「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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32話 【Communication Gap!】
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32話 (潮) 【Communication Gap!】
『彼女らしい』コトしてみたい。『彼女面』、もっとしたい。
だってせっかく、やっと隣りにいることが許されたんだもの。
どうしたら、もっともっと、いま以上に喜んでくれるの? 伊神さん。
___01
「月末月始処理、大型広告、週間の切り替えで仕事は山積み。楽しい社員旅行から早一ヶ月。あの旅行が嘘のよう」
7月のカレンダーに書き込まれた催事一覧と、赤ペンによる作業内容を見た私が落胆し、溜息をつくと。
「大丈夫ですよ。3人で頑張れば、なんてことありません」
ネガティブな私を元気付けようと、千早さんがポジティブなコメントを差し込んだ。
「頑張りましょ、透子さん!」と可愛らしく両手で握り拳を作って。私は「そうね」と担がれてみる。
そんなやり取りの横で、八女チーフが長電話をしていた。何の話を、誰としているのやら。
耳をそばだててみたものの、チーフは相槌を打つばかり。やがて「分かりました」という言葉で締め括ると、静かに受話器を置いた。
チーフは回転チェアを動かすと私を千早さんを交互に見やり、申し訳なさそうに、けれどきっぱり言い切った。
「ローテーション変更よ」
組んでいた足を解き、スッと立ち上がると、プリンタから出力されたA4用紙をそれぞれ私と千早さんに配った。POSオペレーターの出勤表だ。
余りにも唐突で大胆な改編が施されている。まるで別人の勤務表を見ているような気分だ。千早さんは用紙を呆然と見つめ、不安げな様子。
無理もない。すべて遅番に書き換えられてしまったし、休日も違う曜日になってしまっては、途方に暮れたくもなるだろう。
そして私はその逆。早番固定が多く、休日もいつもと違う曜日になっていた。八女チーフは中番メインのようだ。こちらも休日の曜日が異なる。
「ごめんね、2人とも。上からのオーダーなの。来週の月曜日からこのローテーションで勤務してくれる? 予定があるなら私が代わるから」
「私は大丈夫です」
「私も平気です。予定の方はずらせますから。それより芙蓉チーフ、上からのオーダーというのは……兄からですか?」
会社の組織図で言うと、POSオペレーターは業務部の傘下。上司は千早事務長となる。八女チーフはあっさり認めた。
「えぇ、電話の相手は千早事務長よ。カイゼン活動の一環なんですって。会社総出で行っている名目をチラつかされた以上、部下としては従うしかないわ」
「カイゼンの……。そうですか」
「腑に落ちない顔ね、千早。さてはあなたのお兄さんが何か企んでいると思ってる?」
千早さんは居心地が悪いのか、椅子に座ったまますっかり萎縮していた。
「私もそう思ったんだけど……見て。理に適った配分だと思わない?」
修正された勤務計画表を見て真っ先に思ったことを口にしてみる。
「3人が被らないようになってますよね」
私の言葉に、芙蓉チーフは頷いた。
「今までは繁忙優先シフトだった。これからはそれをやめるの。どんなに多忙でも、営業時間中は可能な限りオペレーターを配置するんですって。
『さほど忙しくない時間でも、いて貰わないと困る』という売場の意見を取り入れて、今まで疎かにしていた時間に1人置くことにしたみたい」
「それが今回のカイゼンですか」
「そう。話がきたのは千早事務長からだったけど、店長のオーダーかもしれないわね」
この急な変更は千早事務長の私利私欲から来る企てではなく、問題点解決のために打ち出された正規の依頼だったのか。
「分かりました。来週からこの勤務で頑張ります」
「残念。これから千早さんとはあまり一緒に働けなくなるね。ほとんど私と真逆で休日も重ならないから、週3日しか会えないや」
私の言葉に、千早さんはベソをかいたように眉と口を八の字型にした。
___02
「そんなわけで2週間前からカイゼンが始まって今は新しいローテーションで動いてるんだけど、メンテナンス部にはそういう通達あった?」
私が尋ねると、伊神さんは首を振った。
「オレのところには何もなかったよ」
「そうなんだ。……順番なのかなぁ。もしかしたらメンテナンス部もその内言われるかもね」
「そうかもしれないね」
伊神さんも今日は早番。18時に店内で待ち合わせ、ユナイソン内で食事する約束をしていた。
平日だけど、制服を着た学生で店内は賑わっている。
「高校生だ。懐かしいなー」
名古屋の制服なら少しは分かる。志望動機を制服で選ぶ女子は少なくなかったから、冷やかし半分でカタログを捲った覚えがあるのだ。
とはいえ親から「どうか公立に」と懇願されていたから、中学・高校とオーソドックスなセーラー服だったけど。
いま私の前を歩いているのは名門『政嵐』の生徒たちだ。幼稚園から大学院までを擁する、天下のマンモス私立付属学校。
ユニークなことに江戸時代を模した運営で有名な学校だ。例えば1年1組ではなく、壱年い組、弐年ろ組、参年は組、なんて具合に。
生徒会役員の選出方法も独特で、戦めいた合戦が行われ、生徒会長は将軍、副会長は大老、書記は奥右筆、会計は勘定奉行と呼ばれるらしい。
意見書や陳情書は目安箱へ投函、出入り口には関所が設けられていたりと、そのシステムはどこまでも特殊だ。
制服はカスタマイズOKで、希望するデザインを『呉服屋』(被服科)が見事に叶えてくれるのだそうだ。
どんな格好をしても違反にはならない。でも過度な露出は禁止しているようで、風紀委員的存在はあると言う。
なぜ詳しいかというと、八女チーフが政嵐出身だからだ。しかもミスコンの覇者だというのだから恐れ入る。
「政嵐の子たちだね」
「もしかして母校だった?」
「いや、オレは隣りのセント・グロリアだよ」
「伊神さん、セングロだったの!?」
セント・グロリアの正式名称は『聖(せい)グロリア学園』。政嵐の真隣りに美しい校舎を構えた、ミッション系の私立一貫校だ。
政嵐とは何かと張り合う中で、お互いを目の敵にしており、盛んに交流を深めては切磋琢磨している――というのは東海地方でも有名な話だ。
「どうしてミッション系の学校へ? イメージ的には仏教で、政嵐っぽいのに」
初めて明かされた伊神さんの過去に、私は驚きを禁じ得ない。
「あぁ、それはインド=仏陀=仏教というイメージかな? 実は国内の仏教徒は人口の1割にも満たないんだよ。歴史や風土がそうさせたんだね。
確かに母はヒンズー教徒だけど、俺や妹たちをセングロに入れたのは父方の祖母の意思なんだ。
こんなご時世なのに、『見た目がハーフ風情だから公立や政嵐だと目立つ』と言い張ってね。祖母は昔ながらの堅物なんだ。
その点セングロには帰国子女が多い。ハーフやクォーターも多いから馴染むと踏んだらしい。
確かに授業は受け易かったよ。居心地もよかった。英語も通じたし、秘密の会話はヒンドゥー語で盛り上がれたしね」
くすくすと思い出し笑いをする伊神さん。新たな一面を知れて嬉しい半面、そんな貴重な時間を過ごせなかった自分が恨めしい。
「じゃあ、ひょっとして八女チーフのことも知ってた?」
「噂は流れてたよ。『ミス政嵐2年制覇の美人がいる』って話題だったから。隠し撮り写真を見せて貰った覚えがある。へぇ、この子がって」
「すごい……そんな接点があったんだ……。八女チーフ、どんな風だった?」
「え? ……う~ん、難しい質問だな。髪は今よりもっと長くて……茶髪でふわふわ? にっこり微笑んでて……確かに綺麗だったよ」
「にっこり? 微笑んで……?」
私の頭には、不敵に微笑んでいる表情や、般若の形相で怒る顔しか浮かんで来ないんだけど。
伊神さんの学生時代の話を聞きながら、私たちは立ち寄った豆腐懐石店で舌鼓を打った。
___03
食事を終えると、斜向かいのエスニック雑貨店入り口に置かれたマネキンの服に魅せられ、つい近くまで寄ってしまった私である。
「伊神さん、ねぇこれ! 民族衣装? サリーだよね」
朱色メインで作られた、シルク製サリーだった。刺繍糸は金色で、照明の灯りの元、目映く光り輝いている。
男性用も見てみたい。店内に入り、エキゾチックな空間に視線を這わせていると、伊神さんも後から付いてきた。
「男性用もないかな」
「クルタ? さぁ、どうかな……」
「あ、これ! マハラジャとかが着てるやつみたい。ゴージャス」
「シャルワニっていう、男性用礼装服だね」
「伊神さんはこれ! 絶対これ!」
アイボリー地に金刺繍の服は、伊神さんの前身ごろに宛がうと、信じられないぐらいしっくり馴染んでいた。
「さすが伊神さん。めちゃくちゃ似合う!」
まるでモデルが着こなしているみたいだ。写真に収めたい衝動に駆られるけど、仮にもここは店内。我慢の子だ。
後ろ髪を引かれる思いでシャルワニをもとの位置に戻す。すると、隣りには女性用の衣裳がかかっていた。
なんだろうと思って手に取ると、これがまた溜息が洩れそうなぐらい煌びやかな作りで魅入ってしまう。
「綺麗~! この紫の衣装、すっごく色っぽい」
「女性用礼装服のレヘンガだ」
サリーとは別物で、ベリーダンスの衣裳っぽい作り。衣はシースルーで、やけに大人っぽい。
似合わないと分かっていながらも、それでも手に取って鏡の前で合わせてみたくなるのが女の心情というもの。
衣を宛がうと、案の定、とてつもなくチグハグで滑稽な姿がそこにはあった。八女チーフなら似合いそうなのよね、これ……。
慌ててその衣装を戻すと、横からスッと、白地に銀刺繍が施されたレヘンガが差し出された。
「透子ちゃんにはこっちが似合いそう」
さっきの行動、やっぱり見られてたか……。
「お嫁さんみたいだね」
その発言、その微笑みに、ボッと顔が茹で上がった。お、お嫁さん?
「綺麗だ。透子ちゃんをお嫁さんにできる人は幸せ者だね」
私はぽかんと口を開け、まじまじと伊神さんを見つめる。
ん? と小首を傾げつつも、いつものように柔和な笑みを浮かべている伊神さんは、無意識に発した己の言葉になぜ私が反応したのか分かっていない様子だった。
今のはどういう意味だろう。額面通りに受け取れば『2人は付き合っているけれど、その先を見据えているわけではない』と聞こえる。
いつか私たちが別れ、傷が癒えた頃。お互いに新しい人を見付け、それぞれの道を歩んでいく……。伊神さんはそんな未来を描いているのだろうか。
それじゃあ、まるで私との交際が人生の通過点みたいじゃない。伊神さんは、私との結婚を視野に入れていないの?
――駄目だ、そんなの怖くて聞けっこない。だったらせめて、冗談めかして言ってみようか。
「なに言ってるの、伊神さん。そんな他人行儀なこと言わないで。伊神さんがその幸せ者になるんだからね?」
いつもの調子で言ってみる。拗ねた口振りで、ワガママ気味に。
実際は不安でいっぱいだ。私の眉は下がってないだろうか。この恐怖心はバレてないだろうか。
きっと脅えが伝わってしまったら、私を気遣って「そんな事ないよ」って取り繕うに決まってる。それでは意味がない。伊神さんの本心が知りたいのだから。
「オレにその資格があるのかな」
そう呟いた伊神さんは、少し困った顔をしていた。笑ってはいるけど、つらそうな本音が貼り付いてしまっている。
伊神さんは既に自分の中で答えを出している?
私との未来を諦め、手放そうと決めているような、他人行儀な境界線が引かれているのを、嫌でも感じてしまうのだ。
「資格なんて要らないよ」
伊神さんにぶつけるわけにはいかない、やり場のない焦りを必死に抑える。
「心配事があるの? 一緒に乗り越えれば大丈夫だよ」
言って。言ってよ。「そうだね」って、いつもみたいに優しく微笑みながら頷いてよ。笑って安心させてよ。
どうして黙ってるの。なんで何も言わないの。どうして? ねぇ、なんで、どうして。
「そっか、まだ付き合って間もないもんね。結婚とか将来とか、考えるのはまだ早いよね。あはは、私ってほんと、そそっかしいな」
ぎこちない笑いと、その場凌ぎのみえみえな言葉でむりやり収束させる。だって、これ以上は耐えられない。
伊神さんは、そんな私の機微に気付いてる。気付いててなお、私を傷付けまいと、私と似たようなぎこちない笑みを浮かべて笑い返す。
うそ、どうしよう。どうして気付かなかったの、私。伊神さんがどんな思いで私を受け入れようとしていたのか、とか。
2人は両想いのはずで、1度は座礁しかけた困難だって、乗り越えてみせたじゃない。かたい絆で結ばれているからだと信じていたのに。
溝が埋まらない。私は伊神さんの深いところまで、もっと潜っていかないと。このままでは私たちの未来が壊れてしまう。
___04
翌日。いち早く杣庄を捕まえたくて、出勤時間から随分余裕をもたせて職場に来た。競歩に近い私の歩幅に、杣庄は明らかに狼狽した表情。
これでも長い付き合い。『今度は何をしでかそうとしてるんだ?』。大方、頭にはそんな疑問が浮かんでいることだろう。
杣庄はとっくに無駄な抵抗をやめている。私は彼の腕を引っ張り、従業員通路の3階へと突き進む。
このフロアで働く従業員は、朝の8時に来たりしない。完全に静まり返った空間で、私は杣庄と対峙した。
彼は私の腕を振りほどくなり、その手首をさすりながら私を見下ろした。
「こんなところに連れ込んで、何しようってんだ」
明らかに呆れ口調だった。
「これが中学高校なら間違いなく告白だよな。だが相手は透子だし、どうせまた無理難題を言い出す気だろ。あ~ぁ、可哀想な俺」
「御託はいいから、これ食べて」
杣庄は私が差し出した固形物をしげしげと見つめた。やっと手に取り、恐る恐るアルミホイルを広げる。次の瞬間、その顔が歪んだ。
「食えって……これ、ホウ酸団子じゃねぇの?」
「誰がホウ酸団子なんか作るのよ! クッキーよ、見て分かるでしょ!?」
「どう見たってクッキーの色じゃねぇし。何でこんなに白いんだ?」
「ブール・ド・ネージュ! クッキーの親戚みたいなもんよ」
「なんだそれ……。つまり俺は毒見役か?」
「毒じゃないってば。いいから早く食べてよ」
おびえ、引きつった杣庄の顔に、昨日一所懸命作ったブール・ド・ネージュを突き付ける。
顔を背け、数秒ほど拒んでいたものの、口元へ近付けると観念したのかパクリと頬張った。
「どぉ?」
さく、さく、と噛む音。やがて杣庄は苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「あめぇ。砂糖のかたまり食ってるみてぇ」
さらに『番茶が欲しい』などと軽口を叩く始末。
「甘いわよ、そういうお菓子だもの。私が訊いてるのは、美味しいのか美味しくないのかってこと」
「俺がこんなの食って、賛辞を送るとでも?」
「頑張って作ったのよ? 『努力したんだろうな、美味しいって言ってやろう』って、労ってくれるでしょ、普通は」
「逆に分かりづれぇよ、こんな風変わりなお菓子。そもそも本物食ったこともねぇし、味の品評なんてしようがねぇ」
「も~っ! 杣庄に試食を頼んだ私が愚かだった。人選ミスだわ」
「人を拉致っておいてその言い草はねぇだろ。しかも明らかに実験台じゃねぇか」
「仕方ないでしょ、杣庄しか頼める人がいないんだから」
「伊神さんがいるだろ」
「その伊神さんにあげるお菓子よっ」
私の剣幕に驚いたのか、はたまた回答に驚いたのか。杣庄は、そこで言い争うのをやめた。
「あぁ、なるほど。伊神さん宛てか」
合点がいったとばかりに苦笑い。
「いや、俺には甘過ぎだけど、伊神さんならきっと美味しいって言ってくれるよ」
「……伊神さんは、美味しくなくても美味しいって言う。きっと」
「それが伊神さんの優しさだろ?」
「そうだけど……。私は、本当に美味しいものを食べさせてあげたいの。心から美味しいって思ってもらえるようなモノを。
伊神さんのお弁当、知ってるでしょ? まるで百貨店のお惣菜屋さんレベル。既に割烹の域よね。
私じゃ到底太刀打ちできない。でも、喜ばせてあげたいの。お菓子の差し入れ、女の子っぽいでしょ? 彼女っぽいでしょ?」
「喜ばせる……? なぁ、お前がいるだけで、充分嬉しいと思ってるぜ、伊神さんは」
「でも……」
女性として、未だに伊神さんを喜ばせてあげられてないんだよ。
そう杣庄に打ち明けたかったけれど、言えない。そんな大きな秘密、ペラペラと話せない。
私は迂闊にも不破犬君に話してしまい、その件で後悔済みだった。
ことは男性にとって、とてもデリケートな問題。伊神さんが杣庄にさえ打ち明けなかったのだ。私は黙っているしかない。
伊神さん本人とは、時間を掛けて、ゆっくり一緒に治していこうと誓い合った。
けれどその一方で焦りもある。昨日の一件が、どうしても頭から離れてくれないから。考えれば考えるほど気が滅入る。
そう言えば、付き合い始めてから、伊神さんから返ってくるのは同等のものだと気付いてしまった。
例えばハグは1回したら1回だけ返してくれる。キスもそう。2回すれば2回。
まるでその都度のお返しのよう。私がした回数以上のことはしない。向こうからは一切ない。
その事実にも気付いてしまったから、無性に寂しくて、私は伊神さんを喜ばせているのだろうかと自信が持てずにいる。
伊神さんは優しいから、不満があったとしても言葉とともに飲み込んでしまっているんじゃないかと気配を探ってしまう。
そしてこれは――認めたくはない。認めたくはないけれど、思ってしまうのだ。
不破犬君なら、回数以上のものを与えてくれたんだろうな、なんて。
比べてはいけないことを、比べてはいけない人と比べてしまった。これは罪なことだと思う。後ろめたさと疾しさを感じる。
心の中に、比較したい自分がいるという事実が成り立ってしまうみたいでイヤになる。まるで伊神さんを裏切ってる気分だ。
「伊神さんと一緒にいられて幸せなのに、この期に及んでアイツがチラつき始めてる」
さすがに、杣庄の顔を見ながらはとてもじゃない、言えなかった。
怒ってる? 悲しんでる? 呆れてる? その、どれものような気がした。
「気になってるのか? どんな具合に」
怒ってる。多分杣庄、怒ってる。
「……ここ最近、勤務時間が私と真逆だなーとか。休みは私と絶対被らない日に取ってるみたいだし、避けっぷりが露骨だな……って」
「それが悲しいのか?」
その質問に激しく動揺してしまった。返事に窮していると、杣庄は続けた。
「顔あげろ。別に怒ってないから」
恐る恐る見上げる。杣庄の顔は、特に普段と変わらないように見えた。
「どうして? 怒ってないの? 私、最低な発言したよ?」
「それがお前の本心なら、俺が怒っても仕方のないことだからだ」
「杣庄に怒って貰えたら、いっそ楽になれたのにな。道徳的にNGだって言われたら、そうだよねって納得もしたのに」
私の意見を尊重してくれるから、困る。
「伊神さん、好きだよ。めちゃくちゃ大好き。なのになんでだろう。どうしてこんなに切ないの?
今までで一番近くにいるのにおかしいよね。今では距離を感じてしまう。
挙句の果てに、よりにもよってアイツが脳裏にちらつくんだよ? ほんともう、勘弁して欲しい……。
伊神さんのことを考えてたはずなのに、気付いたら不破犬君はなんで私を避けるの? わざとなの? って考えちゃってて……。
時間が解決してくれるのかな? そうだよね、伊神さんに寄り添うべきだよね。倦怠期みたいなもんなのかな。早く訪れた気もするけど」
「実際に付き合ってから初めて見えてくるものだってあるさ。お前の場合はソレだったって話だ。
それに、一廼穂サンがこの前言ってた。『潮って、伊神から気持ち離れてるように見える』って」
一廼穂碩人? なぜ伊神さんと同じ部署の人の名前が出てくるんだろう。一体いつから、どうしてそんな風に感じ取ったんだろう?
疑問を口にすると、杣庄はあっさり教えてくれた。
「都築をとっちめた時だ。一廼穂サン曰く、不破のやつ、片想いの相手が恋敵と車内でイチャついてるのに平気な顔をしてたんだとさ。
なんで何とも思わないんだコイツ? って不思議に思ったんだと。でもその時気付いたそうだ。3人それぞれの態度から、目に見えない本音を」
「本音?」
「一廼穂サン、こうも言ってた。『潮と伊神は両想いに見えて実は片想いだ。よりによって心が揺らいでいるのは潮の方だぜ。
嗅覚の鋭い犬は一足先に気付いたんだ。だからこその余裕だろ。お世辞にも潮と伊神の距離が縮まっているとは言えない。
それどころか、ぎこちない空気が漂ってる。都築のやり方も、まんざら的外れでもなかったかもな。噛み合ってねぇよ、歯車』って」
「そんな」
私でさえ気付いていなかった心の声に、一廼穂チーフは気付いていたって言うの? それも、そんなに前から……。
「俺さ、正直そんなバカなって思ってたんだ。透子のことは俺がずっと傍で見てた。透子の本心を見誤るなんてあり得ないって。
ただ一廼穂サンは昔から伊神さんの傍にいた人だし、客観的に物事を見れる立場でもある。どうやらあの人の見立ては正しかったわけだ」
___05
あの時。
伊神さんを求める想いは強くなる一方で。それでもまだ足りないと感じた。何かが足りない。だから埋めたいと。
何が足りなのか、そこまでは分からなかった。
大切な伊神さんが帰ってきた。やっと悪夢から解放されて、大好きな伊神さんの近くにいるというのに、私ったらまだ不安で。
足りないならば満たせばいい。そう思ったのに、心に隙間風を感じたのは何故だろう? あの時は、気が昂っていたからと結論付けたけど。
「足りなかったのは、不破犬君という存在だった……?」
私はあの時すでに、不破犬君を――?
杣庄が溜息をつく。
「透子が追い縋っていたのは伊神さんの幻。だが、透子の目が追っていたのは不破犬君」
___06
「やめて杣庄。それ以上は……」
伊神さんへの忠誠心がブレ始めてしまう。だからやめて。
まさか伊神さんは気付いてた? 私が不破犬君を意識していることを知ってたから、私との未来を描けなかった?
「……問題の原因は私にあったの?」
杣庄の唇は、硬く一文字に引き結ばれていた。その口元が動く。
「駄目だ透子。不破にはもう彼女がいる」
「え……? 不破犬君に彼女……?」
『この先、例え何かが起きたとしても、僕は透子さんを想い続けます。好きな気持ちは変わりません』。
そう言っていた不破犬君の言葉は無効になった。当然だ。私が幻滅させたのだ。彼を侮辱して。
「……そうなんだね。知らなかった」
私、ショックを受けてる。
そして、ショックを受けていることが、ショックだった。
話そうか話すまいか逡巡している杣庄の顔を見返している私は、今どんな顔をしているんだろう。明らかに悲しげな表情になっているんだろうか。
無理に笑顔を作ろうとしたけれど、駄目だった。筋肉が強張ってしまって口元がピクピクと痙攣してしまってる。私は顔を背け、背を向けた。
杣庄は背後から小さな声で告げた。
「不破の彼女は千早さんだ」
「……杣庄ウソ下手すぎ~……。笑えないよ、それ」
「嘘じゃない。本当だ」
振り返り、まじまじと杣庄の顔を見つめる。杣庄の顔は、冗談を言っているようには見えない。
頭がこんがらがる。不破犬君と……千早さん?
「千早さん? どうして千早さん? だって柾さんは? 麻生さんは?」
出て来る言葉、すべてが疑問文だった。だって青天の霹靂だもの。
繋がるはずのない者同士が繋がった、あり得ない事柄。1から順序立てて聞かせて欲しい。
千早さんには柾さんと麻生さんがいた。これが根底の事実。
千早さんから不破犬君を異性として見ていた話は、ついぞ聞いたことがない。なのになぜ。
「彼女が選んだのは柾さんでも麻生さんでもなく、不破だ」
なにそれ、聞いてない。どうして2人が付き合い出したの? そんな素振り、2人とも見せなかったじゃない。
冴えない頭をフル回転させて思い起こす。するとすぐに違和感に行きあたった。
「……そうだ……、千早さんと不破犬君の勤務、同じだ……!」
休みの日、出勤時間。いつからだった? そう言えば2人は今、同じ勤務スケジュールじゃない!?
「ねぇ、いつから付き合い出したか知ってる?」
「2週間……くらい前だったか」
私が不破犬君とすれ違うようになったのも、それぐらいの時期だった。私たちPOSオペレーターの勤務が変更になったのも。
でも、そんな前からだなんて。どうして誰も教えてくれなかったの? 緘口令でも布かれてた? 私は伊神さんと付き合ってるから関係ないって?
水臭いじゃない、千早さん。
「お前、不破を振っただろ。不破犬君に告白して玉砕した社員が早くもいるみたいだぜ。
『なのに千早歴とはあっさり付き合うのか!』って、逆恨みが酷くてな。今や彼女の評判ガタ落ちだ。
もともと柾さんや麻生さんのことで一部の女性陣から疎まれてたらしいし、この件で拍車がかかったんだろうな。
それで八女サンが昨日、『千早、あなたの評判スゴいわよ』って声を掛けたんだと。何て答えたと思う? 『覚悟の上です』だとさ」
私にはそのシーンがあっさり浮かんだ。
おどおどしているようで、その実、芯の強い子だ。己を鼓舞するかのようにキッと前を見据えて言い放ったに違いない。『覚悟の上です』と。
「……そんなに真剣なの?」
「何があったんだろうな、あの2人に」
「そりゃあ……純粋な恋愛感情ありきの展開じゃない? この2週間で急接近したとか」
「こんな短期間でよく交際まで漕ぎ着けられたよな。四六時中過保護なオニーサマが目を光らせてるって言うのに。
確かに不破は凪サンのお気に入りだが、愛妹が絡んじまったら話は別だろう。よく交際を許したな」
「普通お兄さんの許可なんて要らないんだけど。……千早さんの言う『覚悟の上』の中には『兄を説得する覚悟』も含まれてるんじゃない?」
「だったら尚更不可解だ。兄に立ち向かえるだけの『覚悟』があるなら、柾さんや麻生さんとだって付き合えただろ」
「あ……それもそうか……」
杣庄は凄い。まるでパズルのピースを埋めるかのように、読みがカチリカチリとはまっていく。果たして正誤はいかに。
「この一件には凪サンも絡んでると俺は見た。寧ろ、凪サンが仕組んだんじゃないかとさえ思えてくる」
「千早事務長が仕組んだとして、千早さんが素直に言うこと聞くかな……? あれでいて、結構頑固な部分もあるんだよ」
ひょっとしてカイゼンと言う名目で改変されたあの勤務変更は、仕組まれたものだったのだろうか。
「キーワードは2週間前だ」
「2週間前か……。万引き事件と勤務計画変更があったぐらいのような気がするけど」
杣庄も、それ以外に変わった様子はなかったと言う。
でも、こうして千早さんと不破犬君が付き合ってる(と言われている)以上、決定的な出来事があったのだろう。私の知り得ないところで。
2013.05.09
2025.12.09
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