おじん0523のヒロ散歩

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2020.01.24
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カテゴリ: 東海道53次
延べ日数24日目の弥次喜多道中記。


11/23(土) 9:09
ボランティアの人が数人おられ幟を立てて準備をしていた。
ガイドの方から弥次さんに「説明しましょうか」と、弥次さん「お願いします」と


年配のガイドの方は、今川方から見た桶狭間について説明
弔古碑
文化6年(1809)5月津島の神官、氷室豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」
を回顧する文と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られている





弔古碑
文章は尾張藩の儒学者泰賢(号は滄浪、字は士鉉)碑面の
文字は尾張藩の大坂用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。
石工河内屋孫右衛門の手により刻まれたものである


また、いろんなチラシ&パネルで説明。
チラシから


上記チラシの上図
尾張名所図会「桶狭間陣中 今川義元酒宴の図」


国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地『戦人塚』
上記チラシの下図、旧東海道の途中にあったが、今回は立寄っていない。
戦人塚は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いとの関連から、桶狭間古戦場伝説地と共に

今川軍の戦死者2,500余人を曹源寺二世快翁龍喜和尚が供養した塚といわれ、また一
説には、織田信長が部下に今川軍の死者を検分させ、その遺骸を集めさせた塚である
とも伝えられています。
塚の上には高さ1.05mの石碑があり、南面に「戦人塚」、東面に「永禄3年庚申5月
19日」、西面に、「南無阿弥陀仏佛」と記されています。天文4年(1739)、この塚で

この度、平成30年10月より進めていました戦人塚整備工事が平成31年3月8日をもっ
て完了しました。前面に芝が張られ、高台に位置する塚の上からは桶狭間古戦場伝説
地方面を広く見渡すことができます


パネルも立て、過去の「桶狭間山」の写真


今川 義元 公 生誕五百年 記念パネル


ボランティアの方が丁寧に説明されたが、我々は先を急ぐので途中で弥次さんも逃げ
去り、私のみが残り断って早々に後にする


9:25
道路を挟んだ、桶狭間古戦場の西側の斜面、北方向は「中京競馬場前駅」
左:高徳院初代住職の墓、右:おばけ地蔵


斜面の一番手前に「今川義元 仏式の墓」


今川義元仏式の墓碑
桶狭間長福寺が義元300回忌法要をここで行っていて、その翌年の万延元年(1860)に
建てられた。正面には戒名がある。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔
型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれている


おばけ地蔵
古戦場に戦死者の亡霊が現われる噂があって、嘉永6年(1853)に尾張藩士が建立した。
この地蔵尊により、以後亡霊は現われなくなったという


9:27
高徳院(こうとくいん)
所在地:愛知県豊明市栄町南舘3-2
桶狭間古戦場の南側の高台に位置する


高徳院の絵図


高徳院 永代供養塔『瑜祇塔(ゆぎとう)』

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   香華山 高徳院の石柱


明治27年(1894)に高野山から桶狭間古戦場隣地へ移転。敷地内には、今川義元の仏式
墓所や本陣跡の石碑、今川軍の重臣・松井宗信の墓碑が残っています。
毎年7月の「土用の丑の日」には、高徳院きゅうり祭りが開かれます。身代わりのきゅ
うりに名前と住所を書き奉納することで、1年間の「無病息災」「家内安全」を願いま
す。事務所で販売されているきゅうりのお守りも人気!


山門の扁額「金剛生門」


山門の仁王像:右


山門の仁王像:左


山門を入ると正面にタブの木


本堂へ向かう


本堂前の右の松は「三笠宮殿下 御手植」、他にも皇族の御手植の木があった


高徳院本堂
右手前に「芭蕉句碑」 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
山県有朋 来訪地 の石柱も


本堂内


本堂南側の竹林


他にも多くの皇族の御手植の木があった


鐘 楼 


明治39年10月 皇太子殿下(大正天皇)ご来山の折、奥保陸軍大将
が記念植樹された大木。本堂横に下馬記念の建碑がなされた。
資料館には山縣有朋他の記念の揮毫が展示されている


山門を入り右側へ進み、永代供養塔『瑜祇塔』の方向にある、「松井宗信の墓」。
遠州二俣城主松井宗信の墓で、明治9年山口正義によって建てられた。
  正面 松井兵部少輔宗信墓
 桶狭間七石表二号碑
明和8年(1771)、尾張藩士の人見弥右衛門黍・赤林孫七郎信之が建立した。この場所
は、今川義元の重臣松井宗信の戦死の地と伝えられる


瑜祇塔


塀に囲まれて中には入れず


竹林の下に「桶狭間古戦場」がある


本堂前に戻り


桶狭間古戦場
「跡とへは昔の時のこゑたてて 松にこたふる かせの悲しき」
   文政元年2月23日  香川景樹   


9:42
高徳院から降り立ち、桶狭間古戦場入口


9:45
国道1号線に戻り、名鉄「中京競馬場前駅」構内。
大正12年までこの場所に松があり、信長が桶狭間の戦いの後休むために鎧を掛けたと
いう「よろいかけ松の旧地」


9:46
国道1号線から南方向の「桶狭間古戦場」、右上は「高徳院墓地」


9:50
国道1号線の南側の旧東海道を数百メートル歩き国道1号線に合流


旧東海道(国道1号線)を歩く。
この夜18時過ぎに、豊明駅から桑名に向けて走ったが渋滞!


9:55
旧東海道は、国道1号線の「大将ヶ根交差点」を横切り斜め右へ進む
交差点角に地蔵
所在地:愛知県名古屋市緑区境松1丁目
いつの間にか豊明市から名古屋市に入っていた。中京競馬場は豊明市


国道1号線の「大将ヶ根交差点」を振り返る


国道1号線を左に見ながら旧東海道を進む


旧東海道の北側(Le・abbollire)の軒先に石碑。

 たちならぶ 花にしきと家ごとに 
     かけ渡したる くくり深いかな       離屋鈴木朖



旧東海道の別れ道


9:59
左方向へ進むが車は一方通行で入れず
橋の名前は「まつのねはし」
豊明駅から桑名に向けて走ったが、渋滞のため国道1号線を右折して入りここを
左方向へ進んだ


名古屋のマンホール
このデザインは ?




                             鳴海宿~宮宿-続く





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最終更新日  2020.01.26 11:09:46
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