種差別・動物の権利(アニマルライツ)・動物の解放を考える

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南茶手 美井雁

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2016年02月28日
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テーマ: ビーガン(783)

IFL Science 様の 2015/11/13の記事を紹介します。



このような気づきは、おマセな4歳児には問題ではないかもしれない、しかし多くの大人たちにとって、皿の上にある肉と、生きて感覚を持つ動物とのつながりはより問題になる。これは、幾つかの先進国での2%という値から、30%を超えるインドなど、幅は広いが増加しているベジタリアンの人口を見ても明らかだ。そうではない、豆腐を食べるくらいならダンボールを食べてたほうがマシだというものたちは、他の命ある生物の苦しみと死に関して責任があるという道徳的ジレンマを乗り越える様々な心理的テクニックで武装している。

このジレンマはしばしば、「肉のパラドックス」と呼ばれる。この用語は我々の、感覚のあるものに苦しみや死をもたらすのは間違いであるという道徳的信念と、罪悪感の伴わないソーセージサンドイッチを楽しみたいという欲求との葛藤を指す。このような心理的葛藤は「認知的不協和」と呼ばれる。

心理的綱引き

認知的不協和は相反する信念を抱いているときはいつでも起こる。それは怒りやきまりの悪さ、そして罪悪感などとして表れる。

大抵の人には、認知的不協和を起こしているものについて考えるときに起こる自己非難を抑制する能力が備わっている。肉に関する心理的葛藤を静める論理的な方法は、食習慣を変え、元から問題を回避するということである。

これがおそらく一つの素直な変化であるが、一方でこれが単純なことであるという議論は、肉食がほとんどの文化おいてどれだけ深く浸透しているかということを軽く考え過ぎている。肉食は日々の料理だけでなく、多くの伝統やセレモニーにおいて主要な部分を形成する。そしてステータスまでも表す。たとえば男性のベジタリアンはそうでない男性と比べて、より男性的でないとみなされることもある。それに加え、我々の多くは本当に本当に肉の味が好きだ。

これは私たちの頭の中での綱引きをおしまいにする別のアプローチが必要であることを意味する。まず典型的なのは、動物を消費することは彼らを害することであるという不都合な信念を弱体化することである。これを行うための一般的なメカニズムは、畜産動物が人間や他の「より知的な」動物(通常はペット)と同じように考えるということを否定することだ。これは私たちの心の中での彼らの内在的価値を低下させ道徳的関心の円の外側に配置する。だが彼らが考えたり感じることが出来ないほど知性が低かったとしても、我々のウシやブタに対する扱いは本当に問題ではないのだろうか?

証拠からの逃避

家畜を愚かであるとすることは、彼らが複雑な精神的、感情的な生活を送るという積み重なる証拠を無視し、私たちの振る舞いを変えないで済ますこと可能にする、そして、やっかいなベジタリアンなどを含めたさらなる認知的不協和を引き起こす原因を避け、現状維持を助ける。このような種の人々による記述は、私たちの動物の心理能力に対する過小評価を増長する。

同様に、スーパーマーケットは私たちに、その動物の元々の形を連想させない状態の肉を販売する。人によっては頭の付いた魚にも不快感を覚える。私たちは、「ウシ」や「ブタ」ではなく「牛肉」や「豚肉」を購入することで、その解離のプロセスに加担している。

私たちはが家畜の福祉に関する情報を知ろうとすることはほとんどない。そして動物の苦痛の証拠に直面した時、肉の消費量を過小に報告したりする。動物の製造方法をより意識するものたちは、緑の農場をスキップするウシたちという私たちの妄想を維持させてくれる「福祉を考えた」製品を購入するかもしれない。この「知覚行動の変化」は、私たちの罪悪感を軽減し、道徳的な高台に上げ、相変わらずハンバーガーを食べることを可能にする。

このようにして、心理的な葛藤を避けることは、私たちに肉食を続けることを可能にするかもしれないが、それはまた、動物の価値減じることと、私たちの人間性の喪失との間の不都合な関係を明らかにする。私たちが「部外者」とみなすものの知性や道徳的価値を減じることは、しばしば人間の歴史の中で行われてきた、差別や多くの残虐行為に導く重要なメカニズムであると理解されている。

しかし、人の差別に対する私たちの意識―そして態度―が変化してきたように、食品のための動物の大量飼育に関する我々の見解も変わっていくかもしれない。肉を食べることの認知的不協和を避けるための困難さは、我々が現在の消費のレベルが居心地のいいものかであるのか再評価すべきであると示唆している。心理的なフープを飛び越える容易さを考えれば、ブタのアリスに餌をやることは楽しみかもしれないが、彼女を食べることは、子供の遊びのように簡単ではない。

http://sciencetime.seesaa.net/article/429713395.html












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Last updated  2016年02月28日 20時57分29秒
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