道の駅・宿 0
全1216件 (1216件中 1-50件目)
神社から国道363号線を戻り、行先表示板の豊田方向に進み、上渡合土岐線を2.3㌔先進んだ右側に金刀比羅神社の社頭があります社頭の上渡合土岐線から鶴里方向の眺め緩い下りの右カーブに写真の津島宮の赤い鳥居見えますそこが金刀比羅神社の社頭になり、この鳥居のすぐ左側に駐車スペースがあります県道から見る社頭の眺望社頭は杉や檜の山林で、県道から舗装された参道が境内に続いています石の明神鳥居が立っていますが、車窓からでは分かり難いかもしれません参道右に昭和2年に建てられた「岐阜県名所 三国山 金刀比羅宮」の石標と石碑があります「岐阜県名所」とはなんだろう、検索するもその内容はわからなかった明治32年(1899)に寄進された鳥居について、詳細を確認するために額部分のクローズアップを撮影しましたが、逆光のため文字の読み取りが困難でした鳥居から参道を進むと社殿が見えてきます境内の全景右に社務所と正面の左右に翼殿が付く拝殿、本殿は拝殿平側に接続する鞘殿に祀られています社殿全景由緒らしきものが見当たらず、岐阜県神社庁から調べて見た結果は以下「金刀比羅神社所在地 岐阜県土岐市鶴里町柿野1番地通称 金刀比羅さま主祭神 大物主命由緒由来 そうし、縁由不明祭礼 3月第1日曜日」とあり、鞘殿に祀られている流造の本殿が掲載されていました鶴里は鶴里村誌として纏められているようですが、web公開されていないため、詳細を知るには図書館に行くしかなさそうです石段左に真赤に燃え盛る火焔光背を持った不動明王と右に水神が祀られています年代は分かりませんが、中央の像は苔に包まれようとしています深い杜に包まれ鎮座する拝殿全景拝殿額はないけれど、鬼をはじめ瓦には金の文字が入る拝殿に接続する鞘殿静けさだけが漂う境内これを書いている頃、尾張旭市東部で猪が人を襲い、北海道ではヒグマが車に突進してきた報道が流れていた人里から離れ、樹々に包まれた神社に独り身を置くと良からぬ妄想を描く以前はそんな事気にもせず、藪漕ぎをしたこともありますが歳と共に臆病になったものです怪しい姿に出逢うことなく社頭に戻る金刀比羅神社創建 / 不明祭神 / 大物主命境内社 / 津島宮、水神例祭 / 3月第1日曜日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野1番地稲荷神社 (鶴里町柿野)から車アクセス / 神社から国道363号線を戻り、豊田、瀬戸・多治見の表示板で豊田方向に左折、県道13号線の2.3㌔先右側、約3分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・稲荷神社 (鶴里町柿野)・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.08
コメント(0)
前回掲載した銀幣社 白鳥神社から車で僅か1分程の距離にある妻木川の対岸に鎮座する稲荷神社に立ち寄りました白鳥神社から国道を西に向かい、一本目の道を左に入ると森の中に赤い奉納鳥居が連なる社頭が見えます参拝者用の駐車場はないため、通行の妨げにならない路肩に駐車することをお勧めします国道から左折すると写真の社頭が目に付くはずです社頭全景神明鳥居の右手に「稲荷神社」の社標(昭和30年10月寄進)と手水鉢があります鳥居をくぐると、稲荷の使い狐が鎮座していますその先には、奉納鳥居の連なる石段が山の奥へと伸びています柿野の里山にありながら、多くの鳥居が奉納されています最初の石段を上りきると写真のように平坦な境内が現れます手前の石標には「施主 上郷中」とあります・・・?鎮座地は現在鶴里町となっていますが、ここから少し北に妻木町上郷地区があり、以前はその一部に属していたことを示しているのかもしれません上郷地区の城山には土岐頼重が築城した妻木城址がありますが、その4代目頼照は妻木氏と称し代々居城したと云われ、万治元年(1658)に城は廃城となったようです常夜灯の先に覆屋が見えてきます左手の石標は明治44年(1911)に寄進されたもの当、稲荷神社について調べて見ましたが由緒等を知る手掛かりは得られませんでしたまた岐阜県神社庁の一覧に当神社は掲載されていなかった社頭の鳥居の寄進年が新しいので、創建時期は新しいものと思いましたが、「施主 上郷中」の石標やこの石標などから、創建は明治以前に遡るのかもしれません覆屋全景中には流造の本殿が祀られ、左に廿二夜塔が立てられています鶴里の田畑を見下ろす様に祀られる本殿祭神は定かではありませんが、恐らく倉稲魂命であろうと推測します廿二夜塔建立は明治34年(1901)と刻まれています稲荷神社社殿全景集落から離れていますが、綺麗に手入れされ、今も崇敬されているようです稲荷神社 (鶴里町柿野)創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命境内社 / ・・・例祭 / 不明所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野銀幣社 白鳥神社から車アクセス / 神社から国道363号線を戻り一本目で左折、約1分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.06
コメント(0)
前回掲載した白鳥神社(柿野3660)から国道363号線を東進する事約5分程鶴里町交番の前に今回紹介する銀幣社 白鳥神社が鎮座します写真は鶴里町交番(右)と国道を挟んで白鳥神社社頭の眺めこの辺りは中馬街道の宿場として白鳥神社から東方にかけて集落が作られていたこの国道を直進すると明智方向へ伸びています国道から白鳥神社社地の眺めこの時期は源平咲きの梅が見頃を迎えていました社頭全景鳥居の先に二本の杉が聳え立っており、社殿は更に奥の山の裾野に鎮座します右の社号標は「郷社 白鳥神社」とあり、大正元年(1912)に寄進されたもの正面の石の明神鳥居も大正元年(1912)に寄進されたものでした鳥居の左に手水舎があり、右には百度石をはじめとする石碑が立てられています手水舎と手水鉢鉢の寄進年は読み取れなかったが、そこには金色の眼をした龍の姿があります右の石標左が百度石で他に記念碑が立てられています石段上り口の由緒「銀幣社白鳥神社鎮座地 土岐市端里町柿野字陣屋2262番地主祭神 日本武尊(小唯命)由緒創祀不詳、社伝によれば猿投神社の創建時に、 主祭神大唯命の弟君の日本武尊(小確命)を柿野に祀ったと伝えられているが、確証がないのて創建伝説とされている平安時代に制定された美濃国神明帳(977年頃) 「正五位下垣野明神」と記載され此の地の守護神として垣野明神が祀られていたこれが「柿野」の 地名の出自となっている依って10世紀前半の創建と推定されている柿野の産土神で明治6年(1875)に郷社と なり昭和28年に銀幣社に指定された末社熊野神社、猿投神社、神明神社、八幡神社、若宮神社、白山神社、津島神社、杵築神社、尺地神社例大祭建国記念祭 2月11日に近い日曜日初午・祈年祭 3月随時例大祭 10月第1日曜日新穀感謝祭 11月随時七五三詣り 11月随時」銀幣社があることから、瀬戸市から僅かばかり東に来ただけで、すでにここが岐阜県であることを実感します明治初期には、神社は県社、郷社、村社という格付けがされていました戦後には、全国の神社が一律に、平等に扱われることとなり、この制度は廃止されましたしかし、岐阜県では、社格が一律であることはおかしいと考え、金弊社、銀弊社、白弊社、無格社の4つに分類する、岐阜県固有の社格制度を導入しました境内全景右に社務所、その奥が農村舞台で正面の社殿と右側に境内社と射場があります今は使われていない農村舞台この舞台の建立時期などの詳細は分からなかった境内右の境内社と射場杉に包まれた斜面に社地を造り、三社が祀られていました右から白山神社、若宮神社、尺地神社この日は紅白の幕が張られていましたその向かいが垣野弓道場「柿」ではなく「垣」で表記されていました射場後方の斜面に蜜蜂の巣箱が設置されていましたこの辺りの神社の境内にはこうした巣箱が置かれているのをよく見かけます射場から左の社殿の眺め手前に樹齢を重ねた御神木と拝殿・幣殿・覆屋の社殿が見えます大きな瘤のある太い幹の少し上から、太い側枝に分かれ、上に伸びていますいかにも御神木らしい風格が漂います石段から拝殿の眺め拝殿前の狛犬(寄進年不明)はシンプルな造形の垂れ耳のものシンプルな意匠の社殿です岐阜県神社庁による当社の解説は以下の通りです「創祀未詳本國帳所載土岐郡七座の内垣野明神と称す里伝に曰く即ち本村当國土岐郡南方の山間に在りて三河國加茂郡と接す同郡猿枝山に鎮座の神は大碓命なり之れ当社に祭る神小碓命の御兄に坐せり故に当社は猿枝山同時に鎮座ありと云へり又、嘉吉2年(1442)11月葺き替えの棟札に武藤右衛門と記せり、其の頃の領主と見えたり何の所に居住人なるや知りがたし当社従来本村の産土神なり」創建について猿投神社と同時期に鎮座とあるが実際どうなんだろう嘉吉2年(1442)葺き替えの棟札までは間違いがないだろう、社頭の由緒にあるように伝説と捉えるべきだろう文中の「猿枝山」は恐らく猿投山の誤記と思われますここでも「垣野」の表記が現れた、現在の柿野になったのがいつ頃なのか気になってくる拝殿右側から覆屋方向の眺め覆屋右の境内社右から神明神社、杵築神社、熊野神社が祀られています覆屋左の境内社右から八幡神社、津島神社、猿投神社が祀られています覆屋の中の本殿は恐らく檜皮葺の一間社流造のように見えます拝殿の三面に廻り縁が付けられており、軒から一間向拝が迫り出しています拝殿から眺める手入れの行き届いた広い境内国道から車で直接境内に乗り入る事が出来そうです境内から鳥居の眺めです石段の前で鳥居の様に剪定された松が印象に残る常夜灯(1912)の前はかつて馬が行き交った中馬街道、旅の疲れは柿野温泉が癒してくれる銀幣社 白鳥神社 (鶴里町柿野)創建 / 不明祭神 / 倭建命境内社 / 熊野神社、猿投神社、神明神社、八幡神社、若宮神社、白山神社、津島神社、杵築神社、尺地神社例祭 / 10月10日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2240白鳥神社 (鶴里町柿野3660)から車アクセス / 白鳥神社から国道363号線を東進、約5分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・白鳥神社 (土岐市鶴里町柿野3660)・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.05
コメント(0)
鶴里 白鳥神社白岩 八王子神社から国道363号線を東進し、峠道の岐阜県境を越えると、視界が広がり、柿野町鶴里地内に到着します今回ご紹介する鶴里 白鳥神社は、国道沿いの左側に鎮座しています参拝者用の駐車スペースはありませんが、国道沿いには退避スペースがあり、そこに駐車することができます国道から眺める鶴里 白鳥神社の社頭です三国山の北嶺に位置し、三国の名が示すように、古くは尾張、三河、美濃の三国にまたがっていました中馬街道沿いの山間に僅かに開けた里に農地が広がり、田畑を取り巻くように民家が点在する長閑な場所に神社が鎮座しています社頭前の国道は、この先、三国茶屋を経て柿野温泉方向に続いています国道と並行するように社頭があり、右手に白鳥神社の社標(1981年寄進)と石の明神鳥居を構えていますまた、国道沿いに石仏群や小さな祠が祀られています社頭から見上げる境内は、山の斜面を何段かに整地し、鳥居から始まる長い参道が社殿に続きます鳥居の扁額は「白鳥神社」日本武尊(倭建命)が東国平定の帰途、伊吹山で大蛇の毒で息絶えた際、白鳥となって飛び去ったとされる白鳥信仰から始まったとされ、日本武尊を祀る神社です鳥居をくぐると目の前に石段常夜灯の先からまた一段上がると狛犬の姿があるその上に杉の木や広葉樹の杜に包まれた社殿がある上の境内から参拝に訪れる参拝者を見下ろすように狛犬が安置されています昭和14年(1939)に寄進された狛犬狛犬から左の石垣の前に、湧き水が注がれる手水鉢が置かれています鉢の寄進年は明確に読めませんが文政3年(1820)と刻まれ、多くの寄進者の名が刻まれています最後の石段を上がると、目の前に拝殿が迫ってきます岐阜県になると、由緒や創建を調べる資料も変わってきます取り敢えず、岐阜県神社庁から得られた結果として、鶴里町柿野には白鳥神社が二社鎮座していることが分かりました鶴里町柿野3660に鎮座する当社についての記述は、祭神と祭礼日のみでしたこれは、地史を見る必要がありますが、そこから得られた情報は後日、ここに書き加えることとして、先に進めます拝殿内から本殿方向の眺め本殿の造りは全く見る事が出来ません祀られているのが倭建命一柱だけとは思えない大きな扉です社殿全景入母屋平入の拝殿に切妻の幣殿と覆屋がひとつに繋がっています覆屋の左の境内社「氏神 ?山宮」と彫られていますが、?の部分が読めなかった覆屋の右の境内社三社を収めており、社の右に社名の書かれた木札がありましたが不鮮明で読めなかった当社の西側に雨沢公民館がありますが、そちらで何か情報が得られるかもしれません右にあるのは養蜂箱なので、迂闊に近づいたり触らないのが賢明以上が鶴里 白鳥神社となります狛犬が見守る広い境内と社頭の眺め参拝を終え国道から社頭と道路脇の石仏群を眺める聖観音像とと祠の中に祀られる馬頭観音像祠から右手の石仏群国道沿いや中馬街道沿いではこうした馬頭観音の姿をよく見かけます一番右外れの祠の左に石碑は「村中安全 薬師如来」、右手の社は不明ですが、左側に「庚」と彫られた鬼瓦が置かれており、現在の祠の形になる前は瓦葺の庚申堂だったようです国道南側から田植えを前にした田園と、この地を見守る白鳥神社の社叢の眺め正面の二本の大きな杉が社殿の場所を示しています、ここで久し振りにカエルの鳴き声を聞きました社頭の前が「予約相乗りタクシーのってこ」柿野線の「雨沢公民館」停留所になっていました路線図利用方法はこちら鶴里 白鳥神社創建 / 不明祭神 / 倭建命境内社 / 不明社4社例祭 / 11月第1日曜日所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野3660白岩 八王子神社から車アクセス / 八王子神社から国道353号線を東進、約5分 参拝日 / 2024/04/18関連記事 / ・岩巣山北嶺・東麗の神社巡り 「白岩町 八王子神社」
2024.05.02
コメント(0)
4月18日、瀬戸方面の岩巣山の北嶺の神社を回ってきましたこの時期は街から離れた清々しい光景が広がる郊外の神社巡りが気分がいいこの日天気は悪くなかったが、黄砂の影響から曇天のような空模様でした若葉が芽吹きだした山々の緑も精彩に欠けていました名古屋から約一時間程瀬戸市東部の白岩町に到着写真は山間を縫うように明智方向へ続く国道363号線の白岩地内の光景今回の目的地白岩町の八王子神社は、瀬戸市コミュニティバス片草線の白岩町バス停の北側に社頭を構えていますバス停から八王子神社社頭の眺め白岩町は古くはしら岩郷と呼ばれ、江戸時代は尾張国春日井郡の尾張藩領の白岩村で、後に東春日井郡白岩村となり、上品野村、品野村と編入・合併を経て現在は瀬戸市白岩町であるこの国道沿いには中馬街道の解説を多く見かけます古くは中山道・下街道の脇往還道として東濃と瀬戸を経て名古屋を結ぶ信州飯田街道と呼ばれ、馬で塩や物資が運ばれ、中馬街道とも呼ばれています麓の品野は馬継地として栄え、馬継地から白岩町北側の山間に続く道は、坂瀬坂と呼ばれ九十九折れの厳しい道が続き雨沢峠に伸びており文化庁歴史の道100選のひとつになっています現在は山間を縫うように国道363号線が明智方向へ続いています社頭右側の表忠碑国道沿いの斜面から境内に続く石段が上に伸びており、石段の先には社殿が覗いている白岩町 八王子神社について明治24年(1891)の地図には既に鳥居の印が記載されており、神社について調べて見ると創建は正保元年(1644)以前とされ、祭神は須佐之男命と天照大神との誓約で誕生した五男三女神を祀つる、瀬戸市白岩集落の氏神様である神社庁の解説によれば例祭は10月第4日曜日とあった神仏習合色の残る神社というのが訪れた感想です石段中ほどで階段は途切れ踊り場となっており、左側に行者堂と石仏群が安置されています三方は石が積まれ、大きな一枚岩を上に乗せて作られた石祠祠内には明和7年(1770)の銘が刻まれた役行者の石像が安置されています石段脇に5体の石仏があります銘文は確認していませんが、その佇まいから古い年代を感じますここから再び石段がはじまります石段を上りきると目の前に拝殿が見えますその先の山の斜面には石垣が組まれ社地が造られており、そこに社殿が建てられています石段左の手水鉢すぐ下の国道を時折通り過ぎるトラックやバイクの音が漏れてくるが、杉の杜に包まれた境内は静寂に包まれている境内左から社地全景右の舞殿と石段上の拝殿、本殿が主な建物で、本殿左に境内社が祀られています舞殿から本殿方向の眺め舞殿は入母屋妻入りで桁行2間、梁間一間の瓦葺屋根のもの石段入口から拝殿の眺め高く積まれた石垣は左右で積み方や使われる石が違う様に見える拝殿前に一対の常夜灯がありますが狛犬の姿はないようです拝殿と本殿側面全景拝殿から本殿の眺め本殿の前に二対の小さな狛犬の姿があった流造の本殿の左側には社名が不明な境内社があり、本殿の右側にも境内社が存在します境内左の斜面に赤い社が祀られています社名札はありませんが白い狐の姿があるので稲荷社のようです拝殿から下の境内の眺めこうして見下ろすと石垣の高さも伝わるだろうか手前の常夜灯は大正2年(1913)に寄進されたものでした舞殿から石段方向眺め6本の柱で瓦屋根を支えています境内から社頭を見下ろす油断すると痛い目に合いそうな石段です、手摺がありがたい石段途中から南の岩巣山方向の眺め3月28日にこの道を走りましたが、その時と比べて山々の樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました八王子神社創建 / 不明祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 蚕霊社、御嶽社、砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社例祭 / 10月第4日曜日氏子域 / 白岩町所在地 / 瀬戸市白岩町385深見郷 富士浅間神社から車アクセス / 名古屋市役所から車で約1時間 公共交通機関 / 瀬戸市コミュニティバス しなのバスセンターから瀬戸市コミュニティバス片草線で白岩町バス停降車参拝日 / 2024/04/18関連記事 / 今回移動ルート
2024.05.01
コメント(0)
深見郷 富士浅間神社から国道419号線を藤岡小原方面に進み、飯野地内の信号で右折、100㍍程直進した左側に飯野 秋葉神社の社頭に着きます深見郷 富士浅間神社からだと、車の場合は移動時間5分程、距離にして1.5㎞ほどの飯野町坂口に鎮座します飯野 秋葉神社社頭鳥居の先には農村舞台があり、舞台の先に社殿が見えます鳥居から舞台と秋葉神社社殿の眺め石段右に大正7年(1918)に寄進された秋葉神社社標が立てられています秋葉神社解説「十二等級 秋葉神社 旧指定村社鎮座地 西加茂郡藤岡町大字飯野字坂口887番地祭神 迦具土命、大名持命、少彦名命由緒 社伝に、享保6年(1721)遠州秋葉山より勧請し、火防の神として氏子の崇敬あつく、また豪者 義民飯野八兵衛深く信仰するとあります明治6年(1873)、無挌社として据置公許となる同44年(1911)、字仲ノ下、無挌社御嶽神社を本社に合祀した大正10年(1921)、村社に列挌同11年10月24日供進指定社となった 藤岡町観光協会」この由緒に追記できそうな情報は以下愛知県神社庁 「氏子域藤岡飯野町、例祭日10月第3日曜日3」西加茂郡誌に飯野 秋葉神社は記載されていたが創建は未詳とされていました舞台斜景深見 農村舞台同様の造りで、入母屋平入で、屋根は瓦葺で入母屋屋根に裳階が付く舞台鳥居側から見る間口は四間、これまで見てきた舞台の中では広い間口で社殿も一望できる舞台斜景舞台は明治28年(1895)に建立され、現在までに幾度か補修されていますが、全体としてはしっかりとした構造を保っています一本の長い梁が瓦葺の屋根を支えています舞台屋根裏の眺め、もとは茅葺だったと思われます境内から社頭の眺め例祭時には飯野棒の手保存会による見当流棒の手、献馬、神輿、祇園山車、餅投げなどの奉納が行われ、この広い境内も人で溢れるのだろう境内全景左に手水舎、社務所があり、中央に祭文殿、本殿域で、右側に境内社が纏められています祭文殿と本殿域祭文殿正面からの眺め祭文殿前を守護する狛犬梁間一間、桁行二間の切妻造で四方吹き抜けのもの本殿域全景正面の神門は透塀と一体となり、側面と後方は築地塀が本殿域を囲んでいます現在の社殿の状態について、具体的な修復時期は不明ですが、全体としては傷みも少なく、美しい印象を与えるものとなっています神門の羽団扇格子扉から見る本殿その構造は詳しくは分からないが、本殿前の陶製と思われる小さな狛犬がこちらを見つめている透塀から本殿の眺め棟持柱も良く見える神明造りで一間向拝が付く大きな本殿で、6本の鰹木と外削ぎの千木が付く豪者 飯野八兵衛が崇敬したとされる迦具土命、大名持命(大国主)、少彦名命の三柱を祀る本殿右の境内社左の二社は左から蚕霊社と御嶽社その右に石の社が祀られていますが社名は分からなかった右手の覆屋の下に左から砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社の四社が祀られています社務所左の手水舎境内西側から舞台の眺めここから左の社地西外れに飯野八兵衛碑が立てられています飯野八兵衛碑右手の解説の内容は以下「義人追慕飯野八兵衛は、享保11年(1728)三州飯野村で生まれた母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った重い病気から九死に一生を得たあとの彼は、突然容貌は勿論、性格まで破邪顕正のきびしさに変わったその頃、当地は連年不作がつづき、ひどい飢饉だったけれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、この上は全員餓死の外はないと八兵衛は決然奮起した彼は庄屋の善三郎始め、迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1.241人の中より305人を引き連れ、宝暦2年(1752)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった江戸に於ける彼の活動は凄まじかった恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げ、その上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れたかくて百姓共は救われたが、掟はきびしく、6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についたこの時27才、まさに巨星落ちるの感があった犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である飯野の人々が今なお彼の恩義を忘れず、毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである」当時は地方の実情を伝えるためには、死を覚悟しなければならない時代でしたそう思うと、今は容易にSNSなどで声を伝えることができる時代は変わり、地方の声を伝えに向かわせた代表は、志を忘れ私利私欲に走る愚策や愚行に対して庶民が声を上げ続ける事は必要な事だ飯野 秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神境内社 / 蚕霊社、御嶽社、砥鹿社、御鍬社、不明社、鹿島社所在地 / 豊田市藤岡飯野町坂口887深見郷 富士浅間神社から車アクセス / 国道419号線を、移動時間約4分程 参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)・深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂・深見郷 富士浅間神社
2024.04.30
コメント(0)
深見 磯崎神社から国道419号線深見細田交差点に戻り、信号を左折して200㍍程先の左側に深見郷 富士浅間神社の社頭があります深見町広表地内の西外れに位置し、国道西側の山の尾根に社殿を構えています国道から見る社頭歩道から尾根に続く参道があり、入口右側に平成20年に寄進された「深見郷 富士浅間神社」の社標があります歩道から鳥居の姿が見えており、その奥に社殿が建てられています参道から見る社地石段脇は草木が迫り鬱蒼とした社地を想像するかもしれないしかし上まで登ると意外に開けた明るい社地が広がっています木造明神鳥居小高い山の尾根を整地し、綺麗に手入れされた明るい境内に木造明神鳥居と覆屋が建てられています鳥居から覆屋の間に二対の常夜灯があり手前の常夜灯は昭和17年(1942)寄進、奥のものは平成17年(2005)に寄進されたもの参道右側の手水鉢覆屋全景切妻妻入りの奥に長い覆屋で、入側に「深見郷 富士浅間神社」の白い幟が立てられています覆屋の下の本殿と左脇の境内社の眺め本殿両脇にも一対の常夜灯があり、合計で三対の常夜灯がある覆い屋の左には境内社を祀った覆屋があります社名から推測すると富士山本宮浅間大社から勧請され、祭神は木花之佐久夜毘売命ではないかと思われます本殿はコンクリート製の流造創建時期を推測できるものとして、社標をはじめとした寄進物の寄進年度に昭和以前のものが見られなかったこと、覆屋の棟札に「平成15年10月吉日拝殿建設」とありました神社に由緒がなく、大正時代に出版された三河郡誌の「郡内神社一覧」や愛知県神社庁にも目を通すが社名や創建・由緒等の詳細は分からなかった左の覆屋に天神様と不明社、その左に石の社が祀られています広表の西外れの高台から、東方の広表集落を見守るように富士浅間神社が鎮座しています深見郷 富士浅間神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 天神様、不明社2社所在地 / 豊田市深見町広表深見 磯崎神社から車アクセス / 国道419号線を左折、深見細田交差点を過ぎた200㍍左側、移動時間約4分程 (社頭左に駐車余地がありました)参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)・深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂
2024.04.26
コメント(0)
迫町にある磯崎神社から猿投山東麗の国道419号線を南下し、深見町大屋に鎮座する深見磯崎神社へ向かいます迫磯崎神社から国道419号線を南下します。深見細田交差点に到着したら右折し、そこから約1キロメートル直進します。その後、右手に神社の社頭が見えてきます。移動距離は約3キロメートルで、車を利用すれば10分程度で到着できるでしょう社頭の眺めほぼ南を向いて社頭を構え、右に大正12年寄進の「磯崎神社」社標が立てられています境内は南側は大きな杉が聳えたっており、鳥居から先の社殿は見えずらいかも知れません駐車場はこの社頭の左側に小道が伸びており、その先に駐車余地があります写真は駐車場から社頭方向の眺め中央の建物が迫 磯崎神社で教えて頂いた深見 農村舞台になりますここから境内に向かえますが、まずは鳥居に向かいます社頭全景右に社標と一対の常夜灯、明神鳥居からはじまる杉並木の先に社殿が見えます鳥居扁額は「磯崎神社」迫地区からほんの少し離れた深見地区にも同名の神社が鎮座するので困惑するかもしれません参道を進んだ左の手水舎右手に見えている建物は深見農村舞台となります参拝当日は手水鉢に清水は張られておらず、龍も手持無沙汰な様子でした舞台から社殿の眺め舞台と社殿の間には広々とした境内があります舞台側面に令和5年度の深見農村舞台のプログラムが貼られていました昨年は10月7日に開催され、鑑賞には入場チケットが必要なようです舞台斜景入母屋平入で舞台正面には一本の柱もない深見農村舞台の建立は棟札から明治34年(1901)とされます岩倉神社の舞台同様、床面に直径約5.5㍍の回り舞台を備えたもので、昭和62年(1987)に屋根を主とした修復工事が行われたものが現在の姿舞台は茅葺屋根で庇が瓦葺のもので、その屋根を太い梁が支えている今も現役の回り舞台舞台正面の眺め10月にはこの広い境内に観客が集い、神さまと共に農村歌舞伎を楽しむ自分自身農村歌舞伎を見た事がないので一度は訪れて鑑賞したいものです農村舞台から境内全景を眺める広い境内奥の高みの特等席に社殿が築かれ、中央に磯崎神社社殿、右側に薬師堂が建てられており、先に訪れた迫の磯崎神社と深見磯崎神社は配置は異なりますが共通するものがあるまず、深見磯崎神社参拝の前に、原点とも言える社殿の右側にある薬師堂から始めます元亀元年(1570年)に建立されたとされる棟札が残っており、慈覚大師作の薬師瑠璃光如来像が祀られていますこの像は東方薬師如来と呼ばれ、猿投神社東ノ宮の薬師領に安置されていたものが移祠されました磯崎神社が建立されるまでは、産土神や医薬延命の守護として崇められ、昭和初期までは住職も在住していました現在は地区が清掃と月祀りを受け継ぎ、旧暦の10月8日には薬師祭が営まれています堂の扉は普段は閉じられていますが、堂内の須弥壇には本尊、脇侍の日光・月光菩薩、十二神将像、西側の祭壇には本尊の阿弥陀如来像、脇侍の善導大師、法前上人が祀られているそうですやはりこの辺りにあって、御神体の猿投山と猿投神社には所縁があり、深見 磯崎神社が猿投神社東峯の東ノ宮の薬師如来を祀る東方薬師と云う事だと、西峯の西ノ宮の観世音菩薩を遷した社寺もあると云う事だろうかこれまで低山トレッキングの通過点として猿投神社や猿投山を訪れてきましたが、最終的には参拝目的で御神体の猿投山と猿投神社を訪れることになりますそれは猿投山をぐるっと一周廻り終えてからのことになるだろう拝殿正面全景石段手前には一対の狛犬と解説が立てられています「十四等級 磯崎神社 旧村社鎮座地 西加茂郡藤岡町大字深見字大屋38番地祭神 大己貴命、少彦名命由緒 この地深見郷は武田王の後裔武田氏の居住した所 社家武田氏社僧、神宮寺あり 元亀元年(1570)名僧慈覚大師作の薬師如来の像を祀る 江戸時代には里山産土神と崇め奉る医薬延命守護として信仰を集めた 明治の制度改めにより薬師如来を廃し、明治6年祭神を改め、同8年11月社殿建立し磯崎神社となる 同年村社に列格例祭日 10月第1日曜日社殿 本殿13坪、拝殿21.33坪、小宮2.08坪、舞台30坪境内坪数 1090坪 藤岡町観光協会」解説の他に西加茂郡誌、愛知県神社庁から得られたものを下に追記します 大正15年出版の西加茂郡誌 「氏子数56戸、例祭 献馬・棒の手」愛知県神社庁では「例祭 10月第2日曜日、氏子地域 深見町」の記載があった深見自治区地域誌の深見磯崎神社紹介から抜粋した内容は以下「明治6年(1873)の改号に際し茨城県大洗磯前神社より勧請 境内社 洲原社、伊勢社、岩津社、山之神社、市杵島社、鎮守社、琴平社む、蚕霊社、秋葉社、 天王社、常夜灯社」が祀られている祭神大己貴命 (大国主命) 国土開発、殖産、医療などの知識・文化を授け、縁結び、子授け、夫婦和合、五穀豊穣、養蚕守護 医療、病気平癒、産業開発 交通・航海守護、商売繁盛など御利益がある少彦名命(本医薬の祖神) 医療の知識や農耕の技術を広め、温泉を発見し、酒の作り方を伝え、国家安泰、病気平癒、健康祈願 農業技術、商売繁盛、旅行・交通安全など御利益がある境内社洲原社 豊作、厄除け、夫婦和合、子授け伊勢社 神宮より天照大御神を勧請岩津社 学問、病気平癒、厄除け、縁結び、安産山之神社 入退山時の無事、山の恵み市杵島社(通称弁財天)金財運、知恵、長寿、芸能鎮守社 氏神琴平社 金運、縁結び、商売繁盛、健康蚕霊社 養蚕守護天王社 除疫常夜燈社 村中の安全・秋葉社の付属的なもの秋葉社 防火社殿は明治8年(1875)建立、平成6年(1994)現在の社殿を造営」と記載されていました拝殿前の石段入口を守護する狛犬石段から拝殿の眺め拝殿額は「磯崎神社」、神門は左三つ巴だろうか拝殿左の境内社正面の覆屋には6社、覆屋左に1社祀られています左から常夜燈社、秋葉社、蚕霊社、琴平社、鎮守社、市杵島社 天王社拝殿右の二社左が山之神社、岩津社これで境内社全て参拝したはずですが、地域誌にある境内社の洲原社、伊勢社が見当たらないどこかで見落としているのかもしれません境内左の社務所側から社殿全景切妻妻入りの拝殿と切妻平入の鞘殿が一体となったもの訪れた時はピンクの八重桜が見頃を迎えていました深見 磯崎神社・深見 農村舞台・薬師堂創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命境内社 / 常夜燈社、秋葉社、蚕霊社、琴平社、鎮守社、市杵島社、天王社、山之神社、岩津社所在地 / 豊田市深見町大屋38津島神社・二十三夜塔から車アクセス / 国道419号線を南下深見細田交差点右折、直進1km先の右側、移動時間約5分程 参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社・津島神社・二十三夜塔(迫町石田)
2024.04.25
コメント(0)
迫 磯崎神社から引き返し迫八反田交差点を右折、国道を150㍍程進んだ緩い上り坂の右側に雑木林の中に今回の目的地「津島神社・二十三夜塔」が鎮座します所在地では豊田市迫町石田となります写真は国道から迫八反田交差点方向の眺め、目的地は左側の斜面を登り切った先になります国道沿いには駐車余地がありません私は迫 磯崎神社に車を置き、田んぼの中を10分程歩いて訪れました歩道から見る津島神社に続く小路鳥居や社標がないのでこの小路を目印にするしかない歩道から少し上れば樹々が伐採された小高い丘になり、左奥に神社が鎮座します津島神社・二十三夜塔鎮座地全景左が津島神社の覆屋で少し離れた右側に二十三夜塔が立てられています迫町石田の津島神社には創建や由緒を記した掲示物はありません愛知県神社庁にもその詳細は存在せず、過去の地図にもここに鳥居の印を見付けることはできませんしたがって、具体的な事柄は何一つ分からない状況ですただし、過去に遡ることができる唯一の手がかりは、覆屋の前に立てられている平成15年(2003)に奉納された幟立てぐらいで、これが創建時期とは言えないだろう次を担う土地の子が好奇心から訪れる事もあるだろうそうした世代が見て、神社が祀られた経緯や歴史が分かるようになっていると、肝試し的な対象ではなく、身近な存在として感じられるのだろう社殿全景、今も人が訪れているようです祭神は素戔嗚尊だと思われます覆屋の軒下に「津島神社」と記された素木の額が掛けられている左が二十三夜塔月待ち講は特定の月齢の日に信者が集まり、飲食や会話を交えながらお経を唱え、悪疫退散を願う自然崇拝の一種で、旧暦の二十三夜塔以外にも十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などあり、講を通じてお互いのコミュニケーションを深める役割も果たしている昭和の時代でも地域住民のコミュニケーションを図る助け合い「隣組」などあり、冠婚葬祭時には地域で支え合う習慣が存在していましたしかし、それらも近隣との付き合いが希薄となった都市部では、ほぼ姿を消してしまったのではないだろうかこうしたコミュニティは地方や田舎では今も存在している場所もあります右の石碑は文字が刻まれているが読み取れなかった小高い丘にひっそり佇む津島神社・二十三夜塔を眺める神社に続くなだらかな尾根適度に雑木が伐採されているので、社地には陽光も差し込み歩きやすい歩道から上り切った先から国道419号線方向の眺め樹々が芽吹いたとしても歩道からこの参道は分かりやすいかもしれない津島神社・二十三夜塔創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 豊田市迫町石田692迫 磯崎神社から車アクセス / 国道419号線を右折し150㍍ほど先の右側、移動時間約2分程 (駐車余地なし)参拝日 / 2024/04/06関連記事 / ・金剛寺枝垂れ桜・迫 磯崎神社
2024.04.24
コメント(0)
迫町 磯崎神社猿投山東麗の豊田市迫町下切に位置し、古くは高橋荘深見郷(西中山、上渡合、深見、田茂平、迫、飯野、北一色、石飛、折平、北曽木、西市野々)に属していた古くからの集落、迫(さこ)に鎮座する神社金剛寺からだと、県道350号線を南下し飯野町の交差点で右折、迫八反田交差点を右折、道なりに直進した右側に社頭が現れます写真は車道から見た社頭車は鳥居の先を右に入った境内に駐車できます磯崎神社社頭全景一対の常夜灯と鳥居、右側の赤い屋根の建物が迫の農村舞台車道から境内の眺め石段右に社標と農村舞台、正面の石段を上った先が社殿石段右の解説「十四等級 磯崎神社 旧村社 鎮座地 豊田市迫町下切237番地 祭神 大己貴命、少彦名命 由緒 社伝に、元亀元年(1570)、猿投大明神 東宮の本地仏薬師如来を祀るとあります 年の変遷により産土神と崇め奉られました 明治の制度改めにより廃却となり、社殿を造営し常陸国大洗磯前 酒列磯前神社にならい、磯崎神社と改号 明治8年(1875)11月、村社に列格 例祭日 10月第2日曜日 社殿 本殿 折屋根造 0.22坪、覆殿 2.25坪、拝殿 4坪、舞殿 17.5坪 特殊神事 (神賑行事)飾献馬、棒の手、火縄銃、御輿、餅投、お囃 境内坪数 233坪 藤岡観光協会」因みに大正15年発行の西加茂郡誌に迫磯崎神社として記述が残っていたが解説程の内容ではなかった併せて愛知県神社庁を見てみたが祭神・例祭しか記されていなかった鳥居から社叢の眺め鳥居扁額は「磯崎神社」酒列磯前神社は茨城県ひたちなか市に鎮座する古社ですそこから遠く離れた猿投山の麓の迫地区とすぐ隣の深見地区に同じ磯崎神社が祀られたのか興味深い豊作祈願や神事の余興として農村歌舞伎などが演じられ、楽しみの少ない村々の住民とって、唯一の娯楽の場として造られた現在藤岡地内に残る農村舞台は9棟ほどに減少し、農村歌舞伎の後継者難などから農村舞台は姿を消しつつあるこの迫地区の農村舞台も農村歌舞伎の継承が途切れてしまい、現在は舞台だけが残る藤岡地区の案内によれば、この舞台は明治24年(1891)に建築されたもののようです外観は入母屋造で平側6間、妻側4間の茅葺屋根を鋼板で覆ったもの正面から見る舞台は、隅柱に1本の長い梁を渡し、間に柱を入れる事無く屋根を支え、広い間口が造られています一本ものの無垢の太い梁が大きな屋根を支えている隅柱から舞台の眺め久しく使われていないのを裏付けるように床板は光沢を失っています小屋組縦横に組まれた竹と露わになった萱は、造形美の美しさすら感じられますしかし、現代では萱の調達や葺き替えも難しくなり、こうした光景も見る機会がなくなってきました境内左に棒の手顕彰碑地元の方から声掛けを頂き、少しお話を聞いたなかで、現在は「歌舞伎は行われておらず、祭礼の日に棒の手と火縄銃の空打ちの披露」が行われていると云う事「ここから少し南の深見地区に鎮座する磯崎神社の農村舞台は、回り舞台もあり今も現役」と教えて頂いたかつては住民が集い農村歌舞伎を楽しんだこの境内、今では広々とした空間として感じられます深見地区の農村舞台は田畑の先に見える森の南側、車で5分程の深見 磯崎神社境内にあります石段の前から社殿全景の眺め、石段左の石碑は殉国戦士之碑石段で守護する一対の狛犬と拝殿迫 磯崎神社の狛犬(寄進年未確認)拝殿と本殿覆屋の眺め、覆屋後方に見える建物は薬師堂瓦葺の四方吹き抜けの妻入り拝殿で、拝殿内に「大洗磯前神社」の額が掛けられています拝殿から本殿の眺めよく見れば拝殿奥の隅柱に祭神名が記されていました左が「迫大磯神社相殿 秋葉大神」、右の隅柱には「「迫大磯神社相殿 津島大神」とある覆屋の柱にも由緒が書かれた板が張られていましたが、最初の書き出しから先は板の表面が剥落して内容が分からなくなっていました本殿は折屋根造解説から祭神は大己貴命、少彦名命拝殿左の境内社6社を収める覆屋右から神明社 祭神 天照大御神 日本の守護神御鍬社 祭神 豊宇気毘売神 衣食住の守護神稲荷神 祭神 宇賀之御魂神 稲作物、食料、商売の守護神右から天神社 祭神 管原道真公 学問の神金毘羅社 祭神 大物主命 福徳円満、航海安全洲原社 祭神 白山姫命 暮らし、各種円満迫 磯崎神社社殿全景大棟には鯱、軒先の飾り瓦に獅子と牡丹?が飾られていますなんだか神仏習合の名残が漂う光景です後方の薬師堂と迫 磯崎神社社殿全景無理に神仏分離した様にも見えず、薬師堂と神社が自然に鎮座しています薬師堂と書いていますが、現地にそれを示す掲示物はありません詳細は不明、鬼瓦に薬師の文字が入っているため薬師堂としています入母屋瓦葺の妻入りの堂は向拝や手挟に細かな彫が施されています薬師堂のシックな妻壁と向拝の装飾向拝の装飾宝珠を掴んだ龍の姿と鰐口の前の梁には錫杖のような彫が施されています額には「醫王閣」とある、醫王は薬師如来の異称、薬師如来を祀る建物ということだろう手挟の彫飾りと木鼻の獏と獅子機械加工が発達した現在、手挟に施されたような彫や更に緻密に彫られた透彫りなど、今も職人の手仕事しか作れないもの…と思いたい3Dスキャンでボタン一押しで出来てしまうなら、技術の継承ではなく操作の習得でしかないそうしてできたものは妙に味気なく思えてならない、そんな日もやがて訪れるのだろう拝殿から舞台の残る境内の眺めさて、転がり落ちないように降りるとするか境内から深見 磯崎神社方向の眺め本来はここから右を進んだ先の神社にも行きたかったが、ここから先は幅員も狭くなり小回りの利かない車では厄介なので、日を改めて軽で訪れる事にして、もう一つの磯崎神社に向かいます磯崎神社創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命境内社 / 神明社、稲荷社、御鍬社、天神社、金毘羅社、洲原社薬師堂創建 / 元亀元年(1570)本尊 / 薬師如来所在地 / 豊田市迫町下切237氏子地域 / 迫町例祭日 / 10月14日金剛寺から迫磯崎神社まで車アクセス / 県道350号線を南下、飯野町の交差点を右折、迫八反田交差点を右折し道なりに直進、移動時間5分程参拝日 / 2024/04/06関連記事・金剛寺枝垂れ桜 出遅れてしまった
2024.04.23
コメント(0)
前回掲載した折平町八柱神社を後にして、今回は北曽木町に鎮座する八柱神社を掲載します折平町から県道353号線を北上し、突き当りを左折し北曽木・石畳口バス停を過ぎた左側の高みに北曽木町の八柱神社は鎮座します折平町の北に隣接する北曽木地区のほぼ中央の折平山東麗に位置し、農地を取り囲む様に集落が点在しています集落と農地を見守るような高台に北曽木 八柱神社は社頭を構えています南東向きに社頭は、左の社務所脇から石段が上に続き、右手に常夜灯が立てられています社頭前の道路は幅員の狭い生活道路なので路上駐車は出来ません社頭前に火の見櫓が立っており、その脇に小型車2台ほどの駐車余地がありそちらに駐車させてもらいました石段右に社標と由緒が立てられており、由緒の内容は以下「十五等級 八柱神社 旧村社鎮座地 豊田市北曽木町片平232番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命由緒 創建は明らかではない社蔵の棟札に奉修理 八王子遷宮 武田金右エ門経定享保18年丑年(1733)11月吉日とある北曽木の氏神として村民の崇敬あつい明治5年(1872)10月村社に列格境内社の創建津島社は安政4年(1857)太神宮は慶応4年(1868)9月山神社は文政2年(1819)2月例祭日 10月第一土曜日社殿 本殿 流造、0.25坪 覆殿 2.25坪 幣殿 2.25坪 拝殿 12.5坪 社務所 12坪 参集所 8.75坪境内坪数 174坪 藤岡観光協会 」と記されている以前も書きましたが、この辺りの神社は概ねこうした由緒が整備され初めて訪れた者にはとてもありがたい西加茂郡誌に目を通しましたが、上の内容以上の記述は見られなかった社頭左の社務所・参集所をはじめとし、近年再建され綺麗な社殿に生まれ変わっています鳥居全景昭和2年(1927)寄進の明神鳥居昭和2年寄進の明神鳥居ここから緩やかな石段が境内に続いています鳥居扁額は「八柱神社」この辺りは各地区ごとに八柱神社が祀られているのか実に多い、これを全て廻るのも面白い石段の左の石の社文字が刻まれていましたが読み取れなかった社頭を振り返る正面に見えている道路が県道なので火の見櫓と鳥居が目印になるかな境内の全景折平町の八柱神社を思わせるような高い石垣と白壁が眩しい社殿社殿両脇には境内社が祀られているこの光景も折平町の八柱神社を思わせる拝所全景再建が何年前か定かではないが、今でも木の香りが漂ってくるようだ掲げられている額も新調されたものだろう斜めから見る社殿全景長い庇の下が拝所で社殿そのものが鞘殿・幣殿を兼ねたモダンな外観内部には流造の本殿が祀られており、脇障子の前にはここまで見かけなかった狛犬の姿がある小型の陶製狛犬で頭には角も生えているようだ鞘殿左の境内社左が秋葉神社、右が安政4年(1857)創建の津島社鞘殿右の境内社左の覆屋には左が文政2年(1819)創建の山神社、右が天照皇大神宮とあるが慶応4年(1868)創建の太神宮と思われます右は稲荷社こちらは近隣から遷座されたものか、創建などは不明拝所から眺めた境内境内は社殿を除いても広い面積があり、特に右手方向が広く、農村舞台でも建っていたのではと勘繰りたくなる脱線しますが先日、迫町下切町の立派な農村舞台が残る磯崎神社を訪れ、地元の方から農村舞台についてお話を伺う機会があったその中で「農村歌舞伎を継ぐ後継者がなく、立派な舞台が建つ広い敷地では10月に棒の手と火縄銃の空打ちが行われ、歌舞伎は途絶えてしまった」と伺った今でもしっかりした木材で造られた舞台も維持に手が回らず、役割を終えやがて朽ち果て姿を消す事になる八柱神社の境内の広さはそうした名残なのかと思いたくなる受け継がれてきたものが途絶えると云うのは寂しい限り、しかしそれも時代の流れなんだろうねぇ境内東側からモダンな社殿の眺め境内右から樹々に包まれた白いモダンな社殿の眺め、別荘的な雰囲気が漂う社殿の外観ですこの道は社頭まで続いていますが、恐らく祭礼時の資材搬入用で農道のフェラーリ専用道参拝目的で乗り入れるのはやめた方が無難だろうこのまま社頭まで下りていく社頭から北曽木町の眺め常夜灯は明治22年(1889)の先人達が寄進したもの今回、猿投神社が鎮座する猿投山の東麗を走り飯盛山のカタクリを目指しました道すがらの集落には古くから護られてきた農村舞台や社寺などあり、興味深い土地柄でした北曽木 八柱神社創建 / 享保18年(1733)八王子遷宮の棟札祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 秋葉神社、津島神社、天照皇大神宮、山神社、稲荷社所在地 / 豊田市北曽木町片平232氏子地域 / 北曽木町例祭日 / 10月第1土曜日八柱神社(折平町)から八柱神社(北曽木町)まで車アクセス / 県道353号線北上直進、突き当りを左折し北曽木・石畳口バス停の先を左折 車移動時間約5分・1.5㌔参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・八柱神社(折平町)・八柱神社 (上渡合町)・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.19
コメント(0)
前回掲載した上渡合町に鎮座する八柱神社から、車で県道33号線を北上、折平町地内で県道353号線へ右手の田んぼの中のこんもりとした杜が今回の目的地折平町の八柱神社になります移動時間は5分もかからないでしょう県道33号線から県道353号線に入りそこから東方向の上渡合の八柱神社方向を眺める飯野川沿いに開けた傾斜地に田んぼが広がり、ここから西側は折平山が迫っている八柱神社(折平町)の社地全景を東から眺める農地の中心に神社が鎮座し、古くからの集落は山側に集まっている社頭は南東向きに鳥居を構え、社殿はお椀を伏せた様な杜に包まれています杜は数本の杉の巨木と広葉樹で形作られ、桜の樹も見られます社地の盛り上がり具合は古墳をイメージさせるものがあります社頭の眺め一対の常夜灯と右にある村社八柱神社の社号標は大正9年(1920)寄進されたものでした石の明神鳥居から境内に入ると左に舞台らしき建物があり、社殿は城壁を思わせる高い石垣の上に建てられています社頭右にこの辺りではお馴染みの由緒書きが立てられています「十ニ等級 八柱神社 旧指定村社鎮座地 豊田市折平町姓敷329番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、市杵島姫命、湍津姫命、田心姫由緒 元亀年中(1570-1573)の勧請には安政5午年(1858)、棟札に創建は貞享3丙寅年(1886)と記されている 古来は若宮八王子社と称した 明治5年(1872)9月村社に列する 昭和15年(1940)7月7日、社殿改修、社務所新築 同16年10月6日指定社となる 境内社の山神社は天福元巳年(1233)2月7日、琴平社は天保10巳亥年(1839)3月10日と棟札に記されている」西加茂郡誌に目を通す、折平八柱神社の記載はあったが祭神以外は記されていなかった鳥居の寄進年も大正9年(1920)寄進されたもの鳥居額は八柱神社社殿正面全景見上げるばかりの石垣と社殿に続く石段、上り口に一対の狛犬と手水鉢が置かれています手水鉢には配管から手水が注がれるようですが生憎と注がれていなかった石段前の狛犬は標準的なもの(年代未確認)入口から見上げる神門と拝殿神門と拝殿に架けられている額はどちらも八柱神社とあり、劣化もないことから近年改修を受けたのかもしれない社殿全景切妻妻入りで向拝を持つ拝殿と切妻平入の鞘殿がひとつに繋がったもので、鞘殿には千木と鰹木が付く拝殿の鬼には八柱の社名が入る大きな拝殿額拝殿や鞘殿は虚飾を廃したシンブルな外観ですガラス越しに見た本殿、造までは分からなかった祭神は天照大神と須佐之男命の誓約により生まれた五男三女神です鞘殿左の境内社由緒にあった琴平社や山神社はここに祀られている左から津島神社、琴平神社、大神宮社、秋葉神社、山神社、御鍬社、山神社の七社相殿琴平社はともかく、山神社が二社祀られてる、どちらが由緒にあるものだろうか相殿の左に一社だけ離れて祀られている石の社文字が刻まれているのだが全く読めない、これが由緒にある天福元巳年(1233)の山神社だろうかもともとこれらは神社合祀令にともない、集落に点在していたものが八柱神社に纏められたものと思われます神門から見下ろす境内右手の建物の用途が良く分からなかった農村舞台が多いこの辺り、これも農村舞台?と思いたくなるまるで城壁ここから西側の県道を越えた、折平山の東麓から続く尾根の高みには戦国時代に築かれた折平城址があるというその一帯の地名が折平町中屋敷、地名から嘗てこの辺りを収めていた豪族の居館があったことが偲ばれる三河志の折平城の項目には城主不明の記述だけで、築城年・築城主は不明社地西側に集会所のある広場と隣接しており、社地の斜面に殉国の碑が立てられています殉国の碑の先でどっしり聳える樹齢200年を越えるツブラジイの巨木太い幹は途中から二つに分かれ、そこから更に大きく枝を広げている樹高は目測15㍍以上あり、幹回りは約3.6㍍と見事な樹で、豊田市の名木に指定されている八柱神社創建 / 貞享3年(1886) 棟札の記録祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 津島神社、琴平神社、大神宮社、秋葉神社、山神社、御鍬社、山神社、不明社所在地 / 豊田市折平町姓敷329氏子地域 / 豊田市折平町例祭日 / 10月第4日曜日上渡合八柱神社から折平八柱神社まで車アクセス / 県道33号線北上し県道353号線に入り右側5分以内参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・八柱神社 (上渡合町)・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.18
コメント(0)
前回掲載した金剛寺や藤岡神社の鎮座する北一色地区から、車で北東に5分程の上渡合地区に鎮座する八柱神社を取り上げます鎮座地は県道33号線と県道352号線の分岐となる上渡合町大畑交差点から50㍍程南下した、飯野川左岸の標高232㍍程の山の中腹に鎮座していますこの地域は江戸時代には「加茂郡渡り合村」、天保期には「加茂郡渡合村」と呼ばれていた地域後に加茂郡は西加茂郡と東加茂郡に分けられた際、上渡合村は加茂郡から西加茂郡に編入され、豊田市編入により現在の豊田市上渡合町に至るようです上は県道33号線沿いから東方向の飯野川左岸の鎮座地で、社殿はこの山の高みに鎮座します飯野川右岸に社頭を構え、赤い橋を渡るとその先から急な石段が続きます社頭には一対の常夜灯とその先の右に社号標はありますが鳥居はありません常夜灯は大正13年(1924)7月寄進のもの常夜灯の少し先の左側に石柱が1本立っています上を見れば楔が打ち込まれ、貫の木鼻だけが残る明神鳥居の柱のようです右側の社号標は社名は八柱神社、大正9年に建てられたものその先に途中からポッキリ折れた柱と周辺には折れてしまった島木や笠木、貫が纏められていました何が起因してこうなったのか分かりませんが、柱の断面が綺麗な状態なので最近の出来事のようです橋を渡ると目の前に乱積された岩で作られた急な石段が上に向かって続き、その険しさに石段の前で立ち止まる手摺はないのでポケットに手なんか入れて登ろうものならただでは済まない石段の前の一対の狛犬は「ご安全に!」と呼び掛けているようだ右手に解説板と左手に石碑が建てられています石段付近の全景こうしてみれば石段の傾斜も分かりやすいのでは石段の上り口を守護する狛犬阿形は毬、吽形は…子持ちだろうか寄進年は未確認の狛犬の台座には井筒紋、下は橘の紋が刻まれている左側には辨財天が祀られていました由緒書きの内容は以下「十四等級 八柱神社 旧村社鎮座地 豊田市上渡合町井ノ脇105番地祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、市杵島姫命、湍津姫命、田心姫由緒 創建は明らかではありませんが、社蔵の棟札に奉建立 若宮一宇 貞享三丙寅年(1686)3月15日とあり、再建とも考えられている往古は若宮八王子社と称し産土神として崇敬されている明治6年村社に列し、同12年八柱神社に改称例祭日 10月社殿 本殿折屋造り 0.3坪 幣殿 3.4坪 拝殿 4.5坪 社務所 5坪境内坪数 675坪」とありました余談になりますがこの辺りの比較的狭い範囲の集落には八柱神社が点在しています山間で古くから人が住む小さな集落が点在しているのは分かりますが、理由は分からないが八王子を祀る神社が多いことに気付くはずです、藤岡神社も大正以前は八柱神社でした講釈ばかりで、これ登らなきゃ話は進まない足元を確かめながら一段〃行ってみようか角が取れた石が多いので踏み外しに要注意この社叢には桧が多いようですね夜間も参道脇の街路灯が足元を照らしてくれて…というか夜ここを登るのは勇気がいるだろう拝殿が見えてきた長い距離の石段ではないものの、傾斜があって手摺がない不規則な石段は気が抜けない無事に到着目の前の建物は拝殿でいいと思います拝殿から本殿の覆殿の眺め切妻瓦葺の四方吹き抜けの平入の建物で、覆殿と祭文殿も兼ね備えた建物になっています本殿域の玉垣は昭和3年手前の常夜灯の竿には明治の元号と、更に社名も刻まれていますが、八柱でも八王子とも読み取れない社名が刻まれているようです覆殿前から社殿の眺め正面が八柱を祀る本殿と左右の覆屋の中に其々2社が祀られていますが、社名札は掛けられていない様でした本殿は板宮造りの一間の向拝と階段が付くもので解説には折屋造りとある右の二社、社名は不明左の二社、こちらも社名札がパッと目見当たらなかったこうして写真を纏めている際中に覆屋の棟の先に社名の書かれた木札がある事に気付くその目線で他の写真を見返して見るが木札はこの一枚だけのようです拡大しても何が書かれているのか読み取れなかった恐らく全ての社はこうした位置に社名札が掛けられていたのかもしれませんこれを書いている段階で由緒書きの内容に満足してしまったため、地史まで調べなかったが、ひょとすると境内社が記されているかもしれません今の時点では不明社として、何か分かれば追記する事にします参拝を終え覆殿右手から全体を眺める境内はここから右に下りの参道があるようです 下から見た際にこの参道口は見当たらなかったが、あの石段を上らずに境内に通じているようです参道左側の斜面に手水鉢が置かれ、清水は絶え間なく注がれているようです鉢には寄進年が見当たらなかったが、注がれる水は配管で上の方から引かれているようです鉢の脇から上に続く道があり配管を追いかけて見ました少し先の山肌に小さな湧き水が溜まる場所があり、配管の先はここに繋がっていました周辺はシダが生い茂っており、木漏れ日に透かされて鮮やかな緑を魅せていますさて、ここからどの参道から下に降りるか下りの石段は怖いけれど、ここは確実に戻れるこの道を戻る事にしよう真っすぐ下向きに降りるのは避けたい、上り以上に要注意だ飯野川の流れも春めいて見える八柱神社創建 / 貞享3年(1686)再建祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 辨財天、他不明社4社所在地 / 豊田市上渡合町井ノ脇105氏子地域 / 豊田市上渡合町例祭日 / 10月第2日曜日藤岡神社から八柱神社まで車アクセス / 県道350号線を南下北一色町内で左折し県道33号線を北上5分参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・藤岡神社・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.17
コメント(0)
前回は北一色町川原地内に鎮座する金剛寺を紹介しました今回は同じく北一色町山洞地区に鎮座する藤岡神社を掲載します鎮座地までは車で移動する必要もなく金剛寺の前を横切る県道350号線を東に越えて、田んぼの中の農道を歩いて行けば社頭に至ります県道から東を見ると鳥居の姿も見えるはずですあの鳥居まで徒歩5分もあれば辿り着ける距離にあります社殿は鳥居の先に見えている緑豊かな杜の中腹に鎮座します杜の手前に靖国鳥居が建てられ、鳥居をくぐり飯野川に架かる神橋を進むと藤岡神社の社地になります社頭から境内の眺め鳥居右には「村社藤岡神社」社号標が立てられています現在の藤岡神社は、かつて別の名前で呼ばれていた可能性があります寄進年を確認するために社号標の表と裏を見る上の写真は大正時代に寄進された社号標の「藤岡神社」と刻まれた表側下の写真は社号標の裏側で社名は「八柱神社」と刻まれ社名が異なっています新橋を渡ると杜の中に石段が現れ、その先に拝殿らしき姿が見えてきます石段の左手に解説板らしき姿が見えます解説板の内容は以下「九等級 藤岡神社 旧指定村社鎮座地 藤岡町大字北一色字山洞40番地祭神 天照大神と素戔嗚尊が天の誓約を為した時に生じた八柱の神 即ち、日本書紀に拠れば、正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、 天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命(以上天照大神の御子) 田心姫、湍津姫命、市杵島姫命(以上素戔嗚尊の御子)の八柱を祀る由緒 明徳4年(1393)、猿投「東の宮」の摂社「御子の宮」をこの地に遷す 「東の宮」の神主 武田恒家供奉して「八王子の宮」と称し、猿投山東方の総鎮守「小猿投」とも呼ばれた 明治五年八柱神社と改め村社となる 明治45年(1907)指定社となる 大正12年(1923)藤岡神社と改称 昭和63年(1988)に神撰所、平成12年(2000)に社務所新築社殿 藤岡地区最古の神社本殿は二間社・流造・檜皮葺で希少性を誇っている社殿等面積 64.77坪、境内坪数 1306坪例大祭 毎年10月神賑行事 飾献馬、棒の手演武、火縄銃奉納射撃、巫女舞氏子数 208戸」とあるなるほど、社号標の社名の違いが腑に落ちたそれにしてもこの辺りの神社にはこうして詳細に書かれた由緒が多く、モヤモヤを晴らすのに調べる必要がなく個人的にありがたいスッキリした所でこの石段を上る事にします石段脇の常夜灯の寄進年は大正10年(1921)石段を上り詰めると蕃塀のように拝殿が迫り、その先に社殿が見えています拝殿右から境内に回り込むと棒の手顕彰碑が建てられています碑文から一部抜粋した内容・一色の棒の手は織田家臣の本田游無が創始した流派「見当流」・天文年間中根城築城時に地元民に祝意を表すために棒術を披露し、地元に広めた・「見当流」は名古屋市内を中心に広まり、熱田神宮へも奉納、品野をはじめ尾張三河にも広まっていった・豊田市八草・猿投町・足助町・藤岡町一帯で「見当流」が栄えている・北一色の棒の手は明治4年生田芳蔵他3名にはじまり、氏神様の藤岡神社の大祭では献馬と共に奉納されている顕彰碑から社殿の眺め拝殿正面から見通した境内は広さを感じなかったが、こうして見るとかなり広い境内を持つ神社です社殿は左に社務所、正面の一段高く積まれた本殿域に神門・四方殿・祭文殿・本殿と連なり、社殿右の斜面には境内社が祀られています境内左の手水鉢、本殿後方の裏山から湧き出る御神水が注がれている境内左から拝殿から顕彰碑方向の眺め拝殿と書いてはみたものの、この佇まいから岩倉神社の農村舞台にも似ている拝殿内にも由緒が掛けられていますが、内容は石段脇のものと同じ内容のものでした拝殿の築年代は分かりませんが、小屋組みは一本物の無垢材がふんだんに使われています境内から神門・四方殿の眺め神門前の狛犬(寄進年未確認)格子戸が閉ざされた神門の前で参拝となります神門の前に建てられた四方殿の全体は見通せませんが、神楽殿や拝殿のような建物に見えます境内右の境内社手前の六社は左から金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社が祀られていますその後方の斜面には朱の社と石の社、石標が幾つか立てられています上は殉国之碑、下は覚明霊神更に斜面を登ると上の写真の大己貴大神、少彦名大神と、石の祠がある下は社名札がなく分からないが、この辺りは御嶽講の神域なんだろうここまで登ると本殿域を望めます左が神門の先に建っているのが四方殿で、その先が祭文殿・本殿何れも新しいもので近年補修されているようです四方殿は入母屋瓦葺の四方吹き抜けで、床板や縁板、屋根を支える柱と梁にも真新しい肘木が付けられています藤岡神社の四方殿・祭文殿・本殿は令和4年(2022)に大改修が行われたようですその際に棟札が見つかり、寛文11年(1671)頃の熱田の大工で猿投神社の社殿も手掛けた藤原朝臣中尾勘右衛門が、当神社の四方殿・本殿を建てたと記されていますまた、祭文殿(赤い屋根)から明治43年(1910)の棟札など見つかったようです豊田市内に鎮座する神社本殿としては、室町時代中期の足助八幡宮本殿を除くと、寛文6年(1666)の熊野神社本殿(月原町)、元禄15年(1702)の川原宮謁磐神社本殿(御蔵町)に次ぐ古いものとなるようです本殿は中央に柱のある二間社流造で、令和4年の修復時に檜皮葺から銅葺屋根に変えられたようです詳細は見えませんが脇障子が付くようで、その前に白い狐の姿が見られます山間の神社にありながら、八王子を祀るに相応しい立派な本殿です接続する祭文殿は四方吹き抜けで入口側に格子戸が付いているようですここから拝殿と境内の眺め鬱蒼とした杜に包まれていながら、陽射しが降り注ぐ明るい境内ですそれにしても拝殿の趣は農村舞台のように見えてなりません調べて見ると豊田市には約31カ所の農村舞台が現存するようですしかしその中に当神社の名は見られない事から、やはり農村舞台ではないようです参拝を済ませ石段の降り口から鳥居方向を見下ろす鳥居の先には田んぼが広がり、前方に金剛寺も良く見える藤岡神社創建 / 明徳4年(1393)祭神 / 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫、湍津姫命、市杵島姫命境内社 / 金刀比羅社、秋葉社、稲荷社、津島社、若宮社、伊雑社等所在地 / 豊田市北一色町山洞40金剛寺から徒歩アクセス / 県道350号線を越え田圃の農道を北上徒歩5分参拝日 / 2024/03/07関連記事 / ・金剛寺・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.14
コメント(0)
豊田市北一色町向谷下の春埜山神社から、県道350号線を2分程北上した北一色町川原地区山間に田圃が広がる長閑な田舎の風景が広がります今回は町内を南北に続く県道脇の高台に鎮座する菩提山金剛寺を掲載します写真は県道東側の田圃から金剛寺と後方の猿投山を望む小高い丘に鎮座する金剛寺、こうしてみると戦国時代の平山城か館の様な趣です斜面には多くの樹々が植えられ、その多くが桜のようです3月7日に訪れた時点では彩りはありませんでしたが、今頃はピンク一色に染まっているのではないでしょうか県道から金剛寺門前を眺めるウグイスのさえずりを聞きながら参道に向かう菩提山金剛寺寺号標石段の先にはフラットな参道が本堂へと続きます境内の桜は枝垂れ桜が多いようです左手の森の斜面に祠を見付けたのでそちらに向かて見ます杜の斜面に作られた石祠祠の両脇と天井は一枚岩、後方は小振りの石が積まれた壁になっていてまるで横穴式の古墳のようにもみえてくる祠の中には一体の石像が安置されていました岩座に座り左手に巻物を持つこの姿は役行者なんだろうか金剛寺伽藍石垣が積まれその上に築地塀が築かれ境内を囲む境内左に金剛寺を象徴する見事な枝振りの枝垂れ桜が聳えていますこの桜が満開を迎えた時、金剛寺はさぞかし艶やかな姿になるのだろう菩薩山金剛寺について大正15年(1926)に出版された西加茂郡誌を調べたところ以下内容でした「菩薩山 金剛寺 創建大永元年(1521) 境内反別四反三畝二七歩」曹洞宗の寺院で本尊は分かりませんが釈迦牟尼仏だと思われますまたWIKIには天保期(1831-1845)から明治初期まで、金剛寺において寺子屋が開かれていたとも伝わるようで、享保19年(1734)に雲興寺の霊源陽沢和尚により開山とも云われ、雲興寺の末寺でもあるようです境内のシダレザクラ霊源陽沢和尚手植えによるものとされる樹齢300年の枝垂れ桜です太い幹の大きなコブから伸びる枝は支柱なしでは姿を保てないほど四方に広がっています満開の桜、一度見たいものです例年は3月下旬から4月上旬にかけて見頃を迎えるそうです、まだ間に合うかなぁ豊田市指定文化財(天然記念物)昭和49年2月に指定された樹高は10㍍のエドヒガン桜の一種という本堂伽藍は寄棟瓦葺の平入で右手の庫裏と繋がり、左に毘沙門天、本堂左の薬師堂が主な伽藍本堂の金剛寺の額地蔵堂と毘沙門天堂、奥に見えているのが薬師堂になります左から聖観世音菩薩、如意輪観音、庚申塔、当山鎮守毘沙門天薬師堂西加茂新四国八十八ケ所霊場の七十番札所になるようです本堂の鬼には丸に立葵の紋が入っています参道左側の車道から眺める金剛寺この道の先は参拝者駐車場に至ります満開のソメイヨシノが連なる光景は綺麗ですこうした山間の一本の桜が魅せる美しさも引けをとらないものがあるカタクリの開花に合わせて訪れたので桜はまだまだでしたが、来年はこの桜の開花に合わせて訪れてみよう金剛寺宗派 / 曹洞宗山号 / 菩提山開山 / 大永元年(1521)本尊 / 不明参拝日 / 2024/03/07所在地 / 豊田市北一色町川原278-3春埜山神社から金剛寺、車アクセス / 県道350号線を北上約2分関連記事 / ・春埜山(はるのさん)神社 ・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.13
コメント(0)
春埜山(はるのさん)神社鎮座地は、猿投山の東麗の矢作川支流飯野川の右岸の山間に伸びる県道350号線沿いに位置します江戸時代には三河吉田藩の藩領で加茂郡一色村と呼ばれ、明治には北一色村に改称その後、加茂郡が西加茂郡と東加茂郡に分割された際、当地は西加茂郡に編入されますその後も西加茂郡藤河村、藤岡村を経て現在の豊田市北一色町向谷下(むこうやげ)となります個人的に豊田市へ編入以降、矢作川周辺の住所だけ聞いても場所のイメージがつかなくなってしまったしかし住所は変われど長閑な環境やランドマークは今も変わらない神社は県道から西側に少し奥に入った先に社頭を構えています車で走っていると気付かずに通り過ぎるかもしれない社頭への幅員は狭く、社標右手の駐車場に入るには普通車だと厄介かもしれませんエンジンを切ると、春めき始めた木立からウグイスの声が聞こえてきます今年初めて聞いたウグイスのさえずりはここ春埜山(はるのさん)神社だった社頭全景右手に社標、神明鳥居の先に拝殿とこぢんまりとした神社です春埜山(はるのさん)神社社標は昭和60年(1985)健之のもの右奥に見えているのが参拝者駐車場春埜山(はるのさん)神社境内に由緒は見られず、情報として書くべきものが見当たりませんなので写真をもとに境内の紹介だけになります境内から鳥居の眺め鳥居の寄進年不明、拝殿右に一つの石仏が安置されていました青面金剛だろうか製作年代は未確認ですが、昨日今日寄進されたものではないようです切妻造の木造平入拝殿左側の社務所兼住居と思われる建物と廊下で繋がっているようです拝殿額「春埜山神社」春埜山と聞くと静岡県の秋葉神社下社から東に小一時間ほど走り、天竜川左岸の山深い場所に鎮座する神仏習合の名残をとどめた大光寺を思い出しますその昔、山道を求め四駆で訪れたことがあり、興味深い寺だった事を記憶しています行基が開いた古刹で、春埜山は秋葉山、光明山と並び、遠州三山と称され、大光寺のある春埜山と秋葉神社本宮のある秋葉山は対をなすものと云う今ほど気軽に写真に残せる環境でもなかったので、改めて訪れて見たい所です果してこの神社が春埜山大光寺と関りがあるのか根拠はなく、まったくの個人の妄想でしかない拝殿から本殿域の眺め祭神は分かりませんがこちらで参拝させて頂きます拝殿右側から本殿域を眺める本殿は5本の鰹木、内削ぎの千木がつく神明造で、本殿の両脇に摂社が祀られています本殿域右手に小さな池があり、本殿域周辺は石が組まれ、庭園の様に手入れされていました神社についてなにも分かりませんが、昭和中期から後期の航空写真を見る限り、神社の姿は見られません現在の社殿が建てられたのは、社標に刻まれていた昭和60年(1985)くらいのことかもしれません春埜山(はるのさん)神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明例祭 / 不明所在地 / 豊田市北一色町向谷下851-3参拝日 / 2024/03/07香嵐渓臨時駐車場から春埜山神社まで車アクセス / 香嵐渓臨時駐車場から西へ力石交差点で右折、県道350号線を北上約25分関連記事・石清水八幡神社・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.12
コメント(0)
神宮山十王寺から国道420号線の足助八幡宮前信号を足助大橋方向へ橋の手前に巴川左岸沿いに続く道があるので足助警察署方向に進みます名古屋方向からだと足助大橋を渡ってすぐ右折です今回掲載する「石清水八幡神社」は国道240号線南側の足助町宮平地区に鎮座します因みにグーグルマップの石清水八幡神社の位置・所在地情報は間違っています石清水八幡神社社頭全景参拝者駐車場はなく、警察署も近いので路駐は避けるが得策社地右側に宮町駐車場の立駐があるのでここに駐車して歩くのが賢明でしょう神社は三叉路交差点付近に西向きに社頭を構えています社地は杉の杜に包まれているのでこの時期は厄介か脱線します還暦を過ぎて人並みに花粉症になったみたい相手の正体は分からないがどうかするとおかしくなる長く続いたマスク生活で柄にもなくデリートな体質になったんだろうか宮町駐車場と側道の間の三角形の社地に玉垣で囲った境内を持つ石清水八幡神社鳥居や狛犬といったものはなく、一基の石灯籠と本殿、左側に石の祠が祀られ、社標は少し離れた西側に建てられています苔生した境内全景本殿は一間社流造で社名札もしっかりと架けられています神社の創建・由緒・祭神について神社庁、地史どちらも情報は得られなかった足助八幡宮も近い事もあり、境外社なんだろうかと妄想を膨らせたくなる八幡神社と付くのだから祭神は恐らく……応神天皇石清水八幡神社となると県内に石清水八幡神社は少なく、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡神社宮から勧請されたものなんだろう境内右の石灯籠玉垣、燈籠・社標などの寄進物は昭和のもので創建時期は意外と新しいのかも本殿左奥の杉の根元に祀られている石の祠文字が刻まれていますが読み取れず巴川側道の社標の背面には昭和10年(1935)と刻まれている足助トンネルができる以前、渋滞する国道を避けるため巴川沿いのこの道を利用したものですかつてはこの側道沿いに大きな入浴施設(足助温泉だったナ)があり、スキーやキャンプの帰りに時間調整も出来ました今はそんな時一休みしていく施設がないのが少し残念です石清水八幡神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明例祭 / 不明所在地 / 豊田市足助町宮平56-1参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・神宮山 十王寺・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.11
コメント(0)
4/7週間天気予報ではあまりいい予報ではなかったが、予報は外れ暑いくらいの好天となったならば、満開の桜を愛でに春祭が開催されていた覚王山日泰寺まで出かけてきました千種区法王町の覚王山日泰寺東側の道路からの眺め、見上げれば快晴の青い空を背景に満開の桜と五重塔日本らしい春の光景が広がっていましたここから揚輝荘も近い事から覗いてみることに揚輝荘は松坂屋の初代社長の伊藤次郎左衛門祐民(1878-1940)により昭和初期に建設された郊外別荘大正から昭和初期にかけ覚王山一帯の1万坪に庭園と建物が造られ、当時の財界や文化人の交流の場となっていました南園と北園に分けられた敷地内に歴史的建造物に指定される五棟の建物があり、池泉回遊式庭園のある北園は無料(施設内・南園は除く)で入れますこの北園の一画に稲荷神社がありますが、これまで縁もなく今回初めて訪れました園内に入ると右側に池泉庭園があり、芽吹き始めた樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました正面にある建物は三賞亭と呼ばれ、大正7年に茶屋町(現在の中区丸の内2)の伊藤家本宅から移築した茶室伴華楼の右手に鳥居の連なる豊彦稲荷社が鎮座しています松坂屋初代社長が築いた別荘内に鎮座する豊彦稲荷社の社頭鳥居から本殿の眺め財力を示すかのような個人所有の神社鞘殿全景豊彦稲荷社由緒「祭神 宇迦御魂神御神体 白狐祭日 初午祭(4月上旬)由緒京都仙洞御所に祀られていた豊春御所稲荷を本社とし、宝永5年(1708)京都大火を機に翌年、市井の岡崎の里(現在の京都市左京区岡崎西福ノ川町)へ遷されましたそれを京都に進出した伊藤屋(松坂屋)が、寛延2年(1749)に豊彦稲荷として仕入れ店内に分祀その後伊藤屋は、尾張や江戸で繁盛したのは、神慮の然らしめるところと謝し、また万一の粗略を惧れ、天明元年(1781)に豊彦稲荷を岡崎の本社へ遷しました大正年間に御所稲荷と豊彦稲荷の祭事を兼務していた宮司が没し、後任がいないまま経過したのを憂慮した伊藤家十五代祐民が、社殿・調度品を含めて、揚輝荘内に遷しました現では、年1回、4月上旬に神職・関係者の参列にて、初午祭が斎行されています御神徳五穀豊、商売繁盛、殖産興業、開運招福など現在では、家内安全・学業成就、縁結び、疫病退散など様々な願いを叶えてくれる神様として信仰を集めています」伊藤家のルーツは織田信長に仕えていたようで、揚輝荘の南方に城山八幡宮が鎮座しますが、そこには織田信秀が築いた末森城址がありますが、城山八幡宮西側の県道30号線を越えたあたりに信秀を弔うため桃厳寺が建てられ信秀の廟所があったようです後に桃厳寺は本山交差点から南の四谷通りに遷り、信秀の墓石と五輪塔もそちらに遷されています (上は泉龍山桃厳寺(千種区四谷通2-16)の信秀廟所)信長に仕えた子孫がこの地に揚輝荘を造ったのも何かの縁だろうかまた、由緒には記されていないが揚輝荘に稲荷社が遷座したのは昭和初期の事のようです 稲荷社と伴華楼は古瓦を使った瓦土塀で隔てられています鞘殿から鳥居が連なる社頭の眺め豊彦稲荷社創建 / 寛延2年(1749)祭神 / 白狐白雲橋と三賞亭(有形文化財)稲荷社社頭の正面の池に架けられた橋両側に切石の石垣に架けられた緑付き瓦葺きの橋で、北側の入口天井には龍の天井絵や無垢材から削り出した擬宝珠など贅が尽くされている大正7年(1918)に建てられた白雲橋は修学院離宮の千歳橋を模したものという入口の龍の天井絵は冠を被った女性の横顔が隠されているようで、それが見つかったのは2012年と最近の話の様で、2012年に新聞でも取り上げられたようです橋の内部は立ち入り不可なので真下から絵を見上げる事はできません天井に描かれている女性の横顔携帯を精一杯手を伸ばし、撮れた龍の写真を天地逆にすると髭の辺りに女性の横顔が現れます白雲橋と豊彦稲荷社庭園はモミジが多く見られ、この時期を彩る桜は意外に少ない、紅葉の秋が一番映えるかもしれません揚輝荘北園訪問日 / 2024/04/07所在地 / 名古屋市千種区法王町2-5-21公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、一番出口から北へ10分以内それでは日泰寺山門から境内の桜を眺め、山門南で開かれている春祭に向かい食べ歩きを楽しもうか関連記事 ・泉龍山桃厳寺・城山八幡宮
2024.04.08
コメント(0)
紅葉の時期に足助町を通りかかると道路は渋滞グリーロード入口の力石ICまでの道程の長いことついつい足助町内を避けてしまいがちです、宿場町城下町でもある足助には、宿場の名残を留めた町並みや古くからの寺社など見所は多いまた紅葉やカタクリ、清流巴川が町内を流れ自然豊かな町でもあり、そうした中を歩く東海自然歩道も整備されています今回掲載する十王寺は、先に掲載した足助八幡宮の両部鳥居の向かいに鎮座しています神宮山十王寺は愛知県豊田市足助町に鎮座する真宗大谷派の寺院寺標の側面に「寛永8年石平道人正三和尚開基」とある本堂は木造切妻瓦葺の平入で一間の向拝を持ったこぢんまりとした佇まい国道沿いに境内入口はありますが、周囲が有料駐車場ばかりのなか、参拝駐車して良いものか定かではありません因みに自分はずっと下流の無料駐車場から散策がてら歩いて訪れました境内左の十王寺解説は以下のようなものでした十王寺は寛永年間(1624~1645)、鈴木正三和尚により創建された正三和尚は、天正7年(1579)足助郷則定城主忠兵衛重次の長男として生まれ、徳川家の旗本として大坂夏の陣に戦功をあげた武将42歳の時、家督を弟に譲り自らは出家風飡無宿の禅僧となり宗教自由人として庶民に仏教の裾野を広げるため、仮名草子本(二人比丘尼、因菓物語)を書き、近世文学の基となったことでも評価の高い人物である本堂に安置される木造阿弥陀如来立像(室町時代前半から中頃の制作)は別名「またたき如来」と呼ばれ、土地には伝説も伝わるまた、足助八幡宮境内にあった神宮寺の本尊、木造薬師如来座像は高さ90㌢と小さいが鎌倉期の優れた作品とされ、他に江戸時代初期のものとされる木造十王像を所蔵し何れも文化財の指定を受けている因みに「またたき如来」の伝説とは以下のようなものらしい「その昔、不届き者により如来像が盗難にあったある晩信者の夢枕に如来像が現れ、「京都にいるから迎えに来てくれ、来てくれたらまたたいて合図する」とのお告げがあったそうです信者が京都に迎えに行ったところ、如来像がまたたいて合図され無事に足助にもどった」と云うもの当日は本堂の扉が閉じられ、人の気配もなく「またたき如来」の姿は見られなかった運が良ければ拝むことができるのかも境内左には解説板、右には古い石塔や石仏が並び小さな社が祀られています遠目から霊神碑が立ち並ぶ御嶽神社かなと思っていました、しかし山丸三の紋も見当たらずどうやら御嶽神社ではなさそうですどの石塔も年月が経っているようで、確認できたもので「三界万霊」と刻まれた塔に寛文2年(1662)の元号が見られました先の解説から創建が寛永年間(1624~1645)とあるので、創建後ほどなく造られた「三界万霊塔」です煩悩にまみれ、戦に明け暮れた戦国の武将から、風飡無宿の僧となった鈴木正三和尚彼は欲界・色界・無色界の有情無情の精霊を供養するために、三界万霊塔を建てたものかもしれません神宮山 十王寺宗派 / 真宗大谷派本尊 / 木造阿弥陀如来立像創建 / 寛永8年開基 / 石平道人正三和尚所在地 / 豊田市足助町宮平41参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・足助八幡宮・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.07
コメント(0)
前回掲載した足助神社に続く今回は、西隣に鎮座する「足助八幡宮」を取り上げます写真は国道420号線から東方向の足助八幡宮と足助神社の杜の眺め足助八幡宮社頭全景国道沿いに社頭を構え、木造両部鳥居のすぐ先に蕃塀と社殿がある社頭右に「足助八幡宮」の社標と鳥居の前に個性的なフォルムの狛犬が見えますその狛犬台座に梅丸講と刻まれた狛犬寄進年代は見ていませんが、素朴で愛嬌のある顔つきで、頭の上には丸みのある宝珠に近い角を持っています鳥居の額は「八幡宮」三つ巴が社紋と見えます鳥居をくぐった左のこの建物は神仏習合時の名残「八幡宮の鐘楼」解説は以下「この足助八幡宮は、明治初年まで境内に神宮寺があったこの鐘楼は神宮寺のあった名残りである明治維新の神仏分離の際、鐘は三重県柿野町来迎寺に売られ、現在は県文化財に指定されている豊田市教育委員会」とある神仏分離により多くの社寺がこうした道を辿りましたしかし、今も鳥居のある寺や多宝塔のある神社など、神仏習合の形態を残すものが存在しますその分かれ道が何だったのか、時々考えることがあります足助八幡宮社殿全景手前が拝殿、奥が社務所、社務所で隠れていますがその奥には境内社があります境内社はこの他に拝殿右側にも祀られています控柱を備えた石の番塀平成14年(2002)愛子様誕生記念として寄進されたもの番塀横の境内社4本の鰹木と外削ぎの置き千木がのる一間社流造の社社名札がなく社名は不明左手の杉の巨木足助八幡宮のスギ樹齢500年とも云われ、樹高45.5㍍の巨木で市指定文化財(天然記念物)に指定されている境内にはこの他にもイチョウの巨木などが聳え、神社の歴史の長さを物語っている境内に入った左に手水舎と神馬像、境内社が祀られている御足宮「当宮に伝わる縁起には足腰の病や様々な霊験が記されている足助は信州への中継地として栄えた宿場町行き来する人々は、この先の険しい街道を前に旅の安全を祈願、また安全にここまでこれたことにたことに感謝を捧げた足・交通・健康など御神徳顕著な神社として崇敬されている」草鞋の上に足神の石標が立てられている手水鉢の龍と蛙足助八幡宮概説「天武天皇の白鳳2年(673)創建と伝える古い神社神宮寺のあった名残りの鐘楼もあり多くの文化財を保存している<八幡神社本殿>文正元年(1466)十一月の再建で、桧皮葺三間社流造である妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示しており、特に向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異で珍しいで珍しいとされるこの地方では規模も大きく、稀に見る神社である<扁額 鉄砲的打図板額>慶長17年(1612)三河国岩神村(足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したものである八幡宮の社前で、日の丸の扇を的にして老翁が射撃する図が、大和絵の手法で描かれている鉄砲を描いた古絵馬(扁額)は全国でも他に三枚しか現存しないものである」…ここでは祭神や境内社についての具体的な解説は省略されています拝殿正面全景切妻平入で平側の三間の向拝に唐破風が付く、拝殿と左の社務所、右の建物は渡廊で繋がっています唐破風の下に梵天と竹竿の先端に藁で作られた斧のようなものが飾られている呼称は分からないがこれも梵天なんだろうか拝殿脇に祭神、創建の概要が記された案内板がありその内容は以下「足助八幡宮御創建 天武天皇白鳳2年(673)御祭神 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱本殿 文正元年(1466)再建・重文」 とあった上拝殿前の石灯籠から社務所方向の眺め、燈籠の寄進年は読み取れなかった下拝殿軒下に金的を射抜いた多数の猛者の名が記された額が掛けられている拝殿右の境内社手間から津島社、御鍬社、稲荷社津島社から足助神社拝殿左方向を進むと足助八幡宮本殿側面を良く見渡せる場所がありますそこに下の解説が立てられています足助八幡宮本殿「足助八幡宮の創建は、天武天皇の白鳳2年(673)と伝わる現在の本殿は文正元年(1466)11月に再建されたもの屋根が桧皮葺で、三間社流造(正面両端の柱間が三間で、切妻屋根の前面が背面より長く延びる神社の建築様式)の本殿で、室町時代の特色をよく示している愛知県内にあるこの時代の神社建築としては、規模の大きなもの」とある檜皮葺や茅葺の苔むした屋根は趣があって個人的に好きですが、こうして見るとそろそろ葺き替えの時期が迫っているような手水舎の脇にあった概説の「妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示し、向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異」と記されていたが、ここからその特徴を見る事は出来ません上拝殿全景下社務所から右の境内社全景左の入母屋妻入りで一間向拝が付くこの鞘殿は金毘羅社中の社は見通せなかったその右に祀られる三社左から流造の塩窯社、中央の6本の鰹木、内削ぎの千木が付く神明造の社が秋葉社その右の流造の社は天満宮、いずれも創建時期は不明境内南側に県指定文化財「足助の棒の手」の記念碑足助の棒の手は近岡町、富岡町の二つの地区が江戸時代、明治時代に継承された五反田地区の三つがあるようで、流派は其々違うようですが、いずれも10月の足助祭りで足助八幡宮に奉納されるようですこの祭りでは山車や火縄銃の空砲撃ちなど見られるようです足助八幡宮創建 / 白鳳2年(673)祭神 / 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱境内社 / 不明社、御足宮、津島社、御鍬社、稲荷社、金毘羅社、塩窯社、秋葉社、天満宮例祭 / 10月第2日曜氏子地域 / 足助町所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・足助神社・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.05
コメント(0)
足助神社は香嵐渓で知られる足助町の巴川左岸沿いに鎮座しますこの区間は以前国道153号線と国道420号線の重複区間で、足助バイパス完成後は香嵐渓の入口とも云える足助大橋を渡ると国道420号線となります以前は混雑する区間でしたが、バイパスの完成によりスムーズに町内を通り抜けられるようになった写真は巴橋から西方向の眺めで、国道右に続く玉垣と社叢は足助神社、足助八幡宮の鎮座地になります一つの社地に足助神社、足助八幡宮が横並びに鎮座し、国道沿いにそれぞれの社頭を構えていますが、境内に入れば二社を隔てるものはありません右手は豊田市役所足助支所の有料車駐車場駐車場前の足助周辺観光マップ周辺には紅葉以外にも香積寺や足助宿の趣が残る町並みはじめ、飯盛城や足助城など複数の城跡が残る歴史の町紅葉やカタクリの群生が見られる飯盛山には、鎌倉末期の武将足助次郎重範の本城もあった(写真は2024/3/7のもので見頃となったのは3/24でした)国道から足助神社社頭の眺め右に足助神社社標があり正面の神明鳥居の先が足助神社社殿境内に入ってすぐ右側に雁塚と呼ばれる一つの石と石塚の由来が解説されています「牛吉さんが、置き忘れた弓で矢を放ったところ、的を外れて田圃にいた雁の雄を殺してしまったその翌日から田圃には雌の雁が訪れ、雄がいない悲しさから鳴き続けたという夜には殺された雁が枕元に現れるようになり、雁の呪いから逃れるため僧となり、庵を結んで雁の菩提を弔う日々を送った雁を射殺してから23年を経た9月23日、辞世の句「先だちし雁や浄土の道しるべ」残し急死したという奇しくもその日は牛吉さんが雁を射殺した日だったという」雁は一度つがいになると一生添い遂げ、一方が死んでも新たに相手を迎える事はないという足助神社境内全景石造神明鳥居と一対の狛犬、常夜灯があり、右側に手水舎があります足助神社の創建は新しく明治35年(1902)で祭神は足助次郎重範を祀る神社カタクリの群落や紅葉で知られる飯盛山には、足助七城のひとつ飯盛山城があった鎌倉時代、足助重秀が築城した城で尾張・三河・信濃を結ぶ交通の要衝に建てられた足助氏の本城で、七代足助重範の死後は足助氏の勢力は衰退し全国に散っていったという後に尾張・三河を目指した甲斐の信玄もこの道筋も選択肢に入っていただろう事実、この道を進んだ根羽村の少し先には信玄坂や信玄塚などが残る足助神社建立の発端は明治24年(1891)に明治天皇から正四位を贈られたことにあるようです明治26年(1893)に熱田神宮が神明造に建て替えられた際に摂社の一つを譲り受けた明治35年(1902)に東加茂郡の郡社として神社が創建された昭和8年(1933)に従三位を追贈され、顕彰運動も活発化し、縣社、別格官幣社に昇格させる計画もあったという昭和18年(1943)には新たな社殿の造営も行なわれたが、敗戦に伴い造営は中断し運動も立ち消え、元の場所に遷座したという鳥居の手前左で足助八幡宮と繋がっています拝殿を守護する狛犬猫足の台座には昭和9年(1934)の寄進年が刻まれていました境内は年輪を重ねた大杉や大楠が聳え、背後には巴川が流れています手水舎と懸命に働く龍の姿足助神社「元弘の変(元弘元年-1331)に後醍醐天皇に味方して、笠置山(京都)篭城軍3千人の総大将となった足助次郎重範公を祀っている重範は飯盛山城を本城とした足助氏の惣領で、弓の名手として名高く、笠置で強弓を以って奮戦する様子が「太平記」に名文で書かれている落城の際、捕われて、翌年京都六条河原で斬首されたが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀られるようになった 豊田市教育委員会」社殿全景切妻妻入り拝殿に翼殿が付いたもので翼殿から透塀が本殿を囲むもの棟の鬼の紋は遠目に桐や葵の様に見えるが三河蔦と思われます意匠を控え、白壁と木の色合いだけの落ち着きのあるシックな佇まい足助神社拝殿額拝殿から本殿域の眺め拝殿の先は屋根の付きの土間が本殿に続く、土間と云うより幣殿と呼んでもいいだろう本殿は神明造とされるが、棟持ち柱が見られないので後に建て替えられていそうです拝殿左側から忠臣足助氏の碑と本殿の眺め本殿は一間社流造のようで、外削ぎの置き千木と3本の鰹木が載せられています大棟には三河蔦の紋が入れられています足助重範が鎮まる本殿全景拝殿同様装飾を控えた落ち着いた外観の本殿拝殿から社頭の眺め鳥居は大正4年(1915)寄進のもの足助神社創建 / 明治35年(1902)祭神 / 足助重範境内社 / 例祭 / 4月第2日曜氏子地域 / 所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事・西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台 ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.04
コメント(0)
3月7日香嵐渓にカタクリを見に出かけた際、国道153号線沿いの西中金駅舎と岩倉神社神社に立ち寄って来ました今回は名鉄三河線旧西中金駅駅舎とすぐ西側に鎮座する岩倉神社・岩倉神社農村舞台を掲載しますまず上の地図をご覧いただきます左は昭和34年頃の当地と現在の比較で西中金駅と岩倉神社をマーカーで示してあります国道153号は古来、伊那街道(塩の道)と呼ばれ、中山道の脇街道として尾張や三河から信州や美濃地方に塩や海産物を運び、帰りには山の産物を運ぶ重要な街道でした当時の運搬は主に馬に依存していた事から中馬街道と呼ばれ、街道沿いの宿場町には馬の水飲み場が設けられ、紅葉で知られる香嵐渓のある足助も足助宿として古くから賑わっていました物流の要衝なので、国道沿いには多くの城址もあります西中金の北側には織田方の中金城、一山超えた矢作川左岸には広瀬城などがあり戦略的にも重要な地域でしたが1560年には松平元康(家康)により攻め落されていますそれらの城の遺構は残っておらず、わざわざ訪れる価値があるかは微妙かも知れません左の地図には今回取り上げた名鉄三河線と旧西中金駅が描かれていますこの路線が廃線になったのは平成16年(2004)と最近の事で、国道沿いや矢作川にかかる橋梁を走る電車の姿を覚えている方は多いかもしれない その終着駅がここ西中金駅香嵐渓の玄関口として以前はここからバスで出ていました現在は駅舎とプラットホーム、線路が残され登録有形文化財として保存されています紅葉の名所香嵐渓に向かう国道153号線はシーズンともなれば混雑したもので、足助まで路線延長する目論見もあったようですが投資回収が見込めず頓挫したようです国道から見た駅舎全景現在の駅舎は手前の歩道整備に伴い曳家で2㍍程プラットホーム側に移動されたようです改札と待合室を備えた昭和の香り漂う外観です内部も公開されているようですが、夕方のためか扉は閉じられていました登録有形文化財名鉄三河線旧西中金駅駅舎・旧西中金駅プラットホーム西中金駅は平成16年(2004)の廃線まで名鉄三河線吉良吉田駅から西中川駅間の終着駅足助まで路線延長計画もあったが用地買収・不況の影響から頓挫駅舎・プラットホーム・線路は歴史的景観を留めるものとして平成18年に登録有形文化財に指定昭和5年建設の駅舎は待合室・改札室・改札口があり西側にはバスの発着所があった平成26年(2014)歩道拡幅工事に伴い駅舎はホーム側に2㍍曳家され、小規模の改変が行われたが開業当時の姿を留めている駅舎脇の石野めぐりウォーキングマップかつての三河線を訪れる7.1㌔のコースもあるようです駐車スペースは分かりづらいけれど駅舎横に数台分ありましたプラットホーム線路はこうして今も残されていますが電車が来ることはないここから少し先で現在工事中で一部通れませんが、そこから先は線路沿いに力石トンネル(内部進入禁止)までは歩いていけますプラットホームから目的地「岩倉神社」の眺め線路の上を西に進み参道に向かいます国道沿いに建つ「村社 岩倉神社」社標(大正13年寄進)と参道の眺め社殿は線路を越えた先のこんもり盛り上がった山裾に鎮座します古い土地柄のこんもりした森と岩倉の社名から磐座をイメージするがそれは妄想だろうか今は通る事のない名鉄三河線の踏切が横切っています線路を越えると石段がありその先に石の明神鳥居が立っています右に「指定村社 岩倉神社」の社標、昭和20年に村社昇格を記念し寄進されたもの寄進年は未確認ですが、額束に社名は入っておらず、太い柱の鳥居の笠木は先端が意図的に強めに反りを入れたような気もする鳥居左の建物が岩倉神社農村舞台になり、境内右に一際目立つ存在の楠木が大きく枝を広げています後方の樹が銘木指定のアカメヤナギで、樹齢は分からないが根の辺りには樹洞が出来ており、なにか潜んでいそうな雰囲気が漂う境内には他にイチョウの樹も見られ晩秋には境内を黄色に染めるのだろう境内全景右から手水舎、社殿、忠魂碑木造四つ脚切妻屋根の手水舎手水鉢の龍三本爪で緑青を身に纏った凛々しい佇まいをしている拝殿正面全景一対の狛犬が守護する拝殿は切妻造の妻入で四方吹き抜けのもので、梁間桁行は三間のもの拝殿左から社殿全景拝殿の先は石垣が積まれ築地塀と中門で囲い、祭文殿と境内社、一段上がって本殿を収める鞘堂が主な建物で拝殿右から社務所に続く参道がある拝殿前の狛犬(近年未確認)拝殿妻壁の額は「岩倉神社」人目を引く彫飾りは必要最小限に抑えているように見えます岩倉神社について境内に由緒は見られず、愛知県神社庁に目を通すが祭神・祭礼日の記述だけだった大正15年に出版された西加茂郡誌を見るが創建に繋がる記述は見られなかった因みに郡史には「二反二畝6歩除地、例祭10月5日、祭神伊弉諾尊、伊弉册尊」と記されてはいたが詳細は不明ただ、さきの昭和時代の地図を遡ると大正9年には既に鳥居の印は記されていたりで、明治或いは江戸時代まで遡るのかも、そこに結びつく可能性があるのは境内の農村舞台かもしれません拝殿から中門の眺め中門は平成12年(2000)に改修を受けたようです本殿域の瓦葺の築地塀と中門、その先に祭文殿と鞘堂の眺め祭文殿から本殿の眺め本殿の手前に右に二社、左に三社の板宮造の社が祀られています右手の二社は手前から洲原神社と秋葉神社、左の三社は手前から津島神社、豊川稲荷一番奥の社名は蚕と社は見えるのだが注連縄の陰になり全文読み取れなかった、三文字と思われるので蚕霊社と思われます最上段の岩倉神社本殿一間社流造で蟇股の龍や木鼻には獏や獅子など装飾が施されています鞘堂は昭和57年(1982)に再建されたようです本殿左の忠魂碑社殿南の入母屋瓦葺の大きな建物が岩倉神社農村舞台間口8間、奥行5間の大きな舞台で、1間と云われてもピンとこないけれど1.8㍍と考えれば大きさがイメージできるかと思います現在も石野歌舞伎保存会により農村歌舞伎が行われていますこの舞台には回転舞台を備えており、見えないところで地味に人手で舞台が回されます材木が豊富な土地柄からか、桁や梁に使われる木材は立派なものばかりこの長い桁を1本の無垢材が支えているその中央に「農村舞台」の額この地方ではこうした農村舞台が点在しますが、その中でも岩倉神社農村舞台は最大のものといわれています豊田市指定有形民俗文化財「岩倉神社舞台」「この舞台は江戸時代後期、文化5年(1808)の建立間口8間、奥行5間の市内では一番大きな舞台です舞台の中央部に直径18尺の回転床、いわゆる「廻リ舞台」を備えるのが大きな特徴です昭和30年代まで歌舞伎や芝居の興行が盛んに行われていた以降、娯楽の多様化が進み、使用頻度の減少とともに、損傷が激しくなった為、平成13年、周り舞台を含めた大改修をおこなった平成3年に実施した農村舞台の調査から、農村舞台の遺構を伝える貴重な民俗資料であるとして、平成12年、豊田市の有形民俗文化財に指定された」文化5年(1808)の棟札が残ることから、岩倉神社の創建も恐らくその時代まで遡りそうです舞台内部長い棟木や屋根を支える垂木など建売では見られない贅沢な部材が使われている昨年の石野地区歌舞伎保存会による講演ポスターこのあたりは室町時代には三河国加茂郡高橋荘中鹿野郷で、明治に入り西加茂郡中金村、中野村大字中金、石野村大字中金、猿投町大字中金、豊田市大字中金と地名が移り変わり、現在の豊田市中金町となりました南は勘八挟から北は広瀬、東は足助の手前、中切あたりまでが石野地区とされ地区唯一の舞台毎年10月に開催のされるようなので、国道沿いに幟を見かけたら寄ってみたものです境内から社頭の国道の眺め結構交通量もあるので鳥居から左に向い、斜面を降りて線路沿い駅舎に戻れますまもなく終点西中金駅になります名鉄三河線旧西中金駅駅舎所在地 / 豊田市中金町前田岩倉神社創建 / 不明祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊境内社 / 津島社、洲原社、豊川稲荷、秋葉社、蚕霊社例祭 / 10月第2日曜日氏子地域 / 豊田市中金町所在地 / 豊田市中金町平古782岩倉神社農村舞台建立 / 文化5年(1808)所在地 / 岩倉神社境内参拝日 / 2024/03/07名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折約50分関連記事 / ・香嵐渓 カタクリ群生地(2024/03/07)
2024.04.01
コメント(0)
熱田区千年2丁目の八幡社から東海通に出て、西の東海通交差点方向に1.2㌔約20分港区辰巳町の稲荷神社へ今日の神社巡りも、昼に大宝二丁目でかみさんと合流予定なので、これが最後の訪問地になりそうです稲荷神社は東海通の南側の辰巳町30に位置し、小学校や大きなスーパーなどがある住宅地に社頭があります稲荷神社社頭から境内の眺め社頭右に「稲荷神社」社標があり、左右に案内板が立てられています社頭左の祭儀予定、読めそうで読めない右側の稲荷社解説 祭神は、倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命享和元年(1801)、津金文左衛門胤臣が熱田前新田を干拓し、各地から農民を募り耕作に従事させた 新田を荒子川以西を西ノ割、中川以東を東ノ割、二つの川の間を中ノ割に区分、各割毎に氏神を祀った東ノ割の氏神が当社 秋の例祭(10月第三日曜日)には、現在も辰巳・中ノ組・西ノ組の三台の神楽が町を練り歩くもともとは現在の東海通り交差点南東角付近に鎮座していました 平成17年に道路拡張に伴いこの地に移転新築したようです因みに西ノ割の氏神は善進神明社(港区善進町4)、中ノ割の氏神は龍神社(港区本宮町3-2) 地図を見るとなるほどと頷ける津金文左衛門は、享保12年(1727)に現在の名古屋市東区平田町に生まれ、寛政3年(1791)熱田奉行兼船奉行となり、新たな土地を開拓することで、当時の藩の財源と農民の生活の糧を得ることができる新田開発に乗り出し、広大な熱田前新田を開拓しました上は弘化4年(1847)に描かれた熱田前新田の絵図右側の中川通御留川から右が東ノ割、北側に神明は描かれていますが稲荷としては記されていませんさてさて、新田に割り振られたイからタまでのどこに稲荷神社が位置するものか鳥居から拝殿の眺め入母屋妻入りの木造で木の色合いが綺麗な拝殿手前に常夜灯と陰に隠れていますが一対の狛犬がいます左の建物は社務所になります境内右隅に周囲の寄進物と比べ年代が古そうな御宮培?の石標今こうして改めて見ると、左側面に寄進年が刻まれていたようですこちらに遷座する以前のものをこちらに持ってきたのかも境内右の手水舎二つの手水鉢が置かれ、澄んだ清水を湛えていた右の手水鉢は盃状穴が見られ、こちらも遷座以前から使われていたものを持ってきたと思われます盃状穴信仰の起源は古く縄文時代からとも云われ、再生や魔除けを祈願し寄進物に何度も〃石を叩きつけ結果こうした凹みが出来上がります時代を越えた多くの人々の願いというか、思いが凹みに込められていますこうした信仰は江戸時代から昭和に入ってからも続いたようです今のご時世これをやっていると器物損壊になるんだろうなぁ社殿全景拝殿後方の渡殿の先は、ひと際高く石垣が積まれた本殿域があり、そこには常夜灯と狛犬の姿がありますこちらは拝殿前の狛犬やや頭でっかちで肉付きの良い姿、寄進年は見ていません本殿域渡殿の両脇に三対の常夜灯と本殿を守護する狛犬が安置されています随分色白の狛犬、少し陽に当たった方が健康的かもこちらも寄進年は見ていません本殿域は狛狐と本殿両脇に二社祀られているここまで稲荷感がなかったが、漸く稲荷の実感が湧いてくる流造の稲荷神社本殿と両脇の社、残念ながら社名札はなかった祭神は稲荷三座倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命流造の本殿脇障子などには細かな彫が施されています波限神社の参拝が10:00、4社目の稲荷社参拝を終えた時間が11:40大宝二丁目で12:00にかみさんと待ち合わせたが残り20分、東海通の西側にも廻りたかったがまたの機会にしよう東海通りから地下鉄に乗り急ぎ向かう、中華ランチに間に合うか稲荷神社創建 / 享和元年(1801)祭神 / 倉稲魂神、猿田彦命、大宮女命境内社 / 不明社2社参拝日 / 2024/02/17所在地 / 名古屋市港区辰巳町30-11関連記事 /・千年2 八幡神社・八幡社 (千年1丁目)・波限神社千年2八幡社から稲荷社 / 東海通りを東海通交差点方向に1.2㌔約20分中国四川料理 錦城本店 日比野お昼のランチメニュー「ハーフミニセット」真っ黒な肉味噌と真っ赤なラー油がマッチする担々麺に麻婆豆腐、エビチリとサラダこれとは別におひつで提供される御飯に杏仁豆腐のデザートが付いて1300円とリーズナブル全体的に濃い目の味付けなので、御飯やビールがすすむことミニセットとは言え、歳を考えると食べ過ぎ、満足のランチでした所在地 / 名古屋市熱田区一番1-5-12 嶋田ビル1Fさてとお腹も満たされたのでボランティア説明会に行くとするか
2024.03.31
コメント(0)
千年1丁目の八幡神社から旧東海道を南に進み新幹線の高架を過ぎ暫くすると千年2丁目の八幡神社の社頭に至ります所要時間は徒歩10分程千年2丁目に鎮座する八幡神社の社地全景道路沿いにほゞ東向きに社頭を構えます社頭全景正面に石造明神鳥居と右側に象形文字で書いたかのように八幡神社の社標がある社標の文字は鳩をモチーフにして書かれ、少し離れて見ると違和感なく読めてしまう鳥居の左に八幡神社祭礼の案内板社頭左の開拓記念碑碑文は確認しなかったが、この辺りは潮の満ち引きで干潟が現れ、その間に堤を築きながら人と自然が陣取り合戦の様に農地を広げてきた場所ですそれに伴い堤は沖に伸び、河口も遠のいていった鳥居から境内の眺め、正面に石造番塀を構えています鳥居の額は八幡神社で八は鳩を意識した書体境内右の全景正面に忠魂碑があり、常夜灯、本殿末社造営碑、八幡神社由緒が纏められています千年八幡神社由緒御祭神 誉田天皇(応神天皇)境内神社 多度社 御祭神 天津日子根比命、天目一筒命秋葉社 御祭神 迦具土命由緒当神社は もと尾張徳川公の下屋敷の南庭に鎮座 歴代藩主の崇敬が厚かったが天保8年8月11日熱田築地前新開の総鎮守 また熱田全新田の丑寅(北東)の鎮とし 現在地より南方約20間(約36㍍)の処に社殿を建立し 徳川家よりの多くの宝物と共に遷される安政元年11月 安政大地震起こり社殿等倒壊するが有志により復興安政2年8月 暴風雨の為全面入潮被害多し万延元年4月 社殿改築遷座を行う同 5月 烈風暴雨襲い南堤の崩壊により一面に海水氾濫し宝物什器類赴く流失明治5年7月 村社に列せらる明治6年9月 再度大暴風雨に襲われた為遂に現在地に遷座明治18年5月 本殿末社の御造営を行い遷座の式を行う明治24年10月 濃尾地震により多大の被害あり明治29年 本殿改築明治34年 拝殿修復大正12年 本殿御造営し遷宮式を行う昭和10年9月 神饌幣帛料供進神社に指定される同 10月 本殿・渡殿其の他附属建物に至るまで面目を一新し正遷座の厳儀を執行昭和20年6月 戦災により壊滅昭和34年9月 伊勢湾台風により損壊昭和35年10月 本殿御造営昭和54年5月 本殿末社殿御造替祝詞殿拝殿を再建し正遷座の式を挙行名古屋市史の八幡神社の記述は当社由緒と同じ内容でした、また愛知県神社庁からも見ましたが内容は神社由緒の足元にも及びもしないいつもの内容上は八幡社(千年1丁目)で使用した舩方新田と熱田築地前新開絵図右上に山崎川が描かれており、現在の地図と照らし合わせると、位置的には中央の氏神は千年2の八幡社を示しているのかもしれません因みに熱田築地前新開の絵図には社は描かれていなかった現在の道路と照らして合わないのも明治6年に遷っているからだろうここから先は由緒を尊重して先に進めようさて、由緒にある下屋敷とは、現在の名古屋市東区葵1丁目に残る下屋敷跡を指しており延宝7年(1679)尾張藩2代藩主徳川光友が築いた屋敷とされ、6万4千坪の広大な敷地に回遊式庭園を持つていたとされます簡単に6万4千坪と云われても庶民には全く現実味の無い広さ昔の車のカタログには性能をアピールするため0から400㍍の走行時間を測定したゼロヨンなる表示がされていた取り締まりの心配のなく、自分の庭でゼロヨンを試すことができた広さだろうその私邸にあった神社を新田の鎮守として現在の鎮座地から少し南の鬼門に遷座させたという現在の千年水処理センターあたりと思われます境内右の百度石境内左に手水舎手水鉢には天保の元号が刻まれています、その下は…12年(1842)と読めるような境内左に作良(さくら)堤の石標と境内社先の絵図にある熱田築地前新開、文久元年(1861)に作良新田に改称され、新田を護っていた堤がこのあたりにあったと云う事でしょう作良新田は後に舩方新田と合併し千年となりますが、名の由来が当時は一帯に鶴が生息していたそうで、鶴は千年、亀は万年から引用し千年になったそうですこの板宮造りの社、社名札がなく詳細は分かりません奥の石灯籠を見ていないので、竿に答えが刻まれているかも知れません八幡神社社殿全景コンクリート造の入母屋妻入り拝殿で奥に渡殿と繋がっています大棟の鬼や軒丸瓦、破風飾りには橘の紋が入ります拝殿前を守護する狛犬、親の背にやんちゃな子供の姿があります寄進年は見忘れました拝殿額には「千年八幡神社」で熱田神宮宮司による揮毫根拠はないけれど千年と付くだけに、先に掲載した千年1の八幡神社はこちらから分祀されたものかもしれませんここにも橘紋樽酒かぁ、説明会終えたらかみさん誘って一杯ひっかけて帰るかぁ拝殿から本殿域の眺め柱の陰に隠れていますが、本殿域手前に一対の狛犬と本殿両脇に社が祀られています隠れていた狛犬は年代不明ですが、体の黒ずみや意匠などから、拝殿正面の面々よりキャリアがありそうです本殿と境内社大きな社が八幡神社で、左右の社が多度社、秋葉社と思われます何れも一間社流造で、八幡神社本殿は脇障子をはじめ桁隠し、木鼻などら彫が施され、大棟には金色の橘の紋が施されています幾度も越水や災害を受けながら、氏子達に支えられ今も鬼門を護る千年2丁目の八幡社スッキリして明るい神社でした八幡神社創建 / 天保8年(1837)祭神 / 誉田天皇(応神天皇)境内社 / 多度社、秋葉社、不明社参拝日 / 2024/02/17所在地 / 名古屋市熱田区千年2-31-9千年1八幡神社から千年2八幡社徒歩ルート / 旧東海道を南下徒歩約10分関連記事・八幡社 (千年1丁目)・波限神社
2024.03.30
コメント(0)
波限神社から東の国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱 熱田区千年1丁目に鎮座する八幡神社の社頭が左に見えてくる左に鳥居の姿がある、道は緩やかに上り、その先で堀川堤で突き当りとなり、堤の上に立ち並ぶ住宅の先は堀川が流れている 白鳥橋から下流の堀川右岸は1676年に作られた南北に長い船方新田が広がっていました名が示す様に、海運業を営む船頭や船の補修を生業とするものが多く居住したと云われます 1876年船方新田は作倉新田と合併し千年村字船方になり、その後も合併を繰り返し現在の千年1丁目や千年2丁目に編入されていったようです波限神社から八幡神社へ来る途中で船方の名が付く交差点や公園を見かけますが、船方新田の元々の位置は堀川右岸沿いの三角屋根が連なる工場の辺りに相当するようです最初に書きますが、幾つかの地史に目を通しましたが、神社の記述は見付けられず、境内にも由緒に繋がる碑はなく、由来や創建など分からないので地図から見ていくことにしました 上は明治24年頃の千年1の八幡神社鎮座地とほゞ現在の地図を見ています当時は現在の大瀬子橋はなく、大瀬子渡しで対岸に渡っていました、ここに橋が架けられるのは明治42年(1909)のことです 左の地図で、大瀬子渡しに続く赤い道筋は旧東海道で、そこから少し東に入った辺りが神社の鎮座です明治24年の地図には八幡神社の鎮座地に鳥居の印は見られず、昭和43年(1968)に忽然と鳥居が現れます これを持って昭和の創建とはなりませんその理由の一つに、境内寄進物の幾つかに大正の元号が見られることから、規模はともかく大正時代、又はそれ以前から鎮座している事になります 創建は地史の編纂が進む江戸後期以降、或いは明治に入ってからなのかもしれません上は年代は不明ですが、船方新田之図になります 堀川と精進川(新堀川)が交わり熱田湊や船方新田が描かれています新田北側に「御除地十一丁歩氏神」と中央に「御除地五畝卜氏神」の文字が見えます この二社がどこを指すものか、想像を膨らませてみる北側の氏神は堀川に面しており、先に掲載した波限神社の遷座前の鎮座地、中央が当神社ではないだろうか ただ、写真では切れていますがすぐ下に山崎川が描かれており千年2丁目の八幡神社の可能性もありますそれでは境内へ社頭西側から見る境内 南南西を向いて社頭を構え、石の明神鳥居とすぐ先に拝殿が建てられています社頭正面の眺め 社頭に社標は見られず、壁際に二対の石燈籠がある鳥居の額は八幡神社、拝殿の鬼には八幡社の名が入っています境内右側に置かれた手水鉢(寄進年未確認)境内から社殿全景の眺め 入母屋妻入りの二段垂木で梁間・桁行三間の四方吹き抜け拝殿で破風飾りに橘の紋が入る拝殿と本殿の間に一対の狛犬の姿がある拝殿前から本殿の眺め、左の建物は八幡神社社務所拝殿から眺める本殿 石垣で高く積まれた本殿域に本殿の他に両脇に二社祀られているようです本殿域と狛犬 この辺りは古くから⽊曽の山奥で切り出された木曽材を⽊曽川を使い、桑名を経て堀川上流に廻漕し名古屋城築城部材として供給した事から、築城後もこの地方で産出された木材の一大集散地となり堀川沿いにはそうした企業が多かった狛犬の寄進者もそうした団体名のものが見られます地図上では昭和に入って忽然と記されていた八幡社ですが、この狛犬は大正13年に寄進されたもの本殿域全景 中央の一間社流造の八幡社、祭神は恐らく応神天皇、左右の社は社名札がなく詳細は不明境内寄進物の元号は燈籠の竿には大正12年(1923)、狛犬の台座が大正13年(1924)この神社の創建には堀川周辺で海運業や渡しなど営む方々が大きく寄与しているようです拝殿から社頭の眺め 正面の鳥居は大正12年(1923)に寄進されたものなにも分からない千年1丁目の八幡社でしたが、10分程南に鎮座する千年2丁目の八幡社でなにか分かるかもしれません八幡神社創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内社 / 不明社2社例祭日 / 不明所在地 / 名古屋市熱田区千年1-9-37参拝日 / 2024/02/17徒歩アクセス ・波限神社から八幡神社 / 国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱関連記事 ・波限神社
2024.03.29
コメント(0)
2/17、この日は名古屋ウィメンズマラソンのボランティア説明会に朝から参加するかみさんと共に名古屋学院大学 名古屋キャンパスを訪れました自分は午後の説明会だけなので午前中はフリータイムと云う事で白鳥公園の南を横切る国道1号線から南の熱田区南部の神社を巡って来ました普段名城線を主に利用するので、名港線乗り換えもあり、あまり縁のない空白地帯名古屋キャンパスでかみさんを見送り、そこから南下する事約20分熱田区45に鎮座する波限(なぎり)神社の社頭に到着南向きに社頭を構え、鳥居の左に社標(1975)が立てられています鎮座地は正保3年(1646)から慶安2年(1649)にかけて、尾張藩により堀川から庄内川にかけて広範囲の新田開発が行われた地域で、それにより得られた耕地を東から西にかけて33に番割された地域ここはその一番割にあたり、現在でも番割当時の名残が町名として一部に残っています現在は農地は姿を消し住宅や工場、ショッピングセンターが多い環境なので、波限(なぎり)神社の社叢は存在感があります社頭から境内の眺め左から波限神社社標、熱田史跡「まむし神様」の碑、石造神明鳥居、波限神社由緒碑があります鳥居はこの社頭の他に境内西側にも石造神明鳥居が建てられていますかつて、まむしが多くいたことに由来する波限神社由緒略記「祭神:彦波限建鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎ たけうかやふきあへずのみこと) (神武天皇の父様)例祭 10月18日 由緒 この神社は慶長15年(1610)に加藤清正公が名古屋城を築く際、運搬船が度々遭難することを憂いて、堀川河口にあった小島に一宇を建て、日向国鵜戸神宮の御霊代を祀りました社名は彦波限にちなんで波限神社と名付けられ、海運の守護を祈願し、深く信仰されました 村民からの敬愛は深く、全村が神社の祐福を願い、平和で幸せな生活を営めるのは、まさに神社の守護の賜ものである海上安全、交通安全、安産、縁結びの神として、遠方からの参拝者も多い 小島は現在の千年船方にあり、神社は白鳥橋の旧渡船場から南方300メートルの堀川河畔にありました昭和14年10月に愛知時計の発展拡張に伴い、現在の地に移転しかし、昭和20年(1945)3月19日の空襲により、本殿や拝殿などの建造物はすべて焼失 その後、時間を経て昭和49年(1974)12月にようやく復旧再建され、御本宮の鵜戸神宮(宮崎県日南市)に参宮し、御分霊を受け、昭和50年2月1日に遷座祭が行われた」・名古屋市史の社寺編 「波限神社は南区千年字船方にあり、境内126坪あり、明治初年の勧請なり、明治35年頃改造遷宮す、今村社に列す 祭神は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊なり、神殿、槍鳥居 大正元年建設などあり境内神社は秋葉社 祭神は軻具土神の一所在り 例祭は8月15日也」と記されていました・熱田区史跡散策コース概説 「名古屋城を築城の際、加藤清正が資材海運の安全を祈って建立した本殿は戦災で焼失 し、昭和49年に再建された」とあります 他に愛知県神社庁に目を通すが得るものはなかった名古屋市史と神社由緒では創建や遷座の時期が食い違っており頭の整理がつかない 神社由緒と史跡散策コース概説では清正の下りなど符合しますが、由緒から引用しているのかもしれません本記事では神社由緒概説を尊重し記述します 今時、機械を多用した歩道の整備ですら、なんやかんや長い期間やっています堀川の掘削は1610年から始まり翌年には完成したとされます なにもない所から短期間で掘削したものとは思えず、掘削にあたり従来の護岸の整備に石は必要だったと思われます境内には石垣に加工しようとして楔を打ち込むため開けた屋穴の痕跡が残る岩が複数置かれています過去の地図から鳥居の姿は確認できず、終戦(1945)直後から5年間に当地を写した航空写真から鎮座地を見て見ました 当時は既に現在地に移転を終え、熱田空襲で被災し焼け野原になっていた頃社叢の樹々はなく、現在の社叢はその後植えられたものと思われます 多くの犠牲者を出した愛知時計のあった辺りでは目立つ建物は見られず、由緒による旧鎮座地は堀川右岸、愛知時計の東端になり、現在の千年プロムナード(黄色の辺り)と思われます昭和49年12月復旧再建された社殿の多くはコンクリート造りのものが多く、写真の手水舎もそのひとつ そこに置かれる手水の寄進年は見忘れましたが、再建以前のものではないだろうか後方の鳥居が社地西側の鳥居(1975)のもの拝殿全景 外観はシャープな印象で、梁間2間、桁行3間の四方吹き抜けのコンクリート製社殿の左に境内社の豊受稲荷大明神、右に熱田社と秋葉社の相殿が祀られています 波限神社では神社につきものの狛犬の姿は見られなかった境内は枯れ葉が散乱することもなく清掃が行き届いていました拝殿内から本殿方向の眺め ひょっとして柱はもとは赤だったのかなぁ、壁面の色合いとは少し違うように感じます祭神の彦波限建鸕鷀草葺不合尊の御神徳は海上安全、交通安全、安産、縁結びとのこと まずはこの先の安全を祈願させて頂きます・・・2月も半ば過ぎてましたが小さな鏡餅が供えられていました本殿右の境内社は熱田社と秋葉社相殿板宮造りの社には二枚の社名札が掛けられていますが、文字は脱色し読み取り難かった 名古屋市史(大正4~5)では「軻具土神の一所」とありますが二社に相違ありません創建時期由緒概要に記されておらず、市史が編纂された当時が一社だけだったとすると、熱田社や豊受稲荷はその後に遷座したものとなります波限神社本殿は木造の棟持柱が現れた神明造、棟には外削ぎの千木と4本の鰹木が付くもの拝殿右から境内社と社殿の眺め複数の赤い幟がはためく先に豊受稲荷豊受稲荷全景 稲荷と云えば狐ですがその姿はなく、社の前に小さな陶製の置物が置かれていました豊受稲荷の社は一間社流造で軒唐破風が付くもので棟には外削ぎの置き千木と3本の鰹木が施され、小さな社ながら木鼻や虹梁、蟇股など細かな彫飾りが施されていますシャープな神明造と曲線の流造、どちらも固有の美しさがあります拝殿から社頭の眺めそう云えば社頭の「まむし神様」由来は調べていなかったけれど、湿地が多かっただろう土地柄なのでマムシに纏わる言い伝えがあるのだのう、しかし蛇は大嫌いなので、考え出すと境内の大きな楠の枝から落ちてくるんじゃなかろうかなんで妄想が始まるこれ以上深入りしないようにしよう波限神社創建 / 慶長15年(1610)祭神 / 彦波限建鸕鷀草葺不合尊境内社 / 秋葉神社、熱田社、豊受稲荷大明神例祭日 / 10月18日所在地 / 名古屋市熱田区2-45-8参拝日 / 2024/02/17公共交通機関アクセス ・地下鉄名城線熱田神宮伝馬町駅から西に1.6㌔・25分前後 ・地下鉄名港線 六番町駅から東南に1.2㌔・20分前後
2024.03.26
コメント(0)
先回掲載した前田西町の薬師堂から、西方向にある助光住宅バス停に向かうその途中、土之宮神明社の前を通りかかり、金山行きのバスの時間を気にしていたかみさんですが、一本遅らせてもらい立ち寄らせてもらう前田西町の薬師堂から西に2分程進むとそこは中川区助光1丁目助光の町名は鎌倉時代から続くもので、尾張国地名考によれば地名は人の名によるものと云う往古のこのあたりには助光氏の所有田がありその名が残ったようです戦国時代から安土桃山時代には、現在土之宮神明社が鎮座するこの場所に、織田信長を支えた赤母衣衆の一人だった福留左近将監の居城 助光城があった場所境内一帯が助光城の跡で、城の痕跡は見られませんが、境内の秋葉社左に「福留将監古城跡」と記された三角の石碑がそれを伝えています境内は南北に長く、南向きに社頭を構えています社頭右手に土之宮神明社の社標と由緒があり、一対の常夜灯とその先に神明鳥を構えています鳥居は大正12年(1923)、社標は昭和2年(1927)に寄進されたもの神明社土之宮合殿 由緒概要、内容は以下「御本社 神明社土之宮合殿(通称 土之宮神明社)境内社 秋葉神社鎮座地 名古屋市中川区助光1丁目106番地神明社土之宮合殿御祭神 天照皇大神 概要 皇室の祖神、伊勢神宮の主祭神で日本の神様の代表 御神徳 国土安泰、家内安全、開運招福、農工業等全産業振興 埴安比咩神 (埴安姫神) 概要 火の神、男神の埴安比古神と共に祭器を司る土の神様 御神徳 農地豊潤、肥料開発、農耕進展等五穀豊穣、陶磁器産業・鉱工業の繁栄秋葉神社御祭神 迦具土神 (軻遇突地尊) 概要 伊邪那美命が最後に生んだ火の神、秋葉山本宮の祭神、鎮火・防火の神様 御神徳 工業・鉱業・窯業の発展、就労安全、金運招福 由来創立年代 正確には不明 尾張志の神社の項に「神明の社助光村にあり、土宮神明と云う、文明11年9月の棟札あり」と古くより助光の氏神として尊崇あつく明治5年村社に列格する 古書の助光城の項に「当村土宮神明社の 右棟札に奉建立御柱一宇 大檀群助光郷 福富宮内左衛門尉光親 文明11卯閏9月8日と見えたり当所居住の人也」と記載在り 尾張徇行記には「神明社境内年貢地三畝十八歩」とある文明11年(1479)の干支は亥であり、卯と亥を誤って伝承したと推定される いずれにせよ、今から500年以上前の創立である祭典・行事 春季大祭 5月第一土曜日、祈年祭 秋季大祭 10月第二土曜日 例祭・収穫祭」地史をもとに分かりやすく記載されています 上は寛政期(1789~1801)に描かれた海東郡村邑全図の助光村ほぼ中央に土之宮神明社らしき鳥居と社地を取り囲む様に水路が巡らされているのが描かれていますこれを助光城の名残と捉えてもいいのかも知れない参道から境内の眺め左に手水舎、常夜灯とその先に狛犬、社殿と連なり左奥に境内社の秋葉社の姿がある拝殿はコンクリート造りで四方吹き抜けのもの社殿全景拝殿・幣殿・覆殿と連なり本殿域は透塀で囲われています拝殿の鬼には五三桐と破風飾りにが木瓜らしき紋が入れられています拝殿前の狛犬は大正10年(1921)寄進のもの拝殿内額の「土之宮神明社」は元名古屋市長を務めた杉戸清氏の揮毫幣殿両脇の狛犬(寄進年未確認)覆殿・幣殿ともにコンクリート造りで、神明造りの覆殿の棟には外削千木に5本の鰹木が飾られています境内左の秋葉神社左の三角形の石碑が「福留将監古城跡 是より西南壱丁余」、台座には「助光二村」と刻まれた碑があります因みに一丁は約100㍍なので南西壱丁というと、現在の助光住宅バス停辺りまで城もしくは居館が広がっていた事になりますが、城については築城・廃城時期など不明な所が多く定かではないようです板宮造りの秋葉社本殿手前の常夜灯の竿には秋葉社の社名と昭和4年の寄進年が刻まれていた助光集落の火伏の神として今日まで受け継がれてきた創建時期等の詳細は不明拝殿から社頭の眺め正面の鳥居は大正12年(1923)寄進のものでした偶然通りかかった神社ですが、助光城など色々と知る機会を与えてくれた古くからの神社ですさて寄り道してばかりの「ヒラメキさんぽ」でしたが、ここまで来れば助光住宅バス停も目と鼻の先だ神明社土之宮合殿・助光城跡創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、埴安比咩神境内社 / 秋葉社参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区助光1-160薬師堂から土之宮神明社 / 西に向かい突き当りを左折、一筋目を右に進んで左側、徒歩2分程関連記事・前田西 薬師堂・秋葉神社・前田 速念寺・醫王山 龍瓢寺・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.25
コメント(0)
先回掲載した前田利家出生の地とされる速念寺から、帰途に着くため、西方向の助光住宅バス停に向かう速念寺から南に向かい二筋目を右に向かった左に前田西 薬師堂・秋葉神社が鎮座していました徒歩で2分程、距離にして200㍍もないでしょう前方に見えてくる入母屋瓦葺の小堂が前田西に鎮座する薬師堂・秋葉神社になります薬師堂全景堂前に献灯台を備え、一間の向拝が付くもので、入口の格子戸以外は板壁の堂軒下の三方に濡縁があり、手前の献灯台には蝋燭が灯された形跡もある季節のせいもあるだろうが境内は雑草もなく、日々手入れされているように見受けられます周囲の街並みは建替も進み、今どきの住宅が多い街並みですひと昔前の古い町並みにこうした堂が佇む光景は身近にあったものです薬師堂正面視線を引く装飾は少なく、頭貫先端の木鼻は獅子や獏の原形になるシンプルな意匠のもの光背の蟇股には輪宝紋が施されている周辺には先の速念寺(天台宗から浄土真宗に改宗)の他、圓盛寺(真宗)、称円寺(真宗大谷派)の寺院が狭い範囲に鎮座しており、それらの寺と所縁がありそうです薄暗い堂内を覗き込んで見ました(不審者そのものか)、正面に金色の厨子らしき姿が見られました恐らく本尊の薬師如来像が安置されているのだろう左には火焔光背を持つ不動明王像が祀られているようですダメもとでレンズを向けで見ましたが、結果はやはり載せれるものではなかった大棟の鬼には「薬」の文字が入るこの薬師堂の建立時期がいつ頃なのか新旧地図・村絵図などから探しましたが、建立時期につながるものに出逢うことはできなかった薬師堂の左に鎮座する秋葉神社比較的綺麗な石で作られた境内には年輪を重ねた楠とイチョウの樹が植えられている何れも上は押さえられ、枝もバッサリと剪定されているが太い主幹の勢いは衰える事はないいつから祀られていたものか、寛政期(1789~1801)に作られた愛知郡村邑全図の前田・助光・伏屋村絵図からは特定できず、地史に目を通していないので創建は定かではありません確かなのは手前の幟立てが昭和56年(1981)寄進のものでした秋葉神社本殿板宮造りで、本殿域の玉垣も昭和56年(1981)に寄進されたものでした参拝当日気付かなかったが、本殿域の右奥に古い灯篭があったようで、こうして見ると寄進年は昭和よりもう少し古いのかもしれません前田西 薬師堂・秋葉神社薬師堂創建 / 不明本尊 / 薬師如来像秋葉神社創建 / 不明本尊 / 火之迦具土神参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-1301 速念寺から薬師堂・秋葉神社 / 南に向かい二筋目を右に進んで左側、徒歩2分程関連記事・前田 速念寺・醫王山 龍瓢寺・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.24
コメント(0)
龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り庄内堤右岸に鎮座する「ヒラメキさんぽ」最終チェックポイント前田速念寺を目指します橋を渡り下りきった先で右に進むと龍瓢寺の鐘楼門に続きます鐘楼門から境内方向の眺め右に梅鉢紋の入った「前田速念寺」の寺標前田利家所縁の地を巡るルートに組み込まれているだけに、利家の生誕地(諸説あり)とされ、前田家と所縁のある寺かつてこの地には前田城があった場所として城址碑も建てられています寺標の左側面には「前田利家郷御遺跡」とも刻まれています庄内川右岸のこの辺りは中川区前田西町になり、古くは尾張国海東郡前田村で寺号にも前田の名が入るように前田家の領地だったのが伝わってきます前田速念寺はかつて前田城が築城され、前田氏発祥の地城の築城時期や築城主など詳らかになっていないようですが、城は庄内川右岸のこの地に築城された平城だったされます上は大正初期の地図で鎮座地は庄内川右岸にあたり当時の西前田の東に位置します現在の地図から速念寺を中心に前田城があった範囲を見ると、北は下之島公園、南は県道、西は長須賀小学校付近の範囲に広がっていたと思われます現状から城があった名残は感じられませんが、前田一族はこの城を拠点として、南の下之一色城、東の荒子城、西の蟹江城を出城として一帯を治めていたようです蟹江合戦(天正12年)以降廃城となり、その後の城址に建立されたのが前田速念寺とされます建立時期は定かではなく、一説では平安時代に遡るとも云われ、当初は天台宗の寺だったようですその後、前田利家の叔父 前田利則が出家して意休法師と号し、寺を中興し初代住職となったと云われますこの際に天台宗から現在の真宗に改宗したようです寛政期(1789~1801)に作られたとされる愛知郡村邑全図から前田・助光・伏屋村を見るも、天正12年(1584)に廃城となった城はともかく、意休法師が中興した寺が絵図では見つけられなかった山門額は梅廼寺ここ前田城は利家(1539~1599)出生の地とされ、利家7歳のときに荒子城に移ったとされています先に立ち寄った冨士大権現天満天神宮が鎮座する荒子城では、ここで生まれ育ったとありどちらにも根拠がありそうです鐘楼門左の前田速念寺の由来「速念寺は加賀百万石の太守前田利家公寄進になる阿弥陀如来を本尊としているここはもと海東郡前田村と言い、前田城があり、 前田氏発祥の地である利家公も前田で生まれ、 幼少にして前田城の出城、新設の荒子城に移って成長したとするのが寺伝である前田氏は菅原道真公を祖と仰ぎ、梅鉢の紋を用いる前田氏は織田信長に属し、 西に蟹江城、東に荒子城、南に一色城等を支配し、 前田城はその中心であった前田城は、天正十二年長久手の合戦ののち、秀吉方についたため、 家康方の攻撃を受け落城、城主与十郎は蟹江で討死、その子 長種は北陸に逃れて利家に仕え、一万石(のち二万石)を得た利家の長女幸を妻とした利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となった境内には、前田家古墳や最後の城主与十郎の墓があるまた明治に建立された利家公の記念碑や、中部石川県人会の シンボル碑がある平成十三年十一月 前田 速念寺」「前田・戸田ふるさとコース」の解説は以下「当寺はもと天台宗に属していたが、天文12年(1543)、中興の意休法師の時、真宗に転宗した意休は俗名前田利則といい、加賀公前田利家の叔父にあたるまた、当寺は前田氏発祥の地で、境内には前田古城跡の石碑がある当時の前田氏は蟹江、一色、荒子を傘下に収めていた寺伝によると、天文6年、前田城にて利家出生、7歳頃荒子に移る天正12年(1584)小牧長久手の戦で前田城落城前田一族城主ら三基の墳墓の脇に速念寺は移り鎮魂の寺となるその後、利家は金沢城に入るが生まれ故郷を偲び、前田一族先祖の墳墓と土地を守る速念寺に本尊となる阿弥陀如来を寄進その蓮台には「聖徳太子御作、前田又左衛門尉利家」の銘がある」鐘楼門(築年代不明)から上を見上げると梵鐘と龍の姿がある境内から個性的な屋根の本堂の眺め前田利家が身につけたとされる烏帽子型の兜をモデルにして作られたもので、前田家発祥の地に鎮座する速念寺を象徴するもの本堂に掲げられる寺号額本尊は阿弥陀如来で製作年代は不明ですが、鎌倉時代以前のものとされるようです一説には聖徳太子の作とも云われるようです正面から見る姿もなかなかですが、斜めから見上げる姿も烏帽子兜の趣がある構造は主にコンクリートが多用された造りで、木の温もりが伝わる落ち着いた佇まいではないかもしれませんしかし、この前衛的な建物は前田家発祥の地、利家を輩出した前田の地を象徴するものだと感じる当日は夕方だったため、本堂内扉は施錠されていましたが、運が良ければ内部も見られそうです菅原道真を祖と仰ぐ前田家、赤い外扉の中央には紋梅鉢紋が入る本堂左の半鐘この位置からして現在使われているのか分かりません境内左側の前田與十郎の墓と前田家古墳墓加賀百万石の礎を築いた利家、この左側には石川県人会の石碑が建てられており、発祥の地に対する思いが伝わってきます利家が加賀に移り、最後の前田城主の前田與十郎が没し、前田城廃城にともない利家を頼ってこの地から多くの者が加賀に移り住んだとされ、金沢にはそうした者が集まってできたであろう尾張町の地名が残ります本堂から鐘楼門の眺め、瓦には至る所に梅の紋が入れられています「ヒラメキさんぽ」のチェックポイントは速念寺をもって終了、各所で得られたヒントから得られた回答は「ウメバチモン」になりましたゴールの速念寺からの帰路は、県道29号線に出て、西に少し歩いた先にある市バス「助光住宅停」から地下鉄高畑駅に戻ります前田 速念寺宗派 / 真宗大谷派山号 / 岡部山創建 / 不明本尊 / 阿弥陀如来 本尊聖徳太子御作境内社 / ・・・参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-904龍潭寺から前田速念寺 / 龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り右折、長須賀小学校方向の速念寺まで徒歩15分前後関連記事 /・醫王山 龍瓢寺・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.23
コメント(0)
「駅から始まるヒラメキさんぽ」コースから少し逸れて、周辺の神社を参拝して廻ってきました打中 神明社からコースに復帰して次のチェックポイント医王山 龍瓢寺に向かいました打中 神明社から龍潭寺へは北に向かい、県道29号線(八熊通)を西進、野田3丁目交差点北側の龍瓢寺まで徒歩15分前後です上は大正時代の鎮座地周辺、当時は野田と前田・打出集落の中ほどの田圃の中に鎮座していますこのあたりまでくると庄内川堤が背後に迫り、ルートは新前田橋にかけて緩やかな上り坂が続きますここまで5㌔強歩きましたが、平坦なコースのなので足への負担はさほどでもなかっただけに、唯一の緩やかな坂はここにきて地味に足にくる醫王山 龍瓢寺全景東に山門を構え右側に本堂・庫裏、山門正面が薬師堂になります室町時代の1455年に創建された曹洞宗寺院で、「大松と仏足石の寺」として親しまれている。境内は「古松般若を談ず」の趣があり、大松の近くの仏足石に触って本堂に合掌すると、願いがかなうといわれている。山門左の解説「医王山龍潭寺曹洞宗。 康正元年(1455) 錦溪和尚の創建。釈迦牟尼仏を本尊とし、右脇に永平道元禅師、左脇に總持螢山禅師像を安置している。 明治年間に、本堂を再建した折、 須弥壇・来迎桂・来迎壁などを少切り縮めて再利用した。このうち須弥壇は典型的な唐様の優れたものである。 また、木造如来像や菩薩像の一部(仏頭)があり、かなり腐食ているが平安後期の様式を伝えた丈六の大きな像てあったと思われる。須弥壇と共に市の文化財に指定されている。 往時、七本あったという老松が四本残り、市の保存樹となっている。名古屋市教育委員会 」「ヒラメキさんぽ」のクイズのヒントはこの中にあるようで、かみさんが解説を見入っていましたその間に境内伽藍を見て廻ってきました左は尾張志(1844)から龍瓢寺の記述、内容は以下のようなもの「龍瓢寺 野田村にありて醫王山といふ海東郡桂村廣済寺の末寺也 康正元年 僧錦溪創建す立像の釈迦仏を本尊とし 立像の文殊普賢を脇侍とす 薬師堂 秋葉堂鎮守 白山社 開山堂などあり」また、荒子かいわいコースの解説は以下「曹洞宗、山号は医王山。 康正元年(1455年)錦溪大和尚が創建した。市の文化財に指定されている唐様式の須弥壇には、釈迦牟尼仏(本尊)と道元禅師(永平寺開山)・瑩山禅師(総持寺開山)が安置されている。 本堂内の木造如来仏頭等三体は、藤原時代の作で、市の指定文化財である。稲荷堂には文殊菩薩・普賢菩薩が、薬師堂には日光菩薩・月光菩薩が安置されている。 落ち着いた情緒漂う庭は、古風な禅林のたたずまいをみせており、「古松般若を談ず」の趣きがある。中川区史跡散策路の解説は以下「曹洞宗、山号は医王山。康正元年(1455年)錦溪大和尚が創建した。 市の文化財に指定されている唐様式の須弥壇には、釈迦牟尼仏(本尊)と道元禅師(永平寺開山)・瑩山禅師(総持寺開山)が安置されている。本堂内の木造如来仏頭等三体は、藤原時代の作で、市の指定文化財である。 稲荷堂には文殊菩薩・普賢菩薩が、薬師堂には日光菩薩・月光菩薩が安置されている。落ち着いた情緒漂う庭は、古風な禅林のたたずまいをみせており、「古松般若を談ず」の趣きがある。尾張志に記された海東郡桂村廣済寺とは 海部郡七宝町桂字寺附に鎮座する曹洞宗の寺で天文年中(1532~1555)、清洲城主織田敏定が訪れ、自筆の天桂山廣済寺の額を授けたとされ、その後も織田家代々から寺領を授けられるなど厚遇された古刹のようです解説に「苔」とあったように、山門を一歩くぐると本堂まで続く参道脇は一面苔参道左は鐘楼とその先に手水舎正面の寄棟の堂は間近で確認しておらず、恐らく解説にある薬師堂かと思われ、以降は薬師堂として表記します鐘楼手水舎龍瓢寺の龍はお休みだ薬師堂自然石の姿を生かして彫られた仏足石この石に触れ、本堂に向かって合掌する事で幸せになるという本堂と庭園の苔この時期、緑に精彩がないものの、盛期には緑滴る苔庭が楽しめる本堂は入母屋造で軒先の反りが美しい本堂の醫王山山号額本堂左の初音稲荷堂本堂から鐘楼方向の眺め江戸時代は立派な老松7本が聳え「七松庵」とも呼ばれたが、現在残るのは4本何れも綺麗に剪定された見事な立ち姿で、一面の苔と相まって情緒漂う庭です境内から山門の眺め県道29号線(八熊通)から龍瓢寺伽藍の眺め見事な老松と苔むした庭園が龍瓢寺の魅力のひとつだろう龍瓢寺宗派 / 曹洞宗山号 / 医王山創建 / 享徳元年(1455)・錦渓和尚本尊 / 釈迦牟尼仏境内社 / 初音稲荷参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区野田3-187打中 神明社から龍潭寺 / 北に向かい県道29号線を西進、野田3丁目交差点の龍瓢寺まで徒歩15分前後関連記事 /・打中 神明社・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.20
コメント(0)
前回掲載した中郷の雨宮神社から県道を越えて西に5分も歩いた中川区打中に打中 神明社の社頭に至ります打中 神明社社頭全景狭い間口ですが、鳥居の先から境内は広がりを見せます社頭左に平成25年(2013)寄進された「村社 神明社」の社号標があります上は大正9年(1920)頃の周辺地図打出集落と中郷集落を結ぶ道路沿いの打出集落入口に鳥居の印があり、明治24年(1841)の地図にも印が現れ、創建は江戸時代に遡っていきそうです上は寛政期(1789~1801)の尾張藩が藩領各村に作らせた愛知郡村邑全図の打出村集落北側の赤枠部分に神明社の名が見えます併せて地史にも目を通してみると尾張志(1844)の記述は「神明社 打出村にあり」とある尾張徇行記(1822)「中郷村祠官高羽但馬守書上帳ニ 神明社内三畝御除地 此社草創ハ知レス 再建慶長三戌年也」とあり再建年度が記されていました愛知県神社庁からも確認しましたが祭礼日、氏子域の言及に留まっていました参道を進むと、ここにも「村社 神明社」の社号標の他に常夜灯、石の神明鳥居がある社号標は昭和2年(1927)に寄進されたものですが、標柱の中ほどからポキッと折れた痕跡が残ります背の高い社号標とはいえ、石を真っ二つにしたものはなんだろう昭和2年以降、社号標にこれだけの爪痕を残した自然災害で思いつくのは、昭和19年(1944)の昭和東南海地震と昭和34年の伊勢湾台風くらい遠目からでは痕跡は分かりませんが、この辺りに来るとなんでこうなったと勘繰りたくなる自然災害が招いたものならば、この割れ目は立派な災害遺構でもある鳥居から拝殿に続く参道沿いには桜の木が植えられており、時期がくれば参道は桜の花で艶やかに彩られるに違いない拝殿全景四方吹き抜けで切妻瓦葺の妻入り拝殿拝殿前に一対の狛犬と石の献灯台がある狛犬の年代は未確認です鬼には神明社の文字が入る神明社拝殿額読めないから達筆なんていわないが、力強い筆の運びだ社殿全景妻入の拝殿から渡廊が覆殿まで結び、境内に境内社は見られません覆殿は寄棟で大棟の意匠は珍しく茅葺屋根古民家に通じるものがある祭神は天照皇大神を祀り、中に祀られている本殿の造りは確認できなかったが、恐らく神明造でしょう創建時期は分かりませんが、慶長3年(1598) 再建の記録から、起源は室町時代にまで遡っていきそうです境内の杜は自生の樹々は少ない様で、風通しが良く、綺麗に手入れされていました打中 神明社創建 / 不明、慶長3年(1598) 再建祭神 / 天照皇大神祭典 / 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓境内社 / ……氏子域 / 中川区 打出、打出町、打出本町例祭日 / 10月第1日曜参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区打中1-90雨宮神社から神明社 / 雨宮神社北側の交差点を西に220㍍ 徒歩5分前後関連記事 /・雨宮神社・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.19
コメント(0)
「駅から始まるヒラメキさんぽ」のコースから逸れ、三狐(さんこ)神社、八王子神社と訪れてきました八王子神社にきて、寄りたい所リストに気付いてくれたかみさん更にコースから外れ県道190号線を10分前後南下した雨宮神社に舵を切ってくれた写真は野田一丁目交差点の少し南から見た雨宮神社の杜。県道脇に南北に長い社地を持ち、県道から左に入った南側に社頭を構えています。上は大正9年(1920)の鎮座地付近、当時の西脇集落の西に鳥居の印がありますこの辺りは伊勢神宮と所縁の深い地域で平安時代、庄内川左岸にかけて伊勢神宮の御厨 一楊御厨(いちやなぎのみくりや)がひろがっていました明治期に野田村の一部として、後に御厨村、荒子村と合併を続け、大正10年(1921)に名古屋市南区に編入、その後昭和12年(1937)に中川区に編入され、現在の中川区中郷(ちゅうごう)に至っています御厨村の由来も一楊御厨の厨郷からきているとされここから南の旧村名の東中島、西中島、三軒屋、法華の各集落でも伊勢神宮と所縁の深い神明社が祀られていったようです雨宮神社北側から見る中鄉伏見稻荷社覆殿雨宮神社社殿は左の森の先に鎮座します社頭へは次の道を左折してくださいコミュニティーセンター横の石碑、銘文から一部を抜粋「この地域一帯は湿田米作地帯で防災的道路もなく、昭和17年東西1㌔、巾55㍍、中心に10㍍道路を整理を行った・・・・・無秩序な宅地化が将来禍根残す事を惧れ住民の総意から健全な市街地造成した・・・・・」古くから河川の氾濫が起こり、氾濫がもたらす土壌を耕し広大な田園が整備されたが、時代が変わり田園は姿を消し、土地を改良し宅地化が進んだ土地柄なのが良く分かる今はゆとりのある区画、何十年かすると切り刻んだ住宅密集地に変っていき、その先は空屋ばかりの町になっていくのだろうか雨宮神社社頭全景境内は全周玉垣で囲われ、右手に社号標、常夜灯、その先に石の神明鳥居を構えている社標は明治34年(1901)に寄進されたもの、鳥居、常夜灯の寄進年は未確認参道右の由緒「雨宮神社御祭神 高龗神、志那都比古神、天照皇大神文政2年(1819)に遷座明治5年郷社に明治25年(1892)指定郷社に列す近郷の鎮守の宮として、五穀豊穣・風雨の神と崇拝されている例祭には、干支歳にあたる人々より健康や家内安全を祈り奉納行事が執り行われる祭典 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓境内社 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社」とある上は寛政頃(1789~1801)に描かれた愛知郡村邑全図から中郷村の絵図宝珠院、光明院の位置が記されており、それからすると破線の〇辺りに雨宮神社が記されていてもよさそうですが記されていません、更に西側の村絵図にも雨宮神社は表れません絵図左上の破線で囲んだ二つの神社があり、そこに雨宮、風宮が記されています絵図が描かれた時には雨宮、風宮両神社は野田に鎮座していました左は尾張志(1844年)の記述雨宮社「天照皇大神、高龗神を祀り、末社に白山社、冨士社あり」とだけ記されていますその下に風宮社「中島新田地内にあり、天照皇大神の他2柱を祀る」の記述が見られます現在の雨宮神社は由緒にあるように野田集落から文政2年(1819)に現在地に遷座したもの風宮社は明治40年に遅れて遷座したようです祭神の高龗神は、伊邪那岐命が軻遇突智を斬った時に、闇龗ととも出現した水を司る神として崇敬されている参道左の手水舎龍は清水を注ぎ、手水鉢の清水は澄んだいた雨宮神社拝殿瓦葺で切妻妻入りで梁行き桁行ともに三間のもの左側に境内社が纏められています社殿は拝殿から渡廊を経て鞘殿が一体となっており、本殿姿は窺えなかった拝殿前の狛犬は昭和48年(1973)に寄進されたもの鬼には社名の雨宮が入る妻壁には馬が駈け、龍が蠢き、鯉が滝を登る姿が彫られているシックな雨宮神社の木目が鮮やかな拝殿額は大正3年(1914)のもの下り棟の鬼には雨、その隣で獅子が跳ねる拝殿左の覆殿切妻瓦葺の平入で、手前に手水鉢と覆殿の前にやけに目立つ色合いの狛犬の姿がある左は朱の覆殿は中鄉伏見稻荷社で猿田彦社・白龍社が祀られている手水鉢年季が入っていそうですが寄進年を見忘れました覆殿ここには左から秋葉社・風宮社・津島社の額が掛けられています雨宮と風宮の神が揃う神社はあまり記憶がないかもしれない離れていても存在感のある狛犬余程素材が柔らかいのか肌はきめ細かく、阿形の頭部や吽形の尾など剥離した様に欠損している台座の年代は大正15年(1926)刻まれていましたが、台座も同様に欠損していました素材はなんだろうか秋葉社・風宮社・津島社が祀られる覆殿と雨宮神社の覆殿。中鄉伏見稻荷社朱の奉納鳥居が右の覆殿まで立ち並びます手水鉢鳥居をくぐった左側にありますが年代は見忘れました手水鉢から右に朱のトンネルは続き正面の朱に塗られた玉垣の先が中鄉伏見稻荷社左右に猿田彦社・白龍社の二社が祀られています中鄉伏見稻荷社本殿手前に一対の狛狐が守護し、その先の本殿は神明造で4本の鰹木と内削ぎの千木が付くさて、この二社が分からない右は稲荷社と同様の造りで、一見すると稲荷社に見間違えそうですが狐がいない左は板宮造り、どちらも社名札がなく社から社名は分からないが、猿田彦社と白龍社であることは由緒から間違いない・・・神明造の社が猿田彦社かな、いや千木が内削ぎだ・・・導いて欲しい県道の歩道側から隙間なく連なる奉納鳥居と覆殿鮮やかな朱色がとても印象に残る雨宮神社創建 / 不明 (文政2年(1819)遷座)祭神 / 高龗神、志那都比古神、天照皇大神祭典 / 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓境内社 / 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社氏子域 / 中川区荒中町、打中、中郷、中花町例祭日 / 10月第2月曜参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区中郷2-164八王子神社から雨宮神社 / 県道190号線を南下10分前後関連記事 /・八王子神社 (野田村三社)・秋葉神社・三狐(さんこ)神社 (野田村三社)・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.18
コメント(0)
『八王寺神社』前回掲載した三狐神社の社頭を南北に伸びる県道190号線、そちらを南下し野田小学校西交差点を通り過ぎて次の道を右折すると八王寺神社の社頭が現れます野田交番の東隣りに隣接し、社頭はその南側になります、三狐神社から移動時間は徒歩5分程になります所在地は中川区野田2江戸時代の当地周辺は愛知郡野田村で、野田村に鎮座する三社を称して野田村三社と呼ばれたようです上は大正9年当時の鎮座地、当時はまだ荒子村大字野田の頃Wikiによれば、野田の由来は当地が湿地や湿田が多く、そうした場所を沼田(ぬだ)と呼んでいたいつからか「ぬだ」が転じて「野田」になったという江戸時代の愛知郡野田村はその後、愛知郡御厨村大字野田、荒子村大字野田、名古屋市南区野田町、中川区野田町を経て、昭和28年~昭和59年の間は八王子町とされたようで、その由来は当社からきていると云うその後八王子町は消え、現在の中川区野田2丁目に編入されたようです南向きに社頭を構え、社頭右に昭和5年(1930)に寄進された八王子神社社号標その先の一対の常夜灯は明治41年(1908)の寄進もの石の明神鳥居は昭和60年(1985)鳥居手前から境内の眺め参道右に神馬像、参道左が手水舎、正面には一対の狛犬と社殿が連なります境内の「八王子神社の御祭神と沿革」内容は以下「当社の御祭神は古事記によれば天照大御神と素戔鳴尊が誓約(神意を占うこと)され、天照大御神は三女神を、素戔鳴尊は五男神を生んだ、すなわち田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命八王寺権現とも呼ばれ当社に祀られ、更に当地地名の由来でもある尚、当社には古来より御神田があり、御斎田として耕作されていたが、農耕法により県へ買収された今日我々崇敬者一同は、神の御守護を受けて平穏無事な日々を送ることができるのであるここに挙って町内安全と世界平和を祈願してやまない昭和六十一年十月 」しかし三狐神社の際に目を通した尾張徇行記(1822年)で中郷村の神明社・三狐神社・八王子社を指して「この三社、創建年は不明なれど再建は寛文7年(1667)」記述と除地と記されています創建は詳らかにはならないようですが慶長13年(1608)、徳川義直の命から伊奈備前守ら検地奉行により尾張全域で実施された備前検地時には既に神社は存在していることが分かってきますまた尾張志(1844年)では、「野田の氏神社の神明社から東南」に八王子社があると記され(マップ左に貼り付け)ており、当社を指す事は明らかです野田村三社の創建時期は更に遡っていきそうです八王子神社で一際目を引く大きな楠の木陰に建てられた手水舎八王子神社の龍境内右の神馬像(1985)の鞍の紋は千成瓢箪だろうか社殿全景社殿はこの拝殿と後方の覆屋下に流造の本殿拝殿前の狛犬は昭和5年(1930)に寄進された子持ち毬持ちのもの拝殿の破風飾に五七の桐紋、妻壁や蟇股に彫られた彫飾りはなかなかのもの妻壁の飾り正面の立派な龍に視線は行きますが、左右にあまり見覚えのない満月と三日月の彫が施されているそしてこの拝殿で一際目を引くのが格子天井に描かれた色鮮やかな天井絵かもしれない拝殿内の天井絵と八王子神社拝殿額(昭和初期の寄進)鮮やかな色合いの花の天井絵は比較的最近描かれたものだろう身近で見られる花が鮮やかに描かれ、拝殿内の印象もとても明るく感じられます祭神は愛知県神社によれば天照大御神、須佐之男命となっていましたが、ここでは社名、由緒を尊重し田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命としておきます本殿覆屋本殿は外削ぎの置き千木と5本の鰹木が施された流造本殿域の玉垣はやはり昭和5年(1930)、この時期に境内は大きく改修されたようです寄進年は不明ですが、本殿両脇で二対の小さな狛犬達が本殿を守護しています後方の陶製狛犬は小さい体ながら角を生やしたもの本殿側から見る拝殿妻壁の意匠こちらは龍の上は虎かな、こちらの面にも左右に満月と三日月が描かれています満月と書いていますが、太陽(天照)と月(月読)を描いたものかもしれません八王子神社創建 / 不明 (寛文7年(1667)再建)祭神 / 田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命境内社 / ・・・氏子域 / 中川区 打出、中須町、野田例祭日 / 10月12日参拝日 / 2024/02/14所在地 / 名古屋市中川区野田2-375秋葉神社から八王子神社 / 南東に5分程関連記事 /・三狐(さんこ)神社・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.17
コメント(0)
中川区野田2「秋葉神社」前回掲載した三狐神社から西へ4分程の住宅街、そこの交差点の角地に鎮座するのが秋葉社交差点の北西角に社地が与えられ、社殿はほぼ東向きに建てられています高く築かれた本殿域は玉垣で囲われ、切妻造の大きな覆屋の下に社が祀られています上は大正9年の当地の地図で赤枠が秋葉神社の鎮座地になりますこの時代、ここに鳥居の印はなく、その後もここに印は描かれていなかった野田集落の西外れにあたり、ここから西側は庄内川左岸に田んぼが広がる一帯だったことが分かります地史から野田村の記述に目を通すも、秋葉社について語られておらず、大正から昭和にかけて世帯数の増加に伴い、災い除けの神が祀られるようになったのかも知れない秋葉神社から西方向の眺め庄内堤まで広がっていた田畑は姿を消し、今では古くからの建物は建て代わり、新しい住宅が広がる地域となっています秋葉神社南側から社殿の眺め玉垣の石柱や基壇の石組の色は綺麗で、覆屋も傷みはなく、覆屋の下に祀られる板宮造の社も綺麗なものです覆屋に架けられた額は秋葉神社秋葉神社本殿全景玉垣の間にピッタリしつらえられた賽銭箱があり、住宅地の火伏の神に賽銭投入参拝脱線しますが人的・物的ともに甚大な被害を与えた能登半島地震輪島の火災を見るにつけ、我家周辺の切り刻んだ宅地に人も通れないほど敷地一杯に建てた細長い木造家屋が林立する環境を思うと不安を覚えるそこから比較すると、このあたりの余裕のある家並みは羨ましく思うなによりこうして見守る神さまがいる秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火之迦具土大神境内社 / ・・・所在地 / 名古屋市中川区野田2-176三狐(さんこ)神社から秋葉社 / 西へ5分参拝日 / 2024/02/14関連記事 / ・三狐(さんこ)神社・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.14
コメント(0)
前回は「駅から始まるヒラメキさんぽ」のコースから逸れ、中川区中郷の白山神社を訪れました。本来のルートは県道29号線を西に向かうのですが、先を歩くかみさんは県道を越え、荒子川沿いを北上し高畑公園方向へ、高畑公園を過ぎたあたりから導かれるように西方向に歩いていく。茨塚公園の南側で店舗を構えるプチ・ポンレヴェックnoda(中川区野田1-323)。マップ上に赤〇で示しておきます。某番組で紹介されたみたいで、ひらめき散歩を歩く動機付けのひとつとしてチェックしていたようだ。最近開業した所謂パン屋さん、ひとつ〃のパンは小さく、一個幾らではなくgram売りなんだとか。ここで彼女が買い物している間、ここから西へ3分程の場所に神社があったので訪れることにしました。県道190号線沿いに鎮座する三狐神社。周辺の建物の越えるほど育った大きな松が三狐神社の象徴かも知れない。上は大正初期の鎮座地周辺、赤枠が三狐神社で二つの赤い星が野田村三社の鎮座地になります。何れの神社も明治以前から野田村に鎮座しているのが記されていました。(赤〇はパン屋さんの位置)ここまで来ると庄内川も目と鼻の先になります。東向きに石の神明鳥居を構え、右側に「三狐神社」社標が立つ。境内の樹々は適度に間引かれたものか、この時期は境内が良く見渡せ、手水舎、神馬像、拝殿の先の本殿まで一望できる。社頭北側から眺める三狐神社。右側が更地で、社地も白いフェンスで囲われているのもあり、すっきりとした印象を受ける神社。鳥居から拝殿・本殿の眺め。拝殿は梁間桁行き三間で四方吹き抜けの瓦葺切妻のもので妻壁などに彫飾りが施されています。正面の本殿には5本の鰹木が載せられているのが見通せる。境内右の神馬像。昭和60年(1985)に寄進されたもので、訪れた際には碑文に目を通すのもいいかもしれない。拝殿左が手水舎。三本の鋭い爪、長い髭を持つ堂々とした姿の龍。拝殿前を守護する狛犬は、骨太でがっちりとした筋肉質の姿をしたもの。境内に三狐神社の由緒はなく、詳細が分からず地史に目を通して見た。尾張志、尾張徇行記、尾張名所図会など目を通すが注目する内容は以下のものでした。・尾張志(1844年)では「野田村の氏神 神明社、氏神社より東南に八王子社、氏神社より東にサグジノ社」と記されています。三狐神社をサグジノ社とすると、氏神社の鎮座地からほゞ東に位置しており、三狐神社がここで云うサグジノ社のようです。野田村三社の神明社は三狐神社から西の野田公園、八王子社は三狐神社から南へ5分程の場所に鎮座しており、何れも歩いて廻れる距離にあり、マップに示した赤い星が其々の鎮座地になります。・尾張徇行記(1822年)の一柳庄野田村に「三狐神社」として名が記されいました。中郷村の神明社・三狐神社・八王子社を指して「この三社、創建年は不明なれど再建は寛文7年(1667)」と再建の時期が記されていた。再建年度だけを捉えれば、かなり古くから鎮座している神社のようです。愛知県神社庁にも紹介されていましたが、内容は祭神、祭礼日に留まっていた。三狐神社の祭神は豊受大神を祀る神社です。ここで尾張志の「サグジノ」が気になってきます。サグジノと聞くと、万物に宿る自然神を崇敬するミシャグジ信仰を思い浮かべます。三狐神社の前身がミシャグジ信仰から始まったのか?となると、それを示す記述や崇敬対象となるようなものを境内で見かける事はありませんでした。この神社の見所は、拝殿妻壁をはじめ全周に施された彫飾りだろう。人目を引く派手な飾り金具などの意匠はないけれど、正面の大きな二匹の龍からはじまり、蟇股の干支や木鼻の獅子などシックな佇まいの小さな拝殿ですが作り手の拘りを感じる意匠が施されています。それらを見ていく前にまずは参拝。大嫌いな蛇をはじめ全周に干支のキャラクターが施されている。柔らかな鶏の尾羽も良く彫られている。上は猪に犬だろうか、下の正面妻壁には宝珠を握りしめた龍、その上には兎の姿もある。拝殿から本殿の眺め、本殿は板宮造りで、棟には外削ぎの置き千木が置かれています。拝殿内正面に三狐神社の額と右側に昭和51年に奉納された白馬の奉納額が掛けられています。三狐(さんこ)神社本殿、最初に三狐の社名から受けた印象は宇迦之御魂神をお祀りする稲荷かと勝手に想像していましたが、愛知県神社庁では「さんこ」とあり、境内からも稲荷社ではないようです。本殿域を小さい体の二対の可愛い狛犬が守護しています。寄進年は分かりませんが、手前の愛くるしい姿をした陶製狛犬は、左の阿形は前脚が欠け落ち台座に置かれており、玉乗りの吽形に至っては頭部が欠落した痛々しいもの。結構古そうな台座の上に載せられた狛犬をよく見れば、鮮やかに色付けされ、細かな装飾が施されているだけに、寄進者や作者の思いが込められた造形物は、新しく変えようかというのもなんだか重い。金継ぎとはいかないまでも元の姿に戻してやりたいものだ。覆屋の下に祀られた本殿全景。こちらでも寄進物の寄進年度は見忘れてしまった。拝殿下り棟の鬼には三狐の文字が入る。社殿全体は大きな傷みもなく、比較的最近補修されたようです。境内も綺麗に手入れされ、居心地のいい神社でした。三狐(さんこ)神社創建 / 不明、寛文7年(1667)再建祭神 / 豊受大神境内社 / ・・・例祭日 / 10月第2土曜日所在地 / 名古屋市中川区野田2-134参拝日 / 2024/02/14白山神社から三狐神社 / 白山神社から北西に徒歩12分程関連記事・八百万神社・白山神社・秋葉神社・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.13
コメント(0)
前回掲載した宝珠院の仁王門から南に伸びる道があります。利家を巡るルートから外れますが、仁王門を出て南に進み、光明院を左手に見ながら、約1分の距離に中川区中郷(ちゅうごう)に鎮座する白山神社があります。上は大正9年、1920年当時の周辺地図。先回訪れた宝珠院から少し南の寺脇集落の西外れに鎮座します。当時の地図に神社の印は現れませんが、約300年前から寺脇集落に鎮座しているようです。写真は白山社社頭を西側から見たもので、三叉路の角地に僅かな社地が与えられていました。南向きの社頭には鹿島鳥居に似た木造鳥居があり、くぐるとすぐ先が本殿域になります。小規模の神社で社号標も見当たりませんが、常夜灯、狛犬など整えられ、寺脇集落の鎮守の趣が漂う神社。後方に見えている森は先程参拝した宝珠院の寺叢になります。社頭左の解説板。秋葉山神社八百万神社白山神社「白山神社光明院の森に鎮座、歯痛が治る神様。豆腐をお供えして食べると不思議にも歯痛を忘れた様に治る霊験あらたかな神。八百万神社延宝2年創建(1674)と歴史に見え、八百万の神々をお祀り申し諸願成就息災延命の神。秋葉山神社火を防ぎ家難排除の守護の神」とある、小さな見た目から想像できない歴史があり、八百万神社は300年以上前から集落を見守ってきた神社のようだ。境内全景。石積みの本殿域は大小三つの社が祀られています。境内右は手水鉢だろうか。本殿域全景、手前には小さな狛犬の姿が見える。本殿域を守護する小さな狛犬。(寄進年は未確認)解説の社名の並びから見ると左から秋葉山神社、八百万神社、白山神社となるが、Gマップでは白山社とあり、それからすれば中央が白山社となるのだろうが、三社に社名札はなく特定できません。祭神についてもここでは不明としておき、ここは賽銭を投入し三社纏めて祈願するしかないようだ。愛知県神社庁から住所で検索して見たが情報は得られず、神社解説によれば八百万神社の創建が延宝2年創建(1674)とあるので地史を見ていけば、白山神社、秋葉山神社の創建時期も少し分かるのかもしれません。社地東側から北側の眺め。正面に宝珠院仁王門、手前右手の森は白山神社が鎮座していた光明院の寺叢。いろいろ知りたいこともあり、人の姿を探すも近寄って来たのは恋の時期を迎えたこの猫達だけだった。八百万神社創建 / 延宝2年(1674)祭神 / 不明境内社 / 秋葉山神社(創建・祭神不明)、白山神社(創建・祭神不明)所在地 / 名古屋市中川区中郷1-11参拝日 / 2024/02/14宝珠院から白山神社 / 仁王門から南へ徒歩1分程関連記事・如意山 宝珠院 常楽寺・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.12
コメント(0)
如意山 宝珠院 常楽寺。前回掲載した冨士大権現 天満天神宮から北西に徒歩15分程の県道29号線の南に鎮座する寺院。上は大正初期の宝珠院鎮座地周辺。当時の愛知郡荒子村大字中郷の高畑の西、寺脇集落の北の田畑の中に鎮座しています。名古屋七福神巡りの大黒天のお寺として知られ、1月7日の七草の日までに、7つの幸福を与える7人の神々をお祀りしたお寺を参拝する事で福運が得られるものだそうです。過去に一度七福神巡りで訪れた事がありますが、調べて見れば2017年と随分久し振りに訪れた。今回は七福神ではなく、前田利家の所縁の地を巡るコースに含まれていた。名古屋西部県税事務所の西側に宝珠院の仁王門、山門が連なっています。「税」で「うすうす思い出した」が、確定申告まだ済ませていなかったなぁ、なんだかやる気がしない。宝珠院仁王門。この通りを左進むと山門が建っています。コースに宝珠院が組み込まれたのは、仁王門右にある歌碑を読み取り、問題の空白を埋め完成させるもの。かみさんはこの歌碑を見つけられず境内を彷徨い、お寺の方に歌碑の場所を教えて頂いた。その際「最近この碑を見に訪れる方が多いがなんなの?」と質問されたとか、どうやらイベント側とチェックポイントに選定された場所とは事前に共有されていない印象。仁王門から本堂の眺め。左右の間に安置されている仁王像。宝珠院の開創は古く、奈良時代の天平元年(729)に泰澄大師が開創した古刹。寄木造の二体の像もかなり年季の入った風貌のもので、随所に補修が加えられていますが、なぜか市・県の文化財一覧に挙げられておらず、制作年代や作者など詳細は不明です。仁王門から眺める本堂全景。入母屋瓦葺で千鳥破風、軒唐破風の付く堂々とした建物で、堂内には本尊の薬師如来はじめ、大黒天、弘法大師、泰澄大師像、五大明王像、弁財天が安置されています。境内右の仏足石と百度石。宝珠院は弘法大師誓願道場「名古屋二十一大師霊場巡り」の第十一番札所。本堂左の水かけ不動尊(左)と亀の甲羅の上の七福神。水かけ不動尊は、体の病んだ部分に水をかけ、祈願する事で改善されると言われています。歳を重ねるとかける箇所も増え、全身かけたくなってくる。本堂破風の連なり。本堂の寺号額。宝珠院の先に書いたように奈良時代の天平元年(729)に泰澄大師が開創したと伝わります。往時は6坊を有したが、文和年中(1352~1356)の火災で三坊を焼失、後に宝珠院、東蔵院、光明院を再建するも、明暦年中(1655~1658)に再び火災に遭い、東蔵院は廃絶となり、ここ宝珠院と南に鎮座する光明院のみとなる。泰澄大師といえば加賀白山を開山したことで良く知られます。宝珠院について尾張名所図会、尾張誌、名古屋市史で調べてみたが詳細な記述は見つけられなかった。中川区史跡散策路の宝珠院解説は以下のものでした。「奈良時代の天平元年(729年)に泰澄大師が開創した郷土の古刹である。伊勢湾台風の被害を受けているが仁王像は鎌倉時代の作と言われており、歴史を感じる。境内は名古屋市の保存樹である五葉松の大樹などの庭園を含め特別緑地保全地区に指定されており、四季折々、鳥のさえずる憩いの寺でもある」これによれば仁王門の像の制作年代は鎌倉時代(1185~1333)とあり、文和年中の火災以降に彫られたものだろうか。楠の一木造りの大黒天、じつにいい表情でこうありたいものです。(2017年撮影)…そうありたいんだがねぇ、これを書きながら国会中継を聞いていますがついつい目は△になってくる。本堂左から客殿に続く中門と左の鐘楼。建立年代は詳らかではありませんが、2017年当時と比較して大きな違いはないようです。また、手入れの行き届いた庭園も当時と何ら変わっていない。温かい陽射しを受けて横になる寝弘法。庭園には他に修行大師、摩尼車など安置されています。境内北側の寄棟瓦葺の客殿全景、大棟の金色に輝く鴟尾(しび)が印象的な建物です。鴟尾は鯱や鬼瓦の原形ともいわれ、鴟尾そのものも意匠は時代により様々なようです。建物を自然災害から守る目的から棟に飾られたもので、一説によれば鳳凰の羽を模したものから始まり、意匠が変化していったとも云われるようです。金堂から眺める山門と十三重石塔。重厚な山門の正面全景。山門の山号額。道路から山門・客殿の眺め。7世紀以上の歴史を誇り、幾多の自然災害を乗り越えて今も続く古刹なので、利家もひょっとして訪れているやもしれない。山門左には札所の石標。宝珠院宗派 / 真言宗智山派創建 / 天平元年(729)開基 / 泰澄大師山号 / 如意山寺号 / 常楽寺院号 / 宝珠院本尊 / 薬師如来札所 / 名古屋二十一大師11番札所、東海三十六不動尊霊場13番札所、名古屋三弘法第一番札所、名古屋七福神(大黒天)所在地 / 名古屋市中川区中郷1-11参拝日 / 2024/02/14冨士大権現 天満天神宮から宝珠院 / 北西に15分程公共交通機関 / 地下鉄東山線「高畑」から西へ徒歩10分関連記事・冨士大権現 天満天神宮・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅・『2017名古屋七福神巡り』へチャレンジ
2024.03.11
コメント(0)
荒子観音寺を後にして次は冨士大権現 天満天神宮を目指します。神社が鎮座する権現公園に向け南へ約10分程の移動時間。「まつと共に過ごした荒子城界隈と前田利家ゆかりの地を巡る」ヒラメキ散歩コースに従って巡っています。行きたいとこリストもかみさんと共有していたが、問題を解くのが最優先のようだ。写真は権現公園南側に面した道路から冨士大権現 天満天神宮の杜の眺め。上は大正初期の荒子村周辺地図で村の真ん中から少し西よりに位置しています。前田利家所縁の地を巡るこのコース、冨士大権現 天満天神宮をチェックポイントにしたのには理由がある訳で、この場所に荒子城が築城されていたことによる。海東郡荒子村の地を収めた前田利昌は、この地から西の庄内川右岸の前田城を拠点にしていたが、天文13年(1544年)にこの地に荒子城を築き拠点にしたと云われます。その利昌の四男として生まれたのが前田利家で、ここ荒子城が前田利家の誕生之地とされます。コースには前田城も含まれており、そちらの由緒によれば、利家は前田城で生まれたともあり、諸説あるようです。いずれにせよ、加賀百万石の礎を築いた前田利家がこの尾張から誕生した事に違いはありません。冨士大権現 天満天神宮境内の眺め。大きな楠と松が聳え、適度に間引かれた明るい杜で、この時期は境内に植えられた梅が咲き誇っていた。社頭の参道に、梅鉢紋の入った赤い幟が風に揺れている。加賀藩前田家の梅鉢紋は知られるところで、一説に前田家のルーツは菅原道真とも云われるようで、彼が好んだ梅をモチーフにした梅鉢紋を使っていたのかな。ほゞ南向きに社頭を構え、正面の拝殿まで石畳が続いています。社頭は右側に「冨士大権現 天満天神宮」の社標が立てられ、左に由緒・荒子城解説が立てられています。鳥居は石造の明神鳥居で、その先に一対の常夜灯と左側に手水舎があります。由緒・荒子城跡解説。荒子城解説は以下の様に解説されています。「荒子城跡天文年間(1532~55)前田利昌の築城と伝わる。その子利久、利家、利家の子利長が相継いで居城。天正3年(1575)利家が越前国府中(福井県越前市)に、同9年に利長も同地へ移り荒子城廃城。『尾陽雜記』『古城志』などによると、城は東西約68m、南北約50mで一重堀を巡らしていた。名古屋市教育委員会」このことから、現在の権現公園と社地を含めた敷地面積が城の規模とイメージできますが、現状では城が合った痕跡は見られません。越前国府中に領地を与えられた利家は、天正4年(1576)菩提寺である荒子観音寺の本堂を再建し、越前府中の統制に注力していった。利長が府中に移った後、荒子城は廃城となったようですが、城内鎮守の冨士大権現天満天神宮は村人により護られていったようです。左の富士社 天満社由緒記・亦名「冨士権現天満宮」・御祭神は、木花開那媛尊、菅原道真公・創建の詳細は不明・荒子城主前田氏の城内鎮守として勧請され、弘治元年(1555)「前田利家再興」の棟札がある。・前田氏の祖は菅原氏とも云われ菅原道真を祀る。・天正4年(1576)越前に移りし後も村民・氏子から篤く崇敬されている。・昭和63年(1988)社殿再建。由緒について尾張志(1844年)に目を通しました。「富士天満天神相殿社 高畑村中脇と云う所にあり」に留まり、それ以上の情報は得られなかった。境内左の手水舎、西側の権現公園と境内は遮るものはなにもありません。龍は絶え間なく清水を注いでくれていました。この日は先を目指すあまり、神社の歴史を綴る寄進物の年代は見ておらず心残り。拝殿正面全景。切妻瓦葺の四方吹き抜けの木造拝殿で、妻側に格子戸、軒側は縦格子の腰壁が付くもの、拝殿と本殿は渡廊で結ばれています。狛犬は子持ち毬持ちのもの。拝殿から本殿方向の眺め。妻壁に黄金色に輝く梅鉢紋がアクセントになり、賽銭箱には金色の五七の桐と梅鉢紋が入る。派手な装飾の無いシックな佇まいをしている。拝殿から本殿を結ぶ渡廊と本殿域。本殿は一間社流造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。祭神は木花開那媛尊、菅原道真公。大きな社ではありませんが、脇障子や虹梁など手の込んだ彫が見られます。拝殿左の前田利家と荒子城の解説から一部抜粋。「加賀百万石の藩祖、前田利家は1537年(天文6)(天文7年説あり)、利昌の四男としてこの地に生まれました(前田城説あり)。幼名は犬千代。15歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦のひとつ海津の戦で初陣を飾りました。22歳のとき、10歳下の「まつ(愛知県七宝町生まれ)」と結婚。この頃、又左衛門利家と名を改めています。若い頃は奇抜な振舞いを好みバサラ者でもありましたが、武勇に優れ「槍の又左」と呼ばれました。桶狭間の戦いの後、美濃攻めの頃から勇士のみに許された赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍。33歳のとき、信長の命により荒子城主になりました。利家39歳の時、越前府中(福井県武生市)十万石を佐々成政、不破光治とともに治め、やがて能登一国を領有します。その後は、豊臣秀吉を補佐する大々名に出世、後の加賀百万石の礎を築きあげました。荒子城は、天文年間、前田利昌の築城と伝えられています。規模は狭い平地に簡単な棚と堀をめぐらし、敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。城内には、富士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。また、利家が府中に移る時、荒子観音寺の本堂を再建し、荒子七カ村(屋敷)には、祭に使用する絢爛豪華な馬道具(ばどん)を残していきました(名古屋市指定文化財)。利家が最も信頼した本座者といわれる「荒子衆」はこの土地の出身者であり、金沢城大手門前には荒子ゆかりの「尾張町」が残っています。時を経てなお、荒子と金沢は、荒子小学校と金沢市立味噌蔵町小学校の姉妹校提携や関連行事の市民参加による交流が続いており、地元の小学校では前田家の梅鉢紋にちなんだ校章が使われています。」 生誕地など諸説あるようですが、いずれにせよ郷土が生んだ一大武将であることに違いはなく、地元の誇りとして前田利家発信隊が結成され愛されている。本殿域左に聳え立つ「前田利家卿誕生之遺址」の石碑。馬にまたがった若き利家と初陣を見送るまつの姿。(名鉄荒子駅西出口の前田利家公初陣之像)利家がまつと夫婦になったのが22歳の時とされ、まつは12歳、この初陣之像だけ捉えれば利家の初陣が14歳の時とされるので、まつの姿は4歳....まつは生涯に11人の子を出産したと云う。因みに2023年の出生率は1.2という結果のようです。冨士大権 現天満天神宮創建 / 不明(弘治元年(1555)の棟札が残る)祭神 / 木花開那媛尊、菅原道真公境内社 / ……例祭日 / 10月第一日曜日所在地 / 名古屋市中川区荒子4参拝日 / 2024/02/14荒子観音寺から冨士大権現 天満宮へ徒歩 / 門前通りを南へ徒歩7分公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線高畑駅5番出口から南へ徒歩10分関連記事 /・荒子観音寺・宮窓 神明社・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅
2024.03.07
コメント(0)
「駅から始まるヒラメキさんぽ」で中川区を訪れ、荒子町宮窓の荒子観音寺を通りかかりました。今回は、前田利家・荒子梅苑から南に徒歩数分の場所に鎮座する荒子観音寺と境内東に隣接する宮窓の神明社の現況を掲載します。荒子観音の名で知られますが、正式名称を浄海山 圓龍院 観音寺と称する天台宗の寺院。歴史は古く天文元年(729)年泰澄和尚が開祖。円空と縁があり、多くの円空仏を所蔵する事でも知られています。荒子観音は、現在の富士大権現天満天神宮の鎮座地に築城された荒子城の城主前田家の菩提寺で、特に当地出身の前田利家から庇護を受けるなど利家と所縁の深い土地柄。上は山門南に立てられた解説板で昭和39年、荒子観音の鐘つき堂竣工の際に馬の塔を奉納した際の画像で、山門前の賑わいが窺われます。この馬の塔の馬道具を献上したのも利家で、それが今も受け継がれているという。普段静かな門前通りですが、節分の恵方にあたる時には多くの人で賑わい、毎月第1日曜日に行われる朝市も多くの参拝客が訪れます。上は大正初期の荒子村の地図。下側の東西に延びるのが百曲街道、熱田新田北側の干拓堤防沿いに東海道と接続するため自然にできた街道で、名の通り曲がりくねった道が続くことからこの名がついた。前田利家出生の地でもあるので、利家にゆかりのある名所旧跡が多く残る。浄海山 圓龍院 観音寺(荒子観音山門全景)尾張名所図会から浄海山観音寺園龍院を一部抜粋。・荒子村にあり天台宗野田村密蔵院末寺。・天平元年(729)、泰澄和尚開基。・同13年(742)開山僧自性建立。・永禄8年(1565)尾張四観音の一寺に。・元禄年中(1688~1704)、円空が訪れ、多数の仏像・彫刻を残す。・本尊聖観音菩薩。・天正4年前田利家により本堂再建。荒子観音はもとは現在の鎮座地から少し北西の高畑町あたりに鎮座していました。信長の比叡山焼き打ち(1571)の煽りから焼失するも、1576年前田利家により再建され、その後の太閤検地で寺領を没収されるなど衰退期を経て、後の尾張徳川藩から庇護を受け現在の地に落ち着いたようです。この寺を訪れた円空は多くの作品を残し、その中で山門の左右の間に安置されている仁王像は円空最大の作品とされるようです。左の杮葺きの多宝塔は天文5年(1536)の再建で市内に残る多宝塔では最古の建築物とされ、平成13年(2001)に解体修理を受けた。中央の三間一戸、入母屋瓦葺の山門は大正15年(1926)再建されたもの。慶長14年(1609)、家康が築城した名古屋城の鬼門封じと定めた尾張四観音(荒子観音、龍泉寺観音、笠寺観音、甚目寺観音)の一寺で、当時はこれらを結ぶ四観音道も整備され、千種区の日泰寺西側にはその面影が見られ、北側には尾張四観音道道標も残ります。本堂全景。往古の荒子観音は七堂伽藍に十二坊の塔頭を誇っていたという、現在の本堂は平成6年(1994)に焼失後、同9年に再建されたもの。境内右側の鐘楼と六角堂。六角堂後方の瓦葺建物が宮窓 神明社で、境内に寺と神社を隔てる壁はなく、神仏習合時代の面影が残ります。上は尾張名所図会(1844)にある「荒子観音寺」の挿絵。現在地に移転された後に描かれているため、現在の伽藍と比較して、鐘楼や六角堂を除き大きな違いは見られず、境内右手に鳥居を構える宮窓 神明社の姿もある。6年振りに荒子観音を訪れましたが、伽藍の建替など当時と違いは見られなかった。荒子観音寺東隣に隣接する宮窓 神明社社頭全景。社号標には「村社 神明社」と刻まれています。愛知縣神社名鑑では、文化9年(1812)に荒子観音の守護神として鎮祭とあり。天保2年(1831)に社殿の修復が行われたようで、祭神は天照皇大神と武甕槌命を祀る。明治政府の神仏分離令にともない荒子観音から切り離され、明治5年村社に列格した。尾張誌には神明社の他、末社に鹿島社、天王社、白山社、辨才天社、風の宮社の名が記されている。鳥居から社殿全景の眺め。拝殿前の狛犬。狛犬や石灯籠など寄進物の多くは昭和・大正・明治のものでした。 入母屋茅葺の覆屋の大棟は竹を組み合わせ作られ、内削ぎの千木が乗せられたもので、茅の入手しやすい地域でこうした造りは見かけますが、市内で見かけるのは宮窓 神明社の他に記憶がありません。覆屋内。南向きに三社と東向きに一社祀られています。何れも社名札はなく、中央の千木・鰹木が付く社が神明社本殿と思われますが、両脇の社は不明。恐らく神仏分離により荒子観音境内に祀られていたものが神明社に纏められたものと思います。しかし尾張誌に記されたどの社なのか写真から特定は出来なかった。唯一はっきりしているのは、辨才天社は荒子観音寺境内北側に鎮座していることか。唯一東を向いて祀られる社、扉が一部開けられ中の神札が見えていましたが、どうやっても文字までは読み取れなかった。拝殿鬼には荒子観音山門の鬼と同じ五三桐の紋が入る。荒子観音山号・正式名 / 浄海山圓龍院観音寺 宗派 / 天台宗開基 / 泰澄創建 / 天平元年(729) 本尊 / 聖観世音宮窓 神明社創建 / 不明祭神 / 天照皇大神 武甕槌命氏子域 / 荒子、荒子町、小城町、小塚町、細米町、的場町、若山町境内社 / 不明社三社例祭日 / 10月第二日曜日所在地 / 名古屋市中川区荒子町宮窓134参拝日 / 2024/02/14公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線高畑駅5番出口から東方へ徒歩10分関連記事 /・荒子公園 「前田利家・荒子梅苑」の梅・医王山 薬師寺 『密蔵院』・上野天満宮の梅開花(尾張四観音道道標)・『荒子観音寺』尾張四観音
2024.03.06
コメント(0)
津島社は、八剱神社から10分少々東へ進み、県道157号線を越えた左側の江南市天王町五反林に鎮座する神社。天王町駒野から県道157号線を挟んだ天王町五反林の津島神社方向の眺め。前方に見える一本の大きな樹が目標になります。県道を越えると前方の樹は更に大きくなり、左手に玉垣が見えてきます。上は明治の頃とほゞ現在の当地の比較で赤枠が鎮座地になります。地図上から津島社の鳥居がはっきり示されるのは大正9年になってからです。上は江戸時代に編纂された尾張志(1844)の付図から、今回巡ってきた周辺の村絵図を切り取ったもの。一つ上の地図の集落と河川を比較すると中央辺りが鎮座地になると思われ、尾張国地名考の寄木、小折、御供所等から天王、五反林、津島社のワードで探して見るも、上の村絵図に具体的に示せなかった。西側から社地全景。社地中央の一本の大きな楠が五反林 津島社のシンボルである。社頭正面全景。右に津島神社社号標(1915)、神明鳥居(1936)の先に石の番塀を構えている。愛知県神社庁の津島社解説は以下。祭神 素戔嗚命、氏子域 天王町駒野、天王町五反林、祭礼 10月第3日曜日。尾張誌、尾張名所図会に目を通すが津島社の記述は見つけられなかった。上、玉垣沿いに建てられていた「天王の森」の石碑。明治政府による神仏分離以前は牛頭天王社と呼ばれた津島神社、敢えて「天王の森」の碑を建てたのは神仏分離以前の名を残したかったのだろうか。下、境内左の手水鉢と奥の石碑は達筆過ぎで読めず。境内の楠の巨木。樹齢は不明ですが力強く張り出した根には自然の息吹が伝わってくる。注連縄は張られていないが津島社の御神木として存在感がある。根元に建てられた百度石は大正10年(1921)寄進のもの。番塀、社殿の正面全景。楠の根の影響からか、蕃塀の右側が持ち上げられているように見える。社殿右側から眺める全景。綺麗に手入れされた境内に四方吹き抜けの切妻拝殿、そこから渡廊を経て祭文殿・本殿と連なり、右側に境内社が祀られています。拝殿前を守護する狛犬は2005年寄進のもの。拝殿額。拝殿から本殿方向の眺め。由緒・祭神に繋がると思われる額が掛けられいたが読み取れず、創建・祭神は神社庁のものを引用するしかなさそうです。祭文殿左にも境内社の姿がある。右側の境内社は「金刀比羅社」金刀比羅社の鬼には〇金、津島社祭文殿の鬼には津島社の名が入る。左側見た社殿全景、境内社の奥にも堂の姿がある。左の境内社は「保食神(うけもちのかみ)」、食物を司る神として稲荷神社にも祀られることがある。後方の堂は「薬師堂」。明治政府による神仏分離令の難から逃れたものか、神仏習合時の姿を留めている。神社の由緒が定かではないので、村人から護られたものか、後に祀られたものか定かではありませんが、堂内中央には本尊の薬師如来像が安置されていました。堂の前には長椅子が置かれ、陽射しを受けながら住民が集まり語らいの場になっているのかもしれない。薬師堂から津島社本殿を眺める。高い塀で囲われ、唯一見られたのがこの一枚、恐らく板宮造りの社かと思われます。拝殿から社頭の眺め。小型の蕃塀を補う様に楠の太い幹が本殿を外界から遮っている。東から見た社地全景、一本の巨樹が聳えるこの光景が印象に残る神社です。今回大口町の神社を歩いて巡ってきましたが、今回は津島神社で締めくくり、堀尾跡公園に戻る事にします。今回堀尾跡公園を起点にして午前・午後と歩いたルートは以下。午後 裁断橋から東方向約3.2㌔・午前 裁断橋から西方向約4.3㌔結構距離はありますが、平坦な道ばかりなので苦になるものではありませんでした。天王町 津島社創建 / 不明祭神 / 素戔嗚命境内社 / 金刀比羅社、保食神所在地 / 江南市天王町五反林72北山 八剱神社から津島社 / 八剱神社から10分少々東へ進み、県道157号線を越えた左。参拝日 / 2024/01/26関連記事 /・北山 八剱神社・安良 八王子社・稲木神社・天王町「稲荷社」
2024.03.05
コメント(0)
安良 八王子社から今回掲載する江南市北山町に鎮座する八劔神社へは、南西に1.4㌔徒歩約20分強の場所になります。北山 八劔神社の社地全景。名鉄の踏切渋滞を解消するために道路整備された布袋駅線の北側に面している。上は明治24年の地図と右がほゞ現在の地図の比較。当時の小折北山集落の西に鳥居が記されています。現在の鎮座地周囲は住宅が広がり、社頭前の交差点付近には大型スーパーもあり利便性の高い地域。ここまで来ると名鉄犬山線布袋駅へは5分もあれば辿り着ける。社頭から境内を眺める。住宅地にあって広い社地を持つ神社で、境内で一際目を引くのは二本の巨樹だろう。建物の配置は鳥居をくぐり左側に手水舎、正面に境内社、右側に社殿が連なる。鳥居をくぐった両脇で一対の狛犬が守護する。耳垂れで愛嬌のある顔つきのこの狛犬、明治40年(1907)に寄進されたもの。円高、安価な人件を追い風に某大国から大量生産・輸入された狛犬にはない個性的なもの。境内左の手水舎、手水鉢。木造瓦葺で四つ脚の手水舎で、鉢は明治18年(1885)当時の先人達から寄贈されたもの。参道右側の神馬像。鞍には五七の桐紋が入る。東側から見る社殿全景。印象的な二本の巨樹の高さは優に社殿を凌ぎ伸び伸びと空に向かい聳えている。手前の樹と奥の樹は種類が違う様に見え、手前の巨樹は木肌から楠だと思われます、トトロでも出てきそうな雰囲気がある見事な樹形です。街中の楠は気の毒なほど枝打ちされますが、こちらは実に伸びやかに年輪を重ねている。奥の樹は一位樫の御神木。社頭の眺め。石の神明鳥居は大正2年(1913)、左の「八剱神社」社号標は昭和43年(1968)に熱田神宮宮司の揮毫。境内から拝殿・本殿方向と左の御神木。御神木の周囲は茶色に染まっています、その正体は樫の実。小さい頃、明治生まれの婆さんが樫の実を使って豆腐や菓子にして口にしたことがある。今の様に美味しいものが潤沢に手に入る時代ではなく、贅沢と云えば砂糖まみれのコーラや人工着色量、人口甘味料で育った年代なので、口にしたことのある人はいると思う。当時の人は身近な自然を食す豊富な知識を持っていたもので、子供ながらに大きな存在にみえたものだ。時は過ぎ、今は伝承や知識もなくなり、毒性のある似たような外来種が幅を利かせ、迂闊に手は出せなくなった。話が脱線した戻ろう。拝殿正面全景。大棟には7本の鰹木、外削ぎの千木が付き、両脇に翼殿が連なる。その前には一対の狛犬。東海地方ではスタンダードな容姿のもので子連れ毬持ちのもの。年代未確認。拝殿紋幕には大きな桐の紋が入る。愛知県神社庁による八剱社の解説によれば、氏子域は江南市の北山町、布袋町、南山町で、祭神は日本武尊です。 祭礼は10月の第3日曜日に行われます。境内には創建時期や由緒を記した案内がなく、調べてみると現在は八剱神社と称していますが、古くは火明命を祀る石作神社として始まり、延喜式の「尾張国・丹羽郡石作神社」と記された論社と見られる古社のようです。天文19年の石作神社の棟札が残るとされ、1844年に編纂された尾張誌では石作神社として記されており、経緯は不明ですが、石作神社の境内社であった八剱社が社名として伝わるようになり、現在に至っているようです。往時の挿絵でも・・・と、めくってみましたが残念、何かで見つけたらコッソリ入れる事にします。拝殿左から幣殿・本殿の眺め、社殿全体傷みもなく綺麗な状態でした。拝殿と切妻の幣殿が一体化し、本殿に接続しています。本殿は5本の鰹木と外削ぎの千木が付いた神明造です。翼殿から始まり、本殿の領域を囲むように高い塀が続いています。昭和40年(1965)には、社殿が大きく東に移動したようで、写真右側の石畳を北に進むと「旧本殿跡」の石標が立てられていました。大正2年(1913)に寄進された鳥居から見ると、社殿が右にずれているのはその名残かもしれません。 現在では、鳥居の正面には御神木の一位樫がそびえ立っています。拝殿左の御神木と境内社。江南市指定文化財の御神木イチイカシ。堂々たる幹を持ち、木肌からも重ねた樹齢を感じさせる。樹齢は推定500年とされ、室町時代に芽生えたものが今も衰える事無く聳えている。樹高は10㍍と表記されていますが、間近から眺めるとそんなものではなく、見上げる者を一位樫が包み込んでいるような気にさせる。昭和54年の台風で被害を受けたようで、主幹は切断され屋根が架けられている。古くは村人の空腹をしのぐ貴重な存在だった事だろう。枝の下の地面は無数の樫の実で覆い尽くされ、周囲を歩いていると実は砕け乾いた音がする。御神木左に三社祀られていますが、社名に繋がる寄進物がなく不明です。写真は三社の境内社の右側のもの。中央の社。左の社。境内東から八剱神社の杜と社殿の光景。規模の大小にかかわらず、神社はやはり自然と一体化した郊外がいい。八剱神社創建 / 不明(天文19年の棟札)祭神 / 日本武尊境内社 / 不明社3社八王子社から八剱神社 / 布袋駅方向に徒歩約20分程所在地 / 江南市北山町西138参拝日 / 2024/01/26関連記事 /・安良 八王子社・稲木神社・天王町「稲荷社」上は八剱神社の東隣の道路脇に祀られた二つの社。社名は不明ですが、蝋燭立てもあり新しい榊が供えられており、生活に密着した神さまが祀られているのだろう。子供の頃、親戚の家へ向かう道すがら、こうした風景がありました。しかし、道路が整備され、街並みが洗練されるにつれ、こうした風景は見なくなりました。
2024.03.04
コメント(0)
江南市安良町八王子「八王子社」稲木神社から北方向にある保育園東に隣接する神社で、稲木神社から徒歩5分程の場所に鎮座します。稲木神社から北へ少し歩いた先から見る「八王子社」の杜。たわわに実るのはみかんだろうか。枯らしてばかりの我家の果樹と比べ上手に育てるものだ、感心する。上は明治時代の当地とほゞ現在の移り変わりと鎮座地。柳街道沿いの安良集落の西側、寄木集落北側の田畑の中に鳥居の印が見え、大正時代に入ると安良集落から神社に向け参道が現れます。社殿は南向きに配置され、参道は此の南側と東の二つあります。こり南側には注連縄門と右手に「八王子社」社標(1909年寄進)、正面に社殿が連なります。東側の参道には鳥居もあり、そちらが正参道の様にも見えます。社地東側の参道口全景。こちらが大正時代に作られた参道と思われます。一対の常夜灯(1906年寄進)と左に社標(1925年)、石の明神鳥居を構えています。社標の寄進年だけで見れば南側が古く、社殿配置からみると南が正参道だろうか。取り敢えずこちらから境内に進んで見る。社頭右側の一つ物の解説。尾張名所図会に力長の若宮八幡社祭礼として記され、八王子社鎮座地の安良からは、神功皇后を模した人形(おでこ様)を馬に乗せ、取り囲むようにして若宮八幡社、八王子社にねり歩き奉納するものという。江南市指定文化財で、おでこ様は永享元年(1747)に制作されたものという。尾張名所図会後編巻6丹羽郡より力長若宮八幡社挿絵から一つ物奉納の様子を抜粋。若宮八幡社境内でおでこ様を乗せて拝殿に向かう当時の様子が描かれていた。他にも飾り付けられ待機する馬の様子が見える。八王子社の由緒等記されているか尾張志含め目を通すが、おでこ様以外に神社の記述は見当たらなかった。境内でも由緒を目にしなかったので詳細は良く分かりません。云えるのは挿絵が描かれた当時、恒例行事として祭礼が行われていた事になり、江戸時代には確実に八王子社は鎮座していたようだ。鳥居の額は八王子社。鳥居をくぐると手水舎に向けて真っすぐに参道が伸びる。右側は遊具が整備された公園となっており、北側には参拝駐車可能な余地もあります。稲荷社。参道右側の杜の中に東を向いて鎮座する。稲荷社付近の楠の御神木。樹々が生い茂る杜ではなく、境内のほゞ中央の4本の巨樹が杜を形作っている。なので、風の通りも良くて居心地のいい明るい森です。公園から社殿の眺め。拝殿、祭文殿、本殿と連なり、本殿右に境内社の姿がある。公園から境内社に向かってみます。公園北側から見る本殿と境内社と二つの石。境内社の右に祀られるのはどちらも山神でした。山神の左の三社相殿の境内社。左は伊勢神宮、右は津島神社、熊野本宮が祀られています。公園からの流れでいきなり本殿脇まで来てしまったので、南参道から境内を回ることに。南参道から拝殿の眺め。左側の手水舎と龍口。この龍は髭や角が控え目だなぁと思えば、角にはリボンか?どことなく表情も優しく見えてくる。拝殿から社殿と公園方向の眺め、境内では早咲きの桜の花が咲き始めていた。拝殿正面全景。一対の常夜灯の先に拝殿を守護する一対の狛犬の姿。拝殿の鬼には八王子の社名が入る。そこからして祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命、天穂日命、湍津姫命、市杵島姫命、田心姫命で、須佐之男命の五男三女神を祀る。拝殿は入母屋瓦葺の妻入りで、梁間、桁行ともに三間で四方は格子戸が入る拝殿前の狛犬。拝殿の妻壁には人目を引き付ける意匠は少ないようです。現在の拝殿は平成に入り修繕の手が入れられている様でした。拝殿から祭文殿の眺め、両脇の翼殿から築地塀が本殿域を囲う。本殿域全景。拝殿から本殿方向を眺める。大棟瓦には八王子社。祭文殿は明治39年(1906)に寄進された小振りな狛犬が守護する。「八王子」の額は明治21年(1888)のもの。格子戸から渡殿、流造の本殿の眺め、両脇に小さな狛犬の姿がある。蚕影(こかげ)神社。境内左側に祀られており、蚕が作る繭から作られる絹、その蚕を司る養蚕の神を祀る神社。ひと昔前にはどこでも蚕の餌となる桑畑が見られたもので、古い農家の屋根裏には蚕が育てられていたものです。若い頃中山道の宿に泊った時、屋根裏の幼虫が桑の葉を食べる時のガサ〃、ムシャ〃。あの音は今も記憶に残っている。クワガタやカブトが飼育ケースの中で一晩中ゼリーを食べるため徘徊する音にも通じるか。本殿域左の境内社、こちらには左から春日大社、金刀比羅宮、豊受大神宮、秋葉神社の四社が祀られています。扉が微妙に開けられていたが、ちゃんと社名は表記されています。拝殿から南参道の眺め。創建時期は定かにならなかったが歴史は江戸時代、ひょっとすると安土桃山時代まで遡る神社なのかもしれない。安良 八王子社創建 / 不明祭神 / 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命、天穂日命、湍津姫命、市杵島姫命、田心姫命で、須佐之男命境内社 / 津島神社、熊野本宮、蚕影神社、春日大社、金刀比羅宮、豊受大神宮、秋葉神社所在地 / 江南市安良町八王子138稲木神社から八王子社 / 北へ徒歩5分程参拝日 / 2024/01/26関連記事 / ・稲木神社・天王町「稲荷社」
2024.03.01
コメント(0)
堀尾跡公園駐車場から今回の目的地稲木神社は、県道176号線を西へ徒歩15分程で到着します。上は県道沿いに建てられた「郷社 稲木神社」社号標。県道から別れ、北に続くこの道を2.3分進んだ左に社頭があります。江南市寄木町稲木稲木神社社地全景。稲木神社は江南市の中心部を流れる青木川左岸の農地と住宅が点在する場所に鎮座し、周辺には他にも神社が点在します。公共交通機関で訪れるなら、名鉄犬山線「布袋」駅から北東に徒歩30分の距離にあります。以前名古屋市天白区八事天道に鎮座する天道山高照寺、五社宮を訪れましたが、それらはここ稲木神社がはじまりと云う事から訪れる事にしました。東向きに社頭を構え、西側の寄木会館を含めた広い社地全周が玉垣で囲まれています。社地西側は田畑から姿を変え住居が集まっていますが、東側には今も田畑が広がっています。社頭から境内の眺め。社頭右に「式内 稲木神社」の社号標、石灯籠があり、その先に石の神明鳥居と太鼓橋があり、その先は蕃塀、社殿と続き、右側に境内社、左に参集殿社務所、手水舎が主な建物で、境内社後方には稲木会館がある。稲木神社の創建時期は不明ですが、一説によると古代氏族の稲木別が、祖神の大中津日子命を祀り創建したのが起こりとされます。寛保元年(1741)、天道の宮、お天道さんとも称された天道宮は末社の五社(日宮・月宮・星宮・神明社・八坂社)とともに、現在の名古屋市天白区八事天道に移され、高照寺の禅尼が社祀を司っていましたが、明治元年(1868)7月に末社とともに再び現在地に復興されたもの。常夜灯寄進年は明治43年(1910)社頭両脇には西を向いて二社が祀られています。社頭向かって左側のこちらの社は稲荷社、祭神は宇迦之御魂命。創建時は不明。その右手に注連縄が架けられた石が安置されていますが、恐らく山神さまかもしれないが、正面に文字が刻まれておらず正体不明。社頭向かって右側のこちらの社は秋葉社、祭神は火産霊神。創建時は不明。鳥居から社殿の眺め。鳥居をくぐるとすぐに太鼓橋があり、その先に石造の番塀がある。太鼓橋から蕃塀、拝殿の眺め。綺麗な曲線を描く石造の橋で、要石を支える桁の側面に寄進年が刻まれていたが元号は良く見えなかった。境内左の由緒碑と手水舎。内容は以下。稲木神社(通称お天道さん)祭神は天照大神、大中津日子命(垂仁天皇の皇子)社格は旧郷社で江南市で最も由緒正しい神社であり、此地は和名抄(931~938編纂)に丹羽郡稲木「伊奈木」と記されており、古き当郡の地名であることから、延喜式神名帳には丹羽郡稲木神社と記され、古言に天道の宮と記された、今より約一千数百年前の大古時代の古社であることが明らかである。古来より皇室の御尊敬が深く、中世に至っては尾張藩の信仰が深かった。尚、当社は丹羽郡稲木の庄五十三村の総社であった。明治三年(1867)九月に犬山藩廰に於て、式内稲木神社に確定された。明治四十四年(1911)十二月に幣帛供進指定社。大正十二年(1923)二月に郷社に列せられた名社である。と書かれているが八事天道に移転、再び戻ったことは記されていない。年代は不明ですが、鉢の前面に天道山の山号が刻まれ、神仏習合時の名残が残る。境内左の参籠所。東向きに建てられたこの建物の用途は良く分からない。参集殿だろうか。稲木神社社殿全景、右に境内社が纏められています。社殿は左の拝殿から渡廊、幣殿と繋がり、祭文殿を経て本殿に繋がるもので社殿は全周を玉垣で囲われています。拝殿は四方吹き抜けの木造瓦葺で桁行・梁間共に三間の切妻造妻入りのもの。手前で一対の狛犬が守護する。左の燈明台は明治後期に寄進されたもの。昭和9年(1934)寄進の狛犬。骨太で肉付きの良い狛犬の体には紋(呼称不明)が刻まれている。稲木の名が入れられた鬼瓦。妻壁と懸魚。何れも奇をてらったものではなくシンプルなデザイン。拝殿額は天道宮。鈴を鳴らして参拝するが、周囲が静かなこともあり鈴の良くなること。拝殿から幣殿・祭文殿・本殿方向の眺め、この渡廊の両脇でも狛犬が守護する。祭神は稲木別の祖神とされる大中津日子命。拝殿左の祓戸大神。社名から、瀬織津比咩、速開津比咩、気吹戸主、速佐須良比咩の祓戸四神が祀られていると思われます。南側から幣殿から続く祭文殿と本殿の眺め。本殿後方から拝殿方向の社殿。本殿は装飾は控えた銅葺屋根の一間社流造。拝殿右から渡廊。左右に安置される狛犬(年代不詳)。同祭文殿と本殿、脇障子には彫飾りが施されていたが、これ以上寄れず詳細は不明。拝殿右の境内社。この一画には6社が纏められています。入口右のこの社は白山社、祭神は白山比咩命。境内左の二社。手前から豊受大神を祀る神明社、左の内削ぎの置き千木と3本の鰹木が載る社は八坂社、祭神は須佐之男命。境内正面の三社。右が月宮社、祭神は月夜見命。中央の社が日宮社で天照大御神を祀る。左が五百筒磐村命を祀る星宮社。拝殿から社頭の眺め。政治腐敗した今の国政で不満渦巻く現実の世界を遮るように蕃塀が聳えている。恥ずべき現在の状況はとても見せられたものじゃない。八事高照寺を訪れ、縁あってはじまりの地稲木神社を訪れましたが、長い歴史を持つ神社も時の政府方針に翻弄された姿なんだろう。取り敢えず一番の目的だった稲木神社の参拝を終える。社頭から少し北に向かった先から東方向の眺め。森があればそこには神社がある。視界の広いこのあたりではどこで引き返すか引き際が難しくなる。稲木神社創建 / 不明祭神 / 大中津日子命境内社 / 稲荷社、秋葉社、祓戸大神、白山社、神明社、八坂社、月宮社、日宮社、星宮社所在地 / 江南市寄木町稲木96稲荷社から稲木神社 / 県道176号線を直進3分程の社号標を右折、社頭まで徒歩3分。参拝日 / 2024/01/26関連記事 / ・天王町「稲荷社」・天道山 高照寺・五社宮 (名古屋市天白区八事天道)
2024.02.29
コメント(0)
五条川に架かる裁断橋がある堀尾趾公園。前回までは東側の神社を回りましたが、今回から西方向の神社を巡ります。堀尾趾公園の北側を東西に延びる県道176号線、そこを西に10分程先の天王町交差点に向かいます。天王町交差点から北東方向の眺め。稲荷社はこの交差点角に鎮座します。鎮座地はこれまでの丹羽郡大口町から江南市天王町に変わります。五条川右岸の柳街道脇に鎮座します。交差点から見た稲荷社全景。歩道と社地は山茶花の生垣で別けられている。社頭には幾つもの赤鳥居が立てられ稲荷堂に続いている。天王町の稲荷社はGマップ上では記されていましたが、今昔マップon the web上で記されておらず、創建時期の推測は出来ない状況でした。神社庁・自治体など調べて見ましたが、由緒など詳細は分からなかった。なので写真のような稲荷社がここにあります、としかお伝え出来ない。外観は県道沿いに南向きに鳥居を構え、寄棟瓦葺の稲荷堂があり、佇まいは地域に住む稲荷講信者の方々が祭祀したものか、見方によっては個人祭祀のようにも見えます、しかしそれも定かにはならない。鳥居から堂の眺め。鳥居の先には燈籠と狛狐の姿がある。堂前を守護する一対の狛狐、寄進年は未確認です。悲壮感漂う痩せたものではなく、いかにも狐らしい姿をしている。けっして広くない境内ですが、左には手水鉢、燈明台も備えられており、左奥に石碑が建てられています。参拝を済ませ、堂内を見させてもう。社の姿は確認できず、伏見稲荷系?豊川稲荷系?、ひょっとしてお千代保稲荷から勧請されたものか定かではない。境内の石碑。「井上鍬次郎翁之碑」と刻まれているように見える、この地に貢献された方なんだろう、碑文を見なかったので、調べてみたが分からなかった。堂から社頭の眺め。天王町「稲荷社」創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 江南市天王町五反林8-8参拝日 / 2024/01/26堀尾趾公園駐車場から稲荷社 / 公園北側を東西に延びる県道176号線を左折、天王町交差点まで徒歩10分。関連記事 / ・天神社(丹羽郡大口町秋田)・秋田 津島社(丹羽郡大口町秋田)・秋田 神明社(丹羽郡大口町秋田)・金刀比羅社(丹羽郡大口町秋田)・八剱社(丹羽郡大口町)・堀尾吉晴邸跡・堀尾社と若宮八幡社・裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)
2024.02.28
コメント(0)
丹羽郡大口町秋田1の津島社社頭から次の目的地は県道179号線を西に進みます。県道沿いの右手に山神さまが見えてきたらその先で左に向かい南下します。上は目的地天神社と山神の位置を示したもので、天神社は明治24年当時既に記されている。こうして見ると東の秋田集落と西の御供所集落のほゞ中間に位置し、当時の神社付近に集落はなかったようです。右手に見えている杜が今回の大口町秋田2の天神社で、津島社社頭から移動時間は西に4分程の場所になります。社頭はもう少し南下した西側になります。社頭から天神社の杜の全景。杜の南側は一面田圃が広がり、田圃の中に社頭から杜に続く参道が伸びています。社頭には「郷社 天神社」の社号標があり、先に進んだ右手方向に二つの鳥居を構えています。杜に続く参道に建てられた二つの神明鳥居。田植えが終わった時期は緑溢れる光景を見せてくれるんだろう。ニノ鳥居から鬱蒼とした杜に包まれた境内の眺め。鳥居をくぐると明治の元号が刻まれた石灯籠があり、その後方には二つの山神さまが祀られています。春になると山から山の神が降りてきて、田の神になり秋に実りをもたらし、再び山に戻るとされる。食物を育てるためには労力と根気が伴って実りに結びつくが、プランターの野菜一つ満足に育てられない自分には到底無理な技術。制御できない自然を相手にする農家にとって、山神さまは今も大切な存在なんだろう。山神をよく見かけるのもこのあたりの土地柄を現している。境内左の手水舎。天神社拝殿正面から社殿の眺め。拝殿手前に一対の狛犬、入母屋瓦葺で妻入の拝殿、渡廊を経て祭文殿、本殿に繋がる。現在の拝殿は大正7年(1918)に建替えられているようです。境内の左には境内社が纏められています。拝殿前を守護する狛犬は大正14年(1925)に寄進されたもの。1世紀近い年月は風貌にも表れている。拝殿妻壁に拝殿額は見られなかったが、写真の「湯の花神事」の解説が架けられています。町指定文化財で、神事は別名「お湯立て」とも呼ばれ、往古から伝わる姿を今も伝えているという。秋の豊年祭で行われ、この地方では珍しい神事だとか。神域に竈門を作り、釜に水を満たし藁で作った蓋をしてに湯を沸かし神前に供えるもので、その湯を飲むと夏病みしないと伝えられていると云う。大口村誌の天神社解説は以下のようなもの。「郷社 天神社 大字秋田字宮前19番地。奈良朝の古より12ケ郷の尊崇深く、老樹鬱蒼たる森深く高天原に千木高知りて神鎮まり給うは郷社天神社である。尾張志に「奈良志社」長桜村郷家の西にありて天神と称す本国帳に丹羽郡從三位奈良志/天神とある是なり。往古奈良の落人、小森山象この地に神霊を負い来てこの村を拓き、ここに社を建て天神七代を祀ったことに始まる。その後この宮は長桜村、替地新田、宗雲新田、八佐工門新田、傳右工門新田、外坪村、大屋敷村、安艮村、御供所村、三右エ門新田、九郎右エ門新田、小折新田の12ケ村の共有するところとなり、明治4年(1871)に郷社に定められた」鎮座地についてふたつの説があるようです。ひとつは尾張国内神名帳に正四位下 奈良志天神とあり。江戸時代に書かれた本国神名帳集説(1707)、張州府志(1752)、尾張徇行記(1822)では中奈良村(江南市中奈良)が鎮座地と記される。一方で尾張志(1822)では長桜村の天神社が奈良志天神とされるようです。天神社鎮座地の長桜村の西側は御供所村の奈良子集落と接しており、もともとは奈良子の本居神であったたが、長桜村を中心として発展したことから後に長桜村の本居神となったいう。因みに現在の地図から江南市中奈良や近隣には天神社は見られません。いずれにせよ平安時代・江戸時代の地史に記される長い歴史を持つ神社であることは揺るぎないようです。祭神は天神七代。天地開闢の初めに現れた7代の神。国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊、(以下は対偶神。二神で1代と数える)埿土煑尊・沙土煑尊、大戸之道尊・大苫辺尊、面足尊・惶根尊、伊弉諾尊・伊弉冉尊の7代。大正8年、春日社(武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)を合祀。境内社は以下四社が境内西側に祀られています。津島社(須佐之男命)、秋葉社(火之迦具土神)、稲荷社(倉稲魂神・猿田彦神・大宮比咩神)、御嶽社(国之常立神)何れも由緒は不明。は拝殿左から祭文殿・本殿域の眺め。祭文殿は切妻瓦葺で両側に脇殿を持ち、築地塀が本殿域周囲を囲うので本殿域の様子は見通せない。拝殿と祭文殿は渡廊で結ばれています。本殿は銅葺の一間社流造のようで、本殿から祭文殿は渡殿で繋がれているようです。本殿は明治31年(1898)に建替えられているようで、こうして本殿・渡殿・祭文殿・拝殿を見る限り、その後も補修の手が入れられているようです。境内左の境内社。手前から秋葉社、稲荷社、津島社、御嶽社と横一列に祀られています。拝殿から社頭の眺め。少し前まで社頭の先は田畑が広がっていたが、その面積は随分と少なくなり住宅が迫ってきているようです。しかし大口村史が書かれた当時とこの参道や境内は何ら変わる事はなく、唯一違うのは新たに建てられたニノ鳥居(1985)くらいだろうか。堀尾趾公園から歩き始め以下の神社、天神社含め再び堀尾趾公園に戻ると一周約3.2㌔、所要時間は44分。写真を撮りながら戻るまで2時間強でした。次回は堀尾趾公園西側の神社を取り上げます。天神社創建 / 不明祭神 / 天神七代境内社 / 秋葉社、稲荷社、津島社、御嶽社参拝日 / 2024/01/26所在地 / 愛知県丹羽郡大口町秋田3-2津島神社から天神社 / 津島社社頭から西に4分程関連記事 / ・秋田 津島社(丹羽郡大口町秋田)・秋田 神明社(丹羽郡大口町秋田)・金刀比羅社(丹羽郡大口町秋田)・八剱社(丹羽郡大口町)・堀尾吉晴邸跡・堀尾社と若宮八幡社・裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)
2024.02.27
コメント(0)
神明社を後にして次の目的地秋田 津島社へは更に北に向かい、県道179号線を左に進むと県道右側に津島社の社標が現れます。県道に面した津島社社頭は右に「村社 津島社」の社標があり、その先に注連柱がある。間口が狭いので、車で探そうとすると見過ごすかもしれない。もっとも、車で訪れても止め置く場所がない。注連柱の先にニノ鳥居(1935)の石の神明鳥居があり、真っすぐ奥に伸びる参道の先に三ノ鳥居の姿がある。間口は狭いながら、南北に長い社地を持った神社です。明治24年とほゞ現在の鎮座地の比較。長桜集落北外れにあたり、この地図上に鳥居の姿が現れるのは昭和43年以降から、それをもって創建時期を推し量るのは、神明社、金刀比羅社の例から見ても無理がある。愛知県神社庁に津島神社の解説があり、相変わらず結果。「祭神 須佐之男命氏子地域 丹羽郡大口町:秋田、八佐例祭日 10月第2日曜日」とあった。今回も大口村史を頼りに調べた結果は以下内容だった。「津島社 大字秋田字屋敷越一番地参道彌廣き屋敷越の地をよき處と氏子の尊崇日に深く永しへに鎮まり給ふは村社津島社である。祭神 須佐之男命由緒 創立。勧請共に詳らかでない。境内社稲荷社 祭神 倉稲魂命、猿田彦神、大宮比売神秋葉社 祭神 火之迦具土神」と愛知県神社庁より詳細に書かれていた。図書館に予約するか、あの分厚い本を買って下さいという姿勢のようだ。ニノ鳥居左脇に小道があり、その小道と参道の交わる角に注連縄が架けられた覆屋が祀られています。中には玉子のような石と宝塔のような石が安置されていますが、表面に文字が刻まれている様子はなく詳細は分からない。境内北側にもこうした覆屋があり、同様に山神らしき石が祀られています。両脇を建物に挟まれた参道を進み三ノ鳥居(1918)から境内の眺め。参道脇の石灯籠、竿には大正6年(1917)と刻まれている。鳥居をくぐると社殿が露わになる。境内の主な建屋配置は、参道左から手水舎、神馬像、拝殿・祭文殿・本殿、本殿左に境内社二社が祀られています。拝殿右には北側の道路から続く脇参道があり、そこに山神らしき石を安置する祠が祀られています。手水鉢の龍は髭や角が立派だが、細かい造の鱗が印象に残る。拝殿正面全景。切妻瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのもの。社殿全景。拝殿は梁間三間、桁行二間で妻壁などの装飾は控えたすっきりとした印象のもの。拝殿額。拝殿左から祭文殿・本殿と境内社二社。祭文殿に渡廊の左右で一対の狛犬が守護する。子連れ毬持ちの狛犬、年代は未確認ですが、使われている石や造形を見ると大陸で大量生産されるものとは違い、趣のある姿のものある。本殿は一間社流造のようです。祭神は須佐之男命。本殿左の境内社。左が秋葉社で右が稲荷社。創建時期など詳細は分からなかった北側参道の祠。中に安置されている石、こちらも表面に何も刻まれてはいないが、ニノ鳥居脇の石とは違い青系で艶のある石。正体はやはり分からない。拝殿前から社頭の眺め。けっして広い境内ではないけれど、郊外の神社らしい長い参道を持ち、昔から集落の守り神として受け継がれてきた、そんな佇まいの神社です。津島社創建 / 不明祭神 / 須佐之男命境内社 / 稲荷社(倉稲魂命、猿田彦神、大宮比売神)、秋葉社(火之迦具土神)所在地 / 愛知県丹羽郡大口町秋田1-106秋田 神明社から津島社 / 神明社から北の県道179号線沿いの社頭まで徒歩4分参拝日 / 2024/01/26関連記事 / ・秋田 神明社(丹羽郡大口町秋田)・金刀比羅社(丹羽郡大口町秋田)・八剱社(丹羽郡大口町)・堀尾吉晴邸跡・堀尾社と若宮八幡社・裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)
2024.02.24
コメント(0)
前回掲載した金刀比羅社から東へ、一筋目を左折したその先に鎮座するのが秋田 神明社。金刀比羅社からだと2分程の場所になる。写真は鎮座地南から北側の社地全景。鎮座地周辺は田畑が多く残り、隣家とは余裕をもって建てられた民家が点在する長閑な住宅地。明治から現在までの地図には秋田 神明社は一度も現れてこないが、Gマップ上では鎮座地は示されています。祭神は天照大御神で、神社の由緒・創建時期など詳細は良く分からなかった。社殿は南向きに建てられ、石の明神鳥居と左に木造の朱の鳥居を構えています。前回に引き続き大口村史から秋田 神明社を探すと以下内容が確認できた。「神明社大字秋田字宮東86番地。 長桜の郷の端に鎮座し、祭神は天照大神。兵火にあい、勧請年月は詳らかではないが、当字鈴木一族10戸の氏神として崇敬が篤かったが、近来長桜字民全部の信仰するところとなり、昭和8年(1933)拝殿は改築された。 正徳5年(1510)9月再建の棟札があるので、それ以前の創立であることが分かる。氏子28戸。 境内社は稲荷社。祭神は猿田彦神、大宮比咩神。 境内の建物 神明造亜鉛葺。拝殿切妻瓦葺、二間に一間二尺」とあり、稲荷社は創建時期は不明ですが、伏見稲荷の中社・上社の祭神が勧請されたようです。 村史編纂当時の社殿配置から稲荷社の配置を見ると、現在拝殿の左にありますが、当時は右側にあったようです。拝殿左の観音堂は当時から現在まで動いていないようです。 村史の編纂時期が昭和37年(1962)なので、それ以降も一度手が入れられ、その際に現在の配置になったようです。神社東側から見た神明社社殿。左に「神明社」社標、境内に切妻瓦葺の梁間3間、桁行2間で四方吹き抜けの拝殿と北側に神明社本殿と境内の稲荷社、西側に地蔵堂がある。手前の神明社は一対の狛犬が安置され、石組みで一段高く盛られた本殿域に板宮造りの社が祀られています。内削ぎの置千木と5本の鰹木が付く。南向きの鳥居をくぐって木造の拝殿から本殿方向の眺め。素朴な外観は、身近な村の神さまの趣が漂う。狛犬(寄進年未確認)と本殿。拝殿西から見る稲荷社(左)、神明社。稲荷社全景。周囲に狐の姿は見かけられなかった。拝殿左の観音堂。内部には一体の石の観音像が安置されていました。像の光背右に不鮮明ですが寛政2年(1790)と刻まれていた。当所から此処に祀られていたものか、周辺からこちらに祀られたものかは定かではないが、長い年月を経ていながら像に大きな傷みは見られません。神明社創建 / 正徳5年(1510)9月再建祭神 / 天照大神境内社 / 稲荷社祭神 / 猿田彦神、大宮比咩神所在地 / 愛知県丹羽郡大口町秋田3-69参拝日 / 2024/01/26金刀比羅社から神明社 / 東に向かい一つ目を左折直進左側・徒歩2分・金刀比羅社(丹羽郡大口町秋田)・八剱社(丹羽郡大口町)・堀尾吉晴邸跡・堀尾社と若宮八幡社・裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)
2024.02.23
コメント(0)
前回掲載した八剱社、その社頭の前を東西に続く生活道路を東へ約1㌔直進し、突き当りの三叉路を左に曲がった先の公園が今回の目的地、大口町秋田の金刀比羅社になります。田畑の中を東に真っすぐに続く生活道路。街から訪れた者にすれば、信号のない見通しのいい道路ですが、地元や農家の方にとっては生活道路であり農道。金刀比羅社には参拝者駐車場はないので、堀尾跡公園に駐車して15分程散策するつもりで訪れるのがいいだろう。上は鎮座地の明治24年頃とほゞ現在の比較。田畑が広がっいた一帯、現在は民家や事業所が増えたとはいえ、見通しの効く光景が広がっています。もう少し暖かくなれば土筆も見られるのではないだろうか。赤枠が鎮座地で、現在は大口町秋田となりますが、町名表記以前は大口村大字河北字柿野。明治の地図では秋田長桜集落の南外れに位置し、当時の地図には鳥居の表記は見当たりません。鎮座地に鳥居が現れるのは大正9年以降、それをもって創建を明治以降とするには無理があるかもしれない。突き当りを左に曲がった道路右側に鎮座する金刀比羅社の社地全景。周囲をフェンスに囲われた公園の一角に社殿は築かれています。公園西側の入口には金刀比羅社社標、その先に南を向いて石の明神鳥居を構えています。鬱蒼とした杜はなく、桜が植えられた明るい公園の印象。入口左の桜の老木の脇に二体の地蔵が安置されています。手前の地蔵は微笑むような表情で錫杖や宝玉など像容ははっきりし、石も綺麗で比較的新しものかもしれません。後方の地蔵さんは光背は一部欠け落ち、石全体が風化し刻まれた像容も良く分からず、右手の石標に碑文が刻まれていたが写真から識別できたのは「小折新田」のみ、往古のこの辺りは尾張藩の領地だったとされ、当時のものであれば、かなり年代は古そうで外観からもそれは感じられます。もう少ししっかり見ておけばよかった。社殿全景、狛犬は見られないが鳥居と石灯籠、切妻瓦葺で妻入りの拝殿、後方に本殿と境内社が祀られています。左の綺麗に剪定された一本の樹が御神木か。鳥居から眺める社殿。鳥居は平成元年(1989)に寄進されたもので、痛みのない社殿もその時期に改修されたのか。鳥居に掲げられる金刀比羅社の額。石灯籠は昭和55年(1980)寄進のもの。参道左の手水石(寄進年未確認)も随分時間の流れを感じさせる。石の縁の窪みはなにを意味するのか、祈願をこめて小石で打ち叩いた名残なのだろうか。盃状穴とか呼ばれ、古い神社なとでよく見かけます、明治以降にはこうした風習は絶えて行ったようですが、動機は子供の健やかな成長や多様な禍に直面し、いい方向に向かえるように願いを込めて打ち叩いた人々の積み重ねがこの窪みとなったものという。神仏にこれをするには恐れ多く、先人達の願いは境内の手水鉢や燈籠の台座に窪みとなって残る。田畑が広がるこの一帯に海運を守護する金刀比羅社が祀られた背景は良く分からない。神社の創建時など詳細は定かではなく、愛知県神社庁から調べると「祭神 大物主命、崇徳天皇、祭礼日旧暦10月10日」のみの解説で相変わらずの内容。御祭神の大物主命の御神徳は海運に留まらず多くの開運を授けて頂ける。大口村史を調べると流石地元だけにもう少ししっかりと記されていました。「長桜の南端に老樹生い茂る森がある。ここに鎮座するのは金刀比羅社。祭神は大物主の命、崇徳天皇。由緒創立年代は詳らかではないが、字笹田の土田彌十郎の勧請されたものと伝わる。明治の始め頃から村人に継がれ、大字秋田一圓の氏子131戸から篤く崇敬されている。境内社 白山社 祭神 菊理姫命、加具土命社殿 神明造板葺祭文殿 入母屋瓦葺手洗 長さ4尺、巾1尺5寸」とここまでは辿り着けました。神社の由緒から脱線しますが、社地についてこんな話を見付けた。金刀比羅社境内には明治10年(1877)から10年間ほど「秋田学校」が建っていたそうだ。その後、長桜・替地・宗雲・伝右・八佐が合併し秋田村が成立します。しかし、明治22年(1889)には秋田村、豊田村、大屋敷村が合併して太田村となり、太田尋常小学校に集約されしまうため、秋田学校は僅か10数年で姿を消したそうだ。今は静かな金刀比羅社境内ですが、当時は秋田村の子供達の声で溢れたという。明治の地図で見ると、当時の社地は現在より更に東に広がっていたようです。今でも余裕のある境内と公園、学童クラブが建ちそうな広々とした空間が残されている。社殿東側の境内社側から眺める本殿。拝殿からは渡廊で一間社流造りの本殿と結ばれています。見上げる高さに祀られた本殿の棟には3本の鰹木と外削ぎの千木が付く。本殿右に板宮造りの境内社、飾られた注連縄の立派な事。社名札がないので明確ではないが、大口村史からするとこれは白山社。社殿西側から見る金刀比羅社本殿全景。村史が記された当時は神明造りのでしたが、継がれていく間に現在の形になって行ったのでしょう。この神社を勧請された土田彌十郎の姿を追いかけて見たが、定かにはならず、創建時期の推察は出来なかった。一つ言えるのは地図に鳥居の印が描かれる以前、江戸末期には既に鎮座していたものと思われます。境内西側から見るこぢんまりとした社殿の全景。入母屋造の祭文殿も本殿同様に様変わりしていったようです。拝殿から鳥居の眺め。かつて子供達の声と姿が絶えなかった社地も今は静けさだけが漂っていた。その昔は老樹生い茂る森も、今ではフェンスに囲われ、神さまや地蔵さんに見守られながら子供が遊ぶ良い場所に姿を変えています。街中の住宅やビルに囲まれ窮屈そうに鎮座する神社にはない好きな神社の光景だ。金刀比羅社創建 / 不明祭神 / 大物主命 崇徳天皇境内社 / 白山社所在地 / 丹羽郡大口町秋田3-233-1参拝日 /2024/01/26八剱社から徒歩で金刀比羅社 / 社頭前の通りを東進17分程関連記事 /・八剱社(丹羽郡大口町)・堀尾吉晴邸跡・堀尾社と若宮八幡社・裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)
2024.02.21
コメント(0)
裁断橋と姥堂、堀尾吉晴邸跡・堀尾社・若宮八幡社に続く今回は、裁断橋の南側に鎮座する八剱社。裁断橋を渡った先の堀尾跡公園にも北参道があり、社殿西側を経て社頭に向かう事も出来ます。社頭全景。右に社標、一ノ鳥居は石造神明造(1935)で、左に手水舎があります。豊かな杜に包まれた参道の左には境内社、右側に神馬、神楽殿があり、拝所に続く。更に右に堀尾吉晴邸跡や若宮八幡社と繋がり、それら含めた社地は実に広大。所在地が大口町堀尾跡とあるように、この町域全体が嘗ての堀尾一族の邸宅があった場所。此の地は鎌倉時代末期に堀尾氏が移り住み、熱田神宮別宮八剱宮から御分霊を勧請し守護神として祀った事が神社創建のはじまりで、代々熱田神宮へ神饌米を奉納していたことから御供所村と云われていた。社頭左の手水舎と古井戸。歳を重ね貫禄が漂う風貌の龍。神橋から境内の眺め。若宮八幡社から神橋の下には水を湛えた掘りが巡らされ、手水舎後方の小さな小池に繋がっており、嘗ての堀跡の趣が漂う。境内には大きな石灯籠(1998)、五七桐紋が入った神馬像、その後方に神楽殿があります。参道の先は提灯櫓と明治11年(1878)に寄進されたニノ鳥居を構え拝所に繋がる。この辺りの神社の社殿としてはかなりの規模で、普段社格は気に留めないが、東参道の社標に「村社」とあったのを思い出す。少し興味が湧いて愛知県神社庁を調べて見た。そこには祭神と丹羽郡大口町の御供所、豊田、奈良子、堀尾跡の氏神とだけしか記されておらず、相変わらずつれない回答だ。記録を調べるしかないようだが、最近視力も衰えそうしたものに目を通す根気がなくなってきた。上知我麻社。参道左に鳥居と狛犬を構え、正面に三社祀られている。鳥居をくぐった先から社殿の眺め。薄化粧した小柄な狛犬。一間社流造の社殿。左から事代主大神を祀る事代主社、乎止與命を祀る上知我麻社、大国主大神を祀る大国主社。八剱社が熱田神宮から勧請した事もあり、同様に勧請されたもの。源太夫社の縁起は以下。「源太夫社は、別名上知我麻社と呼ばれ、正二位上知我麻明神を祀っている。本宮は熱田神宮の式内にあり、八剱宮が祀られた同時期に祀られたもの。昔から歯痛に効果があるとされ、近隣地域から絶えず参拝者が訪れます。また、知恵の文殊の神として、学生や若者たちの参拝も多い。又、熱田本宮では、新生児の命名や子供たちの幸せな成長を祈る祈祷が昔から変わらず行われています」因みに、堀尾吉晴が熱田神宮よりこの地に八剱社を勧請したのが永徳2年(1383)とされる。更に拝所に向け参道を進むと左側に二社祀られています。小さな狛犬が本殿前を守護しています。左から天照大神を祀る神明社、津島社の御祭神は建速須佐之男命か。由緒については語られておらず詳細は不明。参道右側の神楽殿。桁行・梁間ともに三間の切妻銅葺屋根で四方吹き抜けのもの、妻壁には手の込んだ龍や彫物が施されています。時間帯が思わしくなくコントラストが強くて、ひと回りして何枚か収めたがなんとか見れるのはこれ一枚。建物は神楽殿と思い込んでいたが、文化財の解説によればこれは「拝殿」になるようだ。なので前記した神楽殿は「拝殿」に読み替えてください。解説は以下のようなもの。「大口町指定文化財 八剱社拝殿幕末にあたる文久3年(1863)に再建されたもので、明治35年(1902)に修理を受けている。当所の部材を比較的よく残し、彫刻の状態も良好である。彫刻は妻側に龍と唐獅子、桁側に狩猟図や騎旅図など、何かの故事・物語に取材した情景が展開されている」とある、作者は不明ですがなかなかのものです。ニノ鳥居から拝所本殿方向の眺め。堀尾跡公園にある八剱社の概説には以下のように解説されています。「堀尾氏は鎌倉時代の終わり頃、御供所に本拠を構えた終わり屈指の名族で、八剱社はその邸宅跡である。この八剱社は堀尾帯刀が熱田宮の八剱宮を勧請して、永徳2年(1383)に創建、以来再建を繰り返し今日に至る」と掲げられています。改築改修の履歴の中で直近は昭和7~10年に及ぶ昭和の大修理が行われている。寄進物の中にこの年代のものがあるのは昭和の大修理時に寄進されたのだろう。祭神は日本武尊、天照大神、菊理姫尊。拝所の前を守護する狛犬(1936)は背筋を伸ばし胸を張った凛々しい姿のもの。拝所となる神門には社殿域全周を囲う透塀が一体となり、その先の祭文殿は透塀が連なって本殿域を取り囲む。神門の「八剱宮」の額。拝所から先は広い中庭になっており、一対の大きな常夜灯が立てられている。そこから一段上がって狛犬が守護する祭文殿と本殿域を囲う透塀がある。神門は木造銅葺屋根の切妻で、門柱の前後に二本の控え柱が付く四脚門。神門右に石碑が立てられ、文字が刻まれているのだが読み取れなかった。ただ、上まで上がると中庭が良く見渡せます。ここから眺めると社殿域を囲む透塀と祭文殿の透塀が見渡せます。ここから狛犬を収めようとするも自分のカメラでは望遠がないとこれ以上は寄れない。祭文殿は入母屋銅葺屋根で、桁行三間の平入で梁間までは分からないが、二間に分かれ手前は高欄の付く舞殿の様に見えます。ここから透塀沿いに本殿方向へ。透塀の間から望む本殿。創建が南北朝時代とされることから、一間社流造の本殿の装飾も控え目なんだろうか。巨岩が組まれた本殿域後方から祭文殿方向の眺め。この辺りに来たらなぜだか鼻水が止まらない、花粉には強いはずなんだが。青い空を背景に祭文殿の鬼を見上げる。神紋は見られなかったが、杜の杉にはしっかりと花粉の入ったオレンジ色の花粉錐がある。ひょっとして花粉症かぁ、聞く所によれば突然スイッチが入るとも聞く。敏感な方にはこの時期に杜の中に入らない方が賢明かもしれない。こちらは大丈夫、綺麗な緑だね。拝所から社頭の眺め。ここに邸宅があった当時は一面田畑が広がっていたのだろ、金助と母親はここから裁断橋に向かっていった。西陽の加減だよなぁ、景色がなんとなく黄色いような気がするのは…八剱社創建 / 永徳2年(1383)祭神 / 日本武尊、天照大神、菊理姫尊境内社上知我麻社創建 / 八剱社勧請と同時期か祭神 / 乎止與命事代主社創建 / 八剱社勧請と同時期か祭神 / 事代主大神大国主社創建 / 八剱社勧請と同時期か祭神 / 大国主大神津島社創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命神明社創建 / 不明祭神 / 天照大神所在地 / 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1-67車アクセス / 名古屋から一般道で約50分参拝日 / 2024/01/26関連記事 / ・堀尾吉晴邸跡・堀尾社と若宮八幡社・裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)
2024.02.18
コメント(0)
前回掲載した大口町の裁断橋から八剱社社地沿いに南側に向かう。写真は八剱社南側の社頭の眺め。写真左が八剱社の参道で、右側が今回掲載する堀尾吉晴邸跡と若宮八幡社に続く参道になります。上は八剱社社頭脇の堀尾氏邸宅跡の解説。内容は以下「大口町指定文化財 堀尾氏邸宅跡八剱社境内は、のちの松江城主堀尾吉晴を生んだ堀尾家累代の邸宅跡と伝えられている。堀尾氏は、鎌倉時代の終わり頃、この地に移り住んだと思われ、『寛文村々覚書』にも堀尾家の居館があったことが記されている。また裁断橋物語の堀尾金助も一族の一人である」とある。堀尾家の先祖を辿っていくと、第40代天武天皇を祖とする高階氏であり、応永年間(1394~1427)から尾張国御供所村(現在の堀尾跡)に居住したといわれ、国宝として知られる松江城を築城した堀尾忠氏の父が当地出身の武将堀尾吉晴になる。堀尾吉晴は1543年に生まれ、16歳で戦で敵の首を討ち取るなど、その勇敢さで知られましたが、1611年に没しています。八剱社一帯は現在も田畑が広がり、戦国時代は堀尾吉晴はじめ、堀尾氏一族の邸宅跡があったとされますが、後に家系は途絶え現在は境内の一角に石碑類が建つのみ。遺構として鳥居南側にある堀が、当時の居館の名残とされ、境内西側に五条川と並行するように区画溝や建物跡、柱穴跡など居館があったと想定する遺構が見つかっているそうで、規模は八剱社東側から境内を含め裁断橋下流の橋あたりまでと広大だったようです。その遺構と思われる小さな掘りに架けられた神橋と参道。正面の神明鳥居は若宮八幡社のもので参道左側は八剱社に繋がっています。鳥居の手前右側が堀尾吉晴邸跡として、裁断橋の昔話の主人公堀尾金助とその母の銅像が立てられています。邸趾には「愛知県の堀尾吉晴邸趾」の石標と「金助とその母」の石碑の他にひとつの社が祀られています。左が堀尾金助とその母。鬼の茂助・仏の茂助と称され、数々の武功をあげた父吉晴の背中を見て育ち、小田原攻めに18歳で出陣し、武功をあげる事無く戦場で病死(諸説あり)し、凱旋することなく没した金助と息子の武運を願い裁断橋で見送った母の姿がここにある。堀尾吉晴邸趾。左が「金助とその母」の石碑、一間社流造の社、史蹟の石標。石標と堀尾社。比較的新しいこの社、現地で調べて見たが良く分からなかった。ただひとつ裁断橋の南側の公園に「堀尾吉晴邸趾・金助とその母・堀尾社」の看板があり、そこから察するにこの社は堀尾社ということになるが、創建時期や祭神については定かではない。邸跡の「金助とその母」の石碑。内容は裁断橋で記載したように、18歳にして小田原攻めに出陣する金助とそれを見送った母の物語が刻まれています。邸跡東に掲げられている堀尾吉晴郅趾碑陰記。「尾州丹羽郡大口村御供所は、堀尾氏代々の領土であり、その邸趾は今も尚残っています。 系図を辿ると、堀尾の元祖は天武天皇の皇子親王から出ています。親王は6世の孫、右中井峯緒に高階真人の姓を賜りました。 峯緒17世の孫、修理大夫邦経が始めてこの村を領し、以来尾張の名族となりました。邦経11世の孫、泰晴は織田信長に仕え、泰晴の子吉晴は豊臣秀吉に仕えました。 いわゆる堀尾茂助はこの人であります。山城・賤ケ嶽・長久手・小田原の諸戦役にはそれぞれ大きな功労があり、浜松に封ぜられ12万石を領した。 秀吉が五大老・三中老・五奉行を置いたとき、吉晴は中老を命ぜられました。幾ばくもなくして秀吉が亡くなりましたが、吉晴は五大老・三中老・五奉行の間にあって紛争の難問題を解決しました。 隠居してから府中におりましたので、子の忠氏が後を継ぎ、関ケ原の役後、功に依り出雲、隠岐の二州23万5千石の大守となりました。忠氏は早く死に子の忠晴が幼かったので、吉晴が代って之を治めました。 慶長16年6月17日病のために69歳で世を去り、忠晴があとを継ぎました。吉晴の人となりは情け深く、おとなしかったので、吉晴は人々から慕われました。 しかし、一旦戦場にのぞむと、怒った虎のように万人が恐れましたが、平常は戦の手柄を問うものがいても謙遜し自慢しなかったから、戦国時代にあっても友人間に人望が高かった。忠晴に子がなかったので、家は断絶し堀尾氏の正しい系統は途絶えてしまいました。 大正天皇即位の年、愛知県が名勝古蹟を調査する計画をたて、その系統の大略を後世に伝えました。昭和41丙午年10月」金助から見ると吉晴の背中は大きなものに見えたことだろう。邸趾から先の若宮八幡社。石の神明造の鳥居の参道の先には木造の蕃塀がある。参道右の手水舎があり、蕃塀の右に「若宮八幡社」の社標がある。こちらの長い髭を持つ龍はお休みのようだ。番塀は二間の間には連子窓が施されたもの、右の建物は獅子屋形倉庫とある。若宮八幡社全景。二段に盛られた社地に、一対の狛犬とその先に唐破風屋根の社が祀られている。社前の小柄の狛犬(寄進年未確認)狛犬の左右には庚申塔や山神、水神が祀られています。若宮八幡社本殿。村中安全と刻まれた玉垣は昭和4年に寄進されたもの。一間社流造の軒唐破風、脇障子が付くもので、さほど大きな物ではないが木鼻はじめ丁寧な彫が施されています。創建等詳細は不明、祭神は恐らく武神として知られる応神天皇。若宮八幡社の右は八剱社の神楽殿。八剱社については後日掲載する事として一旦境外に出てすぐ東隣の桂林寺へ。社頭から東に1~2分の場所に鎮座する大香山桂林寺、曹洞宗のお寺で本尊は聖観世音菩薩。開基など調べていませんが、元禄11年(1624)の銘が入る梵鐘があり、この辺りでは大きな伽藍を持っています。今回は境内に訪れていませんが、山門の先に見える二層の本堂の左に堀尾吉晴、金助、その母の供養塔があると云う。今回は先の予定もあり別の機会に桂林寺を掲載します。堀尾吉晴邸跡(御供所城跡)・若宮八幡社堀尾社創建・祭神 / 不明若宮八幡社創建 / 不明祭神 / 不明(応神天皇)所在地 / 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡2-28大香山 桂林寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 聖観世音菩薩開基 / 不明(1624年(元禄11年)の銘が入る梵鐘あり)所在地 / 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡2-16車アクセス / 名古屋から一般道で約50分参拝日 / 2024/01/26関連記事 / 裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)
2024.02.17
コメント(0)
全1216件 (1216件中 1-50件目)