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↑昭和34年3月3日 私の初節句札幌に住む従姉のアヤコちゃんが、最近、パソコンを始めました。私の日記は初期のころ、懐かしい昭和の時代の、親族の思い出がたくさん書かれています。アヤコちゃんは高齢になった母親のヤエ伯母ちゃんに、その日記を読んで聞かせてくれているそうです。伯母がそれを喜んでくれていると聞き、とてもうれしく思いました。私が一族の思い出を書くことで、喜んでくれる人がいる・・・・なんてうれしいことでしょう!アヤコちゃんは私より7歳年上。父の長兄の末娘で、私が生まれたころ、一緒に暮らしていたそうです。そう、私は父母・祖父母、それにアヤコちゃんはじめきょうだい4人とその母、それに私の総勢10人家族だったのです。私が身内に対する思いが強く、年がら年中、親戚たちとどんちゃん騒ぎをするのは、この、まったく記憶にもない「超・大家族時代」がよほど血の中にしみこんでいるからなのでしょう。アヤコちゃんたち親子は、私が1歳の誕生日を迎える前に、別にすむようになったそうですが、アヤコちゃんとその姉のシズコちゃんは1週間のうち3日は、ゴボウのような細い足で「桜ケ岡の山を越えて」私の家に遊びにきていたそうです。私はアヤコちゃんに非常になつき、アヤコちゃんも実によく私を可愛がってくれました。家に近くに駄菓子屋があって、アヤコちゃんに連れられてちまちましたものを買いに行くのが、幼児の私の大いなる楽しみでした。そこで私は「ももやま5えんぶん ください」と言ってお菓子を買ったりシャボン玉液を買って、庭で遊んだりしました。昔のシャボン玉液のストローは穴があいていませんでしたので、小さかった私は、最初こそ吸い込まないように気をつけているものの、すぐに忘れて、液を飲み込み「にが~~い!!」と泣き出すのでした。私の母方の叔母は、私がアヤコちゃんよりも大きな顔をしたチビで、アヤコちゃんが何でもしてくれるのをいいことに、いつもおんぶをせがんでいたといいます。アヤコちゃんは、私の足が地面につくほどのけぞりながら、いつまでも根気よく私をおんぶしてくれていたそうです。私には多くの身内がいますが、見返りを顧みずに相手の望むものを与えるという美点を持っていた私の父に、もっともアヤコちゃんが似ているように思えてなりません。「人が喜ぶことをしてあげるのが好き」この二人は決して人から付け込まれるお人よしではないのですが、「本当の善意」というものを持っていたと思います。でもそれはまた、私の血のつながらない伯母・アヤコちゃんの母親であるヤエさんにも共通したものだったかもしれません。私達が札幌にいた昭和40年代、アヤコちゃんの家に本当によく泊まりに行かせてもらいました。あのころ、アヤコちゃんは昼は病院で働きながら、夜は看護学校、シズコちゃんはOL、おばちゃんはおばちゃんで仕事に出ていました。ふたりの兄さん、正明さんと義明さんもそれぞれ働いていて、なにかと気ぜわしかったと思います。それでも祖母と私と妹・ぢゅんこが何日泊まっても、いやな顔ひとつせず歓待してくれたのは、今、おとなになってみると、なかなかできることではなかったことがよくわかります。たいへんなこともいろいろあったのに、いつも穏やかな笑顔を忘れなかった伯母ちゃんのことを、私は子供心にもよく覚えています。もう40年近く前のあのころのことを、こうして温かい気持ちで思い出すことができるのは、私にとって大きな喜びです。・・でもあのころ元気だった正明兄さんが、私の父のところへ行ってしまったのは、本当に、本当に悲しいね。こんな私の思い出話を、アヤコちゃんの娘さん・マヤちゃんにぜひ聞いてもらいたいと思います。私は本当にマヤちゃんのママとおばあちゃんには世話になったんだよ。親族の思い出ってすごいものだよ。本当にみんな思い合って・支え合ってやってきたんだから。私は数々のことを思い出すと、子供のころ学校の帰り道で吹雪いて「この世界にたったひとり」というしんとした寂しさを感じながらひとり黙々と歩き、家のドアを開けたとたんに、温かい空気がもれてきて、ひどく安堵したときの気持ちを思い出すよ。それはかけがえのない、お金では買えない「思い出」です。若いマヤちゃんにはイマイチぴんと来ないかもしれないけど、たまにはこのおばちゃんの話に付き合ってね。6月に会ったときにゆっくりね♪
2006年04月23日
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ふるさと兎(うさぎ)追いし かの山小鮒(こぶな)釣りし かの川夢は今も めぐりて、忘れがたき 故郷(ふるさと)如何(いか)に在(い)ます 父母恙(つつが)なしや 友がき雨に風に つけても思い出(い)ずる 故郷志(こころざし)を はたしていつの日にか 帰らん山は青き 故郷水は清き 故郷 高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌日本を離れた人が、もっとも好む歌がこの歌だそうです。私もこの歌を歌うたびに涙ぐみそうになります。もっとバイオリンの技能をアップさせ、いつか老人ホームをたずねて、お年寄りたちを前にこの曲を弾くのが、私の目標のひとつです。↑昭和35年・釧路にてかの地を離れることがなかったら、私はどんな人生を送ることになったのでしょうか。私も首都圏を遠く離れた多くの若者たちのように、18歳で高校を卒業したあと、上京したいと思ったのかしら?ハンパに首都圏で生活してきた私には、東京での生活に対する渇望というものがあまりありません。学校はずっと東京でしたしね。なので「東京に行けばなにかある」というふうに考えたこともないです。むしろ私には「故郷を喪失した」「自分は結局、どこの人間でもない」という思いが強くありましたので、生まれてから一度も、故郷を離れたことがない、という人をうらやましく思います。↑釧路の路傍に群生する蕗先日、実に29年ぶりに夏季の釧路を訪れて、蕗の大群にびっくりよ♪こんなのが道のいたるところに群生してるんだからね~!それと霧雨にも驚いた~!ホント~~に細かい雨なんだね~!関東地方で「雨」と言ったら、「絶対に傘が必要な雨」だけど、釧路の霧雨って傘が不要なのね。ロンドンでは傘のかわりにマッキントッシュのコートを着るそうだけど、なるほど~、その理由がよくわかりました。釧路の町は、当然のごとく道路は舗装され、家が立ち並び、私がコドモ時代をすごしたときの面影はありませんでした。でも・でも・でも!私は見つけたの!当時と変わらないものを。↑「浦のとまや」という風情かな? 海の近くに建っている小屋↑釧路の海生まれて初めて見た海が、この海だったんだわよね~。たぶん、4歳か5歳。すっごく楽しくて、次の日も母・スマコに「きょうも うみに つれてって」と言ったらば「今日はお盆だからだめ。お盆には、死んだ人が海から上がってくるの。 ヨーコはコドモだから、海で死んだコドモがあがってきて、ヨーコの 足をひっぱるよ」とおそろしいことを言ってのけたのでした。それがトラウマになって、私は二度とお盆の海に行けなくなったんだからね~~!↑ホワイトチョコやバターサンドで有名な、六花亭のティールームから 春採湖(はるとりこ)を眺める「春採」ってすごくステキな地名じゃない?釧路にずっと住んでたら、きっと私は春採中学校の卒業生になったことでしょう。あ~あ、なにも東京なんかに出てこなくても、釧路で一生終わったってよかったのにな。でも、若いときって、本当に故郷の価値がわからないものなのね。34歳で、根室本線のホームにて万歳三唱とともに東京に転勤となった父は、きっと最後は釧路にもどりたかったことでしょう。冬の寒さが厳しかろうが、一年中天気が悪かろうが・・・そんなこと問題じゃないんだよ。今、中年になった私にはよくわかります。そしてどうしても行きたくなる場所・会いたくなる人がいることを心からうれしく思います。
2006年07月13日
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大学の同窓会報の委員をしている関係で、年がら年中、大学に出入りしている私ですが、旧友を誘っての母校訪問はまた格別な楽しさがあります。昨日は私たちが卒業した学科の創設50周年記念パーティーがありました。こういうときに声かけて友達を招集するのが好きな私、今回も5人に声をかけたところ、3人が応じてくれました。チャペルで祈りを捧げ、そのあと第一学食で懇親会でしたが、いやもう「立錐の余地がない」という言葉がぴったりなくらいの盛会でした。予定よりもかなり多くの参加者がいたらしいです。文学部日本文学科ということもあり、女性が圧倒的多数。昭和40年代の卒業生の方々が多く参加されていたようです。同窓会に出てくる人は「今が幸せな人」だと私は思います。昔の友人に会うために、ちょっといい服着て、いそいそと出かけられることが、幸せでなくて何でしょうか。・・・3年前、父が亡くなった年の秋、仕事で都心に出たときに老紳士数人が「お元気で。またぜひお会いしましょう」と固く握手を交わしている光景を見かけ、胸がじ~んとしたことがあります。私の父も、いそいそと同窓会に出かけていく人でした。父は釧路の学校の卒業ですが、札幌や東京に出た人が多かったため、釧路・札幌のいずれかで全体会を交互に行い、それとは別に東京近郊在住者だけで「在京釧路会」の会合を行っていました。父も、あの老紳士たちのように、別れ際に固く握手をして「また生きてお会いしましょう」と約束していたことでしょう。父は学生時代の友達の写真をアルバムに貼り、丁寧に名前まで記入していました。写真好きな私は、子供のころから折につけそのアルバムを見て育ったので、父の葬儀に来てくださった学生時代のお友達ふたりにお会いしたとき、若いころのお顔を即座に思い出すことができました。札幌の隣市に住む吉川さんという方は、父のいちばんの友人で、父は北海道に行くと必ず吉川さん宅にお邪魔していたそうです。吉川さんは父の死後、C県に住む息子さんのところに遊びに来たときに、わざわざ私の実家にお線香を上げに来てくださいました。父の世代は、戦時中に「学徒動員」を課された世代です。学徒動員はたいそう楽しい思い出だったそうで、同級生が集まると、当時の話に花が咲いたそうですが、私の父がもっとも鮮明に記憶しており、その記憶力のよさにいつも驚かされた、と同級生のだれもが言います。・・・じつは私も、友人たちの間では記憶力がいいので有名です。昨日会ったのは、ケイコちゃん、千尋、佐藤さんの3人ですが、二次会でケイコちゃんが「私たちの入試の前の年に毛沢東が死んだので、入試では絶対に中国史が出ると思って、ヤマをはったら見事に当たった」と言い出しました。あ~、そうそう、そうだったと思い出し「あ~~、私も覚えてる~~~! あの地図と関連させた問題ね。 アタシはあれはできなかったわ~~、地図苦手なんだもん。 でもさあ、ヨーロッパの文化史、それもシェイクスピアのあたりが 出たから、これで『点数もらい!』と思ったんだあ~。 そいでもって、ほら、古文の問題! 宇治拾遺物語かなんかの説話文学から出たんだよねえ~~! あれは説話文学が専門の長野先生が作った問題かもね~~!」と発言したところ、みんなから一斉に「なんでそんな古いことを克明に覚えてんのよ~~!! アンタの頭は異常だ!異常!!!」と非難されました・爆!!!!!「まったく、ヨーコの話ってば、『昭和●年●月に●●したよね』って 年号入りだから恐れ入るよ」から始まり、遠慮のない彼女らに「ムスコ甘やかしすぎ」だの「ヒロキを溺愛した罪を自覚せよ」だの「ヒロキに彼女できるまで見届けなくちゃ」だのコテンパンに言われ、涙が出るまでみんなで笑いこけ、あああああああ!!!釧路も札幌も楽しかったけど、ホントに・ホントに・ホント~~に!!!ナイスな夜だったぜ、みんな・ありがと!!次はケイコちゃんちでお泊り会だね♪楽しみにしてるよ~~~!!!
2006年07月02日
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