道の駅・宿 0
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奈良県桜井市多武峰談山(たんざん)神社。 近鉄桜井駅から、県道37号線で車で20分程南の山間に鎮座する古社。毎年4月・11月に行われる蹴鞠祭りや、談(かたらい)山の紅葉に包まれる様に鎮座する社殿の美しさで知られる神社。 確かに紅葉の山々を背景に朝もやに浮かぶ談山神社はしっとりとした趣があり、若い頃その姿を収めたくて何度も訪れた場所です。紅葉の名所として知られる神社ですが、春の桜の時期も格別なものがあります。 山々が瑞々しい緑に染まり、そこに白い山桜が咲く頃の神社も華やかな美しさに溢れています。昔の季節感で恐らくこの時期だろうと狙って訪れたのは4月4日の事だった。寺川沿いに続く県道37号線を八井内交差点で右折し県道155号線に進み談山神社に向かいます。 その前にこの交差点で写真の屋形橋に立ち寄ってみました。談山神社の神域への玄関口と云ってもいい屋根付きの屋形橋は、昭和54年に新たに架け替えられたもの。 寛政3年(1791)の刻銘を持つもので、かの国学者本居宣長が明和9年(1772)3月に多武峰街道を歩きこの橋を渡り「うるはしき橋あるを渡り」(菅笠日記)と記している。屋形橋を後に、県道155号線を少し進むと右手に「別格官幣社談山神社」の社号標とその先に東大門が見えてきます。 談山神社のまさに入口で多武峰街道もここを通っていきます。左右に袖を持った瓦葺の高麗門で、脇塀の垂木の墨書きから享和3年(1803)の建立とされ、県の指定文化財になっています。 石垣と山肌の間に建てられた東大門は、山城の門の佇まいすら感じる。当日は通行止の看板があり、これより先に行きませんでしたが、門前に駐車余地があるので東大門に立ち寄る事が出来ました。 県道155号線を車で2~3分走り、県道脇の多武峰第一駐車場に向かい車を停めます。以前は南山荘の上あたりに、山々を背景に社殿全景が収められるスポットがありましたが、年月を経て樹々も成長し昔のように見通せなくなっていました。 多武峰観光ホテルに入れば全景は撮れますが、桜の時期もピークは過ぎており今回は諦めました。この参道も桜や紅葉の時期には賑わいますが、普段は写真のように静かな佇まいを魅せ、京都ではありえない光景か。 下は第一駐車場の周辺マップ。赤丸が車を停めた高台の第一駐車場の位置、社頭までは山麗を降りていく事になります。社頭全景。下は社頭の由緒書き、随分長いが内容は以下。 「談山神社 大化改新発祥の地 大和国多武峯鎮座 御祭神 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公 藤原鎌足公は推古天皇22年(614)、中臣御食子(なかとみのみけこ)卿の長子として、大和国高市郡大原に生誕され、幼名を鎌子と称した。中臣氏の祖は天児屋根命にて代々神事を司る家柄であり、公はその22代孫に当たられる。 公は至誠一貫朝廷に仕え、皇極天皇の御代には中大兄皇子(なかおおえのおうじ)後の天智天皇と共に、当神社本殿裏山の狭山に於て国家革新の大業を計り、ついに西暦645年「大化改新」を成しとげる。 さらに、近江大津京遷都の国家事業に尽くし、我国の隆昌と安泰の為に偉大な功績を残された。天智天皇八年(669)、藤原の姓を賜り人臣最高の大織冠と大臣の位を授けられ、同年10月16日薨ぜられた。 白鳳7年(678)、公の長子定慧はこの多武峯の山頂に父の墓を造り、十三重塔を建て父の御霊を弔った。後に大宝元年(701)、方三丈の神殿を建立、御神像を奉安したのが当神社の創始である。 当神社は古来国家鎮護の神、子孫繁栄の神、また全国藤氏一族総氏神として朝野の尊崇を受け現代に至っている。旧別格官幣社 大祭 11月17日」社頭左の手水舎と鳥居。 ここから拝殿にかけて長い石段が続く。上 石段中ほどから右に伸びる参道は東殿に続きます。下 舞台造り(懸造り)の拝殿。入母屋檜皮葺で軒唐破風が施された朱塗りの建物。 山の斜面を基壇状に整地し建てられており、桁行は十三間、梁間二間と大きなもので、永正17年(1520)造営とされ、元和5年(1619)に再建された云われています。向かいの山から眺めると優雅な姿を見ることが出来…ました。左に視線を移すと十三重塔が聳えている。 下は神廟拝所が見える。本殿を挟み東西二棟あり、楼門前に建つのが写真の西宝庫。 元和5年(1619)の造営とされ、入母屋檜皮葺の校倉造。手水舎、手水鉢。 上り藤が刻まれた台座の上に羽を広げた鶴が置かれ、そのくちばしから清水が注がれている。明治13年(1880)に五摂家の九条道孝公の寄進で、台座に刻まれた上り藤は談山神社の社紋。 龍一人に清水を注がせるのはオーバワーク、兎や亀、鶴が注いでも良いんじゃないか?楼門。 拝殿建立と同時期の永正17年(1520)の造営で、吊灯籠が連なる拝殿廻廊を進む。ここから眺める境内と山々の眺望は絶景。広い拝殿内は格子天井で、床は一面畳が敷かれており本殿前で正座して拝むことが出来る。本殿全景。 現在の建物は嘉永3年(1850)に造替られたもので、檜皮葺の三間社隅木入春日造、藤原鎌足公をお祀りする。極彩色の豪華な彩色は適度に色は落ち着き嫌みのない華やかさ。本殿斜景と蟇股に施された彫りは中央に龍、左右に鳳凰。訪れた時は拝殿内に嘉吉祭で供えられる百味の御食が展示されていた。 上は百味の御食のひとつで和稲(にぎしね)と呼ばれ、氏子の手により作られるもので、表面は米粒を貼り、この紋様を描いていく。こうした米を使った物や銀杏、大豆など様々な食材を用いこうした形に仕上げていく、とても根気と時間のいる作業。 下は脱穀する前の稲の穂を用いて造られるもので、こうした百味の御食は奈良県の無形文化財に指定されている。描かれる紋様のデザインは、氏子それぞれ代々受け継がれて来た紋様だと聞いたことがある。拝殿の展示物「多武峰縁起絵巻 蘇我入鹿誅戮図」 江戸初期のもので室町時代に描かれた根本縁起を、御用絵師で住吉派の祖、如慶とその息子具慶により模写されたもので、鎌足の誕生から他界するまでが描かれているという。鎌足の死後1000年にあたる寛文8年(1668)に後水尾天王の発願で製作されたものという。 ここには皇極天皇4年(645)の乙巳の変の場面が描かれており、刀を振りかざしているのが中大兄皇子、左で弓と刀を持っているのが藤原鎌足。 その二人の間に宙を舞う蘇我入鹿の首と姿が描かれています。衝立の左に描かれているのが皇極天皇で後の大化の改新に繋がっていく。明日香村岡にある飛鳥京跡が乙巳の変の舞台となった。増賀上人坐像。 増賀上人(917~1003)、天台宗の僧で様々な逸話が伝わる事で知られている。それらの逸話も彼が名聞にこだわる俗世をいかに拒否したかの現れであり、その生き方は後の遁世者にとって理想像として捉えられ、その中には松尾芭蕉などにも影響を与えたという。 多武峰縁起絵巻によれば、増賀上人は談山神社の中興の祖で、10歳にして比叡山に登り慈恵太師の弟子となる。天暦2年(948)32歳の時、夢に維摩居士(ゆいまこじ)が現れ、多武峰の景色が示された。応和3年(963)、増賀は多武峰の藤原高光の勧めで多武峰を訪れた、この地が夢に示された地であると悟り、この地に隠棲し庵を結びこの地で入滅した。 増賀上人の墓は参道を25分程上った右手の山の斜面にあり、小山の様に岩が積まれた所が墓とされています。東宝庫。東宝庫から右に進んだ突き当りに鎮座する春日神社。 江戸時代後期の建築とされ、銅葺屋根の流造で破風が施された社殿で、檜皮葺だった社殿のいたみが激しく近年新たに建て替えられたようです。後方に見えているのは東殿。東殿全景。 恋神社とも呼ばれるようで、現在の入母屋檜皮葺の社殿は、元和5年(1619)造替の談山神社本殿を寛文8年(1668)に移築したもの。祭神は鎌足の妻、鏡女王をはじめ定慧和尚・藤原の不比等をお祀りし若宮とも呼ばれている。 古来より、縁結びの信仰あった談山神社の境内には、いくつかの祈願場所が残っています。東殿もそのうちのひとつ、参拝作法があるようで、まず本殿正面で参拝、時計回りに本殿背後で参拝し最後に再び正面で参拝するのが作法のようです。上は社殿右にある厄割石。 厄落とし、開運、諸願成就に御利益があるらしい。瓦割り改新玉という陶製の丸い玉を買い求めることから始まります。 1個目の玉に厄を移すため、3回息を吹きかけ、身体に患部があればその部位にあて、その玉を厄割り石の真上からそっと落とし割れれば厄が祓える。2個目の玉に願をかけてから3回息を吹きかけ、厄割り石の真上から落とし割れれば願は叶うというもの。要は割れればハッピーのようです。 下は結びの磐座。社殿右にあり、始まりは1300年以上の昔に遡ります。 談山神社の前身である妙楽寺の講堂を建てるとき、光る石が発見され、神の宿る磐座として祀られてきたものです。むすびの岩座は縁結びはもとより、人間関係の結び神として崇敬されています。写真右上は東殿の裏側にある拝所で床下には小さな社が祀られています。 こちらで参拝し再び正面に回り込んでもう一度参拝すれば縁は結ばれたようなものです。東殿から左に進むと見えてくる方形の朱塗りの堂が如意輪観音堂。 その左に朱の鳥居が見えますが、こちらが末社の三天稲荷神社の参道口。鳥居から整備された参道(山道)を5分程登った先に社殿が鎮座します。 見通せない山道は不安になりますが、ここに記載されている徒歩5分は写真データと照らしても信頼できます。明るい杉林の参道を右に進むと三天稲荷神社の拝所に到着。拝所から社殿の眺め。 朱色の妻入りで、向拝が付いた社が三社、春日造りとも少し違い呼称がよく分からない。入口の解説によれば宇賀魂命、菅原道真、市杵島姫命をお祀りし、古来より商売繁盛、学業成就に霊験あらたかな社として崇敬されている。 ここの参拝を終えると境内東側はほゞ参拝した事になるので、ここから拝殿方向の十三重塔に向かい、境内西側を参拝して行きます。拝殿下側から中央石段に向かいます、境内にはまだ桜も残っていました。 ほんとに境内から眺める拝殿の全景はさっぱり見えない。神廟拝所(旧講堂) 定慧和尚が白鳳8年(679)に父・鎌足の供養のため創建した妙楽寺の講堂。現存のものは寛文8年(1668)に再建された桁行五間・梁間四間の入母屋檜皮葺のもの。上 塔の正面に仏堂をつくる伽藍の特色を持ち、堂内の壁面に描かれている羅漢と天女の像は見応えがあります。談山神社は嘗ての神仏習合色が色濃く残り、神仏分離による境内分断などの影響をあまり受けていないようです。下 神廟拝所の内部は公開されており、ストロボを焚いたり、三脚を立てるなどせず良識の範疇で撮影は許されており、懐の深さに感謝したくなる。写真は秋冬花鳥図。 原本は大英博物館が所蔵するもので、江戸時代17世紀の狩野派により描かれた襖絵、当然レプリカです。解説は以下。「金銀の砂子や小切箔が装飾的にまかれた幅広の襖四面に、生命力あふれる 花鳥が濃密に描き込まれる。 左側に紅葉した楓や芙蓉のもとに遊ぶ雁、 右側の面からは雪を抱いた檜や白椿、水辺に憩う鴨の姿が描かれ、季節が秋から冬へと移ろう様子が見て取れる。元来は春夏を描いた襖が存在し、四季花鳥図を成していたのだろう。 本作は「大化改新」談合の地として著名な談山神社(旧 多武峰妙楽寺)にかつてあった学頭屋敷に伝来したと言われ、華やかな本作が当時の繁栄ぶりを偲ばせる。画風から作者を狩野永徳の次男・孝信(1571~1618)とする向きもあるが確定しておらず、今後のさらなる研究がまたれる。 いずれにせよ江戸時代初期の大画面花鳥画として極めて重要な作品であることに疑いはない」堂内北側の壁画と中央の木像鎌足公御神像、像の右に将軍地蔵、左に不比等公像が安置されている。 他に運慶作とされる寄木の狛犬などが安置されています。壁面に描かれた羅漢と天女の姿、江戸時代の狩野永納筆とされ、柔らかな線で描かれ、彩色もはっきり識別できるが、一部に剥離も見られ修復の日が待ち遠しい。上 訪れた時には色とりどりの土鈴が展示されていた。下 堂内から眺める総社拝殿、春と秋にはこの前の境内で古式ゆかしい毬装束を身にまとった鞠人による蹴鞠が催されます。末社総社拝殿全景。 寛文8年(1668)の造営で、談山神社拝殿を縮少し簡略化した様式で、正面・背面ともに唐破風をもつ美麗な建造物で、内外部小壁には狩野永納筆の壁画が残り「山静」の落款も見られる。上 総社拝殿入口。開け放たれた朱の扉には注連縄が張られ、陽射しの強い外から薄暗い堂内を眺めると、白い紙垂が浮き立って見える、その奥に大きな人影らしき姿が見える。下 近寄って人影を確かめる、それは木彫りの福禄寿、いつ見ても長い頭だこと。像の大きさは約3㍍程、福禄寿の像としては全国有数の大きさを誇り、多武峰に自生していた欅の神木から彫られたそうです。 桁行七間、梁間二間の横長の総社拝殿、福禄寿後方の扉が開けられると目の前に総社本殿が見えるはず。末社総社本殿。 総社本殿斜景、拝殿前からでは桁行三間の本殿正面の全景が入らない。入母屋銅葺屋根の妻入りで、大きな向拝が付くこの本殿は、寛文8年(1668)に造替した談山神社本殿を、寛保2年(1742)に移築したもの。 延長4年(926)の勧請で天神地祇・八百万神を祀り、日本最古の総社といわれている。向拝柱や梁には、かつて色鮮やかに彩色されていた名残が見られ、木鼻には獅子、蟇股の中央の龍の姿は分かるものの、左右の蟇股に何が描かれているのかよく分かりません。 補修の時期に来ている気がします、賽銭奮発しておこう。閼伽井屋、総社拝殿右の石垣脇に建つ。 「屋根はこけら葺で元和5年(1619)の造営。この中の井戸は「摩尼法井」と呼ばれ、 往古、定慧和尚が法華経を講じたとき、龍王の出現があったと伝えられている」上 総社拝殿から権殿と十三重塔方向の眺め。下 権殿。檜皮葺の妻入で桁行五間、梁間五間で妻側に一間の向拝が付く建物。 「天禄元年(970)摂政右大臣藤原伊尹の立願によって創建され、実弟の如覚―多武峰少将藤原高光―が阿弥陀像を安置した元の常行堂。ここで室町の頃盛行した芸能「延年舞」は有名である。 現存のものは室町後期の再建。権殿は、建立以来、500年の時を経て、大修理を終え、この平成の世に再生しました。 当殿内では、室町時代より延年 舞やお能が演じられ、「伝統と革新」の芸能をきそいあってきました。 古典芸能・現代舞踊・音楽・絵画・写真・彫刻・陶芸・映画・ 演劇・歌謡・落語・漫才・文学・詩などにたずさわる人たちの守り神として、また、芸能上達をいのる「祈りの場」として、「集いの聖地」としてご崇敬下さい」 ここから左には複数の末社が祀られています。境内西外れの末社。 ・下段左写真。中央 比叡神社本殿で寛永4年(1627)に造営された一間社流造で、千鳥破風と軒唐破風が付く。祭神は大山祇神、もとは飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築され明治維新までは山王宮と呼ばれた。左 宇賀之魂神をお祀りする稲荷神社。右 山神神社、祭神は大山津見。 ・下段右写真(右に見える登山道を登れば談山、御破裂山に至ります)右 神明神社、祭神は天照皇大御神。左 杉山神社、祭神は久々能智神。登山道右の沢沿いに古代磐座と龗神社が鎮座します。 沢は小さな瀧となり、この瀧と岩くらは古神道の姿を今に伝える霊地です。古代信仰では、神聖な岩に、天上から神を迎え、祭祀を行いました。 この瀧は、大和川の源流の一つであり、神聖な神の水が、神山より千古の時代を経て、湧き続けています。岩上の社は、飛鳥時代に大陸から龍神信仰が伝わり、日本古来の水神と集合し、龍神社と呼ばれるようになりました。十三重塔。 紅葉に染まる山を背景にした塔の姿は趣があります、個人的には春の談山神社が好きです。こうして間近に見る塔の姿は紅葉の時期とは違う美しさがあります。「藤原鎌足公長子・定慧和尚が、父の供養のために白鳳7年(678)に創建した塔婆で、現存のものは享禄5年 (1532)の再建である。 木造十三重塔としては現存世界唯一の貴重な建造物である。」木の皮を剥いで屋根を葺き、木と語らいながら建物を作り装飾する、そうして形になったものは景色と調和し、見る人に感銘も与えてくれる日本が誇るべき技術のひとつ。祓戸社。 総社本殿から石段を下り神幸橋方向に向かう途中の左側に鎮座します。池の小島に鎮座する姿は弁天社の雰囲気を感じます。 祓戸社の祭神は祓戸大神をお祀りしています。広大な神域にはまだ〃見るべきところが点在しており、それらを回るには一日では足りない。 日本の歴史を変えるきっかけの舞台ともなった談山神社、奥の深い土地柄です。今回、何十年振りに談山神社を訪れ、談山を背景に山桜に包まれた社殿全景を収めたかったのですが、結局 その場所も見つけられず残念ですが、春夏秋冬足繁く通ってみたい気になってきました。談山神社創建 / 大宝元年(701)祭神 / 藤原鎌足所在地 / 奈良県桜井市多武峰319参拝日 / 2023/04/04関連記事 / 奈良 談山神社・岡寺
2023.06.04
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名古屋市中村区名駅南2「秋葉神社」須佐之男神社を後にして、名古屋四季劇場を横目に二筋目を左に進む、秋葉神社へは5分くらいだろうか。上は秋葉神社の鎮座地になります。二筋を左に進み間もなく、上の様に住居と駐車場が左手に見えてきます。目的地「秋葉神社」到着、所在地で云えば名駅南2にあたります。所在地の名駅南2。調べて見ると、元は廣井の一部で1901年(明治34)下笹島町となり、その後1981年(昭和56)に現在の名駅南2に編入された様で、この右手はかつての禰宜町で、こちらも廣井村の一部から1878年(明治11)禰宜町として成立し、1981年(昭和56)に名駅南1に編入され廃止された。全国各地に禰宜町と付く町名は残ります、昔の地名はその地を端的に表して分かりやすく、この辺りに泥江縣神社の禰宜職が住んでいた事に由来するという。都市化にともない、景色は立派なビルやお洒落な住宅に置き換わり、地名もお洒落に変っていき、嘗てのその地を語るものは消えていく。秋葉神社の社地は住居と駐車場の僅かなスペースに作られ、歩道際に社標と石の神明鳥居が立っています。周囲の都市化の波に飲み込まれるものか、そんな佇まいで鎮座します。社頭から境内全景。左の「秋葉神社」社標は昭和10年(1935)に寄進されたもので、その先の鳥居は見慣れた縦横の比率とは違い、特徴のある縦長のもの。狭い間口ながら、それでも「鳥居は建てる」当時寄進された方の思いが形に現れている。小さな神社ですが、その思いは鳥居に留まらず、一通りのものが備わっています。境内左の手水鉢、「回り込んで寄進年を見よう」なんて気にもなれない程限られたスペースに配置されています。境内から社殿の眺め。常夜灯、本殿域を玉垣で囲い、狛犬が守護する先の覆屋の下に板宮造りの社殿が建つ。基壇の下に賽銭を上げて参拝させて頂きました。悪い云い方をすれば、小さくて窮屈な神社として捉えられるかもしれないが、特徴のある鳥居でも感じたように、下笹島に住む氏子達の思いが凝縮されている。覆屋と社殿。片流れの覆屋も個性的で、間口の柱の梁には獅子の木鼻、その梁には彫が施され、覆屋を支える左右の柱に懸魚の付いた破風板、桁の上には大きな龍の彫飾りが付けられています。この覆屋の部材は嘗ての社殿の名残を伝えているのか?そうだとすると、立派な社殿だったのかもしれない。この神社の創建や遷座の履歴を調べて見ても定かではありません。ただ火を司る秋葉さんが祀られていることだけは間違いない。隣の駐車場から境内の眺め。秋葉神社は過去の地図にも印は見当たらず、境内の寄進物は概ね下笹島時代の昭和10年のものが多く、大正・明治に遡るものか想像もできない。昭和10年にはここに鎮座し、この町を見守ってきた神社。境内の狛犬が黒ずんでいるのは、その後戦禍に見舞われたこの地を物語っているのだろうか。今も変貌を続けるこの地にあって、荒波のなかの僅かな安住の地に佇む狛犬は、耳も垂れ、吽形の横顔も幾分穏やかな表情にも見える。秋葉神社創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神所在地 / 名古屋市中村区名駅南2-10参拝日 / 2023/04/27須佐之男神社から徒歩アクセス / 東へ5分関連記事 / ・須佐之男神社(名駅付近の神社巡 3)・泥江(ひじえ)縣神社
2023.06.01
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前回記載した世界一の大きさの狛犬。駐車場からそちらに向かう途中、右側に鎮座するのが陶町大川の「八王子神社」社頭は国道419号線に面し、一対の常夜灯と石の明神鳥居を構え、鳥居右側に「指定村社 八王子神社」と刻まれた社号標があります。兎岩がある名も知らぬ山の西の麓にあたり、社殿は杉や広葉樹の杜に包まれ、国道からだと鳥居と境内に続く石段が目印になる。国道脇の常夜灯、竿には秋葉山、大神宮、反対側に牛頭天王、金毘羅山と刻まれています。社頭全景。燈籠が連なる石段は少し高みの境内に続きます。石段の前を一対の陶製の狛犬が守護する。色こそ違う物の先に見た大きな狛犬と姿が良く似ています。(寄進年未確認)にこやかな表情の狛犬は、互いを見つめ合っている様にも見える。阿形の近くに建てられた石標には「瑞浪市有形文化財 大川の美濃焼狛犬郡」とある。脇参道にずらりと並んでいた狛犬を含め、この神社の境内には多くの狛犬が見られそうです。鳥居の額は「八王子」明治12年(1879)に発足した岐阜県土岐郡の郡長を務めた水谷弓夫による揮毫とある。一説によれば瑞浪と名付けたのもこの方だという。石段の先に建つのは神楽殿。そこには「八王子」と書かれた木目の美しい額が掲げられています。境内は二段に築かれ、この境内には神楽殿、手水舎が建てられています。神楽殿は入母屋茅葺屋根に銅板が葺かれた四方吹き抜けのもので、棟飾りにも「八王子」とある。訪れた時は写真のモミジが瑞々しい緑色で輝いていた。靑紅葉と何気に使うのだが、この鮮やかな緑の色合いを「靑と形容してはいかんやろ」せめて萌黄紅葉(そんな言葉はない)だろうと感じた事はないだろうか。昔の色彩語彙が白・黒・赤・青と括っていた事もあり、緑が靑のグーループに含まれたことがあるにしても、大好きな青りんごや靑信号、靑紅葉しかり、どこかに「緑だろう」と思う自分がいる。という事で、境内は萌黄色に染まり美しい時期を迎えていました。社殿全景。左が社務所、拝殿、本殿両脇に境内社があり、陶製ではないが石造の狛犬の姿がある。由緒については以下の二点までしか掴めませんでした。1.岐阜県神社庁「元禄14年(1701)再建の棟札があり、昭和6年(1931)3月1日陶町大川字十三塚に鎮座した無格社天神社を合併」とありました。2.瑞浪市の資料「八王子神社の創建は寛永2年(1625)」とあり、本記事ではこれを創建とさせて頂きます。祭神は天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命の五男三女をお祀りします。境内社については社頭の燈籠に刻まれていたように、秋葉山、大神宮、牛頭天王、金毘羅山が祀られているはず。手水舎。社殿域左の石垣から滾々と清水が湧き、鉢に注がれます。拝殿正面全景。拝殿前の狛犬、社頭の狛犬とは違い、互いの視線は外し怪しい訪問者を見つめている。台座から寄進年は読み取り出来なかった。ここにも八王寺の文字が入っている。拝所の鈴紐は上に纏められていた。下は瑞浪市有形文化財美濃焼狛犬郡の解説。「狛犬は、中世では、多くが小型の石製や木彫のものが本殿左右の縁に据えられるのが普通であった。しかし彫刻が難しいところから、陶器に関係の深いこの地方では、江戸の中期以降に神社の氏子や信者たちが、 個人または共同で庇護や利益の祈願報謝の意味を込めて、陶製狛犬を奉納するようになったと言われている。しかしこれらのうち半数が無銘で、年代も作者も一部しか判明していないのは残念であるが、この大川八王子神社の五対余りのうちに「羽柴与左衛門景度作」在銘のものがあることは大変貴重なことである。この景度の先祖は室町後半期の文明6年(1474)、武蔵国久良岐郡(神奈川県横浜市付近)より移住してきた加藤左衛門尉景信で大川窯を開き、景光、景忠と続き、景度の時代で全盛を極め、その製品は「与左焼」と呼ばれ広く世間から、賞用された。その銘ある狛犬は、小型ではあるが与左衛門の元亀、天正頃の作と考えられ、その力作の素晴らしさを表している」加藤左衛門尉景信は、代々相馬焼を業としていたともされ、修行として全国を巡り歩き、窯業を営むうえで余程この地は適していたようで、四代目景度は天正2年(1574)には織田信長より朱印状も下され、後に羽柴性を名乗る事を許されたようです。拝殿内から本殿方向。八王寺神社には五対と二体の鉄釉狛犬が安置されているとあり、その内4対に羽柴与左衛門の銘があるという。この拝殿又は本殿に、そのひとつでも安置されているものと期待していたが、その銘は見つけきれなかった。社殿斜景。向拝、拝殿、幣殿、本殿と連なり、両脇の境内社が横に連なり本殿の姿は捉えにくい。右の境内社。覆屋の中に祀られているのが天神社。神社庁の記載にあった昭和6年に陶町大川字十三塚鎮座の天神社。檜皮葺の一間社流造で祭神は菅原道真。天神社の右に金毘羅大権現。詳細は不明。祭神は大物主大神。左手の境内社は津島神社。こちらも詳細は不明。祭神は八王子の父、建速須佐之男命。ここから本殿の姿を垣間見ることが出来ました。綺麗な曲線の海老虹梁と脇障子を持つ一間社流造、ここにも狛犬の姿はなかった。津島神社の左手に鎮座するのが稲荷社。小さな狛狐が沢山守護し、社を支える岩の前にも狐の姿と七福神の姿がある。祭神は宇迦之御魂神。本殿域から神楽殿と靑紅葉。手水舎の前から世界一の狛犬に続く脇参道が続く。その脇には幾つかの覆屋があり、そこには表情や色味の違う陶製狛犬が無数に安置されています。陶製狛犬のサンクチュアリ、そこは大川の八王寺神社です。八王子神社 創建 / 寛永2年(1625)祭神 / 天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命境内社 / 津島神社、稲荷社、天神社、金毘羅大権現祭礼日 / 10月第1日曜所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川716参拝日 / 2023/04/11関連記事 / ・世界一の美濃焼狛犬、豊穣の壺・南宮神社(土岐市鶴里町柿野)
2023.05.30
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亀居山放光院大願寺を後にして、厳島神社宝物館の右手から多宝塔(修復工事中だった)の建つ高台に向かいあせび歩道から大聖院(だいしょういん)御成門に向かいます。上のマップでは入口が分かり難いかもしれませんが、宝物館の右手から多宝塔に続く石段が描かれています、黄色実線を通って向かいました。この道はあせび歩道に続き、厳島神社多宝塔を経て、大聖院仁王門の上にある御成門に続いており、普通に仁王門から向かうより人通りは少なく、しっとりとした雰囲気があります。大聖院本坊は厳島神社から白糸川上流に向け5分程の距離にありますが、弥山本堂、大日堂、霊火堂、三鬼堂など、関連する堂宇は宮島最高峰弥山(標高535㍍)の頂にまで及ぶ大きな伽藍を持っています。それらの堂宇を巡るには、白糸川の対岸から続く登山道を1時間30分程かけて登るか、ロープウェイで頂を目指す事になります。上は現在の大聖院本坊の境内マップ。大聖院は正式名称を多喜山(滝山)大聖院水精寺と号し、寺伝によれば空海が唐より帰朝後、宮島に渡り弥山で修行し大同元年(806)に開かれた寺で、一時期は多くの塔頭寺院を有し、明治政府による神仏分離令以前まで厳島神社の別当寺を務め、弥山を中心とした神仏習合の聖地宮島の中心的存在が大聖院と言って過言ではない。大聖院は皇室との関係も深く、鳥羽天皇勅命の祈願道場、また明治天皇行幸の際の宿泊先に、さらには秀吉が茶会を開いたこともあるお寺です。長い歴史を誇る大聖院は幾度も自然災害や火災に見舞われ、明治以降だけでも以下のように被災しています。明治20年(1887)火災で大部分の堂宇を焼失。明治21年(1888)火災で弥山の諸堂を焼失。平成3年(1991)台風19号で弥山、本坊共に被災。平成17年(2005)火災で霊火堂を焼失。霊火堂は弘法大師が護摩修行した当時から燃え続けている消えずの火と大茶釜の霊水を収めた堂で、不滅の霊火堂とも呼ばれていたもの。消えずの火は火災直後に蝋燭にともされ持ち出して難を逃れ、再建された霊火堂で今も護り継がれているという。現在見られる大聖院の伽藍の大部分は明治20年(1887)以降から昭和34年(1959)にかけて再建されたもの。下は江戸時代後期に安芸藩によって作られた芸州厳島図会に描かれている大聖院挿絵。右が仁王門、中央を御成門と見て行くと、現在の伽藍と違い随分とすっきりとしたものに見える。左に描かれているのが白糸川と思われ、下流で御手洗川に合流しますが、大聖院や下流の厳島神社は当時も今も土石流のリスクが付き纏う立地に鎮座しています。あせび歩道から訪れると挿絵にある御成門の石畳辺りに出ます。という事で、かみさんの御朱印待ちの間、一人で足早に仁王門まで戻り御成門まで写真に収めて来た。仁王門全景。昭和14年(1939)の再建で、左右の間に安置された仁王像と組物や彫物など見ごたえのある門。仁王像。仁王門入口付近の由緒と手水鉢。仁王門の梁には躍動感のある龍の彫飾りが施され、蟇股の彫物や斗組もなかなか見応えがあります。門をくぐるとそこから御成門まで石段が一直線に伸びている。この石段、訛った体の自分にはとても応える、足早に戻りたい気持ちとは裏腹に体がついてこない。御成門まで続く石段を分ける様に設置されているのは手摺ではなく摩尼車、その数は優に500巻はあっただろうか。仁王門をくぐった左に建つ下大師堂、芸州厳島図会が描かれた後に建てられたものだろう。この石段途中には左側に鐘楼堂もある。鐘楼堂。鐘楼堂右奥に小さな石の壺が置かれており、石段途中のこの場所から願をかけた願い玉を投げ、見事に壺に入れば願いは叶うらしい、かなりの難度で壺周辺には空しく的を逸れた願い玉が散乱しています。自分もかみさんもこうした類で的に入った例がなく、その確率たるやオラがドラゴンズの勝率を下回り、いつしか「願いは自分で叶えるもの」として近寄らなくなった。5百羅漢園。これも当時にはないもので、石段左から霊宝館まで苔むした石段が続き、その両脇に大小様々な石像が安置されています。石段を上り詰め境内から御成門を振り返る。大正3年(1914)に再建された入母屋銅葺屋根の門で前後に唐破風が配されている。ここから眺める瀬戸内は見晴らしが良くて気持ちがいい、海辺からここまで結構な高さを登った事になる。観音堂。御成門をくぐった右手に入母屋瓦葺の大きな建物が観音堂。この観音堂は天正18年(1590)に豊臣秀吉が大聖院を訪れ歌会を催した事で知られ、その様子は芸州厳島図会の挿絵にも描かれています。明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の法会祭事を司る別当職を務めていた。伽藍の中では最も大きく、現在の建物は昭和7年(1932)に再建されたもので、こちらには厳島神社の本地仏だった行基の手による十一面観世音菩薩が安置されています。観音堂正面。ここにも力強い龍の姿があります。観音堂には「戒壇めぐり」もありますが、補助光もあり経験した中では一番人にやさしいものでした。併せて安芸四国霊場の2番札所、中国観音14番札所、山陽花の寺二十四ヶ寺の1番札所にもなっているようです。見事な曲線を描く虹梁、木鼻や肘木にも手の込んだ意匠が施され、垂木の連なりに幾何学的な美しさを感じる。上芸州厳島図会の和歌御会之図を再現した奉納額。下当日は堂内で宮島福よせ雛と銘打って現役を卒業したひな人形が展示され堂内に彩りを添えていた。上観音堂左に挿絵に描かれている小さな小池があり、そこには祈り鶴が建てられ、その後方には当時なかった二つの堂が建っています。右手が星供曼荼羅堂。左の社は参拝するも社名もアップも撮り忘れ今は分からない。小池を背にして祭られ佇む社は、雰囲気的には○○なんだろうがここは不明社としておこう。下施無畏堂。勅願堂右脇の釈迦涅槃堂の奥に建つ小さな堂で聖観音が祀られています、安産や子授けの御利益があるとされ、108観音霊場の18番札所。にこやかに微笑む金色の極楽観音が印象に残る。勅願堂(本堂)。大聖院の本堂で鳥羽天皇(1103~1156)勅願道場。秀吉の朝鮮出兵の際に、必勝・海上安全を祈願した本尊波切不動明王を安置する。右手の堂が釈迦涅槃堂で後方に見えているのが大師堂。入口左右には十六善神と常啼菩薩、法誦菩薩、玄奘三蔵、深沙大将の20体の像が安置されています。堂内には秀吉の御身仏で軍艦船宝丸に安置し海上安全と戦勝を祈願した波切不動明王が安置されており、周囲には千体不動が取り囲んでいます。千体不動の他に不動明王、釈迦如来坐像、金剛夜叉、降三世明王などの像が壁面に安置されています。八角万福堂。勅使堂後方の小さな池の中央に立つ八角堂で、堂内には木造の恵比須、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋尊の七福神像が安置され、宮島七福神と呼ばれているそうです。広い境内ですが、勅使堂周辺は堂や石像が特に集中し、太子堂に向かう人の流れが滞る場所かもしれない。極楽観音を過ぎると右に烏天狗の石像が安置されており、そこから上に向かう石段があります。摩尼車を回しながら摩尼殿に向かう。この日は太子堂に向かう参道が混みあっていましたが、摩尼殿に向かう参拝者は少なく、こちらから薬師堂、愛染堂、阿弥陀堂を拝んで太子堂に向かいました。摩尼殿全景。弥山の守護神三鬼大権現(大日如来、不動明王、虚空蔵菩薩)の祈祷所で、弥山の頂の三鬼堂に登らなくてもここでお参りすればいい。宝形屋根の二層の堂で、前方に唐屋根の長い向拝が付く。唐破風向拝から堂内方向。建立時期は分かりませんが、大きく突き出た軒を支える斗供の巧みさ、向拝の木鼻、破風に施された彫物も見事なもの。内側にも獏の掛鼻が施されています。摩尼殿の額。張り出した軒を支える組物や蟇股の装飾が良く見え、堂内は外陣と弥山三鬼大権現を祀る内陣に分かれています。摩尼殿は挿絵には描かれておらず、江戸時代以降の建立と見られます。薬師堂。摩尼殿の左に建てられた寄棟屋根の堂で、内部に薬師如来と十二神将を祀っています。堂内の薬師如来と十二神将。薬師如来は病気平癒、身体健康の仏で、薬師如来を取巻く十二神将は薬師の12の大願に応じて、四六時中人々を護持する仏達。愛染堂。愛欲にまつわる煩悩から人々を救い、悟りの方向に導く愛染明王を祀り、欲情の浄化、災害除去、縁結びの御利益がある。ここは特に念入りにお願いしておく。相輪が施された阿弥陀堂。内部に阿弥陀三尊を祀られています。解説によると「この阿弥陀像は「本坊」観音堂にお祀りされていたが、平成5年8月の阿弥陀堂建立によりこちらでお祀りされた。」大師堂。大聖院本坊最古とされる建物で、真言宗の開祖、弘法大師空海が祀られています。この大師堂の堂のまわりには西国三十三観音や一願大師、稚児大師などが安置され、大師堂の下に遍照窟と呼ばれる人口の窟があり、内部には四国八十八ケ所霊場の本尊が安置されており、各霊場の本尊前はお砂場となっており、ひと回りする事で四国を遍路したのと同じ功徳が得られるとされています。上大師堂後方の五鈷杵。下手前が一願大師。秘鍵大師とも呼ばれ、願い事をひとつだけ念じることによって、叶えられる。後方の絵馬が吊るされた祠が稚児大師。香川県善通寺市で生を受けた空海7歳のとき、捨身誓願をした頃の姿を現した像で、子の健やかな成長に功徳がある。上大師堂の右の庭園に祀られていた祠。中に石仏らしき像が二つ安置されていたが内容は不明。下馬酔木観音堂の所で「山陽花の寺二十四ヶ寺」と記載しましたが、山口・岡山・広島の3県に其々1~8寺の札所を設け、計24ヶ寺の札所を花の開花時期に合わせめぐる花巡礼で2010年に開創されたもの。広島県の1番札所が大聖院で、この寺の花は馬酔木とモミジ、訪れた時には庭園各所で馬酔木の花が見頃を迎えていました。「大聖院(だいしょういん)」宗派 / 真言宗御室派大本山山号 / 多喜山院号 / 大聖院寺号 / 水静寺開基 / 空海(寺伝)創建 / 大同元年(806寺伝)本尊 / 三鬼大権現(本堂)、波切不動明王(勅願堂)、十一面観音(観音堂)札所 / 中国三十三観音14番、山陽花の寺二十四ヶ寺1番(アセビ、モミジ)、広島新四国八十八ヶ所霊場87番、安芸四国霊場2番、108観音霊場18番所在地 / 広島県廿日市市宮島町210参拝日 / 2023/03/03関連記事 / 亀居山放光院大願寺(広島県廿日市市宮島町)
2023.05.29
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名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りの3となります。今回は中村区名駅南2に鎮座する須佐之男神社。前回の柳里神社から須佐之男神社へは南に5分程の距離にあります。上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。この辺りに来ると南に下広井町線があるお陰か、圧迫感のあるビルの森もなくなり、見上げると空が広がる。社地周辺には西に住友生命名古屋ビル、北には特徴のあるスパイラルタワーが聳えている。須佐之男神社社頭の一区画東には青空のような外壁の名古屋四季劇場がすぐ近くにある。基準がもとめるのか、冷たい色合いのビルばかりですが、こうした色合いのビルがあってもいいと思うのだが。須佐之男神社社頭全景。ここまでの2社に比べると大きなビルが迫る事もなく、南向きの社頭の前と左がパーキングのため境内は明るく風が良く通る。社頭は右に「村社須佐之男神社」の社号標と一対の燈籠があり、石の神明鳥居の先の参道右が社務所、中央に社殿、左に小さな建物ある。燈籠は明治33年(1900)に寄進されたもの。須佐之男神社の由緒について地史や愛知県神社庁など調べて見ましたがこれといったものは見当たらなかった。上は大正4年に出版された名古屋市史社寺編、そこに須佐之男神社の沿革が記されていた。内容は以下。「下笹島町東側に鎮座し、勧請の年月は不明。当初は中笹島に氏神として祀られていたもの。明治12年(1879)、村社に列格。明治19年(1886年)、鉄道敷設に伴い米屋町と堀内町の境の徳川家所有地に遷座。明治23年(1990)頃、下笹島町の西、約110㍍の地に再遷座。明治32年(1899)、現在地に遷座、神殿を改造し遷宮。大正元年(1912)、神殿、神饌所、社務所を建設、境内の築地を落とす。祭神は須佐之男命。境内社秋葉社、金刀比羅神社は同町の氏神で明治23年(1990)頃本殿域に遷座、境内に須佐之男社が鎮座していたが移設の際に本社に合祀。例祭は10月17日」これによれば、一面葦が茂る湿地帯だったこの辺り、明治19年に笹島停車場の完成以降、鉄道整備や名古屋駅の開発に伴い目まぐるしく鎮座地を求め彷徨ったのが窺われます。それはこの地に住む氏子達も同様だったはず。現在も笹島再開発やリニア中央新幹線建設に伴う開発の波が収まる事はない。石灯籠は再遷座後に寄進され、ここに移設されたもののようです。社殿全景。参道は須佐之男社の門に続き、そこから左右の門に続きます。参道脇を守護する狛犬。狛犬の寄進年は昭和3年(1928)。戦火を経験した狛犬達だ、上の石灯籠やこの狛犬の一部に欠損や罅があるのは空襲によるものなのか。本殿域は板塀で囲まれ、三つの門は手前が金刀比羅神社、中央は須佐之男神社、左が秋葉社の門。本殿域の全景(2枚貼り合わせ)。左から銅葺流造の秋葉社、神明造の須佐之男神社、銅葺流造の金刀比羅神社。須佐之男神社本殿は6本の鰹木と水平カットの千木が付く、女神も祀られているのか?。境内右手の社務所と左の石灯籠。右手の鳥居の柱には大正7年(1918)と刻まれており、現在地に鎮座後に寄進されたもの。社務所横の石燈籠の竿には大正元年(1912)の寄進年が刻まれ、社殿再建時に寄進されたものようです。今も変貌を続ける名駅周辺。この神社も文明開化と高度成長期の荒波に翻弄されて来た神社のひとつ。それらを支え、今に繋げられているのも氏子をはじめとする熱心な崇敬者によるものだろう。須佐之男神社創建 / 不明祭神 / 須佐之男命境内社 / 秋葉社、金刀比羅神社参拝日 / 2023/04/27所在地 / 名古屋市中村区名駅南2-11-26関連記事 / ・迦具土神社・豊光稲荷大明神 (名駅付近の神社巡り)・柳里神社・白鷹龍神 (名駅付近の神社巡 2)
2023.05.26
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厳島神社の引き続きとなります。今回は境外末社「清盛神社」から御手洗川を渡った先に鎮座する大願寺を掲載します。大願寺はマップの赤丸部分にあたります。清盛神社からだと御手洗川に架かる石橋を渡り、徒歩で2分もあれば大願寺境内です。山門。厳島神社出口に建つ山門で、大半の方はこちらから大願寺を参拝し、清盛神社まで足を向ける人は少ないようです。木造瓦葺の山門左右の間には仁王像が安置されています。両翼に塀はなく山門だけがポツンと聳えています。大願寺の創建時期は寺伝によれば平安時代初期に空海(774~835)によって開かれたと伝わります。一方で鎌倉時代初期の建仁年間(1201~1204)に了海(1239~1319)によって再興されたともされるようで定かではないようですが、往古より厳島神社と深い関りがあるようです。現在の大願寺は元禄時代に建立された山門と本堂が主な伽藍で、境内の護摩堂などは平成18年(2006)に再建されるなど、古の佇まいを強く留めるものはこの山門かもしれない。今はポツンと聳える山門ですが、かつての門は左右を塀で繋がれ、複数の堂宇があったようで、海に浮かぶ大鳥居を舟でくぐり、御手洗川を経て大願寺から厳島神社に参拝していたとも云われます。ここは厳島神社出口と云われますが、実は入口だったのかもしれません。上は天保13年(1843)、当時安芸広島藩士だった岡田清により編纂された厳島図会の大願寺挿絵。手前が清盛神社の鎮座する西の松原で、その先が御手洗川と思われます。当時は山門に繋がる塀も描かれていました、描かれた当時の山門は現在の向きに対し右に90度振られていたようです。左右の間に安置されている仁王像。実はこの仁王様はもともとこの山門に安置されていたものではありません。元々は、厳島神社末社の今伊勢神社から尾根沿いに東に歩いた頂に建っていた仁王門に安置されていたもの。延宝6年(1678)9月、山県郡都志見村の香川七郎左衛門が建立した門に安置されていました、それも明治政府の神仏分離令に伴い取り崩されてしまい、像だけが大願寺の山門に移されたのだと云います。上は今伊勢神社から尾根沿いに続く山辺の小幹に残る石標で、痕跡はなにも残っておらず唯一それを伝えるのがこの石標だけです。この像を見る時、五重塔が聳え立つ対岸の、更に先から居場所を求めてやって来た、そうした目線で見てやってください。山門から先の境内に鎮座する厳島龍神。水が張られた小さな池の中央に巨岩が組まれ、その頂に厳島龍神の本殿が祀られています。この地で龍神信仰が根付いた背景に海や航海に関わる土地柄があるのかも知れないが、厳島と付くだけにこの龍神様は海を含めた島そのものの守り神なのだろう。厳島龍神の後方に伊藤博文が手植えした9本松が聳えていましたが、何年か前に枯れたらしく現在は残っていません。嘗てここに1本の松の根元が9本に分かれた9本松が写り込んでいたのでしょうが、現在は切株が残るだけで境内は妙にすっきりとし、本堂の全景が良く見て取れる。大願寺概説。真言宗に属し、室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、道本・尊海・円海と相次いで傑出した住職が出て、厳島神社諸建築の建造や復旧に当たった。また鍛冶・番匠(大工)・檜皮師などの職人団を率い、筑前筥崎八幡宮・豊前宇佐八幡宮の修理造営にも当たった。当時厳島は内海の要港で、ここに集まる京・堺などの貿易商人らとの接触も深い。尊海が大蔵経を求めて朝鮮に渡った時の見聞を記した紙本墨書尊海渡海日記(国指定重要文化財)、銅製朝鮮鐘(重要美術品)、木造薬師如来坐像・木造釈迦如来坐像・木造阿難尊者立像・木造迦葉尊者立像(以上国指定重要文化財)、その他多数の中世古文書を所蔵する。清盛により現在の厳島神社の原形が築かれ、海に浮かぶ厳島神社が匠を育む結果にもつながったのだろう。護摩堂。明治時代に焼失し、平成18年(2006)に再建された裳階を持つ方型の建物。本尊は厳島弁財天。相模国の江ノ島神社、近江国の竹生島の宝厳寺とともに日本三大弁財天の一つとされます。堂内には不浄なものを焼き尽くす力を持つとされる真紅の火炎(迦楼羅炎)を背にした、総白檀で作られた約4メートルの本尊不動明王座像が安置されています。厳島大仏 不動明王総身一丈六尺(4m80㎝)、重量7t、総白壇明治の初期に焼失した護摩堂は、平成十八年四月に再建、落慶並びに開眼供養されました。総白檀の不動明王像としては日本最大の仏様です。不動明王のお姿は、右手に、智剣と呼ばれる我々衆生の悩みを断ち切る智慧の剣を持ち、左手には、絹索と呼ばれる正しい道から外れた衆生を引き戻して下さる縄を持ち、背中には、我々衆生の煩悩を焼きつくす人を背負っています。不動明王 御真言なうまくさまんだ ばさらだん せんだん まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまんこの御真言には、不動明王への讃歎と畏敬の念が込められています。本堂前を守護する狛犬。本堂。瓦には厳島神社同様の三つ盛り二重亀甲に剣花菱紋が入る。本堂には神仏分離令によって厳島神社から遷された弁才天像(毎年6月17日御開帳)や釈迦如来像など、多くの仏像を安置し、本尊は薬師如来、弁才天をお祀りする。大願寺は中国四十九薬師霊場22番、広島新四国八十八ヶ所霊場1番の札所でもあり、霊場巡りで訪れる参拝客も多い。本堂前にはピカピカに輝く賓頭盧尊者が安置されており、これまで多くの願を叶えて来たのだろう。本堂右の地蔵堂。堂の左から奥に進むと清盛神社に続きます。さて次に向かうのは山門から左に進み、小高い丘に建っている多宝塔(当日は修復作業中)方向へ向かい、あせび歩道から大聖院に向かいます。大願寺宗派 / 高野山真言宗山号 / 亀居山院号 / 放光院開基 / 空海(寺伝)創建 / 不明本尊 / 薬師如来、弁才天境内社 / 厳島龍神札所 / 中国四十九薬師霊場22番、広島新四国八十八ヶ所霊場1番所在地 / 広島県廿日市市宮島町3参拝日 / 2023/03/03関連記事・ 厳島神社 境外末社「清盛神社」・ 安芸国一之宮 『厳島神社』・ 地御前神社(広島県廿日市市地御前)
2023.05.24
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車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」からの続きとなる群馬県二日目。道の駅赤城の恵で迎えた二日目。昨晩は結構車中泊していた車も、既に多くが走り去って行ったようで、爆睡していた我家は出遅れ感があるか。二日目の最初の目的地は群馬県太田市世良田町に鎮座する「世良田東照宮」を目指します。その前に、ここから数分先にある吉野家の朝定食を食べて一日がスタートします。8:16食事を済ませ、道の駅から通勤時間で混みあう国道17号線を50分程南下。利根川左岸の田園地帯が広がる世良田町の新田荘歴史資料館の駐車場に到着。ここに車を停め世良田東照宮と徳川町の東照宮の二社を巡ります。上は太田市歴史公園マップ。園内には新田荘歴史資料館、世良田東照宮があり、参拝に訪れ駐車するにはありがたい。資料館には徳川家と所縁のある「長楽寺」や「世良田東照宮」に伝わる文化財はじめ、新田荘の歴史を伝える資料等が展示されています。下は資料館前の新田義貞像。稲村ヶ崎で剣を海に投げ、海の神様に祈願してから、海岸から鎌倉へ侵入して、倒幕をはたした故事に基づく銅像。新田荘歴史資料館所在地 / 群馬県太田市世良田町3113-9世良田東照宮小黒門から境内の眺め。門の前の通りから右を眺めると東照宮の別当寺を務めた長楽寺の太鼓楼と三仏堂も近い。東照宮境内から社殿の眺め。当日は本殿が修復作業中で全景を見ることが出来ず残念でしたが、さすが東照宮、拝殿に施された左甚五郎の彫飾りや狩野探幽の彩色は見応えがありました。世良田東照宮 由来寛永21年(1644)、三代将軍徳川 家光は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽く されました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と誘われました。御祭神主祭神 徳川家康 (東照大権現)東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。配祀菅原道真公(学問の神) 、倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 、須佐之男命(愛、農業の神)、大穴牟遲命(招福、医療の神)、誉田別尊(安産、育児の神)、伊弉冉尊(結婚、火防の神)、火産霊命(車、縁結びの神)、建御名方神 (スポーツの神)、豊城入彦神(開運の神)。祭事一月元日 初詣1月4日 除魔神事 午後1時1月5日 御釿始め式 午後一時4月第一日曜日葵祭り 午前十時~4月17日例祭、10月17日春季祭11月 七五三祝祭太田市世良田は徳川発祥の地と云われ、町名にも徳川町と残る程徳川家と所縁のある地。徳川氏の祖は上野国新田郡を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされ、平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となりました。新田義重は、仁安3年(1168)に世良田などの開拓の地を四男義季に譲りました。新田義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷(太田市尾島町)に住んで徳川(得川)を称し、徳川義季と名乗りました。これが徳川氏発祥の始まりと言われています。その後、義季の子孫である親氏は、父有親とともに諸国を放浪し、三河松平郷(愛知県豊田市)に住んで松平を称し、松平親氏と名乗りました、その松平親氏の子孫が松平家康で、後に徳川氏を名乗り徳川家康となります。そうしたことから世良田東照宮は歴代の将軍から厚遇されてきました。大鉄燈籠。上野国総社藩主の秋元長朝が明暦4年(1658)に寄進した鉄燈籠で、他にも宝暦から天保の元号が刻まれた石灯籠が見られます。世良田東照宮創建 / 寛永21年(1644)祭神 / 東照大権現境内社 / 稲荷社、日枝社拝観料・開場 / 300円・9:00から道の駅赤城の恵から車移動で世良田東照宮 / 移動時間50分程所在地 / 群馬県太田市世良田町3119-1これだけゆっくりと参拝し拝観料は300円とは懐に優しい。時間が10:00という事もあるのか、意外に参拝者は少なく、何より大陸からの団体客に出会わなかった。次はここから南西の徳川町に鎮座するもう一つの東照宮に向かいます。世良田東照宮から徒歩で20分程という事なので見渡す限りの葱畑が続く道を歩き出しますが、あまりに単調で日差しを遮るものもなく、道半ばで引き返して車で向かいました。10:05駐車場から徳川町東照宮までは車で5分程、永徳寺前の縁切寺万徳寺遺跡駐車場に駐車し社頭までは徒歩2分程、最初っから車移動だったか。上徳川東照宮社頭全景。利根川支流の早川左岸に鎮座し、社地左は資材置場、右は小さな公園に挟まれています。公園の脇に家康が描かれた尾島かるたが掲げられていました。「徳川氏発祥の地尾島町江戸幕府将軍徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれています。新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。」とあります。社頭から見る社殿は神社と云うより寺の雰囲気が漂う。左の石標には「徳川義孝公館址」とあり、右の社標には「●●東照宮」と刻まれていました。下かつてのこの辺りは上野国新田郡得川郷と呼ばれる徳川家発祥の地とされ、徳川義孝の館があった場所。この屋敷址は後に正田家が所有し、そこに建てられたのが徳川東照宮とされ、代々正田家により護られて来たようですが、明治政府の神社合祀令により東照宮の社地は正田家から徳川郷に移り、郷内の神社は世良田東照宮に合祀されたようです。現在の入母屋瓦葺の拝殿は、車を停めた向かいに鎮座する永徳寺から大正3年(1924)に権現堂を移築し拝殿としたものとされます。世良田東照宮と徳川東照宮は葱畑を隔てお互いに見える距離にありながら、随分と境遇は違うようです。御朱印は世良田東照宮で頂けるようです。徳川東照宮創建 / 天正19年(1591)祭神 / 東照大権現所在地 / 群馬県太田市徳川町387-1世良田東照宮からアクセス / 徒歩20分、車で5分10:30群馬県の徳川東照宮を後に最終目的地埼玉県の「父父夫國総鎮守 秩父神社」の最寄りある「道の駅ちちぶ」へ向かいます。移動時間は約70分程。道の駅へはほゞ12:00到着。ここで一息入れ、売店で土産を探し求めながら、こちらの名物?豚みそ丼本舗で昼食を予定していました。ところが歩き足りなかったのか、かみさんの御楽しみだった豚みそ丼はとても食べられる状態ではなく、軽く蕎麦を食べる事に変更。上「道の駅ちちぶ」周辺には商業施設もあり、車中泊には便利かもしれないが、目の前を国道140号線が走るので夜はどうなんだろう?下駐車場脇の「ちちぶの水」、昼寝の時間も迫りボンヤリしてきた意識を秩父の冷たい湧水がリフレッシュしてくれる。PET容器持参で汲みにこられるようです。そば処入船。道の駅から秩父鉄道秩父駅方面に向かい、秩父神社社頭を通り過ぎて約10分歩きます。左手の風情ある佇まいの通りに面し「そば処入船」がある。既に開店しており、第一陣が入店した後なんだろう、店舗前に列は見られずラッキーと喜んだ。しかしウェイングリストを見ると結構待ちがあるようで、取り敢えず記名を済ませ店舗前で座っていると、次から次に客が訪れ始め、長椅子では足りず立って待つ状態に。30分程して店内の奥の座敷に通され山くるみそば¥900とまいたけ天ぷら¥800、くるみ天ざるそば¥1700をオーダー。30分程して、山くるみそばとまいたけ天ぷらが出て来た。やくみの下のくるみだれにたっぷり蕎麦を絡ませ味わう、口の中は出汁の効いた濃厚な胡桃と蕎麦の風味が広がり、なかなかいける蕎麦、くるみだれに蕎麦湯を入れても胡桃の風味は負けていない。舞茸の天ぷらもカラッと揚げられサクサクした食感で美味しかった。趣のある入船の店舗は「登録有形文化財秩父銘仙出張所二」として登録されています。大正時代から昭和時代初期にかけて、この地は秩父銘仙の取引で賑わい、近在近郷の織物工場の製品取引をするための出張所が建ち並んでいた。木造2階建、切妻造、瓦葺、平入、建築面積88平方メートルで、正面2階軒を出桁造、1階は下屋を設ける。正面は真壁造で外観は左右対称の2戸1棟形式で、当時の商業地区の景観の一端を今に伝えている。」秩父銘仙とは、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源とされ、山に囲まれた秩父の地形は、稲作に適さないことから養蚕業が盛んとなり、商品にならない繭を使い「太織」と呼ばれる野良着を生産、それが評判となり鬼秩父、秩父銘仙と呼ばれるようになり、庶民の普段着として重宝され、往事は住民の7割近くが繊維業界に携わっていたようです、番場町にはこうした出張所は3棟現存するようです。そば処入船所在地 / 埼玉県秩父市番場町100113:40多少時間を費やしてしまったが最後の目的地秩父神社に戻る事に。父父夫國総鎮守 秩父神社社頭全景。秩父鉄道秩父駅から徒歩10分ほどの秩父市番場町1に鎮座する古社。秩父神社の創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀国造本紀』によると、第10代崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされ、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。上は栞にある境内マップ。現存する権現造の社殿は、天正20年(1592)に徳川家康が寄進したもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。毎年12月3日に行われる例祭は秩父夜祭として、国の重要無形民俗文化財と重要有形民俗文化財に指定され、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる。訪れた時は本殿北側の壁面が装飾の補修中で職人により漆の剥離作業が行われていました。上神門から拝殿の眺め。参拝客は多いが途切れるのを待っていれば人の映り込みの少ない写真も撮れなくもない。下拝殿正面全景。入母屋銅葺屋根で千鳥破風と唐破風向拝が施された拝殿。秩父神社は永禄12年(1569)に戦火で焼失、家康により天正20年(1592)に再建されますが、社殿全周に施されている彫刻とその彩色の美しさが見所といってもいい。拝殿正面の四面に描かれた虎の彫刻「子宝 子育ての虎」は、左甚五郎が家康の威厳と祭神を守護する神使として彫ったものとされます。拝殿両側面の装飾。左甚五郎による繋ぎの龍、子育ての虎、お元気三猿などの彫りもの一つ〃に物語があり、それら見ているだけでも時間は過ぎていきます。父父夫國総鎮守 秩父神社創建 / 崇神天皇10年祭神 / 八意思兼命(政治・学問・工業・開運の祖神)、知知夫彦命(秩父地方開拓の祖神)、天之御中主神(北辰妙見として鎌倉時代に合祀)、秩父宮雍仁親王(昭和28年に合祀)所在地 / 埼玉県秩父市番場町1-3秩父神社を14:30に後にして「道の駅ちちぶ」で鬼胡桃などの買い物を済ませ350㌔の帰路につく。世良田東照宮(右)と父父夫國総鎮守 秩父神社の御朱印。名古屋着はとっぷり日が暮れてしまうが、帰りも付かず離れず法定速度+10km/hの定速運転でひた走る。二日間の全走行距離790㌔、使用燃料80literと年代物の車ながら上出来の結果でした。訪問日 / 2023/05/11~12二日目走行ルート 関連記事 / 車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」
2023.05.23
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5月11日~12日にかけて、久し振りに車中泊で一之宮を巡って来ました。かみさんが温めていたプランのひとつで、上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社を巡る総走行距離は約800㌔の行程です。名古屋を5時に発ち一路中央道をひた走り、岡谷ICで降りて立科、軽井沢方面に向け山越えの道を走る。初日の第一目標上野国一之宮貫前神社を目指しました。高速は工事規制もありましたが、全体の流れが法定速度+10km/hの巡行速度で、十分な車間距離を保つ流れだったのでブレーキを踏む必要もなく運転のストレスは少なかった。10:00国道142号線沿いの「道の駅 女神の里 たてしな」に到着。一面田畑が広がり浅間山が望める長閑な道の駅で、地元の野菜や珍しい山菜、苗などが販売されています。こちらの新トイレはとても綺麗、女性には受けがいい事間違いなし。国道は交通量はさほどでもないがトラックの往来があり、車中泊だと音が気になるか。「道の駅 女神の里 たてしな」所在地 / 長野県北佐久郡立科町茂田井248011:15奥多摩の山々を見渡す富岡町の山間に鎮座する上野国一之宮貫前神社に到着。一ノ鳥居の下に車を停め、石段を上り詰め大きな両部鳥居をくぐり、総門に向かう。総門前にも駐車場があるので石段を避けたい向きにはお勧めですが・・・総門から社殿の眺め。随分と下に社殿があります。下り参道と云われ、総門から楼門へは石段を下りていく事になります。上野国一之宮貫前神社拝殿から本殿。2009年から2013年にかけて「平成の大修復」が行われ、彩色も落ち着きを見せ、嫌みのない華やかな社殿。貫前(ぬきさき)神社の創建は安閑天皇元年(531)とされ、物部姓磯部氏が氏神の経津主神を蓬が丘綾女谷に奉斎したのが始まりとされ、祭神は経津主神、姫大神。樹齢1200年とも云われる大杉をはじめ、スダジイやイチョウの古木が聳え立つ広大な社叢に包まれた美しい神社です。富岡と云えば世界遺産「富岡製糸場」もあり、こちらを訪れた際に貫前神社は訪れるだけの価値はあります。上野国一之宮貫前神社創建 / 安閑天皇元年(531)祭神 / 経津主神、姫大神所在地 / 群馬県富岡市一ノ宮1535参拝を終え、丁度昼時となり10分程離れた登利平 富岡店で昼食としました。群馬では鳥めしがソウルフードだという事で、登利平は群馬県内各所に店舗があるようです。写真は胸肉とモモ肉を甘辛たれで絡ませた「鳥めし松重(¥900)」御飯にもたれが浸み込み、うなぎ程こってりでもなくさっぱりとした味わい。ここから一旦上信越自動車道に乗り、次の目的地「前橋東照宮」まで小一時間の移動時間。前橋公園駐車場へは15:10に到着。ここに車を停めて周辺を散策。まずは、公園東に隣接する臨江閣と庭園を散策。手入れの行き届いた庭園内には臨江閣本館、別館、茶室の国指定重要文化財三棟が建っている。明治期における近代和風建築の迎賓施設で、明治17年(1884)に群馬県を訪れる皇族や賓客の接待・宿泊施設として建てられたもの。臨江閣所在地 / 群馬県前橋市大手町3-15-3三時のおやつ。群馬県のソウルフード原嶋屋総本家の「焼きまんじゅう(¥240)」なんというのか、五平餅のたれを丸いパン(まんじゅう)に塗って焼いたもの・・・悪くはない。群馬県は名古屋同様に味噌文化が花開いているのか、味噌を挟んだ味噌パンなどスーパーで売られていた。もちろん「こんにゃく」も豊富で価格も安く、大量に袋詰めされた刺身こんにゃくを土産に買ってきました。原嶋屋総本家所在地 / 群馬県前橋市平和町2-5-20前橋公園駐車場から5分程南の大手町に鎮座する前橋東照宮。御覧の様にスタイリッシュな外観で、この建物自体が鞘殿で本殿は右側のガラス張りの部分にある。外部から本殿の全容が見れますが、映り込みもあり見えそうで見えない。前橋東照宮は江戸初期の大名松平直基公が幕府より賜った領地、福井県の越前勝山に寛永元年(1624)に創建されたもの。江戸時代中期には松平家が各地の国替え経て姫路城より前橋城に入城。その後洪水の被害を受けて、一時武州川越に居住しその川越に作られた社殿で、洪水による復旧を遂げた前橋に戻るに際し解体・移築されたもの。現在の社殿は明治4年(1871)に再築されたものだという。前橋東照宮創建 / 寛永元年(1624)祭神 / 東照大権現、木花咲耶姫、菅原道真、長壁様所在地 / 群馬県前橋市大手町3-13-19初日の行程は一通りコンプリート、そろそろ地元スーパーに立ち寄り今夜の酒と肴を買い込み今日の宿泊地「道の駅 赤城の恵」に向かいます。17:45赤城山の南麗にある「道の駅赤城の恵」に到着。この道の駅には「あいのやまの湯」が隣接し、お風呂も食事も済ませることができるので車中泊にはいい条件が揃っています。車を停め、車内をお泊り(宴会)モードにセットしてお風呂に向かう。久し振りの長距離走行で腰はパンパン、歩き疲れて足は重い、41℃のやや塩味を感じる湯に浸かり一日の疲れを癒し食事処で乾杯。入浴料は大人520円で、65歳以上は310円に割り引かれ、施設内には休息所もあるなどお得な施設。ここで20:00までゆっくりと休むことが出来ます。その後は車に戻り二次会、今夜の酒は地元のスーパーで見切り品だった「船尾瀧」。テレビの受信状況も良く、雉や鶯の鳴き声も聞こえるいいロケーションの道の駅でした。初日行程 / 名古屋~道の駅赤城の恵
2023.05.19
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奈良県桜井市三輪『恵比須神社』日本で最古の神社とも云われる大神神社、広大な三輪山そのものを御神体とするため本殿を持たない神社。桜井の町に聳える大鳥居が印象に残る神社で親しみを込めて三輪明神とも称される古社です。今回掲載する『恵比須神社』は、大鳥居から続く長い参道の一本南に伸びる上街道(伊勢本街道)沿いに鎮座します。上は観光マップに上街道を赤線、大鳥居と大神神社を青枠で示し、赤丸が恵比須神社の鎮座地です。大鳥居脇の大神神社第2駐車場に車を停め、綱越神社の前の三輪街道を東に進みます。街道の面影が残る三輪の町を歩く事10分弱で恵比須神社社頭に着けるはずです。恵比須神社社頭全景。訪れたのは4月4日、散りゆくばかりの枝垂れ桜が辛うじて残ってくれていた。「日本最初市場 三輪坐 恵比須神社」の社標と由緒が掲げられた左から境内に入れますが、鐘楼の建つ右側が正参道でその先に鳥居を構えています。左から車で入れそうですが、駐車が許されているのか定かではありません。「日本最初市場 三輪坐 恵比須神社由緒略記御祭神 八重事代主命、八尋熊鍔命、夜奈留美命御由緒当神社は八重事代主命(三輪明神の御子神)他二柱を奉斎し、日本最初の市場海石榴市(つばいち)の守護神として、悠久の昔創祀せられ「つばいちえびす」と称えられエビス信仰の本源をなす大和の古社であります。顕幽両界に亙って働かれるご神徳が敬仰されています。主要祭事初市祭 宵宮 2月5日、本戎祭 2月6日、御湯祭 2月7日夜市祭 8月13日例祭(秋の大祭) 10月14日」八重事代主命は大神神社の御祭神の大物主大神の御子神で、国譲りの談判交渉の際、大物主大神に代わって大役を務めたことが神話にも語り伝えられています。海柘榴市(つばいち)は三輪山南麓を流れる初瀬川(大和川)沿いの金屋の地で物々交換の市として始まったそうで、海柘榴市の守護神として神社も祀られましたが、延長4年(926)の大雨により初瀬川が氾濫、それを契機に市は三輪の地へ移され、守護神も三輪に移されたのが今日の恵比須神社のようです。市の賑わいは平安時代の「枕草子」や「万葉集」にも記され、市の始まりと共に三輪の繁栄を護り続け、市場神社や日本最初市場の神とも称され、商業や産業の守護神として、古くから伝わる祭りとともに現在も篤く信仰され続けています。参道から境内の眺め。まずは右側の桜と神仏習合時の名残を残す鐘楼に目が行きます。参道左が手水舎で正面に狛犬と石の明神鳥居が立っています。鐘楼。間近で梵鐘の銘を見ていないので年代は不明。手水舎と左奥に見えているのが社務所。大きな龍がいますが撮り忘れていました。手水舎脇の碑。内容は以下。「当神社の手水舎は、もと正徳2年(1712)に市場の繁栄を祈願して三輪村下市中の寄進によって造営されました。その頃の当神社は、おおいに繁盛した三輪市(上市・下市) の守護神として、また広く市の神として、商人達の崇敬を篤くし、特に初市には全国各地から参集した豪商達で賑わったと伝えら れています。三輪の茶屋を舞台とした近松の「冥途の飛脚」が初演されたのもこの頃のことです。このたび、氏子草敬者の寄進によって当時の手水盤を基に復元し、正徳の昔をしのぶと共に未来の繁栄を祈るものです。昭和7年(1932)10月日本最初市場 三輪坐恵比須神社」参道脇の狛犬と鳥居。蔓柏(つるかしわ)の神紋が入った前掛けを着けられた狛犬。誇らし気に微笑むかのような阿形の狛犬は、恵比須さんの表情にも見えてくる。鳥居の額は「恵比須神社」参道を覆う様な枝垂れ桜は鮮やかな葉桜に装いを変えていました。花の時期はさっぱり読めなくなってきました。境内右の恵比須神社社務所。当日は無人で御朱印は頂けなかった。左手に見える巨樹は樹齢600年とも云われる御神木の欅夫婦欅で、名の通り根元から幹が二つに分かれており、寄り添いながら共に大きく育つ姿から、この樹に触れ願をかけると良縁の御利益を頂けるようで、安産や子宝にも恵まれるという事です。拝殿左の琴平神社。拝殿正面全景。恵比須神社の由緒では創建について「延長4年(926)7月の大雨により初瀬川が氾濫、それを契機に市は三輪の地へ移され、守護神も三輪に移された」とあります。神社の社伝には「大風、長谷山崩レ、海石榴市ニ至リ、人烟悉ク流レシニヨリ、市場ヲ三輪ニ開クニ及ビ、市神モココニ遷シ祭ル。是レ即チ当神社ノ創祀ニシテ」と記されているようで、現在の惠比須神社の始まりは延長4年(926)としてもいいのだろう。大和川氾濫前の海石榴市は、大和川右岸を15分程遡った三輪山南麗の金山町にあったとされ、日本書紀では欽明天皇13年(552)、百済の使者がこの地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したと記される事から、この地は仏教伝来の地として大和川沿いに顕彰碑が建てられています。山の辺の道や幾つかの古道が交わり、大和川を行き交う船着き場として、人・物が集まりやすい立地だったようです。惠比須神社の元となる護神が祀られた時期となると更に遡る事になる。拝所から拝殿、本殿方向の眺め。にこやかに微笑む大黒天とえべっさん。琴比羅神社社頭全景。琴比羅神社由緒。「御祭神 大物主神例祭 7月9日日本で最初に開けた海柘榴市(つばいち)ゆかりの流れを汲む恵比須神社の境内に祀られ、いわゆるエビス・ダイコクのダイコクとして、増殖・蓄財のご神徳が仰がれています。」本殿域全景。左の石灯篭の柱に寄進年らしき文字が見えますが、いろいろ加工しても読み取れなかった。本殿前を守護する小柄な狛犬には〇金の前掛けがかけられている。琴比羅神社本殿は銅葺屋根の流造で千鳥破風が付く。創建時期など詳細は不明。棟には5本の鰹木と外削ぎの置き千木が付き破風側の棟にも鰹木と千木が施されています。棟飾りには〇金。琴比羅神社左に佐藤春夫が海柘榴市を訪れ詠んだ「海柘榴市の 野道に飛び交ふ 蟲や何 」の句碑。三輪の初市「JR三輪駅の西に位置し、旧指定村社の恵比須神社がある。本殿には、天正15年(1587)銘の「上棟城上郡三輪市場恵美酒宮」と書かれた棟札が残っている。2月6日の初市祭は現在でもにぎやかで、この時にこの年の三輪素麺の価格が決められる。『日本書紀』の海柘榴市の伝統を残しているとの説もある。」古くは六日市とも呼ばれ、旧暦の正月6日の前後三日間で執り行われ、現在は初相場奉告祭として三輪そうめんの標準価格を神様に告げるようです。そうめんもピンキリで味音痴の自分にはその違いがよく分からない。三輪坐恵比須神社境内全景。恵比須神社創建 / 延長4年(926)祭神 / 八重事代主命、八尋熊鍔命、夜奈留美命摂社 金比羅神社創建 / 不明祭神 / 大物主神大神神社第2駐車場から徒歩 / 10分程所在地 / 奈良県桜井市三輪375参拝日 / 2023/04/04関連記事 / ・奈良 談山神社・岡寺・今西酒造本店『三諸杉』・「大和國一之宮大神神社」
2023.05.18
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名古屋市中村区名駅南1、柳里(りゅうり)神社・白鷹龍神。迦具土神社・豊光稲荷大明神の続きで、名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りとなります。今回掲載する柳里神社・白鷹龍神は上のマップの赤い矢印の位置になり、移動時間は15分前後です。鎮座地は笹島交差点南東の区画の南側に鎮座します。上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。社頭の前は柳街道が通り、嘗て街道周辺が一柳荘と呼ばれた荘園で、柳の樹が多く植えられていた事に由来するとも云われるようです。柳街道は佐屋街道から名古屋城下町へのバイパスとして整備されたもので、柳の樹を植えたくなるような土地柄だったようです。神社名の柳里もそうしたことから付けられたのかも知れません、今はその柳の樹は見かけません。柳里神社の呼称は「やなぎさと」や「りゅうり」などさまざまですが、ここでは「りゅうり」としておきます。柳街道沿いで三方をビル囲まれ、良くある街中の神社の佇まい。街道沿いの歩道を歩くと両脇を壁のようにビルが連なる一画に、玉垣と白鷹龍神の白い幟がはためく柳里神社が現れます。鳥居は少し奥に立てられているので目印はこの幟旗だろう。歩道から境内の眺め。右手に「柳里神社」の社標と常夜灯、鳥居と続き、左側に白鷹龍神の覆屋があり、手水鉢は本殿右側にあります。「柳里神社」の社標はセメントで塗り潰された痕跡もなく、常夜灯も比較的新しいものです。愛知県神社庁で柳里神社・白鷹龍神を検索するが属していないようで情報は得られなかった。どちらも大正4年(1915)とあるので無格社という事か。境内左の白鷹龍神覆屋と右に小さな祠が祀られています。板宮造りの社は社名札はないが恐らく白鷹龍神の本殿なのだろう。左右の祠其々に座布団が敷かれ、中に石像が安置されています。左の祠の石像。嫌な予感はしたが、やはり蛇。とぐろを巻き、鎌首をもたげこちらを睨んでいる。右の祠にも蛇らしき石像。とぐろの部分は蛇のウロコの様に表面が劣化、頭部に耳らしき突起があるも、もはや蛇なのか龍なのかイメージすらできない。これらの像が重軽石なのか、撫でるものなのか作法は分からない。白鷹龍神の謂れはよく分からなかったが、低地で湿地帯が多く、田んぼの広がっていた土地柄を考えると、水や天候を司る龍や蛇が祀られても違和感はない。事実、江川線沿いに鎮座する白龍神社や堀川左岸の須崎神社には白龍龍寿大神が祀られるなど、龍神の多いところかもしれない。五行説に於て白龍は西方を守護し、金運や仕事運、縁結びなどの御利益があるとされ、ビジネス街に鎮座する白鷹龍神に訪れる地元の方は多い。本殿域全景。背後と左右はビルの壁が迫り、小さな社地のこの一画の上だけが抜けている。右側に澄んだ水が張られた手水鉢、柄杓も置かれています。本殿全景。コンクリートジャングルの中にあって、本殿域には貴重とも思える緑の樹々が杜を形造り、境内は表通りに比べると体感温度も幾分低く感じる。小さな体で精一杯大きく口を開けている本殿域の狛犬。寄進年など見る事は出来なかったが、子犬の様にムチムチした体をしています。本殿と常夜灯。祭神は須佐之男命、火之迦具土神とされ、神明造の棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が施されています。偶数の鰹木と水平カットの千木は女神と云われるがどうなんでしょう。左の常夜灯は随分古そうで、竿には「柳野天王〇」と刻まれており、嘗ては牛頭天王として祀っていた?創建時期や由緒が定かでなく、創建時からこの柳街道に祀られていたものか、明治以降の変貌著しい鉄道整備に伴い遷座したのか不明。ヒントは竿の裏側に刻まれているかもしれません。こぢんまりとした柳里神社の本殿域から上を見上げれば、コンクリートジャングルの隙間に空が広がる。本殿域から社頭の柳街道の眺め。忙しない街中の喧騒から逃れ境内に立ち入れば、そこにはゆっくり時を刻む特別な空間がある。柳里神社・白鷹龍神創建 / 不明祭神 / 須佐之男命、火之迦具土神所在地 / 名古屋市中村区名駅南1-24参拝日 / 2023/04/27関連記事 / ・迦具土神社・豊光稲荷大明神 (名駅付近の神社巡り) ・洲崎神社
2023.05.17
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岐阜県土岐市鶴里町鎮座南宮神社。国道脇363号線沿いに石鳥居を構え、参道は杉林の中に続いています。社頭前に駐車余地があるので駐車場に困る事はないかも知れない。国道と沿う様にかつての中馬街道が続き、名古屋から瀬戸を経て柿野、細野、曽木を経て飯田に至る街道があり、江戸時代に山間の農民が自家産物を馬に背負わせ山を下り、その帰りに塩などを積んで帰る駄賃馬稼ぎの習慣が生まれ、信州一円で行われていました。国道363号線を走っていると、道端に祀られた馬頭観音や石仏などの姿を見かけます。社頭全景。石の明神鳥居を構え、右に「南宮神社」社標、左に手水舎がありそこから先は上に向けて石段が伸びている。社頭正面、少し行けば社殿だろうと勝手に思い込み、石段を上り始める。鳥居の額は南宮社と刻まれているが、風化も進み読み取り難いけれど、鳥居の柱には大正8年(1919)と刻まれています。手水舎全景。湧水が導かれているのか、澄んだ清水が絶え間なく注がれていた。4月だというのに温かいを通り超して暑いと感じる陽気、清水の冷たさが心地よく感じた。広葉樹と杉に包まれた参道の石段は、氏子により2003年に整備されたもので、勾配はさほどでもなく、手摺も整備されておりありがたい。すぐに社殿は見えてくるものと思っていたが意外に道のりは遠い。幾つかの石段を上ると、その先は林間に参道が続く。前方を見渡しても社殿の姿はなく、これは奥が深そう、かみさんに怒られるパターンだ。木漏れ日が入る明るい杜の中からウグイスの鳴き声も聞こえ、解放感のあるなだらかな参道です。やがて右手に石段が現れ、それを上れば社殿がある。南宮神社社殿全景。大きな杉の杜に包まれた神秘的な雰囲気の境内は、拝殿とその先の覆殿が一体となったもので、雪深い土地柄なのが伝わってくる。南宮神社の詳細は調べきれなかったが、岐阜県神社庁の一覧に社殿の写真と共に以下の記載があった。「 主祭神 金山毘古神、祭礼日 10月初旬、創祀・縁由不明、摂末社祭神 空欄」情報が乏しいと捉えるか、これだけでも有難いと取らえるか人其々。どこぞの県の神社庁に比べれば、よっぽど把握に努めている。境内の常夜灯の竿には、識別しにくいですが明治12年(1879)と刻まれています。これが現地で見た一番古い寄進物になる。拝殿とその前を守護する狛犬。この狛犬の寄進年は未確認ですが、風貌から燈籠の寄進年と同時期かと。拝殿から幣殿、本殿。土岐市やお隣多治見、瑞浪の主要産業を支えるのが窯業・土石製品という事もあるのか、祭神は鉱山の神様金山毘古神を祀る。本殿の造りまでは分からないが、陶製の小さな角を持つ狛犬の姿が見える。頻繁に崇敬者が訪れているようで、山の中にある神社としてはとても綺麗に手入れされているのが印象に残る。拝殿左から覆殿方向の眺め。手前に石の社が祀られています。拝殿右手側は見ていませんが、こうした社が右にも祀られているのかもしれません。境内社。石の社の正面に社名が刻まれているようですが全文読み取れず不明としておきます。結局境内に由緒らしきものはなく、詳細は分からないままですが、燈籠の寄進年が明治12年である事や中馬街道も近い事から創建は江戸時代に遡るかもしれません。石段から社頭の眺め。創建や由緒等分からない事ばかりですが、杜の中に続く整備された参道や、手入れされた境内・拝殿など見る限り、この地に住む人々の生活と神社は今も密な関係にあるようです。蜜な関係?南宮神社創建 / 不明祭神 / 金山毘古神境内社 / 不明社所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2829車移動 / 名古屋市役所から東へ約80分参拝日 /2023/04/11関連記事 / 春の岐阜ドライブ日記 (山菜料理・神社・世界最大美濃焼こま犬・日本最大の水車・ダム見学)
2023.05.16
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厳島神社の参拝を終え、出口から右手方向に向かい、松並木と石灯籠が続く西松原を清盛神社に向かいます。赤丸部分が清盛神社なります。この一帯は砂が堆積した岬の様になっていて、波打ち際から望む海に浮かぶ大鳥居の眺めは絶景です。清盛神社はこの西の松原の先になります。西灯籠の左手は細い流れの御手洗川が流れており、この川で清めをしていたのかもしれない。西の松原から見る大鳥居と宮島桟橋の眺め。参道をしばらく歩いて行くと清盛神社の赤い社殿が見えてくる。現在の厳島神社を形作った平清盛をお祀りする神社なので、ここは参拝しておくべきところだろう。社地は周囲に瑞垣を廻らし、朱の鳥居とその先に檜皮葺流造の本殿が建てられている。社殿は随分新しく綺麗なものです。清盛神社全景。厳島神社は参拝者で溢れていますが、清盛神社まで訪れる参拝者は少ないようです。鳥居右の清盛神社由緒。「御祭神 平清盛公例祭日 3月20日御由緒平清盛公の没後770年を期に、御遺徳を顕彰しようとの気運が高まり昭和29年(1954)に創建された。」とあります、どおりで綺麗なわけです。島内に厳島神社の摂社三翁神社が鎮座していますが、そちらから分祀創建されたのが清盛神社です。「平氏にあらずんば人にあらず」、あまりいい印象を持たれない清盛ですが、この地方に於ては音頭の瀬戸を始めとした航路や港の整備などに貢献し、清盛の印象は変わり、寝殿造りの厳島神社の基礎を築いたのも清盛の功績なのかもしれません。社殿後方の眺め。厳島神社参拝のあとは、清盛神社まで少し足を伸ばして見るのも良いかもしれません。厳島神社境外末社「清盛神社」創建 / 昭和29年(1954)祭神 / 平清盛例祭日 / 3月20日所在地 / 広島県廿日市市宮島町28-1参拝日 / 2023/03/03関連記事 / 安芸国一之宮 『厳島神社』
2023.05.13
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相野山 八幡神社。3月7日、岩崎御嶽山を訪れた際の帰り道に相野山の八幡神社に立ち寄った。東名高速日進JCTから南東方向へ約1㌖程、周囲は農地が広がる相野山に鎮座します。高速の先に見える小高い山が岩崎御嶽神社が鎮座する御嶽山。車なら10分程の位置になります。JCTの建設以前は緑豊かな田園地帯の趣がありました。随分すっきり造成され、あと何年かすればこちらにも住宅の波は押し寄せてくるのだろう。相野山八幡神社社叢全景。この陽気につられ、土筆が頭を出している姿も見られるかと思いましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。相野山八幡神社社頭。社叢南側に石の明神鳥居を構えた社頭があり、右側に「村社 八幡神社」の社号標が立っています。「出没注意」だそうだ。社頭から境内へは舗装された緩やかな参道伸びており、その先に僅かばかり石段がある。参道の先に社殿が見えて…であればいいけれど、ここからでは見通せません。やがて視界は広がり、その先に「イノシシが」だけは勘弁してもらいたい。名古屋市内でも奴らは出没するだけに、農地の広がるこの一帯にいない訳がない。石段まで来ると社殿が見えてきます。広い境内の奥側に広範囲に石垣が積まれ、その上に社殿が建つ。社叢の西側から車道があり手前の境内に駐車できるようです。境内全景。視界は広がり、広い境内の正面に社殿が見える。周囲をしっかり見渡す、幸いにも「イノシシ」の姿はない。里山の頂の森を切り開き広大な境内が作られており、社殿域を囲う玉垣は広範囲迄取り囲んでいます。由緒によれば、この地の始まりは慶安元年(1652)、北新田開墾のため三河各地から来た9軒の入植者により開かれた。入住から10年後の明暦3年(1657)、須賀郡寺部より八幡宮を勧請したのが始まりで、岩藤新田も氏子となり両新田の氏神として現在に至る。明治5年(1872)に村社に列格。昭和37年(1962)に境内北の現在地に社殿を遷し今日に至るようです。往古は例祭で馬塔、棒の手を奉納していたようで、広い境内はそうした事もあるのだろう。祭神は応神天皇をお祀りする。境内左の手水鉢。社殿はこの石段の先に広がり、瓦葺妻切りの拝殿に幣殿が連なり、その先の流造の本殿が主な建物。拝殿左に一本の桧が真っすぐに聳えているのが印象的。拝殿全景。木造拝殿は四方吹き抜けですが、妻側以外は腰壁で囲まれている事もあり安定感を感じる。手前に狛犬が安置され、台座に寄進年も刻まれているようでしたが読み取れなかった。本殿左側に境内社が纏められていました。由緒御祭神 応神天皇例祭日 10月10日慶安元年(1648)、三河各地より9軒の人々ここに入植し北新田の成立をみる。うち4軒は来主渡辺氏の本拠たる三州賀茂郡寺部よりの転住者たりしため、入住10年の明暦3年(1657)9月、寺部の八幡宮をここに勧請、岩藤新田も氏子となり、当神社を両新田の氏神として今日に至る。往昔は例祭に馬塔・棒の手を奉納す。明治5年(1872)7月、村社に列格す。昭和57年(1982)10月、社殿を少しく北方に遷し、祝詞殿、玉垣を新設せり。境内左手の手水鉢。拝殿前の狛犬。妻飾りに八の文字が刻まれていますが、鬼や軒丸などの瓦に紋は見られなかった。拝殿から幣殿、本殿の眺め。参拝を済ませ境内東から社殿側面を眺める。本殿は檜皮葺きの一間社流造。境内左に纏められた境内社。上津島社。下左が鍬神社、右が熱田社。境内社後方から社殿全景。広々とした郊外の神社は陽射しは降り注ぎ、風が心地よく通り抜け解放感があり、いつ来てもいいものです。相野山 八幡神社創建 / 明暦3年(1657)祭神 / 応神天皇例祭日 / 10月10日境内社 / 鍬神社、津島社、熱田社所在地 / 日進市北新町相野山1286岩崎御嶽社から八幡神社車移動 / 東へ10分程参拝日 / 2023/03/07関連記事 / 岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社
2023.05.11
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地御前駅に戻り、ここから終着駅である宮島口駅に向かいます。厳島神社の表玄関だけに、途中の駅舎に比べて非常にお洒落な駅舎です。駅を降りれば目の前が宮島に渡るフェリー乗り場で、JR宮島フェリーに乗ることをお勧めします。乗船する際は右舷側をお勧めします。宮島口から宮島フェリーは目の前、そこから宮島まではフェリーで10分程。このJR宮島フェリーは、行きの途中に厳島神社の鳥居の近くを通過してくれるので、右舷側で待っていれば修復を終え海に浮かぶ両部鳥居と社殿を一枚に収めることができます。宮島港桟橋。宮島(厳島)を訪れる観光客は年間300万人を超える、その多くがこのフェリーで訪れます。宮島桟橋広場。宮島や厳島と呼ばれる神の島ですがどちらも同じ島を指していますが、国土地理院の定める正式名称は「厳島」です。厳島の由来はいくつかあるようで、ひとつに祭神の市杵島姫命の「いちきしま」から厳島(いつくしま)に転じたとされ、戦乱の時代が終わった江戸時代頃から厳島神社(お宮)のある島から、宮島と呼ばれるようになったとようです。これ以降は通称の宮島として記載します。宮島桟橋広場に出ると、神の使いとされる鹿が出迎えてくれます。もともと陸続きだった頃から宮島に生息していた野生の鹿で、禁足地だった頃から神の使いとして見守られてきたこともあり、人を恐れませんが飼いならされたものではありません。人が接し方を間違え、それによるトラブルが結構起きていると聞きます。昼寝の邪魔をしない方がいい。宮島は島全体が神、観光の中心は厳島神社になりますが、弥山を含め奥宮や奥之院、さらに海岸に点在する神社「宮島七浦巡り」などがあり、とても一日で巡ることは出来ません。今回は厳島神社とその周辺の寺社を中心に巡る事にしましたが、機会があればテントを張ってのんびり巡りたいもの。厳島神社が鎮座する宮島は日本三景の一つで、世界遺産にも指定される景勝地です。島全体が崇敬対象で往古は禁足地とされていた。御神体の宮島は、島の北東に聳える弥山を含め15%ほどが世界遺産に指定されていますが、海を含むその他は緩衝地帯として管理されています。宮島には厳島神社以外に、弘法大師が護摩修業した1200年前から「消えずの火」として受け継がれて来た不消霊火堂など多くの寺社が鎮座し、神仏習合の名残を留めています。フェリー乗船中の観光ガイドでこの島にないものとして三つ紹介されていました。一つは島内に一基も墓は建てられていません、同じ理由から出産も本土ですることが受け継がれています。二つ目は島内に信号がない。三つ目に島内にはコンビニがない。今回は厳島神社周辺を歩いただけで、宮島ロープウエイ方向まで廻れませんでしたが、確かに上の三つは目にしなかった。一ノ鳥居と狛犬。波打ち際の松並木が続く参道にある石造の明神鳥居で、一対の大きな狛犬が出迎えます。青銅狛犬。大正8年(1919)の寄進で、角付きの吽形と阿形は笑っているような。厳島神社の象徴といっても過言ではない海に浮かぶ大鳥居、2019年から修復が始まり、昨年修復が終了しましたばかりで現在のもので9代目と云われます。鮮やかな朱色の両部鳥居は干潮時には間近で見ることができ多くの人で賑わいます。やはり海に浮かぶ姿が一番。干潮を迎える厳島神社社殿。大半の建造物は国宝または重要文化財に指定されています。青銅狛犬の次がこの石造狛犬。主な伽藍は、入口側から客神社本殿、東廻廊、本社社殿、祓殿、高舞台、左右の客神社、西廻廊を経て天神社、大國神社、能舞台と続き、一番人が集中する場所でもあります。国宝厳島神社東廻廊入口。どこでもそうだろうが、陽も高々とあがってからでは人の映り込みは避けられません。拝観は6時30から出来るのでその時間なら本来の姿が見られるだろう。東廻廊から見る客(まろうど)神社。東廻廊。人波が途切れる事はありません。廻廊右の飛び出した部分は客神社の祓殿。客神社拝殿から見る幣殿、本殿。厳島神社最大の摂社で本殿、幣殿、拝殿、祓殿とあり、祭神は天忍穂耳命、活津彦根命、天穂日命、天津彦根命、熊野櫞樟日命の五男神が祀られています。本社拝殿から見る客神社と東廻廊。平清盛の厚い庇護を受け建てられ、鎌倉時代の仁治2年(1241)に再建されもので、本殿は前後に長い庇を持つ両流造で檜皮葺き。手前の祓殿の廻廊に付けられた白い波よけ板、正面の二間だけが付けられていないのは、往古の儀式などでここから海側へ昇降できるように配慮したものと言う。厳島神社には地御前社で少し記載した管弦祭や舟で海に団子を供えた藁船を浮かべ、烏がそれを食べに来れば吉兆と占う伝統神事「御島巡り」など舟を用いた祭礼が幾つもあり、そうした事もあるのかも知れない。後方に聳えるのは厳島神社・五重塔と左は豊国神社千畳閣。高舞台の左右を守護する青銅製の狛犬。寄進年は未確認ですが、個性的な尾と鬣を持つ風格のあるもの。高舞台から本社祓殿。厳島神社の創建は伝承では推古天皇元年(593)とされますが、定かではないようです。現在の海に浮かぶ社殿の原形は平清盛により築かれたとされます。祓殿の前に一段高い高舞台が設けられています、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄を廻らし前後に階段がつけられた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽が演じられ、現在の舞台は、天文15年(1546)棚守房顕によりつくられたもので、国宝に指定されています。この日は挙式も行われ、居合わせた国内・海外から訪れた観光客からも祝福を受けていました。その光景を見てカナダバンフの片田舎にある教会で、二人だけで挙げた結婚式の様子が蘇ってきた。あの時も現地の人から祝福を受けたものだ。右門客神社と鳥居。高舞台から見て右の神社で切妻檜皮葺の覆屋内に流造の社殿がある。祭神は櫛磐窓神を祀る。両部鳥居。平舞台の沖に建てられた鳥居で、補修を受け色鮮やかに海に聳えている。鳥居の島木と笠木の内部は空洞で、内部に石が詰め込まれ、その自重で自立し、風や波の影響から耐えるようになっている。往古の鳥居は両部鳥居ではなく明神鳥居だったようで、両部鳥居に変えられたのは天文16年(1547)に再建された際からだといわれます。左門客神社と青銅製の灯籠。高舞台から見て左の神社で右門客神社同様の造り。祭神は豊磐窓神を祀る。客神社の脇に高舞台で舞が行われる時に使用される楽房がありますが、人の映り込みも多く掲載は見送りましたが、これも国宝です。高舞台から海に伸びる火焼前先端は、燈籠と鳥居を入れ撮影する映えスポットのようで、長い列は途切れない。三つの燈籠は寄進年がそれぞれ違いますが、いずれも細かな意匠が施されています。ここは左門客神社の青銅製の灯籠と鳥居を入れて一枚。祓殿、拝殿、幣殿の全景。平舞台から能舞台(左)と楽屋が見える。楽屋右奥の山の上に足場が聳えているのが多宝塔で現在修復作業中でした。本社拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。神紋は三つ盛り二重亀甲に剣花菱。なにを買って帰ろうかねぇ。大国神社。鎮座年代は不明、天文6年(1537)の記録に記述があるようで、祭神は大国主命で相殿神に保食神をお祀りする。由緒によれば本社にお供えする前に、ここに一旦安置した後に本社にお供えされたという。檜皮葺き両流造の本社。西廻廊から見る天神社と反橋。西廻廊から能舞台の眺め。慶長10年(1605)の建立とされ、延宝8年(1680)にも再建され、現在のものは1991年の台風19号で倒壊、平成9年(1944)に再建された切妻檜皮葺のもので、鏡板に描かれている松もその際に描かれたもの。全長24㍍、幅4㍍の反橋で、こうして見ると緩やかな曲線を描いています。橋脚部分は黒漆、高欄は丹塗りのコントラストの効いた橋ですが干潮時は今一つ趣がないか。往古は天皇の勅使しか渡る事が許されなかった事から勅使橋と呼ばれたそうです。廻廊から入口を見ると壁のように見え、とても渡れたものではない。高欄の擬宝珠には銘が残され、現存する橋は弘治3年(1557)に毛利隆元、元就父子により再建されたもの。潮もすっかり引いて地上に現れた社殿全景。潮が引いても燈籠の前の順番を待つ長い列は途切れることはないようです。上豊国神社千畳閣。名の通り、豊臣秀吉が千部経を読誦するために天正15年(1587)に発願、建立した入母屋瓦葺の大経堂で未完成のまま現在に至っています。廃仏毀釈により明治5年(1872)、神となった豊臣秀吉、加藤清正を祀る厳島神社の末社豊国神社に改められ現在に至るようです。堂内には大きなしゃもじが安置されていますが、しゃもじは御飯をすくい取る事から勝利をすくいとる縁起物として奉納されるようになったとか。下五重塔。室町時代の応永14年(1407)の創建で、千畳閣の境内に聳えています。もとは大聖院の子院(金剛院)の五重塔でしたが、廃仏毀釈にともない、厳島神社に附属する塔となりました。厳島神社のシンボル朱の大鳥居。平安時代から数えて9代目の現在の鳥居は、明治8年(1875)に再建され、修復を終えたばかり。鳥居の額は海側は「厳島神社」、本社側は「伊都岐嶋神社」と書かれています。間近に見るより海に浮かぶ姿が一番趣がある。鳥居は人が取り囲んでいますが、意外にこうして社殿を眺める人は少ないようです。こうして見ると客神社の脇の楽房や三つの燈籠も一望する事が出来る。「あのおやじ邪魔」なんて声が聞こえてきそうだ。次回訪れる際は腰を据えて海岸線に鎮座する宮島七浦巡りだけを訪ねたいものです、そこならさすがに人は少ない気もする。安芸国一之宮 厳島神社創建 / 推古天皇元年(593)祭神 / 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命境内社 / 客神社、右門客神社、左門客神社、大国神社、天神社所在地 / 広島県廿日市市宮島町1-1参拝日 / 2023/03/03関連記事 / ・地御前神社・地御前・大蔵神社・智秀山西向寺・金光(きんこう)稲荷神社・広島東照宮・安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day2
2023.05.10
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巨大な二つのビルが聳え立つ名古屋の玄関口名古屋駅、今も次々とビルの建設が進み、更に拍車をかける様にリニア建設に伴う工事が着々と進み、名古屋駅は益々変貌を遂げようとしています。迦具土神社・豊光稲荷大明神は、桜通り東口から徒歩2~3分程のビルの谷間にひっそりと鎮座しています。上の矢印が鎮座地。左が1898年の頃で、現在の名古屋駅から200㍍ほど南に名護屋駅として開設された頃で、これから急速に変貌しようとしていた時期。右がほぼ現在の地図、どちらにも鳥居の印は記されていません。出張帰りに一杯ひっかけるため、神社付近は何度か前を通りがかっていますが、日中に訪れるのは今回が初めてで、迦具土神社・豊光稲荷大明神の創建や謂れは分からなかった。迦具土神社(左)・豊光稲荷大明神(右)の社頭全景。ビルの谷間の僅かな一画に社頭を構え、神社を取り囲むように無数の自転車が置かれているのが印象に残る。名駅の店舗やビル群が聳え立つ一画にあって、小さな神社の社地が今も与えられているのが奇跡的とも思える。殺風景なビルに取り囲まれた小さな境内には、場違いと思える立派な御神木が聳え、社頭の神明鳥居と二棟の瓦葺の建物があり、この一画だけは時が止まったままのようです。神社側面の眺め。左の切妻の建物が迦具土神社の鞘殿。右の片流れの建物が豊光稲荷大明神社の覆屋で、その前に幾つかの奉納鳥居が連なっているのが分かります。左に迦具土神社社標、鳥居右の柱脇に小さな手水鉢がありますが、自転車が玉垣のように取り囲みよく見て取れなかった。鞘堂の鬼や軒丸瓦に神紋は見られなかった。こうした街中の神社は、背面に無機質なビルの壁が聳える光景がつきものですが、1本の御神木の緑があるだけで随分と印象は変わって見える。鳥居をくぐると目の前に賽銭箱と拝所が迫る。貫に御即位記念と彫られており、寄進年は大正4年(1915)とあります。大正天皇即位礼に合わせ寄進されものですが、これを持って創建時期とするには無理がありそうです。鳥居の下から迦具土神社に参拝。右の稲荷に進むが、赤い鳥居の入口には引き戸が付けられ、そこに開けられた小窓から賽銭を投げ入れ参拝するのが作法のようで、引き戸から覆屋へは進めない造りになっています。小さな神社の手水石は、ビルの森に住む鳥たちにとって絶好の水浴び場になっているようだ。変貌を続ける一帯で行き交う人は多いものの、誰からも見向きもされないのが寂しい感じがする。この一画が自転車に飲み込まれず、残っていければいいのだろうが。迦具土神社創建 / 不明祭神 / 加具土命豊光稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂大神所在地 / 名古屋市中村区名駅2-42-5名古屋駅から徒歩 / 1番出口から北東へ2分程参拝日 / 2023/04/27
2023.05.07
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相模國一之宮寒川神社。訪れたのは2023/01/18、新たな年を迎えて間もない頃の事。疫病との付き合い方も分かり、まもなく海外から多くの観光客が訪れ、賑わう前に訪れておく場所のひとつとして、一泊二日で神奈川の一之宮巡りに訪れました。ここ相模國一之宮寒川神社でそれも終わりを迎える。そんな時期なので冬枯れた景色ばかりで彩りには乏しいかもしれない。上鎌倉から寒川神社へは江ノ電とJRを乗り継いで寒川駅で降車しました。寒川神社の最寄り駅は宮山駅になるかと思いますが、一駅前で降りて線路沿いを10分程歩いた踏切の先に立つ一ノ鳥居と社標から訪れる事にした。なんだぁ、意外に駅から近いじゃないかと内心喜ぶも、一ノ鳥居から松並木に挟まれた参道から遥か先を眺めても社頭らしき姿が見えない。寒川神社一ノ鳥居は相模川の左岸沿いに流れる目久尻川の左岸に位置し、昭和4年(1929)に寄進されたもの。下鳥居から10分程進んだだろうか、ようやくニノ大鳥居が現れる。その先になんとなく社頭らしき姿も見て取れる。実に長い参道、この鳥居を過ぎたあたりから社頭方向に向かう車が渋滞を始めた。この鳥居は、明治5年(1872)に老朽化し撤去され昭和41年(1966)に再建されたコンクリート製で、高さは16㍍もあり関東最大の鳥居とされます。上寒川町そのものが初めて訪れましたが、寒川の名物はどうやらこの水仙なのかも知れない。下ニノ鳥居から5分程で漸く神橋の先に三ノ鳥居が現れる。渋滞は社頭まで続き、その大半は寒川神社へ参拝に向かう車が大半のようで、社頭前の寒川神社前交差点は写真のように流れが滞っていた。当日は平日、特に祭礼日でもないが凄い列だ、さすがに相模之国一之宮という事か。神池に架かる神橋と噴水の先に銅像があり相模薪能石橋の銘があった。境内の由緒。内容は以下。「祭神 寒川比古命、寒川比女命の二柱の神を奉称して、寒川大明神という。例祭日 9月20日(9月19日例祭宵宮祭・流鏑馬神事) 当神社は日本総国風土記によれば、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録が残る。神亀4年(727)社殿建立と伝わり、1600年以上の歴史を有す。以後、延暦16年(797)桓武天皇を始め、歴代奉幣の記録が残る。承和13年(846)に神階従五位下を始めとする神階授与がなされています。醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国十三社の内、名神大社と定められ関東地方の信仰の中心をなす。中世、源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営、社領の寄進等あり、武田信玄からは武運長久を祈願し兜が奉納されるなど崇敬が篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領の寄進など古来より武家からの崇敬の念は篤いものがあった。明治四年国費から幣帛料が奉納される国幣中社に列せられた。その後、大正時代の関東大震災、昭和の大東亜戦争終戦後、昭和21年神道指令により、神社の国家管理を廃され神社本庁の包括神社となる。戦後日本全体の復興とともに八方除信仰を中心として全国の崇敬者から崇敬、参拝されている。平成9年本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われる。神聖なる神嶽山を背に約1万5千坪を有し、平成21年に本殿奥庭の禁足地を「神嶽山神苑」とて開苑。」参道右側に古い鳥居の笠木と柱が置かれ、そこに鳥居の解説があった。それによれば寛政8年(1796)に寄進された一ノ鳥居で、安政2年(1855)の江戸大地震、大正12年(1923)の関東大震災と二度倒壊した明神鳥居だという事で、現在の一ノ鳥居に比べひと回りも二回りも小さなもの。人で溢れる参道を先に進み楼門の左に写真の大きな手水舎がある。寒川神社楼門全景とその前を守護する狛犬。筋骨隆々としたその姿は角を持ち、顔つきも勇ましいものがある。上楼門左の神馬舎。内部には神馬と手綱を引く木彫りの猿の像が安置されています。下楼門右の授与所。初詣もあるのだろう、祈願を希望する多くの参拝者の列が伸びていた。寒川神社楼門。平成5年(1993)に竣功した入母屋銅葺屋根の見るからに新しい門。この神社では毎年楼門に「迎春干支ねぶた」を掲げ、参拝者を迎えるのが慣例だされます。今年は国家安泰、五穀豊穣の神「瓊瓊杵尊」(左)と、安産の神「木花咲耶姫」(右)、中央に木花咲耶姫の子「火遠理命」のねぶたが架けられ、夜には明りが入り、このねぶたを楽しみに訪れる参拝客も多いと云う。日没から22時まで毎日灯され2月23日まで飾られるようで、どうやらこの楼門は陽が落ちてからが見応えがありそうです。楼門から社殿の眺め。寒川神社の正確な創祀年代は定かではなく、記録として残るものは以下の様です。・雄略天皇(456~479)の御代に奉幣。・神亀4年(727)社殿建立の記録。このことから少なくとも約1600年の歴史を誇る神社のようです。延長5年(927)に編纂された「延喜式」の相模國十三社(寒川神社、川勾神社、比々多神社、前鳥神社、寒田神社、高部屋神社、大山阿夫利神社、小野神社、有鹿神社、石楯尾神社、宇都母知神社、大庭神社、深見神社)のうち、唯一の名神大社とされています。祭神は寒川比古命と寒川比女命のニ柱で寒川大明神と奉称され、寒川大明神は相模國を中心に広く関東地方を開拓、衣食住などの根源を開発指導、関東地方文化の生みの親として敬仰される。現在の社殿は、大正時代から昭和にかけて竣工されたものが多く、神橋なども同時期に整備されたようです。この拝殿は東西に翼殿を連ねたもので平成9年(1997)に竣功されたようです。なので趣のある古い建造物は皆無と云っても良く、整備された荘厳な社殿です。拝殿とその奥に見えているのが本殿の大棟だろう、本殿や幣殿は神嶽山の社叢が包み込み全体は見通せなかった。拝殿唐破風と拝殿内のねぶた。一説には200人同時に祈祷できる広さがあるという。それくらいでなければあの長蛇の列はさばききれないだろう。あれで普段の平日なんだという。寒川神社は、相模國一之宮と称され、全国唯一の八方除の守護神として約1600年の歴史を持つ神社です。古くは朝廷をはじめ、源頼朝、武田信玄、徳川家代々、さらには民間と幅広く崇敬された。神社HPによると「拝殿の右側に配置された渾天儀のレプリカは、本来天体の位置・星等を観測する器具です。特に星の運行は、人々に方角を教えてくれるばかりではなく、国家の命運をもにぎると昔から考えられてきました。そのため、天体観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われたのです。寒川神社の渾天儀には、龍は天空を支えるという故事にならい四隅に龍が配置されています。」とあります。現在は八方除の神徳を戴くため全国各地から崇敬者が集まります。社頭の駐車場の空きを待つ長い車列、境内に入れば今度は授与所の前で長い列、さすが相模國一之宮。拝殿から楼門方向の眺め。本殿裏手に末社の御祖神社が鎮座するようですが、入口が見当たらず参拝は諦める。南門とその前を守護する狛犬。楼門前の狛犬に比べ幾分穏やかな表情。もともとの神門を移築したもので、旧本殿をしのぶ建物との事。訪れた時はこの南門をくぐった右側に御朱印受付が設けられ、かみさんによるとこの時期の通常御朱印はなく、写真の特別御朱印のみだとか。最後に本殿、神嶽山が見れないものかと社地外周をひと回りして見る。神嶽山後方に生垣が一部切り取られた裏参拝所があり、そこから禁足地の様子が見てとれるようになっていた。宮山神社。境内を出て、社頭左の道路沿いに鎮座する寒川神社の末社で、古くからこの宮山各地区に鎮座していた七社の小祠をここに合祀したもの。明治41年(1908)に琴平社に八剣社、雷社、祢岐志社、若宮八幡社の四社を合祀、大正3年(1914)に稲荷社、昭和44年(1969)に三峰社を合祀し宮山神社になった。一間社流造の宮山神社全景。由緒によれば、安産と母子の健康を願い崇敬され、白豆腐を御供し祈願すると母乳に恵まれるという事。その他にも家運隆昌、家内安全、無病息災、商売繁盛、五穀豊穣を司る神として地元から崇敬されているようです。関東大震災で被災、国の支援で昭和5年に修復されたとの事。境内左の平和塔。相模國一之宮寒川神社。創建 / 不明(雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録)祭神 / 寒川比古命、寒川比女命(寒川大明神)所在地 / 神奈川県高座郡寒川町宮山 3916JR相模線「寒川」駅から寒川神社徒歩 / 約20分参拝日 / 2023/01/18関連記事 / ・鎌倉 円覚寺・鎌倉 建長寺・鶴岡八幡宮 今宮・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・北条義時法華堂跡・鶴岡八幡宮境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」・鶴岡八幡宮境内社「白旗神社」・「若宮」・鶴岡八幡宮
2023.05.06
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岐阜県郡上市八幡「野中稲荷神社」町内を長良川と支流の吉田川の二つの清流が流れ、城下町の趣が漂う落ち着いた静かな町。3/25、例年より早い桜の満開を迎える名古屋を離れ、電車と気動車を乗り継いで長良川鉄道「郡上八幡駅」に降りたった。名古屋に比べ少しばかり標高の高い郡上八幡。周囲の景色は随分と変わり、郡上の町はこれから春本番を迎えようとする時期で、上着が一枚欲しくなる。吉田川右岸の郡上の町を見下ろす八幡山の頂に建つ郡上八幡城。低く垂れこめた雲海の上に浮かぶ城の姿を求め、郡上を訪れる人も多いといいます。城は昭和8年(1933)に再建されたもので、現在は耐震化工事が行われており入場は不可。郡上八幡は水の都とも呼ばれる事もあり、町内には宗祇水をはじめとする湧水や水舟、御用用水が巡らされています。豊かな水は日常生活と密接し、軒を連ねる町並みの消火のためにも使われてきました。写真は「やなか水のこみち」清らかな流れの水路沿いに川石を敷き詰めた小径が作られており、芽吹き始めた柳の鮮やかな緑と紅殻格子の建物が風情のある佇まいを魅せてくれ、暑い日に涼むには絶好の場所。野中(やなか)稲荷神社はこの「やなか水のこみち」沿いに鎮座します。野中(やなか)稲荷神社。二つの鳥居を構え、左に水舟があり、「やなか水のこみち」の名はこちらの稲荷から付いています。一ノ鳥居に架けられた額は「野中稲荷神社」水の都らしく、冷たい水は絶え間なく水舟に注がれ、その水は再び台地に戻る。境内から一ノ鳥居に刻まれた寄進年を見ると大正10年(1921)と刻まれています。正面の「やなか水のこみち」沿いにも水舟が作られ、水舟は身近な存在として活用されています。二ノ鳥居から本殿の眺め。シックな色合いの街並みの中で、この鳥居と本殿の朱色が一層鮮やかに見える。野中(やなか)稲荷神社由緒。内容は以下。「野中(やなか)稲荷神社はこの一帯に郡上藩三代藩主遠藤常友の弟大助が家臣とともに住んだ長屋群があり、その遠藤家の屋敷と土地を守る屋敷神であったとされる。左側の奥一帯は江戸時代初めの遠藤氏時代からの藩屋敷があり、この長屋群は三筋の町並み(現在の稲荷町1~3丁目)をつくり、新長屋・中長屋・片長屋と呼んだ。江戸時代後半の青山氏時代には、ここはすべて足軽屋敷となり、全部で五十八戸があった。尚、「やなか水のこみち」は昭和63年(1988)に小公園ポケットパークとして整備され、野中稲荷神社にちなみ命名された。参考文献 歴史探訪郡上八幡」遠藤大助(常昭)の生没は1629~1692年とされ、徳川家綱の小姓衆として仕え、延宝元年(1673)に隠居し郡上に戻り、城下の願蓮寺南に大助様屋敷が与えられ晩年を過ごし、元禄5年(1692)に64歳で亡くなったと言います。そうした事から、野中稲荷神社は江戸時代前期に伏見稲荷から勧請し創建されたものと思われます。常夜灯の竿には嘉永6年(1853)寄進と刻まれています。本殿全景。扉の前には小さな狛狐が守護しています。右手の柱に白い札は、毎年4月20.21日、ここから少し東に鎮座する日吉神社に大神楽を奉納した事を示すもので、日吉神社大神楽は重要無形民俗文化財に指定されているとか。子孫繁栄、息災延命等の御利益がありそうです。「稲荷町」とありますが、現在の町名は稲荷の鎮座する側が八幡町新町、小径を挟んで左が八幡町島谷に分かれ、稲荷町としては残ってはいないようです。新緑の時期を迎え、郡上の町は見所やご当地グルメもあり、日帰りで散策するには持ってこいの場所です、散策で通りかかった際には足を止めて見るのもいい。表通りとは違い、この小径は車の往来もなく、暑い日には水舟に注がれる水音が癒してくれそうです。野中(やなか)稲荷神社創建 / 江戸時代前期祭神 / 倉稲魂神所在地 / 岐阜県郡上市八幡町新町931参拝日 / 2023/03/25関連記事 / ・願連寺・郡上八幡 『左京稲荷神社』・郡上八幡 『神農薬師』・長敬寺・慈恩禅寺・蓮生寺・安養寺・八幡神社・天満宮
2023.05.05
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岩崎御嶽山の岩崎御嶽社から中之院と訪れてきましたが、今回は御嶽社最後となる奥之院です。中之院から民家のある三叉路に戻り、奥之院までは三叉路を西に進み、民家の立ち並ぶ高台の頂に向かいます。奥宮に至るまでの道を緑のラインで示します、直線距離にしたらたいした事はありませんが、見ての通りです。三叉路から概ね15分程の上り坂となります。三叉路を西に向かい、住宅が立ち並ぶ右手の高台の頂を目指します。ほゞ円錐形の高台を周回するように道路が続き、近道を探したくなりますがここは我慢。訪れた3月は樹々の間から池も見えていましたが、今頃は新緑も生い茂り見えにくくなっているかもしれません。分かれ道まで来たら右の上り坂を進みます。上は奥之院が鎮座する高台の頂付近。左手のフェンスのある坂を上ると奥の院に至ります。写真中央の石垣に石段がありますが、そこを進んでも奥之院には行けません。奥之院参道口。正面に見えているのが岩崎御嶽山、周囲は傾斜地に住宅が立ち並び別荘地の趣がある。見晴らしもよく良い環境ですが、下からここまでは坂なので車が必需品かもしれない。生活道路で、さほど幅員もないので路駐は避けた方がいい。緩やかに上る整備された参道を上り切れば奥之院です。中之院までの道のりの様に余計な不安を抱く事はないと思います。奥之院が見えてきました、奥之院登頂まであと少し。頂きには赤い幟や鳥居が立てられ、ひっそりとした雰囲気のなかに佇んでいた中之院と比較すると随分賑やかです。奥之院全景。境内は概ね三つの神域で成り立っており、手前の鳥居が御嶽社、中ほどに不動明王、奥に心願講と其々に神明鳥居が立てられています。最初に記載しておきます、奥之院の寄進物の寄進年は見ていません。御嶽社奥之院。万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされる神社で大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社。岩崎御嶽社そのものが地図上に記されるのが大正9年から、奥宮に至っては現在も記されていなかった。奥宮がいつ頃から存在したか定かではなく、奥宮で唯一目にした本殿域の大正9年と記された玉垣しか見ていません。地図上の印の有無で創建時期と推定する根拠にならないだろうが、地図に現れる年号と玉垣の年号が奇しくも同じ年なのはただの偶然だろうか。奥之院鳥居扁額。三つの扉がある本殿の中央に鏡が置かれ、その左右に小さな陶器の狛犬が置かれています。本殿は三柱を祀る相殿でこの両脇に石像が立てられています。奥宮左の明治天皇尊碑。互いを見合う様に陶製の狛犬が碑を守護している。中央が唯一二つの鳥居を構える不動明王、参道は突き当りの石窟に向け伸びている。一ノ鳥居の不動明王の額。ニノ鳥居のすぐ前に人の手により作られた石窟がある。石窟(仏窟)内部は屈まなければ入れないほどの高さしかなく、床に敷物が敷かれ、正面に粗削りな大日大聖不動明王や地蔵、弘法大師や仏像などの石像が安置され、香炉には不動明王講とある。岩崎御嶽山には心願講、誕生講、福寿講、出生講など良く耳にする有力講社の他に、この地域や名古屋市内に活動拠点を置く講社の霊場があり、岩作御嶽山(安政5開山)と共に御嶽信仰の一大聖地のひとつで、講員は其々の霊場で御座儀礼や読経を行い、霊峰御嶽に戻った先人達と繋がりを持つのだろう。不動明王の左に複数の石碑や像が安置され、狛犬の姿もある。さほど広いとはいえない奥宮境内に神と仏が一つに融合されています。境内西側の神願講霊場。鳥居の先には神願講開祖の明寛霊神像が安置されています。奥之院から西を眺めれば、名古屋市内第二位の標高(約111㍍)の親鸞山(極楽山)があり、高針心願講の霊場のひとつ高針御嶽山(1949年開山)が間近に見られ、その先には東山スカイタワーやセントラルタワーズも一望できる。北方向に目を向けるとモリコロパークや猿投山の山々も望め、空の澄む時期には雪を頂いた霊峰御嶽の眺望が広がります。気持ちだけは今でも山は登れるつもりでいますが、若い頃は気にもしなかった坂が、最近ではやたらと急登に思えるようになり、岩作御嶽山から標高133㍍の奥之院までの道のりが遠く感じる。岩崎御嶽社 奥之院創建 / 不明祭神 / 国常立尊、大己貴命、少彦名命所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山中之院から徒歩ルート / 西へ約15分参拝日 / 2023/03/07関連記事 / ・岩崎御嶽社中之院・岩崎御嶽社(日進市岩崎町竹ノ山)・功徳天満宮(岩崎御嶽社)・八大龍王(岩崎御嶽社)・岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社・岩作『御嶽山』
2023.05.04
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鶴岡八幡宮境内社「白旗神社」・「若宮」からの引き続きとなる今回。若宮から左の舞殿(下拝殿)と、その左の杜の中に鎮座する祖霊社、そして源実朝が暗殺の場として知られる大石段を上り鶴岡八幡宮本宮(上宮)と境内社の丸山稲荷を巡ります。上の境内案内図の赤い実線の丸部分が舞殿・祖霊社・本宮(上宮)・丸山稲荷の位置になります。参道から望む舞殿(下拝殿)と本宮(上宮)、右手が若宮(下宮)。治承4年(1180)、頼朝が歴史上初の武家政権である鎌倉幕府を鎌倉に構え、源氏の氏神である八幡宮を遷し、鎌倉幕府はじめ東国の守護神として崇敬されてきたもの。昨日は人波で写真に収める気になれなかったけれど、朝の境内は静寂が漂う落ち着いた姿を見せています。舞殿は文治2年(1186)静御前が義経を慕う思いを込めて舞った場所として知られ、ここから若宮(下宮)に続くかつての廻廊跡に建っており、下拝殿とも呼ばれるそうです。建久2年(1191)の鎌倉大火後、建久4年(1193)に再建された入母屋平入での四方吹抜けで、前後に唐破風屋根を持ち、前側には唐破風向拝が施された朱塗りの建物で、金色の飾り金具と垂木全てに垂木飾りが付き、着飾った女性の姿にも似ている。現在の建物は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊し、昭和7年(1932)に再建されたもので、その際に茅葺き屋根から銅葺屋根に葺き替え、四方吹き抜けのものに姿を変えたようです。上は享保17年(1732)に描かれた境内図鶴岡八幡宮境内絵図から神仏分離以前の舞殿、本殿域を切り取ったもの。現在は広々とした印象のある舞殿周辺の境内を思うと、鶴岡八幡宮寺として仏教施設が立ち並んでいた頃は荘厳な境内だったことが伺われます。調べた限りでは神仏分離令以降、これら施設は近隣の寺に移築されることなく破却されたようです。舞殿正面全景。女性的な印象を持ってしまうのも静御前のイメージからか。舞殿側面全景、綺麗な姿はどこから見ても綺麗なもんです。現在は全く立ち入る事は出来ませんが、建替え後の古い写真を見る限り、一時期に於ては舞殿の間近まで近づけたようです。大石段と左側の「親」銀杏と「子」銀杏。承久元年(1219)、雪が降りしきるこの場で三代将軍実朝は公暁により討ち取られた場所。石段左に聳えていた樹齢1000年とも云われた隠れ大銀杏、公暁はここに身を隠したとされます。天然記念物にも指定されていた大銀杏も2010年に倒伏してしまい、現在は注連縄で囲われ、その根から芽生えた子銀杏が樹齢を重ねています。祖霊社。舞殿左の杜の中にひっそりと佇んでおり、社頭は舞殿手前の左に写真のような参道が伸びています。大石段を上る前に祖霊社に参拝、参道はこの先で右に伸びています。朝の祖霊社周辺の杜は聞き慣れない鳥のような鳴き声が周囲から聞こえてきます。かみさんと二人で鳴き声の主を探していると、覆い被さるような樹々の枝を駆けまわる小さな影を見付けました。なかなかじっとしてもらえず、漸くとらえたのが上の写真。ふさふさとした尾を持つリスらしき姿を捉える事ができた、鳴き声の主はどうやらこの方らしい。群れをなし、樹々を駆け回り、お互いに「怪しい二人組が来たぞ」とばかり鳴き合っている。その動きの速さに動体視力が追い付かない。しんと静まり返った杜の中に佇む祖霊社。鶴岡八幡宮の氏子崇敬者の祖霊と護国の英霊を祀り、昭和24年に建立されたもの。例祭日 春分の日・秋分の日参拝を済ませ本宮(上宮)に向かう事にします。舞殿から見る大石段とその先の鮮やかな朱塗りの楼門。仕事とはいえ毎日この大石段を上る巫女さんの足取りは幾分重く見える鶴岡八幡宮にあって唯一ともいえる長い石段、その前を一対の狛犬が守護しています。左が「親」銀杏側の吽形、右が阿形の狛犬。寄進年は見ていませんが、全体は白化し、鬣や毛並みはデフォルメされた素朴な姿は、頼朝によってこの地に鎌倉幕府が開かれ、鶴岡八幡宮(若宮)を還座、繁栄から滅亡までの約300年の盛衰を伝えるかのような悲哀に満ちた佇まいをしている。楼門。三間一戸の八脚の門で、左右の間に随神が安置されています。石段も中ほどまでくるとこの随神の視線を感じる。楼門に掲げられた扁額はお馴染みのもの。八幡神の使いとされる二羽の鳩で八の字を描き、源氏の幟旗の八幡大菩薩の八もこれが使われています。蟇股の虎、この他にも鳩を描いたものも見られます。大正12年(1923)の関東大震災では舞殿同様に倒壊し、昭和7年(1932)に再建されています。この随神が倒壊後修復されたものか新造されたものか詳細までは分からなかった。楼門と廻廊。建立当初鶴岡八幡宮は幾度も火災や自然災害に見舞われ、火災だけでも建久2年(1191)、弘安3年(1280)、永仁4年(1296)、正和4年(1315)、文政4年(1821)、現在の門は文政4年(1821)の火災で焼失後、文政11年(1828)に徳川11代将軍家斉により再建されました。現在の門は関東大震災で倒壊後に再建された、入母屋銅瓦葺で門の両袖は廻廊と繋がっています。楼門横の解説は以下。「本殿(上宮)・廻廊・楼門御祭神 応神天皇、比売神、神功皇后 例祭日 9月15日本殿建物は幣殿・拝殿を連ねた流権現造で、 廻廊が東西に 延びて本殿を囲む形になっている。廻廊は内部が区画され往時はさまざまな神事、法会の場として機能していた。楼門中央に掲げられた八幡宮の扁額 「八」の文字は八幡大神の神使とされる鳩を象っていて、寛永6年(1629) 曼殊院 門跡良恕法親王の揮毫によるものである。本殿内外の上部壁面には鳥獣草木が描かれ、精巧な彫刻も施されているが、細部にわたり見事な彩色が施されている。現在の社殿は文政4年(1821) 本殿火災後、同11年(1828)、徳川十一代将軍家斉による幕府あげての事業として再建され、江戸時代末期の幕府作事方による代表建築の一つと評されている。 平成8年(1996)には国の重要文化財に指定された。武内社御祭神 武内宿禰例祭日 4月21日武内宿禰は応神天皇の重臣として側近くに仕えた為、全国 の八幡宮に於いては末社の神として本殿の傍らに祀られる ことが多い。極めて長命であったとされることから、特に延命長寿のご利益があると云われている。 平成8年(1996) には国の重要文化財に指定された。」楼門の右側の廻廊。楼門と左右の廻廊の間には脇戸が設けられています。脇戸から見る拝殿。脇戸から見る本殿と武内社。楼門内の写真撮影は禁止されていました。楼門左側の廻廊。この廻廊が本殿域を取り囲んでいます。この左側に大分県に鎮座する八幡宮の総本社宇佐神宮の遙拝所がありましたが、丸山稲荷社の赤い鳥居に魅かれすっかり忘れていました。丸山稲荷社。鳥居右に解説があり内容は以下。「丸山稲荷社御祭神 倉稲魂命例祭日 4月9日 初午祭、2月初午の日、火焚祭11月8日。建久2年(1191)の本殿の鎮座以前からこの地に祀られていた地主社である。社殿は夷社本殿が江戸時代に柳営社となり、更に明治時代に入って稲荷社として現在の位置に移築されたものである。 形式は一間流見世棚造で、室町期の神社建築の貴重な遺例として高く評価されており、境内に現存する最古の建造物でもある。 昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されている。毎年11月8日に執り行われる火焚祭では、当宮に古くから伝わる鎌倉神楽が奉納され、大勢の崇敬者で賑う。」商売繁昌を祈願し多くの奉納鳥居が連なり、中には有名人の名も見られた。本殿は鳥居から左に上がった先に鎮座します。丸山稲荷社斜景。見世棚造と流造の違いを分かっていない、となれば辞書に頼るしかない。それによれば「きわめて小規模の社殿で、土台の上に組まれ、正面に階段のないもの」とあった。けっして小規模とは思えない社殿は、これまで流造と書いてきたなかに、この見世棚造が含まれているのかもしれない。丸山稲荷社の正面全景。確かに土台の上に社殿は組まれ、正面に階段はない。二対の狛狐が守護していますが何れも年代は未確認。某有名タレントも崇敬する丸山稲荷社を参拝し、鶴岡八幡宮の締めくくりとしました。大石段から由比ヶ浜に続く若宮王路の眺め。一時はここが鶴岡八幡宮の中心で、火災による社殿焼失を受け、新たに大石段を造り、その場を切り開いて作られたのが現在の本宮とされます。災いから学び、同じ場所に建てないところが、自分が思う疑り深い頼朝らしさのような気がする。相模国一宮 鶴岡八幡宮創建 / 康平6年(1063)本宮祭神 / 応神天皇、神功皇后、比売神。武内社祭神 / 武内宿禰丸山稲荷 / 地主社祖霊社 / 氏子崇敬者の祖霊、護国の英霊所在地 / 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31参拝日 / 2023/01/17関連記事 / ・鶴岡八幡宮境内社「白旗神社」・「若宮」・鶴岡八幡宮境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」・北条義時法華堂跡・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・鶴岡八幡宮 今宮・豊前国一之宮 宇佐神宮(大分県宇佐市)
2023.04.28
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既に掲載した地御前・大歳神社を少し先に進むと山陽本線の踏切が現れます。今回取り上げる「地御前神社」は踏切を越えた右側に見える杜に鎮座しています。地御前史跡MAPの寺御前神社の鎮座地は☆の位置になります。山陽本線踏切から見る地御前神社の杜。公道が境内を横切り、左側に鳥居、道路を挟んで社殿が鎮座します。地御前神社社殿。右手に大きな石碑が建てられ、道路はその先の拝殿前を横切っていきます。国道開鑿碑、ここに道路の解説が記されていた。内容は以下。「明治維新以降、嶺・峠・坂が続く往還から平らな道の必要性が生まれた。明治六年より新道建設が小己斐峠(井ノ口)より始まった。明治十年には宮内村四郎の嶺を越える旧街道に代わって、串戸から港に沿って御手洗川を渡り、地御前村に通じる海岸沿いに新道が建設された。そして明治13年2月にはついに大竹まで新道が開通した。工事費は当時の金額で三万円余りを費やし、その殆どが民間 有志の寄付金で賄われた。道路にかけた当時の民衆の熱意の高さをうかがい知ることが出来る。碑文では、「明治時代中期、佐伯郡廿日市の住民は地域を挙げて新道を建設するための大運動を展開した。結果、神社前の国道2号線が完成した。」と伝えている。明治18年8月 明治天皇西巡の際、聖駕(天子の乗り物)をお通しし歓呼して天皇をお迎えした。明治20年の国道開鑿碑建立に当たっては有栖川宮熾仁親王に「地平天成」の書を賜り、碑文上部の四篆字とした。(この四篆字は、先の元号「平成」の由来の一つと言われている。)碑の裏面には当時の佐伯郡東は己斐村より、西は大竹に至る86ヶ村の世話役修路従事者510名の芳名が刻されて感謝の意が表されている。明治20年(1888)2月成立 令和2年(2020)5月復元令和2年11月 地御前地区自治会地御前郷土文化保存会地御前市民センター企画運営委員会」以下は地御前の明治頃とほぼ現在の地形を比較した地図。当時の地図には山陽本線や広島電鉄の線路はなく、海岸線は地御前神社の前まで迫り、地御前・大歳神社に至っては社頭の前に海岸は迫っていた様子が分かります。その後、海岸線は埋め立てが進み、陸地は海に〃迫り出し、その上に現在の国道や鉄道路線、漁港が作られ地域の発展にもつながったようです。石碑後方の境内に鎮座する境内社「胡子(えびす)神社」。解説がなく創建など詳細は不明ですが、その名から祭神は蛭子神と思われます。五間社流造の本殿。背後を山陽本線が行き交い、遮断機の音や振動でゆっくり落ち着かないか?祭神は厳島神社の本宮と同じく、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神で、非常に大きな入母屋の拝殿があります。厳島神社の鎮座する宮島の対岸に位置し、厳島神社の外宮として同時期に建立されたとされたのが地御前神社。往古は19の神殿舎屋があったされますが、現在の本殿は宝暦10年(1760)に再建されたもの。こうして見る社殿から往時の面影を感じる事はなく、手前の拝殿と本殿、本殿左に隣接する客人(まろうど)殿、拝殿右側の境内末社の胡子神社が主な伽藍になります。拝殿は大正3年(1914)に再建されたもので、往古の厳島神社は一般の上陸が許されなかったため、対岸の地御前に外宮として社殿が建てられ、拝殿から厳島を遥拝していたようで。当時は拝殿前の鳥居から先は海岸線で、一説には祭礼のひとつで旧暦6月17日におこなわれる管絃祭では神職を乗せた御座船はこの拝殿横まで舟が着けられ、そこから拝殿に上がる事ができたとも云われ、その場所がこの場所にあたるようです。その痕跡だろうか、拝殿の妻を支える柱の一部に途中で切られたものがあり、恰も舟を繋ぐ目的と思われるものがあります。手前の石段など見ていると船着場の雰囲気が感じられなくもない。地御前神社は宝暦5年3月(1755)北ノ町の大火で民家共々焼失し、宝暦10年(1760)に再建され、この舟形の手水鉢はその際に寄進されたもの。火災は安政5年(1858)正月6日にもあり、その際は拝殿、お旅所、お供え所、神馬屋、釈迦堂を焼失、現在の拝殿は大正5年(1916)に再建された。拝殿前には石の明神鳥居が立ち、かつては鳥居の前まで海岸が迫り、拝殿に舟が付けられたというのも頷ける。今は鳥居のすぐ先を広島電鉄の線路と国道2号線が横切り、かつて拝殿の前に広がっていた海や沖に見えた厳島の姿は、今では国道の防波堤に阻まれ、容易に拝めない。この鳥居はもともとは仁治元年(1240)に木造の大鳥居が建立されており、享和元年(1801)に再建され、現在のものは明治31年(1898)に建立されたもの。線路のフェンス際から眺める拝殿。この辺りがかつての明神が浜になるのだろう。ここまで下がっても拝殿と両脇の狛犬が一枚に収まり切れない。横長の拝殿は軒先の反りとのバランスが良く、どっしりとした安定感のある姿をしています。狛犬(阿形)。見つめる先は海ではなく、誰も訪れることないフェンスで区切られた線路と国道。吽形、電車がやってきた。上入口側の石の扁額は「厳島外宮社」下境内側の扁額は「地御前神社」拝殿全景。銅葺屋根の入母屋で平側が10間、妻側は3間の吹き抜けで、大正3年(1914)に再建されたもの。拝殿左から見る拝殿と客人殿。棟には三ツ盛り亀甲花菱の紋が施されています。社殿後方の杜は通称桃山と呼ばれる社叢で、山陽本線の先まで続き、その先には住宅地と社頭同様に変貌しています。客人殿。全景が良く見えないけれど恐らく、三間社流造のように見えます。祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命。拝殿脇の社記「厳島神社摂社 地御前神社々記 広島県佐伯郡廿日市町地御前鎮座1.御祭神御本宮は嚴島神社の御本宮の御祭神と同じく、市杵島姫命を中心として、田心姫命、湍津姫命 所謂宗像の三女を奉斎せり。御客人宮の御祭神は厳島神社の御客人宮の御祭神に同じ。2.御由緒御鎮座の年代は祥らかならざるも、社伝には厳島神社、(御本宮、内宮)と同じと云ひ伝えられ、即ち御本宮御鎮座の年、推古天皇の端正元年大歳葵丑の年である。明治維新までは、厳島神社(御本宮・内宮)、地かたの御前の御本宮を厳島外宮と称えたり。御奉斎の厳島大明神は「道主貴」と称え奉り、専ら、天孫を助け奉り、常に天孫の為めに、海陸の安全を斎ひ奉り給ふ神なれば、古来皇室及国家の鎮護、海陸の守護神として、盛んに、上下の尊信敬拝を受けさせ給ふ。厳島御本宮の御鎮座記によれば、佐伯の郡の住人佐拍鞍職に幽事を治め、百王を鎭護す」と示現ありしと云ふ。この御鎮座の所を合浦といふ。3.祭日 陰暦5月5日御陵衣祭。 雅楽舞「後の舞」。流鏑馬神事あり。端午の節句。陰暦6月15日管絃祭御洲堀神事。6月17日、厳島御本宮管絃祭。」板張りの広い拝殿内。右手が拝所正面にあたり、奥が客人殿になります。拝殿内には奉納絵馬や額が掲げられていますが、いずれも脱色しており拝所からは窺い知れません。右の額の奉納年はなんとか大正5年と読めますが、何が描かれているのか・・・流鏑馬か?上大正13年に奉納された額で厳島神社の鳥居と舟が描かれた管弦祭の様子だろうか。下平成に入り奉納されたもので鶴と鳥居が描かれていました。左は昭和に奉納された美女、琵琶を持っているので弁財天か。吹き抜けの拝殿には、他にも幾つか掛けられていますが、脱色するのは早いようです。拝殿左から地御前神社の全景。普段は訪れる参拝客はなく、この村から出兵し亡くなられた方の名が刻まれた皇威輝八紘碑や神社の前を時折車が通り過ぎる程度の静かな通りですが、流鏑馬神事が奉納される時には、この通りは多くの観衆で賑わうのだろう。有府川に架かる外宮橋。ここを渡り海側に向かいます。また走ってきた。地御前神社前の堤防から宮島方向の眺め。厳島神社の奥宮は外宮の地御前神社から真南に鎮座します。ここから国道沿いに降車駅の地御前駅に戻り、電車に揺られ宮島口に向かいます。厳島神社摂社 地御前神社創建 / 推古天皇元年(593)主祭神 / 宗像三女神客人宮 / 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫞樟日命例祭 / 御陵衣祭(旧暦5月5日)管絃祭 / (旧暦6月17日)境内社 / 胡子神社所在地 / 広島県廿日市市地御前5-17参拝日 / 2023/03/03地御前駅から徒歩 / 地御前・大蔵神社から約2分関連記事 / ・地御前・大蔵神社・智秀山西向寺
2023.04.26
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岩崎御嶽社「中之院」こちらへ向かうには大きく二通りの道がありそうです。一つは駐車場に戻って来た道を下り、三叉路をひたすら右に右に車止めまで進み、右手に見える参道付近に車を停め、徒歩でひたすらで車止めをまっすぐ進むか、本殿右脇から東に続く参道を歩くかの選択肢になるかと思います。今更駐車場に戻る気は更々ないので、本殿の南側にある写真の道筋を下っていきました。道筋には幾つも枝道がありますが、この道をひたすら下っていきます。道すがらで見かける光景、こうした不動明王や石像が連なっています。杜に包まれた道沿いには、御嶽講を支える心願講や誕生講といった多くの講社の霊神場があり、参道から枝道が作られ、杜の奥に開かれたものなど、岩崎御嶽山全体で400を超えると云われます。一帯は御獄信仰特有ともいえる霊神碑と呼ばれる石碑が全山に立ち並び、一種異様な雰囲気を感じるかもしれません。霊峰御嶽に生まれ、死後は霊神となり霊峰御嶽に戻るとされ、御山に戻った霊神の遺徳を偲び講社の人々により神号を刻んだ「霊神碑」を立て依り代とするもので、遺骨を納めた墓とは少し性格は異なり、忌み嫌う対象のものではないようです。霊神碑は町から遠く離れた、標高3067㍍の霊峰御嶽に戻った行者と身近に語らえる場所なのでしょう。御嶽社西に平成展望台がありますが、その傍らにある三笠山神社も御嶽の三笠山を象徴するもので、ここは正に霊峰御嶽そのものです。参道沿いにはそれ以外にも、上の写真のように「ニ之池白体龍王大権現」のように立派な鳥居を構えた神域もあり、とても興味深い参道です。とは言え初めて訪れた道だけに枝道に踏み込む余裕はなく、中之院を目指してひたすら道なりに左方向に進む。途中の道の分岐には「立ち入り禁止」のバリケードもあり、それさえ守れば道に迷う事はないでしょう。道なりに6分(写真データ)ほど左方向へ進むと杜から出て上の写真の場所に到着します。目の前は住宅が立ち並ぶ奥乃院が鎮座する高台、左には舗装された道もあり、若干心細く不安になった気持ちから解放される。冒頭にもう一つのルートとがあると書いたのはこの場所を指します。ここから写真の道を進みます。「この先道が狭いため…」の警告は信用してください。余程バックに自信がない人以外は車で踏み込むのはやめた方がいいでしょう。ホラね。見通しの効かないこうした道を独りで歩くとどうしても不安になります。なかでも一番不安なのが視界が広がった先で、得体の分からない黒い四つ脚の動物や、足を持たない長いものと鉢合わせになる事が一番不安にさせる。中之院まではここから約2分(写真データ)で辿り着ける距離で、この先の小さな池を左に見ながら、坂を上れば左手に中之院が見えてきます。中之院全景。尾根部分を切り開いて、周囲を玉垣で囲われた本殿域、その奥に小さな石の祠が祀られています。周囲に霊神碑や石佛などなく独立した形で鎮座します。鬱蒼とした杜も、中之院周辺だけは陽射しが良く入り、明るく浮かび上がっていました。中之院正面全景。彩りの寂しいこの時期の杜、本殿の左と右に植えられた2本の椿の花が彩りを添えていました。ひっそりと佇むとはこの事を指すのかもしれない。本殿域の祠と中之院の社名札。中之院が岩崎御嶽社創建当初からあったのか、祭神が誰かについては分かりません。岩崎御嶽社社務所で尋ねればこの疑問の回答は得られると思います。御嶽山の鬱蒼とした杜の中でスポットライトを浴びて鎮座する中之院。御嶽社からここまで約10分の不安な道のりを一気に取り払ってくれる。岩崎御嶽社 中之院創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 日進市岩崎町四ツ池岩崎御嶽社本殿から中之院 / 今回のルートはグーグルマップでは示されておらず、グーグルマップの徒歩ルートは現在通行止め(2023/3/7時点)でした。なので、今回歩いたルート又は岩崎御嶽社駐車場から車でのルートになります。参拝日 / 2023/03/07関連記事 / ・岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社・八大龍王(岩崎御嶽社)・功徳天満宮(岩崎御嶽社)・岩崎御嶽社(日進市岩崎町竹ノ山)
2023.04.25
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名古屋市熱田区大宝「西町神社」前回掲載した大宝の八幡神社から西町通りを渡り、目的地の西町神社までは徒歩10分もあれば辿り着けるはず。上が大正時代とほゞ現在の地図になります。南を東西に延びる国道1号線の6番町交差点から北上する江川線と1番1丁目交差点から北上する西町通りは、日比野交差点で一つに交わり、地図で見ると国道一号線を底辺とした見事なトライアングル(靑破線)を描き、その頂点辺りに鎮座するのが西町神社。西町神社と町名を冠する神社ですが、所在地は熱田区大宝になります。この一帯は西を走る江川線の東側から東側を走る西町通りの東を含め大宝町で、堀川沿いの白鳥公園の一画が社名でもある西町。大宝町に鎮座する西町神社同様に大宝町内の少し南に、西町の名が残る西町公園があり、一帯は随分と編入が行われた名残が残ります。今回、縁あってこのトライアングル周辺に鎮座する神社を歩いて巡ってきました。トライアングルの頂点に鎮座する西町神社をもって最後の参拝先としました。西側から見る西町神社の社地全景。社地の東と西に道路が伸びており、左に見える本殿の先で交わっており、社地そのものもトライアングルになっていて、本殿正面にはビルもある事から、本殿正面に境内入口が作れない事から、この西側と東側の二か所のに入口があります。其々の入口に「西町神社」の社標がありますが鳥居はなく、境内の本殿前に石の神明鳥居を構えています。歩道沿いに本殿後方まで進むと…トライアングルの頂点に本殿が祀られています。ここから右に伸びる道は江川線沿いに国道1号線の6番町へ、左を進めば西町線沿いに同じく一番1丁目方向に伸びています。三角形の頂点に南を向いて本殿が祀られ、ある意味限られた敷地を有効に活用しているのかもしれない。大宝の西町神社はここから眺めるのが一番いい姿をしている。昭和12年(1937)頃の地図では、当時も今も地図上に西町神社の印はないものの、当時のこの辺りは熱田西町の北外れに位置し、ここから南が熱田西町となっており、西町神社は熱田西町一帯を見据える様に鎮座しています。東側から西町神社境内を眺める。境内に神明鳥居が立てられ、右側に大きな社標が立てられています。鳥居正面から本殿を収めるには、鳥居の左に奥行きがなくとても無理。西町神社の由緒や創建は、残念ながら引用できる資料や地元の方の話も聞けずさっぱり掴めません。ここからは推測でしかありませんが、この辺りの町名の遍歴を見て行くと、明治40年(1907)に名古屋市に編入され、熱田西町となっており、これ以前の明治初期では一帯は水田地帯で集落すら見当たらないので、熱田西町になった以降に祀られたものかもしれない。西側からの境内全景。左に手水鉢、参道の両脇に常夜灯、狛犬とあり、限られた社地を有効に活用され、境内は見た目に反して意外に広く感じます。自然石をくり抜いた手水鉢には、いまどき珍しく絶え間なく清水が注がれていたのは嬉しい。都会に暮らす野鳥にとっても嬉しい水場かもしれない。本殿域正面全景。石垣が積まれ一段高く盛られた本殿域を玉垣で囲い、常夜灯が立てられ、その先に6本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造の本殿が建てられています。参道を守護する一対の狛犬、寄進年は未確認。本殿域の玉垣に祭神を記した解説が掲げられています。その内容は以下。「西町神社祭神 西町の大神相殿 伊勢の大神、熱田の大神、津島の大神」とあります。境内に由緒を記したものは見当たらなかっただけに、こうして祭神が記されているだけでも有難いものです。さりとて祭神の西町の大神、自分は全く知らない。人が集まり、町となり、それにともなう禍から護ってもらうことが目的だろうから、火之迦具土大神が祀られていても違和感はないけれど、ここは「西町の大神」として受け入れておくものだろう。最近は空を妙な飛翔体が飛び交ったり、身近で不気味な地震も起きている。そんな中でも毎日平穏な日々が送れている事に感謝。僅かな賽銭・大きな願い、本日最後の参拝。最近は小銭を取り出す機会も減り、寺社の賽銭が主になって来たように思う。さりとて両替も手数料がいる妙な時代。管理される側には迷惑かも知れないと考えるようになったのは自分だけでしょうか。とはいっても電子決済ですか? なにかしっくりとしない。燈籠と鳥居には「皇紀2600年記念」と刻まれており、皇紀2600年が西暦1940年に相当するので、昭和15年に寄進されたものでしょう。もう少し廻りたいところですが、説明会に遅刻しかねない。何より、先に説明会を受けていたかみさんの雷が落ちかねない、そろそろ会場に向かう事にしよう。神社東側で見かけた海抜表示「0.4㍍」、短い足の膝までしかないんかい。数値に驚くと共に妙に納得するものがある。西町神社創建 / 不明祭神 / 西町の大神、伊勢の大神、熱田の大神、津島の大神」所在地 / 名古屋市熱田区大宝3-3-10大宝 八幡神社から西町神社徒歩ルート / 西へ徒歩10分程参拝日 / 2023/02/12関連記事 / ・神野神社 (熱田区神野町)・おさすり佛(熱田区神野町)・社名不明社(名古屋市熱田区西野町)と無縁地蔵菩薩 ・熱田社 (名古屋市熱田区二番) ・熱田 八剱社 (名古屋市熱田区一番)・水天宮社(名古屋市熱田区白鳥)・八幡神社(名古屋市熱田区大宝)
2023.04.24
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岩崎御嶽社東名日進JCTの西側にあたりの日進市岩崎町竹ノ山、そこに聳えるのが標高131mの岩崎御嶽山。かつて広大な田畑が広がり、長閑な農村の風情がありました。近年は急速な宅地化により、住宅が立ち並び、その勢いは山の西側まで迫っています。岩崎御嶽山のほゞ全体が岩崎御嶽社の境内といっても過言ではなく、山中には岩崎御嶽社、中之院、少し離れた住宅の立ち並ぶ高台の頂に奥之院が鎮座します。上は中腹にある駐車場に掲げられている観光マップ。あじさい遊歩道を歩き、八大龍王、功徳天満宮と上ってきました。今回は功徳天満宮の東向かいにある岩崎御嶽社とお助け穴不動を紹介します。社頭全景。岩崎御嶽山のほゞ山頂に鎮座しその始まりは、万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされる神社で大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社。社頭から山頂に向け「御嶽大神」の白い奉納幟がはためき、山頂の社殿に向け石段が続きます。石段の両脇には数えきれないほどの霊神碑や石仏が安置され、恰も木曽の御嶽山に来ているような雰囲気に包まれています。上り口左の堂。中には八海山大頭神王、不動明王、子供の守護神十二大権現が安置されています。右側には飛騨地方で見られる「さるぼぼ」に似た、色とりどりの「さるぼこ」が無数に安置され、それを持ち帰りお守りにすると子宝を授るらしい。自分のイメージでは女の子を授かりたいなら赤、白は男の子と勝手に思い込んでいたが、黄色や水色などもあり考えを改める必要がありそうです。鳥居から続く石段の両脇には、無数の霊神碑やこうした不動明王像や行者像、小さな鳥居を構えた稲荷が立ち並ぶなど神仏習合色の強い境内です。境内は岩崎御嶽山八十八ヶ所霊場にもなっており、表情や年代の違う石仏が安置されており、八十八ヶ所の石仏を究めたい向きには楽しめるかも知れない。鳥居から見えていた石段を上り詰めると、ニノ鳥居を構え、手水舎、社務所、開祖殿などが建つ開かれた境内に出ます。ここから一段上に拝殿、本殿の社殿に続きます。禊舎。日頃下界で暮らし、自ら犯した罪や穢れにまみれた体を清める場所だろう。それはさすがにここは手水で清めよう。生憎、大きな龍の口からは清水が注がれていなかった。上社務所。下左が開祖殿で正面奥が社殿。開祖殿。すべての瓦に山丸三の紋が入る。普寛行者が考案した紋とされ、上から山の意匠は霊峰御嶽を現し、三本の線を囲む〇は宇宙を現すもので、三本線の真ん中の線が宇宙の根本とされる大日如来、上の線が不動明王、下の線が摩利支天を表している。開祖殿前の狛犬(寄進年未確認)。石段を上り詰めた先の御嶽社拝殿。手前の香炉の上には羽を広げた鳳凰があしらわれ、香炉から漂う線香の香りからして神仏習合の香りは漂っています。左に穴不動の案内板があります。徒歩1~2分程で山肌に作られた穴の奥に不動尊像を祀った「お助け穴不動」に至ります。岩崎御嶽社拝殿を守護する狛犬。(寄進年未確認)。上拝殿額。下拝殿内の額。上本殿の千木鰹木。軒丸瓦などここにも山丸三の紋が入ります。下拝殿左から回り込んだ本殿全景の眺め。※中院に続く道はこのエリアではなく、写真左方向の本殿の左下(正面からだと右)に道が続いています。拝殿に戻り、参道と開祖堂方向を振り返る。ここから写真右手の穴不動に向かいます。拝殿前の案内板に従い、心細くなるような山道を下っていきます。途中には案内板も整備され迷うことなく2~3分で辿り着けます。訪れたのが3月7日という事もあり、木漏れ日の差し込む明るい杜でしたが、若葉が芽生える今の時期は少し表情は変っているかもしれません。上分岐看板から下に見える穴不動全景。訪れる前は素掘りの洞窟をイメージしていましたが、実際に訪れて見る佇まいは若干ギャップを感じるものでした。こうして見るとコンクリートのトンネルの様に見えなくもないですが、素掘りの洞窟の入口部分を崩落防止のためこのような形で補強しているようです。下穴不動内部。入口から少し入ると地盤が露わになり素掘りの洞窟となりますが、足元はセメントで固められ不安はありません。防空壕の様にも見えますが、薄暗い穴の奥に石像や蝋燭台が置かれ、ここで修行を積む目的だけのため掘られたもの。子供の頃、学校や親から「絶対に近寄るな」と云われていた近所の防空壕跡に悪ガキ一同で探検に行った時の事が蘇ってくる。その探検隊の結末は案の定、おまわりさんに補導され、親や先生からこっぴどく叱られた。今のようにゲームや携帯もない時代、子供の好奇心を掻き立てるものは家ではなく外にあった気がする。この岩崎御嶽社は、杜の中を網の目のように作られた枝道や石像群など、歳を重ね冒険心を忘れた元悪ガキにとって好奇心を掻き立てる雰囲気があります。次回は、本殿正面から見て右にある写真の道を奥に進んだ先に鎮座する中之院を掲載します。岩崎御嶽社創建 / 万延元年(1860)祭神 / 大己田貴命、少彦名命所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山参拝日 / 2023/03/07関連記事・功徳天満宮(岩崎御嶽社)・八大龍王(岩崎御嶽社)・岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社
2023.04.21
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鶴岡八幡宮の境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」から舞殿方向に進むと、左右に伸びる流鏑馬馬場が現れます。そこから右に進んで鶴岡八幡宮境境内社の末社「白旗神社」・摂社「若宮」に向かいます。境内マップ上の白旗神社、若宮の位置は〇で囲った位置になります。鶴岡八幡宮の朝は通勤・通学のため流鏑馬馬場を通り、鎌倉駅に向かう人々の姿から始まり、その多くが本宮に一礼し足早に駅に向かう光景が印象に残ります。流鏑馬馬場を進むと左側に鳥居と石畳の参道が奥に伸びています。この先が「白旗神社」に続きます。参道右に控え柱の付く手水舎。かつての鶴岡八幡宮は神仏混交の一大伽藍を持ち、境内には大塔などの仏教施設がありました。享保17年(1732)に描かれた境内図鶴岡八幡宮境内絵図では、明治以前(神仏分離以前)の境内の様子が描かれていますが、それらは後の神仏分離により取り壊されます。この手水鉢には神仏混交時の名残を感じさせるものがあります。手水舎から流鏑馬馬場方向の眺め。鶴岡八幡宮末社「白旗神社」広い鶴岡八幡宮の境内、上宮に向かう大石段の右手側に鎮座します。訪れたのが1月18日という事もあり、周囲の樹々はまだ〃冬枯れたものですが、今頃は芽吹きを迎え、鮮やかな緑一色に包まれているでしょう。朝とは言え、上宮へ参拝に訪れる方の姿はありますが、大石段の右に鎮座する若宮や白旗神社を訪れる方の姿はほゞ見かけず、静かな一日の始まりを迎えています。白旗神社全景。同じ社名の大蔵「白旗神社」は頼朝公をお祀りしていましたが、境内の白旗神社の御祭神は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝と子で三代将軍の実朝公の二柱をお祀りし、「武衛殿」とも呼ばれる。社殿は黒漆塗りで、一部に金箔の貼られたシックで落ち着いた外観が印象的です。社殿は銅葺屋根の切妻平入の社殿に長い唐破風向拝が付くもので、所謂拝殿に該当する建物は付属していません。右手の解説。白旗神社御祭神 源頼朝命、源実朝命例祭日 5月28日必勝、学業成就の御神徳があり、今も篤く崇敬されているようです。柳原神池側から見る社殿、向拝の長さを強調するにはもう少し横から見たいものです。黒塗りの破風に金色の笹竜胆がアクセントになっている。弁柄で塗られた向拝の内側は梁や斗供は黒漆で塗られ、黒地に施された彩色がより鮮やかに見え、品のよさを感じさせるもの。白旗神社の創建は、正治2年(1200)に朝廷より「白旗大明神」の神号を賜り、源頼朝を祭神として、北条政子が上宮西側に創建したと伝わるようですが、これには諸説あるようです。現在の鎮座地は、明治以前までは薬師堂が鎮座していたようです。後の神仏分離令に伴い、明治18年(1885)に実朝を祀っていた柳営社を合祀し現在地に遷座したようです。その後の修復暦は分かりませんが、一部に彩色の剥離などありますが全体的に綺麗な社殿です。白旗神社創建 / 正治2年(1200)遷座 / 明治18年(1885)祭神 / 源頼朝命、源実朝命例祭日 / 5月28日所在地 / 鎌倉市雪ノ下2-1 鶴亀石(左)と由比若宮遙拝所(右)白旗神社から若宮方向に続く参道左側にあり、鶴亀石と称する二つの石が安置されています。神社の解説によれば、この石を水で洗うと鶴亀のような紋様が現れるそうで、天保12年(1841)に編纂された「相模国風土記稿」の中にも鶴亀石は記されているようです。由比若宮遙拝所は八幡宮の元宮である由比若宮をここから遥拝する場。更に左に進み若宮へ。大石段の右側に鎮座する若宮全景。入母屋造りの拝殿と幣殿が連なり、その奥の切妻造りの本殿へ連なる権現造りのようで各々銅葺屋根。何処から見ても本殿の全容が掴めませんが、文化庁DBによれば五間社流造と記されていました。黒を基調としたシックな外観の白旗神社に対し、朱で彩られた若宮は、そこかしこに金色の飾り金具が施され、華やかな外観の印象を受けます。若宮に祀られる祭神は応神天皇の御子、仁徳天皇、履中天皇、仲媛命、磐之媛命の四柱が祀られ、ご利益は子授け・安産・子宝、必勝、安全祈願などのようです。手前の授与所と若宮妻側の眺め、若宮には左三つ巴の紋が入る。若宮は源頼朝が治承4年(1180)に鶴岡若宮新宮として創建、一時期に於て鶴岡八幡宮の中心的な建物だった。治承5年(1181)、鶴岡八幡宮の本格的な社殿の建立の後に鶴岡若宮と改められる。建久2年3月(1191)、鎌倉大火で多くの社殿と共に若宮は消失、すぐに再建に動き出す。建久2年11月(1191)、再建を終えると共に、京都岩清水八幡宮の御神霊を改めて勧請する。現社殿は、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠により行われた鶴岡八幡宮の大改修時のもので、寛永元年(1624)に建立されたものとされ、直近では令和元年(2019)に塗りなど補修の手が入っているようです。鶴岡八幡宮摂社若宮創建 / 治承4年(1180)元社殿 / 寛永元年(1624)祭神 / 仁徳天皇、履中天皇、仲媛命、磐之媛命所在地 / 鎌倉市雪ノ下2-1参拝日 / 2023/01/18関連記事 / ・鶴岡八幡宮境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」・北条義時法華堂跡・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・鶴岡八幡宮 今宮
2023.04.20
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厳島神社の外宮「地御前神社」へ向かう道すがら、西光寺の天蓋松に見惚れ一旦足を止めました。その西向寺を後に地御前神社を目指し南へ5分程進むと、高台に鎮座する「地御前・大歳神社」に出会い、ここでも再び足を止め立ち寄らせてもらいました。(若干かみさんの目は△になってきたような)社頭の目の前に山陽本線と広島電鉄宮島線の線路が続き、更に先の海岸線を国道2号線と三つの動脈が並行して伸びている。その先の海岸からは厳島神社が鎮座する宮島も目と鼻の先。社頭には石の明神鳥居と両脇に石灯籠が連なっています。三段に分け築かれた石垣の中ほどに、境内に続く石段があり、注連縄鳥居の先に拝殿の姿が見れる。かみさんには少し待ってもらい足早に参拝に向かいます。高台に造成された境内の西側の奥に入母屋瓦葺の拝殿が建てられています。僅かに高いだけの境内ですが、眼下に地御前の町や港を望み、タイミングが良ければ社頭を通り過ぎる電車の姿も見られる。拝殿右側から幣殿と瓦葺流造の本殿の眺め。何れも木造で、木の温もりを感じる色合いを留めたもので、建物に目立った傷みも見られず綺麗な外観でした。境内をひと回りしましたが、社殿以外に境内社の姿は見当たらなかった。拝殿前を守護する狛犬。燈籠の陰になり、樹々に包まれ見落とすところ。狛犬の外観は風化により劣化し、どちらも毬を持っているようですがもともとの姿はイメージできない。台座の寄進年を探して見ましたがはっきりせず、年代も不明てす。境内に神社の由緒は掲示されておらず、創建など詳細は分からなかった。取り敢えずひと回りを済ませ、参拝させてもらいました。拝殿に掲げられた「神威○○の額」に昭和30年の元号が見える。神輿を安置する拝殿から幣殿、随神が守護する本殿方向の眺め。幣殿入口の額は「大歳神社」とある。神社詳細は分からないが広島県神社庁の地御前・大歳神社の紹介は以下となっていた。「祭神は大國魂神を祀る。由緒は明治15年(1882)、佐伯郡地誌編集控によると、寛政元年(1789)の勧請とされ、現在地に鎮座と考えられる。それまでは、地御前村神賀の平原(現在、この地名は使われていない)に鎮座され、『芸藩通志』には、嚴島外宮(地御前神社)鎮座以前、地御前村(現在の廿日市市地御前、地御前北、阿品、阿品台)一村この社を同じく祀るという里人の伝承があるという。例祭(10月第2日曜日)」とある。後日、自宅で調べて見ると、地元の方が郷土を語り継ぐ目的で編纂した地御前郷地史に辿り着き、もう少し詳しい内容が記されていたので以下に紹介します。「地御前地域の守り神で、地御前の氏神さんとして高台に鎮座され、詳細は不明であるが地御前神社と変わらない歴史がある。現在地の前は、田屋地区の奥深い平原(仮称大歳)の地に祀られていた。寂しい谷間に民家も少なく、地御前地区は火災も多く地区を守るためにも町場におろしてくれと、お告げがあったため、江戸時代寛政元年(1789)9月25日に現在の地に鎮座された。氏神様は、各地域の集落の高台に鎮座されており、部落全体を見渡し世の中の景気が良くなれば、祭りも盛り上がり村全体が潤ってくるといわれている。大歳神社の祭神名は、大国魂命(おおくにたまのみこと)である。守り神は、農業から国土経営に協力された神で、大国の御魂といわれる記録が残っている。現在の社殿は、石鳥居をくぐり石段を登った高台にあり、前側が段差4段の桟敷に築かれており、流鏑馬 (馬飛ばし) の観覧席で、海岸の砂浜で馬を(流鏑馬)走らせ、沖側に観客が棒で追いやり水際に追いやるほど豊作といわれた。昭和26年(1951)に社殿の地を1段削り落とし、その砂を村上家の蔵の跡に埋め立て、講堂・青年会館が建築された。よって、現在の社殿は、昭和30年に再建された。大歳神社の境内には、桜の木が植えられ 4月の花見の季節には、地域の方の憩いの場である。秋祭りには、青年会が神輿を担いで年1回の御神幸が行われます。昭和25年(1950)頃までは、急な石段を登り二つ山の上段で祭典が執行されていたが、 現在は今市稲荷神社で御神幸御旅所祭が執行される。秋祭りの前日(ヨゴロと呼ばれています)には、御祓い行事として御獅子が町内を廻ります。秋祭りは、5ヵ町村が合併されるまでは、中の九日の10月18・19日、 今では10月第2土・日曜日に行われている。」と紹介されていました。自分には「奥深い平原(仮称大歳)の地」の場所は特定できませんでしたが、人里離れた北部丘陵地帯から海辺の地御前地区の火災を見るに見かね、自らこの地に遷座を命じたという内容です。遷座が寛政元年(1789)とあるので、創建時期は更に遡る事になり、拝殿の額や社殿が綺麗なのも1950年の再建によるもの。少し気になっていた社頭の石垣が、まさか流鏑馬を見るための桟敷とは思ってもみなかった。大きな境内で目を見張る社殿ではないですが、綺麗に手入れされた神社を見るに、地御前に住む人々からとても崇敬されているのが伝わってきます。石段から東側の社頭の眺め。社頭の向かいの方形屋根の建物は釈迦堂で、創建時期は不明ですが、地御前神社の神宮寺の本尊で室町時代に作られた像高が2.9㍍もある釈迦如来坐像を安置するようです。地御前の町を歩いていると、こうした堂が多い事に気付きます。・・・かみさんの姿が見えない、目と鼻の先の地御前神社に向かったようだ。地御前・大歳神社創建 / 不明遷座 / 寛政元年(1789)再建 / 昭和30年(1955)祭神 / 大國魂神所在地 / 広島県廿日市市地御前4-12-12参拝日 / 2023/03/03関連記事 / 智秀山西向寺 (広島県廿日市市地御前)、
2023.04.19
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鎌倉の中心といえる鶴岡八幡宮の境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」三ノ鳥居をくぐり、参道を挟んで左右にある二つの池「平家池」と「源氏池」その源氏池の中の島に鎮座します。前日は人波が途絶えなかった段葛も、朝一番は子供達の通学路に変わり、三ノ鳥居から境内も一望できます。平日の朝8:00の太鼓橋から舞殿(下拝殿)と本宮(上宮)の眺め。この時間の鶴岡八幡宮は静まり返った朝の表情を魅せ、境内を通り通勤・通学に向かう人影と参拝に訪れる地元の方が玉砂利を踏みしめる音が聞こえてくる。日中とは別の趣ある光景が広がっています。鶴岡八幡宮の開門・閉門時間は季節で違うようで、10月〜3月は6時〜21時、4月〜9月が5時〜21時のようです。上は鶴岡八幡宮の境内マップ。左上の破線は前日に参拝を済ませた今宮で下の二つの丸が今回掲載する、太鼓橋と旗上(はたあげ)辨戝天社。鶴岡八幡宮境内絵図享保17年(1732)に描かれた境内図で、明治以前(神仏分離以前)の境内の様子を示した絵図である。将軍徳川秀忠の命により寛永元年(1624)から寛永3年(1626)にかけ描かれたもので、当時の諸社・諸堂の姿を伝えています。参道を挟んで水路で結ばれた二つの池があり、右の池が源氏池で左の池が平家池。平家池には4つの小島、源氏池には三つの小島が見られ、当時も今も変わることはない。太鼓橋。現在は通行は出来ませんが、仮に通行禁止でなくともこの急な橋を好んで渡る気にはなりません。こうして見る石造の太鼓橋は、1923年の関東大震災で崩落後の昭和2年(1927)に架け替えられたもの。橋脚や橋桁などはコンクリート製で、その上の床板や欄干は石造で欄干に青銅製の擬宝珠が施されたもの。側面から見る太鼓橋は綺麗な曲線を描き、眺めるにはいいが、実用的とは思えない程の勾配があります。往古の太鼓橋は石造ではなく、朱塗りの木造橋でその姿から赤橋と呼ばれていたようで、絵図にも朱の橋が描かれ、太鼓橋の右に木造橋が架けられいたのも分かります。太鼓橋は現世と神々の世界を結ぶ架け橋で、ここから先は例え将軍といえども下馬しなければならない。太鼓橋右の源氏池と中の島に鎮座する辨戝天社の全景。昨日は本宮に向かう多くの参拝客の姿がありましたが、辨戝天社に訪れる参拝客はさほどでもなく、写真撮影や参拝もスムーズ。人影のない中の島の全景だけは朝くらいしか望めないかも知れません。訪れたのが1月という事もあり彩りは寂しいですが、桜の樹々が多く、桜の時期には華やかな光景に変わる事でしょう。ここから下の写真は前日に撮影したもの。旗上弁財天社が鎮座する中の島に架かる神橋。橋の手前、島全周に白地に二引きの奉納幟がはためき、頼朝が平家掃討の旗揚げする光景を感じさせる。旗上辨戝天社御由緒記(一部抜粋)「治承4年(1180)8月、源頼朝公は伊豆国に源家再興を上げ、石橋山の戦いに敗れ房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建、居館を定め平家打倒の本拠地とした。頼朝の妻北条政子は平家滅亡の悲願を抑えがたく、寿永元年(1182)大庭景義に命じ境内の東西に池を造らせ、東の池を源氏池と称し三島を配し、三は産なりと祝った。西の池は平家池と称し四島を造り、四は死なりと平家の滅亡を祈った。そして源氏池の中の島に辨戝天を祀ったのが旗上辨戝天社の始まり。明治初年の神仏分離により、境内にあった堂塔と共に辨戝天社も排除されたが、後の昭和31年(1956)篤信家の立願により再興される。同55年9月(1980)、鶴岡八幡宮創建800年を記念し、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元された。因みに辨戝天信仰は、鎌倉時代には既に盛んに崇敬され、妙音芸能の女神、福徳利戝の霊神として広く仰がれている。当社に祀られていた辨戝天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作と評され、種々の御神徳が如実に具現化された人間味溢れる御神像(鎌倉国宝館所蔵)である。祭日 例大祭 4月初巳の日、祈願祭 毎月巳の日。政子石拝観。古来より縁結びの霊能があり、姫石とも称し広くしられる。」太鼓橋と左右の橋は二つの池を繋ぐ水路に架けられているもので、鶴岡八幡宮境内絵図が描かれた当時は太鼓橋(赤橋)と右の橋の二つだったのが分かります。中の島の入口に建つ朱の明神鳥居から境内の眺め。頼朝の旗挙げに際しては、家運長久の守護神辨戝天が現れ、源氏再興の霊験を授けたと伝えられる。全面朱で彩られた小さな社殿は、3柱の女神を祀るに相応しい佇まいをしている。祭神は由緒にある様に多紀理昆売命、多岐都比売命、市寸嶋比売命の宗像三女神をお祀りします。全体に派手な装飾はなく、正面蟇股の琵琶を奏でる天女の透彫りがアクセントになっています。旗上(はたあげ)辨戝天社は鎌倉七福神のひとつをなす弁財天ゆかりの地で、鎌倉の七福神をお祀りする寺社は以下。・毘沙門天 鎌倉市小町の宝戒寺。・布袋尊 同市山ノ内の浄智寺。・寿老人 同市小町の妙隆寺。・夷神 同市小町の本覚寺。・福禄寿 同市坂ノ下の御霊神社。・大黒天 同市長谷の長谷寺。・辨戝天 ここ旗上辨戝天社。これに江ノ島の江島神社の辨戝天を加えたものが鎌倉・江の島七福神となるようで、専用の御朱印帳も用意されています。かみさん曰く一つ頂くと残りの空白が埋めたくなるので見送ったようで、今思えば一之宮巡りも西国三十三所巡礼もこうして始まって行きました。ただこの七福神巡りは全て鎌倉でコンプリート出来るので、滞在時間に余裕さえあれば巡れない事はなさそうです。白いパイロン沿いに社殿後方に回り込むと、赤い玉垣に囲われた一画があり、そこには政子石が安置されています。頼朝が政子の安産を祈願したとされる陰陽石で、子宝、夫婦円満、恋愛成就の御利益があるという。政子石。子宝を授かるご利益以外にも縁結びや夫婦円満のご利益も授けて頂けるようです。縁あって結ばれ、二人の子宝を授かり、今更これ以上…夫婦円満?一度角が生えだすとそりゃ恐ろしいだけに、ここはご利益を授かろう。作法は仲良く二つ並んだ石を両手で同時に撫でることらしい、さすればたちどころに角は消え失せる、らしい。鶴岡八幡宮の御朱印を頂きにいったかみさん。人波に巻き込まれたくないおやじは太鼓橋で忠実に待っているはずだった、これはやばい!戻ろう!鶴岡八幡宮境内社 旗上辨戝天社創建 / 寿永元年(1182)再建 / 昭和31年(1956)祭神 / 多紀理昆売命、多岐都比売命、市寸嶋比売命所在地 / 神奈川県鎌倉市雪ノ下1-8-31関連記事・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・北条義時法華堂跡・今宮
2023.04.18
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八幡神社水天宮から次の目的地熱田区大宝に鎮座する八幡神社に向け堀川左岸を上流に向かいます。すぐに先の御陵橋を渡り白鳥公園方向へ。御陵橋。人道橋の御陵橋は地下鉄神宮西駅方面と白鳥庭園を結ぶため、昭和62年(1987)に架けられた橋で、白鳥御陵になぞらえてその名が付けられたようです。朝な夕なには、橋の中ほどの踊り場から眺める堀川と水面に写り込む街並みは趣のある表情を見せてくれます。この橋と上流の熱田記念橋が架けられたお陰で、歩く者にとっては対岸に渡るには便利になりました。八幡神社は対岸に見えている国際会議場方向を目指します。対岸に渡り白鳥公園へ。公園の中央に広い水場があります。1610年に福島正則により開削された堀川、名古屋城築城の資材やその後の物流を支え活躍しました。ここはかつて堀川を遡る資材の荷揚げや船の係留場所として作られた太夫堀と呼ばれた大きな入江で、その後は木曽の山々から切り出された木材を集積する白鳥貯木場として利用されていました。しかし、1959年の伊勢湾台風ではここに係留していた流木が被害を大きくしたことから、埋め立てが進み、現在は白鳥庭園、白鳥公園、名古屋国際会議場などに姿を変え、堀川と貯木場をつないでいた三つの水門も中水門だけとなり貯木場の名残を感じさせます。かつて浮かべられていた丸太はなく、海鳥たちの憩いの場となっています。国際会議場の西側が目指す八幡神社で赤のマーカーの位置になります。この辺りは熱田神宮の神領で、大正9年(1920)時点でも周辺は水田が広がる地域、当時の地図に八幡神社の鳥居の印は見られません。ここに鳥居が記されるのは、北から急速に田畑が消え宅地に変わり、現在の名古屋市中央卸売市場への引き込み線が消える少し前の昭和8年(1933)発行版からとなります。この八幡神社の詳細はよく分からず、印だけ見れば大正末期から昭和初期に創建された様に捉えられます。大宝第一公園の西の区画に鎮座する八幡神社全景。一帯は高層住宅や住宅、商業施設が広がり、一面水田だった面影は微塵も感じさせない。八幡神社社頭から境内の眺め。右に無人の社務所、鳥居の先に拝殿、本殿とあり、本殿の左右に境内社があります。手水鉢は参道左にあり寄進年などは見られなかった。右が社務所、銅板葺の切妻拝殿は四方吹き抜けのもので、その先に渡廊があり本殿域に繋がります。拝殿とそれを守護する狛犬、左右の境内社。訪れたのが2月中旬という事もあり、境内に雑草一つなく、境内はとても綺麗に維持され、参拝に訪れても気持ちがいい空間があります。頻繁に人の手が入っている事を窺わせます。狛犬は鋭い牙を持つ子持ち毬持ちで、一部彩色され臼化粧が施されたもの。(寄進年未確認)ここまで見た寄進物で一番古いものは、社頭の社号標が大正9年(1920)で一番古いものでした。先の地図は大正9年に測図され、大正12年に発行されたものなので、やはり創建は大正9~12年なんだろうか。建屋も社務所は綺麗で、100年を経たものとは思えず、一度補修の手が入っているようです。賽銭を投入、まずは参拝。拝殿右から境内社の秋葉社と八幡社本殿の眺め。秋葉社。社名札はありませんが、たまたま通りがかった地元の御婆ちゃんによれば、「右が秋葉で左が津島」との事なのでその言葉を尊重させてもらいます。八幡社本殿。銅板葺の流造で飾りは少ないけれどしっかりと作られたもの。祭神は応神天皇。こちらも祭神や社名を示す札がなく、願わくばそうした札が架けられていると有難い。本殿左の津島社と脇参道の鳥居。社名札を探す怪しいおやじに声をかけてくれたのが御婆ちゃんで、彼女に出逢わなければ不明社ですましていただろう。近頃は寄進物の損壊や窃盗など起きる変な世の中になってきた、寺社でキョロ〃しようものなら不審者に思われかねない嫌な世の中になってきた……そんな気がするのは自分だけか。ボランティア説明会の時間まであと少し余裕がありそうなので、もう一社参拝していこう。八幡神社創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内社 / 秋葉社、津島社所在地 / 名古屋市熱田区大宝1-8参拝日 / 2023/2/12水天宮社から八幡社 / 北へ徒歩20分強関連記事 / 水天宮社(名古屋市熱田区白鳥)
2023.04.15
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北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓。白旗神社(大蔵白旗神社)と頼朝墓を後に、山裾沿いを東に向かうと左手に北条義時法華堂跡に続く石段が現れます。石段両脇に常夜灯が立てられ、石段の先が北条義時法華堂跡がある。安政5年(1859)に寄進された毛利家の一文字三星の紋が刻まれた常夜灯。石段を上り切ると視界が開け、右側に源頼朝墓で見かけたものと同じ「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と記された石標が立っている。右の解説の内容は以下。「貞王3年(1224)、北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地とされ、平成17年(2005)の発掘調査で堂跡の遺構が発見された。堂は鎌倉時代後期には廃絶したと見られ、背後は宝治合戦で敗れた三浦一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や江戸時代以降に整備された大江広元等の墓所があります。」吾妻鏡に記されていた北条義時法華堂の位置と、遺構の位置が合致する事から北条義時法華堂と推定地されるようです。法華堂(義時の墳墓堂)跡。遺構調査から分かった柱や縁束の礎石部分に杭が立てられ、屋根に降った雨を流すための溝(雨落ち溝)を白い線で表しています。頼朝の法華堂跡に比較すると規模は大きかったように見えます。正面に見えている二つの石段の先が白旗神社の石標に刻まれていた「大江広元、毛利季光、島津忠久の墓」へ続きます。鳥居左の山肌には「やぐら」と呼ばれる洞窟の入口が見えます。この発掘調査の写真がある事で説得力がありますが、これがなければ今一つ実感が湧かない。解説によればここから瓦や土器などが発見され、それらから幾たびか焼失、再建を繰り返し、13世紀末から14世紀初頭には堂は廃絶したと推察されるようです。石段左洞窟。ここは13~15世紀頃の横穴式墳墓で鎌倉幕府の御家人三浦氏が供養されている。宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で、北条時頼に攻められた三浦泰村以下276人が頼朝の法華堂に籠り自害したとされ、ここで三浦一族の供養が行われていたと云う。「やぐら」と呼ばれる洞窟は入口は狭いけれど、内部は左右に広がりがあり、供養塔へは屈まなければ近づけません。訪れる方は今も絶えることはないようです。石段の右に解説があり内容は以下のようなもの。「近世に造営された3つの墓所この階段の上には、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓所があります。これらは、元々は古墳時代後期に造られた横穴墓であったものを転用し、江戸時代以降に島津氏及び毛利氏が造営したもの。左 毛利季光の墓毛利季光(生年不明~1247没)、鎌倉幕府の御家人で、幕府の創設に貢献した大江広元の第四男で、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物。朝廷と幕府が争った承久の乱(1221)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)で妻の実家である三浦氏に味方し、戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。季光の墓所は、大江広元の墓が造営されたのと同じ文政6年(1823)に、毛利斉煕により鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に造営されたが、大正10年(1921)にこの地に移設された。中央 大江広元の墓大江広元(生年不明~1225)、鎌倉幕府の政所初代別当を務め幕府の初代将軍源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献した。公家出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えた。広元の墓の左隣の墓にまつられている毛利季光は、大江広元の四男であり、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。この墓は、その縁から、文政6年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕が造営したものです。右 島津忠久の墓島津忠久(生年不明~1227没)、鎌倉幕府の御家人で、代々薩摩藩主となる島津氏の祖にあたる人物。忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘の惣地頭に任ぜられる。島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、安永8年(1779)、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近いこの地に忠久の墓を造営」毛利家の一文字三星紋が入った常夜灯があるのも分かるような気がする。石段脇の手水鉢には寄進年や文字、家紋などの痕跡は見られなかった。石段の先は三つの横穴式墳墓があり、奥から毛利秀光、大江広元、島津忠久の墓が並んでいます。左側の島津忠久の墓。中央の大江広元の墓。左側の毛利秀光の墓。鎌倉幕府を支えた三氏の墓はこうして残りますが、石標に書かれていた義時の墓は見かけない。上は現地VRから法華堂のCGを現地写真に貼り付けたもので、瓦葺の方形屋根の堂だったようです。霊屋としての法華堂は消失を繰り返し荒廃していったようですが、堂の再建はともかく、義時の供養塔のひとつが立てられなかったのだろうか。頼朝により開かれた鎌倉幕府150年の歴史の中で、頼朝亡き後、執権政治を確立した北条家は権力の集中ととも、鎌倉幕府終焉の地東勝寺へ向かっていきます。北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-5頼朝法華堂碑から徒歩ルート / 東に1分程関連記事 / 白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓
2023.04.12
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熱田区一番の八剱社から白鳥橋を渡り、堀川左岸沿いを遡り、自動車販売店の裏の路地に入り込む。住所で云えば熱田区白鳥1丁目、こちらに水天宮社が鎮座しています。八剱社から徒歩15分もあれば社頭に辿り着けます。上は白鳥橋から右手にある白鳥古墳(白鳥御陵)方向を望む眺めで、水天宮社は右手のひと際高いビル付近に鎮座します。水天宮社の鎮座地は赤いマーカーの辺り。左の大正時代の地図には、堀川右岸に幾筋も水路が見え、帝室林野管理局貯木場とありますが、これが白鳥貯木場で、現在は白鳥公園や名古屋国際会議場として埋め立てられました。ここが江戸時代から木曽の山々から切り出された丸太の貯木場だったと感じることがないかもしれません。往時の白鳥は白鳥駅も作られるなど、一大集散地として木材を取り扱う多様な産業で賑わったようです。しかし大きな被害をもたらした伊勢湾台風では、ここに係留、貯木していた大量の木材が被害に拍車をかけたことや、木材輸送の形態の変化から徐々に衰退し、現在の姿へと移り変わってきました。水天宮社頭全景。右手に由緒が刻まれた石碑、左手の社標は「水天宮社」とあり、石段先の境内に石の神明鳥居(2006)があり、その先に社が祀られています。境内左の手水舎。手水鉢には深い緑色をした龍の姿もある。岩の上に全身を乗せた陶製のもので、清水は注がれていませんでした。本殿域全景。参道両脇に子持ち毬持ちの狛犬が守護しており、本殿域には三つの社が祀られています。左は伏見稲荷大明神、中央が水天宮、右に一社ありますが詳細は分かりません。参道脇を守護する狛犬(寄進年度は未確認)。水天宮社。福岡県の久留米市に鎮座する水天宮(久留米水天宮)を総本宮とする全国的に知られる神社で、祭神は天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮・二位の尼をお祀りする神社。この地方であまり見かける事のない神社と云えるかもしれません。地史から水天宮社、伏見稲荷大明神を調べましたが、具体的な事は分からず詳細は分かりません。幸いにも社頭に由緒が刻まれていたのでそれが唯一の情報となるでしょう。以下は由緒からの抜粋。・久留米市鎮座の水天宮より安政4年(1857)に勧請。・白鳥町字中島守随氏邸内に祀られていたが昭和4年(1929)にこの地に遷座した。・水神また安産の神として崇敬されている。・例祭は7月5日・境内社は秋葉社、稲荷社をお祀りする。実にありがたい、右の社が分からずにいたが、秋葉社である事がはっきり記されていた。秋葉社、伏見稲荷社の勧請年度は由緒には書かれていませんが、昭和4年に水天宮がこちらに遷座するにあたってその際に勧請されたものかも知れません。白鳥町字中島守随(しゅずい)氏邸内の所在までははっきりしなかったが、守随家とは江戸時代に設置された衡制統一を図る目的から、東の江戸に守随家、西の京都の神家の両家に秤の製造、販売、調整を一元管理させ、それら管轄エリアに出張所の秤座を展開し衡制統一を図っていた。この熱田は東の守随家管轄で出張所が設けられていたのだろう。現在でも中川区にその技術を継承し会社として存続しており、そこが邸宅だとは思いませんが、東を拠点とした守随家のお膝元には、本社水天宮の分社にあたる水天宮もある事からこちらに勧請されたのかもしれない。水天宮本殿域全景。左が伏見稲荷大明神、水天宮、秋葉社が整然と祀られています。背後には、かつて多くの材木が集積されていた堀川と貯木場だった白鳥公園が控えています。今は姿を変えたこの辺りですが、子供の頃の記憶にそうした光景は残っています。貯木場が姿を消したのは昭和58年(1983)頃、つい最近の事で記憶にあってもなんら不思議ではない。水天宮社創建 / 安政4年(1857)祭神 / 天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮・二位の尼境内社 / 伏見稲荷大明神、秋葉社所在地 / 名古屋市熱田区白鳥1-4公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「熱田神宮西」降車、南西に徒歩10分程関連記事 / 熱田八剱社 (名古屋市熱田区一番)
2023.04.10
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広島滞在二日目宮島に向かう広島電鉄宮島線の地御前駅で一旦下車し、地御前神社に向け街並みを歩いて見ました。地御前駅から踏切を越え、左手の地御前の街並み方向に向け歩きだす。地御前の町の入口に掲げられた地御前史跡マップ。駅が〇、マップの場所が⇩。今回の目的地「智秀山西向寺」は☆印の位置になります。因みに駅からこのマップまでの所要時間は2~3分程、ここからマップに従って西向寺までが2~3分程です。山陽本線の北側にあたるこの通りは、どことなく旧街道のような趣のある通りで、狭い道沿いには家々が立ち並び、地御前神社に続きます。マップから2~3分程で左に観音堂があり、その斜め向かいに写真のような鐘楼門が見えてきます。立ち寄る予定はありませんでしたが、門の前を通りがかり、このまま通り過ぎるには惜しい光景が目に入り、かみさんには先に進んでもらい、少しだけ道草してみました。智秀山西向寺鐘楼門。この鐘楼門は明治44年(1911)に建立された瓦葺の門で、平成13年(2001)に現在の本瓦葺きに改修された威厳のあるもの。浄土真宗本願寺派の寺院で、伝承では僧玄正が寛永2年(1625)旧大野町東部に開基したのが始まりとされ、当初宗派は違っていたようです。後の四世宗玄が貞享(1684~7)頃に浄土真宗本願寺派に改宗、高取の正傳寺の末寺となり、地御前神社の参道改修に伴い、現在の地に寺基が移転されたようです。現在の伽藍は、鐘楼門、本堂、経蔵が主な伽藍で平成に入り補修の手が入れられたようです。さて、通り過ぎるには惜しい光景とは上の写真にある1本の赤松。「天蓋松」や「蓮華松」と呼ばれるようで、樹齢が260~340年とも云われるようです。どっしりとした太い幹、上は止められていますが、そこから枝の見事な事。鐘楼門から本堂に続く石畳の参道の上を、まさに天蓋の如く覆うように伸びています。あまりに長い枝振りは、多くの支えがなくては自重を支えきれないほど見事なもの。地御前史跡マップにも一際目に付くように描かれ、地御前のシンボル的な存在なのだろう。地元の郷土史は「天蓋松」について「晴れの日には木陰を作り、地面に本堂の格天井のような影を落とし、雪が降っても天蓋松につもり、本堂まで雪を踏むことがない」とも書かれています。正に天蓋松は地元の誇るべきシンボルのようです。境内にはもう一つのシンボルとも云える大木が聳えています。山門左に聳える公孫樹がそれで、こちらも上が止められていますが、樹齢は天蓋松より更に半世紀ほど古いとされます。二本の巨木が聳える西光寺、秋は秋で境内が黄色一色に染まる事でしょう、地御前神社を訪れる際には、西向寺の「天蓋松」は一見の価値ありです。智秀山西向寺宗派 / 浄土真宗本願寺派開基 / 寛永2年(1625)本尊 / 不明参拝日 / 2023/03/03所在地 / 広島県廿日市市地御前3-22-23関連記事 / 安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day2
2023.04.09
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4月4日、奈良県桜井市の多武峰に鎮座する「談山(たんざん)神社」と明日香村に鎮座する「岡寺」を車で訪れてきました。談山神社、岡寺の伽藍など改めて掲載するとして、今の多武峰と明日香村を彩る花の状況を掲載します。名古屋を6時に高速に乗り、法定速度+10km/h(違反だナ)の定速走行で一路東名阪自動車道で針ICまでひとっ走り。平日という事で高速は空いていますが、相変わらず速度と車間を制御できない「人」が操る車の多い事。警察には徹底した取り締まりを望み、どんどん反則金を徴収してもらいたい。「道の駅針テラス」で朝食を取って再び桜井市に向け走り出す。周囲の山々は芽吹きを迎え、萌黄色に染まる「山笑う」時期を迎え、ソメイヨシノも散り始めを迎えていますが、名古屋に比べまだまだ咲き残っています。9時過ぎ、談山神社東大門に到着。緑が鮮やかな時期になってきた。駐車場から緩やかに続く参道を上った先の談山神社社頭。鳥居の右側には散り始めた桜並木。談山神社。写真は総社拝殿から見た権殿・十三重塔・神廟拝所。天武天皇7年(678)創建とされ、藤原鎌足を供養の為、妙楽寺の講堂として始まったのが談山神社で、権殿・十三重塔・神廟拝所 (旧・講堂)・舞台造りの拝殿が主な伽藍。紅葉の時期は錦の山々に社殿が包まれとても綺麗な光景が見られ、それを愛でに多くの人で賑わいます。秋だけではなく、実は山々が芽吹きを迎え、山桜の咲くこの時期が一番美しい表情を魅せてくれます。その昔、この辺りの四季を通じてスライドに収めた頃がありました。少し離れた高台から霞に包まれた萌黄色の山を背景に、手前の白い桜に埋まれる様に佇む談山神社が実に美しく、あの光景を再びデジタルに収めたくてかみさんを口説いて訪れました。やはり足繁く通わなければ、あの光景は見られないようです。訪れた時には既に桜のピークは過ぎ、かつて絶好のスポットだった場所?は周囲の樹々が成長し、当時の面影はなく、何処で撮ったかすら分からなくなっており、遠景を収めることは出来なかった。談山神社は新緑、紅葉の美しい時期に、このけまりの庭で古の装束を身にまとい蹴鞠祭りが行われ、その光景を見に訪れる観光客も多い。神廟拝所内の祭神である藤原鎌足像。神廟拝所はかつて飛鳥時代後期の白鳳8年(679)に定慧和尚の父・藤原鎌足の供養の為、妙楽寺の講堂として創建したのが始まりとされ、仏教色の強い神社でもあり、内部の壁面全周には羅漢や天女の像が描かれています。内部の撮影は許されていますが、ストロボ撮影は控えたい。総社拝殿から見る十三重塔。こうして見る塔は天文元年(1532)の再建で、木造の十三重塔としては世界唯一のもので、藤原鎌足の供養のために建てられたもの。風が吹き抜ける度に桜吹雪となる。拝殿廻廊から見る桜、既に葉桜になろうとしていました。多武峰談山神社由緒より「御祭神 藤原鎌足公飛鳥・法興寺で行われた蹴け鞠まり会えにおいて出会った中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作くらつくり(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳のべよと。中臣連、皇子を将ひきいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり「大化改新設合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談山神社」もここからきています。天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いと知った大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏は、ここから始まります。鎌足公の没後、御墓は摂津国 阿威あい山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称しました。さらに、大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。」随分久し振りに訪れましたが、少し離れて眺める姿は今も趣があっていい。多武峰談山神社所在地 / 奈良県桜井市多武峰319名古屋から車アクセス / 東名阪自動車道・名阪国道・国道25号経由奈良市針町の針IC・国道369号・県道198号・国道166号・県道37号で桜井市多武峰街道・県道155号で3時間程度 談山神社から車で石舞台古墳を経由し15分程の距離にある「岡寺」へ。岡寺は奈良県明日香村の東にある岡山の中腹に位置し、綺麗に公園化された石舞台古墳からもほど近い。真言宗豊山派の寺院で西国三十三所観音霊場第七番札所。四季折々に趣を変え、美しい景観を見せてくれる寺。昨今は花手水の岡寺として知名度が高いようで、手水舎や華の池はじめ、境内の小さな鉢などにも花があしらわれ参拝者を迎えてくれます。華の池にもこうして花があしらわれ、水面一面に散りゆく桜の花弁が埋め尽くしています。…花弁がピンクなら一層いいのだろうが、そんなタイミングは一瞬です。ソメイヨシノは間もなく葉桜も近く、当日は枝垂れ桜が綺麗に咲いていましたが、それも風が通り過ぎるたびにひらひらと舞い落ちています。本堂全景。以下は岡寺由緒からの抜粋。「昔には日本の首都、飛鳥京の中心地 飛鳥板蓋宮(大化の改新が起こった場所)、現在は明日香村行政の中心地「明日香村役場」の東に位置します。過去においても現在においても政(祭りごと)・行政の中心地のすぐそばに位置しております。『東光山 真珠院 龍蓋寺』、古来より土地の名から『飛鳥の岡にある寺』⇒『岡寺』と親しみをこめて呼ばれており、宗教法人名も『龍蓋寺』ではなく『岡寺』となっており、『岡寺』の名で知られております。西国三十三所観音霊場の第七番札所として西国霊場草創1300年来、第七番の観音様として信仰を集めており、また日本最初やくよけ霊場としても知られています。現在は真言宗豊山派に属しておりますが、創建当初より江戸時代までは開山の義淵僧正が法相宗の祖であったことから法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出しており、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務しておりました。江戸時代に長谷寺第32代化主(住職)法住が岡寺に入山して中興第一世となって以来、長谷寺の末寺となり今日に至っています。同じ西国札所の興福寺・長谷寺とは昔から深いかかわり合いがあるお寺です。」主な伽藍は仁王門、楼門、本堂、奥之院、三重宝塔、大師堂、鐘楼堂が主な伽藍。八重の椿は幾分落花していますが、まだしばらくはこうした艶やかな姿を見せてくれそうです。この他に境内ではシャガがひっそりと咲き誇っています。岡寺の境内の桜が葉桜になろうとするこの時期から5月にかけて、境内を彩る花は石楠花に移り変わっていきます。4月に入ったばかりだというのに境内の石楠花はつぼみも膨らみ、既に咲き始めていましたが、牡丹は流石にまだ〃。以前に比べ花が咲く時期が早くなっている気がしてなりません。5月に見頃を迎えていた室生寺も既に開花しているかもしれません。境内は今、靑紅葉が綺麗な時期を迎えています。岡寺本尊 / 如意輪観音座像所在地 / 奈良県高市郡明日香村岡806談山神社から岡寺車アクセス / 約15分程奈良。うんざりする人込みの京都に比べ、静かで落ち着けるところなのかもしれない。今は吉野の桜に向かう観光バスも、間もなく石楠花や牡丹の花が咲きだすこの辺りを目指してくるのかな?2023/04/04
2023.04.07
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2月8日バスツアーで高山の町を訪れ、市営神明駐車場から舩坂酒造店の試飲を終え、そこからフリータイムとなり其々の高山を目指し解き放たれる。我家の目的は飛騨の小京都とも称される高山市街にある酒蔵巡りでしたが、その途中で幾つかの秋葉神社を見かけました、今回は古い街並みの中に佇む社を取り上げます。高山の歴史は古く、奈良時代には国分寺と国分尼寺など建てられ飛騨の中心として栄えていた、現在見る城下町の礎が築かれたのは、戦国時代の金森長近(1524~1608)による高山城の築城より形作られたといっても過言ではないでしょう。高山城のあった城山の西にあたり、古い木造建築が軒を連ねる町並は四季折々に趣を変え一大観光地となっています。中橋。市内の中央を流れる宮川に架かる朱の欄干が印象的な高山を象徴する橋。この正面には高山陣屋もあり人通りの多い観光スポットで、お天気カメラでも宮川と中橋の絵を良く見かけると思います。所在地 / 岐阜県高山市川原町49日枝神社御旅所。中橋から高山陣屋方向に渡った左側に日枝神社御旅所が鎮座してます。宮川右岸の城山に鎮座する日枝神社、旧高山城下町の南半分の氏神様で地元高山では山王さんと称され、古くから親しまれてきた神社。飛騨路に春の訪れを告げる日枝神社の春の例祭(山王祭)、秋の訪れを告げるのが櫻山八幡宮の秋の例祭(八幡祭)で二つの祭りを高山祭と称し、飛騨の匠の技を凝縮した12台の屋台が曳き揃えされることで知られます。この日枝神社御旅所は春の高山祭(4月14・15日)で重要な役割を持っています。例祭では日枝神社御祭神(大山咋神)が神輿に収められ、獅子舞や闘鶏楽、裃姿の多くのお供を引き連れ町を神幸行列したあと、神輿は中橋を渡りこの御旅所に据えられ一夜を過ごされます。華やかな屋台も曳き回された後、中橋を渡りこの御旅所の前に集結、この広場の前で御祭神にからくりが奉納されます、この御旅所は春の高山祭の中心となる場所です。御旅所の左に授与所もあり日枝神社に足を伸ばさなくても御朱印を頂けるようですが、普段はひっそりと佇んでいます。日枝神社御旅所所在地 / 岐阜県高山市川原町49御旅所の向かいに鎮座する琴高台組秋葉神社。広い歩道の中央に玉垣で囲われた神域に常夜灯と神明造の三社相殿の社が祀られています。三社を祀るこの趣はどことなく屋根神様に通じるものがあります。地元であれば秋葉さん、熱田さん、天王さんとなるところでしょうが、三社が何かや創建時期等の詳細は不明です。琴高台組 秋葉神社所在地 / 岐阜県高山市川原町50-4高山の町を歩いていると、こうした秋葉さんを祀る社が町割りごとに祀られているようで、市営神明駐車場から中橋、上三之町、上二之町の限られた範囲だけでも、複数祀られています。上三之町秋葉神社。琴高台組秋葉神社から中橋渡った右側に鎮座し、高い基壇の上に琴高台組秋葉神社と同様の社が祀られています。社は上三之町の通りを見通す場所に鎮座し、あたかもこの通りを見守る様に佇んでいます。こちらの社には5本の鰹木と外削ぎの千木が施されています。上三之町 秋葉神社所在地 / 岐阜県高山市神明町4-14-14上二之町 秋葉神社。旧高山町役場の右に鎮座し、歩道から石橋と石段が設けられた先に鎮座しています。こちらの社は上三之町の秋葉神社と同様の造りになっています。こちらの社が見つめる先は、上二之町の通りを見据えています。上二之町 秋葉神社所在地 / 岐阜県高山市上二之町97-97上二之町にある酒蔵二木酒造の軒下にも三面ガラス張りの屋根神様が祀られています。試飲で立ち寄っていたので入店時に気付けば教えてもらう事も出来ただろうに。二木酒造所在地 / 岐阜県高山市上二之町40上二之町 南車台組 秋葉神社こちらは牛の握りを食べた金乃こって牛から南に進んだ右側の赤い屋根の覆屋に祀られていた秋葉神社。上二之町 南車台組 秋葉神社所在地 / 岐阜県高山市上二之町28-28上一之町 秋葉神社。上一之町交差点南角の公衆電話の裏側に鎮座し、上二之町、上三之町の秋葉神社とは同じ造りの社。こちらの秋葉さんが見守る先は上一之町の通りを見通す事が出来る。所在地 / 岐阜県高山市上一之町110金森長近が礎を築いた高山の街並み。木造家屋が軒を連ねる事から、高山の町は江戸時代からでも幾度も大火を経験し、享保14年(1729)には975軒、天明4年(1729)には2342軒を全焼する大火を経験しており、一度火が出れば延焼を防ぐために周囲の建物を壊すことが当時の消火のセオリーだったはず、火に包まれなくとも火元の近くの我家は壊されていく。城下町に住む者は運命共同体として火に対する意識は高かくなって行き、意識だけで補いきれない不安を火伏の神を祀る事で心の安心を得てきたのだろう。今回見かけた秋葉さん以外にも高山市内には多くの秋葉さんが祀られ、それらは今も変わることなく身近な存在として大切に護られています。地元名古屋の旧城下町も同様で、火伏の神は減ったとはいえ、四間道などでは屋根神として軒下に祀られる姿が残ります。伝統的建造物群保存地区として観光客には趣のある城下町の光景ですが、町角に祀られている小さな社にはそこに住む者にしか分からない意味がある。隣近所の付き合いや運命共同体の意識は希薄になり、密集した個の集まりになった街には火伏の神は煩わしいものでしかないのかもしれない。訪問日 / 2023/02/08関連記事 / バスツアーで蔵元巡り#2 『高山の蔵元』
2023.04.04
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鎌倉市西御門に鎮座する「白旗神社」鶴岡八幡宮の境内摂社の白旗神社と混同されるかもしれませんが、こちらの白旗神社は鶴岡八幡宮のニノ鳥居から東へ徒歩15分程の大倉山麓に鎮座する神社。大倉白旗神社や白旗神社西御門などと称され、境内摂社の白旗神社と区別されるようです。清泉小学校南角から白旗神社や頼朝の墓方向に続く石畳の眺め。交差点の角に大きな看板と観光名所への案内表示もあるので、これさえ見つかれば迷うことはないでしょう。右側の大きな石碑には「大蔵幕府舊跡」の碑が建てられています。この辺り一帯は鎌倉幕府を開いた源頼朝の御所や諸役所が置かれ、鎌倉幕府の中枢があったとされる場所です。左の「よりとも児童遊園」から西に一筋行くと、西御門の石碑も立てられていることからもそれは伝わってきます。石畳の路地の突き当りが目的地白旗神社で、正面の石段を上り詰めた先に頼朝の墓が立てられています。左には「法華堂跡」の石碑があり、右手には「頼朝公顕彰碑」が建てられ、頼朝を称える歌が刻まれています。大蔵白旗神社はこの参道左側に鎮座しています。顕彰碑には「君出でて 民もしづまり九重の塵もおさまる 世とはなりにけり」大正13年に建立された「法華堂跡」の石碑。碑文は以下。「堂は元々は頼朝の持仏を祀っていたところで、頼朝の死後は頼朝の廟所となる。建保5年(1217)5月、和田義盛が反乱を起こし幕府に火を放った時、将軍であった実朝が難を避けるため避難した場所。宝治元年(1247)6月5日、三浦康村はここに籠もり北条軍と戦うも、刀は折れ矢も尽き、一族郎党500人余りは自害し、庭を赤く染めたところ」と記されています。大蔵幕府跡推定地の北隅に位置するこの場所は、頼朝の守り本尊を安置する持仏堂として始まり、正治元年(1199)に頼朝が亡くなるとこの地に葬り、持仏堂は頼朝の墓所として法華堂と呼ばれるようになった。頼朝の命日には時の将軍により仏事を執り行い、多くの武将も参列したといいます。その後も鶴岡八幡宮が祭祀を続けたが、明治維新の神仏分離にともない法華堂は明治5年(1872)頼朝を祭神とした白旗神社に改められ現在に至っています。「白旗神社」、源平合戦の際に源氏は白の御旗、平家は赤の御旗を掲げていました、そこからこの名が付いていたのかもしれません。ここにも解説が掲げられています。「薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華堂跡」解説は以下。「法華堂跡の東谷奥には大江広元、広元の四男で長州毛利氏の祖・毛利季光、薩摩島津氏の祖・島津忠久の墓が並び、いずれも江戸後期に薩摩藩・長州藩により整備された。」とあります。この辺りには地元小学校の児童の手による解説や、他にも鎌倉には多くの石碑が立てられ、頼朝は今も地元から慕われているのが窺われます。白旗神社境内全景。左に白旗大明神の社標、参道口に一対の常夜灯と個性的な容姿の狛犬が参道を守護しています。社頭から境内の眺め。石の神明鳥居の先にこぢんまりとした社殿が建つ。参道の素朴な容姿の狛犬。明治5年(1872)創建とされる白旗神社、150年の年月は風貌をここまで変えてしまう。外削ぎの千木が付く切妻の拝殿は実にシンプル。額は白旗明神。授与所や社務所はなく、多くの参拝客が訪れる鶴岡八幡宮と比較すると、大蔵白旗神社を訪れる参拝客は少ないようです。波乱の人生の末に武家政権の礎を築いた頼朝、こちらの御利益はもちろん勝運。そんな頼朝は相模川橋の供養の帰途に落馬し、それが要因(諸説あり)で正治元年(1199)に亡くなります、その頼朝の墓所が正面の石段を上った先にあります。ここにも解説が。この大倉山一帯が頼朝の墓の跡とされます。石段の左に「源頼朝公法華堂之舊跡」の石標が立てられています。墓所に続く石段。中ほどには神明鳥居が立てられています。石段を上り切った目の前が頼朝の墓。解説によれば、現在の塔は後の島津藩主・島津重豪(1745~1833)が整備したものとされます。香台には頼朝の家紋笹竜胆の紋と島津家の轡十文字の家紋が見られます。頼朝の墓を整備したのが島津重豪とありますが、そもそも整備前から頼朝の墓があったのか、そんな気になってくる。頼朝の墓の右に「希義公の土と石」の解説。頼朝と弟希義は平治の乱(1159)で源氏勢の敗北以降、一度として兄弟の再会は果せなかったと伝わります。希義の墓は高知市介良に残り、1994年に頼朝の墓の土と石を希義の墓の物と交換し、兄弟の再会を果たす催しが行われたようです。頼朝墓全景。頼朝の墓から少し外れた場所に、島津の名が刻まれた石標があり、頼朝との繋がりの深さを誇示するかのようでもある。手水鉢。なにか刻まれていないか探してみるも、自分の目には見当たらなかった。手水鉢の右の空間。ここにも「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」の石標が立つ。あたかも義時の墓の様にとれなくもないですが、義時の法華堂跡や墓があったとする場所は、ここから100㍍程東に歩いた先にある、毛利秀光、大江広元、島津忠久、三浦泰村が供養されるその場所にあたるようです。この左奥に山肌に付けられた細い山道があり、そちらに続くのかと思いましたが、当日は縄が貼られ踏み入る事が出来ませんでした、石段を下りて少し東に向かう事にします。白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓創建 / 明治5年(1872)祭神 / 源 頼朝ご利益 / 勝負運例祭日 / 1月13日所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-1-14関連記事 / 鶴岡八幡宮 今宮参拝日 / 2023/01/17鶴岡八幡宮から徒歩ルート / 東へ徒歩15分程公共交通機関アクセス / JR鎌倉駅から徒歩約20分
2023.04.01
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広島東照宮北側から双葉山麓に鎮座する金光(きんこう)稲荷神社を経て、山頂に鎮座する奥宮に続く参道が伸びています。今回は東照宮境内社の金光(きんこう)稲荷神社と奥宮を掲載します。上東照宮北側の朱の鳥居、ここから石段を上り、一般道を越えれば金光(きんこう)稲荷神社です。下道路を渡ると脇参道の入口が見えていますが、正参道は道路を右に進んだ左側になります。上金光稲荷神社社頭。右に金光稲荷神社の解説が立っています。ここから石段を上り、まずは本殿に参拝し、奥宮を目指します。下金光稲荷神社の解説。例祭 月次祭 毎月1日、15日春季大祭 4月1日、秋季大祭 11月1日祭神 宇迦之御魂命由緒 元禄(1700年)の頃より当権現山(二葉山)に祀られる、遠き昔より商売繁盛、家内安全など諸願成就の大神として神徳を得られ金光稲荷大神として称えられている。」解説によれば奥宮へは約8分で辿り着けるとある。それ位なら仏舎利塔は無理としても、奥宮までは行けそうです。上石の神明鳥居に掲げられた額は金光稲荷神社とある。下石段中ほどから見る拝殿。社殿の建つ境内は意外に小さく、全景を入れるには自分のレンズではここまで後退しなければ入らない。本殿も鬱蒼とした杜が遮り全く見通せなかった。拝殿に掲げられている額と下が境内右側の境内社。後方の鳥居は奥宮遥拝所。社殿の鎮座する境内には三つの社が祀られており、上は境内左の流造の社で外削千木と5本の鰹木。下は拝殿右奥の社、造りは同様で内削千木と4本の鰹木。何れも社名札がなく社名は分からなかった。東照宮の朱の鳥居脇には奥宮までの参道にお産稲荷社、出世稲荷社、三狐呂稲荷社、玉成稲荷社、玉秀稲荷社、高彦稲荷社とありますが、結論から言えば奥宮までには無数の社が祀られています。二葉山の頂に鎮座する奥宮まで約8分とありますが、くねくねと方向を変え高度上げる参道は、約8分では奥宮に辿り着けなかった。写真の時間情報から見ると奥宮までは、足元の悪い参道を20分程登った事になります。そんな参拝者向けにこの奥宮遥拝所がある、ここで拝めば上に上らなくとも同じ御利益を得られます。参道入口の光景。これならば行けそうな気はしますが、奥宮にかけては更に参道は荒れていきます。参考時間を書きますが、この写真撮影時からものです。16:33。登り始めて1分程で神輿舎と参道右側の社。お産稲荷社大神、ここで16:36上出世稲荷大神、16:38三狐稲荷大明神16:40上、三狐稲荷大明神の右側にも鳥居を構えた稲荷社。玉成稲荷大神、16:42上、玉秀稲荷大神、16:46下、高彦稲荷大神、16:48スタートが16:33なのでここまでが15分です。ここまで来れば左手の高みに鎮座する奥宮も間もなくです。奥宮鳥居到着、16:49それまで杜に包まれ遠景は見通せなかったが、参道の左側に西陽が差し込み空が開けた一画が奥宮。上、鳥居の右の手水舎。下、奥宮の社殿右側の山肌には巨岩があり、そこにも社が祀られていて、山肌には古い石垣が積まれ山城の趣があります。参拝後もう少し上まで登ってみます。奥宮社殿から山側の眺め。ここにも一枚の巨岩が聳え、岩の下側に穴が開いており、その前で狐が守護する社が祀られています。狐は穴を好みます、奥宮までの小さな社にも穴を社にしたものもありました。狐の巣穴として意味もあるだろうが、この巨岩自体が神秘的な磐座のようにも思えます。岩の上を良く見ればそこにも祠が見える。狐の巣窟です。金光稲荷大神奥宮。大きな一枚岩の上に祀られる社は流造。眼下には広島市街を一望でき、原爆投下以降、ずっと街の繁栄を見続けています。奥宮への約500段近くある急な道のりは正直言ってとてもきつい、しかし山肌に祀られた大小の社や数えきれない奉納鳥居、参道の整備状況を見ると多くの崇敬者に護られているのがよく分かります。奥宮から眺める市街の眺望や遥か先には広島湾を望むことも出来、お勧めするには辛すぎますが、眺望は一見の価値があります。奥宮への道のりは正直言ってとてもきつい、ここの登拝で全ての余力を使い果たした感がありました。それでも奥宮からもうひと登りして更に上を目指します。上奥宮社殿全景と眼下の広島東照宮方向。下広島市街と瀬戸内海の眺望。標高139㍍権現山(二葉山)、奥宮から上に出ると尾根の上は城址のような光景となります。幾つかの大きな窪みが作られ、壁は石垣が積まれています。ここは高射機銃陣地址で第二次世界大戦の戦争遺構として保存され、当時の様子が開設されています。広島市街を見下ろす二葉山には、こうした陣地や兵舎が築かれていたそうですが、一発の原爆で全滅しました。大量殺戮の智恵を絞り、資源や資金を次ぎこむエネルギーがあるなら、一つの星として纏まる事にエネルギーを費やすのが道筋ではないだろうか、広島東照宮と金光稲荷、いや広島はそうしたことを考える機会を与えてくれる場所でもある。そろそろ参道を下りるとしよう、こんな道が続くので油断は禁物です。広島東照宮境内末社 「金光(きんこう)稲荷神社」創建 / 元禄(1700年)頃祭神 / 宇迦之御魂命所在地 / 広島県広島市東区二葉の里2-1境内社 / お産稲荷社、出世稲荷社、三狐呂稲荷社、玉成稲荷社、高彦稲荷社他関連記事 / 広島東照宮(広島市東区二葉の里)
2023.03.28
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功徳天満宮は、日進市にある岩崎御嶽社が鎮座する、岩崎御嶽山のほゞ山頂に鎮座しています。前回掲載した八大龍王からあじさい遊歩道をものの1~2分程向かった右側に鎮座しており、目の前は岩崎御嶽社と云ってもいいでしょう。あじさい遊歩道から見る功徳天満宮全景。境内に続く石段の右に「功徳天満宮」と刻まれた石標が立ち、石段を上った境内の右側に二つの社が建てられています。功徳天満宮が鎮座する岩崎御嶽山の始まりは、万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされ大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社でほゞ全山に霊神碑や功徳天満宮のような社が鎮座しています。上が境内の全景で右手に手水鉢、正面の神橋の先に天満宮、左に社名不明の社が建っています。功徳天満宮の詳しい由来や歴史は不明ですが、社名からは菅原道真公をお祀りする神社であることがわかります。菅原道真は平安時代の学者、政治家、歌人で、様々な分野から崇敬されていますが、特に学問や合格祈願にご利益があるとされる神社で、全国各地に天満宮や天神社が建てられています。境内右の手水鉢、後方に見える建物は御嶽社社務所。左の社名不明と功徳天満宮。鬱蒼とした樹々に包まれた神秘的な雰囲気の漂う境内の神橋から功徳天満宮の全景。一対の石灯籠から神橋を渡ると、左に霊神碑と右に石碑があり、覆屋の下には5本の鰹木と外削ぎ千木が付く神明造の社がある。良く見れば社の左に小さな撫牛の姿があり、漸く天満宮らしさを見ることが出来ました。この天満宮がいつ頃建てられたか分かりませんが、岩崎御嶽社が万延元年(1860)に開かれたとされるのでそれ以降、大正から昭和にかけてからかもしれません。岩崎御嶽山の功徳天満宮は、普段目にする天満宮の趣とはやや異なり受験祈願の絵馬や梅紋、境内には梅の木の姿も見当りません。功徳天満宮創建 / 不明祭神 / 菅原道真公所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山参拝日 / 2023/03/07八大龍王から功徳天満宮 / 徒歩約1~2分関連記事 / 八大龍王(岩崎御嶽社) 、岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社、
2023.03.27
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広島市東区にあり、東照大権現(徳川家康)をお祀りする広島東照宮。JR広島駅の北口から徒歩10分程の二葉山の麓に鎮座し、広島の玄関口を代表するのが広島東照宮かもしれません。江戸時代の慶安元年(1648)、広島藩主浅野光晟により建立しました 。広島城の鬼門(北東)に位置する二葉山の山麓に鎮座しており、城下町広島の総鎮守として信仰されてきました。社頭左に由緒書きがあり、以下内容です。「広島東照宮広島二代藩主浅野光晟(みつあきら)は、生母振姫が徳川家康公の三女であったことから東照宮の造営に熱心で、家康公没後三十三年の慶安元年(1648)に、城下を一望できる二葉山の山麗に華麗な朱塗りの社殿を造営しました。昭和20年(1945)8月原爆により本殿・拝殿を焼失しましたが、御神体は駐屯していた兵士達により運び出され難を逃れた。また焼失を免れた唐門、翼廊、本地堂、手水舎などは、370年余りの歴史を伝え、広島市重要有形文化財に指定されています。」境内には、御産稲荷社、祖霊社、福禄寿の像、二葉山の山麗から頂にかけて、東照宮境内社の金光稲荷社や奥宮が鎮座する広い神域を持っています。慶安元年(1648)、三次藩主浅野長春寄進の鳥居。原爆投下により広島、長崎は人類史上最も悲惨な経験をし、人も都市も焼き尽くされ、それは今も終わる事がない。今年で78年を迎え、被爆地広島、長崎の平和宣言の趣旨に対し、今だ一つになれず終末時計は進むばかりで後退の兆しはない。原爆ドームはそれを悟らせる遺構であるように広島東照宮もそのひとつ。広島東照宮は、1945年8月6日に原子爆弾が投下された際に全壊を免れた被爆建物の一つです 。境内には被爆者を慰霊する塔や碑が建てられており、平和への願いが込められています。この鳥居も原爆投下による甚大な被害から免れたもの。鳥居から見る唐門と左右の翼廊。伽藍の中で被爆による焼失を免れた唐門、翼廊、手水舎、本地堂、神輿などは広島市の指定重要有形文化財となっています。被爆当時、境内に多数の避難者や救護者が身を寄せ合ったとされます、広島出身の詩人で小説家だった原 民喜もその一人で、その経験を後の作品の中に残しています。被爆前のこの参道の両脇には桜並木が続き、広島城下唯一の桜の名所(桜の馬場)として知られたそうで、社頭南の二葉の里第二公園の入口には当時の様子を伝える「復活記念碑」が建てられています。唐門。日光東照宮の陽明門に相当する一間一戸向唐門で、唐破風の下に「長尾山」の額が掲げられています。呆れるほど絢爛豪華な陽明門と比較するのはどうかと思いますが、家康を祀るだけに意匠には手が掛けられ、最近訪れた各地の東照宮の中では威厳のある姿のものです。唐門表。欄間に鶴、破風板には花文様の彫飾りが施されています。唐門裏。こちらは色彩豊かに彩られた鳳凰?だろうか。唐門から眺める広島駅。70年は草木も生えないとも云われた広島は今も発展を続けています。門の左右の翼廊。原爆投下の爆風を受け、全体が北東側に傾いた翼廊は、原爆による爆風、火災にも耐え、昭和23年(1948)に保存修理を受け創建当時の姿を留めています。翼廊は左右10間ずつ建てられた切妻のもので、戦後桟瓦に葺き替えられていたものを平成20年(2008)に本瓦に葺き替えられ、この姿が創建当初の姿だという。東照宮の伽藍配置。ほゞ南を向いて正面に翼廊と唐門、その先に拝殿、幣殿、本殿と並び、境内左に手水舎、御供所があり、境内右側には現在修復作業中の本地堂、本殿東側に神輿舎、本殿後方に境内社が主な伽藍配置。手水舎。切妻瓦葺で慶安元年(1648)、広島藩主浅野光晟により造営。総漆塗りで蟇股の月と兎など桃山時代の様式を伝え、昭和64年(1989)に解体修理が施された。手水鉢は慶安元年と刻まれています。ここまでは葵の紋より巴紋を見ることが多かったけれど、境内に入ると葵の紋が目に付くようになります。御供所。手水舎の後方に建つ入母屋瓦葺のこの建物は、神に供える神饌を整える厨房として使われ、全国の東照宮にあって独立した御供所が現存するのは多くはない。現在の建物は原爆投下50周年記念事業として東照宮350周年記念として平成9年(1997)に解体修理を受けた。本地道。境内右側に建つ、慶安元年(1648)に造営された方形の瓦葺で、家康の本持仏薬師如来を祀り神仏習合の名残を伝える建造部。総漆塗りで極彩色の蟇股などが見事らしいが、昭和59年(1984)に復元補修を受け、訪れた時も復元修理を受けており全容は見られなかった。この修復工事は2024年3月完了を目指しているようです。拝殿全景。現在の建物は原爆投下により焼失し、昭和40年(1965)に350年式年大祭を記念し再建されたもの。入母屋銅板葺で唐破風が施され、焼失前は檜皮葺の社殿だったようです。金色に輝く葵の紋。拝殿額は「廣島 東照宮」、徳川宗徳(1897~1989)の揮毫によるもの。本殿は銅板葺の一間社流造で唐破風付きのもので棟には外削ぎの千木が付く。現在の本殿は昭和59年(1984)再建のもので、被爆当時は境内に陸軍第二総軍通信隊が駐在しており、消火活動により御神体だけは焼失を免れたと言います。本殿右側に社が祀られていますが栞などに目を通しても社名は分からず、ここでは不明社とします。社後方の松は「原爆ゆかりの赤松」三本の鰹木と外削ぎの置き千木が施された不明社と東照宮本殿。原爆ゆかりの赤松。原爆投下後本殿、拝殿、瑞垣は焼失、70年は草木も生えないとされたが、翌春に本殿の焼け跡から数本の赤松が自然発芽し移植したものが本殿域で今も成長を続けている。本殿は彩色された手の込んだ彫が施され、脇障子にも彫が見えます。神輿庫。東照宮が創建された慶安頃(1648~51)の製作とされる神輿を保管。原爆投下による焼失から免れた神輿の重量は800㌔と言われ、50人で担ぐとされそれを保管する為の建物です。本殿から幣殿、拝殿方向の眺め。御産稲荷社祭神の徳川家康は寅年の天文11年(1542)の寅の日、寅の刻に愛知の岡崎城で誕生したとされ、母於大の方は家康を身ごもると無事に生まれて立派な武将になる事を薬師如来に祈願されたと言う。そのことから東照宮にお参りすると安産のご利益があると伝わるようになり、「お産さん」とも称されるそうです。傍らにある亥子石と花手水。後方の亥子石と彫られた石標の上に丸い石が乗せられており、それを撫でる事で小授、安産、子育、豊作、安栄の御利益が得られるという。左の覆屋には福禄寿が安置されています。円満な人格、誰からも信頼され、尊敬される徳を与えて頂け、特徴のある長い頭は慎重に物事を考え行動する事を表しており、福禄寿の福は幸福、禄は高禄、寿は長寿を指し、この三徳を兼ね備えたのが福禄寿。二葉山山麗七福神巡りというものがあるようで、近隣の寺社を巡るコースもあるようです。祖霊社。祭神は大之御中主大神。例祭3月21日、9月23日。祖霊社付近から見る本殿。祖霊社の左に朱の鳥居が立っており、ここを上り車道を越えた先が二葉山に鎮座する東照宮境内社の金光稲荷社と多くの奉納鳥居が立ち並ぶ奥宮に続く険しい参道は、自分には遠く厳しいものでした。尚、御朱印は16時までとなっています。金光稲荷社、奥宮は別途掲載します。午前中は日本の防衛にあたる呉の艦艇や大和ミュージアムを見てきただけに、原爆の爪痕を残す広島東照宮を訪れると、諸国を纏め天下泰平をもたらした家康に変わり、世界を一つとして捉え、残り90秒となった終末時計を遅らせることが出来る現代の家康は誰なんだろうと考えさせられる。広島東照宮創建 / 慶安元年(1648)祭神 / 東照大権現境内社 / 金光稲荷神社、御産稲荷社、祖霊社など所在地 / 広島県広島市東区二葉の里2-1-18広島駅から徒歩 / 所要時間10分程参拝日 / 2023/03/02関連記事 / 安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day1
2023.03.26
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建長寺から鶴岡八幡宮末社「今宮」へは、県道21号線沿いに鶴岡八幡宮に続く下り坂を徒歩10分ほど進みます。鶴岡八幡宮参拝者駐車場の手前で左に進み、突き当りを左に進みます、両脇に点在する住宅に続く路地の突き当りが今宮の社頭になります。聳え立つ樹々が背後に迫り、鎮座地は鶴岡八幡宮境内の最深部に位置します。社頭。左に史跡鶴岡八幡宮境内「新宮」の案内板があり、朱の明神鳥居の先に社殿がひっそりと佇んでいます。社殿正面全景。想像していたより新しく綺麗な社殿で、右手に今宮の祭神が記された案内板が立つ。源頼朝亡き後、北条義時・北条政子と後鳥羽上皇が争った承久の変(1221)、戦に敗れた後鳥羽上皇、土御門天皇、順徳天皇は流罪となり、延応元年(1239)後鳥羽上皇が隠岐で亡くなると、天変地異や飢饉、疫病が起こり、鎌倉でも北条泰時が病に伏せるなど、承久の変で京都に関わった北条泰時(1242)、北条時房(1240)、三浦義村(1239)など次々と他界。後の宝治元年(1247)の宝治合戦の争乱、天変地異や飢饉、疫病は続き、度々改元されましたが、これらの禍の根源が亡くなった上皇達の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために祀られたが社が今宮とされます。今宮の鎮座地は人で溢れ喧騒とした雰囲気の鶴岡八幡宮境内とはかけ離れ、同じ境内ながら訪れる参拝客はなく静寂に包まれた空間が広がる。ここに至る道筋にそれらしい案内板も見当たらず、ここが鶴岡八幡宮の末社とは思えない。唯一それと分かるのは、この鶴の紋と文化財の看板くらいだろうか。現在の社は令和元年(2019)の台風で被災し、同3年に再建された素木の銅板葺一間流れ造りのもので、木の香りが漂う新しい社。江戸時代の徳川光圀が当地を訪れた際に記録、編纂された「新編鎌倉志」、ここに今宮の記述があり、「社の後ろは深谷なり、一根にして六本に分かれた大杉あり。魔境にて、天狗ここに住むという」と記されていると云う。訪れた時には、六本に分かれた大杉は存在しませんでしたが、深い杜は今も保存され、天狗が住みそうな雰囲気は漂っています。境内に建てられた「今宮」の石碑。昭和4年(1929)に建てられたもので、碑文の内容を要約すると以下のようなもの。「四條天皇の時代である延応元年(1239)、鎌倉では様々な諍い事があり。特にその年の5月22日には大騒動が起きたと云う。この日は後鳥羽上皇が隠岐にて崩御し、こうした諍いはその怨念だとされた。宝治元年(1247)4月に大臣山(鶴岡八幡宮が鎮座する山)の西麓に今宮を建て、尊霊を勧請し、順徳院と護持僧長賢の霊を合祀。長賢は、承久の役の官軍(後鳥羽天皇側)に属し奮戦、後に捕まり陸奥に流刑されたと云う。今宮は新宮と書く」後鳥羽上皇が配流先の隠岐で亡くなったのは延応元年2月22日で、2月25日に埋葬とも言われます。今宮を取巻く社叢。多くの観光バスが行き交う県道から少し入っただけですが、今宮の空間は時が止まった様に静まり返っていました。鶴岡八幡宮末社 今宮創建 / 宝治元年(1247)祭神 / 後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇所在地 / 神奈川県鎌倉市18建長寺から今宮徒歩ルート / 県道21号線沿いを鶴岡八幡宮方向に約10分関連記事 / 『建長寺』
2023.03.25
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前回掲載した熱田社、次の目的地は熱田区一番に鎮座する「八剱社」です。八剱社へは社頭から東に向かい、「一番一丁目西」交差点から右へ約150m程先の一番町公園の北側に鎮座しています。一番町公園の東側の路地の北側に一番町八剱社の社頭があります。社頭には石の神明鳥居があり、境内にはニノ鳥居も構えています。社頭の左側に「村社 八剣社」と刻まれた社号標と由緒書きが立てられています。「神社名 八剱社鎮座地 名古屋市熱田区1番2丁目27番9号御祭神 日本武尊由緒創建は文化14年(1813)8月と伝わる。昔から1番町の氏神として崇敬篤く明治5年(1872)村社に列格。昭和34年(1959)年9月26日、伊勢湾台風により社殿に損害を受け、同36年(1961)復興。長い間の風雨災害による破損も多く、本殿、拝殿、渡殿、末社、鳥居、手水舎など全面大改修、増築のため平成3年(1991)2月着手、同年10月に完成。境内末社 秋葉社、知立神社境外末社 天王社祭事 例祭日 10月10日、元始祭 1月1日、五穀祈年祭・天王祭 6月4日、新嘗祭・秋葉社・知立社大祭 12月15日」上は大正9年(1920)の白鳥橋周辺。熱田新田の開発は正保4年(1647)に始まり、慶安4年(1651)に完成したとされており、堀川から西にかけて広がる旧熱田新田は堀川寄りから東組、更に西は西組としてして二つの組があり、割と呼ばれる33の区画に分けられていました。各区画は番号で識別され「〇番割」として称され、堀川寄りの東組から西に向け附番されていました。この新田を33に分け「番割」と呼び、それぞれに氏神が祀られ、番割観音と呼ばれる西国三十三ヵ所になぞらえて観音堂も祀られました。当時の番割は、現在も一部に6番町や10番町などの町名として名残を残しています。熱田区内には1番から9番までの番割観音が現存しているそうで、熱田社の右隣に鎮座する慈教寺には2番、3番の番割観音がありました。ここ一番割の番割観音堂は白鳥橋から少し西の杜の中に鎮座しています。八剱社もこの一番割の守護神として祀られてきたようです。境内に入った右側立つ手水舎。平成3年(1991)に手入れが行われたばかりで、伽藍全体に目立った傷みはなく、境内も綺麗に手入れされており、気持ちよく参拝することができます。ニノ鳥居から眺める境内は、周囲に低層住宅が立ち並ぶ立地にあるため、鬱蒼とした杜は見当たりませんが、複数の桜が植えられているので、境内をピンクに染めるのも間もなくでは。拝殿の右奥に境内社が纏められているようです。拝殿は入母屋瓦葺きで、四方が吹き抜けになっています。柱を斜めから支える太い添木があることで、全体的に安定感のある印象を与えます。拝殿から本殿の眺め。本殿前には一対の狛犬が安置されています。しかしながら、社殿域は全周を玉垣で囲まれており、間近で見ることができません。滑らかな曲線で、しっかりと彫り込まれた毛並みを持つ狛犬。昭和4年(1929)に寄進年されたものでした。神明造の本殿の棟には、5本の鰹木が施され、千木は水平方向にスパッと切られた内削ぎが施されています。「鰹木が奇数本の場合は男神、内削ぎ千木が施された場合は女神を祀る場合が多い」と良く耳にします。この八剣社の場合はどう判断するのか悩ましいところ。棟を飾る鰹木や千木は個人的に、ユニセックスなデザインの一例として捉えるように意識しています。境内社と本殿。板宮造りの二つの社が整然と祀られています。境内末社の秋葉社、知立神社。社名札が見当たらず、よく分からず、由緒にある境外末社の天王社も探していますが所在が掴めない。本殿左に忠魂碑。社殿全景。広々とした明るい境内は、一番町公園の一部と言っても過言ではなく、境内を通って公園に向かう親子の姿も見られる身近な存在の神社です。今年は久し振りに腰を据えて花見が楽しめそうです。悲しいかな花粉症になってしまったのか、マスクは手放せなくなってしまったようだ。一番町 八剱社創建 / 文化14年(1813)祭神 / 日本武尊境内社 / 秋葉社、知立神社境外社 / 天王社所在地 / 名古屋市熱田区一番2-27-9参拝日 / 2023/02/12熱田社から八剱社 / 徒歩5~6分程関連記事 / 熱田社(名古屋市熱田区二番)
2023.03.21
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八大龍王。先に記載した岩崎御嶽社散策の際、御嶽社に向かうあじさい遊歩道沿いで八大龍王を見かけ立ち寄ってみました。写真は県道57号線の弁天池交差点から山側に折れ、すぐ先の右側に続く上り坂を進んだ先にある参拝者駐車場から遊歩道の眺め。遊歩道とは言うものの、車も通行するので迂闊に車道は歩けない。駐車場脇にある案内図。余りにもデフォルメされており、よく分からない。案内図の駐車場を〇で、八大龍王の概ねの位置を⇩矢印で表しておきます。写真データから所要時間を見ると駐車場から八大龍王までは約7分ですが、あちらこちらと見て廻っているので実際は5分もかからないと思います。上に続く歩道沿いの左右には、それこそ無数の霊神碑が立ち並び、歩道脇のみならず細い小路が設けられ、こうした霊神碑や小さな社などが杜の奥まで祀られているようで、なかなか立ち入り辛いものがあります。遊歩道沿いの「八大龍王」社標(1957)。数多くの霊神碑や社がある中で、こちらに魅かれたのは守山区に鎮座する八龍神社のように、こうした場所で立派な龍に出会える事もあり、それを期待していたのかもしれない。歩道から八大龍王を眺めると、この時期の杜は草木も冬枯れ比較的明るいので石段を下りて杜に踏み込むことにさほど躊躇いはないが、樹々が生い茂る真夏には度胸がいるかもしれない。石段を下りると、境内右側に小さな池があり、片隅に石標が立てられています。龍は水を司ると言われるだけに、龍神が鎮まる場所としては相応しい雰囲気があります。八大龍王は、天龍八部衆に所属する龍族の八王。法華経に登場し、仏法を守護する難陀、跋難陀、娑伽羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の8首の龍族の族長が祀られ、龍は水を司る事で知られますが、他にも商売繁盛や五穀豊穣など様々な御利益があるとされます。台座には雲または水面が刻まれ、その上にとぐろを巻いた龍が彫られています。自分は蛇が生理的に受け入れにくいのですが、龍には抵抗がないのは不思議なことです。龍に視線を向けている間は問題ありませんが、視線を下げるととぐろを巻いた蛇がいるのです。石であっても、こうした場所であまり出逢いたくないものです。八大龍王(岩崎御嶽社)創建 / 不明祭神 / 八大龍王所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山参拝日 / 2023/03/07参拝者駐車場から八大龍王 / 徒歩約5分関連記事 / 岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社、『八龍神社』名古屋市守山区大森八龍
2023.03.20
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建長寺。神奈川県鎌倉市山ノ内に鎮座する臨済宗建長寺派の大本山の寺院で、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の5つの寺院を鎌倉五山と称し、建長寺はその鎌倉五山の一位に列格される寺院。前回掲載した円覚寺は鎌倉五山第二位に列格する。円覚寺から建長寺へは県道21号線沿いに鶴岡八幡宮方向へ徒歩15分ほど。上は県道21号線沿いに大きな建長寺寺号標と「天下門」が現れます。建長寺にはこの天下門の他に総門、三門の門を構えています。この天下門は総門前の駐車場入口を兼ねており、写真を撮るにしても車の往来が多く注意が必要。この天下門は現在はこの門だけですが、往古は東西に二つの門を構えていたそうですが、関東大震災で被災倒壊、昭和になってこの西門だけが再建されたようです。東門の痕跡は見られませんが、西門を通り過ぎた先にぽっかりと総門に続く間口が見られます。下は建長寺境内マップ。伽藍は円覚寺と同様の配置で総門、三門、仏殿、法殿、方丈と一直線に続きます。周囲には塔頭寺院が点在し最深部の半僧坊に至ります。境内は天園ハイキングコースの一部でハイキングで通行する際にも拝観料が必要。建長寺総門。江戸時代の天明3年(1783)に京都般舟三味院に建立されたもので、昭和15年(1940)に移築されたもの。総門に掲げられた「巨福山」の山号額は中国の僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第10世)の揮毫。「巨福山」は大きな福をもたらす寺の意味が込められているという。建長寺は正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)と称し、鎌倉時代の建長5年(1253)の創建とされる。開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆(大覚禅師)で本尊は地蔵菩薩。当初は多宝塔のある伽藍だったとされ、正応6年(1293)の鎌倉大地震で大半が倒壊、炎上。正和4年(1315)、応永23年(1416)等火災に見舞われ創建当初の建物は残っておらず都度再建された、さらに関東大震災でも被災し、その後修復された姿が健在のもの。三門。造りや外観は円覚寺三門と同様のもので、上層の唐破風の下に「建長興国禅寺」の大きな扁額が掛けられている。上層内部は非公開ですが宝冠釈迦如来像を始め、十六羅漢像、五百羅漢像などが安置されているという。三門とは三解脱門の略で、空・無相・撫作を表し、この三門をくぐることで、あらゆる執着から解き放たれる事を意味する。現在の門は安永4年(1775)に万拙硯誼和尚らにより再建された三間二重門で、この作りとしては東日本最大の規模を誇ると云われます。現在の屋根は銅葺屋根ですが当初は杮葺きだったようです。創建当初、三門と後方にある仏殿の間には、参道を挟んで座禅堂や食堂があったようです。現在この空間にはビャクシンの古木7本が植えられており、建長寺開山で南宋から渡来した蘭渓道隆の手植えと伝えられる。仏殿。寄棟造の二層構造に見えますが、内部は一層で、一層の屋根は裳階で中央に唐破風が設けられています。仏殿前の香炉の笠の宝珠や脚には細かな意匠が施されていた。正保4年(1647)に芝の増上寺の徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋をこちらに移築したもの。内部に本尊の地蔵菩薩が安置されている。仏殿内。中央に本尊の地蔵菩薩と格子天井には鳳凰らしき絵が一面に描かれ、壁面や梁、天蓋など緻密な透彫りや彫が施され内部の見所が多い、しかし内外ともに漆塗りの剥離や彩色の脱色が目立ち修復が必要な時期に来ている。徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋を移築し仏殿としただけに、色褪せていますが当時は内部、外部共に煌びやかなものだったのが窺われます。中央の地蔵菩薩坐像は中国・南宋彫刻の影響を受けた作風で、創建当時(1253)のものか、永仁元年(1293)の鎌倉大地震火災後の制作か定かではないようです。また、地蔵菩薩坐像の左右の仏壇は、創建当初独立した建物だったとされる土地堂に相当するもので、ここには五体の伽藍神が安置されています。五体が全て揃って残っているのは珍しいと云われ国の重要文化財に指定されています。蘭渓道隆の手植えと伝えられるビャクシンの古木、樹齢750年以上ともされる。後方の三門と比較しても遜色のない樹高とうねる様な樹皮は見事なものがある。法堂。現在の建物は、文化11年(1814)に再建されたもので、入母屋二重屋根で銅板葺の関東最大の法堂。昔は建長寺全体が修行道場で、山内にいる僧侶全員がこの法堂に集まり、住持の説法を聞き修行の眼目としました。往時には388人の僧侶がいた記録も残り、ここに参集したそうですが、現在の修行道場は西来庵に機能を移され雲水達はそこで修業しており、現在の法堂は法要・講演・展覧会などに使われているようです。掲げられている「海東法窟」の額は、かつて東外門に架けられていたもの。法堂の見所ともいえる釈迦苦行像と雲竜図の解説。法堂内の本尊・千手観音像と雲竜図。右手の釈迦苦行像はパキスタンのラホール中央博物館に安置されている像のレプリカで、愛知万博の際に陳列されていたものが当寺に寄進されたもの。法堂内部は本尊の千手観音と建長寺創建750年を記念し天井に描かれた雲竜図が見応えがある。球を握る龍の指を見比べると、こちらは5本指、円覚寺の龍は3本と違いがある。因みに焼失前の首里城の龍は4本、元々五本指の龍は中国皇帝のみ用いる事を許されたものらしいが、日本に伝来する過程で変容していったようです。円覚寺の天井画も素晴らしかったが、個人的にはこちらの雲竜図がお気に入り。方丈と唐門。法堂後方に位置する方丈、桃山風の向唐破風の四脚門で、黒漆と煌びやかな金色の飾り金具が強烈な存在感を示している。寛永5年(1628)東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋の門として建てられたもの。政保4年(1647)に仏殿、西来庵の中門と共に建長寺に移築され、方丈の正門として使用されている。平成23年(2010)に解体修理が施されたこともあり一層輝きを増している。方丈と庭園側から見る唐門。方丈とは本来住持が居住する建物で、現在は法要・座禅・研修の場として使用されます。創建当初の建物は寛永18年(1641)に再建されたが、関東大震災で倒壊し、現在の建物は総門同様に京都般舟三味院から昭和15年(1940)に移築されたもので、享保17年(1732)に皇室の位牌を安置する目的で建立されたものという。方丈内の額には「龍王殿」とある。縁側伝いに建物を一回りでき、後方の方丈庭園も眺めることが出来る。天源院。方丈の左側を奥に進んだ場所にある建長寺の境内塔頭寺院の一つ。趣のある参道に導かれ進んできたものの、残念ながら一般の拝観は許されていないようです。正当院。天源院の更に奥にあり、こちらも建長寺の境内塔頭寺院の一つ。杉木立に囲まれた石畳の参道は趣があるものの、こちらも一般の拝観は許されていないようです。ここから最深部の半僧坊に向かいます。半僧坊の社頭には、狛犬が守る長い石畳の参道が一直線に続き、遥か先には一ノ鳥から三ノ鳥居が視界に入ります。三ノ鳥居の先に社殿があるように思いがちですが、それは大きな間違いです。実は、半僧坊はこの先の山の頂に向けて続く長い石段を上り詰めた先にあるのです。途中の参道脇の山肌には、いくつもの穴が開けられ、墓石や供養塔が建てられています。鎌倉は基本的に平地が少ないため、こうした場所に墓所を作ることが多かったようです。三ノ鳥居をくぐっても、その先には社殿はありません。代わりに、左右に折れ曲がりながら標高を上げていく石段が続いています。上を仰ぎ見ると、半僧坊にたどり着くまでにはまだまだ先は長く、途中には複数の天狗の姿が見られます。社殿の直下には古びた狛犬が守っており、その先には手水舎があります。手水舎の右手には、社殿に続く最後の石段が伸びています。正面には小さな門が見えます。最後の石段を上り切れば、やっと半僧坊の社殿にたどり着きます。ここまで上り切った参拝者を労うかのように、穏やかな表情をした狛犬が出迎えてくれます。半僧坊の創建は明治23年と意外に新しく。当時の建長寺住職・霄貫道がお告げにより静岡県の方広寺より奥山半僧坊大権現を勧請し、建長寺の鎮守として、最も景色の良いこの場所に社殿を築いたのが始まりとされます。方広寺は後醍醐天皇の子、無文元選禅師が開いた寺院で、奥山半僧坊権現の根源とされます。禅師は南北朝時代に中国の元に渡り、各地を巡って参禅を行い、日本への帰国の途中に航海中に台風に遭遇しました。荒波に飲み込まれそうな船倉で観音経を唱えていた禅師の前に、奥山半僧坊権現が現れ、禅師を守護したとされています。半僧坊の右手から更に上に鎮座する勝上巘地蔵堂。建長寺後方のこの山は「勝上巘」と呼ばれ、半僧坊が建立される以前から半僧坊社殿の場所に鎮座しており、半僧坊建立に合わせこの場所に移されたものとされます。島木だけのシンプルな鳥居の先のこの石段だけは登ってみました。方型の小さな堂の内部には勝上巘地蔵が祀られ、名の由来は勝上巘から来ているようです。全身金色で右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、円光背を持つもので、鎌倉二十四地蔵尊霊場の第十一番札所になっています。参道は左手に続き天園ハイキングコースとして更に上へ伸びていますがこれ以上は無理です。ここからの眺めで満足し下山する事にします。社殿下の門から先に進むと、右手の岩肌に大団扇が刻まれています、こうした大団扇は参道沿いで他にも見ることが出来ます。天気が良ければ、ここから富士山を眺めることができるようで、その日はあいにく霞がかかっており、遠くまで見通せませんでした。多くの天狗に見守られる建長寺、ここまでの道のりはきつかった。ここまで上れば南に相模湾と鎌倉市街地、西方向は運が良ければ富士山も拝めると言います。左の山を越えれば次の目的地「鶴岡八幡宮」も近い、頑張って下って行こう。建長寺三門の左に鳥居を構える正一位巨福稲荷社。鳥居から社殿までの距離は石段を上り始めると見える距離なので安心してください。社頭は特徴のある塩ビパイプ製の鳥居を構えています。詳細は定かではなく、webでは、建長寺の守護を目的として祀られ、左の石灯籠や以前の鳥居は天明7年(1787)寄進とされますがよく分からなかった。三門の右に薬医門があります。額に嵩山とある建長寺道場で一般の拝観は許されていないようです。山門右の茅葺屋根の鐘楼。北条時頼の発願により広く施主を募り、建長7年(1255)1255に鋳造された梵鐘は重量が2.7㌧あり、国宝に指定されるもので今も現役。この右手にもう一枚解説があり、夏目漱石は「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」と読んだそうで、その句を基にして松岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」につながったという。広大な伽藍を持つ建長寺。塔頭寺院も多く一回で掲載しきれていないものもありますが、この鐘楼を見て建長寺を後にすることにします。建長寺開山 / 蘭渓道隆開基 / 北条時頼創建 / 建長5年(1253)山号 / 巨福山宗旨・宗派 / 臨済宗建長寺派本尊 / 地蔵菩薩所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内8参拝日 / 2023/01/17円覚寺から建長寺徒歩ルート / 県道21号線を南下15分弱関連記事 / ・神奈川県一之宮巡りday1(鎌倉円覚寺・建長寺・鶴岡八幡宮)・鎌倉『臨済宗大本山円覚寺』
2023.03.16
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前回掲載した社名不明社(熱田神社)と無縁地蔵菩薩から東に向かい、江川線を越え国道1号線方向に進む事15分弱。白鳥西公園の南にある熱田社が今回の目的地です。公園と境内を区切るものはなく、公園で遊ぶ子供たちにとって熱田社の境内は遊び場の一部になっているようです。公園の北側から神社の杜を眺めると、市街地にあるにもかかわらず、そびえ立つ木々の大きさに驚かされます。その杜の中には、神明造りの本殿と境内社が妨げるものなく見通せます。熱田社社頭。国道1号線に架かる2番歩道橋の少し東側の国道に面し社頭を構えています。社頭の左側には「熱田社」の社標と常夜灯があり、参道を進んで少し先に神明鳥居があります。その先には社殿が鎮座しています。参道左の手水舎。控え柱が付いた安定感のあるものですが、手水鉢に龍の姿は見られなかった。上は大正9年(1920)の白鳥橋周辺、熱田社は赤で示した位置になります。堀川から西にかけて広がる旧熱田新田は堀川寄りから東組、更に西は西組としてして二つの組があり、割と呼ばれる33の区画に分けられていました。各区画は番号で識別され「〇番割」として称され、堀川寄りの東組から西に向け附番されていました。現在でも一部に6番町や10番町などの町名が当時の名残を残しています。熱田社の鎮座する辺りは二・三番割に位置し、大正当時の地図にも鳥居の印が見られます。境内に由緒書きが見当たらず創建等の詳細は定かではなく、「明治初年の勧請、祭神は日本武尊、昭和4年社殿が改修」というのがWebで見られる内容でした。少し調べてみると、尾張徇行記に以下のような記録があることが分かりました。この地史は、樋口好古により1792年から1822年にかけて尾張藩の尾張国や尾張藩領などを視察した際に、村の沿革や隣村との境界、人口、租税額、寺社の除税地、河川、水路、橋梁などを記したもので、Web上でも閲覧することができます。それによると熱田社の起源は慶安3年(1650)の三十番神から始まったようです。熱田新田の開発が正保4年(1647)に始まり、慶安4年(1651)に完成したとされており、新田開発に当初に三十番神が創建されたと考えられます。また、尾張徇行記編纂当時には、熱田社の境内には天王社や神明社なども祀られていたようです。三十番神とは陰暦の1日から30日までの毎日を交替し、法華経を守る神を三十番神といい、その神々を祀った社だといわれています。市内では千種区の茶屋ヶ坂交差点に祀られています、関連記事にリンクを貼っておきます。熱田社境内全景を見ると、左側に拝殿、本殿があり、その右側と左側には境内社が祀られていることが分かります。また、公園から見えていた巨木は御神木のクロガネモチで、保存樹に指定されているそうです。樹齢は定かではないですが、幹の太さや枝振りのいい姿は存在感があり、町のランドマーク的な存在だろう。拝殿全景。入母屋瓦葺の妻入りで四方吹き抜けもの。鬼や軒丸瓦に五三の桐紋が入る。拝殿から本殿方向の眺め、本殿前は一対の狛犬が守護しています。狛犬のウエーブのかかった毛並みは、とても優雅な印象を受けます。本殿は神明造で6本の鰹木に内削ぎの千木が付き、よく言われる女神をお祀りする事になります。……日本武尊が祭神。本殿左の社務所脇に神明鳥居を構えた日本龍神が鎮座する。鳥居(1988年)から境内の眺め。参道右側に置かれた岩の窪みには大黒さまと恵比寿さまが安置されていました。岩を組んだ基壇の上に板宮造りの小さな社が建てられ、右手の岩には由緒が刻まれています。詳細は良く読み取れなかったが、日本武尊の蝦夷征伐、熱田皇大神宮の文字が見え、不可思議な事象が起りそれを鎮めるために祀られたような文脈が見えます。そういえば熱田神宮には龍神社があり、そちらと結び付きがあるのかもしれません。…ん?、これは布袋さん大黒さん、この境内に他にも安置されているのかも。拝殿右から境内社の眺め。左の天王社と右の秋葉社。尾張徇行記に記されている天王社はこの事を指しているのかも知れません。記載されていた神明社の行方がどうなったのか、熱田社本殿の千木と鰹木の数が気になってくる。右の秋葉社の情報には出逢えなかった。境内東から境内社、本殿の眺め。境内から南側の拝殿、社頭の眺め。クロガネモチの聳える静かな境内を後に、多くの車両が往来する国道1号線に出て、次の目的地である白鳥橋方向に向かいます。熱田社創建 / 不明祭神 / 不明(日本武尊とされる)境内社 / 日本龍神、天王社、秋葉社所在地 / 名古屋市熱田区二番1-11-16参拝日 / 2023/02/12無縁地蔵菩薩から徒歩ルート / 江川線を越え国道1号線方向に進む事15分弱。関連記事 / 社名不明社(熱田神社)と無縁地蔵菩薩、山口街道と民俗史跡めぐり 1 三十番神社
2023.03.15
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風もなく温かい陽射しに誘われ、名古屋中心部から車で50分程の日進市の岩崎御嶽山と近くの相野山八幡神社に出かけてきました。今回はその時の様子を掲載します。東名日進JCTの西側にある岩崎御嶽山は、かつては広大な田畑が広がっていましたが、近年の急速な宅地化により、その勢いは山の西側まで迫っています。標高131mの岩崎御嶽山には、森の中に散策路が設けられており、樹々が芽吹きを迎える季節には、森林浴を楽しみながらの散策も気持ちが良いでしょう。山のほゞ全体が岩崎御嶽社の境内で、岩崎御嶽社、中之院、少し離れた住宅の立ち並ぶ高台の頂には奥之院が鎮座し、それらを巡るだけでも約3.3km約50分の散策が楽しめます。ただ、イノシシ、マムシ注意の看板があり、注意のしようはないけれど意識だけは持っていた方がよさそうです。県道57号線の弁天池交差点を山側に進み、右側の上り坂を進むと参拝者用の駐車場がありますので、そちらに駐車すると便利です。駐車場は岩崎御嶽社にもありますが、中之院、奥之院共に駐車場はありません。特に奥之院周辺は生活道路のため路駐は出来ません。歩いて周回するなら、ここか山の頂にある岩崎御嶽社駐車場のどこに停めても一緒かな。ここから頂を目指しこの坂を上っていきます。御嶽社は、霊峰御嶽山をご神体とする山岳宗教で、信仰される人々は死後は霊峰御嶽に帰っていくとされます。そのため、先祖とのつながりの場として御嶽社に霊神碑が建てられます、なので霊神碑はお墓とは違うものです。この道沿いには無数の霊神碑が立ち並んでおり、あたかも霊峰御嶽に訪れたかのようです。ここから北に位置する長久手市役所付近の岩作御嶽山の御嶽社と岩崎御嶽社は規模の大きなものです。岩崎御嶽社駐車場所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山車の往来がある道沿いを歩いて行くと道路左下に八大龍神が祀られており、石造の龍が祀られています。更に進み、前方が開けてくればそこが岩崎御嶽社。上はその手前にある弘徳天満宮。ここから右に進むと岩崎御嶽社の駐車場へ続きます、まずはそちらに向け歩いて行きます。広大な岩崎御嶽社駐車場の脇に鎮座する三笠山神社。駐車場には、一際目を引くコンクリート像が設置されています。浅野祥雲作の弘法大師像で彼の手によるものは全国でも見られますが、この辺りでは犬山の桃太郎神社やここから少し東の五色園でも多数見ることができます。ここから更に先に進みます。ふれあいの森平成展望台。ここから西を望むと名古屋中心部のビル群などの眺望が望めますが、展望台は狭く周囲の樹々が遮り意外に開けていない印象があった。平成展望台所在地 / 日進市岩崎町元井ゲ17-93さて駐車場方向に戻り岩崎御嶽社に向かいます。社頭全景。岩崎御嶽山のほゞ山頂に鎮座しその始まりは、万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされる神社で大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社。鳥居から続く石段の両脇には、無数の霊神碑や岩崎御嶽山八十八ヶ所霊場があり、こうした不動明王像が立ち並んでいます。石段を上り詰めた先の社殿。左に穴不動の案内板があります、徒歩1~2分程で山肌に穴が作られ、その奥に不動尊像が祀られた「お助け穴不動」に至ります。拝殿で参拝さてもらい、中之院に向かいます。本殿の千木鰹木。軒丸瓦などには山丸三の紋が入ります、山は霊峰御嶽、○は宇宙を現し、中の三本の線は上から不動明王、中央が大日如来、下が摩利支天を示しているとされます。本殿後方。グーグル先生の誘導がラフで本殿後方から中之院へ続く道が先に伸びている様に見えますが、本殿の先は行き止まり。周囲には霊神碑に続く小路が多く、しばらく道が見つけられませんでしたが、中之院に続く道はこの絵で云えば、本殿の左下(正面からだと右)に奥に続く道が伸びておりそちらが正しいルートでした。岩崎御嶽社所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山本殿の南側から中之院へ続く道。道を進んでいきしばらくするとやがて下りになり、道は左方向に続きます。坂を下ると民家が視界に入ってきて、道は左右に分かれるので右に進みます。拝殿からここまでの所要時間は10分弱。中之院はここから5分弱くらいです。中之院全景。岩崎御嶽社 中之院所在地 / 日進市岩崎町四ツ池ここから再び来た道を戻り、先ほどの分岐を直進し奥之院へ。奥之院へは三ツ池を左に見ながら住宅が立ち並ぶ右手の小高い高台の頂を目指します。ほゞ円錐形の高台に周回するように道路が続き、直登出来ないので長い上り坂が続きます。その道すがらで見つけた枝垂れ梅。甘い香りを漂わせ、陽光に照らされたピンクの花は、春を感じさせる温もりのある色合いでした。奥之院参道口。正面に見えているのが岩崎御嶽山、周囲は傾斜地に住宅が立ち並び別荘地の趣がある。見晴らしもよく住みやすそうに思えるが、下からここまでは坂ばかりで車は必需品かもしれない。分岐から15分弱で岩崎御嶽社奥之院到着。ここの坂を毎日上る生活を送っていれば、自然に足腰が鍛えられそうですね。我家も高台の頂にあり、どこへ行くにも坂しかなく、昔から付き合いのあるご近所さんも高齢化すると「歳をとって坂がきつくなったので、下に降りる」と言い残し、平地に移住していく人も増えています。若い頃は気にもしなかった坂も、最近ではその言葉を身をもって感じるようになってきました。奥之院付近から北方向を眺めるとモリコロパークも間近に望める眺望が広がります。岩崎御嶽社 奥之院所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山岩崎御嶽社駐車場から徒歩周回ルート / 約3.3km約50分以上が岩崎御嶽社散策で写真を撮ったりしていたのでスタートから2時間ほどの所要時間でした。折角ここまで来たので少し南に鎮座する相野山八幡神社を訪れました。岩崎御嶽社から東名を越え、日進ジャンクションを望む田畑の広がる一画に相野山八幡神社は鎮座します。相野山八幡神社社叢全景。この陽気につられ、土筆も頭を出しているのではと思いましたが、残念ながら見つけることができませんでした。相野山八幡神社社頭。社頭から境内に続く参道。「出没注意」だそうだ、参道の先に社殿が…であればいいけれど、「視界が広がりその先にイノシシが」だけは勘弁してもらいたい。名古屋市内でも出没するだけに何ら不自然でもないのだが、いるようです。周囲を見渡したくもなるが幸いいない。視界は広がり、広い境内の正面に社殿が見える。慶安元年(1652)、北新田開墾のため三河各地から9軒の入植者により開かれ、入住10年後の明暦3年(1657)に須賀郡寺部より勧請されたもので、岩藤新田も氏子となり両新田の氏神として現在に至る。往古は例祭で馬塔、棒の手を奉納していたようです。明治5年(1872)に村社に列格、社殿は昭和37年に境内北の現在地に遷し今日に至るようです。檜皮葺き流造の本殿には応神天皇をお祀りする。相野山 八幡神社所在地 / 日進市北新町相野山1286岩崎御嶽社から八幡神社車移動 / 東へ10分程さて陽も随分と傾いて来た、そろそろ家路に着く事にする。車アクセス / 名古屋市役所から東へ約1時間参拝日 / 2023/03/07
2023.03.14
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大山祇神社・白龍稲荷神社。鳥羽を見下ろす鳥羽城跡、その西山麗に鎮座するのが大山祇神社・白龍稲荷神社。城山公園から西に下ってくと境内に出ることもできます。訪れたのは昨年の12月15日、折しもこの時期の境内は落葉したイチョウの葉が境内を黄一色に染め美しい光景を見せていた。社頭は鳥羽城址の西山麗にあり、冒頭書いたように城山公園からも境内に辿り着ける。写真は社頭の石の神明鳥居、ここから緩やかな石段が境内に続きます。境内全景。境内は右から大漁稲荷大明神、不明社、左の覆殿が大山祇神社の伽藍。写真は境内右の城山公園に続く石段、左は神輿庫のようで、こちらの祭礼で使用する獅子が保管されているようです。手水舎は境内右にあり、小さな龍もいる。ニノ鳥居から社殿全景。石段前で神社を守護する狛犬は個性的なフォルムのものです。全体的に丸いフォルムで尾や鬣の造形はボリュームのあるもの。寄進年度は見忘れましたが、表面は随分風化が見られ貫禄すら感じさせる佇まいの狛犬です。覆殿。比較的最近建替えられているのでしょう、傷みもなく綺麗な外観です。内部に架けられている額は「大山祇神社」大山祇神社の前身は178年前「社宮司」に遡るようで神社には当時の扁額が残るそうです。三重県神社庁による「大山祇神社」の由緒は以下。「文禄3年(1594)約四百有余年前、九鬼嘉隆が築城の際、石垣が何度も崩れたので、元城山に斎祀されていた大山祇神を現在地に移したら石垣も崩れず鳥羽城(二色城)が出来上がったとの申し伝えがある。古文書、記録等はおよそ慶長年間(1600年頃)の神社の大火の際に消失されたものといわれている。明治6年3月に村社に定められ、同39年12月神饌、幣帛、供進指定社となる。」とあります、また大山祇神社には鎌倉時代から伝わる木彫りの小さな狛犬があるという事なので創建は更に遡る事になります。祭神は大山祇神、草野姫命、猿田彦命の三神をお祀りするようです。更には下のようにも記されていた。「大山祇神社は瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山積神社の末社である。氏子は旧鳥羽町の九町の内、中之郷、錦町、横町、藤の郷の四町の氏神様であり、例祭はこの四町が輪番で、各町4年に一度、当番町として奉仕している。四町の内、中之郷、横町、藤之郷が「獅子と天狗の舞」を奉納し、錦町は「神輿練りこみ」を神祭とし社前に奉納し、各町内を巡行する。氏子、町内の祭りとしてだけでなく「鳥羽まつり」として多くの人で賑わっている」とも書かれており、鳥羽町内から親しまれる神社の様です。上は鳥羽城絵図で、当時の城はほゞ全周を海が取り囲む海城だったようで、神社は天守のあった頂上付近に鎮座していたとされます、正面に描かれている島は答志島。文禄3年(1594)九鬼嘉隆が鳥羽城築城の際に天守から左斜め下辺りに神社を遷座したとされ、しかし築城は石垣が何度も崩れるなど難航したと伝わります。町民が「獅子と天狗の舞」を奉納した所、無事に城が完成したと伝わり、以来400年以上を経ても奉納の春祭りは受け継がれているそうです。覆殿から本殿の眺めは高い玉垣に囲われ姿を見る事は出来なかった。覆殿左に伊勢神宮遥拝所。左の石灯籠の寄進年は明治5年(1872)と刻まれています。境内右の大漁稲荷大明神から大山祇神社方向の眺め。令和2年(2020)新たに建替えられた事もあり社殿の飾り金具はピカピカ光り輝いている。大漁稲荷大明神について調べて見ましたが詳細は分かりませんでした。中央の不明社。こちらも社名札がなく詳細は分からなかった。桜の花が咲くのも間もなくか。大山祇神社・大漁稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 大山祇神、草野姫命、猿田彦命例大祭 / 4月11日境内社 / 大漁稲荷大明神、不明社参拝日 / 2022/12/15所在地 / 三重県鳥羽市鳥羽3-4-15関連記事 / 幼い頃の桑名の記憶を辿り、的矢の牡蠣を味わう一泊二日、「伊予の國一ノ宮 大山祇神社」
2023.03.11
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円覚寺。大河も終わったし、春節前なら比較的空いているのでは、そんな目論見で鎌倉の寺社を訪れた。湘南新宿ライン横須賀線「北鎌倉駅」円覚寺へは駅から徒歩2~3分の静かな鎌倉の町に総門を構えています。南は相模湾に面し、三方を山に囲まれた鎌倉は、その山々いくつもの谷筋があり、「谷戸」と呼ばれ、こうした谷に人々は生活を営んでいました、そうした立地が防衛的に有利とされ、頼朝はここに鎌倉幕府を置いたされます。総門。左右に「臨済宗大本山円覚寺」の寺標と「北条時宗公御廟所」の石標が建ち、石段の先に総門が聳えています。総門から境内の眺め。総門をくぐった境内は、左が拝観受付、右が駐車場になっており、正面には再び石段が現れ、目の前の山門に続く。鎮座地は六国見山南西の麓に位置し、山名から分かるように六つの國(相模、武蔵、伊豆、上総、下総、安房)を見渡せるという。境内はこの総門、山門、弁天堂などへは石段を昇る必要がありますが、主な伽藍の山門から方丈にかけては比較的平坦な参道が続いています。総門に掲げられる山号額は「瑞鹿山」瑞鹿山の由来は仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まってきたという逸話からつけられたといわれます。石段から見上げる山門。こうして見る山門は天明5年(1785)に再建されたもの。門は桁行(棟側)三間(柱間)、梁行(妻側)二間の入母屋二層で、柱だけの吹き抜け。楼上は非公開の十一面観音、十二神将、十六羅漢が祀られていると言います。正面の軒に唐破風が施され、「円覚興聖禅寺」の扁額の文字は伏見上皇の勅筆によるものとされます。三門から石畳みの参道を先に進むと見えているのが仏殿。本尊の宝冠釈迦如来を祀る建物で、現在の姿は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊後、昭和39年(1964)に再建されたもの。参道左の柏槇の古木は市の天然記念物という。仏殿の扁額は後光厳天皇(1338~1374)勅筆とされる「火光明宝殿」の額が掛かる。堂内には宝冠を被った宝冠釈迦如来像が安置されている。天井を見上げると、再建後に描かれた白龍図の天井画がこちらを見据えている。倒壊前の仏殿に描かれていたのかは分からない。選仏場。仏殿の左に建つ茅葺きの寄棟、屋根の上に箱棟を持つ建物で、名が示す様に仏を選び出す場所という意味を持つ修行僧の坐禅道場のこと。創建当初の建物は、建武2年()の境内絵図によれば、山門と仏殿の間の左側に裳階付きの大建築として描かれていると言う。しかし永禄6年の大火で焼失、現在の建物は元禄12年(1699)に伊勢長島城主松平忠充が、江戸の月桂寺・徳雲寺住職一睡碩秀の薦めにより、大蔵経を寄進しそれを所蔵する場所と禅堂を兼ねて建立されたもの。内部には南北朝時代の薬師如来像が中央に祀られる他、平成15年(2003)には円覚寺百観音霊場の一番として、大慈大悲観世音菩薩像が安置されています。堂内の仏像。中央が南北朝時代のものとされる薬師如来像。右は大慈大悲観世音菩薩像。左は解説には記されていなかったが不動明王座像の三体が安置されていた。仏殿から先に進み方丈方向へ向かうと、正面に見えるのが勅使門。天保10年(1839)に建立された唐破風門で梁の蟇股や木鼻には手の込んだ彫が施されています。扉には見事な龍の透彫りが施されています。上が方丈側から門を見て右側、下が左側のもので、下に波濤、上に雲が描かれ中央に躍動感あふれる龍が施されています。大方丈。この方丈前の庭園にも仏殿前で見かけた柏槇の古木が聳え、市の天然記念物に指定を受けています。訪れた当日は、膨らみ始めていた梅の蕾が一部花開き、春の訪れを告げていました。方丈の額。方丈の裏には心字池を中心とした庭園がありますが、この時期は彩りには寂しいものがあります。方丈から少し先に進んだ左にある舎利殿。山門の額には「萬年山」とある。舎利殿には、「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られています。源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものとされ、鎌倉にあった太平寺の仏殿を移築したもの。この先に入母屋杮葺きで裳階の付く国宝舎利殿がある。無学祖元禅師をお祀りした開山堂と共に円覚寺随一の幽邃の地とされ、特別拝観期間以外は修行の場故に拝観が規制されている。佛日庵 円覚寺開基廟。開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である鎌倉幕府8代執権・北條時宗、その子で鎌倉幕府の9代執権・貞時、孫の鎌倉幕府の14代執権・高時が祀られている。時宗は、この場所に庵を結び、禅の修行に没頭し精神鍛錬に励んだと伝えられる。弘安7年(1284)に時宗が亡くなると、その庵の場所に遺体を安置し、お堂を建て開基廟とされた。現在の建物は江戸時代の文化8年(1811)に改築された茅葺きの寄棟、屋根の上に箱棟がのるもの。選仏場同様の作りです。白鹿洞。開基廟から僅かばかり上に進んだ右側に、岩壁に小さな穴が開いています。無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まったという逸話の場所、白鹿洞と名付けられています。ここから白鹿達が続々と集まって来たんだね。紅梅院。円覚寺塔頭寺院の一つで円覚寺境内の最も奥に鎮座します。黄梅院は文和3年(1354)に夢窓疎石の塔所として方外宏遠により開創され、応安元年(1368)には室町幕府2代将軍・足利義詮の遺骨が分骨されていると言う。境内左に千手観音菩薩を本尊とする本堂があり、こぢんまりとした美しい庭園があります。山門の山号額は「伝衣山」とある。庭園の奥に建つ観音堂。この時期の庭園には、白い綿のような花を付けた樹や、椿、水仙など枯れた冬景色に僅かばかりの彩りを与えてくれていた。堂内の聖観世音菩薩像。所々に花が生けられた黄梅院庭園。如意庵。円覚寺塔頭寺院の一つで、山門から右に向かった円覚寺境内に鎮座する寺院。山門から先は一般に公開されていないようです。門から境内の眺め、山門の額には「如意」とある。開基は応安3年(1370)頃に上杉憲顕より開創されたと云われ、無礙妙謙の死後に無礙妙謙の塔所として開創されたとされ、本尊は宝冠釈迦如来を祀るそうです。弁天堂。山門と仏殿の間から右に進んだところに弁天堂の社頭があり、上に向かって石段が続きます。この石段の先に国宝の洪鐘があります。長い石段を上り詰めた先に山の斜面を切り開き境内が作られ、寄棟瓦葺で向拝を持つ弁天堂が鎮座する。向拝下の扁額は「大弁財天」とある。江ノ島弁財天の加護によって洪鐘の鋳造が完成したと伝えられ、その弁財天を祀るお堂で、北条貞時が洪鐘とあわせてここに弁天堂を建立し、当山の鎮守としたとされます。国宝洪鐘。関東で最も大きい洪鐘(高さ259.5㌢)で、円覚寺の開基である北条貞時が、正安3年(1301)に国家安泰を祈願して寄進されたものとされる。物部国光の鋳造によるもので、刻銘の銘文撰者は当時の円覚寺住持の西澗子曇によるものとされ、梵鐘の池の間には、全周に細かい銘が刻まれています。境内の片隅に享保4年(1719)の供養塔がひっそりと佇んでいた。桂昌庵(閻魔堂、十王堂)。山門左に鎮座する円覚寺塔頭寺院の一つで本尊は矢柄地蔵を祀り、創建時期は定かではないようです。名が示す様に向拝柱の蟇股には「王」の一文字が入り、堂内には十王の木像が安置されています。境内右に矢柄地蔵菩薩と閻魔堂の古びた石標が立っています。臨済宗大本山円覚寺円覚寺開山 / 無学祖元開基 / 北条時宗創建 / 弘安5年(1282)山号 / 瑞鹿山宗旨・宗派 / 臨済宗・円覚寺派本尊 / 宝冠釈迦如来所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内409参拝日 / 2023/01/17関連記事 / 神奈川県一之宮巡りday1(鎌倉円覚寺・建長寺・鶴岡八幡宮)
2023.03.09
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前回掲載取り上げた神野神社。そこから徒歩5分程南に進むと右側に公園が現れます。今回の目的地は、ここ熱田区西野町にある西野公園の一画に鎮座する社名不明社を掲載します。西野公園もすぐ東に交通量の多い江川線や名古屋高速が伸びています。表通りから少し西側に入った住宅や工場が立ち並ぶ一画に設けられた公園は意外に車の往来も少なく静かな環境にあり、陽射しが降りそそぐ明るい公園でした。予測不能な幼い子供達を解き放ち、自由に走り回らせるには安心できる場所かもしれない。上は西野公園西側から東方の眺め。今回取り上げる神社は公園の敷地西側に鳥居を構えた「社名不明社」社名不明社としてはいるものの、グーグル先生によれば「熱田神社」とある。しかし表示されていた画像や解説は熱田神宮のものが貼られ情報が混乱しているようで、社名すら疑いたくなる。現地には社標や由緒は見当たらず、寄進物などからも社名に繋がるものを見付けられなかった、ここでは「社名不明社」とさせてもらいました。社頭全景。西野公園の敷地西側に東を向いて社頭を構え、左右は集会所と民家が隣接しています。公園から鳥居をくぐると参道が設けられ、公園で走り回る子らに「ここから先は少しおとなしくしようね」とでも言っているような感じが漂う。こぢんまりとした神社が見つめる先には西野公園、少し先の熱田神宮を見守っている。こうして見ると先に掲載した神野町の神野神社とシチュエーションがよく似ています。いろいろ調べて見ましたが「熱田神社」とする記述には巡り逢わなかった。神野町と同じような生立ちの西野町もまた新しい町、町名を冠した神野神社と同じように捉えれば、西野町を守護する西野神社の方が自然な気がしてならない。創建時期や祭神などの詳細は分かりません。鳥居に手水鉢、燈籠や狛犬を備え、石積みの基壇の上の玉垣で囲われた本殿域に神明造の社が祀られ、こぢんまりとしながらも伽藍は整えられています。「皇紀二千六百年記念」と刻まれた玉垣の先の社は、6本の鰹木と水平に切られた内削ぎの千木が施された立派な社です。社殿を守護する小型の狛犬。小さな体格ですが肉付きも良く、口元は上品な朱色の彩色が施されお洒落には気を付けているようだ。社には三つの扉が見られ、祀られているのは一柱ではなさそうです。町の鎮護として祀られたものと仮定すれば、屋根神さまの祭神のイメージだろうか。境内から西野公園を眺める。境内の寄進物で社名や創建時期に繋がるものは、石の明神鳥居の柱には寄進者と昭和15年(1940)寄進、燈籠は昭和13年(1938)寄進と刻まれていますが社名に繋がるものは見当たりません。皇紀二千六百年記念の玉垣からも創建が昭和以前に遡るとは思えませんが、一面の湿地帯が水田に開墾され、集落が出来、多くの人が住む町に発展する過程で町の安泰を祈願して祀られたものと考えられます。この神社も西野町の発展とともに地域を見守り続けて来た神社なのだろう。神々に見守る目の前で遊ぶ子の姿、神社と人が身近に接する温もりのある公園です。社名不明社(熱田神社)創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市熱田区西野町2-4参拝日 / 2023/2/12関連記事 / 神野神社神野神社から徒歩ルート / 神野神社から南へ5分無縁地蔵菩薩西野公園の東角に小さなお堂の姿があります。無縁地蔵菩薩と呼ばれるようで、高い基壇の上に切妻の覆屋が建てられ、内部には一体の地蔵菩薩像が祀られていました。地蔵さんを拝んだ後に像をよく見ても年号など見当たりません。この地蔵の謂れや由緒については定かな情報もなく、これ以上お伝えするものはありませんが、穏やかな表情のお地蔵様が安置されています。無縁地蔵菩薩所在地 / 名古屋市熱田区西野町2
2023.03.04
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白蔵稲荷大明神桑名駅から東に15分程歩くと寺町堀沿いに古くからある「寺町通り商店街」に至ります。寺町堀沿いを南北に約200㍍に渡って、アーケードを備えた寺町商店街がある。約40店舗ほどの店が立ち並び、昭和の頃の懐かし光景が漂う。この寺町通りは、毎月3と8がつく日に「三八市」呼ばれる市が立つそうで、その日は多くの客で通りは賑わいを見せると言います。商店街の中ほどに、稲荷橋に続く通りがあり、そちらに向けて進むと稲荷橋の先に朱塗りの堂が目に止まります。後方の背の高い建物は桑名宗社の祭礼「石取り祭り」で南魚町が曳き回す祭車蔵。江戸時代初期にまで遡るこの祭りでは43台の祭車が曳かれるそうで、一帯の各町にはこうした祭車蔵があるようです。寺町堀に架かる稲荷橋を渡った左側が「正一位白蔵稲荷大明神」この白蔵稲荷大明神の南側には天台宗の寺院佛眼院も鎮座しており、桑名城の西にあたるこの辺りは多くの寺院が残る寺町の名残が漂います。落ち着いた色合いの街並みに、白壁と朱塗りの白蔵稲荷大明神の堂はとても目立つ存在です。切妻瓦葺の平入で向拝を持ち、向拝の下に朱の鳥居が立てられています。上は正一位白蔵稲荷大明神由来記。それによれば「太古より御神徳高い伏見稲荷大神は、その霊験最もあらたかにして、古来桑名の氏神たる春日神社別当天台宗佛眼院の守護神として勧請され、江戸時代町年寄36人衆始め、町衆から篤く信仰され、火伏、商売繁盛、招福除災、子女の学徳成就を願って代々崇敬し数々の御霊徳を賜って今日に至りました。」佛眼院の創建は定かではないですが、一説に最澄により創建されたとも云われ、守護神として白蔵稲荷大明神が祀られたとあるので、創建は江戸時代を更に遡る事になるのだろう。鳥居をくぐると右手に手水舎があり、年代は未確認ですが龍もいます。拝所に掲げられた額には「白蔵稲荷大明神」とある。鈴を鳴らして招福除災をお願いしておこう。白蔵稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 不明参拝日 / 2022/12/14所在地 / 三重県桑名市南魚町33関連記事 / 桑名宗社(桑名神社・中臣神社)桑名駅からアクセス / 桑名駅から東へ徒歩15分程
2023.03.02
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滋賀県愛知郡愛荘町長野昨年の12月27日、酒蔵を巡るバスツアーでこの地を訪れました。「旭日」「琵琶の舞」「杜氏の舞」の銘柄で知られ、創業が天保2年という老舗酒蔵「藤居本家」その西隣に大隴神社が鎮座します。酒蔵の左の杜が大隴神社の杜。社頭は、酒蔵の手前の道を西に進みます。道路沿いに、写真のような神橋と大隴神社の社標、大きな石の明神鳥居を構えた社頭があります。鳥居から拝殿まで真っすぐに参道が伸びていますが、道路を隔てる神橋があるため、以前の参道は更に先に伸びていたのかもしれません。この神社の由緒・創建等は定かではなく、滋賀県神社庁のサイトで大隴神社が紹介されていましたのでそちらを記載します。大隴(だいろう)神社【祭神】 伊邪那美命【配祀神】 建速須佐之男命、大山咋命、大物主命【由緒】創祀の年代は明らかでないが、古くは白山権現と称した。淳和天皇の皇子恒貞親王当地に住せられ大隴長者と尊称した。長者当社を篤く崇敬し、神殿、楼門を建立されたと伝えられている。神社附近に御園、大門、蔵の町等長者縁りの地名が残っている。鎌倉時代には近江守護職佐々木氏篤く崇敬し神田、神馬、太刀等を奉納し、又京極氏は神供を献じ、土豪中村掃部、彦根藩の武将も篤く崇敬した。往古例祭は3月己の日に八社の御輿が数日に亘って渡御する大祭礼であったが、愛知川の大洪水で祭組が南北に分離するに至った。天正年間兵火で社殿古文書烏有に帰したが正保慶安年間に本殿を再建、明治11年には拝殿、同14年には幣殿、渡廊、社務所等を建立した。明治初年社号を大隴神社と改め、同9年村社に列し同14年郷社に昇格、大正4年神饌幣帛料供進指定となる。【本殿・境内建物】 本殿 三間社流造 間口三間三尺 奥行三間 拝殿 入母屋造 間口三間 奥行三間 境外 臍尾神社【祭礼日】 旧4月 15日、4月 15日 祭礼日は神事(祭儀)のみ行ない、御神輿・山車・露店などは別の日に出る場合があります。 お出かけの際は念のため神社にお尋ねください。【神紋】左三ツ巴以上のように紹介されていました。どこかの県の神社庁のように、所属神社を包括しながら情報量が少ないことを考えると、初めて参拝に訪れた者にとっては実にありがたいものです。境外社の臍尾(へそのお)神社の鎮座地を調べて見ると、ここから15分程西方向に向かった先に鎮座しているようです。今回参拝するのは時間に制限もあり次回のお楽しみとしておこう。境内で見かけた大隴神社解説。杉木立の参道と、その先の入母屋瓦葺きの拝殿の眺め。『近江輿地志略』には大領(だいりょう)社とあり、長野大領堂と号し土地の住民らは熊野権現と称したようです。古代の郡衙の長官職が大領であったことが名の由来とされています。境内伽藍は左に手水舎、その奥に社務所。手水鉢には龍の姿も見える。境内正面。拝殿左には推定300年以上と推定される御神木の杉が聳えています。その太い幹の表面はうねる様な皴が上まで続いており実に壮観な一本杉です。夕陽を浴びて赤く色付き印象に残る美しい光景ですが、この赤見を帯びた色合いは夕陽の色だけではなさそうです。拝殿で参拝を済ませ、本殿方向を眺める。拝殿内は天井から菱灯籠が吊るされ、拝殿から廻廊で唐門に繋がり、透塀に囲まれた本殿域へ続いて行きます。左右には一対の狛犬の姿があります。唐門前を守護する狛犬、寄進年は未確認。大隴神社本殿。棟には3本の鰹木と外削ぎの載せ千木が施されている。夕陽を浴び赤みを帯びた境内は妙に温もりを感じる。もう少し寄りたいところですが、速やかに酒蔵に戻らないと置いていかれるようです。今日はお酒だ、またゆっくりと訪れよう。大隴神社創建 / 不明祭神 / 伊邪那美命、配神 / 建速須佐之男命 大山咋命 大物主命所在地 / 滋賀県愛知郡愛荘町長野1170アクセス / 東海道山陽本線「彦根」駅から近江鉄道「愛知川」駅降車、北西に徒歩20分程参拝日 / 2022/12/27関連記事 / 滋賀県飲んだくれツアー
2023.02.27
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八幡奈多(なだ)宮鍋山摩崖仏から県道34号線を約40分程東に進み、伊予灘に面した奈多海岸に向かいます。大分県滞在最終日の最後の訪問地は、奈多海岸に社頭を構える八幡奈多宮です。海岸沿いに続く車道を進むと左手に石灯籠、前方に朱色の神幸橋が見えてくれば、八幡奈多(なだ)宮も近い。神幸橋は車の通行が制限されています、右手の道を進み川を越えた左側に無料駐車場があります。この辺りの松林の切れ目からは目の前に伊予灘の眺望が広がっています。上の写真は海岸に立つ石灯籠です。燈籠の石の表面は海風で風化し、ぼろぼろの状態となっています。右の燈籠の竿には享和(1801~1804)の元号が見られますが、年月は良く読み取れません。この石灯籠は200年以上もこの海岸に立ち続け、その風化の進み具合が神社の歴史を物語っています。上車を駐車場に停め歩いて神幸橋を渡る。下の写真は橋の手前にある礎石で、左右にそれぞれ存在しています。これはかつての橋の名残でしょうか。神社に続く参道は奈多海岸遊歩道の一部でもあり、海岸沿いにこうした遊歩道が伸びています。約6km近く続く海岸線は、南北約3kmにわたって見事な枝ぶりのクロマツの並木が続くそうで、日本の白砂青松100選に選定された風光明媚な海岸です。この海岸には奈多海水浴場と狩宿海水浴場の二つの海水浴場が隣接しており、夏場には賑わいを見せるのだろう。遊歩道を進むと正面に鳥居が現れます。右の松林の中に見えるのが八幡奈多(なだ)宮の社殿となります。石の明神鳥居に掛けられた「奈多神社」扁額。参道を進むと左の砂浜から松林の奥に建つ楼門へ続く主参道が横切っています。そこから主参道を左に進むと、豊後水道を望む美しい砂浜が広がり、少し沖に岩礁が見えます。主参道を右に進むと松林の奥に建つ楼門に続いています。この岩礁は「市杵島」と呼ばれ、その名から分かるように遥か昔、この岩礁に市杵島比売神が降臨したという伝説の伝わる「島」で、八幡奈多宮にとって神聖な場所とされています。訪れた時には写真のように何の変哲もない岩礁帯にしか見えません。しかし、以前はこの岩礁に朱の鳥居が立っていました。2020年9月6日この地を通過した台風10号により八幡奈多宮の朱の鳥居が倒壊し現在の姿になってしまったようです。八幡奈多宮を大分最後の訪問地としたのも、伊予灘を背景に夕陽に照らされた鳥居の姿を拝みたくて訪れました。しかし、よもや市杵島の鳥居が倒壊していたことは知る由もなく、鳥居のない市杵島の姿は多少悔いが残ります。しかし、現在クラウドファンディングを募り、鳥居を再建し以前の神々しい姿を取り戻すべく活動が進んでいます。※2022年11月新たな鳥居が市杵島に再建されたそうで、今は思えばこの光景はレアな絵なのかもしれない。海辺から楼門に続く主参道の眺め。目の前の楼門に続く参道には三つの明神鳥居があり、倒壊した鳥居を一ノ鳥居とするならば楼門までは四ノ鳥居を構える事になります。各鳥居にはそれぞれ狛犬が守護しています。手前のニノ鳥居扁額は「奈多宮」鳥居も狛犬も寄進され間もないのか白く綺麗なものです。ニノ鳥居の狛犬。平成14年(2002)に寄進された狛犬。その先の石灯籠。竿から下の基礎は四つの足が付いたもので普段身近な神社でお目にかからないもの。細かな蓮弁装飾が彫られており、寄進年は読み取れなかったが、かなり以前に寄進されたもののようです。参道からニノ鳥居と市杵島の眺め。一ノ鳥居の姿は…ない。三ノ鳥居と楼門方向の眺め。こちらの鳥居や狛犬はニノ鳥居に比較すると寄進された時期は少し古そうです。三ノ鳥居で参道を守護する昭和2年に寄進された狛犬。小さな体格に不釣り合いとも思える大きな玉に身を委ねた可愛い姿をしているが、しっかりと鋭い牙を持つ。三ノ鳥居から先の参道。左に手水舎、正面に四ノ鳥居と楼門。鉢には絶えることなく清水が注がれていた。四ノ鳥居と楼門。参道の鳥居の中では一番古く寄進されたものだろう、笠木の反りも強く、石の額は「八幡奈多」とある。その先の楼門は市指定文化財で寛永19年(1642)に長岡興長の寄進によるもの。奈多宮の楼門に架けられた額には、「弎〇〇伕」という文字が刻まれています。この文字は「三韓降伏」と読むのだろう。古事記や日本書紀には、夫の仲哀天皇が成し遂げなかったとされる「三韓征伐」を、神功皇后が成し遂げたという伝承がありますが、この額はその伝承を伝えるものなのかもしれません。楼門左にある奈多宮由緒、内容は以下。【御祭神】第一神座 比売大神、第二神座 応神天皇、第三神座 神功皇后。【比売大神発祥の地】・「比売大神は先に国前群奈多沖にある市杵島に示現される」(宇佐八幡御託宣集)故に古来市杵島は比売大神発祥の霊地として祀られ崇敬されている【応神天皇御滞在の地】・称徳天皇天平神護元年(765)、応神天皇は伊予国宇和郡より奈多の浜に御着岸、御滞在の上、ここより宇佐の地に向かわれた。【奈多宮創祀】・聖武天皇の神亀2年(725)宇佐宮が現在の小椋山に創建され、その5年後の天平元年(729)に奈多宮が祀られる。初代大宮司は宇佐宿称公基公本宮の創祀である。【日本最上八幡初中後廟】・永延2年(987)、一条天皇より初中後にわたり最上八幡であると叡感ましまして、「日本最上八幡初中後廟」十字の額を賜る。【宇佐行幸会】・称徳天皇天平神護元年(765)、託宣により壮大な「宇佐行幸会」が創る。勅使が下り、恩赦が行われる国家的行事であった。宇佐宮に於て新しい御神体が奉造されると、旧御神体が比売大神を元宮とする奈多宮に還幸される行幸をいう。【神場行幸会】・卯・酉年、6年に一度、住吉の神場に行幸する。【戦国時代の奈多氏】・奈多鑑基の娘は、大友宗麟の正妻となる。鑑基は大友家の寺社奉行として重きを成す。その子、田原紹忍は宗麟の福臣参謀として活躍する。以上の如く古来皇室、藤原氏の尊崇厚く、繭来、細川、小笠原、松平各藩主に至る迄代々崇敬篤く、広く世人の敬神の念を集めている。明治5年(1872)県社に列せられる。祭日1月元旦 歳旦祭2月11日 建国祭4月5日 例祭(神幸祭)6月30日 大祓8月7日 夏越祭(御船替)10月15日 放生会(中秋祭)11月15日 七五三祭11月23日 新嘗祭12月31日 年越祭」元宮とされる市杵島。由緒には「比売大神は国前群奈多沖にある市杵島に示現される(宇佐八幡御託宣集)、故に古来市杵島は比売大神発祥の霊地として祀られ崇敬されている」とあります。比売大神は、素戔鳴尊と天照大神の誓約により素戔鳴尊から生まれた市杵嶋姫命、多岐津姫命・多紀理姫命の宗像三女神とされ、その降臨地が奈多海岸の沖合約300㍍にある市杵島の岩礁だと言われ、その霊地には小鳥居が建てられ、古来から元宮とされ尊崇されてきました。訪れた際はまだ鳥居は再建されておらず聖域の趣は感じられなかったが、今頃は朱の明神鳥居が立ち朝な夕なには神秘的な光景が見られることだろう。楼門から眺める社殿。こうして見る社殿は文禄5年(1596)に発生した慶長豊後地震の津波で流失し、一時期は仮宮として存続し、寛永4年(1627)、杵築城城代の長岡興長により伽藍の再建が行われ、寛永19年(1642)楼門、鳥居、手水鉢などが建立されました。その後明治14年(1881)に本殿、拝殿、廻廊など修復の手が入れられたものが現在の姿のようです。社殿は八幡造とされ、拝殿には左右の廻廊が接し、後方の幣殿、本殿の姿は廻廊が視界を遮り見通す事は出来ませんでした。比売大神、神功皇后の女神を祀る事から縁結びなどの御神徳があるようです。拝殿と廻廊、写真では切れていますが右側に社務所が立っています。拝殿から左の境内、左手の建物は宝物庫になります。この宝物庫の左から後方にかけて石碑や境内社が祀られています。上は境内左の忠魂碑。下は昭和25年(1950)に奉納された田道間守公像が祀まつられています。垂仁天皇の御代に勅を奉じ、橘を求めて大陸に渡り、10年以上かけて橘を持ち帰った事から橘の始祖と称されるようです。宝物庫後方の境内社。古びた石の明神鳥居が二基立っており、玉垣沿いに多くの石で作られた境内社が祀られています。右手の妙見宮の額が付く鳥居の先に祀られている石の社は「妙見社」、創建等の詳細は不明。もう一つの鳥居には額もなく詳細は分かりません。写真上段右は左から毘沙門天社、大日社、社日社。左は中央が恵比寿社、左右の社は不明。下段右は左から稲荷社、諏訪社、八坂社。左は奥から荒神社、山下社、弁天社。境内社から前方を眺めると本殿域に繋がる四脚の門が見えます。境内を出て表から眺めて見ます。楼門を出て右方向に向かいます。上玉垣の外から宝物庫と門の眺め。下この付近で見かけた石積みの一画、以前は神馬が安置されていたのだろうか。境内から見えていた門の全景、手前には狛犬が守護する。鬣がしっかり彫られ表現された狛犬、寄進年は不明。阿形の頭部が一部欠落し表情が読み取れない、この痛々しい姿は何があったのかねえ。門の左手の松林の中に鎮座する祖霊社が鎮座しています。上祖霊社から遊歩道を更に進むとそこにも写真の鳥居。当日は祭礼かイベントの前準備でも行われていたのか、海岸の松林には白い布があちらこちらに吊るされていた。下…松林の西外れにも鳥居があるようだ、社殿の割には大きな神域を持っているようです。海岸沿いの長大な松並みは地元から愛され、松林の維持、保全活動が積極的に行われているようで、松ぼっくりや下草取り、清掃活動も盛んに行われているようです。松の株一本一本にタグが付けられ、松くい虫の駆除薬や成長度合いなど個別にモニタリングされているようです。目の前が海水浴場という事もあり、この松並みはいい木陰を提供してくれる事だろう。夕焼けの迫る伊予灘に面した綺麗な砂浜、ここまで来ると大分空港も目と鼻の先。大分県の一之宮を巡る楽しい三日間の旅も間もなく終わり。夕陽に染まる市杵島と朱の鳥居は見られなかったが、順調に終えられそうに思えたが、ここから少し歯車は噛み合わなくなっていたようです。八幡奈多(なだ)宮創建 / 神亀6年(729)祭神 / 比売大神、応神天皇、神功皇后境内社 / 妙見社、毘沙門天社、大日社、社日社、恵比寿社、稲荷社、諏訪社、八坂社、荒神社、山下社、弁天社、祖霊社。所在地 / 大分県杵築市大字奈多229参拝日 / 2022/10/28鍋山摩崖仏から八幡奈多宮 / 県道34号線、国道213号線経由35分関連記事 / 国東半島の風土と文化が育んだ『鍋山摩崖仏』、大分県(湯布院・宇佐神宮)一之宮巡りDAY4
2023.02.26
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おさすり佛。前回掲載した神野神社、その社頭から北を望むと目と鼻の先に右まんじの幟がはためく小さな堂が佇んでいるのに気づき立ち寄ってみました。下町の佇まいを感じる、面白い形の煙突を備えた企業の敷地の一部に小さな堂が祀られています。大正初期は水田が一面広がっていた一帯、それ以降に町割が行われてから祀られたものかと思われます。おさすり佛全景。小さな覆屋の軒下に張られた奉納幕の紫が鮮やかで、この辺りに住まわれる方から今も崇敬されているのが伝わってきます。中には石仏が安置されているものと思いきや、実際には艶のある丸い石が安置されていました。真新しい座布団の上に置かれた「おさすり佛」について、謂れや由緒を調べてみましたが、明確な情報には出会えませんでした。比較的新しい地域なので、恐らく大正から昭和にかけてこの町角に祀られたものでしょう。一体の石仏の頭部を安置したと言うより、もとからこの丸い石をおさすり佛として祀ったような気がします。座布団の上に安置されたおさすり佛の姿から、ともすれば重軽石の様に持ち上げるものかと思われそうですがとても持ち上げられる代物ではありません。おさすり佛の名からも、様々な願いをかけこの石を撫でる事で成就するものなんでしょう。願いをかけ撫でるのが作法でしょう、石の艶やかな表面が多くの願をかけられてきた証です。一歩近寄り石の前面を眺めてみると、眉間に白毫が刻まれ笑みを浮かべた仏の顔に見えてきました。それでは「家族が健康でありますように」ナデナデ。おさすり佛建立時期 / 不明所在地 / 名古屋市熱田区神野町1関連記事 / 神野神社 (熱田区神野町) 神野神社から「おさすり佛」徒歩ルート / 北へ1分
2023.02.25
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鎭國守國神社を後にして、西に5分程歩いた三重県桑名市本町46に鎮座する桑名宗社に向かう。七里の渡しの川口樋門から南大手橋に至る三之丸掘に架かる中橋、赤い欄干がシンボリックな橋です。中橋の先に見えているのが桑名宗社(春日神社)の社頭になります。上は桑名城下の町割りでこれから向かう桑名宗社は赤丸で囲った場所に当たり当時は三崎大明神と称されていました。川口樋門から続く三之丸掘は、この先で一旦右に折れ、その先で更に左に折れて南大手橋まで繋がっています。この周辺には、築城当時の石垣の一部が残っています。桑名宗社(春日神社)の鳥居。異様に黒ずんだ銅製の明神鳥居には、笠木や島木に何か紋のようなものが描かれているように見えます。石畳の先は桑名宗社の楼門になります。鳥居左に解説板があるようです近づいて見よう。そこには、解説と古い石標が建っていました。解説の内容は以下のとおりです。『春日神社の銅鳥居、三重県指定文化財です。この鳥居は、寛文7年(1688)に七代桑名藩主松平定重により建てられました。鳥居の前には、初代本多忠勝が慶長7年(1602)に寄進した木造鳥居がありましたが、承応2年(1653)に強風で倒壊したとされています。治工 / 辻善右衛門種次寸法 / 高さ6.9m、笠木長さ8.1m、柱回り57.5cm銘文 / 表に「華表巍巍 惟直惟圜 神威可畏 保定萬年」とあり、裏には「寛文第七祀八月穀旦」と刻まれています。しるべいし迷い児石とも言われ、人の集まる場所に立てられました。同じものが、多度大社の鳥居横にも立てられています。自分の子供が迷子になると、左側面の「たづぬるかた」に子供の特徴や服装などを書いた紙を貼り、心当たりのある者が右側面の「おしゅるかた」に、子供がいた場所などの情報を紙に記載し、貼っていました。』この石標は、昔の人々が迷子になった我が子の情報を共有するためのツールとして機能していたようです。それにしても、多度神社はここから2時間以上かかる離れた場所にあるのに、当時の子供たちはかなり広範囲に移動していたようですね。青銅鳥居花輪違いの模様重ね、貫に上り藤紋が施されています。両柱を見上げると、上部にも上り藤紋が施されているようです。この鳥居は、建立以来元文、明治、昭和と幾度も倒壊・再建を繰り返し、空襲による被災を経て戦後の昭和35年(1961)に修復されたものが現在の鳥居です。戦後の修復を経ても、この黒ずみは一体何を物語っているのでしょうか。楼門。天保4年(1833)に松平定永によって寄進された入母屋造りの重厚な趣の門。左右の間に像が安置されているようですが上り藤に大三の紋が入れられた紋幕で良く見通せない。門は昭和20年(1945)に戦災で焼失、現在の姿は平成7年(1995)に再建されたものと云う。楼門に掲げられている額には「桑名宗社」とあります。桑名宗社は、創建当時は桑名地方豪族の祖神を祀った桑名神社一社のみでしたが、後に中臣神社が境内に遷座し、桑名の総鎮守として総称として「桑名宗社」と呼ばれるようです。中臣神社が桑名神境内に遷されたのは正応2年(1289)の事で、その後永仁4年(1296)に奈良の春日大社から春日四柱神を勧請合祀されたようで、地元では桑名神社や春日神社、或いは春日さん、春日大明神とも呼ばれ親しまれていますが、正式には桑名神社・中臣神社だそうです。楼門の間に安置されている左大臣・右大臣像の胸には、鳥居と同じ上り藤に「三」と「大」の文字が見えます。上り藤に「三」が桑名神社、「大」が中臣神社の神紋を表します。平成7年(1995)に楼門が再建されているのでその際に安置されたものでしょう。石畳の参道をニノ鳥居に向け進むと、瓦葺きの拝殿が見えます。ニノ鳥居から拝殿方向の眺め。鳥居前には一対の狛犬が守護し、その先の瓦葺拝殿は左右に二つの唐破風向拝が並んだ珍しい形をしている。参道左の手水舎手水鉢。妙に黒ずんでいる狛犬。天保3年(1832年)の銘が入ったもので、青銅鳥居でも記載したように、神社は空襲により被災しています。狛犬の黒ずみは、それを物語っているかもしれません。桑名宗社の拝殿は、大きな向拝を持ち、左右に唐破風向拝が付いています。現在の拝殿は昭和29年(1954)、昭和59年(1984)に本殿、幣殿の再建が行われたもの。紋幕には、左に上り藤に大、右に上り藤に三という二つの神紋が描かれています。楼門の像に描かれていた紋から、左が中臣神社、右が桑名神社の拝殿であることがわかります。桑名神社の創建は定かではありませんが、平安時代中頃(927~943)に編纂された延喜式神名帳にも記された古社で天照大御神の第三子天津彦根命と、その子天久々斯比乃神の二柱をお祀りする。祭神の天津彦根命は、国史にも記載された様に、御子孫にとって特に繁栄になった神様で、天久々斯比乃命は神徳があり、桑名の豪族である桑名首の祖神であるため、桑名の開祖として繁栄の神として崇敬されています。以後、織田信長・徳川家康などより神領の寄進、本多忠勝・松平定綱など歴代桑名城主から篤く崇敬されてきた神社です。桑名総鎮守桑名宗社。桑名神社(旧三崎大明神)御祭神 天津彦根命、天照大神の第三皇子桑名の産土神で海上安全と家運繁栄の霊験ある。御祭神 天久々斯比乃命、天津彦根命の御子である。中臣神社(旧春日大明神)御祭神 天日別命、伊勢国造の遠祖で神武天皇の功臣。祭事毎年8月第一日曜日 石採御神事、8月16・17日比与利祭、9月17・18日御車祭。中臣神社の拝殿。神護景雲3年(769)に常陸国鹿島社(茨城県の鹿島神宮)より建御雷神霊が御通過になった基址に祀られていました。祭神は天日別命をお祀りし、神武天皇の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれ厄除けの神様とされる。遷座以前は当社の西方の山上に鎮座していたとされ、正応2年(1289)に桑名神社の境内に遷座したもの。中臣神社も延喜式神名帳にその名が記される古社で、桑名神社と共に延喜式内社とされています。桑名宗社の境内には、拝殿の左側に摂社の母山神社が鎮座しています。境内には2つの鳥居があり、玉垣に囲まれた神域に覆殿が建っており、神社が祀られています。参道右に岐阜県揖斐郡産のさざれ石。この母山神社は女性に幸せをもたらすご利益で知られていますが、祭神について詳細は不明です。覆殿の中に収まる社は暗くて分からないが流造で軒唐破風が付いているように見える。拝殿右から拝殿、母山神社方向を眺める。拝殿右にも複数境内社がありそちらを参拝して回ります。拝殿の右方向に廻ると桑名宗社の神明造の本殿が二棟建つ本殿域を見渡す事が出来ます。手前が桑名神社6本の鰹木と内削ぎ千木が見える、奥が中臣神社の本殿。本殿右の境内社。左から皇大神宮御分霊社。御祭神 / 天照大御神。御神徳 / 国家安泰/衣食住・産業の繁栄。創建 / 明治9年(1876)例祭日 / 11月15日その右の桑名東照宮。桑名に東照宮がある事は訪れるまで知らなかった。家康を祀る東照宮としては実にシンプルなもの。桑名東照宮由緒は以下のようなもの。御祭神:徳川家康 御神徳:勝負・美容・良縁成就元和3年(1617)に千姫が東照宮を勧請し、徳川家康の坐像を祀りました。神像は元禄14年(1701)2月に消失しましたが、火災を免れた神宝は明治初年まで神宮寺に祀られていました。その後、願いにより、春日神社の境内社として再び遷座されています。千姫は徳川2代将軍秀忠の娘で、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で西軍方の豊臣軍を滅ぼした後、豊臣秀頼に嫁いでいましたが、救出されました。江戸に向かう途中、桑名藩主の本多忠刻が千姫一行をもてなし、「七里の渡し」の舟渡の指揮を執りました。忠刻は武芸の達人で、眉目秀麗な美男子でした。千姫は一目惚れしたとされます。千姫は江戸に着くと、祖父である家康の許しを得て、翌年、桑名の忠刻の元に嫁ぎました。家康は嫁入り直前に他界しましたが、恋愛結婚を成就させた千姫は家康に纏わる神宝を当社に奉納し、家康への感謝の気持ちを込めて東照宮を建立しました。千姫と忠刻は仲睦まじい夫婦であったとされ、本田家が姫路に移るまでの一年間、幸せな新婚生活をこの地で過ごしたと伝えられています。鳥居左の絵馬掛けには、千姫のご縁に肖って良縁を願う多くの絵馬が掛けられていました。境内右の春日稲荷神社。稲荷鳥居の左右には多くの奉納幟がはためき、地元の人々から篤く崇敬されていることが窺えます。奉納鳥居の先に石の明神鳥居と朱の社殿が祀られています。春日稲荷神社由緒。御祭神 / 倉稲魂命。御神徳 / 商売繁盛/五穀豊穣/家内安全当社は文政8年(1825)に現在の伏見稲荷大社より御分霊を勧請し今日に至ります。明治の末より大正初めにかけ市内各町々に旧来より鎮座する稲荷社を同じ社殿に合祀したもので御神霊も多く信者も広くあらゆる人から崇敬される神社です。授与所取り扱いの御朱印の数々。桑名宗社の授与所では、住吉神社や伊勢国一之鳥居の御朱印をいただくことができます。また、江戸時代初期から続く桑名の初夏の風物詩である石取祭の限定御朱印も手に入ります。桑名宗社の参拝を終えた後、予定外に桑名東照宮の参拝もできた、そろそろ桑名駅に向かうことにしましょう。桑名宗社創建 / 不明主祭神 / 天津彦根命、天久々斯比乃命中臣神社創建 / 不明祭神 / 天日別命相殿 / 春日四柱神(建御雷神、斎主神、天児屋根命、比売神)境内社 / 母山神社、桑名東照宮、皇大神宮御分霊社、春日稲荷神社所在地 / 三重県桑名市本町46参拝日 / 2022/12/17鎭國守國神社から桑名神社まで徒歩 / 西へ5分程関連記事 / 鎭國守國神社
2023.02.24
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