07話 【嫌い嫌い、大好き】


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07話 (―) 【嫌い嫌い、大好き】



_志貴side

[1]

私は今、やましいことをしている。忠実にして頼れる部下、不破君を伴って。
ユナイソンネオナゴヤ店ドライ食品バックヤード。
仄暗く狭い、通路の柱。積み上げられた商品と商品の隙間から、10メートル先で談笑している男性3名を、私たちはこっそり覗いていた。
「左から順に、富士川健康フーズの坂巻さん。日本いろは本舗の仙道さん。朱鷺酒造の源さんです」
「仙道さんって人、人当たりがよさそうね」
「身体から滲み出てますよね。確かにあの三人の方の中では一番気さくな人ですよ」
「不破君的にはどの人がオススメ?」
「そんなの僕に答えられませんよ。御自分で確かめてください」
「それが出来ないから、こうして不破君をこっそり呼んだんじゃない」
「別に肉食系女子でもいいんじゃないですか? 『彼氏募集中の志貴迦琳です』。――実に分かりやすいじゃないですか」
「単なる彼氏候補じゃないわ。将来を見据えた花婿役も兼ねているんだから」
「志貴さん。はっきり言っておきますけどね、始めからそれ期待されると、男側は非常に重いです」
「アラサー女の焦りを知らないのね、不破君」
「自分でバラしてるってことは、結構余裕あるんじゃないですか?」
「じゃあ坂巻さん。坂巻さんを紹介して」
「仙道さんを気さくな人っぽいなんて評価しておきながら、坂巻さんですか? 志貴さん、顔で選びましたね」
「勤務先が上場企業という点でも、非常に魅力的だわ」
「アラサー女は怖いなー」
「何か言った?」
「いえ。あらほいさっさーって言いました。分かりました。じゃあ坂巻さんを呼んできます」
不破君は、くの字に曲げていた腰を伸ばし、スッと立ち上がる。
自然を装って男性陣の前まで進み出ると、坂巻さんに一言二言何かを告げ、連れてきてくれた。


[2]

「坂巻さん、僕の上司を紹介します」
「は、はじめまして。志貴と申します」
「これはこれは。富士川健康フーズの営業をしております、坂巻と申します。青柳さんとは面識がありますけど、志貴さんは初めてですね」
営業職なだけあり、坂巻さんも口達者な人だった。そんな彼は40代手前に見える。つり目が印象的だ。
「今は、ドライ部門の乳製品売場を担当してますので」
「なるほど、そうでしたか。たまに店内でお見掛けはしていたのですが」
「覚えて下さってたんですか」
「ドライの方なのかなぁ、と。だったら、青柳さんや不破君のような男性ではなく、女性のあなたと組みたいと、恨めしく思っていましたから」
ここで微笑む坂巻さん。「坂巻さん、お上手ですね」と私。「ひどいな坂巻さん。そんなこと思ってたんですか」と不破君。
「ごめんごめん、不破君」
私は不破君にアイコンタクトを送った。好印象だから、次のステップに行きたい! というメッセージを込めて。
「坂巻さん。富士川健康フーズにも、乳製品を使った健康食品がありましたよね? 
志貴は常々、身体に優しいものを店に置きたいと言って、うるさくて」
不破君、ナイス! 上手い上手い! 私もその言葉に乗っかった。
「カタログをお持ちでしたら、見せていただけませんか? ぜひ商談の場を設けて頂きたいのですが……」
「そうですか! それは願ったり叶ったりです。季節別の商品一覧表ならば持ってますよ。お見せしましょう」
不破君はそそくさと場を離れる。私は坂巻さんと個室へ。胸躍る感覚に、思わず小さなガッツポーズを作っていた。


[3]

「……なんですか、その顔。相当ひどいですよ?」
商談が終わり、坂巻さんが部屋を出て行ったのを確認して、入れ替わるように不破君が入ってきた。
私の顔を見るなり暴言を吐いた不破君。でもその言葉は正しかった。自分でもひどい顔をしているなという自覚はあった。
「不破君、指を見てなかったでしょ」
「指?」
「左手薬指の指輪」
「それは……知らなかったな」
「結婚してる。坂巻さん。もしくは婚約中。……はぁー」
「僕としたことが見逃してたなんて――」
机の上に突っ伏していると、
「志貴」
と声がした。……その声は……。
ハッと顔を上げる。すぐ近くに青柳チーフがいた。
不破君は、しまった間に合わなかったすみません志貴さんと書かれた顔で、あらぬ方に視線を向けている。
「……その溜息はなんだ? 志貴」
静かに問う、その声が既に怒っているかのよう。どうしよう、逃げだしたい……。
「え……と、商談が……上手く行きませんでした……。それで、落ち込んでました……」
「商談、か。縁談ではなく」
「エ! ……ンダンだなんてそんな。何を仰るんですかチーフ」
恐々とチーフの目を見た。濃い茶色の双眸には不穏な光が宿り、今にもレーザーが迸って私というターゲットを焼き殺しかねない鋭さを孕んでいる。
「2人とも、休憩時間中なのに商談をしていたのか? そんなに仕事熱心だとは思わなかったぞ」
「う、売り上げに貢献したいと思うのは、社員なら当然ではないでしょうか」
「……まぁいい。2人とも、休憩が終わったのなら速やかに持ち場へ戻れ」
「はい、失礼します」
綺麗な15度のお辞儀を残して退室した不破君に対し、私は見っともないほど無様な礼をした上、床につんのめりそうになりながら部屋を後にした。
青柳チーフが追って来ないのを確認して、私は素早く不破君を捕まえる。
「どうしよう、バレたかな!?」
「100%バレたはずです。でも、不思議に思ってるでしょうね、チーフは。
つい昨日まで自分に好意を寄せていた部下が、いきなり肉食系女子に急変。まるで違う男をハントしにかかったと知ってしまったわけですから。
今頃、『俺への告白はなんだったんだ?』って思ってますよ」
「それって不味いよね!? てか、あばずれ女だって思われちゃったよね!?」
「あばずれ……。いや、そこまではどうだろう……。まぁ、似たようなもんかな……? それはともかく――、志貴さんも往生際が悪いですね。
『青柳チーフとの進展は見込めそうにない。だから新たな恋に生きるの!』なんて宣言を朝僕にかましたばかりなのに、まだチーフを意識してる」
「往生際が悪いのは不破君もでしょう!? 隙あらば透子ちゃんを我が物にしようとし続けたキミに言われたくないわ。 
それより、あぁ、どうしよう! 片っ端に独身の営業の人に声を掛けてるだなんてチーフに思われたら生きていけないよ!」
「……うわ、それは流石に引きますね」
「でしょう!? でもチーフを忘れるには新しい恋が必要なの! この苦しさ、もういらない。早く解放されたいよ~」
「昨日の金華山ドライブが相当こたえたみたいですね」
「人をその気にさせるのが上手いの。最低よ! 人の気も知らずに! 綺麗な夜景に、時折見せる優しさに、秘密のスポット! なんなのよ、あの演出!
もうキライ! 大っ嫌い! チーフなんて!!」
「……それだけ大好きなんですね。これは重症だ」
やれやれと不破君が呟く。
私は今日も、チーフに翻弄され続けるのだった……。


[4]

「リリディ?」
「えぇ。スマートで高貴なシャム猫。かっこよくて可愛い、女子の人気キャラクターです。
最近、リリディが再ブームなんですよ? 知らないんですか、八女さん」
「そう言えば、お菓子のCMに起用されてたわね。『猫のシルエットが乙女心をくすぐる高級チョコ、パドメ≪リリディラ≫、新発売!』」
八女さんはキャッチコピーを諳んじてみせる。
「今日はそのパドメ社から、マネキンさんとリリディの着ぐるみの人が1名ずつ見えてるらしいんです」
「試食販売ね。午前中に、それらしき人たちとすれ違ったわよ。きっと中の人ね」
「中の人なんて言わないで下さい。八女さんのイジワル」
八女さんと話しながらの移動も、ここでストップ。むくれる私は事務所に用事。一方の八女さんはPOSルームでお仕事だから。
「そんなに好きなら一緒に写真撮って貰いなさいよ。記念になるわよ」
八女さんはそう言うと、魅力的なウインクを残して部屋へと入って行った。
写真かぁ……! 満更でもない私である。


_青柳side

[5]

食料品部門を統括する立場にあらせられる食品副店長と売り場作りについて打ち合わせをしていると、「青柳さん、今よろしいですか?」と声を掛けられた。
振り返ると、パドメ社の営業担当者が困り顔で立っていた。
副店長とはキリの良いところまで話し終えており、彼は気を利かせて余所の部門へと歩を進めてくだすった。俺は向き直り、「どうかしましたか?」と尋ねる。
「≪リリディア≫の着ぐるみの件なのですが、大変申し訳ありません。着ぐるみを着る予定の子に、至急家に帰るようにとの連絡がありまして」
「どういう事ですか?」
「お祖父さんが余命2ヶ月の宣告を受けていたそうなんです。でも病態が急変して危篤状態に……。先ほど、急いで帰るよう言いました」
「それは心配ですね。こればかりは仕方ないですよ。気になさらないで下さい」
「私もすぐ本社に戻らなければなりません。当初の予定通り、マネキンの子には≪リリディア≫を売って貰います。くれぐれも頑張るよう念を押しておきました。
売り上げも、2割程度の落ち込みで済めばいいのですが……。リリディで集客効果を狙おうとしていたのにこんな事になってしまって、申し訳ありません」
「リリディの着ぐるみはどうするんです? 持ち帰る予定で?」
「えぇ。そのつもりですが」
きょとんと目を瞬かせている営業担当。
「お借りすることは出来ませんか? せっかく風船や文房具をプレゼントしようと用意したのに御破算なんて、勿体ないですからね。
今日はうちにもアルバイトがいますし、代わりに中に入ってもらいましょう。どうでしょう?」
「それは勿論構いません! 18時頃にもう1度来ます。その時に着ぐるみを回収させて頂きます」
「ありがとうございます」
視線の先にはシャム猫の頭・胴体・靴・手袋。
さて、今日のアルバイトは何人体制だったかなと頭にシフト表を描いた。


[6]

「いませんよ」
不破犬君の不は不遜の不――。
昔、潮透子嬢がそんなことを言っていた。今ならその理由がよく分かる。確かにヤツは不遜だった。
「いない? アルバイトがか? そんなハズはない。山岸がいるだろう」
「そのはずでしたけど、『実験が深夜まであるから来られない』って一昨日言ってたじゃないですか。今日はバイトいませんよ」
不破に指摘されるまですっかり失念していた己の記憶力の乏しさが呪わしい。アルバイトの不在も痛かった。
「17時を利用しないとは愚の骨頂だ。
15時から17時は学校から帰って来た子供連れの母親が多い。着ぐるみリリディの愛くるしさで骨抜きにするつもりだったのに」
「子供を懐柔して売り上げアップを狙っていたんですか。ドSですね」
「Sではない。変な例えをするな。……冗談はともかく、困ったな」
「案、ありますよ」
「言ってみろ」
「着ぐるみにチーフが入ればいいんです」
不破犬君の不は不義理の不でもある――。
潮透子嬢に会ったら、そう告げておこう。
「不破」
「なんですか?」
「ドSなのはお前の方だ」


_志貴side

[7]

作業の手が止まったのは、A4用紙の書類に不備があったからだった。
私では駄目だ。どうしても上司のサインがいる。その事実に私の心は半分傷付き、半分憤った。
どうして私のサインじゃ駄目なのよ! 
――などと罵ったところで、平社員の地位に甘んじている己の無力さを嘆くしかない。
切ない思いを胸に抱え、私は椅子を反転させた。すぐ後ろに不破君がいたからだ。
「不破君、青柳チーフ知らない? 書類にチーフの押印が必要なんだけど」
「チーフなら所用で18時まで席を外すって言ってましたよ」
「そうなの? うーん……。私、17時半から休憩なのよね。チーフって何時上がりだっけ」
「今日は僕と同じ18時です」
「擦れ違いか~。仕方ないね、この紙は明日提出しよう。ところで、チーフの所用って何なの?」
私が尋ねると、不破君は突然吹き出した。え? 何か変なこと訊いたかな……?
「どうして急に笑うの!?」
「えーと。いえ、何でもありません。……っあはははは」
「どう考えたってその反応はおかしいよ! なんか隠してるでしょ!」
「いえ、チーフ職って大変だなーと思って。色んな仕事しなきゃいけないから」
「? チーフ、何の仕事してるの?」
「いえ、言葉の綾です。ていうか、僕も17時少し前ぐらいから、青柳チーフの姿は見てないんですよ」
だから僕に訊かれても分かりません、と。そういうことなのだろうか。
腕時計がピピッと小さな電子音を発した。17時30分。私は今から1時間、休憩を取ることになっている。
ふと昼間に交わした八女さんとのやり取りを思い出す。『そんなに好きなら一緒に写真撮って貰いなさいよ。記念になるわよ』。
リリディ、まだいるかな……? こんな時間だし、試食販売はもう終わっちゃってるかな。
「……じゃあ休憩行ってくるね。不破君、おつかれさま」
私が帰って来る時にはもう不破君は帰ってしまっている。そう思っての言葉だった。
「あぁ、僕、上がったらその足で食堂に行くつもりなので」
「? ふーん……?」
食堂で晩御飯を食べてから帰るつもりなのかな。
そんな社員も時々いるから、私は気にも留めず部屋を出た。


[8]

早めの晩御飯を終えた私は、先送りにした書類がどうしても気になってしまい、食堂を後にしてチーフを捜すことにした。
チーフは18時上がりなのだから、さすがに所用とやらも済ませてドライの小部屋に戻っているだろうと踏んだのだ。
書類に印鑑を貰うぐらいなら、ものの1分もあれば終わってしまう。私にはまだ30分の休憩が残っているのだし、暇と言えば暇だった。
軽やかに階段を下りていると、なんと、憧れのリリディが廊下を横切って行った。
「リ、リリディ!」
私は慌てて後を追う。リリディが入って行ったのはドライの小部屋だった。
もどかしげにドアを開け、どくんどくんと大きく脈打つ心臓の上に拳を置いた。そろ~っと入室する。
不破君は事務所へ行ってしまったのか、それとも売場だろうか。部屋にはリリディしかいなかった。
「あの、えっと……私、中学の頃からリリディのファンなんです! もしよければ写真、一緒に撮って貰ってもいいですか!?」
私の剣幕に、リリディはたじろいだ様子だった。もしかしたら、従業員相手に個人的な写真撮影はNGと言い含められているのかも知れない。
私には永遠に思えるほどたっぷりの時間が経過する。リリディは逡巡したのち、お決まりの右手を腰に当てて左手でニャンと手招きするポーズをしてくれた。
「あっ、ありがとうございます!!」
制服のキュロットからスマホを取り出した。リリディは私の肩に手を置くけれど、その動作はどこかぎこちない。やっぱりこういうの、禁止されてるのかな?
余り長い時間は拘束できないので、失敗しないよう慎重にシャッターを押した。確認すると、満足のいく画が撮れていたので、これまた慎重に保存した。
「リリディ、本当にありがとう! 嬉しい! 写真、大切にするね。大好きリリディ!!」
別れが惜しくて、リリディに抱き付いた。そしてすりすりする。
猫の腰部分にしがみついたつもりでいたけれど、あれ? 何かがおかしい。
リリディはスマートで、スラリとした雌猫だ。確かに着ぐるみもスマートだった。それにしては背が高過ぎるんじゃないかな。
ひょっとして……。リリディの中の人って、だ、男性!?
「わっ!? え、私……す、すみません! てっきり中の人、女性だと思ってて! もしかして男性ですか!? ごめんなさい!!」
かぁぁぁぁと顔中が真っ赤になったのが自分でも分かる。恥ずかしくてお辞儀をするのがやっとだった。あぁ、一刻も早く部屋から出てしまいたい!
くるりと方向転換すると、見知らぬ女性が丁度部屋に入って来るところだった。
髪を綺麗に束ね、ビジネススーツを着込んだ所から察するに、どこかのメーカーの営業に違いない。
「リリディ、ここにいたのね。18時までの予定でしたので、着ぐるみを取りに伺いました」
と言うことは、この人はパドメ社の営業担当者なんだ!
「すみません。今、脱ぎますので」
着ぐるみが喋った!
そんなことはどうでもいい。
肝心なのは……問題なのは……。
リリディの頭部を脱いだ人物が、青柳チーフだったという事だ!!!!!!!


[9]

パドメ社の営業さんへの挨拶もそこそこに、一目散に逃げ出した私はスマホで不破君に電話を掛けた。繋がるなり、捲し立てる。
「不破君! 今どこ!?」
「え、食堂ですけど」
「ちょっとそこで待ってて! お願いだから待ってて! そこにいて!」
「はいはい……」
こうして私は転がるように食堂へと逃げ込んだのだ。
「……ほんと、空回りの達人ですね。あなたって人は」
その一言が胸に突き刺ささり、私はより一層顔を伏せた。
「そもそも、おかしいとは思わなかったんですか? 見抜ける要素はあったでしょう? 着ぐるみのくせに、やけに身長が高いなぁとか」
「それが、すっかり舞い上がってたものだから気付かなくて……」
事情説明以来となるその声は、すっかり悄気返っていた。
不破君は食堂の窓からゆっくり流れる雲を眺めた。18時の空はまだ明るい。初夏ならそれも当然か――。
厄介事から逃避している場合ではなかったと気付いたのか、問題児である私に視線を戻す。
「好きだから抱き付いた。その気持ちは僕にも分かりますよ」
「だから違うってー! そうじゃないの、誤解よ! 青柳チーフが好きだから抱き付いたワケじゃなくて――!」
「でも志貴さんはリリディに抱き付いたんであって、青柳チーフに抱き付いたわけじゃありませんよね。だから別にいいじゃないですか」
「よくない! ちっともよくないよ! 私、リリディになんて言ったっけ? 随分と小っ恥ずかしいことを口走った気がする!」
「だからそれはリリディに対してでしょう」
「私、チーフにそういうところを見られたり……知られたりするの、イヤなの!」
不破君は半眼で私を見つめ返し、分からないなぁという顔をした。
「『そういうの』って言うのは、ミーハーな部分って意味なのか……?」
「分からないならそれでいい。乙女心は複雑なのよ!」
「みたいですね。あ、休憩時間終わるから戻った方がいいですよ。チーフも帰宅してる頃でしょう」
「最近、不破君の言葉が信じられないの」
「は? それ、どういう意味ですか」
「私、最近気付いたの。なんだか不破君の予想とは真逆のことが起こってる気がする。だからチーフもまだいるような気がして仕方ない」
「それはさすがに言いがかりですって! きっともう帰宅してますよ」
でも私の予想は当たっていた。チーフはまだユナイソンにいたのだ。


[10] 

ドライの詰め所にチーフはいた。帰る準備万端の出で立ちで、だったらなぜこの人はさっさと帰らないのだろう。 
「志貴」
「~~~~うぅっ」
ほんと、なんでいるかなぁ、この人……!
「さっき書類を忘れていっただろう。全く、そそっかしい。押印しておいたから、速やかに提出しておくように」
チーフがスッと私の前に差し出したのは、件の書類だった。
私はとても小さな声で御礼を言った。果たしてチーフに聞こえているのかどうか疑わしい声量で。
「可愛げがないな。さっき俺に抱き付いた時は、笑顔で『大好き!』なんて言ったくせに」
ボッ。
と火がついたように、顔が真っ赤に沸いた。もう駄目。張り倒したい、この人!
「違います! 私が大好きなのはリリディです! ちゃんと言いましたよね!? 『大好きリリディ』って!」
噛み付きながら訂正し、肩で息を整える。それに対して青柳チーフは表情を変えることなくただ静かに聞いていた。と思いきや、
「だが、言ったじゃないか。『私はどうしようもないほど青柳チーフが好きです』って」
窒息するかと思った。まさか、その話をここで持ち出すとは思わなかったから。
「あの言葉は嘘だったのか?」
「な……」
「『私が好きな人は青柳さん、貴方なの』……だったか?」
「!!!!!!」
「あの告白も嘘?」
「や……やめて……」
「あんなに必死に訴えていたのに」
「わ……忘れて下さい……」
どういうつもり? 今は仕事中で、青柳チーフはこういう私語を厭うような人だったでしょう?
それなのに、どうして今それを言うの……。
怖い。何が起きているの? 身体が震える。
「そう言えば、この間は富士川健康フーズの坂巻さんを相手に口説いていたんだったな。……お前の考えていることは、さっぱり分からんよ」
音もなく静かに椅子から腰をあげると、チーフは鞄を持ってドアへと向かった。話はこれで終わりで、帰るつもりらしい。
思わず私は引き留めていた。青柳チーフの背中に向かって。
「わ、わけ分かんないのはこっちです! 私を好きじゃないなら綺麗な夜景なんて見せないで! あんなことされたら……期待しちゃう!」
「あんなこと? たかが夜景に連れて行っただけで誤解されては困るんだが。社内恋愛はしない主義だ」
「っ……嫌い! チーフなんて、大っ嫌い!」
「それでいい。俺はお前とどうこうなるつもりはない。諦めてくれるなら本望だ」
うそ……。拒絶……された。2度目の告白は、完膚無きまでに否定された。
『嫌い』は本心ではない。全くの真逆。チーフには素直になるって言ったじゃない。誓ったじゃない。
「ごめんなさい、……ごめんなさい。嘘です。本当に、私、青柳チーフが好きです……!
嫌いなんて嘘。嫌いになんてなれない。お願い、私を嫌わないで。避けないで……。好きです。大好きなんです、チーフのこと」
「嫌いにはならない。……好きにもならないが」
「私がユナイソンを辞めたら、恋愛対象として見て貰えますか?」
「またそういう……。どうしてそう、物事を短絡的に考えるんだ。そういう考え方は虫酸が走るほど嫌いだ。
2度とそんなことが言えないように今言えばいいのか? 
例えお前が社外の人間になったとしても、俺はお前と恋愛する気はない。だから無駄だ。やめておけ」
「……」
「はっきり言っておく。お前の好意は迷惑だ。害でしかない。明日からはただの社員として振る舞ってくれ。それじゃあ、お疲れ様」
チーフは私の心を粉々に踏み躙った。
でも憎めないのはどうして?
こんなに傷付くことを言われて、なお追い縋ろうとしているのはなぜなの?
好きだから。
青柳チーフが好きだから。
それなのに私の想いが害でしかないなんて。
私は人を愛する資格がないんだろうか。
どうして? 私の何がいけないの? 理由が訊きたい。理由を知りたい。
「……っ」
私はスマホを取り出す。震える手で青柳チーフの番号を押した。チーフは思いのほか早く出た。
「何だ」
「理由を教えて下さい。どうして私では駄目なのか」
「理由?」
「私が納得できるように説明して下さい! 私の何がいけないんですか!?」
「――それは……」
「悪いとこがあったら全部直します! チーフ好みの格好だってします! チーフの為なら私、なんだってする……! だから……っ。
理由……教えて……。っふ……ぐすッ。私、チーフ好きで……っ。ほんとに、すごく大好きなのに……!」
「……切るぞ」
言葉はどこまでも本当だった。
遮断。
ぷつんと。
いろんなものが途切れた瞬間だった。



2012.02.06
2020.02.14 改稿


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