41話 【Little Closer!】


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41話 (―) 【Little Closer!】


___01.潮透子side

不破家の訪問から一夜明け、POSルームへ赴いた私は八女チーフと千早さんに『一身上の都合』を報告した。
2人はしばらくぽかんと口を開け、黙っていた。その雰囲気に気圧され、私は報告したことを後悔しはじめる。
ややあって千早さんが反応した。目がキラキラと輝いて見えるのは気の所為ではないだろう。
「おめでとうございます、透子さん!」
「……ありがと、千早さん」
なんだかくすぐったくて、照れてしまう。
「やっと収まるところに収まったわけね」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべつつ椅子の上で足を組んでいるのは我らが上司、八女芙蓉サマだ。
制服のスカートから伸びた魅惑の太ももは今日も変わらぬ美しさである。
「別れたなら、もう伊神を振り回すんじゃないわよ? あれは私の特権なんだから」
「いつから伊神さんがチーフ専属の相談員になったって言うんですか。そんなの認めませんから。
これからも伊神さんのよき友、よき理解者として仲良くしていく所存ですよ~、だ!」
「私もお友達になりました。お2人が仰る通り、とてもお優しい方ですね。伊神さんに連れて行ってもらった動物園、とても楽しかったです」
「……待って。まさかの方向から伏兵が……。ちょっと千早さん、いつの間に?」
「伊神はフリ―なんだから、誰と遊んだって構わないでしょう?」
「そうやって私を虐めるの、やめてくださいよ……」
「とにかくおめでとう、潮。わんちゃんとお幸せにね」
「優しくリードしてくれる方だと思います。お似合いですよ、透子さん」
「2人とも……ありがとう」
誰より近しい2人だからこそ、祝福はとてもありがたいし、嬉しかった。
ところで千早さんは一緒になって笑ってくれているけれど、彼女自身の問題は、実はまだ横たわったままだ。
それでも彼女なりに答えを見付けたのだと思う。私の横で笑う千早さんは、この間までとは違うように見えるから。
彼女の物語も、そろそろ進み出しそうな気配だ。


___02

今日は杣庄と2人で遅番同士、一緒に昼休憩を取ることにしていた。
若干混み始めた回転寿司店内。杣庄は既にテーブルに案内されていた。「お待たせ」と声を掛け、向かい合うように座る。
お茶と箸を用意してくた杣庄にお礼を言い、例の報告も付け加えることにした。
ただし杣庄の手には熱いお茶が入った湯のみ。驚かせてお茶を噴き出させるわけにはいかないので、咽喉を通過したのを確かめてから切り出す。
「不破犬君と付き合うことになりました」
「……正気か?」
この時の杣庄の顔といったら。
呆れて物も言えないような、やめておけと言いたいのに聞き入れてもらうのは困難だと悟ったような、明らかに苦りきった表情だった。
きっと複雑な心境だろう。だからこそ、きちんと説明した方がいいと思った。
「伊神さんとちゃんとお別れしたの。不破犬君は、千早さんと正式に付き合ってたわけじゃなかったみたいで……」
「……分かった。お前がいいなら俺はもう何も言わない。それに『祝福して欲しい』ってお前の顔が言ってるからな。……おめでと、透子」
「杣庄……。ありがとう」
「よりによってアイツが透子の彼氏か。これからは透子もアイツの味方になるんだろ? もう教育的指導できねぇな」
「教育的指導という名のイビリでしょ? やるなら私のいないところでね」
「言うようになったじゃん。ご馳走さま」
「杣庄にはとても感謝してるんだ。本当に、今までありがとう」
急に神妙に言ったからだろうか、杣庄も真面目な顔付きになった。でも、結局は肩の荷を下ろしたかのように、ふっと微笑んでくれた。
「あぁ」
「これからもよろしく」
「しょーがねーなー!」
身を乗り出し、わしゃわしゃと私の髪を掻き回す杣庄。
ときには妹のように、ときには恋人のように、常に私を守ってくれた杣庄。
感謝してもしきれないほどの愛情を注いでくれた大切な友人だから、この関係が今なお続いてくれて、心の底から嬉しい。
しみじみと感慨に浸っていると、杣庄のポケットからメロディーが流れてきた。スマホを取り出した彼は、画面を見るなり僅かに眉をひそめる。
「……なに? どしたの?」
「千早さんの兄上から急な呼び出しだ。なんだろ?」
訝しみながらも「透子は食事を続けな。悪いけど、これで支払いしておいてくれ」とテーブルの上に2千円を置くなり足早に店を出る。
こんなことになるとは思わなかったから、私も杣庄も1皿しか食べていない。とは言え、私だけこのまま食べ続けるのも気が引けてしまう。
その時、杣庄と懇意の仲である大将が通り掛かり、怪訝そうに「杣庄のやつ、何かあったのか?」と私に尋ねたので、経緯を説明した。
ありがたいことに大将は「きみはそのまま食べてくといい。杣庄用に別に寿司を握るから、後で渡してやってくれ」と寿司折を持たせてくれた。
その言葉に甘えさせて貰うことにする。……それにしても一体、何があったんだろう。


___03

POSルームに戻ると部屋には千早さんしかいなかった。
「ただいま。八女チーフは?」
「お帰りなさい、透子さん。チーフは事務所です。兄に呼ばれて」
ゆるゆると答える千早さんは落ち着き払っていて、特に違和感もない様子だ。
千早さんが「どうかされましたか?」と首を傾げたので、同じように杣庄も事務所に呼び出された件を話すことにした。
「杣庄が呼ばれるなんて珍しいから、どうしたのかなと思って。まさか八女チーフもだなんて」
そんな話をしていると、POSルーム前の廊下を走り抜ける影が2つあった。青柳チーフと五十嵐チーフだ。
「お2人とも事務所方面に向かってますね。……まるでチーフ全員が呼び集められてるかに見えません?」
「でも杣庄はチーフじゃないわよ? 昇級試験、1次は通過したけど2次試験は来月だから」
「今日は鮮魚のチーフがお休みでした。ひょっとしてチーフ代理として招集されたのかも」
「確かに……あり得る」
チーフ職によるミーティングは特別なことではない。ただそうなると、店長のオーダーではなく、呼び出した人物が千早事務長という点が引っ掛かった。
「……でもま、すぐに戻ってくるでしょう」
気を落ち着かせて待っていたものの、結局八女チーフは1時間経っても戻って来なかった。


___04.千早歴side

14時になっても、依然として芙蓉チーフが戻って来る気配はない。透子さんが「お昼休憩行ってきなよ」と声を掛けてくれたので甘えることにした。
とは言え、どうにも事務所の様子が気になってしまい、野次馬根性丸出しで事務所に向かってしまう私である。
2ヶ所あるドアはどちらも閉められていたので、僅かな窓スペースから覗くしかない。
そっと中を窺うと、兄の机を取り囲むように何人かの社員が集まっていた。
八女チーフを始め、一廼穂チーフ、五十嵐チーフ、麻生さん、青柳チーフ、杣庄さん、他の部署のチーフたち。
……誰か1人足りないような……。そうだ、柾さんだ。今日は出勤のはずなのに、どうしたことかあの輪の中に柾さんだけがいない。
その代わり、柾さんの懐刀の役目を果たしている三原さんがいた。
その顔は真っ青で、ぶるぶると震えている。その肩を、励ますようにさすっているのが芙蓉チーフだった。
よくよく見れば三原さんだけじゃない。他のチーフたちも神妙な顔付きだ。普段温厚な五十嵐チーフでさえ、柔和な笑みを失くしてしまっている。
麻生さんが発言し、兄が首を横に振る。ぎりっと歯を食い縛る麻生さん。この雰囲気は不穏だ。一体どうしたと言うのだろう。
「千早さん」
背後から不破さんに声を掛けられ、振り返った。そのすぐ横には伊神さんがいる。
「あの、これはですね、決して野次馬根性などではなく、一向に芙蓉チーフが戻ってらっしゃらないのでどうしたのかなぁと様子見をですね」
あせあせと説明する私の言葉を聞いた不破さんは、伊神さんと意味深な目配せをした。
言い訳が過ぎただろうかと首を竦めていると、「やっぱり」「ですね」と頷き合っている。不破さんは途方に暮れた様子で私に尋ねた。
「青柳チーフが凪さんに呼ばれたまま売り場に戻って来ないから、業務に支障を来たしてしまっているんだ。まだ中にいたりする?」
「はい」
「オレは碩人に用があって。彼もまだ部屋の中かい? メンテナンスのチーフですら未だに解放して貰えないなんて珍しいなぁ」
再び私が頷くと、伊神さんは意外にも大胆な行動に出た。空気など読むものかとでも言うように、ドアを開けて室内へ踏み込んだのだ。
不破さんもその後に倣ったので、私もどさくさに紛れて入室した。私たちを見た芙蓉チーフが「あら……」と呟く。
「碩人、例の件で消防署の署長さんが見えてるよ。既に5分も待たせてしまってる」
「マジか! タイミング悪いなぁ……」
チーフたちは困った顔でお互い見合わせている。売り場に戻りたくとも戻れない、今この場を離れるわけにはいかない理由があるようだ。
「青柳チーフ、今すぐ戻ってこれませんか? メーカーの方がアポの時間になっても現れないから破談だろうかと落ち込んで半べそかいてます」
「もうそんな時間か。悪いが商談はお前に任せる。頼んだぞ、不破」
「分かりました」
上昇志向が強く、出世意欲の高い不破さんのことだ。これ幸いとばかりに青柳チーフがこなすハイレベルの商談を見事に纏めてみせるに違いない。
「……売場も混乱しているようだな。青柳、一廼穂、抜けても大丈夫だぞ」
兄が声を掛けると、2人のチーフは後ろ髪を引かれるように頷く。一足先に出て行ったのは一廼穂チーフ。
青柳チーフは「では用事が済み次第、すぐ戻って来ます」と断りを入れてから事務所から姿を消した。
「あの……一体何があったんです?」
「お前には関係のないことだ」
恐らくはこの中で主導権を握っているであろう兄からピシャリと告げられ、私は一瞬怯む。
確かに私は平社員。そう言われてしまってはすごすごと引き下がるしかない。
でも、三原さんが気になって仕方ない。この場にいない柾さんに、何か遭ったのかと思うと気が気でない。
助けを求めるように麻生さんを見ると、彼も首を横に振った。無力な自分を痛感しつつ、兄からの無言の圧力を感じた私は大人しく事務所を出た。
すると唐突に私の手を誰かがぐいっと掴んだ。確認すると、先に部屋を出て行ったはずの青柳チーフだった。隣りには伊神さんもいる。
「え、青柳チーフ……!? 商談はどうなさったんです?」
「商談は不破に任せた。それより千早さん、ちょっといいか?」
「はい」
私たちは事務所に一番近く、部屋に入るためには鍵が必要な場所――POSルームに入った。「3人揃ってどうしたの?」と透子さんが驚いている。
「やぁ透子ちゃん。ごめんね、ちょっと部屋借りるね。……それで幹久、一体何が起きたのさ?」
「今から説明する。実は、柾チーフがまずいことになってるんだ。一刻も早く助けないと……」
青柳チーフは柾さんを尊敬している。その柾さんを助けたいがために、青柳チーフは商談を不破さんに任せ、一時的に事務所から出て来たのだろう。
「まずいこと?」
「ことの発端は昨日。三原の対応が、とあるお客さまの怒りを買っちまったみたいで、今朝もクレームの電話が掛かってきた」
「一晩経っても怒りが収まらなかったんだね?」
「あぁ。仲裁に入った社員が言うには、三原は昨日の時点でお客さまから相当言われてたようだ。
遠目に見ていたお客さまも、『あんなにも言わなくていいのに。カスハラだわ』と口々に話していたというから、必要以上に怒り狂っていたらしい。
何とか帰って貰って事なきを得たんだが、今朝になって上司である柾チーフが呼び付けられる形で――
いや、柾チーフは呼び付けられなくても自ら足を運ばれる方だが――直接自宅まで詫びに行ったんだが……、戻って来ない」
「戻って来ない? どういう意味ですか?」
「言葉通りだ。戻って来ない。……いや、戻って来れないと言うべきか。拘束されてしまった」
「拘束!?」
「半監禁と言ってもいい。チーフたちを集めたのは、どうすべきか対応を決めていたからだ」
ガタンと椅子から立ち上がり、青柳チーフに詰め寄ったのは透子さんだった。
「勿論、警察を呼ぶんですよね!?」
「いや、ことは簡単にいかないんだ、潮」
「どうして!」
「何も要求されてない。『ただ詫びに行ってる』、第三者が見たらそんな状況だからだ」
「それって、実際に危害が加えられたりしない限り、警察には通報できないってこと!?」
「あぁ。さっき調べて分かったんだが、事あるごとに難癖をつけてくる、たちの悪いモンスタークレイマーだった」
「そんな相手が柾さんを半監禁してるっていうのに? 杣庄のお姉さんに事情を説明したら? 刑事だし、助けてくれないかな!?」
「杣庄もそう言ってくれたが、千早事務長が首を縦に振らないんだ」
……!
「もう! 頭が固いんだから! 千早さん、どうしたの? 般若のような顔して」
「私、もう一度兄に会って来ます!」
「あ、こら! 待て、千早さん!」
青柳チーフの制止を振り切って部屋を出る。今度は躊躇わず事務所へ入る。1人、また1人とチーフたちが私を注視する中、兄と対峙した。
「兄さん、どういうこと!? なぜ黙ったまま動いてくれないの!? 柾さんを見捨てるつもり!?」
「見捨てるだなんて人聞きの悪いことを言わないでくれ。それにお前には関係ないと言ってるだろう」
これでは完全に兄妹喧嘩だ。でも悠長にしてられないし、この場にいる人たちからどう思われようが構わない。一切合財を無視し、ただ兄だけを見据える。
「関係ないわけない! 日頃お世話になっている柾さんだもの! 関係なくなんかない!」
「歴!」
「柾さんに何か遭ったらどうするつもり? 何かあってからでは遅いのよ!?」
「さきほど店長が向かわれた。そもそもお前にどうこう言われる筋合いはない。感情だけで突っ走った発言をするな」
「もし店長に何か遭ったら!? だって絶対おかしいわ……! 謝り続けても許して貰えない。じゃあどうしたら許してくださると!?」
私の声は届いているようだ。でも、兄は歯を噛み締め、目を背けるだけ……。兄だけに言っても無駄だ。私は矛先を変える。
「麻生さん! 麻生さんだって、こうしている間にも動きたいでしょう!? 柾さんを助けに行きたいと思いませんか? お願い、私も連れて行って下さい」
「……いや、俺も凪の意見に賛成だ。俺だって千早さんを危険な目に遭わせたくない。柾もそう思ってるはずだ」
「柾さんがどう思おうが関係ありません。私は私の意思で柾さんを助けたいの! お願い兄さん、警察を呼んで。それか……私が柾さんを助けに行く!」
「駄目だと言ってるだろう」
ふと、兄の机にゼンリンが置かれているのが分かった。広げられているのは恐らくクレーマーが住まう、まさにその場所だろう。
私は地図を掻っ攫うと、麻生さんの腕を掴んで「行きましょう」と促した。
「地図を返すんだ!」
兄の手が私の腕を掴み、空いているもう片方の手が地図を奪取せんと伸びて来た。
「麻生さん、お願いっ!」
駄目押しの願いを聞き届けてくれた麻生さんは、兄を押しのけると一緒に事務所から出てくれた。私たちは従業員駐車場まで駆け抜け、麻生さんの車に乗り込む。
「住所は名古屋市北区だ。行くぞ、ちぃ」
「はい!」


___05

「まったく、無茶するよな、ちぃも」
「ごめんなさい。いても立ってもいられなくて」
「青柳から聞いたんだな? まぁあんな話聞かされたら無理もないか。
でも、本当に不味いかもしれない。柾から一度電話があったんだ。相手は相当怒ってて、電話越しに怒鳴り声が聴こえてきた。脅してるんだろうな」
「何が目的なんでしょう? 誠心誠意の謝罪でしょうか。それともお金とか……?」
「目的ははっきりしない。そうかも知れないし、違うかもしれない。向こうは店長を呼べとも言ってないしな」
「じゃあ店長は、御自身の判断で向かわれたんですね?」
「あぁ。『柾が心配だから様子を見てくる』と言って、お1人で向かわれた。もう到着してるはずだ」
改めてゼンリンの地図を見る。1棟から9棟まである団地だった。
「どの棟でしょう? ご存知ですか?」
「8棟だ。3階だと言ってた」
地図を読むのは得意なので、極力早く行けそうな道を案内する。カーナビの到着予定時刻より5分早く着くことができた。
来客専用の駐車スペースに車を置くと、私たちは8棟3階を目指して走り出す。
「『久保』だ、ちぃ」
3軒目のドアを通り越そうとして、そこに久保と書かれた札が下がっていたことに気付く。
「ここです、麻生さん!」
ブザーを鳴らすと、すぐに中から人が出て来た。身長170cmほど。中肉中背で、白のランニングシャツに生成りのズボンを穿いた、50代と思しき男性だった。
「久保さんのお宅ですか? ユナイソンの麻生と申します」
「ユナイソンの出来損ない社員が何人来ようと、許すわけにはいかねぇな。おら、お前も入れ」
玄関にはピカピカに磨かれた男性用の靴が2足あった。店長と柾さんのものに違いない。
男は麻生さんを肩を掴み、室内へ取り込もうとする。その時私の存在に気付き、「女?」と目を細めた。
「! ちぃ、逃げろ!」
「でも麻生さ……」
「いいから逃げろ! 早く!」
男の手が私に伸びようとしていた。麻生さんはその身体にタックルする。私を慮って、引き離してくれたのだ。
外へと追い出された私の眼前で、バタンと大きな音とともにドアが閉まる。麻生さんが閉めたのだろうか。
「うそ……。麻生さん……! 麻生さん! 麻生さん!!!」
成人男性3人。それなのに太刀打ちできないのだろうか。それとも相手がお客さまだから下手に出られないということなの……?
無力だ。最後の最後で、どうしてこう、いつも力を発揮できないの? 結局いまだって、麻生さんに助けられてしまった。
(……いいえ、歴。悲しんでる暇はないわ。兄が警察に通報しないなら、私がするまでよ!)
バッグからスマホを取り出し、110番を押す。すぐさま応答があった。
「――事件ですか? 事故ですか?」
「助けてください! 事件です! 場所は名古屋市北区如意……」
「女ァ、なに勝手なことしてる!」
いつの間にか男が背後に立っていた。驚き、恐怖で動けずにいる私のスマホを乱雑に奪い取ると、警察との通話を遮断してしまう。
次の瞬間、私はあることに気付いた。男のランニングシャツに飛び散っている赤い点。あれは血飛沫なのでは? だとしたら一体誰の――。
「麻生さん……。店長……。柾さん……ッ!」
スマホなんてどうでもいい。私は男を押しのけ、靴を脱ぐのももどかしく、転がるように部屋にあがった。
柾さんが壁にもたれかかっていた。左腕をだらりと垂らし、右手でその二の腕を掴んでいる。
そのすぐ横では店長が同じように壁にもたれていた。鼻から血が流れているのか、麻生さんがハンカチで店長の鼻を拭っている。
「柾さん! 店長!!」
頭が真っ白になるのを必死に堪え、私にも出来ることがないかと考える。ただ、男が戻って来るのも時間の問題だった。
「千早さん、どうしてここに!?」
「それは後です。何があったんですか!?」
「謝罪だけでは足りないと言って、店長が頬に張り手を食らった。止めに入ったがこのザマだ。左腕に蹴りを入れられてしまった」
「そんな……っ」
兄がもたもたしていたからだ。何が事件性の低さだ。何が『お前には関係ない』だ。一歩間違えれば命だって危うかったのに。
それに、この瞬間にだって4人の命が危険にさらされている状態だ。未だ予断を許さない。
「女かぁ。女はこっちに来い。隣りの部屋だ」
下卑た笑みを浮かべながら男が姿を現した。麻生さんと柾さんが咄嗟に私の前に立ちはだかる。
「ちぃには指一本触れさせねぇ」
男の手にはナイフが握られていた。怖い。でも、私も麻生さんと柾さんを守りたい。
一歩、もう一歩と進み出る私に気付いた柾さんと麻生さんから、それぞれ腕を掴まれる。これ以上私が前に出ないように。
「離してください、柾さん、麻生さんっ」
「馬鹿か! 離せるわけないだろ!」
「君は下がっていろ!」
鋭い指示が飛ぶ。2人の力が強くて振り払えない。でも、それだと柾さんが……麻生さんが……!
あり得ないほどの心臓音が近くで鳴っている。迫りくる恐怖に足が竦み、ガクガクと足が震える。
その時だった。
「警察だ!」
ビリビリと耳をつんざく頼もしく声が、間近に聞こえた。逆光のため浮かび上がる2つのシルエット。
「久保ォ! 手に持っているものを床に置け! 両手を挙げて万歳のポーズ!」
入って来たのは私服姿の男女だった。やたら貫禄のある女性と、精悍な男性。
男は観念したのか、くっと顔を歪めつつも言われた通りナイフを床に置き、手を挙げて降参のポーズを取った。
「久保を確保!」
無線で連絡を取る男性の刑事は今度、相方の女性に向かって言う。
「間一髪だったな」
「あぁ。脇坂、久保を連れて行け」
ひっ立てられるように久保が補導され、入れ替わるように制服姿の警察官たちが部屋に入って来る。現場検証だろうか。
中には白衣を着ている人もいて、早速店長と柾さんを介抱し始めた。
これでもう大丈夫。あぁ、やっと解放されたんだ……。
へなへなと床にへたり込む私を、女性刑事が覗き込んできた。深茶色の瞳がじっとこちらを見つめている。
「おい、あんた。大丈夫か?」
「あ、は、はい。何とか……私は。でも店長と柾さんが……」
「暴行の件か。詳しい話は後で聞く。立てるか?」
「はい」
口ではそう言ったものの、腰が抜けてしまったようで上手く立てなかった。「ん」と顎をしゃくり、背中を貸してくれた彼女の言葉に甘える。
「すみません……」
おんぶをされて1階へおりると、杣庄さんが駆け付けてきた。
「千早さん! どうした? 怪我でもしたのか!?」
「落ち着け。彼女はどこも怪我してない。腰を抜かしたんだ」
「……あ~~~っ、無傷でよかった! 千早さんに何かあったらどうしようかと思った」
杣庄さんはその場でしゃがみ込み、両手で顔を覆う。心配して来てくれたのだ。込み上げてくるものがあり、鼻を啜る。
「杣庄さん、ありがとうございます……!」
「てめぇな、そこ邪魔だっつーの。進路妨害すんなよ」
女刑事さんは、杣庄さんの背中を蹴りつける。その傍若無人な振る舞いに唖然としていると、逆らうでもなく素直に立ち上がる杣庄さん。
特に怒るわけでもなく、反省をしている風でもない。平然と受け入れているのは何故なのか。
私が物言いたげな顔をしていたのが伝わったのだろう、杣庄さんは「あぁ」と私を安心させるように笑んだ。
「このやたら口と柄が悪い刑事、俺の姉貴なんだ」
「杣庄茨だ。進がいつも世話になってる。ありがとな」
「えっ、杣庄さんのお姉さん……!? い、いえ! 私の方こそ大変お世話に――」
「歴!」
今度は私を見付けた兄が駆け寄って来る。私は茨さんの背中から降りさせて貰い、地面に両足を着けた。
両手を伸ばし、私を抱き締めようとするその態度に腹が立ち、私は渾身の力を込めて兄の頬を引っ叩いた。呆然と私を見返す兄を睨みつけながら。
「兄さん。私、すごく怒ってるのよ……?」
「……っ」
「柾さんはネオナゴヤの仲間でしょ! 公私混同もほどほどにして!
見栄とか建前とか、そんなことよりよっぽど大事なものがあるでしょう!? 兄さんが早く通報してくれていれば、こんな事にはならなかった!」
「あー、お嬢ちゃん。それは違うな」
ちっちっと人差し指を振って割り込んできたのは茨さんだった。
「通報してくれたのはこの人だ」
「……兄が警察に通報を?」
「そう。まずこの人から通報があって、次に弟の進からも頭を下げられたんだ」
「……仕方なかった。マニュアルには『暴行の有無に関わらず、相手に120分拘束されたときのみ通報可能』とあったんだ。
店長が向かった時点では、まだ100分だった」
理性と感情の狭間で板挟みにあっていたとでも言うのだろうか。俄かには信じがたい。それだけ兄には前科があり過ぎた。
「店長は頬を叩かれて血が流れたの。柾さんは腕に蹴りを入れられた。ナイフを持って脅していたし、相当怖い思いをしたはずよ?」
兄に詰め寄ると、背後から「待ってくれ」と声を掛けられた。店長と柾さんだった。
「千早君を押し留めたのは私の一存でもある。彼は私の命令に従っただけなんだ。それに警察を呼んでくれた恩人でもある。
もうこれ以上は責めんでやってくれ。この通りだ」
「僕からも頼む。久保には前科もあったし、要注意人物として本部から通達がきていた。それなのに万全の態勢で臨めなかった。落ち度は僕にもある」
怪我を負った2人から頭を下げられてしまっては、この怒りを静めないわけにはいかず、私はすぐさま口をつぐんだ。
私も言い過ぎたかもしれない。打ちひしがれた兄を見て、急に申し訳ない気持ちが芽生えてきた。
「……ごめんなさい、兄さん。感情的になってしまって」
「いや……歴の言う通りだ。マニュアル通りにしか動けないのは人として、事務長として、まだまだ未熟な証拠だ。情けなく思うよ。
今回の件を真摯に受け止めて、これからも精進していきたいと思う。
ただ、一つだけ訂正させて貰ってもいいか? 柾だから通報しなかったわけじゃないからな。公私混同などしていないし、私怨も混じってない」
きっぱり言い切る兄に驚いたのは私だけではない。柾さんも麻生さんも目を丸くしていた。
「珍しい。どういう風の吹き回しだ?」
「……別に。少し考えを改めただけだ」
不破さんとの縁談を画策していた件で、兄に罪の意識が働いたのだろうか。
姫丸さんから聞いた話によると、兄は始めの内こそ柾さんと麻生さんを私から引き離すことが出来て喜んでいたらしい。
けれども歯車が狂い、誰も幸せになれないことを知った兄は、『実は後悔していたのだ』と姫丸さんは教えてくれた。
加えて、父が柾さんと麻生さんに対し、兄が私を溺愛する理由を話したことも関係しているのではないかと思う。
『母が過去に流産をした話を、部外者の2人になぜ話したのだ』と兄は憤っていた。
「でも凪、お前自身、なぜ歴離れが出来ないのか気付いていなかっただろう?」と父は問い、兄を呆然とさせていた。
もし兄が変わったのだとしたら、これらの一連の出来事が、彼の意識をがらりと変えたのだ。


___06

その間にも、世界は目まぐるしく回っていた。
兄のことを考えていたので、その場に私と柾さんしかいないことにちっとも気付かなかった私は、
「兄さん? 麻生さん……?」
きょろきょろと見回す羽目になってしまった。そんな私を見て、柾さんが耳元で囁く。
「2人きりだね」
ぼん、と顔が真っ赤に染まるのが分かった。
「麻生は店長と一緒に警察から事情を訊かれてる。凪はユナイソン本社と電話中だ」
最初からこう言ってくれればいいのに、なぜいきなり甘い言葉から投げ掛けてくるのだろう。本当に心臓に悪い……!
心臓に悪いと言えば――。
「負傷した柾さんを見た瞬間、心臓が止まるかと思いました」
「……すまなかった」
「本当に……何かあったらどうしようって……」
私たちが駆け付けなかったら。もし警察が来なかったら。あの男は、柾さんと店長をどうしただろう?
柾さんの左腕に巻かれた包帯が痛々しい。この人を失わずに済んでよかったと心の底から思う。
「ごめん、千早さん。でも君が駆け付けてくれて嬉しかった」
「いても立ってもいられなかったので、無茶を言って麻生さんに連れて来てもらったんです」
「僕のために、凪を叱ってくれた」
「だって……兄の態度には腹が立ちましたし……」
「僕たちの前に立ちはだかってくれたのは? 何かしらの理由があってのこと?」
うぅ、イジワル……。
「ないです。理由なんてありません……」
「目を背けないで。僕を見て」
無理です。見れるわけないじゃないですか。もうダメ、心臓がもたない。これ以上は……。
「君はやっぱり麻生を好いて――」
バッと突き出した私の手の平が、柾さんの口を塞ぐ。真っすぐ柾さんを見つめた。
「……麻生さんのことは、言わないでください」
この言葉で察するだろう。なにせこの人は恋愛の達人。数多の女性と浮き名を流し、艶聞を広めてきた、似非紳士なのだから。
不破さんにキスした時、やっと気付いた。今回柾さんが囚われたことで、自分の想いが本物だと確信した。
私はこの人に恋をしていたのだ。柾さんに。
安堵したせいか涙が込み上げてきた。本当に無事でよかったと思う。この人を失ったら、悲しさのあまり打ちひしがれてしまうだろう。
「柾さん……!」
その胸に飛び込む。私の身体を、柾さんが強く抱き締めてくれた。
「……ありがとう、千早さん。ありがとう」
頭上に柾さんのお礼の言葉が何度も降り注いだ。


2014.08.09
2025.11.17


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