由緒 大正11年、南埼玉郡の鷲宮神社の分霊を奉斎したと伝わる。初め熊野神社に合祀されたが、後に流れ造りの社殿を建立し、遷座祭を執行して末社とした。川越地区とその付近住民の繁栄を願い、毎年12月3日に「酉の市」を開催し、大神の福と呼ばれる「稲穂付きの熊手」や「百万両小判」を授かろうと近郷近在より善男善女が集まり、年毎に益々盛大になっている。例祭日 例祭12月3日縁日 毎月第一日曜日今年も間もなく熊手の時期になろうとしている。熊野神社拝殿正面全景。八咫烏の紋が入った提灯が連なり拝殿に導いてくれる。その先に一対の狛犬が守護する。明治37年(1904)に寄進された狛犬。川越熊野神社由緒・天正18年(1590)蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請。・正徳3年(1713)蓮馨寺十六世然誉了鑑僧正の時、社殿を改築。・御祭神 熊野大神 (伊弉諾命、伊弉册命、事解之男命、速玉之男命)・ご利益 開運・縁結び・厄除け八咫烏・熊野大神に仕える三本足の烏、夜明けを呼び太陽を招き、明るい世界に導く霊鳥・熊野で迷う神武天皇を大和の檀原まで導いた・JFAのシンボルとして描かれている。拝殿は瓦葺入母屋造り。拝殿左からの眺め。手前に可愛い金と黒の八咫烏が置かれている。…これ、チョコのキャラに見えるのは自分だけか。神明造の本殿。千木は外削ぎ鰹木の数は見ていなかった。境内東側の神楽殿と社務所。金と黒の八咫烏がここにも。強力に導いてくれそうなジャンボ八咫烏。あのキャラクターの名前がスッと出てこない、キョロちゃんか!八咫烏由緒。大きな導きを与えてくれそうな。境内西の結びの庭。熊野本宮から榊とナギが移植され、一歩中に入ると霧のようにミストシャワーが注がれていた。中にはふたつの八咫烏のレリーフが安置されており、霧に包まれ道に迷う人に導きを授けてくれる。これで川越熊野神社の主な神社は参拝して廻ったはず。結びの庭の左側にここ連雀町の「道灌の山車庫」があり、訪れた日は運よくシャッターが開けられ遠巻きに見る事が出来た。山車の一番上に太田道灌の人形があるのだが、残念ながら暗くて見えない。川越氷川祭では川越に受け継がれている29台の山車が勢揃いするという、有形民俗文化財や歴史文化伝承山車に指定されており、この道灌の山車は歴史文化伝承山車に指定されているとか。建造は昭和27年(1952)と比較的新しく、黒漆や金色の飾り金具は光り輝いていた。川越まつりを前に準備していたのだろうか、祭り当日はすごい人波が川越に押し寄せるのだろうなぁ。川越熊野神社創建 / 天正18年(1590)紀州熊野から勧請祭神 / 熊野大神 (伊弉諾命、伊弉册命、事解之男命、速玉之男命)境内社 / 加祐稲荷神社、白蛇神社、銭洗い弁天厳島神社、秋葉神社、大鷲神社、所在地 / 埼玉県川越市連雀町17-1参拝日 / 2023/09/25時の鐘・薬師神社から川越熊野神社徒歩移動 / 南へ600㍍約8分関連記事・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院・喜多院 「白山権現、仙波日枝神社」・瘡守(カサモリ)社・川越総鎮守 氷川神社・川越市喜多町「広済寺」・川越時の鐘・薬師神社
2023.12.06
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豊橋市御園町の朝倉川左岸に位置し、東田神明宮の西隣りに鎮座するのが御嶽社。鎮座地は古墳時代中期の5世紀頃に築造された東田古墳と呼ばれる前方後円墳の上に築かれている。南西角から東山古墳を眺める、この交差点を右に曲がって50㍍強ほど進むと左側が東田神明宮。豊橋を流れる豊川流域には古墳が多く、この朝倉川流域には、40基ほどの古墳が分布していたとされ、東田古墳はその一つ。深い社叢に包まれており、周囲から社殿は見通せないが、社叢の二つの盛り上がった感じから、東西に長い前方後円墳の雰囲気は感じ取れます。古墳の周囲は生垣で囲われており、一見しただけでは神社が鎮座するようには見えない。南東側から東山古墳を眺める。周囲を囲っている生け垣はここで途切れ、参道が作られている。この流域に築造された古墳の多くは円墳とされ、ここ東田古墳は、長さ40㍍ほどの前方後円墳。明治12年(1879)から同13年頃に御嶽社社殿造営の際、土中から副葬品の鳥文鏡と大刀が出土し、豊橋市内で鏡が見つかった数少ない古墳だという。古墳時代中期の当時権力者の埋葬のため築造されたこの古墳、出土した鏡は飛翔する鳥が描かれ手の込んだもの。当時、鏡は大和王権との結びつきを示す権威の象徴とされたそうで、これまで本格的な発掘調査はされていないようで、どのような有力者だったのか不明。御嶽社社頭の解説によれば、古墳の規模は全長40㍍、前方部は幅16㍍、高さ4㍍、後円部は直径20㍍、高さ3㍍あると云います。参道は途中から石段となり古墳前方部に続く。参道左の石碑は「境内改修之碑」で碑文の内容は以下。「当東田御嶽神社は、明治初年の創建にして、国常立神、大己貴神、少彦名神を祀る。御鎮座の岡、東田古墳は五世紀頃築造の前方後円墳である。昭和49年周辺地域の区画整理に際し、墳麗の大半を露出するのは止むなきに至った。所有者随神大孝道側、施工者区画整理組合側、監督側豊橋市、考古学者側の四者が現況確認と保存措置を講じた上で実施、後世に残す。その上で大孝道場が再建された」こちら側が前方部にあたり、御嶽社に続く石段の上り口に手水鉢が置かれている。明治期に築かれた石段は、それ以上の時を刻んでいるような趣がある。前方後円墳の後円部に建てられた御嶽社の社殿。前方部に合わせて後円部を1㍍程削り平坦な境内が作られたようです。墳丘からは野焼きで焼かれた埴輪も見つかっているようで、そこから5世紀頃の築造と推測されるようです。墳丘の周囲は鬱蒼とした樹々が茂り、切妻造の平入拝殿の左右は切れ落ち、後円部を平坦にして出来た敷地一杯に社殿が建っているようすが窺われます。御嶽社といえば霊神碑が立ち並ぶ印象がありますが、境内を見渡してもそれらしき姿は見当たらなかった。拝殿右隅にひとつの石碑があるが霊神碑だろうか。現地では正面に文字が書かれている様にみえたが、いま写真を拡大してみても良く分からなかった。拝殿額には御嶽社と書かれています。拝殿左から墳丘の南側に降りる石段が作られ、そこから社殿を見上げると拝殿と一体になった幣殿?と本殿の姿が見られます。木立の隙間から望む本殿。墳丘を降りた南側には豊橋生まれの影山庄平翁之碑と、樹々に包まれた社殿を背にして建つ霊神碑があった。霊神碑の数こそ違うが、こうした光景は霊峰御嶽の里宮に似た光景を漂わせている。ここ東田古墳の墳丘は崇敬者には霊峰御嶽の姿そのものなんだろう。明治の時代、ここに御嶽社を建てなければ、古墳はとうに宅地化されていたことだろう。御嶽社はある意味で古墳の鎮守でもある。東田古墳築造 / 古墳時代中期古墳形式 / 前方後円墳御嶽社創建 / 明治12年(1879)祭神 / 国常立神、大己貴神、少彦名神所在地 / 愛知県豊橋市御園町5-5参拝日 / 2023/10/14安久美神戸神明社から東へ徒歩 / 約30分参拝日 / 2023/10/14関連記事 / ・東田(あずまだ)神明宮・手筒花火発祥之地 「吉田神社」・豊橋市今橋町「奮藩祖・豊城神社、彌健神社」・豊橋市八町通「安久美神戸神明社」
2023.12.05
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広済寺の前を通る県道12号線。県道沿いに蔵造りの町並み方向の南に向かう。蔵造りの町屋がチラホラ見えるようになると歩道の人波が徐々に増え、観光客向けの店が軒を連ねる。ここまで来ると歩道は人で溢れ車道も歩道もない状態。県道を走る路線バスも気が抜けない、道行く人の多くは海外からの観光客が多かった。平日でもこの光景、観光客目当ての店舗や宿泊業を営む者にとっては嬉しい忙しさが戻ってきたという事で喜ばしい。一方で地元に住む者や国内の観光客からみればどの店に入っても大陸系の観光客で溢れ、ホテルも高くなり素直に喜ばしいとは思えない。今回の目的地は川越のシンボル時の鐘を目指します。県道沿いの「時の鐘入口」の看板で左に曲がり「鐘つき通り」に進みます。県道から東に入り人波は少しは…正面に見える時の鐘、川越のシンボルだけにカメラはこれ以上下に向けられない程賑わっていた。石畳の通りは商店や飲食店が連なり、その町並みにひと際高く聳える時の鐘がある。かみさんが川越を訪れたら見たいと云っていた時の鐘。観光案内の内容は以下。「時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634) のころに建設されたと伝えられています。その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年(1893)の川越大火の翌年に再建されたもの。高さは約17.5㍍、平成8年に環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています」…ここもまた記念撮影スポットで人波が途切れることがない。見上げるばかりの時の鐘、三芳野名所図会の挿絵にもその姿があり、蔵造りの町並みにひと際高く描かれている。3重4階構造の鐘楼門で創建された江戸時代初期から、「時」を告げ、現在は1日4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)自動制御で鐘を鳴らしてくれます。屋根は方形の銅葺で側面は板張りのようで、現在の時の鐘は平成28年に耐震化工事が施された4代目になるそうです。梵鐘に精一杯寄って見るが自動金突打ち機の仕組みは分からなかった。川越市の解説は以下。「旧多賀町に立ち、蔵造りの町並みを見下ろす時の鐘は、江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)に創建されて以来、度重なる大火によって、焼失、再建が繰り返されてきた。現在の建物は、明治26年(1893)の大火で焼失した後明治27年に再建され、鐘も再鋳造されたものである。3重4階建総高さ約17.5m(約57.7尺)の規模をもち、3重の屋根は銅板一文葺の方形造で、初重(しょじゅう)、2重の庇は銅板瓦棒葺となっている。施工者は、連雀町の大工棟梁 関根松五郎で、鐘を鋳造したのは神明町の鋳物師 矢沢四郎右衛門。二人とも地元川越の職人である。造営後、幾度か修理や整備が行われ、最近では平成27、28年度に半解体修理が実施された。時の鐘は蔵造りの町並みのシンボルとして今日まで親しまれている。」4階建ての一階は門になっており、おやじの目的地はこの先に鎮座する薬師神社。時の鐘は薬師神社の鐘楼門的な趣。頭を支える四本の柱、その右に「薬師神社」の社標が立てられています。「薬師神社の由来薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。右奥の稲荷神社は出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています」とある。 時の鐘をくぐり石畳の参道を進む、参道右に手水鉢が置かれ清水が注がれていた。薬師神社全景。三芳野名勝図会の天台宗常蓮寺に薬師堂として以下のように記されていた。「以前は本町南側中程にあり、元和年中酒井備後侯之御時今之地に移し、一梵刹として常蓮寺と云、今の地には庚申塚あり、今猶猶寺内にあり。本尊 薬師如来 行基之作、脇士 日光・月光、脇壇 十二神将、聖徳太子、青面金剛等安置。庚申塔 堂前東之傍有 稲荷祠 金比羅権現祠」ここで云う本町は、ここから北東に5分程歩いた現在の元町あたりかと思われ、1615年から1624年にこの地に移されとあり、明治に入り常蓮寺は破却、薬師神社と改称したのが現在の姿のようです。川越大火で被災し、辛うじて本尊の薬師如来立像だけは運び出され、その他は焼失したと云う。現在の姿は平成14年(2002)に改修を受けたもの。右手にあるのが稲荷神社でその本殿の左側に青面金剛がある。境内にあると云う庚申塔や金比羅権現祠については見落としたのか見当たらなかった。何気に参道右の石碑群を撮ったこの一枚、ここにそれらがあったのかも知れない。拝殿額「川越薬師如来」とあり、ピントが甘く揮毫までは読み取れなかった。御利益は病気平癒、眼病に効果があるそうで、最近めっきり視力の衰えを感じるだけにいつもより長めに拝んでいた。稲荷神社全景。稲荷鳥居の先には小さめの狛狐が守護する。稲荷神社本殿と左に青面金剛。この稲荷、出世稲荷として親しまれているとか、その筋に御用の方は参拝するといいかもしれない。薬師神社側面。妻切り平入りの拝殿に幣殿、覆殿が一体となって連なるこぢんまりとしたもの。覆殿から眺める時の鐘。境内から時の鐘全景。人波が少なくなるのを随分待っては見た……無理だね。地元の御婆ちゃん、情緒ある小江戸川越をひっきりなしに訪れる観光客の姿を眺め何を感じているのか。観光立国……ですかぁ、買い叩かれてるなぁ。時の鐘建立 / 寛永年間(1624~1644)薬師神社創建 / 不明祭神 / 薬師如来立像境内社 / 稲荷神社所在地 / 埼玉県川越市幸町15-8広済寺から徒歩で県道12号線を南へ / 5~6分参拝日 / 2023/09/25関連記事・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院・喜多院 「白山権現、仙波日枝神社」・瘡守(カサモリ)社・川越総鎮守 氷川神社・川越市喜多町「広済寺」
2023.12.02
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近頃すっかり寒さが増し、からだ中の関節の油が固まって動きが緩慢になり、嫌な時期になってきました。今回取り上げるのは、長袖を着るには暑かった9/20、豊田市大畑町寺ケ洞の白髭神社を訪れました。そちらで白髭神社の前を走る国道155号線の向かいの天神山に、飛地境内社の天満宮があると云う事でグーグル先生に案内してもらいました。先生が案内する場所はとんでもない道を案内し、車を降り歩いて探し回るも結局社頭は見つからず、この日はスルーしました。あれ以降モヤモヤしたものが残りずっと気になり、収まりがつかなくなっていました。紅葉も深まった11/24。寒くなって蛇も出ないだろうと云う事で、海上の森散策のついでに白髭神社飛地境内社天満宮を探しに車を走らせました。前回は矢草町一ノ坪から天神山の北側を進めと云われ失敗しましたが、今回はG先生の導きは無視して天神大畑町前田の押しボタン式歩行者信号で右折し天神山の南側を探しました。写真は大畑町前田の押しボタン式歩行者信号。左右を国道155号線、歩行者信号の見えている方向が白髭神社に向かう道。その道と国道が交わるところに横断歩道があり、その先は伊保川に軽自動車がやっとの幅員の橋が架かっています。前回はこの橋は人道橋で渡れないものと判断しました。今回規制をよく見ると、国道側には右・左折禁止表示や橋の入口には進入禁止、歩行者専用道の表示もない事から車の通行は可と判断し渡ってみました。荷重制限2トン以下の橋は軽でもやっとの幅員で普通車で進入しない方が賢明。橋を渡った左に軽が転回できるスペースがあります。橋を渡り、正面の天神山方向に心細い道が伸びています。奥に展開スペースがなければバックでここまで戻る事になるが、進めるところまで行ってみようと車で奥に進みます。タイヤ痕もあり走行は出来そうですが、左は側溝、右は田んぼでガードレールはありません。道を進むと山間に田んぼが広がり、写真の駐車余地があり、ここに車を止め下に向かって歩き出す。天神山は写真正面の山、このどこかに参道口はあるはず。9月に訪れた時は周囲の樹々は青々としていたが、色合いはすっかり秋の色合いになっていた。来た道を国道に向け歩いていく。前方に国道が見え始めた左側に参道口らしき田んぼの切れ目があります。笹と下草の生い茂る先を見ると、枯れ葉が積もる石段があります。鳥居や社号標はありませんが、こちらが参道口。前回はスニーカーで訪れ足元が不安になったので今回はトレッキングシューズに護身用?のストックを持ち山中に立ち入りました。身近な森ですが足元には朴葉などが舞い落ち、多様な樹々を育んでいるようです。石段の先に石標が立ち、参道はそこから二手に分かれています。石段中ほどの左側に、山の斜面から湧き出た水を湛える小池がありその奥に燈籠と石標が立っています。里山の中ほどの小池に佇む燈籠の姿は趣がある。池の畔に建てられた粗削りな蘭渓燈籠の左の石には「清瀧辨財天」と刻まれています。詳細は分かりませんが、この下に広がる田んぼへ水をもたらし、実りをもたらしてくれることから、辨財天が祀られるようになったのか?清瀧辨財天から上を眺めると参道は更に右奥に伸びています。正面の石段の先に水分大神が祀られています。水分大神の左にも小さな池があり左に参道が続いています。後から出てきますが、この山は天満宮だけではなく御嶽神社などがあり、山全体が信仰の山のようで、左の参道は御嶽神社に続くもの。右の参道を登っていきます。手摺が整備されているので比較的安心して登って行けます。このカーブを過ぎれば間もなく頂が見えてきます。視界が開けると参道左に手水鉢が置かれ、石段の先に鳥居の姿が見えてくる。名は知らないが、漆に似た木で葉や枝が鮮やかな朱の色合いに染まっていた。近所の里山でもよく見かけるこの木、色の移り変わりがとても美しい。手水鉢の左奥に斜面に横穴を掘って、石を組み祠が作られていた。時折参拝に訪れる方はみえるようで、新しい榊も供えられており、祠の中には役行者像の姿がありました。鳥居全景。石の明神鳥居で島木には無数の石が乗せられていた。鳥居から先の境内を眺める。鳥居の額には「天満宮」とある。寄り道しなければ下からここまで2~3分で辿り着ける距離、ようやく訪れることができた。山頂には大きな覆屋があり、その下に本殿が祀られている。覆屋全景。覆屋内には流造の天満宮本殿の他に左右に石碑がある。左は改墾記念と読むのか?右は八意思兼(やごころおもいかね)大神とあり、天満宮(菅原道真)と同じように知恵の神、学業成就の神様として知られる。社名碑の前には黒光りした置物が置かれていた。本殿の彫飾り。小さな本殿ですが、木鼻には獏と獅子、向拝柱の蟇股には龍が精工に彫られていました。社名碑の前の黒い置物、これは撫で牛か?天満宮の詳細を調べていませんが、創建は寬延4年(1751)とされる白髭神社の飛地境内社という事から、今から3世紀ほど前の大畑集落の先人達が祀ったものかもしれません。境内の寄進物には古い元号は見られず、鳥居の寄進年が昭和3年(1928)でした。白髭神社飛地境内社天満宮創建 / 不明祭神 / 管原道真、八意思兼神境内左は尾根沿いに西に広がり奥に伸び、手前右には石の祠、正面には石碑が並んでいます。正面に見えていたのは山丸三の紋が刻まれた霊神碑。道は樹々に囲まれた右手から更に奥に続きます。すぐに前方が開け、境内が広がります。その北側に一つの覆屋が建てられ社が祀られています、境内の周囲には無数の霊神碑が立ち並んでいます。水分大神から左に伸びる参道は、ここ御嶽神社に繋がる参道の様です。御嶽神社本殿。棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が施され、棟持ち柱が良く見える神明造の本殿。御嶽神社境内全景。この山そのものが霊峰御嶽、多くの霊神碑は霊峰御嶽に戻った先人達との出会いの場なんだろう。この境内の南側に下へ続く石段があります。その下には一棟の建物が建てられています、社務所なんだろうか。ここに一本のもみじが植えられ、訪れた時には綺麗に色付いていました。周囲の樹々が風を遮り、アップで切り取れば綺麗なもみじが撮れるだろうに、今日はここまでしか寄れない。上社務所らしき建物の反対側には、昭和11年(1936)に寄進された香炉と覆い屋の下には33体の石仏が安置されています。下その右手の大日如来の石碑から上に向かって道が伸びています。御嶽神社の境内はこれでひと回りした事になります。御嶽神社創建 / 不明祭神 / 国常立尊?上りきるとそこは天満宮の境内に戻ってくる。社務所から下に続く参道は恐らく水分大神の左の参道に続くと思われ、そこまでの道すがら他にも何かあるのかもしれませんが、ここに戻った以上、帰りも鳥居から下っていく事にする。水分大神から参道口を見下ろす。参道口は車が転回できないこともなさそうですがお勧めしません。軽自動車で訪れたとしても、小道沿いの駐車余地に停めるのが一番リスクは少ないかもしれない。車を止めた場所に戻り、何度か切替し天満宮を後にする。国道に出るため橋までもどってきた。渡り切ると横断歩道なのが妙に違和感がある、今日の目的地の一つ海上の森はここを左折したいのだが・・・大畑町前田の押しボタン式の信号は橋の幅員が狭く、上下線ともに車が来ないタイミングでなければ左折が出来ない、せっかく道を譲ってもらっても対向車線から車の往来があると軽でも回り切れません。天満宮への道のりは最後の最後まで気の抜けない道ですが、天神山は歩いて楽しめる信仰の山でした。今回の天満宮の入口や清瀧辨財天、御嶽神社は折を見てGマップに登録しておきます。白髭神社飛地境内社天満宮所在地 / 豊田市大畑町砂山参拝日 / 2023/11/24関連記事 / 豊田市大畑町寺ケ洞『白髭神社』矢草ICから国道155経由の車移動 / 約3分大畑町前田のボタン式信号の横断歩道を右折(普通車不可・バック・幅寄せ苦手な方は徒歩を推奨)
2023.12.01
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