「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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09話 【Something Stimulating!】
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09話 (歴) 【Something Stimulating!】
5月2日 千早歴
世間はゴールデンウィーク真っ只中。さしもの私も今日はお休み。とは言え予定はない。
どのTV局も、全国の混雑模様を映している。平日の閑散さに慣れ親しんでいる身としては人混みを前に尻込みしてしまいそうで、外出に躊躇する。
こんなに良い天気なのに、それも勿体無い話かしら?
一応服は着替えてあるし、化粧も施した。どこへでも出掛けれる準備はしてある。あと私に必要なのは、外へ出るための建て前だけ。
時計を見れば、9時を過ぎた頃合いだった。動くなら、今ぐらいが丁度いいわよね――。
身の置き場を考えあぐねていると、携帯電話が着信のメロディーを奏で始めた。
ディスプレイには兄・千早凪の名前。今日は確か遅番の出勤だったはず。こんな時間に何の用だろう。
「もしもし、歴です」
「歴、結婚式の服は決まったのか?」
挨拶、着信相手の確認作業……何もかもを端折って、兄は本題を捻じ込む。いつものことなので、慣れているけれど。
「まだ決めていないわ」
従兄弟の結婚式を5ヶ月後に控えている。その時に着て行く服装のことだった。
「だと思った。着物か?」
「和装でも洋装でも構わないけれど……。どちらにしろ、そろそろ考えなきゃとは思っていたわ」
「俺の友達が呉服屋にいるんだが、力になってくれるそうだ。押し売りは絶対しないヤツだから、覗いてみるといい」
「今日いきなり行っても大丈夫だと思う?」
「構わないと思う」
着物を仕立てて貰うなら、今の内に決めてしまわなければ。早ければ早いほどいい。
兄から場所を聞くと、地下鉄に乗って呉服屋へと向かった。
正味30分掛かった呉服屋への道のりは、道順さえ覚えてしまえば5分は短縮できそうだった。
名古屋市内に構えた、老舗然とした一軒家だった。ディスプレイには淡い青色の浴衣を着せたマネキン。
もうそんな時期なのね。しげしげと眺めていると、店の中から着物を着た男性が引き戸をガラリと開けて出て来た。
白大島。
雑誌でしかお目にかかれない上等品がいきなり目の前に現れたものだから、私としてはただただ目を見張るしかなかった。
利休色の兵児帯とのコントラストも素晴らしくて、お洒落な雰囲気に思わず酔い痴れてしまう。
短く刈られた黒髪、大胆に抜かれた衣紋、見上げなければ見れない高さにある茶色の瞳、一文字に引き結ばれた形の良い唇。
愛想笑いも浮かんでいなければ、冷たい印象を与えがちな雰囲気。それなのに、不思議と怖くはなかった。
「あの……姫丸さんですか?」
「えぇ、そうですが」
警戒するような声? 目? ……違う、まるで相手に興味を抱いていなさそうな感じだ。
客商売ではマイナスにならないのかしら。
なまじ自分がそういう世界に身を投じているから、こうして下世話な感想まで抱いてしまう。いけない、自重しなければ。
「はじめまして。千早歴と申します。千早凪は私の兄ですが、御存知でしょうか?」
兄の名を耳にして、やっと顔の筋肉を動かした。でもなぜか眉根を寄せている。
「あなたが凪の――?」
「はい、妹です」
相手は軽く絶句したようだった。そんなに驚くことかしら? 思いがけない反応に、私の方が戸惑ってしまう。
「……申し訳ない。凪から妹さんの話は幾度も聞いてはいたのだけど。まさか御本人に逢える日が来るとは思っていなかったもので」
含みのある言い方だった。一体兄は、私に関する何を言い触らしているのだろう。怖くて聞けやしない。
「兄にこちらの呉服屋さんを訪ねてごらんと勧められて伺ったのですが……」
「確か、従兄弟の結婚式に着て行く服を探しているのだとか――どうぞ、中へ」
「あ、はい。失礼します」
「この店は、おれが1人で切り盛りしていてね。両親から譲り受けて1年になります」
店内には作り付けの棚に反物がぎっしりと詰まっていた。色別に分けてある。グラデーションになっているので、見ていて心地良い。
「ご両親は隠居なされたんですか?」
「おれは凪と同い年なんだが、両親が高齢でしてね。還暦を迎えた両親の望みは、おれか兄に店を継がせることと、自分たちが隠居することの2点でした。
両親は兄夫婦と一緒に暮らしてます。兄嫁が京都出身で、両親も京都好きだから、一緒に住みましょうということで。この店のことは、すっかり放置ですよ」
姫丸さんは苦笑に似た笑みを浮かべた。
「千早さん――と言うのも変かな? 歴さんでしたね。結婚式には何を着られるつもりです?」
「ドレスにしようか着物にしようか迷っていたのですが……。こちらのマネキンがあまりにも綺麗な着物を着ているので、訪問着が着たくなりました」
「それは嬉しいな。でも、訪問着? 振袖は着ませんか?」
「私の振袖は仰々しくて」
祖父が私の成人式のために用意してくださった振袖は赤と金を基調にした豪華絢爛なデザインで、私自身うっとりするほど大のお気に入りの逸品だった。
可能ならばぜひ着ていきたいと思うものの、主役の花嫁を食いかねない派手さがあり、そこが心配だった。
姫丸さんは、さもありなんとばかりに深く頷いた。どうやら私の意見を尊重してくださったようだ。
「歴さんはお幾つですか?」
「23です」
「年齢からすれば、振袖が理想の正装着ですが、まぁ、型通りと言うのもね。訪問着も立派な正装着ですから、歴さんに見合ったものを繕いましょうか」
言いながら、棚に陳列された反物に鋭く視線を走らせる姫丸さん。
彼の頭の中ではどうやら私に勧めたい柄や色、素材などが明確に組み立てられているようだった。
「……これなんてどうかな?」
独り言にも似た、小さな小さな呟き声だった。ワイン色の反物を取り出し、器用に生地を伸ばしていく。
「400年前の染め手法。武田信玄の頃に流行った――辻ヶ花だよ」
私を畳の上にあがらせると、柄を見頃に合わせた。
「あぁ、いいね」
姫丸さんの細くて大きな指が、私の足首を捕らえた。私は思わず「裾を揃えるためよ」と言い聞かせる。
仮紐を結ぶため、姫丸さんの腕が私の腰に巻き付いた。密着。どうしよう、ドキドキする――!
これは絶対に必要な作業なの! だから、意識しちゃ駄目なのよ、歴!
鏡に映った私の顔が赤いのは、部屋が暑いせいなどではない。そんなことは百も承知だ。
姫丸さんの手が、共衿と広衿を合わせていく。でもその位置は……胸の位置だった。
和装ブラもしていなければ、襦袢も着ていない。位置が位置なので、すこぶる恥ずかしかった。残酷過ぎて帰りたい。
何が居た堪れないって、私がこんなにも殿方の指に意識している事実に対し、姫丸さんが流れ作業のごとく淡々と仕事をこなしている点だった。
「こんな感じかな」
姫丸さんは、思い描いた通りの予想図が納得いく形で出来上がりを見せたことで、満足げに口角を上げてみせた。
「驚くほどワイン色が似合うね、歴さん。……帯は……そうだな、どれがいいかな……」
指が袋帯の山を彷徨い、やがて金茶地のそれを探り当てた。着物の上から帯を巻かれ、完成にほど近いフォームになる。
「こうなると、帯揚げや帯〆でまた雰囲気ががらりと変わるんだ。例えば、オレンジで組み合わせたとして……」
帯の上から帯〆を結び、簡単に形を作ってから帯揚げを添えた。素敵な完成図。文句なし。
でもプロの目には、いささか不評だったようだ。自分で駄目だしをする姫丸さん。
「いや、この場合は白の方が映えるな」
姫丸さんは組み合わせが気に食わなかったのか、帯〆に指を掛けるとあっという間に引き抜いてしまう。帯揚げも然り。一瞬で取り上げてしまった。
「あっ……」
「?」
ば、馬鹿! 私の馬鹿! 何てはしたない声を出すのよ!?
だって、ともう1人の自分が心の中で反論する。未だかつて殿方に服を脱がされた経験などない。てっきり「外しますね」の一言があると思ったのだ。
勘違いも甚だしい。鏡を見るのも怖いほど赤面しているに違いない。穴があったら入りたい!
「もしかして痛かったですか? すまない」
せめてもの救いは、姫丸さんに私の心境が伝わらなかったことだ。
「……やっぱり。白の方が映えるな、この着物には」
組み立てた理想に近い完成図だったのだろう。姫丸さんは嬉しそうに笑顔を作った。
「つい勝手に選んでしまったけれど、気になる反物があれば勿論それで仕立てさせて貰うから、遠慮しないで欲しい」
「でも……。私、この組み合わせが素敵だなって思ってるんですけど……」
「店主のおれが先走ってしまった所為で、歴さんに刷り込みさせてしまったかな? かえって申し訳ないことをしたかもしれない」
姫丸さんの言い分は一理あった。相手に信頼を寄せすぎているかもしれない。でも――。
合わせて貰ったこの組み合わせ、本当に素敵なんだけどな。
「では、他にも見立てて頂けたら嬉しいです」
「快く引き受けるよ。納得するものを選ぶといい」
ドキドキする。それは普段であれば手の届かない、綺麗な着物を中てて貰えるからだろう。
何とも頼もしく思えた。兄に姫丸さんのような知り合いがいたことに驚いてしまう。
「あの、兄とはどこで知り合ったんですか?」
「凪がhorizonの社員だった頃、おれはhorizonのテナントとして入っていた呉服屋の全国チェーン店で働いていました。同い年だから、話をしている内に何となく」
この人は、兄の前身――兄が黒歴史と名付け、語りたがらない頃――を知っているのね。
「……歴さんには、どうしても赤系を選んでしまうな。どれ、青も出してみようか」
綺麗な所作で立ち上がると、別の棚から青の反物を数本取り出す。
これからまた、先ほどと同じやり取りが繰り返されるのだろうか? そう思うと、顔が自然と赤らんだ。
あまり熱くなり過ぎて、熱が出なければいいのだけど。明日は仕事なんだし……。
少しだけ先が思いやられた私は、呼吸を整えたい衝動に駆られ、姫丸さんに気付かれないほど小さな溜息をひとつ、零したのだった。
2010.04.30
2019.12.11 改稿
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