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文化財ハイキングコース案内板御所見北部コースのポイント御所見北部の歴史と地名明治時代六つの村が合併し、菖蒲沢にあった御所見塚にちなんで御所見村と名づけられました。江戸時代の御所見の中心は、南北に中原街道、東西に大山道が通る用田の辻で、大山詣の人々や商人のための宿や店があり、道標を兼ねた不動明王像が今も残っています。その地では農業が主で、養蚕も営まれたため台地は一面桑畑でした。明治終り頃から宮原に植木農家が現れ、戦後盛んになって今の景観を作りあげました。用田は寒川神社(寒川町)のご用田の意味とされ、菖蒲沢は菖蒲の生えていた土地を開拓したことからついた地名のようです。葛原の名は桓武天皇の第三皇子、葛原親王に由来するといわれ、皇子大神はこの親王を祀っています。また用田中条には中将姫伝説が残ります。御所見では昔ながらの様子がいたる所でうかがえ、遠い時代へと思いを誘われます。 藤沢市教育委員会御所見北部コースのポイント Aコース ①豊受大神 ②塩井淵の辻 ③滝不動・皇子大神 ④子育地蔵 ⑤乗福寺 ⑥下滝谷戸の地蔵 ⑦用田寒川社 Bコース ①用田の辻 ②立小路の地蔵 ③宮原寒川社 ④観蔵寺7月18日(土) 13:30県道45号線(中原街道)から西側の生活道路へ入る。この辺りは宮原(みやばら)地区でGoogleマップに道祖神が多く載っていたので追った。宮原は、神奈川県藤沢市の大字。江戸時代の名称は宮原村。相模國一ノ宮、寒川神社に近い野原を開拓して一村が築かれたため宮原とした。名主(みょうしゅ)は内野家。内野家は1639~1870年の200年超にわたる宮原村の名主についての史料を蔵していたと。個人宅の入口に道祖神、五輪塔が立っていた。道祖神 (光背舟形/双体立像) 「道祖神 宮原村 (安)永三午正月吉日」と。狭い生活道を北上すると道路脇に石塔が立っていた。風化していたが、双体道祖神であったか。道祖神の前にはお賽銭が置かれていた。更に農道を進むと祠が建っていたので道路脇へ駐車。この辺りは市街化調整区域か田畑が広がっていた。この宮原地域にモスク建設計画があり賛否両論でもめていると!。ネットで見ると、神奈川県藤沢市宮原のモスク建設計画をめぐり、地域住民有志が7月11日、イスラム教徒側と対話し「地域協定」の締結を目指す住民団体の発足式を市内で開いたと。モスク建設予定地は夏草が生い茂っていおりドーム屋根は高さ約12メートルという。緑地にはブドウの苗が植えられていた。この辺りは造園業の民家が多く広い敷地には苗木を植栽されている。そんな農道辻に祠が建っていた。祠の傍には枯れた切り株があった。切り株の大きさからかつては巨木が聳えていたのであろう。覆い屋の中に石祠があった。また、道路脇に野菜の直売所があった。このような直売所は消費税は関係なく100円で購入できるので8%、1%は無関係だ。小銭を持っていなかったので車へ戻り珍しい野菜を購入した。後方の民家の庭にはコキアが。天気がよければ富士山、大山が見えるスポットであろう。ビュースポットだけにモスク建設計画も。県道45号線(中原街道)へ戻り北上。ゑびすや本店所在地:神奈川県藤沢市宮原1316当店は明治28年(1895)の創業以来、藤沢市宮原で和菓子を作り続けておりますと。広い駐車場があったが通り過ぎて北側の鈴野商店(フードショップ鈴野)へ駐車。中原街道を走るたびに気になっていたこの看板。「湘南銘菓 はまぐり最中 ゑびすや本店」、幟旗にも「はまぐり最中」と。最中が好きな私にとってはいつか食べようと。店内に入り撮影許可を頂き。広々とした店内で気さくな御応対。穏やかな空気がどことなく漂う。書き込みではこのお店は、タッパーなどの保存容器を持参すると、大福なら「そのまま」収納してくださいます。包みなどをいっさい消費しないで済みますと。どこか昭和を感じさせる店内であった。”はまぐり最中”の詰め合わせも販売。私にとっての最中は埼玉県川越市の餅入り最中「福蔵」が一番だが。我が田舎の「備後最中」も最高だが今でも製造しているのか。足柄茶抹茶使用、オリジナル「すあま」 1個 120円(税込)。書き込みではこの「すあま」も美味しいと、次回購入して食したい。水まんじゅう 1パック、はまぐり最中 3個を購入940円であった。駐車場脇に稲荷社が建っていた。中原街道の寒川方面を望む。季節限定販売の「水まんじゅう (こしあん) ¥340/2個 (内税)」。つるんとのど越し冷ややか・・・。水まんじゅうを召し上がって夏本番の暑さを吹き飛ばしてください♪ と。まさにはまぐりの形で、餡がびっしりと詰まっており1個200円(内税)であった。寒川社 (宮原)所在地:神奈川県藤沢市宮原1289一帯は寒川神社の宮地であった原野を開拓して村を作ったので、宮原とよばれるようになったという。大正四年(1915)に神饌幣帛料供進神社に指定された。社号標石の丸柱に「寒川社」と。階段を登ると樹々に囲まれた境内。寒川社御祭神 品陀別命 (ほんだわけのみこと・応神天皇) 寒川比古命 寒川比女命祭 儀 元旦祭 一月一日 紀元祭 二月十一日 神立祭 七月三十日 例大祭 九月二十七日 新嘗祭 十一月二十三日 (七・五・三)由 緒 創立年月日不詳 延喜式内社・相模国一之宮寒川神社を勧請して鎮守となる。明治六年十二月村社に・ 大正四年に(1915)末社に指定される。藤扇睦伍拾周年記念事業 協賛者一覧 多くの企業、個人名が記載されていた。因みに、湘南連合神輿保存會・藤扇睦は、昭和51年(1976)に神奈川縣神輿保存會林道男様の御指導により結成したと。藤は藤沢の藤・扇は末広がり。 藤扇睦は藤沢市宮原に鎮座されている寒川社例大祭をはじめ、各地の神社例祭 湘南連合神輿保存會の神輿渡御に参加しています。会員48名。令和七年十月吉日 伍拾周年を迎えましたと。奉納 藤扇睦 顧問・相談役・特別顧問 会長・副会長・会員名 製作 朋工務店 西山朋志 令和四年三月吉日境内の奥に拝殿。境内は、南側から正面に拝殿と本殿、左手前から鐘堂、手水舎、社務所、奥に神輿殿、右手に神楽殿、稲荷神社が建つ。本殿は明神造、拝殿は入母屋造となっており明治二十七年(1894)年に再建された。左側に鐘堂があったが肝心な梵鐘の姿はなかった。この梵鐘も第二次大戦時に供出されたのであろうか?。石碑には、「大東亜戦争記録 昭和六年九月十八日満州事変勃発 昭和十二年七月七日支那事変 引続き昭和十六年十 二月八日大東亜戦争となり昭和二十年八月十五日終戦 その間の宮原地区内応召戦没者 記名 ・・・二十七名の戦没者名・・・ 昭和五十◯年十一月ニ十三日 建之」と。裏面には「応召者」が書かれていた。境内から天を仰ぐと厚木基地への飛行機が。境内の右側に「神楽殿」。かつては例大祭には神楽殿で神楽が行われ多くの人が集まっていたのであろう。社務所の手前に手水舎が建っていた。寒川社々務所正面に「拝殿」。創建時期は不明だが、神仏が習合していた江戸時代には社の西隣にある観蔵寺が別当役を務め、僧や山伏、修験者など雑多な人々が居住していたと。その後神仏の分離を経て、明治時代末、打戻の宇都母知神社との合併が取り沙汰されることもあったが、地域の人々の反対により独立維持されたと。拝殿前には右手に「阿形像」の狛犬。左手に「吽形像」の狛犬。拝殿の扁額「寒川大神」。壁面には多くの千社札が張られていた。右側の木鼻拝殿の向拝には見事な龍の彫り物が組み込まれていた。左側の木鼻拝殿の左奥に神輿殿が建っていた。神輿殿の扁額「神輿殿」と。14:00左側から社殿を見る。 ー continued ー
2026.08.07
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藤沢の遠藤から御所見地区へ。7月13日(月) 14:50遠藤富士浅間神社所在地:神奈川県藤沢市遠藤 慶應大学の西側から入れる大学の敷地の一角にある立派な神社である。平成二年(1990)四月に慶應義塾(SFC)が開設された際、浅間神社がSFCに近かったものの、移設する事無く現在地に残ったと。慶応義塾もこの際協力し、社殿を改修したとのこと。社号標石に「浅間神社」と。慶應大学の杜に囲まれた中にあり、境内にはサクラ、ツツジが植えられていた。社殿の右下に石碑が三基立っていた。由 来浅間神社は矢崎と苅込のコミヤであり「浅間さま」として地域の人々に慕われてきました。平成二年(1990)四月慶應義塾大学が当地に開設しました。浅間神社は慶應キャンパスにとり囲まれる格好となりましたが、矢崎と刈込の要所であるため移設する事無く現在地に残りました。社殿は老朽化したためこれを契機に慶應義塾の協力を得て氏子により現在の社殿が再築されました。浅間神社は以前にも増して氏子の信仰を受けると共に学問の神様として発展することでしょう。 平成三年四月吉日富士浅間神社境内ハ元官有地タリシガ明治四十五年以来御嶽神社ノ□有トナリシヲ昭和廿四年十二月氏子一同ニテ之ヲ買受ケ永遠ニ鎮座マシマス地トナス仍テ茲ニ後世ニ傳ヘントス 昭和廿六年三月 氏子一同 富士浅間神社ハ安永年間ノ創建ニシテ今ヲ去ル百六十余年木ノ花咲耶姫ヲ祀ル當社ハ元矢崎ノ氏神ナリシガ苅込一同ノ崇敬スル□トナリ明治三十年其ノ氏子トナル明治四十三年其筋ノ布告ニ依リ當社モ御岳神社ニ合祀サルルニ當リ隣地五四六五番地ニ遷シ奉リ以来二十八年社殿ノ腐朽セルニヨリ再建ノ議起ルヤ御岳神社総代ヨリ元當社敷地ノ五四六四番地ノ地上権ヲ氏子一同ニ於テ譲受ケ再建奉還ス爰ニ記念碑ヲ建立シ永遠ニ傅ヘシト云爾 昭和十二年三月十五日 氏子一同再築された社殿右側に回り込む。社殿前から見下ろす。ツツジが植えられサクラが聳えていた。慶應義塾大学の西側市道。右側の道は何度も走っているがGoogleマップで”遠藤富士浅間神社”の存在を知り訪れた。浅間神社から市道を下り、途中右方向へ進み狭い竹林へ。最上稲荷所在地:神奈川県藤沢市遠藤狭い竹林の中を進むと祠が建っていた。周りは氏子さんの手で綺麗に清掃されていた。覆い屋の中に小さい祠があった。春先には立派なタケノコが出ていた。大庭獺郷線へ出る。道路脇に新旧の道祖神が立っていた。新旧の道祖神左側の旧道祖神の側面に「弘化五戊申正月吉日」と。右側の新しい道祖神の側面には、「旧道祖神塔 尖頭角柱型 総高五十七・五糎 安山岩 右側面 弘化五戊申正月吉日 正 面 道祖神 左側面 遠藤村矢崎 氏子中」と、旧道祖神の説明が刻まれていた。いろいろと道祖神を見たが珍しい試みであった。大庭獺郷線のサルスベリ(百日紅)並木。青空に映えるサルスベリ、いつの間にか咲く時期になっていた。サルスベリは夏を象徴する花木である。右側は「無人精米所」と。この後、大庭獺郷線を西へ走り打戻地区へ。道祖神・地蔵所在地:神奈川県藤沢市打戻大庭獺郷線の打戻根下交差点を右折すると直ぐにあった道祖神。大庭獺郷線の旧道沿いに立つ道祖神。石碑型の文字道祖神と地蔵打戻交差点を振り返る。谷戸集会所所在地:神奈川県藤沢市打戻打戻交差点から約500メートル程北上するとある集会所。玄関上に「谷戸集会所」と。集会所前から南側へ戻ると辻に双体道祖神があった。双体道祖神双体道祖神の前には造花の花が供えられていた。北上してきた道を振り返る。この辺りには温室が多くあり、また、広大な果物と野菜の農園があり直売所がある。県道410号線(遠藤宮原線)の打戻大仲交差点。次の目的地はこの先にある「庚申塔 (道標)」。打戻榎戸(うちもどりえのきど)交差点変形五差路で交通量が多く撮影に苦慮した。前方から北上して来た。交差点角のカーブミラーの下に目的の「庚申塔 (道標)」があった。庚申塔 (道標)所在地:神奈川県藤沢市打戻道路際で道標には最適な場所だが、垣根で覆われてほぼ目立たない場所にある。庚申塔は、平頂方柱/文字。「庚申塔 上惣連・東 長後 / 南 一之宮 / 西 用田道 ・萬延元庚申歳 夷則吉星再建」と。 萬延元年は1860年の建立になる。離れて撮影できないので情報はネットから。次に訪れたのは、大庭獺郷線沿いにある「不動尊」。獺郷西交差点県道410号線(遠藤宮原線)と用田獺郷線が交差するここ交差点に目的の「不動尊」があった。用田獺郷線の南方向を望む。不動尊所在地:神奈川県藤沢市獺郷651交差点角にお堂があり中に二体の像が立っていた。堂の中に古い木の説明板が有り、そこには不動尊堂・子育地蔵尊堂とあると。多くのペットボトルのお供え物があった。右側:聖観音像 (光背舟形・立像) 「文化九壬申◯月吉日 xxx」。左側:不動尊像 (坐像/迦楼羅炎/ニ童子) 「獺郷村東講中 嘉永ニ年酉四月立之。県道410号線(遠藤宮原線)の西方向を望む。この辺りは片側2車線で中央分離帯がある。西側へ進み、獺郷西交差点を振り返る。県道45号線(中原街道)の宮原南交差点。ここ宮原南交差点から県道410号線を東へ進むと小田急江ノ島線の湘南台駅へと至る。15:30次の目的地が宮原南交差点の南側にあるので南下。 ー continued ー
2026.08.06
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御所見南部・遠藤地区を散策。7月13日(月) 14:00 JAさがみ遠藤支店傍の「開拓記念碑」前から北側の遠藤山崎交差点を望む。突き当りの交差点を右折し県道410号線を東へ進むと小田急江ノ島線の湘南台駅へと。JAさがみ遠藤支店前から市道辻堂駅遠藤線を南下、宝泉寺前交差点を右折して小出川沿いのアジサイロードへ。右側は片側2車線の市道辻堂駅遠藤線。小出川もこの辺りは川幅が1メートルと小川である。かつては護岸にアジサイが育っていたが護岸工事で植替えられている。一部アナベルが咲き残っていた。アジサイも咲き残り。アジサイ祭りも終わり草が伸び放題になっていた。この先が小出川の源流であろう。花とせせらぎの道小出川は、新編相模国風土記稿にもあるとおり、遠藤神明谷、遠藤琵琶島、遠藤東原の池の頭などの水源の水が集ってできた川で、茅ヶ崎の柳島で相模川に合流する一級河川です。ふるさとの生活と共に歩んできたこの川に、地域の皆さんの手でアジサイと彼岸花を植栽し、美しく護っていくことにしたもので、現在は、遠藤あじさいの会と遠藤彼岸花の会で管理をしております。 遠藤まちづくり推進協議会道路の先右奥に小出川の水路がある。この先北側は県道410号線(遠藤宮原線)があり暗渠になっているので、小出川の源流地点が分かりづらい状態になっている。味処 まるたか所在地:神奈川県藤沢市遠藤4151このレストランを利用した人は、新鮮な刺身、ボリュームのある揚げ魚、様々な海鮮丼など、美味しくてボリューム満点の海鮮料理を高く評価している。この日は月曜日で定休日であったが人気の店である。五霊大神(ごりょうたいじん)所在地:神奈川県藤沢市遠藤4238”味処 まるたか”から小径を西側へ上ると鎮座している。墓地の一角にある。元は本社のある上庭集落の飯島姓の氏神であったと言われ、現在は上庭町内が氏子である。旧地は五霊坂を登ったところ(現在の慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス内)に社屋があった。後の発掘調査で江戸時代の貨幣などが見つかっていると。石碑には「五霊大神」。裏面には「明治二十八年十月一日」と。五霊大神の周りには4本の木が植えられていた。五霊大神から北方向にある藤沢ジャンボゴルフを望む。右側の杜は慶應義塾大学湘南キャンパス。大庭獺郷線の苅込交差点手前に架かる大黒橋。大黒橋は彼岸花会場の最上流部になり、この上流側がアジサイ祭り会場になっている。小出川 ” 彼岸花 ”小出川沿い「大黒橋」からの彼岸花鑑賞コースをお楽しみください!鑑賞期間:9月下旬~10月上旬(見頃:お彼岸の頃) ~ ”人と自然がいきづくまち” 遠藤 ~大黒橋から下流側を望む。秋のお彼岸の頃には両岸に彼岸花が咲き乱れる。夏を過ぎると彼岸花の芽が出てくるので草が刈られていた。この辺りの小出川は藤沢と茅ヶ崎の市境になっており左岸は茅ヶ崎市エリア。この後、茅ヶ崎の「芹沢城之腰の道祖神」と、里山公園前の「道祖神」を見落としていたので小出橋を渡り茅ヶ崎市エリアへ。仏塔群所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢小出橋を渡り百メートル程南下すると辻にある仏塔群である。ここは既に訪れており、樹々に囲まれて十数個の仏塔がある。仏塔には花が生けられていた、周りは草むらであったので入口で失礼した。仏塔群の北側には渡ってきた小出橋。近くにはお世話になる「茅ヶ崎市斎場」がある。Googleマップを見ながら目的の道祖神を探す。芹沢城之腰の道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢349-3夏場は草も生い茂り、Googleマップで検索しない限り見落とす道祖神である。斎場通りから小径を南側に入るとブロックの基礎の上に道祖神があった。簡易覆い屋の中に石祠、五輪塔が集められていた。ネットでは、「石祠道祖神(流造) 年代は確認できなかったが『神奈川県の道祖神調査報告書』によると明和六(1769)年 地名は通称冠木」とあった。斎場通りを振り返る。芹沢城之腰の道祖神の次は、西側にある里山公園前の「道祖神」へ。仏塔群前を通り抜け振り返る。県立里山公園東口市立小出小学校から下った来たところにある里山公園入口。かつてここで「一時停止」を確実にやっていないとの交通違反で捕まった苦い場所である。坂を上ると県道47号線(小出中央通り)の小出小学校の西側へ。車を停めた横に道祖神らしきものがあったが。Googleマップでは目的地はここではなかった。この交差点は茅ヶ崎警察署の「一時停止」の取り締まり重点ポイントであるようで、この日もトラックの影にパトカーが待機していた。里山公園の正門前から坂を下ってくるので停止線を越える人が多く、また、小出小学校からの交通量も少ないので完全に停止しない人が多い。道路脇に車を停め目的の道祖神を探す。双体道祖神・文字道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢974茅ヶ崎市芹沢地区には道祖神が多くあり、地元の方々の信仰心の篤さがうかがえる。新旧の道祖神中央の文字道祖神には「昭和五十二年九月吉日」。右側の双体道祖神は「寛政九年(1797)」の作であると。茅ヶ崎里山公園 東駐車場入口里山公園東駐車場入口の手前に庚申塔が立っていた。墓地入口に、三猿の「庚申塔」が二基、奥に「石碑」が立っていた。庚申塔の側面には「弘化三丙午年十二月吉日□之」と。石碑の碑文には、「供 養 茅ヶ崎市の道路計画に□う芹沢小林線拡幅にこの墓地二九七平方米が買収されこれを 基金とし本日ここに共有者祖先を供養しこの碑を建立するものであります。 平成二年九月ニ十三日 代表 米山正司書 下段には、米山一族 九名の氏名」が刻まれていた。14:45里山公園入口から再度小出橋を渡り大庭獺郷線へ。 ー continued ー
2026.08.05
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このブログは6月初旬から7月にかけて藤沢市の御所見地区の寺社史跡を訪れたものです。途中茅ヶ崎市北部で見落としていた史跡の一部も含んでおります。藤沢市の地区名藤沢市の人口:444,205人、面積:69.56k㎡、人口密度:6,386人/k㎡ (推計人口2026年7月1日)。また、南北に長い市で南北約12km、東西約6.5kmある。大きく区割すると。今回散策する「御所見地区」。余談だが旅友の話では、藤沢市にはJR・私鉄の駅が20数駅あると、また北側に隣接する綾瀬市は駅の無い市で、相模川を渡った平塚市には1駅と。このためアクセスが良い市で東京のベッドタウン化で内陸部の人口が増加していると。既に訪れブログアップしている寺社史蹟も多くある。7月13日(月) 13:00この日は「御所見・遠藤」への途中、小出の県道47号線(小出中央通り)・404号線へ。車を道路脇に駐車して小出交差点を振り返る。左側は小出郵便局で向かい側に、Googleマップに道祖神がある。小出郵便局前の道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢834安全柵は道祖神のスペースを確保して設けられていた。文字道祖神県道47号線の北側は窪地になっていた。Googleマップでは他に「二本松の文字道祖神」があったのだが見あたらず、代わりに民家の庭先の鉢に二本の松が植えられ「ここは二本松」と。忠魂碑群所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤1928-1 辺り小出郵便局の東側、茅ヶ崎市老人憩の家皆楽荘の脇に立っていた。忠魂碑が立ち並んでいた。中央に「殉國英霊碑」、左側に「彰忠碑」、右側に碑が三基立っていた。殉國英霊碑満州事変:1柱 支那事変:14柱 大東亜戦争:128柱の慰霊碑。裏面の碑文には、「満洲事変・支那事変・大東亜戦争 本村出身殉國諸士の忠烈を仰ぎ一同の英名を石に勒し永く後世に伝う 昭和二十八年九月 小出村 建立 下には戦死年度と多くの氏名」が刻まれていた。彰忠 希典書小出村出身の日露戦争における戦没者8柱を合祀し、日露戦争の従軍者87名の氏名も合せた記念碑。明治40年1月15日に小出村によって建立された。右から「各戦役殉國英霊碑」 「征清従軍死者之碑」 「故陸軍歩兵一等卒青木保之助小林網五郎碑」。右側の征清従軍死者之碑:日清戦役における小出村戦没者2柱の慰霊顕彰。左側の故陸軍歩兵一等卒青木保之助小林網五郎碑:青木保之助・小林網五郎。明治廿九年に建立され、それぞれに碑文が刻まれていた。県道47号線(小出中央通り)の東側に大辻交差点。この後この交差点を左折して遠藤地区へ。スマホのGoogleマップを利用し「山王神社」へ。右側はJR辻堂駅からの市道辻堂駅遠藤線で慶応義塾大学湘南キャンパス建設で整備された。田畑が広がる農道を歩き「山王神社」へと。この狭い道を下ると西側にある大谷通りへ。左側に社殿が建っていた。社殿には樹々が覆いかぶさり、案内板もないのでその存在が分かりづらかった。山王神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢 あたり蔦等のツルをとり社殿前へ入ろうとしたが足元が悪く諦めた。神社の詳細は不詳である。樹々が芽吹く前は分かり易いのであろうがこの時期は生い茂り蜘蛛の巣もあり。冬場に再度訪れるか。新車のノート。前のノートよりより安全装置が完備している。この後訪れる、「御所見南部・遠藤」地区の案内板。文化財ハイキングコース案内板御所見南部・遠藤コースのポイント Aコース:①妙福寺 ②大法寺 ③盛岩寺 ④堂の前 ⑤子聖神社 ⑥宇都母知神社 ⑦少年の森 Bコース:①御嶽大神 ②宝泉寺 ③宇都母知神社 ④妙福寺 ⑤少年の森 藤沢市教育委員会遠藤・御所見南部の今と昔昭和30年代から遠藤南東部は開発が急速に進み、昔の面影は残っていませんが、いまでも田畑が広がる農村風景が見られ、生活のなかにも共同体としての習慣が残っています。御嶽大神や宝泉寺の付近は昔から村の中心で、歌舞伎、神楽、鉄砲馬場などの祭りにはにぎわいました。この地にも大学が進出し、大きな変化を遂げています。その建物が立つ丘陵は、御所見の打戻へ連っています。打戻は平安時代中期(十世紀)には養蚕を営む人たちが住み、宇都母知神社を祀ったと考えられています。また、自然を生かして遊び学ぶ「少年の森」もできました。獺郷(おそごう)は昔は沼地が多く、かわうそが多く生息していたのでそれが村名になったようです。丹沢山系や富士山が見渡せるのどかなこの地域では、歴史の風と新しい文化の風とが語り合っています。参考までに、御所見地区には他にも下記案内板が、皇子大神 (おうじおおかみ)前にあった。文化財ハイキングコース案内板御所見北部の歴史と地名明治時代六つの村が合併し、菖蒲沢にあった御所見塚にちなんで御所見村と名づけられました。江戸時代の御所見の中心は、南北に中原街道、東西に大山道が通る用田の辻で、大山詣の人々や商人のための宿や店があり、道標を兼ねた不動明王像が今も残っています。・・・中略・・・ 藤沢市教育委員会御所見北部コースのポイント Aコース ①豊受大神 ②塩井淵の辻 ③滝不動・皇子大神 ④子育地蔵 ⑤乗福寺 ⑥下滝谷戸の地蔵 ⑦用田寒川社 Bコース ①用田の辻 ②立小路の地蔵 ③宮原寒川社 ④観蔵寺次に訪れたのはスマホのGoogleマップで「稲荷社」へ。民家の先に小さな祠が見えていた。稲荷社所在地:神奈川県藤沢市遠藤233遠藤地域にあるお稲荷様で北側に御嶽神社がある。また「芭蕉天神宮」もありこの地域は自然が多く残り、ウォーキングするには最高であると。祠をズームアップ。車へ戻り稲荷社を振り返る。畑には里芋が植えられていたが今年の収穫はいかに。民家の間に牛舎があったのか周囲に特有のにおいが漂っていた。牛舎の入口に「湘南和牛」と書かれた幟旗が立っていた。養蚕神社(ようさんじんじゃ)所在地:神奈川県藤沢市遠藤310谷戸から東側を走る県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)へ上ると、県道沿いにある。祠と石碑が立っていた。養蚕神社養蚕神社と窪島義翁頌徳碑明治・大正の頃は養蚕が盛んであった。養蚕業の発展を願って神社が建てられた。戦時中食糧増産のために養蚕業はできなくなった。窪島氏は、養蚕組合長、郡畜産組合長として産業振興に尽くされ村長を始め数々の公職に就かれた。その功績を讃えた碑である。碑文には先祖の孫兵衛は北条氏の家臣で後に徳川氏の軍監として関ヶ原の役に出陣、その後帰農とある。 (遠藤まちづくり推進協議会) 窪島義翁碑残念ながら判読できなかったが、碑文には「先祖の孫兵衛は北条氏の家臣で後に徳川氏の軍監として関ヶ原の役に出陣、その後帰農」とある。妙見堂所在地:神奈川県藤沢市遠藤2826-11Googleマップで訪れたがなかなか見つからず苦慮した。市道辻堂駅遠藤線の”JAさがみ遠藤支店”から入り東側の丘陵地にあった。周りは新しい住宅地で交通量がないので道路脇に駐車。周りの草が生い茂り中に立つ鳥居が目に入らなかった。3社が建っていたが残念ながら説明板がなく詳細は不詳。両側に小さい祠が建っていた。中央の祠の中を覗く。赤頭巾前掛けをした地蔵様が立っておられた。樹々が枯れていると目立つのであろうが。道路脇にも草が覆いかぶさった祠が一つあった。開拓記念碑所在地:神奈川県藤沢市遠藤4355JAさがみ遠藤支店の駐車場脇に立っている記念碑。右前方は”藤沢ジャンボゴルフ”。市道辻堂駅遠藤線の終点の遠藤山崎交差点。左折すると数百メートルで慶応義塾大学湘南キャンパスバス停へ。石碑には「耕地整理記念碑」と。未来を拓く 希望の大地この土地改良事業は、昭和四九年田畑の荒廃に危機感を抱いた秋葉原地区からの声が発端になり、その後、これに共鳴した山崎、広谷両地区が加わった。当時、小出川沿いは、耕地整理がなされていたが、これらいずれの地区も水田は強度な湿田で、畑も起伏地が多く、農道は狭小であったことから耕作放棄が多く見受けられるようになった。そのため当初は、国の補助金を得て団体営による国場及び道水路の整備を行うことを予定して準備を進めていたが、昭和六一年一月慶應大学進出と、これに併せた湘南台からの幹線道路(幅員二五メートル)の延伸決定によって、様相が一変したため、改良区内の道路幅員は六メートルを主体にメイン道路については、八メートルに設計し、都市型農地整備計画へと方向転換したのである。そして、この計画は、平成二年九月事業認可を得て工事に着手し、以来一四年六ヶ月通算三○有余年が経過、この間、組合員、権利者各位の熱意と協力によって、総面積ニ三・六ヘクタール、総工費一三億七○○○万円を費やし、平成一七年(2005)三月完成、ニ一世紀の土地利用に希望と夢をもった大地に甦ったのである。よってここに歴史的事実を碑文に収め後世に伝えるものである。 平成一七年(西暦2005年)三月吉日 藤沢市遠藤土地改良区 換地処分確定地積 二六、三二四四ヘクタール裏面には、遠藤土地改良区 役員・地権者 五十音順多くの方の氏名が刻まれていた。14:00JAさがみ 遠藤支店所在地:神奈川県藤沢市遠藤6588ここの駐車場へ車を停めさせていただいた。 ー continued ー
2026.08.04
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小園子之社からの帰路、Googleマップで調べていた寺社史蹟に立ち寄った。7月18日(土) 15:25綾瀬市立東名公園所在地:神奈川県綾瀬市早川2980-87綾瀬市にある住宅街の、子どもが走り回るには十分な広さの公園です。昭和後期につくられた第二次ベビーブームのための公園です。公園の設備にはトイレ、水飲み・手洗い場があります。遊び場には砂場、ブランコすべり台がありますと。広い公園の南側隅に朱色の祠が建っていた。南側には東名高速道路の防音壁。稲荷神社所在地:神奈川県綾瀬市早川2980-160公園南側のフェンス際に鳥居と社殿があったが説明板がなく詳細は不詳。Googleマップの書き込みでは、「社殿内には石祠と木製本殿が祀られている」とあったが、南京錠で施錠され確認できなかった。また、鳥居脇に「藤美神社」「稲荷社」二社・「蚕影社」を合祀と記された木標が設置されているとあったがこれも確認できなかった。祠の前にはペットボトルのお茶が供えられていた。東名高速道路に向かって鎮座している。東名公園は昭和後期につくられた第二次ベビーブームのための公園とあったが、現在は少子化も要因か、この日は土曜日だが子どもの姿はなかった。ここにもレンタル自転車が置かれていた。遊具越しに稲荷神社を望む。稲荷神社から東名高速道路に沿って西側へ下ると目久尻川手前の左側に庚申塔があった。高架は東名高速道の早川高架橋。庚申塔所在地:神奈川県綾瀬市早川3041-2坂を下ってきた松並木の手前に立っていた庚申塔。庚申塔は風化していた。こちらの面には、「相模國高座郡 早川村 栗原□右衛門 内藤善兵衛 他」の名が刻まれていた。目久尻川に架かる内藤橋。内藤橋の上流側を望む、左側はサイクリングロード。目久尻川は蛇行して流れている。庚申塔前から下ってきた稲荷神社方向を見る。東側の丘陵地に住宅団地がある。目久尻川に沿って下ると県立綾瀬西高等学校前の交差点角に石塔が立っていた。左側は神奈川県立綾瀬西高等学校のグランド。左に道祖神、右側に庚申塔が2基。瀬端橋(せばたばし)きまぐれ堂 駄菓子屋所在地:神奈川県綾瀬市早川瀬端橋(バス停横)交差点角に建つ駄菓子屋で、焼き立てワッフルが美味しいと。瀬端橋の袂に立っていた案内板。目久尻川 サイクリングロード 新武者寄橋から上流の小園橋までの距離表示板 目久尻川サイクリングロードは河川管理用道路を兼ねています。 管理用車両などが通行することがありますので、利用者の方はご注意願います。瀬端橋上から下流側を望む。この辺りの目久尻川も川底が深く、蛇行して流れている。下流側に「宮久保遺跡」がある。次に向かったのは道路からそれた「地蔵堂」。地蔵堂所在地:神奈川県綾瀬市早川城山公園の西側下に位置し、背後に透明で綺麗な水が湧きでていた。覆い屋の中に衣裳をまとった三体の地蔵。覆い屋の中にはほうきもあり地元の方が管理。由緒等の詳細は分からないが集落の方の信仰が篤いのであろう。城山からの湧水であろう。サラサラと音がし湧き出ており奇麗であったが、飲料水としては?。傍には柄杓がなかった。かつての小径であったのであろう。最後に訪れたのが「江川天神社」。江川天神社所在地:神奈川県綾瀬市早川808番地綾瀬市役所から”市役所南通り”を西に走ると、新武者寄橋の北側の雑木林の若干薄暗い中にひっそりとある。江川天神社 ⇦ 綾瀬市役所 0.7km 五社神社 1.02km ⇨ 武者寄橋 0.15km (目久尻川) ⇨ 綾瀬市・綾瀬市教育委員会鉄製の鳥居は紙垂で飾られていた。案内板の裏面にこの説明文があった、江川天神社祭神は菅原道真と平成輔。享保十五年(1730)に建てられた古碑があり、それには「平宰相成輔卿祠社」と彫ってありました。平成輔は京都の公卿で、後醍醐天皇の親任を受け、鎌倉幕府討滅を計画しましたが、失敗して捕えられ、鎌倉に護送される途中、元弘二年(1332)五月、早川河口で殺害されました。その故地は小田原市に現存し、同市指定史跡となっています。早川という昔の村名が、たまたまこの早川と同名なので、後世ここにも祭ったものと思われます。境内の涌き水は社によって大切に保護され、飲料水や農業用水として利用されてきました。 平成三年三月 綾瀬市教育委員会薄暗い鬱蒼とした中に建つ社殿。手水鉢側面には「文政十亥年九月□吉日」と。文政十は1827年で江戸時代末期の奉納になる。社殿も紙垂で飾られていた。周りは綺麗に清掃されており日々地元の方々が管理。鬱蒼とした杜の中に鎮座している。社殿の南側に広場があり神楽殿であろうか建物が一棟建っていた。今でもまつりが開催されているのであろうか。ズームアップ、後方は市役所南通りの新武者寄橋。広場から社殿を見上げる。入り口を見る。15:45神社は市役所南通りからの脇道沿いにある。市役所南通りの「天神森隧道」。帰路につき、県道45号線(中原街道)の新用田辻交差点。綾瀬市の北西部地区をほぼ制覇した。今後は東部、南部地区をと思っているが。 END
2026.08.03
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綾瀬市北西部の最北部へ。7月18日(土) 15:00小園子之社 (こぞのねのしゃ)所在地:神奈川県綾瀬市小園273社殿前の境内に車を停め長い階段を下り、目久尻川からの坂道へ下りる。この坂道は目久尻川の低地部から東側の丘陵地に登る急坂である。小園子之社は住宅地の小高い場所にある小さいが立派な神社。小園のほぼ中央の位置にあり標高が綾瀬市内で一番高い緑豊かな「鎮守の杜」にある。長い階段の下に社号標石、道祖神が立っていた。階段の途中から見下ろす。鳥居は木製の両部鳥居で市内唯一であると。鳥居の扁額「子之社」。左側に庚申塔が二基。右側には、地神塔。地神塔の側面には「安政四年」と。鳥居を潜ると左右にあったのは石燈籠か。左側にも同じような塔。参道沿いには古い型の石灯籠。下には「奉納 子之大明神 天明四歳」と。参道沿いには伐採され枯れた古株が数本あった。境内の駐車場。祭事用のポールが立つ参道を振り返る。神輿殿軒先に「神輿殿」と。巨木が聳える下に、小園子之社社殿社務所境内には伐採された古株が何本もあった。社務所の扁額に「子之社社務所」と。子之社小園の鎮守様で、大国主命(大己貴命)が祭られています。社殿は本殿をおおう覆殿(おおいでん)と拝殿、それと幣殿が連なっています。他に神楽殿と社務所があります。子とは北の方位をいい、子之神とは北方をつかさどる神のことをいいます。慶長十年(1605)に勧請されたという棟礼があり、現在の本殿は文久元年(1861)に建造され、さらに大正十五年(1926)に再築されたものです。 平成元年三月 綾瀬市教育委員会拝殿の前に狛犬、右側には手水舎。社務所の前に手水舎。拝殿と対の狛犬右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。紅白の幕が張られた拝殿の内陣。拝殿前から社務所を見る。吽形像の台座には「昭和五十七年壬戍年弐月𠮷日」と。社殿左奥本殿の裏に朱色の鳥居が立ち「境内社」があった。階段横には古い手水鉢。碑には、「奉納碑 奉納 金壱千万円也 栗原正明殿 父 栗原良夫 遺志 百万円 栗原正明 平成五年六月吉日 奉納 正一位 稲荷社 壱棟 ㈱藤井工務店 奉納 山王社御嶽社八坂社 壱棟 ㈱藤井工務店 奉納 社務所屋根葺替工事 一式 ㈱□□□□ 奉納 賽銭箱 参個 ㈱□□□□」。本殿裏の一段高い場所に境内社が並んでいた。本殿裏右側から、左側に「宏福神 安政三辰 一八五六年」と。この宏福神は蚕影神であり養蚕業の繁栄を守る神様です。昭和初期小園の農家は生計の維持として盛んであった。然し輸出先の米国の経済不況や国内の米の大豊作により繭価が大暴落となり昭和9年小園に養蚕組合が設立され救済事業が行われた。その後太平洋戦争により桑畑は食料増産のため転作が奨められ組合員も脱退が進み生産量も減り衰退へと道をたどっていった。覆い屋の中に賽銭箱、石祠が1基あった。子之社は神奈川県神社誌によれば、元久2年(1205)創立とある現日立社敷地内に元宮様という石祠が発祥とすれば創建年は不詳である。この石祠は昭和35年に子之社に移転したものであるが笠と台石のみで、中心部の祠の部分が失われていたので移転時に補充されている。摂社 (本殿に縁故の深い神を祀った社)覆い屋の中に3社の祠。摂社 (本殿に縁故の深い神を祀った社)向って右側は ◇御嶽神社・・・火災盗難の除神向って中央は ◇山王神社・・・山の守護神向って左側は ◇八坂神社・・・無病息災幸福をもたらす神隣の祠は ◇稲荷社 ・・・五穀豊穣をもたらす神覆い屋の左の柱に「正一位稲荷大明神」と。社殿の左奥に建つ「神楽殿」。神楽殿の扁額「神楽殿」。神楽殿の前は広い広場になっており盆踊り大会も開催されるようだ。社殿の左奥には境内社がある。社殿の右側に回り込む。奥に境内社の「宏福神」が鎮座している。石碑には、「子之社 大震災復興記念」と彫られているのであろうか。こちらの石塔には、「□□□菩供養塔」と。拝殿右側からも境内へ入れた。ここでも木が伐採されており、最近の倒木により被害を予測しての対応であろうか。その入口に「小園子之社東参道」とあった。拝殿前に立つ狛犬。神社駐車場入口の幟旗に、「”伊勢神宮のお神札”と”地元の神社のお神札”をおまつりしましょう 神奈川県神社庁相模中央支部」と。15:20小園子之社の参拝を終え帰路につくことに。当神社は綾瀬市で一番高い場所にあるので境内の樹々は市内から見えるのであろう。 ー continued ー
2026.08.02
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おぎん様の墓の近くにGoogleマップで「目久尻川日時計」があったので訪れた。7月18日(土) 14:20目久尻川日時計所在地:神奈川県綾瀬市小園バス道から家庭菜園の中を抜け目久尻川の遊歩道脇にあった。生憎の曇り空で主柱の陰がなかった。目久尻川の日時計この日時計は、目久尻川総合治水対策事情で綾瀬市内の完成を記念して造られました。日時計主柱が太陽に照らされ、その影の先端が十二支の辰、巳、午、未、絵と字を結んだ線上にきた時がその時刻です。 敷石のもみじの葉は綾瀬市の木です。 日時計主柱 玄武岩肥前六方石十二支にたとえた時刻は昔広く使用されていました。 辰(たつ) 8時 巳(み) 10時 午(うま) 12時 未(ひつじ) 14時上流側から見る。敷石のデザインは綾瀬市の市木である”もみじの葉”であると。また、日時計の主柱は、玄武岩肥前六方石であると。周りは家庭菜園で同年代の方が精を出しておられた。続いて訪れたのがバス道沿いにある、地蔵堂(東光山延命寺 寺小屋跡)所在地:神奈川県綾瀬市小園61-5相模国分寺の隠居の僧が住んだと伝えられています。約1200年前に建立されたものと思われます。現在の地蔵堂は昭和47年に老朽化改築されたものですと。向かい側にバス停があったが駐車スペースがなく道路脇へ駐車。バス道で交通量が多いので道路脇から撮影。バス道のカーブ地点に鎮座している。道路を挟んで地蔵堂前に広場があったがかつての境内であろうか。切り株が二本あった。相鉄バス停「小園団地入口(地蔵堂前)」。海老名駅まで運行している路線だが始発は?。地蔵堂地蔵堂の扁額「延命寺」。小園地蔵堂もとは東光山延命寺といい、相模国分寺の隠居寺と伝えられています。創建年代は不明ですが、室町時代から江戸時代のはじめ頃にはあったと考えられます。本尊は木造の地蔵菩薩坐像(市指定文化財)です。座高が17cmとやや小ぶりですが、着衣には14世紀ごろに流行した法衣垂下の技法が用いられるなど、巧みな技法で造られた仏像だと分かります。技法から、14世紀末から15世紀前半頃の作と考えられ、市内に残る中世の本格的な作例です。同じく堂内の涅槃釈迦如来像は江戸時代の作で、寝釈迦様と呼ばれ親しまれています。4月の釈迦の日前後には、無病息災を願う伝統行事である「花まつり」を開催しています。 令和六年三月 綾瀬市・綾瀬市教育委員会木造涅槃釈迦如来像狭いスペースであるがお堂の右側には祠、石塔群があった。お堂の右側の”子育て地蔵”はいぼとり地蔵としても知られ、祠の前の石でいぼをこするといぼが取れるのだと。いぼとり地蔵とこの石でいぼをこすると取れると。石塔群の前には「アヤセ 防火用水」がある。後方は歴代住職の墓石であったのか。一部が壊れた石塔もあったが。板碑には、「相模國分寺の末寺 東光山延命寺歴代住職之墓 墓地整備を記念して建之 昭和五十四年四月八日 延命寺崇敬者一同 平成十一年四月吉日この地に移す」とあった。地蔵堂前からバス道を見る。次の目的地はここから北西方向にある小園橋の「カッパ像」。小園橋近くの道路脇へ駐車。目久尻川沿いの遊歩道に立っていた案内板、「あやせ目久尻川歴史文化ゾーン ~ 歴史と自然にふれあい未来を発見! ~ 」。ここは「小園(こぞの)橋」です。渡辺崋山が書いた「游相(ゆうそう)日記」の図中にある橋がこの小園橋だと考えられています。「游相日記」では、厚木へ向かう崋山を皆が村境で見送ったと書かれています。また、国役を課して工事をしたことから国役(くにやく)橋ともいわれていました。【目久尻川】 座間市栗原に寒川神社の御厨(みくりや)があったので、「御厨尻(みくじり)川」と呼ん だのが目久尻川になったというものや、昔、かっぱが住み着き悪さをしたため、かっ ぱを捕らえて目をくじり取ったことから「目穿(めくじり)川」となり、それが転じて 目久尻川となったという説などがあります。(御厨:供物を準備するところ)神崎遺跡公園(5.7km)➨ 国指定史跡 神崎遺跡裏面に、あやせ目久尻川歴史文化ゾーン ~ 歴史と自然にふれあい未来を発見! ~あやせ目久尻川歴史文化ゾーンとは小園・早川・吉岡の約5kmを流れる目久尻川流域は、旧石器時代から現代に至る約4万年前の人々の生活の痕跡が凝縮されているとともに、日本の原風景を思い起こさせる田畑や斜面林などの景観が広がる地域です。綾瀬市では、この一帯の歴史文化財を「あやせ目久尻川歴史文化ゾーン」として、一体的に活用しています。そんな綾瀬の目久尻川流域の豊かな歴史文化、自然にふれあってみませんか。目久尻川流域マップ小園橋 現在地辺りをズームアップ。①小園子之社 ②小園地蔵堂 ③長泉寺 ④龍洞院 ⑤宮久保遺跡 ⑥五社神社⑦城山公園・早川城山遺跡 ⑧道場窪遺跡 ⑨神明社 ⑩済運寺 ⑪正福寺⑫蟹ヶ谷公園・吉岡遺跡群 ⑬神崎遺跡公園・神崎遺跡 目久尻川の上流側を望む。目久尻川に沿った遊歩道には川底が深いので安全柵が設けられている。東側からの水路流入路。少々疲れた案内板が。目久尻川サイクリングロード距離表示板ウォーキングの歩数と時間 (歩幅約70cm)上段(歩数):新武者寄橋 ⇆ 瀬端橋 ⇆ 丸山橋 ⇆ 虚空蔵橋 ⇆ 内藤橋 ⇆ 新橋 ⇆ 小園橋下段(所要時間)小園橋を下流側から。欄干に「小園橋」と。小園橋を渡り東側へ移動。小園橋昔は目久尻川改修前の位置に架けられ、国の費用で工事をしたので、国役橋と呼ばれていたようです。ここには浜田の駅からひさご塚に出て、俗に四十坂と呼ばれる急坂を下った古道が通っていました。 昭和六十三年三月 綾瀬市教育委員会カッパ像所在地:神奈川県綾瀬市小園111小園橋の東側に広場があり「カッパの像」が設けられている。二体のカッパどこか微笑ましい光景である小園橋から上流側の遊歩道は舗装されていなかった。サイクリングロードが小園橋までで、また海老名市との市境に位置している為であろうか。小園橋は目久尻川に架かる綾瀬市の最上流部の橋である。花壇に立てられていた。「ゴデチアの引き抜き窃盗の方へ 一級河川「目久尻川」遊歩道の花壇は、神奈川県厚木土木事務所東部センターの所管 です。県の許可をいただき、遊歩道の草取り・掃き掃除や花壇などのお世話を約30年 間、先代を含めると50年以上にわたり、ボランティアで行っております。 草花の苗は、種から育苗して、何か月も世話をしながら定植しております。四季折々 の花を見て、皆さん喜んでいらっしゃいます。タウンニュースや綾瀬市ホームページ あやせネットニュースにも、たびたび掲載されております。 したがって、家で楽しむならば、ご自分で種を購入して、種まき・育苗後、花壇に植 えてください。他の所有の花を引き抜いて植えても育ちません。また、その花を見て きれいだと思われますか?」と。モラルのない不届きな人がいるのだ、被害者のお願いの文面だが窃盗者は・・・。小園橋の上流側から。川底の深さは「4.8m」と深い。14:50古東海道所在地:神奈川県綾瀬市小園1371-6古東海道の登り口に相鉄バス停「小園」がある。古東海道の登り口に説明板が立っていた。この後この道を上って「小園子之社」へ参拝したが狭かった。古東海道小園橋付近から小園地区の北端にある赤坂に至る道で、矢倉沢往還へ抜ける為の古道です。古東海道であったという伝承や、古代の浜田駅(相模国)から店屋駅(武蔵国)に至る街道の一部であったという説もありますが、道幅や道路の造りから、街道につながる道だったと考えられます。江戸時代には、田原藩士の渡辺崋山が、小園に住むお銀さまを訪ねるさいに通った道ともいわれています。古道の入口には、中世石造物の残欠や宝暦六年(1756)・上小楚根村中の銘文が入った道祖神があります。赤坂には、不動尊像が乗っている「左江戸道柏谷村」と書かれた道標(年代不明・江戸時代と推定)や昭和期に建てられた道標があり、長年にわたって人々の生活を支える道だったと考えられます。 令和六年三月 綾瀬市・綾瀬市教育委員会 ー continued ー
2026.08.01
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”笠間家のギンモクセイ”から目久尻川に沿って更に北上。7月18日(土) 13:50カーナビの案内で進むと道路脇に案内板「曹洞宗 崇福山長泉寺」が立っていた。長泉寺 (ちょうせんじ)山号を宗福山といい曹洞宗(禅宗)の寺てす。本尊は釈迦如来で、寛永十一年(1634)亡の僧格雲守存により開山されました。かつてここには、中世の在地領主渋谷氏の菩提寺と伝えられる祖師山菩提寺という寺がありました。渋谷庄司重国の孫、曽司五郎定心(入来院氏)とのゆかりも考えられる一帯と言えましよう。 平成三年三月 綾瀬市教育委員会この説明板は草に覆われて見えなかった。道路から数百メートル山側へ入ると杜の中に長泉寺の山門があった。人影がなく山門前が広かったので駐車。山門の左側は進入禁止になっていた。。ここにもバナナの木があったが収穫できるのか。崇福山長泉寺所在地:神奈川県綾瀬市早川3146現在は本堂が建て替え前で更地になっている。正面階段から上がると何も建物が無くビックリしますが、階段を登り切ると左手に仮の本堂があるので安心して下さいと。門柱の右側には「崇福山」、左側には「長泉寺」と。山門を入ると両側にイチョウの木が聳えていた。山門を入ると階段下右側に、赤頭巾前掛けをした3体の石仏群。左側にも石仏群があった。赤頭巾前掛けをまとった六地蔵。石仏人気の無い階段を登ることに。階段を登ると正面に本堂がなく更地になっていた。右側の生い茂った中に石燈籠、石塔が立ちヤマユリが咲いていた。ヤマユリ近畿地方以北の本州に自生するユリ科ユリ属の多年草。日本に自生する15種のユリを代表するユリであり、古くは万葉集にも登場する。その圧倒的な存在感から、吉凶慶弔さまざまな場面で花材として使われる。宝篋印塔らしき塔も立っていた。旅友が訪れた5年前は本堂が建っていたようだが現在は更地に。長泉寺背後の山は、「金王丸の山」と呼ばれ、平治の乱で敗れた源義朝に従って東国に逃れようとした八騎の中にいた渋谷金王丸が葬られた山という言い伝えがある。金王丸は、渋谷重国の子(あるいは弟)といわれているが定かではない。尾張国野間長田忠致を頼った義朝が、入浴中に忠致の裏切りに遭い殺されたときも一緒だった。義朝が殺されたことを京の常盤御前に伝えたのも金王丸で、その後出家し、義朝の菩提を弔ったという。奥に立つ木柱に「大恩教主 本師 釋迦牟尼佛」と書かれていた。境内に入ると左側に仮本堂が建っていた。長泉寺は曽洞宗のお寺で本尊は江戸時代造立の木造釈迦如来像。開山は格雲守存和尚である。三田村(厚木市)の清源院の末寺で、開基は渋谷金王丸と伝えられている。仮本堂の扁額「長泉寺」。仮本堂前から北側を望む。枝垂れ桜が聳えていた。仮本堂裏へ回り込む。この建物はもともとあったのか。仮本堂等の説明もなく詳細は不明。Googleマップでは本堂がある。下側の建物が現在仮本堂になっている。本堂の再建はいつになるのか。樹々の間に堂宇が建っていた。阿弥陀堂であろうか。祖師山菩提寺といわれ、鎌倉時代からの堂宇の所在地といわれている。渋谷一族の菩提寺と伝えられ、一族の供養塔と伝えられる石碑が残っているとあったが。ここにも草が生い茂る中にヤマユリが咲いていた。ヤマユリの開花は暑さ真っ盛りの6月下旬~8月で、普通は4~5輪がまとまって咲く。花に近付くとむせ返るほどの強烈な香りがある。花の大きさは直径20~30センチにもなり、野山に咲く花の中では最大級であると。また、19世紀に来日したシーボルトは本種をヨーロッパへ持ち帰ったが、純潔を重んじるかつてのヨーロッパでは赤褐色の斑点模様が受け入れにくかったようで、その後、彼の地で改良を重ねられたカサブランカが編み出され、日本にも逆輸入されることとなったと。客殿であろうか。客殿前から、枝垂れ桜、仮本堂を見る。枝垂れ桜が咲く時期は見事な光景になるのであろう。長泉寺を後にし駐車場へ。境内に案内書(再建に関する)等がなかったので荒廃したのかと思ったが。立派な石燈籠もあった。再建計画の掲示が欲しかった。それともどこかに掲示されていたのか。山門前から進入路を見る。途中から未舗装になっていた。長泉寺から目久尻川を越え東側にある「おぎん様の墓」へ。駐車場がなかったので道路脇に駐車、南側に東名高速の早川高架橋を見る。小園広場所在地:神奈川県綾瀬市小園南1丁目1-23小園広場は綾瀬市にある住宅街の比較的広めな公園です。平成初期につくられた比較的新しい公園です。公園の設備には水飲み・手洗い場がありますと。お銀さまの墓この上の墓地の中に、お銀さまの墓があります。お銀さまは本名を「まち」といい、江戸時代後期に早川村の佐藤家に生まれました。後に江戸の田原藩下屋敷に奉公に出て藩主三宅康友の寵を受け、友信を生みましたが母の急死で帰郷し、その後小園村の大川家に嫁ぎました。渡辺崋山が少年期に世話になった、この「あこがれのお銀さま」を天保二年(1831)に訪ねた様子は「游相日記」として今に残っています。 昭和六十三年三月 綾瀬市教育委員会この後方の杜の中に「おぎん様の墓」がある。墓への案内板がなかったので分かりづらい。一般の墓石の中に一緒に並んでいた。事前にGoogleマップで調べていたのでどうにか見つけることができた。墓石の後ろに「お銀様の墓」とあった。ここだけに竹筒の花立が設けられていた。お銀さまの墓石には「皈元開外全修大姉 文久2年11月15日」と読めたと。14:15おぎん様の墓を後にした。 ー continued ー
2026.07.31
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龍洞院の参拝を終え更に、目久尻川の上流へと。7月18日(土) 13:15虚空蔵橋の西側道路脇に祠が建っていた。地蔵尊所在地:神奈川県綾瀬市早川1763-2龍洞院への入口道路角に建っている地蔵尊で奇麗に整備されていた。花も備えられ地元民による崇敬が篤いのであろう。橋の袂に「虚空蔵橋(こくぞうばし)」の標柱。虚空蔵橋の親柱には「市の木 ヤマモミジ」。路面のタイルには「市の花 バラ」。虚空蔵橋(こくぞうばし)龍洞院へ行く橋で、昔、大水が出たときに目久尻川から流れてきた虚空蔵菩薩を拾い上げたと伝えられています。橋の欄干に「虚空蔵橋」と。目久尻川を挟んで両側に道があり、西側の道を振り返る。道路脇に「龍洞院 ⇦」の案内板。直進し坂を上ると先ほど訪れた「西山橋」へ。龍洞院の境内へは直進しても、左折してからも入れる。虚空蔵橋上から目久尻川の上流を望む。防音壁があるのは東名高速道路の早川高架橋。この後この上流側へ移動。東側の橋の袂の信号には、「虚空蔵橋際」と。目久尻川の下流側。目久尻川の上流は川底が深く(4.8m)、両岸の擁壁はコンクリートで固められている。左岸のコンビニは「セブン-イレブン 綾瀬早川虚空蔵橋店」。地蔵尊後方は東名高速道路の防音壁。庚申塔、道祖神辻の角に4基の石塔が立っていた。右から「庚申塔」「道祖神」「無酒□□□ 一遍上人□□□」「?」と。カーナビの案内で東名高速道路の早川高架橋を潜り抜け北側へ。スマホのGoogleマップの案内で「白山神社」へ向かうが案内板もなく分かりずらかった。カーブミラーから路地を上ることに。スマホの案内で森の中へ、草が生い茂り嫌だったが1m幅程が刈られていたので登った。右奥に白山神社を見つける。白山神社所在地:神奈川県綾瀬市早川1802階段を登った山林中程に鎮座する小さな社で、鳥居はなかった。説明板もなくここの地主さんが祀ったのであろうかと。幅1m程の階段だが樹々の根で盛り上がっていた。どうにか参道の階段は歩けたので登り社殿前へ。社殿回りは枯枝が散らばって足元が悪かった。社には注連縄、中には祠があった。白山神社前から集落を見下ろす。比較的新しい注連縄が飾られていたので祭事は行われているのであろう。Googleマップではこの辺りに「稲荷宮」があるのだが。右側の竹林の中に朱色の屋根を発見。中へ入ろうとしたが足場が悪く外から。稲荷宮草をかき分けてどうにか撮影。冬場なら樹々が枯れ見易いのであろうが。写真はネットから竹林の中に鎮座している稲荷宮。登ってきた路地を見下ろす。右前方には東名高速道路の防音壁があり、かつては騒音公害で悩まされたのであろう。滞在時は昼時であったので車の騒音は感じなかったがさて夜間は?。白山神社から更に北上、次に訪れたのは「第六天神社」。第六天神社所在地:神奈川県綾瀬市早川3096-1かつては境内に聳えるサクラの巨木が目立ち木陰になったようだが (ネットの写真)。鳥居の扁額には「第六天神社」。左側には社号標石も立っていたが「第六天神社」と。その巨木も伐採されて切り株だけになっていた。幹直径は1メートルはあったか。社 殿第六天神社祭神は神道でいう天神六代目にあたる、面足尊(おもたるのみこと)、惶根命(かしこねのみこと)の夫婦神であろうと思われますが、創建年代はわかりません。かつては地域の人々に信仰が厚く、当社を中心としたここは桜の名所として、祭日には大変にぎわったところです。 昭和六十三年三月 綾瀬市教育委員会東側から見上げる。かつてはサクラの名所であったと。道路を挟んだ第六天神社の向かい側に「不動講中供養塔」。破損した庚申塔も置かれていたのか。石塔の上には、像が彫られ風化していたが「不動明王」か。台座の正面には「不動講中供養塔」。横には「相州高座郡土早川邑」とあり、左側面には「嘉永元戊申七月吉日建之」とも・・・。1848年で江戸後期の造立による石塔であると。西側から第六天神社を見下ろす。笠間家のギンモクセイ所在地:神奈川県綾瀬市早川3114-1笠間家のギンモクセイは樹齢130年と推定され、県の「名木100選」に選定されたことも。綾瀬市の天然記念物。5本の株立ちで高さは約10メートル。9月末から小さな白い花が束生して咲く。関東では黄花のキンモクセイが多いが、ギンモクセイは「上品で優しい香り」が特徴であると。咲く時期が楽しみであるが。13:45ギンモクセイを見下ろす高台に大きな墓石があったが。 ー continued ー
2026.07.30
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関東地方に住む神奈川県民にとってはこの大地震は「寝耳に水」であったが。何気なく見た映像に昨日7月28日(火)16:27頃、熊本県でマグニチュード7.1の地震が発生、多大な被害が発生しているとのことでビックリ。今朝のNHKは、この地震の被害状況の報道、その大きさに再度ビックリ、被害の状況は、 ①イオンモールでは爆発・・・何が原因か? ②日本製紙八代工場では煙突が倒壊 ③熊本城でも石垣が28箇所崩落・・・修復された天守閣の映像は、大丈夫? ④八代宮の神社の倒壊 ・かつて訪れた時の「八代宮」👈をクリック願います。 ・八代城の石垣も崩落 現在でも行方不明者がおられるとのことで、炎天下の中での消防団、自衛隊の懸命な救助活動に敬意を表するものです。NHKの映像から、日奈久断層帯この辺りは”日奈久断層帯”と呼ばれ、昨日からの地震発生状況が集中していると。このような場所に建設する重要な施設・設備は避けるべきではと思うが。日奈久断層帯は、布田川断層帯とともに「布田川・日奈久断層帯」を構成し、九州で最長の活断層帯の一つです。日奈久断層帯自体は、益城町木山付近から芦北町を経て八代海南部まで北東から南西方向に延び、全長は約81kmと推定されています。この断層帯は右横ずれ断層であり、一部では上下変位も観測されていますと。猛暑日の中での被災者、救援活動の方にお見舞い、感謝の念でブログアップしましたが考慮不足もあったかもしれませんがご容赦ください!。 END
2026.07.29
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五社神社の参拝を終え、次の目的地は「龍洞院」へ。7月18日(土) 12:50庚申塔所在地:神奈川県綾瀬市早川1722Googleマップに龍洞院への途中に「庚申塔」があると。五社神社から目久尻川が流れる北側へ下ると道路脇にあった。道路脇に車を停め散策。下ってきた道を振り返る。門扉があり、大谷石の上に庚申塔があった。庚申塔は苔むし、風化して字は確認できなかった。道路脇にバナナの木が聳えていたが、実がつくのであろうか。曹洞宗 一澤山 龍洞院所在地:神奈川県綾瀬市早川1766龍洞院は香山重菰(慶長5年1600年寂)が開山となり創建したと言われている。駐車場への途中に咲いていたこの花は「ヒオウギ (檜扇)」であったか。ズームアップ駐車場への途中の標柱に「龍洞院」と。山の斜面に枝垂れ桜が植えられていた。板碑、木柱があったが。板碑には、「本堂改築記念 龍洞院護持会は老朽化の進む本堂の再建を計画し、護持会役員会と合同の建設委員会 を設け、臨時総会を経て改築を決定した。資金は会員の浄財を募ることとし、平成二 十九年七月二十八日、遷座式・落慶式を行なった。記念に枝垂れ桜を植樹した。 令和三年十一月吉日 当山三十六世代 護持会役員の名が刻まれていた。駐車場の一角に大きな「龍洞院観音像」が立っていた。左側横にも小さな観音様が2体立っていた。この辺りは目久尻川が流れる低地で東側の台地には工場、倉庫が建っている。お顔をズームアップ。観音像の後方にも多くの像が置かれていた。これらは個人で奉納されたものであろうか。境内の駐車場脇に「東司(とうす) (トイレ)」が建っていた。境内には梅の木が植えられ、ヒノキが聳えていた。山門前に掲示板。掲示板には、「おやこ de 坐禅会 令和8年11月7日(土) 10:00~17:00」と。参道の先に本堂。石碑には「龍洞霊園」と。ヒノキの根がブロックに。ヒノキの実。山門を入ると右側の石柱に、「福授大黒堂一切建立 寄進者 守山甲子太郎殿」と刻まれていた。先ほど参拝した五社神社の狛犬にこの「守山甲子太郎」があったが。福授大黒天堂堂の扁額に「福授大黒天」と。扁額の下に「昭和九年如月 甲子太郎翁謹書」と。堂の扉が開いたので撮影。ズームアップ。ユニークなお顔を。石碑に「龍洞院復興紀年」と。全て漢字で刻まれていた。「龍洞院□一澤山慶長年間香山重菰創為□曹洞宗總持寺 派為愛甲郡玉川□龍鳳寺未明治十二年三月十七日□□ 禄住職初澤瑞光師亦焼死・・・中略・・・ 昭和四年四月 前衆議院議員勲四等山宮藤吉撰并書」と。本 堂明治12年の火災で堂の建物、記録類を焼失し、寺史は不詳です。現本堂は、昭和4年に再建されました。本尊の「虚空菩薩」の台座からは、「大塔宮御骨」と書かれた小箱が発見されました。「大塔宮」とは後醍醐天皇の第三皇子・護良親王を指し、出家して天台座主にのぼられ、大塔にいたことがあったため、世に大塔宮といわれていますと。幅の狭い参道にはドウダンツツジが植えられていた。本堂の右側に寺務所であったか。本堂右前に観音像と足元に地蔵。本堂前の植込みに「大久保泰助建之」と刻まれた碑。何を建立されたのか。境内、坂を登り墓地へ。境内から東方向を見る。龍洞院の北側に東名高速道路があるので「東名跨道橋西山橋」を見ることに。龍洞院に車を置き歩いて坂を登る。車でも行けたのだがリハビリを考えあえて歩いた。登り口の一角に祠があったが・・・。急な坂道を登り、龍洞院を見下ろす。右奥には墓地が広がっていた。東名跨道橋の「西山橋」。上り方面。跨道橋は約50mmのグレーチングで落下防止対策が行われていた。道路標識に「綾瀬 出口800m」と。綾瀬スマートインタはETC専用出口である。走行3車線+出口車線の4車線。下り方面ズームアップ、道路標識に「海老名 1km」と。跨道橋西山橋を渡り北側から。この辺りは丘陵地で未開発になっている。跨道橋は強固な構造に。欄干に「西山橋」と。13:15龍洞院境内へ戻る。龍洞院の墓地は丘陵地の中腹にあった。 ー continued ー
2026.07.29
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五社神社の参拝を始める。7月18日(土) 12:30参道を進むと正面に五社神社の社殿が建っていた。参道沿いに掲示板があり写真が貼られていた。当神社は映画やCMなどの様々な映像作品のロケ地でもあると。日清どん兵衛CMのモデル神社に使われました。2022年10月末よりTVCMで放送。モデルによる撮影風景ガムテープで貼られていたが。abemaTV お笑いストリートファイト 五社神社にて撮影 令和5年5月18日テレビ神奈川 猫ひたいほどワイド 令和6年4月10日放送 綾瀬のプリンスこと石渡真修さん(綾瀬市出身)来社左側の杜の中に社務所。右側には手水舎。今だ手水舎の前には消毒のスプレーが用意されていた。水口の龍社殿の前には大正天皇御大典(御即位)で植栽された対のクスノキが聳えていた。対のクスノキが植えられている。立札に、「御神木 楠木 一対 大正天皇の御大典(御即位)記念に植栽されました 社務所」。クスノキを見上げる、樹齢百数十年程だが巨木に。左側から社殿を見る。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。拝殿の唐破風見事な彫物があったが逆光で、木鼻も。拝殿の内陣を見る。祈祷用の椅子が用意されていた。内陣の扁額には「五社宮」と。拝殿の海老虹梁拝殿前から参道を見る。狛犬の台座には、「茲為七十四翁 守山甲子太郎 大患平癒祈願 報賽」と。病気の平癒を祈願して奉納されたのであろうか。社殿の左側に「神輿殿」、扉が開けられた境内社。境内社を納めた覆い屋。左から「渋谷神社」と「疱瘡稲荷社」。祠の後方の壁に「渋谷神社」「疱瘡稲荷社」と。神輿殿ちょうど清掃中の高齢の宮司さんがおられたので聞くと「神輿は子供神輿が三基、部落が三村あるのでそれぞれ製作した」と。「最近は子どもが少なく親が担いでいる」と。暑い日であったが樹木に覆われ清涼感溢れる空間であった。映画『たまには、大きな声で』ロケ地 監督・脚本:柴山健次 出演:村田寛奈、眞嶋秀斗 ほか綾瀬市を舞台に撮影された作品で、五社神社はじめ市内9カ所で撮影がされた。【その他ロケ地】 イタリアンレストラン バフェット、CAFE KAKA、市内倉庫、大久保商店、バーミヤン 綾瀬市役所前、綾南公園、城山公園、綾瀬市役所五社神社を訪れた人 村田寛奈さん、眞嶋秀斗さん地元最後のライブで新曲を歌う中、”彼”と過ごした回想シーンで登場社殿の右側に建つ「神楽殿」。7月25日(土)の盆踊り大会はこの広場で開催予定と。社殿を右前から見る。本殿の裏側へ回り込む。五社神社の境内はスギ等の樹々が生い茂っていた。本殿裏に石祠が並べられていた。本殿裏に聳える「御神木のスダジイ」。五社神社の御神木で、樹齢約四百年、樹高二十メートル、胸高直径二メートル市内随一の古木です。椎の仲間の一つであるスダジイです。スダジイと本殿。神楽殿の裏側の入口。尾ノ井 (おのい)所在地:神奈川県綾瀬市早川五社神社の神楽殿の裏から坂を少し下るとあった。尾ノ井を見下ろすが水があったか。落葉で覆われていたので。尾ノ井五社神社の境内の形が亀の形に似ており、池がその尾の位置にあるので、亀ノ尾ノ井が尾ノ井と呼ばれるようになりました。高い所にある湧き水の池で、古くは飲み水になったり、田の用水になったり、雨乞行事に用いられたりしました。また、これにまつわる昔話なども伝えられています。 平成三十年一月 綾瀬市教育委員会尾ノ井は柵で囲われ、近年に奉納された石燈籠があった。近寄れなかったが斜面に祠があった。祠をズームアップ。境内へ戻り、御神木のクスノキを見上げる。社殿は、御神木のクスノキ、スダジイの巨木に囲われている。神楽殿横から見上げる。これからは突風等による倒木の恐れが。東側に見えるのは綾瀬市役所であったか。玄関先に「祈祷・御朱印 受付所」と。目久尻歴史スタンプラリーの案内「目久尻歴史スタンプラリー」とは・・・ スマートフォンを使ってQRコードを読み込み、あやぴぃの出すクイズに 正解すると、オリジナルあやぴぃスタンプがもらえるよ! 更にあやぴぃと記念撮影も・・・!?12:45境内横の駐車場。 ー continued ー
2026.07.28
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誰一人いない静寂な吉岡神明社の参拝を続ける。7月18日(土) 12:00境内から「狛犬、社殿」をズームアップ。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。拝殿の扁額は「神明宮」か?拝殿前から境内を見下ろす。拝殿横に立つ石碑に「神明社屋根替奉賛御芳名」。多くの氏名と金額が刻まれていた。三基の石碑が立ち、右側は、「神楽殿造営工事落成奉祝記念碑 吉岡神明社明細帳 本殿に奉納の棟札に因れば神楽殿に文久元卒酉年(1861)十一月 三日本殿再建と同時に造営されたものであったが、大正十二年関東大震災による倒壊 のため取り壊し、その内使用に堪え得る物を改築用に供すると共に神社境内の間伐材 を使用し昭和四年に改築した。 しかるに昭和五十九年十月九日原因不明の出火により全焼したが、神社の崇敬一日た りともなおりにするに忍び□万難を排しこの程神楽殿建設の儀まとまり茲に氏子崇敬 者の多大な協力により昭和六十年九月十五日落成をみたのでこれを記念するものなり 昭和六十年十一月吉日 吉岡神明社 氏子一同上の写真左側二基には、「社地拂下・石垣改修 記念」「記念碑 相模鉄道株式会社に於て本社殿周囲の土手神楽殿裏土手及び 金比羅社裏提間知積工 事施行せられ辨財天社池の周囲の竹垣根参道コンクリート階段工事等境内整備施行せ られしを記念す 昭和四十五年九月吉日建之 氏子總代」。社殿の右側から望む。拝殿横には太鼓をたたく踏み台があった。太鼓をズームアップ。社殿の左側から見る。拝殿と本殿の屋根つなぎ目には落ち葉が積もっていた。拝殿の左側。拝殿前から社務所を見下ろす。社務所右奥に「金毘羅様」が鎮座している。社務所の壁面に拝殿の「旧鬼板」であろうか。金毘羅様ガンジス川に住む鼻の長いワニがもとになった仏法の守護神。航海安全や大漁祈願また厄除けと、船舶関係者を中心に信仰を集めている十二神将のうちでは宮毘羅(ぐびら)に当る階段を上がるとケヤキの巨木の下に社が建っていた。中に小さい祠があった。中には七福神の?か。金毘羅様の前から境内を見下ろす。拝殿の屋根を見上げる。神紋の間の紋様は龍であろうか。拝殿の鬼板。社務所横から社殿を見る。境内は綺麗に清掃されていた。吉岡神明社の参拝を終え後にすることに。右側は駐車場だが閉鎖中であった。12:15綾西公園駐車場へ。12:25カーナビの案内で五社神社の駐車場へ。民家の塀にポスター、「五社神社 納涼 夏祭り 令和8年7月25日(土) 開会 16:00 閉会 20:30(雨天中止) 場所 五社神社境内」と。五社神社所在地:神奈川県綾瀬市早川1603住宅に囲まれた静かな高台にあり、天気が良いと境内から富士山、大山が見える。神社前を回り込み。玉垣の中に「文字道祖神」が立っていた。 社号標石「郷社 五社神社」と。新しい鉄製?の鳥居が建っていた。鳥居の扁額「五社神社」。参道脇には御神木の「イチョウの木」が聳えている。宮司さんに聞くと「雄のため銀杏はつかないが、落葉の掃除が大変」と。根元の立札に、「御神木 銀杏 江戸時代中期の頃に植栽されました。 社務所」と。イチョウの木を見上げる。五社神社御由緒一、鎮座地 綾瀬市早川1603番地一、祭 神 天照大日霎貴尊 天忍穂耳尊 天津彦火瓊々杵尊 彦火々出見尊 鸕鵜草葺不合尊一、由 緒 第十二代景行天皇の皇子日本武尊東征の折当地(亀井山)に五乃朶榊を樹て地神五代を 創祀し給う第九十五代花園天皇の正和二年の春浄覚大徳社殿を再建す鎌倉時代早川城 主渋谷重国亜族の崇敬厚く生々祭祀怠りなし慶安二年八月徳川三代将軍より社領十三 石の御朱印を給う 明治六年村社大正五年幣帛供進神社に指定昭和十二年十月六日郷社に列せらる一、祭 日 例大祭九月最終土曜日 祈年祭二月十七日 新穀感謝祭十一月ニ十三日 その他中小諸祈願祭随時執行一、境内社 痘瘡稲荷社、八坂神社、渋谷神社大きな板碑に「社務所・神楽殿 奉納金者」と。こちらの板碑には「玉垣造成記念 奉納金寄附者芳名」と。参道には樹々が聳える。参道を進むと左右に覆い屋。左側の覆い屋の中に祠があった。覆い屋の右側の標石に「八坂神社」と。八坂神社右側には鎖で囲われた覆い屋が建っていた。標石に「日本武尊御腰掛石」と。日本武尊御腰掛石八坂神社を振り返る。12:30日本武尊御腰掛石、参道入口方向を振り返る。 ー continued ー
2026.07.27
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この日は綾瀬市の北西部の寺社史蹟巡りに。7月18日(土) 11:00寒川から中原街道(県道45号線)を用田交差点方面へ北上。今日の目的地「吉岡神明社」への途中、見落としていた藤沢市用田の地蔵尊へ立ち寄った。中原街道から西側に下り目久尻川沿いの道へ。子育守護根之神地蔵尊所在地:神奈川県藤沢市用田2658Googleマップでは「子育守護根之仲地蔵尊」とあったが。子どもの成長を祈って今でも崇敬されているのであろう、地蔵尊の周りの境内は綺麗に清掃されていた。新しい標柱に「子育守護根之神地蔵尊」と。社の横には手ほうき等が吊るされていた。標柱の裏面には、「平成十三年一月吉日建之 寄贈 株式会社 □石材□」と。覆い屋は閉ざされていた。扉は閉ざされていたが「さい銭口」「扉開ける ➨」と。この構造なら扉が閉められていてもお賽銭は投入できるが盗難対策はと。扉を開けると母娘の地蔵であったか赤い衣装をまとっていた。新しい花(造花)も備えられていた。親地蔵様をズームアップ。子地蔵であったかキリっと。お地蔵様の救いと願いお地蔵様は庶民の ほとけお地蔵様の名前は、正しくは地蔵菩薩といいます。しかし、ふつうは、そんなかた苦しい呼び方はせず「お地蔵様」とか「お地蔵さん」と呼んでいます。お地蔵様は私たちにとって、最も親しみやすい菩薩さまです。そのため、このようなこのような呼び方がされているのです。お地蔵様は日本国中どこにでもおられます。お寺に行けば六体並んだ六地蔵、村や町の路傍に、大都会の街角や道路に、お地蔵様はじっとたたずみ、通行人や走り去る車をみまもっているのです。そうとも知らず人々はドンドン通り過ぎていきます。なんともったいないことでしょう。悩み苦しむ人々を救う地蔵様地蔵様は救いの菩薩さま、悩み苦しむ人々を、あまさず、もれなく救う、それがお地蔵様の誓いです。「地蔵菩薩本願経」というお経に、次のように説かれています。以降「略」。覆い屋の奥に、「子育守護 根の神地蔵尊 整備 竣 工 2026年7月16日 竣工式 寿昌寺住職読経(平沢 智樹氏) 地区参加者 6区 長谷川 明夫 7区 磯野 郁男・笹山 征二・渡邉 大策 境内地整備 (五十音順) 渡邉 大策 地蔵尊扉制作・立木伐採・土止め 除草等全般竣工が、2026年7月16日とあり2日前に竣工式が行われたようだ。どうりで綺麗に整備されていたのだ。地蔵尊前から目久尻川に架かる水管橋を望む。地蔵尊から農道を北上すると道路脇の一角に道祖神があった。新旧の双体道祖神が置かれていた。ズームアップ。双体道祖神がある辻から北方向を望む。坂を上った右側に蟹ヶ谷公園がある。11:30綾西公園駐車場所在地:神奈川県綾瀬市綾西2丁目11-14吉岡神明社の駐車場が閉ざされていたので、神明社の西側にある駐車場へ。5台ほどが停めれる小さい駐車場であった。駐車場脇にレンタル自転車があった。Googleマップには「🚴 HELLO CYCLING 共有自転車ステーション」と表示されている。綾西公園の長いすべり台。すべり台の出発点には「藤棚」があるようだ。太陽光パネルと風力発電があったが電力は何に利用されているのか。上の北側には多目的広場、テニスコート1面がある。駐車場から坂を下り吉岡神明社入口へ。境内の南側は新しい玉垣で囲われていた。吉岡神明社の駐車場だが鎖で閉ざされていた。吉岡神明社所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1808当社は、小島左衛門尉源忠重が当地土着に際して康和4年(1102)に勧請したとも、元和2年(1616)春日局が伊勢神明天照太神宮を勧請して創建したともいい、いずれか確かか不詳ながら、江戸期には吉岡村の鎮守社であったというと。社号標石に「吉岡神明社」と。神明社年間祭事 元旦祭 一月一日 祈願祭 四月一日 秋季大祭 九月十五日 七五三祭 十一月十五日 感謝祭 十二月一日吉岡神明社 案内図石碑には「大松樹記念碑」。板碑には、「玉垣完成記念碑 奉納金寄附者芳名 奉納金 個人 伍拾萬圓~弐拾萬圓 氏子崇敬者一同 弐百萬圓 平成九年二月吉日 施行 (有)工藤石材商会」と。 樹々に囲われた中に鳥居が立っていた。吉岡神明社の周りは新興住宅地になっているがここだけは昔のままに樹々が生い茂り静寂な空間に。この日は土曜日であったが子どもたちの声もなく。参道の右側に「神明社辨天池改修記念碑」と。神明社辨天池改修記念碑寛政四□子年(1792)にこの辨天宮が再建され、すでに百九十余年を経過した其の後 明治 大正 昭和と数度に亘って改築され今日に至った辨天宮の鎮座するこの地は往古より清水の湧く村の鎮守の地として崇められてきたが 自然のままに荒廃するに忍びず 此の度 辨天池の改修を発起し 氏子崇敬者の多大な努力により此に完成をみたので是を記念し 後世に伝えんものと書き記すものなり 昭和五拾七年拾貮月壹日 氏子一同辨天池の傍に手水舎が建っていた。柵で囲われた中に、辨天池と弁天様。弁天様もとはインドのサラスバティ川の女神。仏教では弁舌、音楽、学問、智慧、財福などを司る神とされる。手には琵琶や武器を持つ。七福神の一つとしても知られている。俗に紅一点の才能のある女性。弁天様を祀る社。辨天池手水舎の向かい側に奉納の一覧が掲示されていた。神明社台風災害復旧奉賛金御芳名 平成二十三年九月二十一日下に多くの名前が書かれていたが無残にも消えかかっていた。弁財天宮覆殿新築工事御芳名(順不同) 平成三十年九月五日(敬称略) 金額、御芳名が書かれていたが、個人では五萬圓~弐千圓と。参道を進み境内へ。参道を進むと左側に「スギの御神木」が聳えていた。後方は「社務所」。スギの幹に、「御神木 杉 江戸時代初期、植栽されたと伝えられている」と。境内の右側に「神楽殿」。神楽殿も新しく、石燈籠も新しいものであった。12:00社殿を見上げる。神明社 (しんめいしゃ)神明社は、天照大神、豊受大神が祀られています。社殿は本殿、覆殿、拝殿、及び幣殿で、他に社務所と神楽殿があり、境内社に琴平神社、稲荷社、弁財天社があります。元和二年(1616)に、三代将軍徳川家光の乳母であるお福(春日局)が勧請したとされる棟札が残されています。昔は当社の付近に、瀧岡寺(寿宝院)という別当寺がありました。 平成二十二年三月 綾瀬市教育委員会 ー continued ー
2026.07.26
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この日は、我が人生最後の新車ノートで出かけた。前車もノートで走行距離は4年間で約18,000kmであったが、査定金額が高価であると。また返済額も今までと同額であるとのことで頭金を用意して決断し新車に。車検の3年後には軽自動車に乗り換え予定だが、さてそこまで・・・。前回はゴルフでお馴染みの大きなキーを持って撮影したがなくなったと。7月22日(水) 先日の茅ヶ崎FMで、DJの田﨑亜美さんが"平塚名物の弦斎カレーパン"を紹介していたので出かけた帰りに立ち寄った。16:00高久製パン(株) 工場 食パンハウス 所在地:神奈川県平塚市老松町10-18大正13年(1924)創業の高久製パンで、弦斎カレーパンでお馴染みで、パン・給食パン・焼き菓子を製造販売している。この日はカーナビをここ工場にセットして閉店間際に訪れた。東海道本線を挟んだ南側には「オリンピック(OSC)」がある。高久製パンは給食パンで、平塚市・茅ヶ崎市・大磯町・秦野市の小学校、二宮・中井町の小・中学校へ納めており馴染みの味では。東海道本線の車窓から山側にこの看板が見える。今まで何度もこの路線に乗車しているのだが記憶にない。工場直売所住宅街の一角にある工場で駐車場もない場所にあり販売は自動販売機による。営業時間:10:30~16:30 無休人気の”弦斎カレーパン”この商品の開発秘話(社長談)は、「私は1904年から亡くなるまで神奈川県平塚市の平塚駅の南側に居住していた村井弦斎翁 のことを幼少のころから聞かされておりました。ある日、当時の平塚市長が私を呼び出し ”歴史で平塚の町おこしをしたい” と告げられました。その時私はすぐに、村井弦斎翁が 1903年(明治36年)ごろ連載していた料理小説『食道樂』にカレーを紹介していた記事を 思い出しました。私は、それをヒントにカレーパンを開発しました」と。この日は訪れたのが遅く完売であったので食レポは次回の楽しみに・・・。コンテナハウスの中に自動販売機があり「営業時間(自販機) 夜21:00まで延長」と。値段も「お得パン ¥200~、食パン ¥150~、菓子パン ¥90~」と、この時期にしてはリーズナブルな価格設定であった。二階の事務所下に、「創業 大正十三年 高久製パン」。 定休日:悪天候の場合、年末年始水曜日:朝焼き食パン 超お得・数量限定 1本500円コンテナハウス入口、左側の貼り紙に、「《 食パンハウスよりのお願い 》 ご来店ありがとうございます。 販売価格維持のため、開店から12時までの間の時間帯は ご希望の商品に関する店員へのお声がけを、 お控えくださいますようお願い申し上げます」と。ここまでしてリーズナブルな価格で提供しているのかと。自動販売機購入は1,000円を入れ「希望の番号」➨「購入」続けて次の製品を注文、最後に「おつり」を押すとおつりが出てくる。目的の「弦斎カレーパン ¥300」は売り切れであった。こちらの自動販売機は一つのBOXが大きく袋詰めで販売。ちょうど係りの方がおられ聞くと「両替は二階の事務所で」「駐車場は向かいのオリンピック(OSC)が3時間まで無料」と。袋詰めのコッペパン ¥200、2袋等を購入したが1,000円でおつりがきた。店先の貼り紙。老松町公園工場の傍に駐車場がなく、路上に駐車できないので少し離れた公園傍に駐車。工場を振り返る。係員の方から頂いたパンフレット。シャンパン☆ベーカリー桜ヶ丘店所在地:神奈川県平塚市桜ヶ丘4-46営 業:平日/9時~17時、土日祝/8時~17時、定休日/火曜日弦斎カレーパンでお馴染みの高久製パンが運営しているパン屋さん。大船・平塚・藤沢にもベーカリーを運営している。裏面には、7、8月のスケジュールが。月1回「60分食べ放題」を、大人¥1,500で開催。ひらつか 匠 の店17店舗が紹介されている。ひらつか匠の店とは?平塚市では、手作業にこだわり、伝統的な技や卓越した技術等により、自店又は自社で製造した製品を販売する店舗及びサービスを提供する店舗を「匠の店」として認定する「匠の店認定事業」を平成26年度より開始しました。「ひらつか匠の店」認定店は、優れた目利きと確かな技術でこだわりのある魅力的な商品やサービスを提供しています。また、匠の技が体験できるイベントを開催している店舗もあります。是非、各店舗へお越しください。おまけ7月23日(木)小玉スイカも受粉してから1か月を経たので2回目の収穫で4個目になる。黄色の玉は中身は赤色であった。庖丁を入れるとパリッと割れ、甘みも十分にあり美味しかった。また、朝起きると愛車ノートの上にブドウの皮があり、鳥獣被害?か、袋掛けした。 END
2026.07.25
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神崎遺跡資料館で「綾瀬市の歴史・神崎遺跡の紹介」を見た後、屋外の発掘エリアへ。7月8日(水) 15:00資料館2階の「遺跡展望バルコニー」からの全景。柵で囲われた道は東側下の市道3号線からの進入路。土の部分は発掘後埋め戻された住居跡。神崎遺跡資料館から出て発掘エリアへ。神崎遺跡は弥生時代後期の環濠集落(周囲に溝を巡らしたムラ)で、ほぼ完全な形で出土した国指定史跡である。遺跡は発掘調査後埋め戻されており、神崎遺跡公園として整備されています。公園には環濠等の位置表示や遺跡の説明板があり、散策しながら歴史を学ぶことができます。また、神崎遺跡に隣接する神崎遺跡資料館は2016(平成28)年開館で、1800年前の土器や実物大の環濠の模型が展示されていますと。神崎遺跡は、南北103m、東西65m、面積5,000㎡ほどの広い環濠集落であるので夏場には草刈等の管理が大変である。大きな石に「史跡 神崎遺跡」と。公園内案内図記念碑の前から時計回りに散策することに。国指定史跡 神崎遺跡1、名 称 史跡 神崎遺跡2、指定年月日 平成23年2月7日3、指定理由 国家の成立にむけて日本列島が揺れ動く弥生時代に、東海地方から関東地方へ200km 以上を人々が集団移住したことを示す遺跡であること、及び、環濠集落全体がほぼ完 全な形で残っていること。3、遺跡の内容 弥生時代後期(約1,800年前)の環濠集落。集落の形は楕円形で、規模は南北103m、 東西65m、面積は約5,000㎡。環濠(周囲を巡る溝)は、幅、深さともに約2mで、 断面はV字形。これまで実施した発掘調査は遺跡の一部で、確認できた弥生時代の竪 穴住居跡は18軒。4、そ の 他 史跡の隣接地に神崎遺跡資料館が平成28年5月に開館。館内には出土遺物や環濠の復 元模型が展示されているほか、2階からは環濠集落を一望できる。神崎遺跡公園神崎遺跡は平成元年に初めて発掘調査され、ここに弥生時代後期(今から約1800年前)の環濠集落があったことが明らかになリました。環濠集落は周囲に深い溝を巡らせたムラです。弥生時代特有のもので、各地から発見されていますが、当時、ムラ同士が緊張関係にあっことを示しています。さらに神崎遺跡の環濠集落は東海地方からの移住者によリつくられたこともわかり、日本の歴史を考えるのに必要な遺跡とされました。また、遺跡全体が良好な状態で保存されている点も高く評価され、平成23年2月に国史跡に指定を受け、遺跡公園として整備されました。これまでの発掘調査から、18軒以上の住居跡があることがわかっています。現在では住居跡や環濠は地中に保存されています。公園には全長270mにわたる環濠(ムラ周囲の溝)とこれまでに確認された住居跡の位置が表示されています。上空には海上自衛隊の飛行機が厚木航空基地へと。右奥には「竪穴式住居」の復元住居が2棟建っている。環濠(かんごう)弥生時代になると、日本列島にムラの周囲に溝を巡らした環濠集落が出現します。環濠集落は弥生時代特有のムラですが、環濠は攻撃から自分のムラを守るための防御施設と考えられています。集落間の争いの原因は、弥生時代になって使い始められた鉄製品が、国内で生産できない貴重な輸入品だったために、入手をめぐり、争いが多発したと言われています。しかし、関東地方では武器などの直接的証拠が見つかっていないため、住民が一致団結するために環濠をつくったという考えもあります。神崎遺跡の環濠は地点によって異なりますが、幅、深さともに2mほどで、断面はV字形ですので、外部からは容易に侵入できませんでした。なお、未調査部分に橋などの出入口施設があった可能性があります。神埼遺跡資料館には実物大の環濠復元模型が展示されています。環濠(かんごう)公園内にアジサイが植えられていた。左奥には四阿が建っていた。ガクアジサイをズームアップ。神崎遺跡公園の北西隅に建つ四阿から神崎遺跡を見る。土器捨て場平成元年の最初の発掘調査で、この周辺(南北約15m、東西約6m)から土器の破片が多量に集中して出土しました。一般に、多量の遺物が出土すると、住居などの建物跡が確認できることが多いのですが、ここからは発見されませんでした。出土した土器には完全な形のものはないため、破片を廃棄した場所と推定し、「土器捨て場」と呼んでいます。ここからは多量の土器の破片に混じり、鉄鎌も発見されました。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。説明板には「土器捨て場」と。公園の中央に復元された「竪穴式住居」の2棟が建っている。右側に「1号住居跡」、左にビニールシートがかけられた「2号住居跡」。1号住居跡2号住居跡1、2号住居跡の先を東海道新幹線が横切る。復元住居の南側に見えている神崎遺跡資料館。手前は発掘調査後埋め戻された住居跡。3号・4号・5号・6号住居跡3号・4号・5号・6号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。3号住居跡は5.9m×4.8mの楕円形です。炉跡と4本の柱穴がありました。4号住居跡は6.3m×6.2mの隅が丸い方形です。炉跡と10本の柱穴が確認されました。一見、不整形に見えるのと、柱穴が他の住居跡より多いのは住居の建て替え(増築)のためです。5号住居跡は5.2m×4.7mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。6号住居跡は遺跡保護を優先としたため、住居跡の有無の確認にとどめました。そのため、規模は推定となりますが、5.5m×5.5mほどの隅が丸い方形と思われます。3号・4号・5号・6号住居跡復元住居の北側に3号・4号・5号・6号住居跡が発見されたようだ。奥に「1号住居跡」、手前に「2号住居跡」が復元されているがそろそろ修復時期に。入り口は閉ざされて中は見れなかった。10号住居跡10号住居跡は平成25年の発掘調査で確認された竪穴住居跡です。神崎遺跡の主な調査は、平成元年の市史編集事業に伴う調査、平成22年の国史跡指定にむけての調査、平成25年の史跡整備による調査となります。平成25年の発掘調査は、それまでの調査では不明だった、環濠集落中央部の様子を確認することが目的でした。そのため、中央部を東西に横断する4m幅の発掘調査を実施し、発見されたのが10号住居跡です。この住居跡の発見により、中央部は広場ではなかったことがわかりました。平成22年以降の発掘調査では、住居跡が確認できた場合、掘り上げないで発掘を終了しています。したがって、10号住居跡の規模は推定となりますが、7.5m×5.5mほどの隅が丸い長方形と思われます。埋め戻された10号住居跡。復元された竪穴住居の1号住居1号住居跡1号住居跡・2号住居跡1号住居跡と2号住居跡は平成元年の最初の発掘調査で発見された竪穴住居跡です。1号住居跡は4.6m×3.5mの隅が丸い長方形で、ほかの住居跡よりも小型です。炉跡は見つかりましたが、柱穴はありませんでした。2号住居跡は6.3m×5.4mの隅が丸い長方形です。炉跡と4本の柱穴がありました。出土遺物には神崎遺跡の住民の故郷であった東海地方に特徴的な「ブランデーグラス」と呼ばれる土器、使いみちがはっきりしない球形土製品、儀礼(まつりごと)に使われた銅鏃(銅製のやじり)が出土しています。出土遺物は神崎遺跡資料館に展示されています。ここからは公園内を横切る小径の南側エリア。遺跡全体図7・8・9・13・14号住居跡平成21年以降に発掘調査したこの一群の住居跡は遺跡保護のため、発掘調査は最少限にしました。そのため、住居跡の大きさなどの詳細は明らかになっていません。しかし、13号住居跡は確認のため、一部を掘り下げたところ、予想外の発見がありました。3種類の形の土器が住居の床の上から出土したのです。弥生土器は使い方により形が異なりますが、主に甕形土器(煮炊き用)、壺形土器(貯蔵用)、高坏形土器(供え用)の3種類からなります。13号住居跡の床からは、当時の生活の復元に必要なこのセットが発見されたのです。残る未調査部分には何が眠っているのか期待できる資料にもなりました。出土土器は資料館に展示しています。東側の目久尻川から登ったところに位置する住居跡。11号・12号住居跡長期間にわたり同じ場所に住み続けると、人々は古い住居を壊して新しい住居をつくります。発掘調査では、このような場合、新旧の住居跡が重なっ確認されます。これを住居跡の重複といいます。神崎遺跡からは平成25年の発掘調査で初めて住居跡の重複が確認されました。出土土器からは時間の変化が読み取れなかったため、集落の継続期間は短いのですが、住居を建て替える必要があるくらいの年数は、人々はこの地に住んでいたようです。神崎遺跡の南東部を東海道新幹線が横切る。説明板には「移住者のムラ」と。移住者のムラ今から1,800年前、前方に見える東海道新幹線の向かって右方向200km先 (駅名でいうと浜松、豊橋あたり、現在の愛知県から静岡県にかけての地域) に住んでいた人々が、集団でここに移住し、環濠集落と呼ばれるムラをつくったことが発掘調査により明らかになりました。発掘調査により土器等モノの移動が明らかになることはよくありますが、人の移住を証明できることはほとんどありません。神崎遺跡は出土した土器の95%以上が東海地方の土器に酷似していること、しかも、その土器は神崎遺跡周辺の土でつくられていたこと、さらには、竪穴住居の形も「横長型」という地元のものではなかったことから、日本列島内での集団移住が明らかになりました。上段:神崎住民の故郷下段:そっくりな土器 左:静岡県浜松市伊場遺跡出土土器(浜松市博物館 蔵) 右:神崎遺跡出土土器神崎遺跡の東側下に市道3号線が走り北方向。南側を東海道新幹線が横切る。案内板は市道3号線沿いに立つ「神崎遺跡公園」で入口になる。神崎遺跡公園の南東部から北側を望む。説明板に「15・16・17・18・19号住居跡」と。中央奥は神崎遺跡資料館。15・16・17・18・19号住居跡平成25年に環濠内の南端部の状況を確認するため発掘調査したところ5軒の住居跡が見つかりましたが、遺跡保護のため発掘調査は最少限にしました。そのため、住居跡の大きさなどの詳細は明らかになっていません。しかし、この確認により、環濠内全体に住居が作られたことが明らかになりました。また、19号住居跡は古墳時代後期のもので、弥生時代とは異なり、かまどが備えられています。神崎遺跡は弥生時代後期以降、近世まで無人の地であると考えられていましたが、この住居跡の発見により、環濠集落廃絶後、500年ほどして一時期人が住んでいたことがわかりました。集落南端部の調査集落南端部の発掘調査は最小限にとどめているため貴重な遺跡は地下に眠っていると。遺跡の散策を終え駐車場へ。北側を振り返る。神崎遺跡資料館前来館者は私以外にはいなかったが。遺跡の南側には民家が建っているが。神崎遺跡資料館の東側。2階は学習コーナーで遺跡展望バルコニーがある。外からもトイレへ入ることができる。15:30神崎遺跡の中の小径を走り資料館を後にした。 ー continued ー
2026.07.24
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展示室で「綾瀬市の歴史・神崎遺跡の紹介」の映像を見た後、パネルを追う。7月8日(水) 14:45展示室(綾瀬の歴史)この部屋では「綾瀬市の歴史・神崎遺跡の紹介」の映像が見れ、壁面には綾瀬の歴史がパネルで紹介されている。後方の壁面に、「原始・古代~中世」のパネル。原始・古代綾瀬のはじまり(旧石器時代) 吉岡遺跡群(現在の綾瀬浄水場)からは約4万年前の石器群が発見されています。氷河 時代とも呼ぶ厳しさのなか、最初の綾瀬の住人は定住してはいませんでした。土器の出現(縄文時代) 約1万2千年前、日本列島で土器が作られはじめ、寺尾遺跡(現在の県立綾瀬高校)でも 見つかっています。縄文時代がはじまり、人々は定住生活を営むようになりました。旧石器~奈良・平安時代ムラの発展(縄文時代) 約5000年前、定住生活を営むムラは徐々に大きくなっていきました。上土棚南遺跡 (現在の南部ふれあい会館・綾南保育園周辺)からは約4000年前のムラの跡と祭祀道具 の土鍋等が発見されています。神崎遺跡の登場(弥生時代) 約3000年前、日本列島に水田稲作が伝わり、弥生時代がはじまりました。その後、環 濠集落や金属器利用も広がり、約1800年前、神崎にムラが営まれようになりました。国家の成立(古墳時代) 約1700年前、日本列島は一つの国家としてまとまっていきました。それを示すのが全 国で見られる前方後円墳です。綾瀬市内に前方後円墳のような巨大墳墓は見つかって いませんが、横穴墓が確認されています。ムラの様子(奈良・平安時代) 宮久保遺跡(現在の県立綾瀬西高校)や早川城山遺跡(城山公園周辺)からは当時のムラが 見つかっています。奈良三彩のような貴重な遺物も出土していることから、中央政府 に関連したムラと考えられています。中世 綾瀬市内の中世遺跡早川城跡 渋谷氏ゆかりの伝承のある早川城跡は、保存状態が良好の中世城郭として、2008(平 成20)年に県史跡に指定されました。現在では城山公園として、親しまれています。びわみ堂遺跡 落合に今も残る中世墓地の跡です。現在の卒塔婆にあたる板碑が多数出土しています が、1305(嘉元3)年銘のものは市内で最も古い年号を記した板碑です。宮久保遺跡 現在の県立綾瀬西高校の発掘調査をもとに復元した鎌倉時代の武士の館です。中世 平安時代末~鎌倉時代~戦国時代渋谷荘と渋谷氏と入来文書 渋谷重国は、12世紀半ばに円満院の荘園「渋谷荘」を支配した開発領主です。 源頼朝の鎌倉幕府設立を支援し、鎌倉殿の御家人となりました。 入来文書は、13世紀後半、薩摩国入来地方に領地を得て転出した渋谷一族が遺 した古文書で、相模国の御家人の姿を伝えています。早川(祖師)・吉岡・大谷・ 寺尾・藤心・落合・五所宮(五社神社)などがみえます。 渋谷荘(吉田荘)は、高座郡の引地川・目久尻川流域にまたがり、現在の綾瀬市・ 海老名市・藤沢市・大和市・座間市に位置します。 五社神社は渋谷一族の精神的拠り所、長泉寺は一族の菩提寺と伝えられています。戦国大名北条氏の領国 16世紀には、戦国大名北条早雲の領国となりました。北条氏は支城や街道・駅 や伝馬を整備し、検地によって村々を掌握しました。 北条氏康は、家臣団の領地と役務をまとめた役帳を作成しました。市域4か村と その領主がみえます。<土棚(垪和氏)、𠮷岡(岡本氏)、寺尾(長田氏・後藤氏)、 小園(高城氏)> 1571(元亀2)年北条家臣団の軍役着到状が発せられ、吉岡村を本貫地とする岡本 八郎左衛門の軍役(軍勢)が定められました。軍装や武器が決められ、武将や供の 名前も判明しています。 北条氏は印判状を発給して当主の命令を伝達しました。 1587(天正15)年北条氏直が、小園村に竹6束を供出し、伝馬を用いて津端へ運 ぶよう命じています。 近世 江戸時代徳川幕府の支配下の村々 村々は、徳川家康とともに三河国から移住してきた旗本の領地や徳川氏の直轄領とな りました。現代につながる8か村の姿が整いました。ー 近世後期の村々の景観復元絵図一鳥になって西の空から綾瀬の村々をみる ー 近世後期景観復元絵図 この図は、1841(天保12)年「新編相模國風土記稿」及び村絵 図(個人蔵)などに見える村々の様子と、1883(明治15)年測量のフランス式彩色迅速測 図の地形・土地利用情報を重ね合わせ、市域の景観復元絵図としたものです。蓼川村(たてかわむら) 1673(寛文13)年、立川野の開発され蓼川新田村が成立しました。村の観音堂には五代 将軍綱吉の母桂昌院の位牌が伝えられました。深谷村 最初の領主大橋氏は長龍寺を菩提寺として墓碑を残しました。元禄期には深谷新 田(大上)が開発されています。村の中央を中原街道が通り、幕末には深谷寄場組 合の親村となりました。寺尾村 寺尾子之社(ねのしゃ)は後北条氏の家臣橘川氏が勧請しました。報恩寺は入来文書 にもあらわれます。村の北境を矢倉沢往還(大山街道)が通ります。小園村 近世中期に佐倉藩領となりました。原の開発が進み、村高は幕末には2倍になりました。 地蔵堂は相模国分寺の隠居寺と伝えられています。早川村 最初の領主石川氏は早川城山に陣屋を設けました。渋谷氏の精神的拠り所とされる五所宮 (五社神社)は菩提寺とされる長泉寺とともに中世の面影を伝えています。また、龍洞院は 国分寺の隠居寺と伝えられています。綾瀬市南部エリア本蓼川村(ほんたてかわむら) 蓼川村の親村です。 若き日の田沼意次の領地でした。村の中心を中原街道が通ります。厚木飛行場建設で、 住民は移転しました。上土棚村(かみつちだなむら) 領主の遠山氏は蓮光寺を菩提寺とし、幕末までの累代の墓碑を残しました。吉岡村 三代将軍家光の乳母春日局は、吉岡村周辺に化粧料として3000石の領地を下付され、吉 岡に館をたて、神明社を勧請しました。春日局の館跡とされる済運寺周辺には、春日道や 春日原という地名が残ります。高座郡の渋谷荘と周辺地域渋谷荘(吉田荘)は、高座郡の引地川・目久尻川流域にまたがり、現在の綾瀬市・海老名市・藤沢市・大和市・座間市に位置します。< 近世後期 綾瀬市域8か村の概要 >近代・現代明治維新と綾瀬村の誕生 近代国家建設にむけて、地租改正・徴兵令・学校令などの政策が行われ、 1889(明治22)年には市町村制の施行により、綾瀬村が誕生しました。 早川・吉岡・小園・寺尾・深谷・蓼川・本蓼川・上土棚の8か村が合併し、 綾瀬村となりました。15年戦争と村の生活 昭和になると、近代国家日本は、満州事変・日中戦争・太平洋戦争と続く 戦争の歴史を歩み、村の青年たちも戦場へ向かいました。現代 昭和戦中・戦後期海軍施設の建設と町制施行 1941(昭和16)年から、海軍厚木飛行場と高座海軍工廠の建設が始まり、 周辺は軍都として整備され、1945年、綾瀬村は綾瀬町になりました。戦後復興と市制施行 綾瀬町は高度成長期に首都圏のベッドタウンとして、また内陸工業地域と して発展し、1978(昭和53)年11月1日、市となりました。綾瀬市の航空写真が1階フロアに(南側から)。市内の北東に位置する厚木基地は、18%強が在日米軍と海上自衛隊となっており(同基地総面積の約78%に相当)している。2階:神崎遺跡の展示地上2階建てだがエレベーターも設けられている。2階フロアから南側の東海道新幹線高架橋を見る。新幹線をズームアップ2階:神崎遺跡展示室神崎遺跡の出土品展示、神崎遺跡の暮らし、集落復元模型、移動の軌跡(東海から相模へ)。時計回りに移動壁面には、神崎遺跡のパネルが掲示されていた。1⃣ プロローグ/市史編集事業にともなう発見 発掘調査の始まり遺跡の位置 綾瀬市神崎遺跡は、海老名市と藤沢市との市境に近い標高24mほどの目久尻川を臨む台 地の上に立地し、周囲の水田との標高差は約11mあります。 遺跡からは東海道新幹線が見えます。遺跡の発見 1986(昭和61)年11月に綾瀬市の歴史をまとめる「綾瀬市史編集基本構想」が制定され、 1987(昭和62)年から綾瀬市史編集事業が始まりました。 市域の歴史を描くためにはその時代の資料が必要です。しかし、どの時代にもわたって 十分な資料が残っているとは限りません。市史編集事業が始まった当時、綾瀬市の弥生 時代についての資料は極めて少ない状況でした。 当時、総括市史編集委員であった故岡本勇氏は不足する弥生時代の資料を収集するため に、市内各地を歩いて調査した後、神崎の地で採集された土器をもとに発掘調査を実施 しました。発掘調査 発掘調査の結果、弥生時代後期という国家成立に向かう時代に、東海地方から関東地方 へ人々が集団で移住していた事実が明らかになりました。綾瀬だけではなく、日本の歴 史に必要な遺跡の発見となったのです。この発見により、2011(平成23)年2月7日、神 崎遺跡は国史跡に指定されました。2⃣ 第1章/東海から綾瀬へ 東海地方から来た証拠明らかになった移住 遺跡からの出土品を分析しても、それを作った人の動きに迫ることは実はむずかしいの です。例えば、地元のものではなく、離れた地域でよく見られる土器が出土したとしま す。このことをどう考えるでしょうか。一つは「完成した土器が運ばれてきた」、もう 一つは「離れた地域から移住してきて土器を作った」。この2つの可能性が考えられます が、移住と断定できる例は少ないのです。神崎遺跡の場合は、その珍しい例にあたり、 200km以上離れた地域から、人々が集団で移住してきた事実が明らかになったのです。 なぜ、モノではなく人の動きであるとわかったのでしょうか。証拠1 出土した東海系土器 出土土器のうち95%以上が東海地方(現在の静岡県西部から愛知県東部)の土器の型その ものだったのです。全体の5%ならば、土器が運ばれてきたと考えられますが、毎日の生 活に使う土器のほぼすべてが運ばれてきたとは考えにくいのです。 さらに、胎土(土器の土)を分析したところ、綾瀬周辺から採取された土という結果がでま した。つまり、東海地方から来た人々が綾瀬で故郷の土器を作ったことがわかりました。証拠2 横長型の住居跡 一般に、この時期の関東地方で見られる住居跡は縦長型です。しかし、神崎遺跡から発 見された住居跡の半分以上は横長型でした。これも東海地方からの移住の証拠と考えら れます。そのほか、東海地方の影響と思われる球形の土製品や鋼の矢じりも出土してい ます。3⃣ 第1章/東海から綾瀬へ 200kmを超える移住の理由戦乱を避けて神崎に? 中国の文献には、弥生時代の日本が小さな戦乱状態であったと記されています。また、 西日本の弥生時代の遺跡からは武器や、戦死者と思われる人骨が出土していることから、 当時の日本列島には社会的な繁張関係があったと考えられています。そのような情勢の のなかで、人々は集団で長距離を移住しました。無人の地への移住 神崎遺跡からは環濠集落ができる以前の住居跡が見つかっていませんので、東海地方から 人々が移住するまで、無人の地であったことがわかっています。 なお、神崎遺跡を含む相模川流域には西遠江・東三河(西遠)の人々が、金目川流域には 東遠江(東遠)の人々が移住してきたことが、これまでの発掘調査から明らかになってい ます。このように、弥生時代後期が始まるときに、東海地方から多くの人々が神奈川県 内に移住してきました。東海地方の人々はこちらの様子をわかっていたのでしょうか。4⃣ 第2章/環濠集落をつくる 神崎の弥生ムラ集落の全容 神崎遺跡は楕円形の環濠集落です。長軸103m、短軸65mで、面積は約5,000㎡です。 集落を巡る環濠総延長は推定270mです。これまでの調査から18軒の弥生時代の住居跡 が見つかっています。このうち、同時に存在したのは、15軒程度と考えられています。 全域を発掘調査してはいないので、実際はこれ以上の住居跡が地下に眠っていると思わ れます。 住居跡や環濠などからは□、壺、高杯などの土器をはじめ、銅□、鉄□、鉄□、球形土 製品、砥石が出土しています。5⃣ 第2章/環濠集落をつくる 環濠に守られた暮らし環濠の役割 環濠は幅・深さとも約2mのV字形に掘られています。当時は機械もないので、相当の労 力をかけていたことでしょう。 環濠は戦乱のようなムラ同士の緊張関係によりつくられたと一般には考えられています。 一方で、関東地方では武器などの戦乱の直接的な証拠が発見されていないため、ムラの 住民が一致団結するために環濠を掘ったとする考えもあります。 しかし、環濠集落が多数同時に出現するのは弥生時代に限られるので、ムラ同士の緊張 関係は否定できないのではないでしょうか。 環濠集落の模型神崎の環濠の特徴環濠の断面形はV字形(逆三角形)です。場□によって深さや幅は異なりますが、概ね幅、深さは2mになっています。このような形の溝がムラの周囲200m以上を巡っていました。出入口は確認されていませんが、仮にあったとしても、ムラの出入りは簡単にはできなかったと思われます。ここに展示した環濠は実物大です。発掘調査で確認された大きさです。掘られた当時はさらに深かったと考えられています。環濠の模型集落の復元模型土器捨て場より出土した「壺形土器」。出土品の展示。神崎遺跡の13号住居跡から出土した「壺形土器」。6⃣ エピローグ/環濠集落の終焉、そして未来へ 弥生ムラの終焉神崎以降の弥生時代の綾瀬 神崎遺跡の環濠集落が終焉を迎えた以降(弥生時代後期後半)、弥生時代の綾瀬は遺跡 数は少ないものの、人々が住んでいた痕跡が見つかっています。 綾瀬にまた人々が集まりだすのは、古墳時代後期からになります。6⃣ エピローグ/環濠集落の終焉、そして未来へ 弥生ムラの終焉短い継続期間 はるばる東海地方から200kmにわたり集団で綾瀬に移住し、労力をかけ環濠を掘り、ム ラをつくりましたが、短い期間で住人がいなくなったことが、出土土器の変化が少ない ことからわかっています。1989(平成元)年の発掘調査では、住居跡の重複が確認できな かったので、東海地方から来た人々は一瞬にしてどこかへ行ってしまったという印象を 受けましたが、2013(平成25)年の発掘調査で住居跡の重複が確認でき、住居を建て替え る程度の期間はムラが続いたことがわかりました。神崎の新たな住人 環濠集落終焉以降、この地に人が現れるのは、約500年後になります。発見された古墳 時代後期の住居跡がそれを示しています。 新しい神崎の住人は、かつてこの地に東海地方から人々が集団で移住してきたことを知 っていたのでしょうか。7⃣ エピローグ/環濠集落の終焉、そして未来へ 未来へ託す発掘残された課題 一般的に、弥生時代の環濠集落と方形周溝墓と呼ばれるお墓がいっしょに発見されること が多いのですが、神崎遺跡の方形周溝墓は未確認です。集落の継続期間が短いので、方形 周溝墓をつくるまもなく人々はどこかへ行ってしまった可能性もあります。 そのほか、他の遺跡では確認できている掘立柱建物跡や、環濠の入口施設があったかどう かが、今後の調査への課題です。未来へ託す発掘調査 2013(平成25)年に実施した最後の発掘調査では、破片から全体を復元できる高杯、甕と ともに、壺のほぼ完形品が13号住居跡の床面から並んで出土しました。まだまだ貴重な 資料が地中に眠っていることが改めて確認出来ました。 発掘調査は掘れば掘るほどたくさんの発見があります。それなのに、なぜ、神崎遺跡は 全部掘っていないのでしょうか。 発掘調査は一度掘ってしまったら、やり直しができません。ところで、科学的分析方法 をはじめ、発掘技術は年々進歩し、一昔前まで予想できなかったデータが収集できるよ うになってきました。今後はさらに多くのデータが期待できます。このように、将来、 最新のデータを収集するためには、未調査のまま遺跡を残し、発掘調査に備えることが 重要になります。 このような理由から、神崎遺跡はすべて掘らずに、その答えを未来の人々に託している のです。東海地方から相模地方への移動海路による移動土器や住居の形に、地元ではなく東海地方の特徴しか見られないため、東海地方からの集団での移住が考えられます。環濠集落も移住して来た集団によりつくられたのでしょう。移動手段は陸路か海路かのどちらかになりますが、集団の移動となると海路が一般的です。実際に弥生時代の船の現物は出土しています。絵として残っている後世の船からも考えると、神崎に来た人々は準構造船を利用してきたのではないでしょうか。神崎遺跡の発掘調査(空撮)学習コーナー学習コーナーには海老名市史、綾瀬市史が置かれていた。学習コーナーから展示室を見る。学習コーナーの北側には「遺跡展望バルコニー」がある。遺跡展望バルコニーにあった神崎遺跡の模型。15:00遺跡展望バルコニーから神崎遺跡を見下ろす。 ー continued ー
2026.07.23
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この日の目的地である綾瀬市の「神崎遺跡」へ。7月8日(水) 14:30東側の目久尻川沿いの市道3号線からの入口。神崎遺跡の西側の県道43号線(藤沢厚木線)側からの入口。国指定史跡 神崎遺跡公園所在地:神奈川県綾瀬市吉岡3425-5国指定遺跡の神崎遺跡を通じて綾瀬の歴史や文化を紹介している綾瀬市初の歴史学習施設。綾瀬・海老名・藤沢の市境に位置している施設で、県道の向かい側は海老名市になる。神崎遺跡公園駐車場は20台ほど駐車でき駐車料金、資料館入館料も無料である。レンタル自転車の中継点になっていた。システムがわからないので利用できないが。公園内案内図東側の目久尻川沿いの市道3号線からも入れ、遺跡の中の道を走り資料館前へ。神崎遺跡資料館開館時間:午前9時~午後5時。休館日 :月曜日(祝日にあたるときはその翌日)、12月29日~1月3日。綾瀬市の歴史や神崎遺跡に関する展示がある。1階の展示室では、綾瀬の歴史と神崎遺跡に関するビデオが見れ、あわせて15分程度であると。館内へ入り、受付があり親切に対応願った。1階:綾瀬の歴史展示、映像・VRコーナー2階:神崎遺跡の展示受付係の方から「来館は初めてですか、ビデを見ますか」と。ビデオをお願いし、館内の撮影はOKと。綾瀬の歴史旧石器時代から平成までの出来事が年代ごとに記されていた。上段:綾瀬市域に関連する出来事下段:世の中の出来事右から、旧石器、縄文、弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉・・・旧石器時代に綾瀬に人が住み始めたと。右から、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和、平成と。平成8年 新市庁舎が完成する平成23年 神崎遺跡が市内では初めての国指定史跡となる平成28年 神崎遺跡資料館が開館する展示室(綾瀬の歴史)映像が見れ、壁面には綾瀬の歴史がパネルで紹介されている。後日訪れた時は研修会が行われていた。ここからは映像画面。神崎遺跡資料館 展示映像一部 綾瀬市の歴史 約11分13秒二部 神崎遺跡の紹介 約2分33秒綾瀬市市の全域が相模川の河岸段丘にあり、丘陵の起伏は比較的穏やかでもともと農業・工業中心の町である。面積22.14k㎡、総人口82,752人(推計2026/6/1)、人口密度3,738人/k㎡。綾瀬市の歴史映像は、縄文時代から現在までを紹介している。吉岡遺跡群 蟹ヶ谷公園に隣接する神奈川県内広域水道企業団綾瀬浄水場内で発見された遺跡群です用田鳥居前遺跡 神奈川県藤沢市に位置し、高座丘陵西端の目久尻川左岸で発見された。出土した地層は 約23,000年前に遡る旧石器時代後期のもので、標高は約24メートル。約3000年前 弥生時代集落復元図約1700年前~古墳時代前方後円墳吉岡堀ノ内横穴墓群8世紀~奈良・平安時代相模国分寺1185年~鎌倉時代源頼朝荘園・渋谷荘の武士の館早川城跡現在は綾瀬市の城山公園で、一角に土塁、掘切、物見塚、曲輪などが残っており、現地にて見学ができる。発掘調査から、14世紀~15世紀の火鉢が出土していることから、14世紀~15世紀以降に使用された城だと考えられる。一説には、鎌倉幕府の御家人であった渋谷一族により築城されたとも伝えられている。1603年~江戸時代徳川家康上土棚村地頭遠山氏の墓碑文禄年間、上土棚村を所領とした旗本、遠山佐左衛門安則をはじめとする遠山氏累代の墓碑群である。春日局の位牌と遺品(済運寺)1868年~明治時代官軍の行列養蚕(昭和初期)1923(大正12)年9月1日 関東大震災 発生被害を受けた横浜震災により倒壊した綾瀬小学校校舎大正11年(1922) 綾瀬小学校が火災で焼失 翌年春に再建する大正12年(1923) 関東大震災 綾瀬小学校新校舎が倒壊する1926年~昭和時代厚木航空基地の格納庫と管制塔昭和16年(1941) 海軍厚木航空基地・高座海軍工廠の建設始まる (蓼川・本蓼川・上深谷・深谷大上が軍用地となる) 厚木基地は厚木の名称を冠しているが、厚木市はかかわっていないと。1945年~戦後1945(昭和20)年8月15日 太平洋戦争 終戦1945(昭和20)年8月30日 連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立つ綾瀬工業団地大規模な住宅団地の建設1978(昭和53)年 綾瀬市になる14:45神崎遺跡1989(平成元)年 神崎遺跡 発見2011(平成23)年 国史跡に指定映像は大まかなものであった。 ー continued ー
2026.07.22
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茅ヶ崎市の4大イベントの一つである「浜降祭」が海の日(7月20日)に開催された。茅ヶ崎西浜海岸での祭典は3年前の令和5年(2023)7月17日に見ているので、今年は地元神社の宮立ちを見ることに。写真はスマホで撮影。7月19日(日) 16:45本村八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目13-40神仏混合の名残があり、牛頭天王には夫人との間に八人の王子がいたので、この方々をお祀りしたので八王子。広い境内には、天満宮、八坂神社、お稲荷さまが、祀られている。鳥居下から神輿が渡御する坂道の参道を見る。南側の参道には献燈の提燈が並ぶ。八王子神社の前に神輿が出されていた。本村八王子神社の境内社「八坂神社」の神輿である。神輿に樽酒が献納されていたが、何斗樽であったか。神輿の前で記念写真。八坂神社の神輿は、市内で最重量級で134年前に二宮町で制作されたもの。漆のひび割れや金属部分にサビが出るなど傷みが目立ってきたため、37年ぶりに修復することになり、令和4年(2022)夏から千葉県の神輿専門の工房で作業が進められたと。ポスターに、「集合 午前零時三十分 宮立ち 午前一時十五分」と、今夜来ることに。今夜はどのくらいの人が集合するのであろうか。神輿を担ぐ「本村氏子八坂会」のメンバーは60名(2024.6.2現在)。買い物途中に立ち寄った八王子神社。今夜、深夜再度来ることに。7月20日(月) 0:20浜降祭には寒川町・茅ヶ崎市の34神社から子ども神輿4基を含む38基が参加予定と。西浜海岸までの渡御は18社で、16社は人手不足等から車両による。国道1号からの参道を見下ろす。国道1号の歩道橋下に。本村八王子神社の境内社「八坂神社」。神輿は境内の中央に置かれていた。境内には既に多くの担ぎ手が集まっていた。神輿の前では神社関係者、担ぎ手が記念写真を行っていた。神輿をズームアップ。若い男女も多く参加していた。法被の背中の文字は「本村」であろうか。1:05式典が始まり、神社関係者、神輿関係者がご挨拶。境内には法被を着た老若男女の担ぎ手が200名近くいたのでは。かつては東京浅草あたりから応援の担ぎ手が来ていたが。神社関係が登壇したステージをズームアップ。鏡開きで3人の代表が掛け声とともに樽を割っていた。大きさは見えなかったが司会者が「全て飲み干したら宮立ち」と。また「今日一日熱中症にかからぬよう頑張ろう。そして無事宮入りするように」と挨拶。消防関係者も10数名が参加すると。1:35式典も終わり境内で神輿お披露目をしばし行い、太鼓の合図、鐘楼の鐘が鳴りいよいよ神社から宮立ちに。実はこの低い石鳥居があるのでどのようにするのかと興味があったのだ。鳥居には注連縄があったので関係者が二本の棒で押し上げていた。また担ぎ手のリーダーが声を張り上げ「神輿を下げて下げて」と誘導していた。皆さんもこの光景をスマホで撮影。無事潜り抜けた瞬間、拍手喝采であった。神社によっては長い階段を下りるところもあるのだ。神輿は再び担ぎ手の肩に。深夜ながら近所の方も見学に。神輿は掛け声とともに揺られ鈴がなっていた。事前の調査で国道1号を渡る光景を歩道橋の上から撮影しようと。歩道橋に上がり坂道を登る神輿を追う。神輿の担ぎ棒をロープで引っ張っていた。神輿の後方には多くの人が、200名どころか300名以上はいたのか?。担ぎ手は揃いのタオルを首に巻き。赤信号になるが神輿優先でご勘弁をと。神輿の担ぎ棒は二本。1:40国道1号(旧東海道)を渡り終え、茅ヶ崎駅前へと進んだ。茅ヶ崎駅前には、数社の神輿が集結。この後、自宅へは2時ごろに帰宅し入浴後ベッドへと。浜降祭に興味のある方は令和5年(2023)の「浜降祭」👈をクリック願います。 END
2026.07.21
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曇天の中、リハビリを兼ねて愛車のリンちゃんで出かけた。市立病院の療法士からは「電動アシスト自転車は効果はない」と言われているが。7月12日(日) 10:25家族連れであったかカートにキャンプ用品?を積み込み海岸へ向かっておられた。レギュラーガソリンは158円/ℓと。右側には小型犬専用のドッグラン。道の駅を後にし、久しぶりにサイクリングロードを走ることに。国道134号の歩道橋上から江の島方面に海鮮料理の「快飛(かっとび)」を見下ろす。この歩道橋は自転車に乗って走れる。駐車場は快飛の裏にもあった。この日は曇天で海風が吹いていたが、久しぶりにサイクリングロードを走ることに。ここは江の島の鵠沼海岸までのサイクリングロード起点である。海岸サイクリング道路Sー57 茅ヶ崎市柳島 柳島 終点 ➨ 鵠沼海岸 7.7km柳島海岸 公衆トイレ起点そばにあるが、利用時間は6時00分~19時00分。白波が押し寄せる茅ヶ崎海岸。この日の夜のニュースで、西側の平塚海岸で高校生が波に飲み込まれたと。この後行ったヘッドランドの警報盤に「波浪注意報発令中」とあった。茅ヶ崎漁港の平島、右奥に烏帽子岩を望む。この辺りは波が強くサーファーを見かけなかった。茅ヶ崎漁港へのサイクリングロードには潮風が。カメラをシートで養生カバー。柵内にはハマヒルガオが植栽されていた。茅ヶ崎漁港駐車場営業時間が4時00分~19時00分であるので要注意である。料金は最初の1時間は200円。その後は、30分で300円で、上限は1日2,000円。サザンビーチカフェ海辺のカフェ&ダイニングで、オープンテラスのある、開放感に溢れた空間でパスタ料理やデザートを楽しめると。ビーチ内の駐車料金も2,000円/日であったのでこちらの方が安心して一日楽しめる。海の家は他にも多く建っていたがこの海の家はお客さんが多かった。中から音楽が聞えライブが行われていた。何か催し物をしないと人は来ない。茅ヶ崎サザンC茅ヶ崎を代表するオブジェで、中年の女性グループが各自ポーズをとり撮影していた。サザンのCDジャケットにもなったサザンビーチちがさきのシンボル「茅ヶ崎サザンC」。オブジェのCの右側に人が立つと、Cの切れ目が繋がって円(縁)になることから縁結びスポットとしても有名であると。八大龍王神茅ヶ崎サザンCからここまでのルートは変更され直線化されていた。工事中移設されていたが元の場所に鎮座していた。八大龍王は雨乞いや海難など水に関する龍神8体の総称のこと。法華経に登場する神様として知られています。全国各地の神社、寺院問わず祀られているのが特徴です。ご利益:祈雨/止雨/海上安全/大漁祈願/家内安全などと。散歩に来た人が手を合わせお参りしておられた。八大龍王神前から、ヘッドランドを望む。遠く江の島を望み海岸には白波が押し寄せていた。ヘッドランド沖に荒波であったが多くの釣り船が集まっていたが、こんなに海岸線に近いのは珍しい。釣り対象は何であったのか。モノクロの世界の中に烏帽子岩。ヘッドランドビーチ ウッドデッキここでは近隣の人が集まり毎朝6時からラジオ体操が行われている。この日は人が集まり催し物が行われていた。集団の中央に白い袋が置かれていた。司会者が拡声器を持ちしゃべっていたが。振り返ると富士が見えるのだが。サザンビーチ茅ヶ崎を望み、ウッドデッキ周りには赤い幟旗が立っていた。幟旗には「不法投棄防止 パトロール実施中 茅ヶ崎市」と。催し物はこれであったのか。ヘッドランドの西側。釣り船、多くのサーファがいた。ヘッドランドの東側にも多くのサーファ、釣り船。釣り船には多くの釣り人が楽しんでいた。こんなに近くに釣り船とサーファーが競演。江の島をズームアップするが潮風がレンズを曇らす。ウッドデッキでは解散して記念写真に。左側に奥の袋が置かれていた、ごみ収集をしたのであろうか。白い幟旗には「ゼロ宣言 かながわプラごみ クジラからのメッセージ」と。主催は「SDGs未来都市 神奈川県」。参加者の記念写真。若者が多かった。日本初ロケット火薬実験の地の碑ウッドデッキの隅に立っている碑である。日本初ロケット火薬実験の地JAXA(宇宙航空研究開発機構)名誉教授 的川泰宣氏の「日本ロケット物語」によれば「1934年(昭和9年)に村田勉博士により日本で最初にロケットの打ち上げ(火薬実験)が行われたのは辻堂海岸だった」とのことです。日本の宇宙開発の第一歩としてあげられるのは、1955年(昭和30年)4月12日に東京都国分寺市で公開試射された糸川英夫博士のペンシル・ロケットですが、このロケットの燃料に結実する火薬の開発実験地が、当時、横須賀海軍砲術学校辻堂演習場であった汐見台でおこなわれ、さらに終戦までに茅ヶ崎海岸一帯に拡大されていました。この地にお住まいであった加山雄三氏の記憶では、終戦直前、ご自宅の前の海岸に「ロケット研究所の発射試験場」があったと言っておられ、そこに勤務していた人の証言もあります。土井隆雄・野口聡一と二人の宇宙飛行士ゆかりの茅ヶ崎は、日本の宇宙開発の黎明にも深く関わってきたことになります。記念地が海岸一帯におよぶことから、2か所に記念碑を建立しました。ほかの一つはここから東約2.5kmの汐見台にあります。ウッドデッキではゴミ袋を収集して解散。ヘッドランド越しに烏帽子岩を望む。岩場に荒波が押し寄せていたがこの日は岩場での釣りは禁止であったか。烏帽子岩をズームアップ。帰路は、サイクリングロードの「茅ヶ崎駅入口」から北上駅前へ。サイクリングロード脇に「津波避難情報」と。国道134号の茅ヶ崎駅南口入口交差点。ここから茅ヶ崎南口までが県道310号線(雄三通り)になっている。神奈中バス停「東海岸南3丁目」。かつてここの南側に「旧上原謙邸跡地」があり加山雄三氏が生まれた。鉄砲道との、雄三通り中央交差点。左角にアイスクリーム店の「プレンティーズ」がある。茅ヶ崎駅南口11:30竪琴に乗る裸の少年少女楽団駅南側のバスロータリーの一角に据え付けられているモニュメント。説明板はないのか、「タイトル、作者ともに不明だが、茅ヶ崎駅前で一際目立つモニュメントである。少年少女たちが竪琴の上で楽器を奏でている」と。この後、スーパーマーケットに立ち寄り買い物をして自宅で昼食をとった。この日の走行距離は18キロであったが。自転車の距離計は正しいのかと。 END
2026.07.20
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この日は”道の駅湘南ちがさき”で市長出席のもと10時から1周年記念式典があるとのことで愛車のリンちゃんで出かけた。7月12日(日) 9:20エトアール洋菓子店所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目7-17駅から数分のサザン通りにあるサザンファンにとっては聖地と呼ばれる洋菓子屋さんである。店内には桑田さんが店主に送った直筆のお手紙が大切に飾られていましたと。各種ケーキもあるがお薦めはサザンサブレか。数年前のサザンライブでは連日長蛇の列であった。ドアーに「サザンオールスターズ 勝手にお祝い申し上げます 48周年」と。家族そろってサザンファンだと。店名でポスターを作製しておられた。熱いサザン愛か、他の店先でも貼られていた。サザン神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目11-14サザン通りの途中から西方向へ進むと、茶商小林園の前にある。ここの店主もサザンファンで、自ら作成したサザン神社の御朱印を発行(4枚)しておられる。この日はまだ時間が早く、茶商もシャッターが下りていた。通りに法被を着た集団が。法被を着た集団が通りに注連縄を張っておられた。鉄砲道に貼られた横断幕に「祝 浜降祭」と。茅ヶ崎市の4大イベントの一つである「浜降祭」が毎年7月の海の日に開催されている。昭和53年に神奈川県の無形民俗文化財に指定され、57年には『かながわのまつり50選』にも選ばれている。今年の浜降祭は7月20日(月)の早朝に開催され、市内34社の神輿が参加する。鉄砲道と左富士通りが交差する浜見平交番前交差点。この辺りの浜見平団地はリニューアルされ新しい大型店舗が建っている。浜見平交番前交差点近くにある「えぼし本店」。式典開始まで時間があったので、浜降祭に参加する近くの「柳島八幡宮」へ立ち寄ることに。数回訪れているので地理感があり鉄砲道を北側の住宅街へ入る。柳島八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市柳島2丁目3-10柳島部落の氏神様である。浜降祭前で境内には多くの人が集まっていた。石鳥居の扁額「八幡宮」柳島八幡宮 境内図境内の詳細は前回の「茅ヶ崎市の寺社史跡巡りー8」👈をクリック願います。浜降祭 柳島八幡宮 令和八年七月二十日(月) 式 典 午前三時 宮立ち 午前三時三十分 宮入り 午後三時三十分 柳島八幡宮・柳島自治会・浜降祭丁頭 柳島八幡宮拝殿拝殿の左側に神輿殿、柳島自治会館があり開放されていた。三基の神輿には既に白い帯が巻かれていた。浜降祭には三基の神輿が参加するようだ。境内へは多くの氏子の方が動き回っておられたので控えた。手水舎、左側には注連縄が巻かれた「御神木(スダジイ)」。鐘 楼入口左側に石碑が立ち「八幡宮復興記念碑」と。碑の下に字が刻まれていたが風化して解読不可能に。御神木(スダジイ)、鎖で囲われた「折れた鳥居」。折れた丸柱には「文政五年・・・」と。折れた鳥居この折れた鳥居は、大正十二年九月一日(1923)の関東大震災の被害の状況を示すものです。当時の柳島地区は世帯数161戸、ほとんどの家が倒壊し、残ったのは3戸だけでした。地震の大きさを後世の人々に伝えようと残してあります。折れてはいますが、江戸時代の年号が刻まれている茅ヶ崎市内では数少ない貴重なものの一つです。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮後方に回り込み。御神木のスダジイ根が浮き出しており根元が養生されていないのでこのままではまずいのでは。樹齢は何年になるのか鳥居の左奥に建つ、「藤間柳庵の碑」。碑の裏には、「昭和五十八年十一月吉日建之 柳庵顕彰碑建設委員会 有志一同 石工 三橋石材店」と。浜降祭前の境内を見る。多くの若者が集まっていた。神輿の担ぎ手であろうか。ズームアップ。9:50柳島八幡宮の境内前。道の駅での式典開始が近くなってきたので後にすることに。柳島八幡宮前の民家の敷地の一角に「朱色の鳥居と祠」が建っていた。祠の前に狐が祀られており稲荷社であろう。柳島通りから西方向に「道の駅湘南ちがさき」を望む。鉄砲道と国道134号が合流する”道の駅湘南ちがさき交差点”。この二階にはレストランがあり富士が見えると。ズームアップ。モニュメント「SHONAN CHIGASAKI」。道の駅へ到着、式典司会者が「ご来賓の皆さまご登壇してください」と。式典開始前。左側に茅ヶ崎市長、来賓の方が着席。右から佐藤市長、サーフィン協会の方。皆さん首にはレイがかけられていた。司会の女性はどこの方であったか。司会者から「道の駅駅長の茅ヶ崎佐藤光市長」と紹介。市長になった時は建設反対であったが地元産を販売することで建設に続行。今年2月には来場者100万人に達し、現在は約135万になったと。続いてサーフィン協会の方が挨拶。昭和2年にサーフボードを2本輸入し、茅ヶ崎はサーフィン発祥の地であると。道の駅内の各店舗の営業時間のご案内道の駅内の案内所 AM10:00~PM6:00 本日の試食・試飲会”プレンティーズ ドライブイン”のマスコット人形。知り合いの店も出店している「熟成肉工房ジロー」。10:20値段表があったがチョット高価であった。 ー continued ー
2026.07.19
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この日は綾瀬市の「神崎遺跡」を見に、合わせて近くの寺社史跡を巡った。7月8日(水) 13:50中原街道(県道45号線)の綾瀬市吉岡交差点、春日道はここから北上。綾瀬市吉岡交差点から春日道を北上、途中右方向に入り「供養碑」へ。目的地は三角地の畑の辻にあり、傍に目印のように木が一本聳えていた。北方向は広い農耕地になっている。五差路に位置している。南方向の中原街道側。右側の道を進むと先程の綾瀬市吉岡交差点へと。北西方向には大山が薄く見えていた。江戸時代には大山詣で多くの参拝者がこの道を歩いたのであろう。供養碑所在地:神奈川県綾瀬市吉岡三角地の草むらの一角にあり、ここのみがロープが張られ整備されていた。お供え物の花、飲物が供えられていた手前の新しい碑には「供養 行き倒れの墓」と。裏面には、「由来 三角畑のはやり神 無縁仏 江戸時代(1650年)頃、芝原近春日道の所で行き倒れ2体有り、 その人の石塔三界万霊供養塔」と刻まれていた。五差路を後方から。古い石塔は風化してボロボロに。中央の碑は無残に壊れ補修されていた。字が刻まれていたが「???」。新しい板碑には「発起人・協力者」の名が。再度、後方から見る。この道は大山詣の道で、東海道のような一里塚は無く休憩する木陰もなく行き倒れに。春日道に戻り北西方向へ走る。車窓の右側には広い畑が広がっていた。春日道の北側は広い「春日原農用地」で、東側の綾瀬中央通り(県道42号線)と北側の市役所南通りに挟まれた丘陵地の三角地になっている。春日原農用地の東側の綾瀬中央通り(県道42号線)沿いには、左側に「綾瀬市市役所」、右側には「綾瀬市オーエンス文化会館」が建っている。綾瀬市は鉄道の駅がないので、 交通手段はバスか車になる。車では北側に東名高速道路の綾瀬スマートインタがあるので便利であると。春日道から綾瀬市役所をズームアップ。綾瀬市は2026年時点では神奈川県内で最も新しい市で、横須賀市とともにアメリカ軍と自衛隊の基地を有する都市となっている。市内の18%強が在日米軍と海上自衛隊の厚木基地となっており(同基地総面積の約78%に相当)、騒音問題や財政面などで基地の影響を大きく受ける自治体である。なお、厚木基地は厚木の名称を冠しているが、厚木市はかかわっていないと。市の全域が相模川の河岸段丘にあり、丘陵の起伏は比較的穏やかでもともと農業・工業中心の町である。市内に鉄道駅がなく、また「何もない」事を逆手に取り官民一体となってロケ地として力を入れていると。総人口:82,752人(推計2026/6/1)、面積:22.14k㎡、人口密度:3,738人/k㎡。市の花は「バラ」でマンホール蓋のデザインに採用、多くの公園ではバラを植栽奇麗に咲いている。丘陵地から目久尻川が流れる低地部へと。道路脇に、目久尻川歴史文化ゾーン ⇦ 0.3km 道場窪遺跡(市リサイクルプラザ) 綾瀬市 済運寺・五社神社方面 0.65km ➩民家の擁壁傍に説明板が立っていた。ちょっと分かり辛いところにある。春日道はこの路地なのか。でなければ上の「目久尻川歴史文化ゾーン」の看板傍に立ててもらいたいものだが。春日道この道は、徳川三代将軍家光の乳母である春日局にちなんだ道で、春日道と呼ばれています。江戸時代後期、天保十二(1841)年に編纂された、『新編相模国風土記稿』によると、春日局は吉岡村に領地を持ち、済運寺の付近には屋敷もあったと伝えられています。また、𠮷岡神明社に残る棟札によると、神明社は元和二(1616)年に、春日局が勧請したとされています。春日道は長年、大山参詣の際に使われていました。 平成二十四年十二月 綾瀬市教育委員会 ※ 現在、この道の先は通り抜けできません。と、いうことはこの路地が「春日道」なのか。現在、この先は通り抜けできませんと。中央の「庚申塔」と並んで右に六角柱の「天照皇大神」がのこされている。左端の角柱の側面には「向 左 深谷」などが書かれた簡素な道標が残されている。現在は目久尻川から一気に上る坂道になっているが、かつては川沿いから丘陵地へ上る九十九折の坂道で、ここは往還の辻だったのであろう。道路脇へ車を停めたので工事中の方が不審そうな顔で見ていた。春日道の坂を下り目久尻川に架かる吉野橋。上吉岡北山の道祖神所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1293吉野橋の袂にある、相鉄バス「宮際(みやぎわ)」のバス停そばにある。吉野人道橋袂にある「角柱文字道祖神」。この先の交差点は五差路で、左手前を川沿いに下ると春日局の屋敷があったという「済運寺」へと至る。また、左方向には春日局が勧請したという「吉岡神明社」がある。正面には「道祖神」と。年代は風化して分からなかった。ズームアップ。今後補修されるのであろうか。目久尻川の下流側。目久尻川沿いはサイクリングロードになっている。川には大きなコイが泳ぎまわっていた。洪水浸水想定区域目久尻川は、相模原市相武台団地付近にその源を発し、寒川町の一之宮で相模川に合流する、延長約20kmの一級河川である。目久尻川沿いには遊水地があったか。吉野人道橋に設けられていた「河川監視カメラ」。一級河川だけに下流側の浸水を防ぐために中央監視しているようだ。橋桁に、施工銘板。14:15春日道の吉野橋。ここから上流には「城山公園」周辺の寺社史蹟があり、また、近くには「吉岡神明社」もあるので後日訪れたいものだが。この後下流側にある「神崎遺跡」へ行くことに。 ー continued ー
2026.07.18
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この日は綾瀬市の「神崎遺跡」を見に、合わせて近くの寺社史跡を巡った。7月8日(水) 13:30県道43号線(藤沢厚木線)を西へ走りこの先の用田交差点を右折。ここ用田交差点を右折、中原街道を北上し綾瀬市へ。いつもはここまで寒川から中原街道を北上してくるのだが今日は別ルートを走った。御嶽神社所在地:神奈川県綾瀬市吉岡東5丁目5-33神奈川県綾瀬市吉岡にある神社で、吉岡地区の鎮守の神社であると。道路を挟んで西側から境内を見る。Googleマップでは「御岳神社」だが境内の説明板は「御嶽神社」とあったがどちらが正。鳥居の右側に、金網で囲まれた「不動明王像と庚申塔」が立っている。金網で囲まれているのでうまく撮影できなかったが、左側に「不動明王像」と右側に「庚申塔」。二基の石塔が立っていたが説明板が欲しいものです。不動明王をズームアップ。網目からズームアップ。御嶽神社(みたけじんじゃ)祭神大己貴命(おおむなちのみこと)ら六柱で、明治二十七年(1894)に遷宮・造営されました。鳥居の右にある不動明王は、安政三年(1856)の造立です。その手前には庚申塔があり、造立は天保九年(1838)で、「東江戸道・南ふしさハ(藤沢)道・西大山道・北ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれています。 平成三十年一月 綾瀬市教育委員会三基の石塔を後方から見る。不動明王像を後方から。庚申塔造立は天保九年(1838)で、「東江戸道・南ふしさハ(藤沢)道・西大山道・北ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれていると。”南ふしさハ(藤沢)道”は東海道であろう。庚申塔 (道標)御嶽神社の北側に中原街道がありこの辺りは交通の要衝地であったのであろう。境内の奥に大小の社殿が建ち、左側には自治会館か。玄関先に看板。玄関先の看板には、「芝原高齢者憩の家」「空巣にご用心 大和警察署・綾瀬市防犯協会」と。先端が伐採された御神木のクスノキの巨木が聳えていた。クスノキの根元に石碑が立っており「御即位記念・・・・・」と。社殿と境内社。境内社の前には花が植えられていた。社殿にのぞき窓があったが詳細は不明。主祭神:櫛真知命(くしまちのみこと)で、創建年代等は不明。御神木のクスノキには紙垂が飾られていた。クスノキは生命力旺盛で新芽が伸びていた。伐採部分からも多くの若木が芽吹いていた。近くに民家があるので倒木を恐れ伐採したのであろう。境内にはサクラの木も聳えていた。境内の北側にある中原街道の綾瀬市吉岡交差点。交差点角に建つ”セブン-イレブン 綾瀬吉岡東店”。コーヒーを購入し車を停めさせていただいた。Googleマップで”妙法稲荷大明神”への入口を探す。向かい側の人が出て来ている路地を入ることに。中原街道から狭い路地を抜けると妙法稲荷大明神が建っていた。妙法稲荷大明神所在地:神奈川県綾瀬市吉岡東2丁目11民家の庭先に建っており、社殿の前には物干し竿があった。立派な建物であったが説明板等はなかった。引き戸が開けられたので内陣を見る。鞘堂の中の「妙法稲荷大明神」。御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたま)。ここから中原街道までは100メートル程であったが、説明板等もなくまだ祀られているのであろうか。また、右側に民家があったが生活感が感じられなかった。立派な社殿であるが・・・。13:50中原街道越しに車を駐車させていただいたセブンイレブン。 ー continued ー
2026.07.17
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この日は綾瀬市の「蟹ヶ谷公園のハス」を愛でに、合わせて近くの寺社史跡を巡った。吉岡地区には「春日局ゆかりの済運寺」があると。7月5日(日) 15:50スマホの案内で目久尻川の左側の市道を北上。道路脇に「西根の不動尊」を発見、路地へ駐車して散策。この先はバス停「西根」。西根の不動尊所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1940下流側の「駒井不動尊」には説明板があったがここは未設置であった。不動尊は下流の用田橋から、「浪乗不動尊」「駒井不動尊」そしてここ「西根の不動尊」とあったが何か関連があるのか。祠の中にはこちらも状態の良い不動明王が。 嘉永三年(1850年)造立と。ズームアップ。車を停め散策していると何か匂いがしていたが。目久尻川の堀之内橋近くに豚舎があった。建物の壁面に、「綾瀬市の”名産品” 高座豚手造りハム」と。目的地の「済運寺」へ。西根の不動尊から北上すると、直ぐに済運寺の長い土塀が。手前にお寺専用の駐車場があり駐車して参拝。吉岡山済運寺(さいうんじ)所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1783境内駐車場への山門。石柱の右側に「吉岡山済運寺」左に「禅宗建長寺派」と。市道を進むと山門右側に「吉岡山済運寺」と。済運寺山門境内には桜が聳えていた。山門から本堂を望む。本堂前に常香炉。本堂前から山門を振り返る。参道両側にアジサイが奇麗に咲き、桜が聳えていた。アジサイをズームアップ。本 堂本堂右側の書院であったか。屋根瓦の紋は建長寺の「ミツウロコ」。本堂を西側から望む。タイサンボク(泰山木)の下に、水鉢に植えられた花ハスが咲いていた。タイサンボクが一輪咲いていた。水鉢に植えられた花ハス。花ハスをズームアップ。本堂横にも広い駐車場があった。境内の裏側傾斜部に墓地が広がっていた。済運寺(さいうんじ)済運寺は山号を吉岡山と称し、臨済宗建長寺の末寺です。本尊は木造釈迦如来坐像で、貞和五年(1349)卒の栢庵宗意禅師大和尚により開山され、中興開基は元和四年(1618)卒の渋谷平次郎某で渋谷庄司重国の子孫といわれています。三代将軍徳川家光の乳母である春日局が化粧料として吉岡・用田等に三千石の所領を与えられ、このあたりに屋敷を建て、大山参詣の宿泊所にしたといわれています。済運寺には春日局の御位牌とともに、局が使用したと伝えられる茶臼・茶釜が寺宝として大切に保管されています。 平成二十年一月 綾瀬市教育委員会黄色の衣装を着た地蔵が立ち横に「延命地蔵尊」と。鉄製の階段を登ると「追弔慰霊碑」「六菩薩」、中央に「観音像?」があった。左から「地蔵菩薩」「宝珠菩薩」「宝処菩薩」、後方に「戦争殉難者諸霊之碑」。中央の像をズームアップ。境内を見下ろす。境内の西側にも新しい「六地蔵」が奉納されていた。六地蔵の右側にあった石像。西側から本堂を見る。西側からの出入口があった。上吉岡堀ノ内の道祖神所在地:神奈川県綾瀬市吉岡目久尻川に架かる岡野橋近くの堀ノ内公園の入口に立つ道祖神。堀ノ内公園新しい道祖神で平成十五年(2003年)に再建されたという櫛型文字道祖神である。目久尻川沿いには今だ多くの道祖神が保存されており、地元民の信仰の篤さを感じる。側面に「上吉岡講中」と。反対側には「平成十五年一月再建」と。100年後にはどうなっているのか興味津々だが。学校法人 春日幼稚園所在地:神奈川県綾瀬市吉岡1360岡野橋上からカラフルな春日幼稚園を望む。済運寺の南側百メートル程に位置している数年前からヨコミネ式教育法を取り入れ、「読み」「書き」「体育」に力を入れている春日幼稚園。逆立ち歩きができるようになることも全員の課題の一つであると。16:20岡野橋上から目久尻川の下流を望む。 ー continued ー
2026.07.16
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この日は綾瀬市の「蟹ヶ谷公園のハス」を愛でに、合わせて近くの寺社史跡を巡った。7月5日(日) 14:55ネムノキ東北地方以西の本州、四国、九州及び沖縄に分布するマメ科ネムノキ属の落葉樹。痩せ地に育つ代表的な樹木であり、山地のみならず郊外の道路沿いや川原、伐採の跡地など至る場所で目にすることができる。ネムノキ 合歓木 眠ノ木 合歓(ねむ) ネブ 合歓(ごうか) 暗くなると小葉を閉じる 薬用 分布 本州以西~東南アジア 英名 Silk Tree花期は夏(6~7月)に咲く。小枝の先から花柄を出して、淡紅色の花が10~20個集まって頭状花序のようにつき、暑い日中を避けて夕方に開き、翌日にはしぼむ。既に種子化した花柄も見られた。和名のネムノキは、「眠る木」を意味し、夜になると葉が合わさって閉じて(就眠運動)眠るように見えることに由来すると。花はピークを過ぎているようだ。低地部ある湿生園(蓮池)の西側から傾斜部を望む。中央の遊歩道には蓮池を見下ろす人が。大きなカメラを持って何を追っておられるのか。花ハスをズームアップ。湿生園最下流部にピットがあった。公衆トイレから。公衆トイレ遊歩道脇にクチナシが咲き甘い香りを放っていた。咲き始めのクチナシは純白で奇麗だが。時間が経つと「劣化して」。劣化と言えば、先日テレビで女優の岸本加世子が飯島直子に「貴女は劣化しないね」と。ベンチに座りスマホで撮影するご夫婦も。こちらの方は超望遠レンズを装着して何を追われているのか。この日もカワセミの飛来はなかったが。自分の傍には、200~800mmのレンズを装着した高齢の女性が。尋ねると「ツバメ、スズメを追っている」と。「スズメはツバメの巣を横取りする」と。ベンチに座りしばし見ているとツバメが数羽飛び回っていた。湿生園を後にし駐車場へ戻ることに。遊歩道脇にはアジサイ。今後は花後の剪定作業が待っている。各公園では専属の造園業者が決まっているのか。期初めの入札で決まっているのであろうか。台地部に建つ管理棟。蟹ヶ谷公園の近くに「春日局ゆかりの済運寺」があることを知り訪れることに。スマホをセットして蟹ヶ谷公園から下り目久尻川沿いへ。途中、塀際に道祖神が立っていたので駐車。この坂道は中原街道への道になる。風化して文字は確認できなかったが道祖神であろう。この坂を下ると道庵橋へ。道庵橋を右折して、目久尻川の左側の市道を上流へと走る。途中前回訪れた「駒井不動尊」前を通る。駒井不動駒井不動尊は、安政五年(1858)に三軒庭駒井庭という講中により建てられ、その台座には、「大山不動明王 安政五午年四月吉辰立之 天下泰平 村中安全」「講中 三軒庭駒井庭」と銘文が刻まれています。駒井不動尊の右脇には享保五年(1720)に造立された地蔵尊と、左脇には寛政八年(1796)に駒井三軒村の念仏講中の女性により造立された地蔵尊があります。駒井不動尊は、現在でも駒井講中により、不動講が行われ、大切に祀られています。 平成二十一年三月 綾瀬市教育委員会スマホの案内で市道を北上「目的地に到着しました」と。手前に「𠮷岡自治会館」の駐車場があったので駐車。上吉岡芦久保の道祖神旧綾瀬小学校吉岡分校(現:吉岡地区センター)の間知石積の中にお祀りされている。開発でこのような場所に祀られている。嘉永二年(1849年)の尖頭角柱型文字道祖神である。説明板がないので見落としやすいが今でも崇敬されているようだ。旧綾瀬小学校吉岡分校門柱𠮷岡自治会館所在地:神奈川県綾瀬市吉岡かつて「吉岡地区センター」があったようだが工事中であった。隣接するネット内は「国分寺台ゴルフクラブ」のショートコース。工事看板があった。「解体工事をしています 令和8年7月31日まで 時間帯 8:30~17:00 令和7年度吉岡地区センター解体工事 請負金額:50,906,900円 発注者 :綾瀬市役所都市部建築課 施工者 :株式会社 金沢工業」と。新しい施設は、これまでの地区センター機能に加え、自治会館機能を備え、施設のオープンは令和10年3月を予定していると。門扉が閉まっていて入れないので外から撮影。石碑の横の木が伐採されていた。石碑は残されるのか帯に「残1」と記されていた。判読できなかった。国分寺台ゴルフクラブ所在地:神奈川県綾瀬市吉岡2316回り放題で5,000円、距離は短いがグリーンが砲台だったり谷超えが有ったりと、アプローチの良い練習になると。自分も何度かプレーした。15:45受付は2階にあり、テーブル&椅子が有るので、持参したお昼を食べれると。 ー continued ー
2026.07.15
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この日は綾瀬市の「蟹ヶ谷公園のハス」を愛でに、合わせて近くの寺社史跡を巡った。その前に海老名市にある「有馬のハルニレ」をカーナビにセットして出かけた。7月5日(日) 14:15中原街道(県道45号線)の用田交差点を左折して県道43号線(藤沢厚木線)へ。新幹線のガードを潜ると右前方に県道22号線の用田大橋。橋の下を目久尻川が流れ、この辺りは藤沢・綾瀬・海老名市の市境になる。県道22号線(横浜伊勢原線)との用田□□交差点。このまま直進。県道43号線の根恩馬交差点を右前方の県道406号線(吉岡海老名線)へと進む。左前方に目的の巨木が聳えていた。この辺りは道路を挟んで右側が綾瀬市、左側が海老名市になる。有馬のハルニレ所在地:神奈川県海老名市本郷3881ハルニレは 北海道から九州の各地に分布するニレ科の落葉高木で、北日本を中心とした寒冷地の沢沿などの湿地に自生します。この辺りでは 珍しい木だったため、昔の人々は 何の木なのか樹種がわからず「なんじゃもんじゃの木」と呼んでいたと。説明板が立っていた。ハルニレの巨木は一部が朽ちているのか養生されていた。神奈川県 県指定天然記念物 昭和29年7月27日指定 有馬(ありま)のはるにれ 和名:ハルニレ(ニレ科)このハルニレは、徳川幕府の御典医であった半井驢庵(なからいろあん)が、寛永年間にこの地に構えた屋敷内にあったと伝えられています。樹種がわからなかったので「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ、親しまれてきました。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。 樹高 15メートル 胸高周囲 8.6メートル 樹齢 約350年以上(推定)ハルニレは北海道から九州の夏緑林帯に分布する落葉高木である。樹高45メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約600年に達するものもあると言われている。木柱には「なんじゃもんじゃ そびえる 驢庵屋敷跡」と。下から見上げる、樹齢は300年以上で、1954年(昭和29年)に県指定天然記念物に、1984年(昭和59年)にはかながわ名木100選に選定されています。1988年(昭和63年)に環境庁により行われた「日本の巨樹・巨木林調査」では、ハルニレの中で幹周りが全国第1位の巨木であるとされましたと。ハルニレの葉。秋には紅葉して落葉するのであろう。幹の養生は竹で行われていた。県道406号線(吉岡海老名線)の用田方面。この辺りは工業地帯になっている。イチョウの木に囲まれた石碑が立っていた。石碑に覆いかぶさり確認できなかった。冬場のイチョウが落葉した時期に確認。石柱には「名木 なんぢゃもんぢゃ」と。敷地の角に、道祖神、五輪塔が集められていた。近くに工場が建っているので開発で移設されたのであろう。ハルニレ(右から2本目)はイチョウに囲まれて聳えている。西側の海老名市側へ回り込む。ハルニレの地上部は養生されていた。石碑のそばにイチョウが植えられていた。ハルニレの成育・養生を思うと不要ではと思うが。この後、ここ丘陵地から下り「蟹ヶ谷公園」へ。道庵橋(どうあんばし)から上流側を望む。徳川三代将軍家光に仕えた典藥医半井驢庵は、この目久尻川を渡り中原街道を江戸へ向かったのであろうか。それにしても江戸まで片道約40~50キロと遠い。道庵橋三代将軍徳川家光に仕えた典藥医半井驢庵(なからいろあん)が有馬のハルニレ(県指定天然記念物)の近くにあった屋敷から通ったことによって名づけられた橋です。ろあん橋がいつの間にか、どうあん橋になまって伝えられてきたものです。 平成二十年一月 綾瀬市教育委員会現在この辺りは工事中で、令和4年度までに、「用田橋」より上流約1.4㎞区間の整備がおおむね完了しており、 現在は、ここ「道庵橋」上流の区間の地盤沈下等により堤防高が低下している箇所において、堤防の嵩上げと老朽化した護岸の再整備を行っていると。よって、サイクリングコースは閉鎖中。目久尻川 サイクリングロード 距離表示板下流の用田橋から9個の橋間の距離が記されており、全長3,300m程である。下流の⑨用田橋近くに、神崎遺跡がある。神崎遺跡は今から約1800年前の環濠集落です。環濠集落全体が遺存しているのは全国的に見ても珍しい例です。このような特徴が評価され、平成23年2月7日に国指定史跡になりました。市では今後整備活用を図ってまいります。後日訪れたいと。蟹ヶ谷公園所在地:神奈川県綾瀬市吉岡905ー10市の南西に位置する蟹ヶ谷公園は、低地部、台地部、傾斜地からなる地形を生かした公園となっています。低地部の湿生園では、吉岡地区から湧き出る湧水を水源としてカキツバタ、ハナショウブなどが植栽されている。今年は6月1日(月)にハナショウブを愛でに訪れている。駐車場は台地部にあるので坂を下り低地部へ。低地部への遊歩道脇にアジサイが植えられていた。ガクアジサイガクアジサイは日本古来のアジサイで、現在存在するさまざまな種類のアジサイの原種。ズームアップ。”ホンアジサイ”であろうか。ガクアジサイを園芸用に品種改良して作られたもので、花房はテマリのような形をしている。生垣のシモツケ(下野)が咲いていた。シモツケ(下野)シモツケは日本、朝鮮半島、中国に分布する落葉低木。和名は下野(しもつけ)の国(現在の栃木県)にちなんでいる。初夏に、紅色の小さな花を枝先にたくさんつける。花色や葉色が変化した園芸品種が多数あり、花のない時期でも、春から秋まで葉色の変化を楽しむことができる。ズームアップ。蟹ヶ谷公園の低地部にある「湿生園」を東側から見る。低地部の湿生園には、吉岡地区から湧き出る湧水を水源としてカキツバタ、ハナショウブなどが植栽されている。かつてはカワセミが飛び回っていたが。遊歩道を歩いていると水の音が聞え四阿へ。四阿脇から水が湧き出ていた。吉岡地区から湧き出る湧水であったか。それともポンプアップか?。流れにクレソン?が群生していた。クレソンなら食用に収穫したいものだが。湿生園の東側から西側を見る。中央のウッドデッキから西側の湿生園(蓮池)を見下ろす。湿生園周りの遊歩道には望遠レンズを付けたご婦人が待機していたが何を追っているのか。ハスが満開であったか。ハスの花は一般的に4日間咲きます。 ・1日目は早朝から咲き始め、昼頃には閉じ始めます。 ・2日目はさらに咲き、昼頃には閉じます。 ・3日目は午前中に咲き、昼頃には蕾に戻ります。 ・4日目は午後から完全に散ります。このように、ハスの花は短い期間で美しい姿を見せてくれますと。ズームアップ。湿生園の最下流部(西側)に公衆トイレがある。ハスは早朝になると花が咲き(午前7~9時で満開)、午後になるとだんだん閉じていくので、撮影は午前中が良いと。ハナショウブが咲き残っていた。湿生園の中央のウッドデッキ。14:55ところでハスと言えば私の好物のレンコンを思い出すが。ハスとレンコンの違い。日本では一般的に「ハス」は植物全体を指し、「レンコン」は食用の地下茎を指します。しかし、東京では「ハス」という言葉で地下茎も含めて呼ぶ習慣があり、これは東京の方言的な使い方とされています。また、ハスには「花ハス」と「食用ハス」の品種があり、花ハスは観賞用で地下茎が細く、食用には向きません。食用ハスは地下茎が太く育ち、レンコンとして収穫されますと。 ー continued ー
2026.07.14
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地元茅ヶ崎へ帰り人気の「あさまる」でランチ。6月25日(木) 13:15網元料理 あさまる本店所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸18-31いつも混雑しているので他の場所「えぼし 本店」も考えていたが、運よく空いていたのでランチをとることに。テレビ等で放映されているので客筋は他県からも来られる人気店になっている。南に進むと国道134号を渡り500~600mで海岸へ。茅ヶ崎でも人気の海鮮料理店。刺身の盛り合わせ、鯛料理などを提供し、店内は飾らない素朴な雰囲気になっている。住宅街の一角にあり駐車場も点在している。交通整理員の方も数名おられる。店先には「本日、生しらす 水揚げありません」と。また黒板には、6月、7月のお休み日が書かれていた。火曜日が定休日。大魚旗が張られた待合室でしばし待機。いつもは多くの人が待っているのだが、この日は雨で少なかった。店内に入り、この水槽は観賞用の金魚であったか。店内に浜降祭のポスターが貼られていた。浜降祭 柳島八幡宮 令和八年七月二十日(月) 式 典 午前三時 宮立ち 午前三時三十分 宮入り 午後三時三十分 柳島八幡宮・柳島自治会・浜降祭丁頭 自家船の「あさ丸」によって毎朝水揚げされる透き通った新鮮な生しらすをはじめとした、湘南の鮮魚を味わえる網元料理の店。店内は船内をイメージさせる情緒ある空間となっている。メニューは豪快な舟盛りやキンメの煮付けを中心に、寿司や天ぷらなどの料理で海鮮を堪能できる「舟盛コース」のほか、ランチにはしらす料理を味わう御膳や、海鮮丼なども人気であると。メニュー 日替わりお楽しみ御膳 2000円 (税込 2200円) しらす御膳(朝どれ生しらす) 2000円 (税込 2200円) お刺身御膳(豪華7点盛) 2400円 (税込 2640円) 天ぷら御膳 2000円 (税込 2200円) ご飯、みそ汁のお替りは1杯無料と。 昨年のコメ騒動で値段が上がっていた。奥さんがオーダーされた「天ぷら御膳」。男性群がオーダーした「日替わりお楽しみ御膳」。刺身は3種類で分厚く大きかった。 店先から北側を望む。この先の鉄砲道の信号を左折すると「道の駅 湘南ちがさき」がある。この旅の仕上げに豪華なランチを食べ家路に。”あさまる”周辺にあるお薦めの海鮮料理店。・快飛 (かっとび) 赤い丸・えぼし本店 赤い丸・道の駅湘南ちがさき 黄色丸快飛 (かっとび)所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸15-12国道134号に面してある海鮮料理店。大きな看板に「しらすと地魚」。駐車場は裏にある。営業時間 11:00~15:00 (ラストオーダー 14:30) 17:00~22:00 (ラストオーダー 21:00)定 休 日 年末年始天ぷら、刺身、地元で獲れたしらすを使った料理をカウンター席で提供する、居心地の良い店であると。自分はまだ訪れたことがないので一度は食したい。網元・北村水産直営の快飛では、早朝漁に出た「快飛丸」からその日水揚げされたてのシラスを、そのまま調理場に直送している。国道134号の浜見平入口交差点を入り、左富士通りを北上(500mほど)するとある。えぼし本店所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目17-56海鮮を中心に定番の和食を提供する木造の食事処で座敷席もある。営業時間 昼の部(ランチ) 11:30~14:00(ラストオーダー) 夜の部 17:00~20:30(ラストオーダー)定休日 月曜日女将は50年ほど前の冬に茅ヶ崎で一軒の焼き鳥屋を開店。その後、実家が代々地引網漁を生業にしていたことから、地元の魚をお出しする店を開店したと。一時「えぼし」が知られ、自分も何度か訪れている。14:15国道134号浜見平入口交差点から国道1号鳥井戸橋交差点までの左富士通りを北上。両側に”コンフォール茅ヶ崎浜見平”が建ち並んでおり関連の清掃者であろうか。15時前には各自無事帰宅した。 END後日、グランドオープン1周年の「道の駅 湘南ちがさき」を訪れた。7月7日(火) 14:00国道134号の”道の駅湘南ちがさき交差点”。ここを左へ入ると鉄砲道。道の駅 湘南ちがさき所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1546-1昨年7月7日にグランドオープンした湘南地方唯一の道の駅である。駐車場にあったマンホール蓋。姉妹都市を結んでいるホノルルとの関係でハワイアンアートが描かれている。周年祭 7日(火)~12日(日)7月7日(火) ・1周年記念セレモニー 8:30~ ・1周年特別記念きっぷ配布 9:00~ ・切り花プレゼント 9:00~7月12日(日) 10:00~ 茅ヶ崎市長ご挨拶、その他来賓ご挨拶 12:30~ Chiyo Tia ライブ 14:00~ フラダンス 14:45~ プロサーファートークショー 16:00~ タヒチアンダンスフラダンスの横断幕2Fへの大階段にご婦人が3名。2階の東側はテラス席になっている。西側にもあれば富士が見えるのだが。プレンティーズのカップアイスを食べておられた。交流広場にはテーブル椅子が置かれていた。右側には小型犬専用ドッグランがある。友好都市の長野県佐久市からの、出張道の駅が営業していた。但し、7日のみと。”道の駅ヘルシーテラス佐久南”道の駅館内に入り、店内にはスーツの「Plenty's」、ハワイアン&スイーツの「ホノルル食堂」の2店が営業。茅ヶ崎産の新鮮野菜や肉、魚やお土産なども豊富♪、日常使いにもおすすめですと。外では、花苗・鉢花も販売します!と。プレンティーズ ドライブイン 道の駅 湘南ちがさき価格は500円〜で端末機で注文し、カウンターで商品を受け取るかたちであると。アイドルのお人形がお出迎え!鎌倉・江の島・伊豆からの帰路に立ち寄る観光客が多い。右奥では茅ヶ崎漁港水揚げの鮮魚が販売されている。”茅ヶ崎なんどき牧場”の弁当が販売されている。店舗が2階にありアジフライ、メンチカツ、鶏唐揚げがいちどに食べることができると。各種弁当も販売。油淋鶏弁当 税込800円、黒酢酢豚弁当 税込800円、特製タレカツ重 税込800円 等。大岡越前守菩提寺 浄見寺越前そば 小松菜入り 1000円。初めて知った”そば”であるが製造は福井県坂井市と。会計はセルフ。ここにも人手不足、反面最近は万引きが多いと。交流広場。昨年のグランドオープン時は、猛暑日が続きミストが噴射されていたが。国道134号の平塚、小田原方面。国道沿いに駐輪場がある。富士が見えるスポットである。 END
2026.07.13
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熱海からの帰路、途中にある伊豆山神社へ立ち寄った。伊豆山神社は伊豆国に配流の身となっていた源頼朝が、源氏の再興を祈願したと伝わり、頼朝からの崇敬が厚く、また頼朝と妻・北条政子の逢瀬の場であったとも伝わる。6月25日(木) 11:35伊豆山神社所在地:静岡県熱海市伊豆山708-1社務所下の第一鳥居横に駐車場があったが、雨で階段が濡れているので坂を上り境内にある駐車場へ車を停めた。入口の鳥居は女優小泉今日子さんの奉納である。駐車場脇にあったお濠には多くの鯉が泳ぎ回っていた。上の駐車場へ車を停めたが、まず社務所へ。社務所雨の日であったが多くの参拝者がおられた。御朱印、お守りを授与。境内の配置図社務所前から、階段下の第一鳥居を見下ろす。参拝者はみなさん境内横へ駐車。階段の両側には多くの境内社が鎮座している。詳細は令和5年(2023)3月8日(水)に参拝した時のブログ「根府川から熱海へ」👈をクリック願います。社務所前から境内を見る。境内には枝垂桜が生い茂り聳えていた。手水舎手水舎の周りにも境内社があった。赤白二龍の由来 伊豆山神社の縁起「走湯山縁起」(鎌倉期に成立) に拠れば、当伊豆山の地底 に赤白二龍和合して臥す。 其の尾を箱根の湖水(芦ノ湖)に漬け、その頭は日金嶺(伊豆山)地底に在り、 温泉の沸く所は此の龍の両目二耳並びに鼻穴口中なり(走り湯)。 二龍精気を吐き、赤白海水に交わる、二色浦(熱海錦が浦の名の由来)は此を謂 ふなり。 赤白二龍は御祭神 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の隋神であり、 赤は火を表し白は水を表す、火と水の力でお湯(温泉)を生み出す温泉の守護神 であります。手水舎の中には赤白の水口。手水舎前から階段を数段上がると、拝殿前に「茅の輪」が設けられていた。また、両側には狛犬が鎮座していた。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。夏越大祓(なごしおおはらえ)の「茅の輪」。夏越大祓 茅の輪守 初穂料 800円 茅の輪守を飾り心や身を清め、 災いを取り除き家内安全・無病息災を願いましょう。茅の輪(ちのわ) 備後風土記逸文に次のような話があります。 貧しい兄の蘇民将来と、富んだ弟の巨旦(こたん)将来という兄弟が居ました。ある日、 武塔(むとう)神(一説にはスサノオの命の別名)がみすぼらしい旅人の格好で、この地に 訪れ、一夜の宿を求めたところ、裕福な弟はそのみすぼらしい姿を見て宿を貸すのを断 りましたが、兄は貧しいながらも精一杯のもてなしをしてあげました。 翌日武塔神は蘇民将来に茅の輪を作り与え腰に着けさせこう言いました。「これからこ の村に疫病を振るう災いが押し寄せて来るが、お前はその茅の輪を腰に下げている限り 災いに遭う事は無い。お前の誠意に報い今後もお前の子孫に至るまで守るから、災いが 近づくときには茅の輪を腰に下げて『蘇民将来子孫なり』と唱えるように」と告げて旅 立ち、やがてお告げの通り災いが押し寄せて来て、巨旦将来をはじめ全ての人々は疫病 に罹り死んでしまいましたが、蘇民将来の一族だけは難を逃れたと言うことです。くぐり方 左側から廻り、次いで右側を廻り、再度左側を廻り拝殿へと進む。くぐる時の唱えことば 水無月(みなづき)の 夏越(なごし)の祓(はらえ)する人は 千歳(ちとせ)の命(いのち) 延(の)ぶと云(い)うなり 蘇民将来子孫也拝 殿拝殿前の境内には御神木の一つである「梛 (なぎ)」が聳えていた。拝殿の扁額「伊豆山神社」。拝殿前から境内を見下ろす。拝殿下の境内右側に朱色の鳥居が立っていた、扁額には「こころむすび」と。鳥居には若者向けのハートのマークが付けられおみくじが多く結ばれていた。枝垂れ桜の下に「頼朝・政子腰掛け石」。説明に「どうぞお座りになって」とあったが、残念ながら雨で濡れていて座れず。頼朝・政子腰掛け石伊豆の蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝候は、当伊豆山神社を崇敬した。当時、頼朝と政子が恋を語らったのがこの境内であり、当社で二人はむすばれ、伊豆山の神様の力により鎌倉に幕府を開き篤い崇敬を当社に寄せました。 伊豆山神社モミジの紅葉も期待できる。社殿の左奥に倉庫or神輿庫が建っていた。11:45この日は雨の中での参拝で、約10分ほどで早々に引き上げた。12:20漁港の駅 (TOTOCO小田原)所在地:神奈川県小田原市早川1番地の28帰路の途中立ち寄った、小田原漁港西側エリアにあるモダンな3階建ての複合施設。地元の魚市場、海鮮料理レストラン、刺身食べ放題の店がある。建物の壁面に「漁港の駅 (TOTOCO小田原)」と。建物1階のショップにはお土産、鮮魚、地元野菜、プリン屋さんなど充実している。2階には海鮮丼やカレー、ラーメンやお蕎麦などの店があるがいつも行列。また、3階テラスからの眺めも最高で、遠くに小田原城も見えると。入口にマグロのオブジェが吊るされている。館内のご案内 1階 9:00~17:00 お土産コーナー お寿司・お弁当もあるよ 小田原漁港プリン 2階 10:00~16:00(L.O) 小田原漁場 とと丸食堂(どんぶり・定食) 列にお並び頂き食券をご購入下さい 2階 平日 11:00~15:00(L.O) 土日 10:00~16:00(L.O) 小田原漁港カレー(カレー) 2階のお店前までお進みください 3階 10:59~16:00(L.O) 土日祝 10:30~ テイクアウトもできるよ! おさしみ天国・小田原海鮮ゴーゴー!!(食べ放題) 3階で整理券を発行してください! 営業時間 9:00~17:00 年中無休 ソフトクリーム MENU ミルクソフト、レモンソフト 430円 ~ プリンソフト 630円お土産のお菓子類以外にもたまねぎの販売も。1階の「小田原漁港直送 鮮魚販売コーナー」。 マダイ 1匹 ¥14,980(税込 16178) 刺身・焼き イサキ 1匹 ¥128(税込 138) 刺身・焼き・煮付け アナゴ 1匹 ¥680(税込 734 ) 焼き・天ぷらメダイ 1匹 ¥12,380(税込 13370) 刺身・焼き・煮付けこのような高価なタイを購入する人がいるのか。一般的な魚も、クロウシノシタ (シタビラメ) 1匹 ¥198(税込 213) 焼き・揚げソウダガツオ 1匹 ¥398(税込 430) 焼・煮和惣菜・割烹 石橋 魚沼産の米を使用した各種弁当が販売されていた。 左から「特製 天丼 999円(税込)」「釜揚げ しらす・桜えび 1,347円(税込)」。湘南名物の「しらす丼 934円(税込)」も。各種だし汁が試飲で販売されていた。自分に一番口にあった、ねこんぶだしをお土産に1本購入、980円(税込)でした。貼り紙に「そうだおばちゃんにも買って行こう!」と。卵焼きに小さじ一杯半のみを入れて焼くと美味しかった。たまごかけごはんにもあうと。会計はレジで、カードも利用できた。最近は日本近海で黒マグロが豊漁と報道されているが。捕獲量の増はどうなるのか!12:45ここでのランチは諦め地元茅ヶ崎に帰って食べることに。 ー continued ー
2026.07.12
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今回の旅のもう一つの目的地「熱海のジャカランダ」を訪れた。時期的には遅いとは思っていたが皆さん見たことがないとのことで立ち寄った。6月25日(木) 10:45熱海サンビーチ案内図熱海サンビーチ喫煙マナーお宮緑地(ジャカランダ遊歩道)所在地: 静岡県熱海市東海岸町15国道135号と熱海サンビーチに挟まれた遊歩道である。予想通り1週間程訪れるのが遅かった。枝先に咲き残った花があったので助かったが。ジャカランダは、南米に約50種類が分布する樹木で、青紫色の綺麗な花を咲かせる。「カエンボク」、「ホウオウボク」と並ぶ世界3大花木のひとつに数えられ、世界各地で愛されていると。雨の雫が付いたジャカランダ。遊歩道入口にブーゲンビリアが奇麗に咲いていた。古いホテルを壊して新しいビルの建設工事が始まるのであろうか。訪れたのが10日程の遅れで咲き終わったジャカランダの樹に。カシワバアジサイ (柏葉紫陽花) も終盤になっていた。ジャカランダ学 名 Jacaranda 別名 キリモドキ(桐擬き)シウンボク(紫雲木)原産国 中南米開花期 5月 ~ 6月科・属名 ノウゼンカズラ科 キリモドキ属(ジャカランダ属)ジャカランダは南米産のノウゼンカズラ科に属し、ホウホウボク、カエンボクと並んで世界三大花木の一つに数えられています。日本では5月下旬から6月にかけて極めて美しいブルーの花を□花□上、ブドウのように□状に咲かせます。花言葉は「名誉」「栄光」カスカイス市・熱海市 国際姉妹都市提携記念植樹ジャカランダ(ノウゼンカズラ科) 平成2年(1990)7月2日。カスカイス市は、ポルトガルのリスボン県の都市で、国際的なリゾート地である。また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬へのバスがここから発着している。ジャカランダは南米原産で、「南半球の桜」とも称される落葉高木。成長すると約15mの大木になり紫色の美しい花を咲かせる。街路樹や庭園樹としても広く植えられている。ジャカランダ:ノウゼンカズラ科中南米原産の落葉高木。。ラッパ形で青紫や青藤色の花が多数集まって咲き美しい。シウンボクなど約50種がある枝先に咲き残りも。ズームアップ。速足で散策、雨の中の「尾崎紅葉の ”貫一・お宮の像”」。左側には二代目「お宮の松」が聳えている。像を見上げる奥さんは何を思われたのか。足蹴りする貫一・お宮の像。現代ではこのような光景はニュースになるのでは。尾崎紅葉記念碑 尾崎紅葉(1867~1903)森鴎外等と並び明治を代表する文豪。胃癌のため35才の若さで惜しまれつつ世を去ったが、晩年、読売新聞紙上に連載した恋愛小説「金色夜叉」が日本全国の読者の熱狂的支持を得て、その舞台となった熱海海岸は一躍全国に知れわたった。以来。熱海市は国際観光温泉文化都市を標榜し、全国有数の観光地として大きな発展をとげ、今日に至っている。熱海市民は、尾崎紅葉先生の業績に感謝するとともに、その遺徳を偲び「金色夜叉」の「来年の今月今夜のこの月を」の名科白で有名な貫一・お宮の別離の日、1月17日を記念日と定め、尾崎紅葉祭を開催している。アジサイが咲き傍に碑があった。金色夜叉の碑明治の文豪尾崎紅葉の傑作「金色夜叉」にちなんで建てたものです。”宮に似たうしろ・・・・・雨の中の散策で早々に引き上げることに。お宮緑地のジャカランダ遊歩道以下2枚は2021年6月8日(火)に訪れた時のジャカランダ遊歩道。まだ低木であるが満開のジャカランダ。ジョナサン 熱海サンビーチ店書き込みで「海の目の前で眺めが良いのでランチで利用し公園への散歩が食後の定番」と。釜鳴屋平七夫婦像平七は文久三年十月(1863)、江戸から八丈島送りとなったが、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなった。その思いが像に・・・。初島からの船が熱海港へ帰港。雨のムーンテラスを見下ろす。沖には初島が見えていた。イル・ド・バカンスプレミア号(最大605名収容)静岡県唯一の有人離島「初島」との連絡船で、海向きのペアシートやグループ向けのボックスシートなども完備しバリアフリー対応の船である。他にも、昨年2025年7月就航・遊び心満載の非日常感あふれる船旅を楽しめる「金波銀波」(最大626名収容)が就航し、熱海港から約25分で初島へ渡ることができると。この花の名は?、スマホのAIに尋ねると「デュランタ (別名:タイワンレンギョウ)」と回答があったが。デュランタであれば、花は藤色や白の小花が集まって房状に垂れ下がって咲く人気の熱帯花木で、夏の鉢物としてよく流通しています。また、観葉植物として観賞される品種も一般に出回っており、沖縄などの熱帯地域では生け垣としてよく植えられています。丈夫で開花期間が長く、霜に当てなければ戸外でもよく冬越しするので、暖地では庭木として植えることができますと。水滴がついたデュランタをズームアップ。更にズームアップ。11:15糸川の河口国道135号に架かる「熱海渚橋」「渚歩道橋」を見る。以下2枚の写真は今年1月27日(火)に訪れた時の早咲き桜の「あたみ桜」。ここから上流の糸川遊歩道沿いの300メートル程に58本のあたみ桜が植えられている。あたみ桜はひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)である。 ー continued ー
2026.07.11
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この旅二日目、予想通り昨夜から雨に、熱海経由で「道の駅巡り」に。途中、開花時期はピークを過ぎているが「ジャカランダ」へ立ち寄ることに。6月25日(木) 7:00朝風呂を6時から使用、雨に濡れ新緑が映える。我々は和室を使用したが後片付けが大変である。館内放送で7時半から朝食に。5組ほどの宿泊であったので空き部屋があったのではと。朝食 660円(税込)9時にチェックアウト。費用(税込)は、宿泊費、追加料理(4,900円)、焼酎(1,624円)、ビール3本(1,797円)を含め締めて38,511円であった。持ち込みビール代、交通費を含め各自11,000円で精算。長年別荘のように楽しませていただいた保養所であった。閉館が8月30日であるので、既に予約状態は100%状態に、予約待ちで再度来るか?。雨の中、芦ノ湖畔の神社通り、国道1号を走り最初の道の駅へ。道の駅 箱根峠所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根381-22芦ノ湖と近隣の山々を見渡せる休憩所であるがこの日は雨で雲の中であった。芦ノ湖から箱根峠への途中にありこじんまりとした道の駅である。この先で箱根新道と合流、小田原、三島方面への分岐点。旧東海道のルートはこの先で箱根の関所(左下方向)から登って来る。道の駅は小さいながらも食堂、お土産コーナー、情報コーナーがある。芦ノ湖や箱根散策前のトイレ休憩に寄ると良いかもと。食堂コーナーでは、うどん・そば、カレーライス等がリーズナブルな価格で販売されていた。しかし、物価も上がり ”かけそば・うどんが600円”。そばつゆのいい香りがしていたが朝食をとったばかりで、つばを飲み込んだ。右側のカウンター席からは天気が良ければ富士、芦ノ湖が見えるのか。土産コーナーでは地元野菜も販売していた。芦ノ湖産・宮中献上 公魚(わかさぎ)(神奈川の名産100選) 道の駅から芦ノ湖方面。旧東海道を歩いた時、箱根峠へはこの先の階段を登った。この写真は、8年前の2018年12月18日に撮影したものである。その時のブログは「三島宿へ 箱根関所跡から箱根峠へ(2/8)」👈をクリック願います。小さい道の駅であったが「EV充電エリア」があった。箱根峠から雨が降る霧の中、県道20号線(熱海箱根峠線)を南下。9:50森の駅 箱根十国峠所在地:静岡県田方郡函南町桑原1400-20十国峠ケーブルカーの登り口駅に併設されている「箱根・十国峠レストハウス」は、お土産品やそば処が入った便利な施設である。到着した時は観光バスが1台駐車していたが同時に出発したので広い駐車場には愛車のみに。伊豆半島MAP観光バスが出発した後で店内は我々のみで閑散としていた。いろんなお土産物があったが男連中は見るだけであった。前回訪れた時、保養所で飲み美味しかった冷酒「箱根山(純米酒) 2,000円」を購入した。まだ10時で準備前であった。2階にある十国峠山麓駅のTICKET売り場。次の出発は「10:00」とあったが、雨で頂上は霧の中であるので乗車する人はいなかった。頂上からの富士山今年2月18日(水)に訪れた時の写真。テラス席があったが天気が悪いと訪れる人も少ない。15分ほどの散策で森の駅を後にした。この後、熱海峠から県道11号線(あたみ梅ライン)の熱海梅園、来宮駅前を下り熱海海岸へ。10:35親水公園のスカイデッキタイムズ熱海市営第1親水公園へ駐車して「熱海サンビーチ脇のジャカランダ」へ。ジャカランダの近くに駐車場があったのだが。雨の中アガパンサスが奇麗に咲いていた。スカイデッキから熱海港方向を望む。スカイデッキから下りムーンテラスを見る。あたみ桜に挟まれて「釜鳴屋平七夫婦像」が立っている。左側に新しい「橋田壽賀子 顕彰碑」が設置されていた。熱海市名誉市民 橋田壽賀子 顕彰碑大正十四年京城(ソウル)生まれ。戦後映画界で、女性脚本家の草分けとして執筆を開始。後に黎明期のテレビに活躍の場を移し、ドラマの発展を支えた。日本人の心と家族の絆を温かく描き、多くの視聴者に感動を与え、愛された。ドラマは海外でも放送され、文化を超えて高評価を得る。壮絶な戦争体験から物語には平和への祈りも込められた。熱海を慈しみ、この地で多くの作品を生み出した。熱海市名誉市民、テレビ界で初の文化勲章を受賞。従三位。主な作品 おしん おんな太閤記 春日局 愛と死をみつめて 女たちの忠臣蔵 源氏物語 渡る世間は鬼ばかり 橋田壽賀子」。銅像は文化勲章受章で熱海市名誉市民である彫刻家「澤田政廣」先生の作品であると。釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。 熱海市銅像の台座には、熱海ゆかりの文豪、武者小路実篤の言葉が記されている。「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起った漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈へ遠 島の途中大島で死んだ。人間平七の無私愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。 八十五歳 武者小路実篤」ムーンテラスを見下ろす。中央奥に「恋人の聖地」 のモニュメントが立つ。10:45熱海サンビーチ ー continued ー
2026.07.10
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チェックインまで時間があったので皆さん”大涌谷”へはしばらく来ていないとのことで訪れた。6月24日(水) 15:00大涌谷駐車場駐車場への入庫は平日にもかかわらず混んでおり5分ほど待って駐車できたが、休日の渋滞時には1時間以上かかることもあると。大涌谷には無料駐車場がなく駐車料金は1時間500円。営業時間:9:00~16:20(12月~1月 9:00~16:00)。黒たまごオブジェ温泉池で生卵を茹でると、鉄分と硫化水素などの火山ガスが化学反応を起こし、殻が黒いゆで玉子ができあがる! ”1個食べれば7年寿命が延びる”と言われている。4個入り500円で販売されている。大涌谷ちきゅうの谷からの噴煙が立ち込めていた。相変わらずインバウンド客が多く、これに大陸の方が来られるとオーバーツーリズムになるのではと。冠ヶ岳が聳える。大涌谷は約3000年前に箱根火山最後の水蒸気爆発をおこした爆裂火口。かつては地獄谷、大地獄と呼ばれていたが、明治6年(1873)明治天皇・皇后両陛下の箱根静養にあたって「両陛下がお出になる地に地獄があってはおそれ多い」と大涌谷に改称したと。ちきゅうの谷を見下ろす。大涌谷は「かながわの景勝50選」にも選定され、噴火の痕跡を残す山並みや立ち上る噴煙など、火山のダイナミックな活動の様子が観察できる。2022年3月28日より、引率入場方式で「大涌谷自然研究路(玉子蒸場までの散策路)」の散策も再開された(事前予約制)。左側は「大涌谷くろたまご館」、前方は「箱根ロープウェイ大涌谷駅」がある。くろたまご館前ではベンチに座り購入したゆで玉子を食べておられた。箱根の一大観光スポット「大涌谷」に昨年(2025年4月)オープンしたのが、展望エリア「ちきゅうの谷」。趣きの異なる3つのデッキが設けられ、足元に広がる荒々しい岩肌、立ち上る噴気、スリリングな気分を楽しめながら、谷の中にいるような近さで地球の鼓動を感じることができると。展望エリアには、趣きの異なる3つのデッキが設けられている。直径約18メートルの回遊式「風の輪テラス」。案内板には「大涌谷駅、ちきゅうの谷」と。展望デッキから「ちきゅうの谷」を見下ろす。箱根の強羅、仙石原等の温泉地への温泉源になっている。ちきゅうの谷を越える箱根ロープウェイ。尾根を越えると、早雲山駅へと下る。MAPには、左から、「丹沢山」「明神ヶ岳」「東京スカイツリー」「新宿副都心」 「横浜ランドマークタワー」「明星ヶ岳」「相模湾」「早雲山」と。大涌谷駅大空のほとりほっとひと息。羽を休める。目の前の大空を行き交う、ロープウェイの空中散歩。ふわりふわりと、乗りたい気持ちも浮かんでくる。展望デッキに設置されている「火山のカメラ」。火山のカメラ【火山監視カメラ】ちきゅうの谷の見張り役。火山を見つめ、安全を見守る防災カメラ。映像は気象庁ホームページで公開され、いつでも誰でも噴煙を観察できる。ちきゅうの谷を越えるゴンドラ。息吹のデッキ谷の上に約11メートル突き出した高さ約8メートルのデッキで、足元はガラス張り。新型ロープウェイには、スイスCWA製のゴンドラ(定員18人)が50台設置されている。また、ゴンドラ・駅舎ともにバリアフリー対応になり、車椅子でも利用できる。架け替え後の年間送客数は5万人増の155万人を目指している。なお、ゴンドラに動力はなく、大涌谷駅と姥子駅のモーター(原動設備)でロープを操作している。ロープは直径48mm。大涌谷駅舎へ入る。箱根ロープウェイ大涌谷駅乗客はインバウンド客が目立った。休日には長い列になると。営業運転時間 9:00 am ~ 5:00 pm片道券 おとな ¥2,000 桃源台 ⇦ 姥子 ⇦ 大涌谷 ⇨ 早雲山 どちらの方向も片道2,000円往復券 おとな ¥3,000 桃源台 ⇔ 姥子 ⇔ 大涌谷 ⇔ 早雲山 1区間の往復も3,000円、全区間の往復も3,000円大涌谷駅舎をでると回遊式の「風の輪テラス」。冠ヶ岳の麓に「大涌谷自然研究路(玉子蒸場までの散策路)」がある。散策路にはヘルメットを被った団体が見える。大涌谷くろだま館を見下ろす。箱根ジオミュージアム大涌谷くろだま館の1階にある「箱根ジオミュージアム」で、標準見学時間は20分と。入口を入るとインフォメーション。箱根ジオミュージアムへの入館料は100円。温泉の汲み上げ等の模型が設置されていた。温泉をくみ上げる「揚湯泉 (ようとうせん)」の仕組み。残念ながら室内が暗くてうまく撮影できなかった。ポスターには「芦ノ湖展」「火山がつくった湖」。パネルに「2015年 大涌谷に新火口誕生! 噴火前後の記録」。広いホールがあり、「火山の不思議や自然の魅力をたっぷり味わえる、大涌谷にある施設です。箱根ジオパーク の拠点として、興味深い情報や楽しい展示が盛り沢山。箱根火山の溶岩の観察や温泉の体 験展示がおすすめです」と。いろんなパネル説明があった。冠ヶ岳(Mt.Kanmurigatake)神奈川県足柄下郡箱根町にある標高1,409mの火山である。箱根火山の中央火口丘を構成する一峰である。麓の大涌谷から見ると烏帽子の形に見える。くろ玉子の製造工程が映像で紹介されていた。映像の紹介 ①湯守の仕事 ②黒たまごができるまで大涌谷と温泉各地を結ぶ、22キロメートルのホットライン。貼られていた写真「大涌谷からの富士山」。かつての大涌谷の光景写真が数枚展示されていた。1951(昭和26)年頃の大涌谷 ①1951(昭和26)年頃の大涌谷 ①1951年頃になると大涌谷の観光施設の整備が進みました。左に延命地蔵、右奥にたまご茶屋が見えます。バスもボンネット型で多くのバスが発着している。1962(昭和37)年頃の大涌谷1962(昭和37)年頃の大涌谷新たな観光施設の増設と同時に駐車場の整備も進められました。自分が始めて訪れたのは昭和43年頃であったか。仙石原を視察する渋沢栄一(大正9年)明治から大正にかけて活躍した大実業家 渋沢栄一と箱根大涌谷今を生きる、渋沢栄一の奥箱根の発展の思い奥箱根の開発に尽力した渋沢栄一翁当時大涌谷に温泉権を所有していた人びとにより大涌谷からの湯引管が共同出資され、さらに渋沢栄一氏を始めとした渋沢・三井・益田の三家、それに大倉組代表者等が発起人となり、現在仙石原・強羅エリアに温泉を供給している「箱根温泉供給㈱」が設立。様々な方々の努力と結晶により大規模な給湯そして大涌谷をはじめとした奥箱根の開発が行われました。15:35駐車場脇に立つ「渋沢栄一翁箱根を拓く」顕彰碑。富士の麓が見えていた。16:00仙石高原ビラ所在地:所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1285-417途中コンビニで湯上り用のビールを購入して到着。今年2月、4月に続いて3度目の宿泊である。部屋割はご夫婦は洋室、義兄とふたりで和室と。湯上り後、ビールは椅子席になる洋室で夕食まで談笑した。18:00いつものように18時から夕食に。宿泊者は5組11人ほどであったか。追加料理として、各自に天婦羅、唐揚げ2人分、刺身を一皿オーダーした。ビールで乾杯、後は大島酒造の芋焼酎「ちょうちょうさん」をボトルでオーダー。20:00 過ぎまで食堂で宴会。焼酎は飲み終えたので、部屋では持ち込んだ梅酒で二次会。明日の天気は雨が100%とのことで「道の駅巡り」と。 ー continued ー
2026.07.09
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夕日の滝からはこね金太郎ラインを走り箱根仙石原へ。6月24日(水) 13:50はこね金太郎ライン入口この道は箱根へは国道1号を走ると箱根湯本等で渋滞するので数回走ったルートであるが、途中の景観は山道だけで期待できない。また、道路幅が狭いので乗車定員11名以上の乗用自動車と、最大積載量3トン以上の貨物自動車は通行できない。ネット情報から、「はこね金太郎ラインを経由することで、東名高速道路大井松田ICから仙石原交差点 まで約45分で行くことができます!!!(一般道では今まで1時間以上かかっていました。)」と。箱根へはいろんなルートがある。はこね金太郎ラインは信号がなく渋滞もないので予定の時間で到着できる。但し、冬場は積雪があるので要注意である。はこね金太郎ラインの道路脇に。金時見晴パーキング所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢トンネルの手前に約35台駐車可能なスペースがあるが売店・トイレが無いのが残念である。駐車場は無料でいつも無人の車が駐車している。後方は金時山への尾根。金時山の頂上にある茶屋の”金時娘”はお元気かと。箱根町・南足柄市 はこね金太郎ラインこのイラストは令和2年 県立小田原城北工業高等学校デザイン科の生徒さんの作品です金時山・明神ヶ岳方面ハイキングコース入口ハイキングコース入口にいろんな看板が立っている。金時見晴パーキング付近の公衆トイレのご案内下記のトイレをご利用下さい ①金時公園内(約5分) ②ラーメン屋「蔵一」駐車場内(約7分) ③箱根仙石原観光案内所(約7分) ※カッコ内は金時見晴パーキングから車での所要時間案内板に「金時山(45分)・明神ヶ岳(100分)」と。クマの「出没注意」の看板も設けられている。駐車場から東方向を見下ろすが景観はいまいちである。着替えをしておられた女性と会話をすると「明神ヶ岳まで登ったが約1時間を要した」と。往復約2時間になるので手頃なハイキングコースなのであろう。14:20仙石原諏訪神社所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原88箱根仙石原の鎮守の杜で、仙石原地区の氏神として古くから尊崇されている。また、当社は隣町の宮城野諏訪神社と共に湯立獅子舞と呼ばれる卜占(ぼくせん)の貴重な神事が伝えられている。獅子が人に代わって湯立てを行う事は全国的に見て稀だと。近くの公時神社は当社の境外末社であると。長安寺に隣接してあり、今まで何度も仙石原へ来ているが始めて参拝した。右側の建物は?。箱根仙石原湯立神楽の碑 無形文化財 神奈川県指定 昭和二十九年十二月三日 国 選 択 昭和四十九年十二月四日諏訪神社に伝わる湯立神楽の起源は、安永五年で、伝授した師は、甲斐国郡内下吉田村(富士吉田市下吉田)の住人萱沼儀兵衛である。国家安泰、家内安全、五穀豊穣、悪疫退散を祈念し、祖先代々、郷民の精神生活の拠り処として、共に生き、厳格に秘伝された貴重な民俗行事である。宮舞、平舞、剱の舞、行の舞、宮巡りの舞、釜巡りの舞、四方固めの舞の七舞により構成され、大釜の熱湯を神楽の法力によって冷まし、氏子の頭に振りかけ、無病息災を祈る神事である。獅子が人に代って湯立の行をすることは、全国的にも稀な価値を有し、厳粛なその行法は、将に国選択無形文化財に値するものである。仙石原に伝承された古い習わしも、時の流れと共に薄れ、そして変りゆくとき、我々の心であるこの湯立神楽を、永久に保存していくことはまた意義の深いことである。ここに湯立神楽創始二百年及び、国の無形文化財選択を機会に、有志相計り、郷民の浄財を基に、社殿の修復、神楽堂の建設、境内整備の大業が完成したものである。我々は、益々敬神の念を培い、郷土の発展に苦難の努力をされた先人の遺徳に感謝すると共に、永遠の平和を祈念し貴重な湯立神楽を永く後世に伝えることを希い、この碑を建立するものである。 紀元二千六百三十六年(西暦一九七六年) 昭和五十一年三月二十七日建立 諏訪神社 社殿境内整備 神 楽 堂 建設委員会碑の前に草が生い茂り。階段下の右側に狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。階段を上ると杜の中に社殿が建っていた。拝 殿右奥に建っていたのは倉庫であったか。拝殿の扁額「諏訪神社」。社殿の右側から。社殿は修復されたようだが昭和51年(1976)頃か。社殿の左側に廻る。境内の左奥階段を登った上に新しい社殿が建っていた。手摺も設置されていた。ネットでは「境内社の山神社」とあったが、由来等の説明板がなかったので不詳。山神社前から境内を見下ろす。左側に坂道があったので下る。下ると茂みに石碑が立っていた。碑には、「神楽歌 大平楽とぞあらたまる 神をいさめてかんきょある いさめていさめてもかんきょある 天の岩戸を押しひらき いざや神楽をまいらせん 三尺の剣を抜いて 悪魔を拂う七五の楽」であったか。仙石原諏訪神社では毎年3月27日に「湯立獅子舞」が行われ、この行事は国選択無形民族文化財に指定されていると。境内の一角に、石碑、鳥居の部材が置かれていた。左から、祝 国指定重要無形民俗文化財 箱根の湯立獅子舞 令和四年三月二十三日指定 箱根仙石原神楽保存会関東大震災で倒壊した鳥居であろうか。右側の丸柱に「大正十二年三月廿七日建設」とあったので震災の年に建設されたのであろうか。石碑には「神楽歌之碑」と。平舞の歌 伊勢の社に松植えて松の青葉や若竹に しめを飾りて神いさめ みなしろたえの御幣をもちて 悪魔をはらう七五の楽湯立の歌 げにや神國おさまりて 人は天地のみたまもの ここは高天原なれば 集り給え四方の神々お濠の傍に簡易な手水舎が建っていた。ここ神社の周りも紅葉がよさそうだ。歴史を感じさせる手水鉢。14:30神楽堂も新築したとあったが。この建物か?。足早での参拝であったので再度秋の紅葉時期に訪れたい。 ー continued ー
2026.07.08
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ランチ後は、近くにある「夕日の滝」を訪れることに。7月4日(土)読売新聞朝刊でこの日が「滝修行の日」であることを知る。遅かった・・・。また、夏のレジャーの安全祈願を行う「夕日の滝びらき」が7月5日(日)に開催されたが、天候不良のため一部「山伏による安全祈願」のみが実施されたと。6月24日(水) 13:20夕日の滝駐車場所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢2230 辺り夕日の滝へはここへ車を止め歩いて行く。キャンプ場もあり駐車料金は無料。掲示板に、「土砂災害防止法に基づく土砂災害警戒区域等を明示した現地表示板(夕日の滝入り口)」。 夕日の滝駐車場から指定避難所(北足柄小学校)まで7.2km7月4日(土)付け 読売新聞朝刊より、滝修行の普及に取り組む富山県高岡市の善光さんが4日に開催すると。2019年10月、7月4日が「滝修行の日」として正式に登録された。7は滝の流れ、4は手を合わせて滝に打たれる人を横から見立てたもので、水があまり冷たくない夏の始まり頃に設定したという。今回の滝修行は「足柄修験の会」(南足柄市) の協力を得て開催。約30人が参加予定で、午前9時半から善光さんが参加者に滝修行の歴史などを説明し、記念日登録証を見せた後、全員で滝修行を行うと。駐車場脇に立っていた案内板。夕日の滝バンガロー 足柄のテントサウナキャビンサイトとテントサイトの2つを備え、トイレやシャワールームも完備している。キャビンの裏手では川で遊べ、夕日の滝へは徒歩数分で行くこともできる。さらに、足柄峠の金時山登り口まで車で約15分と、周辺散策も楽しむことができる。時期によってはイベントやテントの展示会も開催される。テントサウナ入口(事前予約制)。夕日の滝付近の観光案内現在地から、足柄峠ハイキングコース 60分 金太郎ハイキングコース 100分 金時山登山にはクマ対策が必要!キャンプエリアに新しいトイレ(無料)。夕日の滝は年間約10万人の観光客が訪れる南足柄市の代表的な観光スポットで、高齢者らにも配慮した新しいトイレが設置された。障害者・高齢者用のトイレもあり最新である。少々過剰設備ではと思ったが、清掃も大変であろう。利用者のモラルを!。内川に架かる仮設橋。上流側にテントサウナが設けられていた。予約制で日帰りの貸切サウナ。下流側の対岸にステージがあった。夏場にはイベントが行われるのであろうか。橋を渡ると左側に「石碑」、右側に「見守り地蔵」。石碑には、「金太郎のふる里足柄山 金太郎の歌 作詞/石原和三郎 作曲/田村虎蔵 一、まさかりかついて金太郎 熊にまたがり お馬のけいこ はいしどうどう はいどうどう はいしどうどう はいどうどう 二、足柄山の奥で けだもの集めて 相撲のけいこ はっけよいよい のこった はっけよいよい のこった」と刻まれていた。金太郎の力水夕日の滝の水で産湯を使ったといわれている元気な金太郎にちなみ、この水を「金太郎の力水」と名付けました。金太郎は地蔵堂の四万長者といわれたお金持ちのむすめの子として生まれたと伝わっていることから、この水で銭洗いをして、四万長者にあやかってみてはいかがでしょう。 この水は、夕日の滝の横にある地蔵堂水源の湧水を浄水処理したもので、安心して飲 んでいただけます。 地蔵堂自治会 南足柄市水道事業所おいしい水について おいしい水の条件/地蔵堂簡易水道 水の水質が記されていた。金太郎の力水見守り地蔵 お賽銭はご遠慮ください奥の貼り紙に、「見守り地蔵 このお地蔵さんは、ごみの不法投棄をなくし、きれいで潤いと安らぎのまちにしよ うという願いを込めて「見守り地蔵」と名付けました。お地蔵さんの製作や設置は、 郷土を愛する多くの人たちの温かい心と熱意が積み重なって出来たものです。 多くの人たちの環境美化への願いが込められたこのお地蔵さんは、南足柄市の豊か な自然、美しい森、おいしくきれいな水、さわやかな空気を次の世代に引き継ぐた め、地域の住民を温かく見守ってくれることでしょう」と。箱根ジオパーク南足柄エリア、「断層と侵食が作った」夕日の滝。南足柄はかつて本州と伊豆地塊に挟まれた海の底でした。その後伊豆地塊が本州に衝突し、地表に押し上げられた海の地層に、後から噴火した、箱根の熔岩が覆いかぶさりました。夕日の滝は南足柄市の西部、箱根外輪山を水源とする内川の上流にある高さ約23㍍、幅約5㍍の滝です。この一帯は金太郎生誕の地という伝説があり、金太郎は夕日の滝で産湯をつかったとされています。そもそも滝ってどうやってできるの?滝ができる2つの成因 Ⅰ、異なる2つの地層が接する 箱根ジオパーク内 飛龍の滝 Ⅱ、断層によってできた崖が滝になる 山北町 酒水の滝夕日の滝はどのようにできた? 答え・・・Ⅰ、Ⅱ 両方の成因が関わっている。橋を渡り右方向へ約百メートル程進むとスギ林の先に滝の音が聞えて来た。遊歩道はチップで整備されていた。スギ林の合間に滝が見えていた。夕日の滝の名称は、夕日に映える美しさから名づけられたと言われているが、毎年1月半ばに夕日が滝口に沈むところからつけられたとも言われている。この滝での「滝修行」は申し込みで参加できると。費用は、滝行体験コース お一人様 6,000円 ※令和8年末までの限定価格となります。 その他 9,000円の祈祷コースもございますと。夕日の滝標高約五○○㍍の地点にある夕日の滝は、金時山の斜面より酒匂川へと流れ出る内川上流にかかる滝である。高さ23㍍、幅5㍍ほどの垂直に落ちる滝で、スギ、ケヤキ、ナラなどの林に囲まれている。滝は、箱根古期外輪山の堅い火山岩と、泥岩と礫岩から成る柔らかい地層が接する断層にあり、内川からの流水により柔らかい地層はしだいに削られたことにより滝ができたと考えられている。夕日に映えるその美しい姿から滝の名称が付けられたといわれているが、一説には勇ましく水煙をあげ男性的なところから雄飛の滝と呼ばれたこともあった。また、この滝は金太郎伝説と深い関係がある。源頼光(平安時代中期の武将)の四天王の一人である坂田金時(幼名金太郎)は地蔵堂で生まれ、産湯にはこの滝の水が使われたといわれている。このことから「金太郎産湯の滝」とも呼ばれ、さらに下流には「金太郎生家跡」や「かぶと石」「たいこ石」などの金太郎が遊んだとされる「遊び石」がある。春は新緑、夏は豊かな水量がしぶきをあげ、秋は紅葉、冬は滝つぼのまわりに樹氷ができ、ときには全面凍結の滝になるなど、四季折々の風情を見せる名勝地である。 泥岩 (泥が堆積し固まった岩石) 礫岩 (堆積岩の一つで直径2ミリメートル以上の岩片が粘土や砂などにより、くっつき 固まった岩石) 雄飛 (雄鳥が大空に飛び上がるように大きな志を抱いて盛んに活動すること) 南足柄市指定名勝(昭和四十一年十二月三日指定) 平成二十五年十二月 南足柄市教育委員会滝口を見上げる。夕日の滝の名は毎年1月半ばに夕日がこの滝口に沈むところからつけられたとも。滝の前左側上に祠が建っている。祠の扁額「夕日堂」。夕日堂前に「自撮り用の台」が設けられていた。ここへ沈む太陽を撮影したいものだが、冬場は滝つぼのまわりに樹氷ができ、ときには全面凍結の滝になるとのことでここへたどり着くのが大変であろう。三度目の訪問であるがいつも水量が多く水しぶきが飛んでいた。滝修行はここで開催。多くのカメラマンが来たのであろう。じっくりと撮影したかったが同行者はカメラ持参でなかったので早々に。滝壺をズームアップ。滝壺の周りは岩が多く足場が悪かった。また深さは?。夕日の滝を後にすることに。スギの木にこのような案内も。同行者はスマホを持っていたのだが。仮設橋へ戻る。下流側にはキャンプの炊事場であろうか。これからの夏場には多くの人で賑わうのであろう。夕日の滝バンガロー駐車場傍で咲き始めたアジサイを楽しんだ。標高が約五○○㍍の地点にあるのでアジサイの開花も遅い。純白のアジサイが咲いていた。ズームアップ。13:45約30分の散策であったが10人程の方とすれ違った。夏場には多くの人が訪れるのであろう。この後”はこね金太郎ライン”を上り箱根仙石原へと向かうことに。 ー continued ー
2026.07.07
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大雄山最乗寺の参拝後、箱根へのルートは”はこね金太郎ライン”を選択。ランチはその途中にあるかねてから知っている”うどん店”でとることに。6月24日(水) 12:35伊豆箱根鉄道大雄山線の大雄山駅前を通り抜け、竜福寺交差点から北上。足柄古道 万葉うどん 本店所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢2393以前、地蔵堂、夕日の滝へ来た時この店の存在が記憶にあり訪れた。店先に「自転車の駅」「手打うどん」の幟旗が立っていた。最初の目的地が臨時休館であったので、幟旗が立っていて”ほっと”した。道路標識に「⇦ 足柄古道」「矢倉岳 ⇨」と。この下に駐車場があるかと思ったが、引き返し道路脇に駐車した。矢倉岳への登山はここを下るようであった。古民家風のうどん店であった。 入口上に「あしがら古道 万葉うどん」と。入口にいろいろと貼り紙があり、「営業時間:11:30~17:00 (ラストオーダー 16:30) 定休日 :木曜日 駐車場は、地蔵堂のバス停下 公共の駐車場をご利用ください」と。車輪に、一杯用メニューがあったが・・・。木臼の中にお土産用「多肉植物 100円」。うどんのラインナップは、湯うどん・ザルうどん・とろろうどん・カレーうどん・つけカレーうどんと豊富で、価格は590円 〜 と驚くほどリーズナブルであった。別看板に「トマトだれの肉みそうどん 920円」とあった。店内には椅子席があり、手打ちうどん場があった。写真はネットから。美味しそうなおでんが。リピーターの方が多いようで、外にテラス席があったので外へ陣取った。夜の豪華な料理がまっているので「湯うどん 590円」をオーダーした。うどんのお替りは 110円と、四国の讃岐うどん並みか。併せて、おでん(140円/本)2本をセルフで皿にとった。辛子と思いきやダイコンの上は味噌であった。湯うどんうどんのおいしさを味わいたい方に、温かいだし汁にゆでたてのうどんをつけて食べますと。お替りをしても良かったのだが。テラス席からは庭先の苔・シダ・花類が目を癒してくれる。カンパニュラの一種ホタルブクロが咲いていた。ホタルブクロは、各地の平地から山地に広く分布する多年草です。日当たりのよい草原や、林縁などで多く見られます。初夏から夏の前半にかけて釣り鐘形の花を茎に多数咲かせる。テラス席で食事をしながら楽しんだ。ガクアジサイも終盤に。店内ではお土産用に地酒類も販売されていた(ピンボケに)。頂いた店の名刺。食事後近くにある地蔵堂へ。道路標識も「地蔵堂」。足柄山誓光寺として1282年(弘安5年)に開山したといわれる、この地を象徴するお堂です。地蔵堂の扁額「足柄 地蔵尊」。地蔵堂の濡縁に、「神奈川縣指定重要文化財 木造地蔵菩薩一躯 昭和・・・・・ (説明文は消えて判読できなかった) 地蔵堂内厨子一基 昭和五・・・・・ (説明文は消えて判読できなかった) 南足柄市教育委員会 地蔵堂自治會地蔵堂内厨子 室町時代末期 作本堂は、天保一二年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』によると、文化一四年(1817)に火災に遭ったが、その後再建されたと記されている。昭和五〇年(1975)にも焼失したが、住民の手によって本堂内の厨子と本尊である地蔵菩薩立像や他の仏像はすべて救い出された。本尊の地蔵菩薩が納められているのが厨子であり、三間(柱間)四方の入母屋造りの屋根に、軸部を禅宗様、軒を和様とした折衷様式で、鎌倉を中心に分布する禅宗様に対して特色がある。また、木鼻が上部の貫だけでなく下部の貫にもつけられていることや天井が丁寧に造られていることも珍しい。現在は地蔵堂裏の収蔵庫に納められている。 ・入母屋造り(上部は二方、下部は四方へひさしをつけた屋根) ・軸部(建物の土台から軒あたり) ・禅宗様(鎌倉時代に禅宗とともに宋から伝えられた寺院建築様式) ・和様(平安時代以降の日本化した寺院建築様式) ・木鼻(貫(柱に通す水平材)の端を彫刻したもの) 屋根 間口 二五六cm 奥行 一四七cm 本身 間口 一六六cm 奥行 九九cm 台座 間口 一七八cm 奥行 一一〇cm 軒高 一八二cm 神奈川県指定重要文化財(昭和五十四年二月十六日指定) 平成二十五年三月 南足柄市教育委員会木造地蔵菩薩立像 鎌倉時代 作この地蔵菩薩立像(像高160.5cm)は足柄地蔵尊と呼ばれ、玉眼の技法を使い、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、構造は寄木造りである。身体は黒漆で彩られ、着衣は朱漆塗地に銀泥で文様が描かれている。衣の正面にある松葉状に枝分かれする衣文の特色から、慶派仏師またはその影響下にあった仏師が制作したと考えられる。鎌倉時代(十三世紀)の作と考えられる。本像には、「一木三体の作」の伝承があり、一本の霊木から三体の地蔵尊が造立されたといわれ、一体は駿東郡小山町の竹之下に、もう一体は小田原市の板橋に安置されていると伝えられている。なお、本像は乳の病に御利益があると云い、女性の信仰が篤かった。現在は地蔵堂裏の収蔵庫に安置されている。 ・玉眼(鎌倉時代に発達した技法で、仏像の目に水晶またはガラスを入れたもの) ・宝珠(火災を表して上方がとがり、全ての願いを思うとおりにかなえてくれるという 宝の玉) ・錫杖(僧侶の携帯する杖) ・寄木造り(頭部と体部など各部を組み合わせて一体の像に造りあげる技法) ・銀泥(銀粉をにかわで溶いたもの) ・慶派(平安末期~江戸時代の仏師一派、名に「慶」のつく仏師が多かった) ・仏師(仏像を作る工人) 神奈川県指定重要文化財(昭和五十四年二月十六日指定) 令和二年七月 南足柄市教育委員会木柱に、「県指定文化財 木造地蔵菩薩立像 地蔵堂内厨子」と。正面の道はこの後訪れる「夕日の滝」への道。左下に公共の地蔵堂駐車場(無料)があり公衆トイレもある。地蔵堂ウオーキングマップバス停「地蔵堂」。関本(大雄山駅)行きが、平日 9:40、16:40 の二便。 土・日・祝日 8:45、9:40、15:25 の三便運行。地蔵堂前に道路案内。足柄古道足柄古道は、足柄道、足柄路と呼ばれ奈良時代には官道として東西を結ぶ重要な道路として機能していました。九世紀の初めに起きた富士山の延暦噴火で、足柄古道は一時通行が途絶え、箱根越えの道が利用されましたが、噴火が止んだ一年後には復旧しました。万葉集や更級日記などには足柄峠や古道の様子が書かれています。戦国時代には国境防御の目的で古道沿いの尾根に多くの城郭が建設されました。徳川家康が天下を治め江戸に幕府を開いた後は、箱根越えの道が東海道となりましたが、足柄古道はその脇往還である矢倉沢往還となり、物資の輸送や富士講の人々で引き続きにぎわいました。 平成二十一年三月 南足柄市教育委員会13:15万葉うどん来店者は皆さん交通量も少ないので路上駐車。我が家の庭に咲いていた「オニユリ」(7月4日撮影)。 ー continued ー
2026.07.06
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奥の院の参拝は諦め下山することに。6月24日(水) 11:55御真殿前に建つ「御真殿御守授与所」。御真殿御守授与所「特別祈祷承ります」と。御真殿、御真殿御守授与所を振り返る。御真殿横でガクアジサイが咲いていた。ズームアップ。更にズームアップ。御真殿境内から「不動堂」を見下ろす。急な階段を下りることに。不動堂の扁額も苔むしていたが「□□不動」と。不動堂内を足早に抜けると、スギの古株から新芽が成長していた。不動堂の下にも社が建っていたが配置図に記載されていないので?。不動堂を振り返る。多宝塔を見下ろす。文久三(1863)年に建築され、最乗寺境内の建物の中で最古の建築物で、南足柄市の指定文化財である。多宝塔の塔内に多宝如来が安置され、塔の下には了庵慧明禅師、大綱明宗祖師、春屋宗能祖師の火定灰が納められている。下層の蟇股に十二支の彫り物があると。多宝塔の右前に狛犬の「阿形像」。左側には狛犬の「吽形像」。多宝塔の左側に人工の「先心の滝」がある。水神様が祀られており、傍らの東屋の椅子に腰掛けて眺められる。石祠の下に「水神」と刻まれた標柱が立っている。東屋から御供橋、結界門を見下ろす。多宝塔から階段を下り見上げる。多宝塔 (たほうとう)最乗寺の多宝塔は、神奈川県下で唯一の多宝塔遺構であり、曹洞宗の寺院としては珍しく、内部には多宝如来を祀った厨子が安置されています。心柱に残る墨書から建立は江戸時代末の文久三(1863)年で、願主は江戸音羽の高橋清五郎、工匠は大工棟梁の相模匠藤原直行、彫物師は後藤豊次郎であることが分かっています。この多宝塔は、棟身が高く相輪が短いものの、その形態や彫刻のあり方に江戸時代の技術や手法をよく残しています。また、二重構造のうち下部の四天柱をそのまま伸ばして、上部の側柱にするなど、珍しい手法も見られます。多宝塔は、大正十五(1926)年と昭和三(1928)年の二度の火災でも被害を受けることなく、建立当時の姿を残しています。まさに、過去と現在をつなぐ歴史の証人としての役割を果たしているといえます。 平成二十二年三月 南足柄市教育委員会標柱に「市指定文化財 多宝塔」と。こちらにも氷柱があったが。インバウンド客の家族連れが訪れておられた。奉納 多宝塔塔中に多宝如来を奉安し、塔下に当山開祖了庵禅師、大慈開基、報恩開基の火定灰を収む、三禅師宅□の地なり、二間四尺の方形 層上□型の木造二重の塔、文久三年江戸音羽の住人 高橋清五郎の奉献 七坪半 中建道了講 昭和五十四年一月吉日之建多宝塔はスギの大木に囲まれている。これからはスギの倒木等による被害が発生するのでは。御供橋、結界門前から本堂へと進む。鐘楼下の参道両側には奉納碑が立ち並んでいた。開山堂奉納 金剛壽院大雄山開祖 了庵慧明禅師及び通幻寂霊 大綱明宗 無極慧徹 春屋宗能の各祖師の尊像 歴代住持の霊牌を祀る当山の 開山堂である日夜その真に侍して 酬恩の行持を奉勤している昭和三十六年 開創五百五十年記念法要に再建された 總欅造り 四十坪余 昭和六十一年一月吉日 中建道了講本堂を後にする。一段高い場所の手前に「書院」奥に「本堂」が建っている。瑠璃門から、境内の東屋「光明亭」を見る。同場所から右奥に「総受付 白雲閣」。瑠璃門の渡り廊下に貼られていた挿絵。大雄山ものがたり「大雄山」とか「道了尊」とか親しみをこめて呼ばれているお寺のものがたりです。正しくは「曹洞宗・大雄山・最乗寺」というんですが、今まで通りの呼び方でいいんだよ。このお寺を開山した、つまりこのお寺を最初に造ってくださったお方は、了庵禅師様とおっしゃいます。親しみを込めて「了庵様」ともよんでいます。三つの宝了庵様は子どもの頃から本を読んだり、字を書くことがすきでした。その頃の学校は寺小屋といって、お寺で勉強をしました。和尚さんが先生です。通っているうちにお寺が大好きになり、自分もお坊さんになろうと決心をしました。最初に入ったお寺は、鎌倉の建長寺です。不聞禅師、峨山禅師、通幻禅師お坊さんになるための修行は、今も昔もそれはそれは厳しいのですが、自分からなりたいと決めた道ですから、自分に厳しく修行を重ね、立派な和尚さんになっていくのです。いくつものお寺で修行をし、遂には、石川県は能登半島にある總持寺の、一番偉い和尚さんになります。「了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師」とおよびします。「禅師」とは立派な和尚さんという意味です。12:15瑠璃門から階段を下り参道へ、左上に駐車場があり、このまま下ると「道了尊三門」へと。今回は新緑を楽しんだが秋には紅葉の撮影に再度訪れたい。参道をズームアップ。境内には多くの堂宇があり、秋の紅葉時には全てを撮影しアップしたいものです。小田原フラワーガーデンが臨時休館で急遽訪れた大雄山最乗寺を後にした。昼時になりさて何処でランチをするか。 ー continued ー
2026.07.05
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箱根仙石原の保養所が8月末に閉鎖するとのことで、義兄と近所のご夫婦を誘い2月、4月に次いで今年3度目の一泊の旅を計画した。 梅雨時で生憎の空模様の中、自宅を10時に出発、我が愛車ノートで出かけた。目的地は一任するとのことで、6月2日に訪れた小田原フラワーガーデンのアジサイ、ハナショウブ、スイレンが見頃であろうと思いハンドルを握った。6月24日(水) 11:00小田原フラワーガーデン正門予定の時間に到着したが、何故か正門が閉ざされていた(この写真は前回)。正門に立つ警備員に聞くと「園内の電気工事で6/22(月)~26(金)まで臨時休館」と。仕方がなく近くにある「鈴木さん宅のざる菊」へ向かうが、ご夫婦の旦那さんから「大雄山最乗寺」へ行こうとのことでスマホをセット。11:20参拝者用無料駐車場(大雄山最乗寺)所在地:神奈川県南足柄市大雄町250ここまでの麓からの急坂の参道脇に咲くアジサイが奇麗であったのだが。最乗寺へは今年4月3日(金)に「枝垂れ桜」を見に訪れている。当初男三人で来る計画であったが奥様が休みとのことで「コンパニオンで参加する」と。参道を上ると左側に新しい玉垣に囲まれた塔が建っていた。玉垣中央に「神奈川県鳶工業連合会」と。石碑に「神鳶之碑」と。碑文は残念ながらピンボケに、次回再度撮影したい。細い円柱に「□慰霊碑」と。最乗寺の通用門である「瑠璃門」への新緑に覆われた階段を上る。左側は「宝物殿」。瑠璃門新緑のモミジが映える。この紅葉を撮影していないので今年は訪れたいと。この紅葉が楽しみだ!最乗寺境内案内板の「大雄山最乗寺全景」を見る旦那さん。大雄山最乗寺全景大雄山最乗寺(道了尊)の草創応永元年(1394)。福井県の永平寺、鶴見の総持寺に次ぐ格式のある曹洞宗のお寺である。創建に貢献した道了という僧が、寺の完成と同時に天狗になり身を山中に隠したと伝えられることから、道了尊とも呼ばれている。この道了にちなんで、境内には多くの下駄が奉納されている。また、仁王門からの参道約3kmには樹齢500年以上の杉並木(県天然記念物)がうっそうと茂っている。大書院階段下左の石碑に「大書院案内 昭和三十二年秋建立 約二百五十坪」と。境内の咲き終わったツツジ、サツキは綺麗に剪定されていた。本堂下の大香爐この日もインバウンド客を含め参拝者が訪れていた。本堂を見上げる。前回参拝した時は両側の枝垂れ桜が奇麗に咲いていた。本堂の扁額「護国殿」。本堂脇のモミジの新緑が映える。本堂左側に建つ「開山堂」。開山堂は昭和36(1961)年に再建、総欅造りで、別称 「金剛壽院」と呼ばれ歴代の禅師を祀る。本堂から左方向にある「御真殿・奥の院」へと進む。多くの堂宇が建ち、新緑に覆われた参道両脇には奉納板碑が立ち並んでいる。苔むした板碑には「奉納 金壹百圓 大正八年□□□」と。右上には「鐘楼」が建っていた。ロープが張られ中へは立入禁止になっているが、像芸緻密で精巧に作られていると。一段高い場所に石塔が立ち、左側には板碑があった。石燈籠が立ち、石碑、石塔が立っていた。木柱には「市指定文化財 松平大和守直基の墓」と。松平大和守直基の墓正面には「捐館仏性院殿鐵関了無大居士神儀」と刻まれている。松平大和守直基の墓松平大和守直基(なおもと)は徳川家康の次男である結城秀康の五男にあたります。越前勝山城主を経て越前大野、出羽山形へ移封の後に姫路城主となりましたが、姫路へ向かう途上で発病し、慶安元(1648)年、江戸にて四十五歳で死去しました。直基の遺骨は大雄山最乗寺に葬られ、寛文十(1670)年に兵庫県姫路市の書写山円教寺に分骨されました。直基の墓は、将棋の駒形をした安山岩製で、高さ400cm、幅135cm、厚さ94cmを測り、正面には「捐館仏性院殿鐵関了無大居士神儀」が刻まれています。直基の墓が大雄山最乗寺に建立されたのは、時の権力者である徳川将軍家と大雄山最乗寺との関係の深さもさることながら、直基自身が大雄山最乗寺に対する信仰が深かったことに由来すると考えられています。 平成二十二年三月 南足柄市教育委員会墓地の一角には慰霊塔。塔には「明治二十七八年之□陣□軍人之碑」と。日清戦争の戦没者慰霊塔であろう。鐘楼を見下ろす。鐘楼前から更に進むと「御供橋」「結界門」。御供橋辺りは杉林に覆われ”最乗寺で最も雰囲気が良い場所”であると。結界門この門からは「これより内は不浄の者入るべからず」で道了尊の浄域になる。結界門は明治三十年(1897)に建立された向唐門。結界門の前には天狗様(右側)と烏天狗様(左側)が立っている。金剛製の天狗像一対は、昭和十一年(1936)に東京五大講の寄進であると。結界門の扁額には「結界」と。結界門を入り、御真殿(ごしんでん)への直階段を見る。下から見上げるが途中に踊り場がないので怖い。階段数は77段と。現在の建築基準法では直階段の場合一定の高さ(概ね4~5m程度)で踊り場が必要であると。階段の途中で、結界門を見下ろす。御真殿 (妙覚宝殿)道了さん(妙覚道了大薩埵)を本尊として、脇には大天狗と小天狗がお祀りされており、ここで色々なお願い事をかなえてくれるご祈祷が行われている。御真殿の扁額は「妙覚宝殿」と。拝殿では5,6人の若者が祈祷を受けていた。御真殿御守授与所御真殿の横にたくさんの高下駄が奉納されている。世界一大きい「和合下駄」。修験者や天狗の履物として、世界一の大きさという巨大下駄の目方は、1,000貫(3,800kg)であると。また、下駄は二つ揃って役割をなすため、夫婦円満、夫婦の和合に通じると。慈雲閣(奥の院)への登山口。奉納 奥の院と参道これより三百五十余の石階を登れが奥之院慈雲閣に到る。鎮護道了大菩薩の御本地十一面観世音菩薩を奉安する。向陣渡殿拝殿ともに昭和四十三年に再建された。 總坪十七余 昭和五十五年一月吉日 中建道了講 奥の院へは今だ未登山であるので参拝を迷ったが同行者が「NO」とのことで途中まで挑戦することに。旦那さんはかつてお子さんと登り箱根まで行ったと。登山口の右側に狛犬の「阿形像」。左側の狛犬も口を開けていたが。これより三百五十余の石階を登れが奥之院慈雲閣に到る。途中まで登ると奥の院から同年齢のご夫婦が下りて来られた。階段右側に祠があった。皆さんが登山口で待っているのでここで引き返すことに。11:50左側には石祠があった。最近中古の”Canon EOS60D”を購入使用しているので慣れなくピンボケに。 ー continued ー
2026.07.04
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梅雨の合間に訪れた「小出川の河津桜会場」の花々を楽しんだ。6月29日(月) 14:30アジサイが目的であったがダリアも奇麗に咲いていた。庭植えすると場所を取り背丈が高くなるので好まない花であるが広い場所では映える。ズームアップ。”小出川河津桜”の最上流部へ。県道44号線の西久保橋、圏央道の高架橋。ダリアは今まで撮影対象にしていなかったがよく見るといろんな表情がある。ダリアは、キク科ダリア属の多年生草本植物の総称。和名は、花の形がボタンに似ているため、テンジクボタン(天竺牡丹)と呼ばれた。日本へは、江戸時代天保13年(1842)にオランダから長崎に持ち込まれたのが、日本への最初の到来となったと(ウイキペディアより)。ズームアップ。アナベルも咲いていた。ズームアップ。小出川の下流側を望む。堤の斜面部には草が生い茂っていた。これからの時期草刈り機で除去する必要が。河津桜の下にアジサイが咲き、キクが植えられていた。ざる菊は管理がたいへんであるので止められたのであろうか。ガクアジサイ。天気が良ければ富士山が見える場所であるが。雑草に覆われたアジサイ。ボランティアの手が必要に。小出川河津桜会場へ戻る。木製のベンチ・テーブルがあり「花とともにくらす会」の皆さんの憩いの場所になっているのであろうか。マイファームたかはし枝豆直売所所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園312小出川河津桜会場の西側にあるファームで、右側の畑で枝豆を生産して早朝に販売している(販売日は要チェックである)。後方には湘南銀河大橋の白い橋脚が見える。小出川に架かる浜園橋周辺が工事中であったので立ち寄った。今年(1月22日)に訪れた時掲示されていた工事看板。「小出川の護岸整備を行っています 令和8年7月31日まで 時間帯 8:00 ~ 17:00 浜園橋橋りょう整備工事 (護岸工) 請負金額 ¥273,900,000 発注者 茅ヶ崎市建設部 道路建設課 受注者 亀井工業・湘南いざわ特定建設工事共同企業体」。欄干に「浜園橋」と。住民の方が工事状況を見学しておられた。下流側の護岸工事。数ヶ月ぶりに見たが右岸の護岸工事はほぼ完成まじかか。完成予想図が掲示されていた。工事名:浜園橋橋りょう整備工事(護岸工) 工事完成イメージ(AI合成画像) 施行者:亀井工業・湘南いざわ特定建設工事共同企業体工事現場のフェンスに、「特定建設作業実施届出書」。工期が「令和8年7月31日まで」とあったので、これから後1ヶ月の追い込みに。春先に比べて小出川の水量は梅雨時でもあり増水していた。上流側を望む、大山が見えるのだが雲の中であった。河川敷には多くの土嚢が積まれ水路が変更されていた。左岸の一部が掘削されていた。掘削部から湧水があるようで工事を中断し関係者が見ていたが。台風が襲来すると増水して被害が浜園橋から下流側左岸は春先に眼を楽しませてくれた梅並木になっている。後日、市内へ。6月30日(火) 14:00愛車のリンちゃんで買い物に。途中の旧東海道(国道1号)の松並木。道路脇の標柱に「日本橋まで 58km」と。イオンスタイル 湘南茅ヶ崎いつも駐輪する自転車置き場の横にアジサイが咲いていた。ここの駐輪場は一時無料になっていたが、設備が修復され3時間?まで無料に。精算機が置かれている。国道1号の北側にバイパスの敷地。最近まで史跡の発掘調査が行われていたが、終了し埋め戻されて更地に。バイパスの完成はいつになるのであろうか。道路脇にアジサイ、アガパンサスが咲いていた。アガパンサスはさわやかな涼感のある花を多数咲かせ、近年よく見かける花である。純白から緑に変化したアナベルが咲いていた。アナベルは純白の装飾花の他、アナベルの魅力の一つに花色変化があります。蕾の頃は淡い緑、花が咲くと純白、咲き進んでいくと再び緑に変化し、秋にはドライフラワーのように乾燥しますと。我が家のぶどう棚。今年も100房近くの収穫になるが。小玉スイカの栽培、そろそろ補強の網が必要に。昨年は3個の収穫であったが、さて今年は何個収穫できるか。5月18日に受粉させ6月26日に2個収穫した。実もしまり美味しかった。7月1日(水) 10:15朝9時~9時30分まで茅ヶ崎市立病院でリハビリ。昨年12月12日(金)から、週2~1回のリハビリを行っていたが順調であるということでこの日を最後に終了した。今後は自己管理ということで有酸素運動を行うようにと。病院へは歩いて通院しているが、その道路脇に咲いていた西洋アサガオ。葉は丸く、さわやかな空色の花は短日開花性により暖かい地域で8月以降から霜のころまで咲き続けます。とても生育がよく「緑のカーテン」に適していると。ズームアップ。民家の庭を見上げるとノウゼンカズラが咲いていた。ノウゼンカズラは茎から気根を出して壁や塀を這うように生長していくつる植物である。このため庭に植えることを敬遠されている、 ①この気根が建物の外壁を傷めるのではないか。 ②生育旺盛で根を伸ばし株で生長する上に、こぼれ種からも発芽し植えた覚えがない所 からも増える。 END
2026.07.03
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今年の梅雨は近年になく雨の日が多く「梅雨の時期」を感じているが、年金生活のため傘をさしての通勤もなく、自宅で懐かしく思い出している。この日は午後雨が降っていなかったので、春先目を楽しませてくれた「小出川の河津桜会場」へアジサイを愛でに車で訪れた。6月29日(月) 14:00途中、烏が道路の水溜りで行水していた。小出川河津桜会場所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園127番春先に咲く河津桜を愛でに何度も訪れている場所である。桜の中にアジサイが植えられており今年は愛でに来たいと思っていた。この辺りの小出川の西側は市街化調整区域になっており、枝豆の直販もされている。梅雨の時期は雨に濡れるアジサイのイメージがある。訪れるのが少々遅かったか。この花をAIで検索すると「ウズアジサイやおたふくアジサイ」の可能性が高いと。後方には黄色いグラジオラスが咲いていた。以前はこのエリアには、ざる菊、コキアが植えられていたが草が生い茂っていた。その景観は、市民団体「花とともにくらす会」の活動によって支えられていたのだが会員不足なのであろう。ズームアップ河津桜も来年のために葉が生い茂っていた。アジサイに混じり黄色い花が咲いていた。同じようにAIで検索すると、ヘメロカリスの仲間でゼンテイカ (通称:ニッコウキスゲ) とでたが。ヘメロカリスであったか。アジサイは上流側の河津桜下に植えられているので西久保橋に向けて歩くことに。小出川の斜面には草が生い茂っていたが遊歩道は刈られていた。河津桜の木の間に植えられていたが、梅雨時は草が伸びるのが早い。梅雨時は除草作業も大変であるのだ。景観の維持は市民団体「花とともにくらす会」の活動もあるようだが、やはりボランティア活動も必須ではと。河津桜の下に咲くアジサイ。綺麗に見る為には下草の除草も必要である。アジサイも咲き終わると剪定作業が大変である。サクラの枝も伐採が必要なものもあったが。アジサイ(紫陽花)は、日本原産の落葉低木。日本原産のガクアジサイや西洋アジサイは品種改良が盛んで、毎年のように新品種が登場し、その数は数千品種に及びますと。ガクアジサイが西洋に渡り、品種改良を重ねられできたのが西洋アジサイ。アジサイは挿し木をすると繁殖しやすいので花名は?である。私は酸性土壌を好むブルー系が好みだが。カシワバアジサイカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)は、円錐形に伸びる花房と、柏の葉に似た大きな葉が特徴のアジサイで、北アメリカ東部が原産といわれている。アジサイの花が丸いのに対して、カシワバアジサイの花はピラミッド型をしており、カシワバアジサイといえば白いが赤みを帯びていた。花の色は咲き始めは、グリーンがかった色、そこから徐々に白に変化していく。また、花は散り始めには赤くなり、秋には葉が色づいて紅葉すると。カシワバアジサイの開花時期が終わった後も花がらを切らずにおくと、少しずつ変化する花の色味を楽しむこともできます。純白の花は徐々にピンク色に染まり、最終的にはくすんだ茶色のアンティークカラーになりますと。花柄をズームアップ。花札はなかったが左側のアジサイは「ウズアジサイ」であろう。ウズアジサイは最近はポップコーンという名前で再度注目されていると。また、花が丸いことから「オタフクアジサイ」「オカメアジサイ」、花の形状から、「バイカアジサイ」「カイザキアジサイ」とも呼ばれますと。ホンアジサイの変種で、江戸時代にウィルスに感染した病気のアジサイが固定されたとされる。ウィルスが遺伝子を壊してしまい、変異したものがコレで、それをそのまま固定したと。土壌のpHによって淡いピンク(中性〜弱アルカリ)から淡い青(酸性)に花いろが変わります。花びらが丸まり、変な雰囲気になっている。ボタンクサギ (牡丹臭木)中国南部原産で冬に葉を落とす落葉性の低木です。日本でも暖地や平地で野生化したものがよく見られます。花がきれいなので、庭木や鉢植えとして利用されます。草丈は1m~大きくなると2mほどになります。地下茎から芽を出して広い範囲に茂ります。花をズームアップ。梅雨時から夏にかけて、ピンク色の小花がボール状にまとまって咲きます。一輪咲き始めていた。花をズームアップ、4本の雄しべが突き出る。開花時のボタンクサギ(写真はネットから)。河津桜の幹に、「河津桜 花とともにくらす会」と。河津桜の木漏れ日の中に純白のアジサイが咲いていた。ズームアップ。植込みにこのような立札が・・・。カメラマンとしてのマナーは最低限守ってほしいものですネ!各地で私有地へ無断で入りトラブル発生(北海道美瑛等で)。草が刈り取られ杭が立ち並んでいた。何か植えられ添え木が立っていた。コキアの苗であった。14:30コキアの周りには雑草が押し迫っていた。秋の紅葉を楽しみたいがこれからの管理が大変だ。 ー 続く ー
2026.07.02
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今年も早半分が過ぎ時の流れの速さを痛感している。また、近年の空梅雨から毎日のように雨の日が続き久しぶりに梅雨を痛感している。引き続き、勝福寺から隣接する飯泉八幡神社へ。6月2日(火) 14:25仁王門の右側にあった石塔群。大きな石燈籠。最近の地震多発から先人の耐震対策は・・・。右後方の石碑には「奉納 修行大師御足下 西国坂東秩父 百霊場御土砂」と。苔むした石碑には、「弘法大師御修行之像 高僧弘法大師は□を空海と云う・・・(中略)・・・ ・・・(苔むして判読できなかった)・・・ 昭和四十八年癸・・・・・」と。これらの石塔も周辺から集められたのか説明板がなかったのか残念である。巨木の下に石塔群。石塔には「坂東五番 飯泉山勝福寺」と。また、石塔には字が刻まれていたが苔むして判読できなかった。この苔を落とす行為は禁じられているのか?。仁王門の左側から境内の大イチョウを見上げる。秋には黄葉が見事であろう。東司(とうす)の烏枢沙摩閣勝福寺と飯泉八幡神社との境にあるトイレ。壁面に「烏枢沙摩閣」、入口には「東司」と。禅寺における「東司」は 便所(雪隠)を指す言葉で、読み方は「とうす」。寺院の七堂伽藍の一つとして位置づけられ、便所の守護神である烏枢沙摩明王が祀られています。使用時の作法や唱える偈文などが細かく規定され、禅修行の場としても重要視されますと。八幡神社の境内。境内には、ケヤキ、ムクノキ、イチョウ、エノキなどの落葉高木を主に、クスノキ、カヤ、イヌマキなどの常緑の高木が生育し、お寺の森と神社の森が一体となっている。古木の下に「八幡神社」の看板。飯泉八幡神社所在地:神奈川県小田原市飯泉1164勝福寺境内に八幡社が残り、明治初期の廃仏毀釈令を無事に乗り切ってくれたと。神輿庫であったか。左側の木は”カヤ”であったか。巨木に囲まれた八幡神社。紙垂が巻かれたカヤノキ。樹齢は何年なのか大きなコブが。カヤ (榧) イチイ科分 布 本州 (宮城県以西) 、四国、九州用 途 庭□、材は桶・碁盤・種子は食用。大木になり幹周4~5mにもなる。 長命で□□□年以上の木も多い。幹 周 昭和46年□□□、平成3年3.80m 56年 と紙垂で隠れ・・・。大きな手水鉢が置かれていた。八幡神社 鎮座地 小田原市飯泉一一六四 主祭神 誉田別命 例祭日 十月第一日曜日 境内末社 稲荷社・天神社・神明社古来、茲(ここ)飯泉は、鎌倉街道・大山街道・足柄山道・箱根山道等々が交錯し、殊(こと)に鞠川(現在の酒匂川)の渡し場、隣接の坂東観音五番札所の宿場と共に交通の要衝であったが、同時に、洪水・地震・噴火に悩まされた住民は相謀り、永年の願望だった茲飯泉村に鎮守神を奉斎すべく、時の宗我播磨介広之(宗我都比古神社々主)に請願し、鎌倉八幡宮のご分霊を奉遷したのである。其の後逐次近郊の末社を整理集合して、郷社として天下泰平・五穀豊穣・安産・永世平和の守護神として崇尊され祀られてきた。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。拝殿大虹梁の木鼻。八幡神社の創建年代は不詳だが、龍の彫り物も。拝殿前から広い境内を見る。カヤノキであったか。カヤノキの葉をズームアップ。根元近くが太った奇怪なカヤノキである。社殿前の2本のカヤノキを見上げる境内の西側に境内末社の祠が並んでいたが説明板がなく不詳。境内末社の後方に鳥が、携帯電話で撮影 AIの回答は、「全身が白く、くちばしが一年中黒いのが特徴のコサギ」であると。例祭日には多くの露天商が出店し賑わうと。銅板?を巻かれた鳥居。境内の前を横切る県道711号線から鳥居を見る。玉垣のそれぞれに氏名が刻まれていた。14:35飯泉観音の縁日は、1月18日が初観音、8月9日・10日が四万八千日、12月17日・18日がだるま市で、いずれも市が立ち、多くの人で賑わうと。北の道祖神所在地:神奈川県小田原市飯泉522-4勝福寺の北側にあり、スマホの案内で民家の間を抜け道路脇にあった。Googleマップで見るとこの辺りには他にも多くの道祖神が点在しておりその一つである。北側を国道271号(小田原厚木道路)が走る。祠の前にはお供え物があり今だ地元の方に崇敬されているようだ。飯泉地区の北の守り神であると。石祠の中に双体道祖神があり大分磨耗していると。二つの五輪塔が置かれていた。弥勒院 (みろくいん)所在地:神奈川県小田原市飯泉1129-1次に訪れたのは勝福寺の東側に隣接してある当院。Googleマップに載っているが道路標識もなく案内板もなかったので通り過ぎ再度戻ってきた。ブロック塀で囲まれた広い敷地内の一角に鳥居と祠のみがあった。傍に説明板等がなく詳細は不詳。広い敷地の一角に建物があったが。南側の巡礼街道沿いに入口がある。かつてこの敷地に堂宇があったのか。巡礼街道弥勒院から国道255号の飯泉交差点から県道718号線(巡礼街道)を東へ走り帰路についた。JR東海道線の北側を走る直線道路である。巡礼街道は、国府津駅から下って森戸川を渡った富士見橋際交差点から飯泉観音の少し手前の飯泉交差点に至る2車線道路である。沿道には郊外型の大規模店舗が多い。熱海線(現在の東海道線)が国府津から小田原まで延伸される(1920年10月)以前は、国府津で下車した道了尊参りの講中が歩いて関本まで向かう経路にあたるため、巡礼街道、巡礼道と呼ばれていたと。以前から気になっていた街道名で今回のブログ作成でその由来を知った。15:15東華軒 ハローズ国府津店所在地:神奈川県小田原市国府津4丁目2朝、西湘バイパスを走っていてここ東華軒の弁当を買いたいと思い立ち寄った。JR国府津駅には外壁塗装?の足場が設けられていた。東華軒は明治21年(1888)7月1日構内で駅弁販売を開始(東海道本線初の駅弁とされる)。明治21年、竹の皮に包んだ握り飯から始まってから、100年余り、伝統の味を守りつつ、新しい味にも挑戦しつづけておりますと。この時間帯はほとんどの弁当が売り切れであった。残り少ない”焼き鯵寿司(540)”、”小鯵押寿司(1400)”を夕食用に購入した。帰宅後夕食の膳にこの二つの弁当が並んだのであった。懐かしい弁当で美味しかった。写真を撮り忘れアップできなかったのが残念である。この日の歩行数は、約8,000歩であった。 END
2026.07.01
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静かな飯泉山勝福寺 (通称 飯泉観音) の参拝を続ける。6月2日(火) 14:10大裏門前から「金堂(観音堂)」「力士雷電仇討相撲土俵跡」を見る。境内には大イチョウが聳える。昭和41年~43年に半解体修理が行われた、金堂(観音堂)。大裏門横に「飯泉観音大裏門再建記念碑」と刻まれた石碑。 字が刻まれていたようだが風化して判読できなかった。 裏面には、大裏門工事録 総本山東寺重文北総門拝模 総欅四脚門 切妻造 銅板葺 上棟 昭和六十三年三月十一日 竣工 昭和六十三年五月十五日 大裏門再建建設委員会 ・・・・・大裏門左側の通用門から県道711号線に出る。大裏門を入るとケヤキの下に三猿の庚申塔、地蔵像が立っていた。クスノキ (楠) クスノキ科分 布 本州(関東以西)・四国・九州用 途 公園樹・街路樹・建築・家具・樟脳大木になる、幹周15m~20mとなる。長寿である 樹齢1,000年以上にもなる。クスノキの下に多くの石塔が集められていた。中には「馬頭観世音」と刻まれたものも。中央には「妙法稲荷大□神 発願主 門松清六」と。碑は倒壊したのか補強部材が入り、また両側には「水」と刻まれた部材が。金堂裏の植込みに切断された巨木が積まれていた。勝福寺前の飯泉公民館に切り株があったがその部材であろうか。幹径は1メートル弱であったがこの後の用途は。金堂の北側へ回り込む。本坊側の竹林の中に石碑、祠があった。右側には「登山嶽 五十六・・・」、左には「□□□」とあったが判読できなかった。勝福寺観音講開講十周年記念之碑夫れ佛法遥かに非ず心中にして即ち近し眞如外に非ず身を棄てて何くんか求めん勝福寺観音講昭和六十一年四月五日開講して十年内に諸法皆空の真理を求め般若心経を紐ときさらに心経秘鍵を閲してその奥諭旨を探る外に四国八十八ヶ所霊場坂東秩父西国百観音霊場を巡り幾多の仏閣に参拝して佛道の休解に精進す又菩薩十善戒受戒を重ねて菩薩登地へ歩を進む菩薩十善戒とは不殺生不偸盗不邪淫不妄語不綺語不悪口不両舌不慳貪不瞋恚不邪見なりこれ菩薩の十波羅提木又なり敬心を以て奉持すべし衆生佛戒を受くれば即ち諸佛の位に入る位大覚に同じゅうし己わる真に是れ諸佛の子なりと迷悟我れに在れば発心すれば即ち到る明暗他に非ざれば信修すれば忽ちに證ず願くば本尊十一面観世音菩薩講員各位の大願を納受しすみやかに大覚位へ導き鳴らんことを 裏面には多くの人の名が「平成八年四月五日建之」と刻まれていた。金堂の東側。大イチョウが聳える境内である。二宮金次郎初発願之像、鐘楼。東側には小径を挟んで新しい本堂への四脚門が建っている。四国八十八ヶ所霊場の石塔が並んでいた。手前には「三十三番 雪蹊寺(せっけいじ)」と。当寺は高知市長浜にある。四国霊場は2回に分けて巡礼しており、平成30年(2018)3月27日(火)に参拝している。山門と築地塀で区画された本坊エリアで、正面奥に見えるのが新しい本堂である。山門は四脚門で扁額には「勝福寺」と。勝福寺本堂 唐破風の本堂で銅板葺きの屋根。本堂の扁額は「獅子窟」であったか。本坊庫裡配置図に「御朱印受付、お守り授与」とあった。本堂前から南門を望む。こちらにも”四国八十八ヶ所霊場”の石塔が並んでいた。本坊庫裡唐破風の門前には「坂東五番納経所」の看板。巡礼街道に面して建つ「南門」。南門から本堂を見る。本堂をズームアップ。参道の右側には梅園があった。檀家さんであったか梅の収穫に来ておられた。 台座には「八十八番 大窪寺」と。当寺は香川県さぬき市多和兼割にある。当寺は平成30年(2018)3月30日(金)に参拝し「結願」している。本坊庫裡南側の梅園入口に石碑が立っていたが。碑には「□□園」とピンボケで?。再度西側エリアへ戻る。右側には「二十九番 国分寺」と。当寺は高知県南国市国分にある。勝福寺の大イチョウイチョウの周りは保護柵で囲われていた。神奈川県 かながわの名木100選 昭和59年12月選定 勝福寺の大イチョウ 和名:イチョウ(イチョウ科)雄株で樹形の整った堂々たる巨木である。かつて乳イチョウと呼んで乳の出ない婦人が願をかけたと言われている。県の天然記念物に指定されている。 樹高 30メートル 胸高周囲 7.5メートル 樹齢 約700年(推定)イチョウは、中国原産の落葉高木で、その仲間は古生代から中世代にかけて栄え、日本にも化石が産出する。1科1属1種の雌雄異株の裸子植物である。樹高45メートル、胸高周囲14メートル、樹齢約2000年に達するものもあると言われている。飯泉観音 古代いちょう仁王門を見る。この日は参拝者が少なかった。大イチョウの下に青銅製の?像。14:25弘法大師像仁王門を入ると左側に立っておられる。飯泉山復興記念題字 総本山高野山金剛峰寺□主 大僧正 堀田真快□下奉納者 神尾□□工業株式会社 社長 神尾賢太郎 妻 シン制作者 日展参与 山畑阿利一 飯泉山 勝福寺法主 大僧正 峯堅雅 代 九十歳 昭和四十七年□□六月十五日建之 ー 続く ー
2026.06.30
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飯泉山 勝福寺(飯泉観音)小径を挟んだ左側の境内を最初に参拝した。6月2日(火) 13:55境内には苔むした多くの石碑が立っていた。この石碑は歌碑であったか。この石碑には、「鐘楼堂再建・諸堂復興落慶 開帳記念之碑」と。多くの石仏が並び「水向十三佛」と。また、十三佛の前には「奉納 南無大師遍照金剛 昭和五十五年四月吉日」と。石柱に「水向十三佛」と。後方は歌碑であったか、字は判読できなかった。水向十三佛の前には手酌があったが。新旧の「供養塔」が立ち、後方には「四国八十八ヶ所霊場」の石塔。左奥は「本堂への四脚門」。小径沿いに並ぶ「四国八十八ヶ所霊場」の石塔群を見る。金堂(観音堂)金堂(観音堂)前に「二宮金次郎 初発願の像」。二宮金次郎初発願之像報徳記ニ□リ彫塑家コレヲ制作ス篤志者アリテ飯泉山観音堂前ニコノ銅像ヲ□ズ尊徳先生一代ノ□業ハコノ初志二徹シ救世ノ大□願ヲ具現セルノミ 昭和四十三年十一月三日 文学博士 佐々井信太郎撰並題 九十四歳 六鶴玄和書二宮金次郎初発願之像台座が新しくなっていた。後方には仁王門。仁王門を入ると右側に、鐘楼、平成26年に建立された納経塔が建っている。鐘 楼梵鐘は太平洋戦争中も軍部への供出を免れたと。小田原市指定重要文化財 昭和三十九年五月ニ十七日指定 勝福寺の銅鐘この銅鐘は、青銅製の和鐘で銘文により、江戸時代初期の寛永六年(1629)に地元小田原の鋳物師である青木源右衛門が作ったことがわかります。また、この銅鐘の奉納者は、江戸の侍である佐須弥左衛門尉政重と記されています。小田原の鋳物業は、戦国時代に北条氏から庇護を受け、関東鋳物業の中心でありました。江戸時代になってからも鋳物は栄え、山田、長谷川、青木の緒家から名工が生まれ小田原の梵鐘として広く知られてきました。この銅鐘もその一つであり、市内に残る数少ない銅鐘の内でも、優れたものであります。 総高 一三九センチ 鐘身高 一○○センチ 口径 七十四センチ 竜頭高 二十八センチ 小田原市教育委員会金堂(観音堂)写真はネットから、対の石灯籠が奉納され芽吹き前のサルスベリ。芽吹いたサルスベリ。銅板葺きの手水舎。小田原市指定重要文化財 昭和三十九年五月ニ十七日指 勝福寺の青銅水鉢この水鉢は、青銅製で竜頭船の形をしています。船尾に十一面観音菩薩の坐像が一躯あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれています。銘文によれば、作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり江戸時代の宝永元年(1704)七月と記してあります。この水鉢は、水鉢として形などが珍しく、その造りも優れています。 全長 二七〇センチ 幅 五十五センチ 高さ 八十二センチ 小田原市教育委員会青銅製の水鉢今まで全国各地の寺社を参拝したがこのような水鉢は初の対面であった。重量の明記がなかったが。龍頭から水が出ていなかったが。船尾に十一面観音菩薩。金堂(観音堂)前に常香炉、閉まっていたが札所であったか。金堂(観音堂)入口、写真はネットから。提灯には「十一面観世音菩薩」と。老朽化から、昭和41年~43年に半解体修理が行われた。右側の木鼻左側の木鼻金堂の扁額「普門閣」。金堂内に入り内陣へは格子戸で仕切られていた。内陣は撮影禁止と。隅に「賓頭盧(びんずる)様」が置かれていた。 ・中国では像を食堂(じきどう)に安置して祀った。 ・日本ではこの像を堂の前に置き、撫でると除病の功徳があるとされ、なで仏の風習が 広がった。この像を「おびんづるさん (※上方では神仏も観音さん、えべっさんなど とさん付けで呼ばれる)」「おびんづるさま」と呼んで親しまれてきた。 ことに、東大寺大仏殿や善光寺にある像が著名である。賓頭盧(びんずる)様をズームアップ。金堂から境内の東側を見下ろす。同場所から境内の西側を見下ろす。海老虹梁に着色された彫物があった。神奈川県指定天然記念物 勝福寺と八幡神社境内の樹叢 昭和四十七年七月ニ十一日指定小田原市中央部の低地を流れる酒匂川の左岸約二〇〇メートルのところに飯泉山勝福寺があり、飯泉地区の鎮守である八幡神社がある。寺院と神社との間には境界はなく同一境内にあるような現況で、神仏習合時代の面影を今に残している。境内には、ケヤキ、ムクノキ、イチョウ、エノキなどの落葉高木を主に、クスノキ、カヤ、イヌマキなどの常緑の高木が生育し、お寺の森とお宮の森が一体となってみごとな樹叢ができている。「勝福寺の大イチョウ」(昭和三十二年天然記念物指定)を含むこの樹叢を保護するため、天然記念物として指定した。 小田原市教育委員会大日堂昭和四十三年(1968)に建立された比較的新しいお堂です、当初は仮本堂の位置づけだったと考えられています、東側と北側に向拝が付く変則的なお堂で本堂の左側手前に建つお堂になりますと。 正面東側に「大日如来」の扁額がかかり、大日向拝が付いている。左手が大日堂の向拝、右手は北向大師の向拝 。大日堂の北側には「北向大師」の扁額がかかり、北向大師の向拝が付いている。大日堂の北側に「身がわり観音」。金堂の左側に「力士雷電仇討相撲土俵跡」、後方には馬頭観音堂、大裏門。土俵傍の石碑に「力士雷電仇討相撲土俵跡」と。 刻まれた字は汚れて判読できなかったが、講談、浪曲に伝えられる寛政力士伝小田原の仇討相撲の土俵跡で、当時小田原城下では相撲興業はゆるされず当山の境内に土俵をかまえたと云う。力士雷電が宿泊した旅館菊屋は今も門前にその屋号をのこしている。天保10年の板番付は寺に、雷電が片手で持ち上げた碁盤は小田原市に保存されている。雷電の手型を刻んだ記念碑は昭和52年大相撲小田原興行を記念して建立された。我が手と雷電の手との差。馬頭観音堂馬頭観音堂の扁額「馬頭観世音」と。碑には「飯泉観音馬頭堂再建記念碑」と。奉納された多くの人の名、金額が刻まれていた。奉納金額は、五百弐拾萬円、百萬円、五拾萬円、多くの人が拾萬円、五萬円と。裏面には、飯泉観音 馬頭堂再建 工事録 承久三年、宇治川の合戦に足柄下郡の人、高田小次郎、飯田五郎の両人北條義時の軍に 従い上京の時、観音の霊夢から、宇治川の浅瀬を知り、先陣に成功す。その報賽のため、 鎌倉の仏工、安阿弥に、馬頭観音を造らせ、一堂宇を建立して之を奉安す。 これ飯泉観音、馬頭堂建立の初めなり。(相模国 飯泉志稿 乙巻上 要旨) ・・・・・ 上棟 平成六年六月八日 竣工 平成七年四月二十九日飯泉観音馬頭堂の北側から。14:10大裏門近隣の方が右側の通用門から出入りしておられた。 ー 続く ー
2026.06.29
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約2時間小田原フラワーガーデンの花々を愛で駐車場へ戻る。6月2日(火) 13:15正門入口のバラ園へ戻る。きらり 中輪房咲き系 (FL) 微香 2003年作出 作出国:日本 黄と赤の絞りからピンクとクリームの絞りに変化する品種。黄と赤の絞りからピンクとクリームの絞りに変化する。バラ園前のアルカディア広場。バリアフリー化されたバラ園。台風6号が来る前に楽しんだが通過後はどうなったか。管理棟の前にはキッチンカーが一台出店していた。案内板には「久野遺跡めぐりコース (古墳案内図)」。五百羅漢と古代人の暮らしに出会う小さな旅で、緑豊かな丘陵地を歩くコースである。所要時間は大雄山線五百羅漢駅からJR小田原駅までで、2時間5分/5.7km。バス運行時刻表13:25 駐車場は広く、平日でも多くの車が訪れていた。小田原フラワーガーデンのバラを愛でた後は帰路にある飯泉山勝福寺(通称 飯泉観音)へ立ち寄った。Googleマップで検索していて寺の存在を知った。13:45 飯泉山勝福寺(通称 飯泉観音)所在地:神奈川県小田原市飯泉1161小田原市中央部の地を流れる酒匂川の左岸約二〇〇メートルのところに飯泉山勝福寺があり、飯泉地区の鎮守である八幡神社がある。寺院と神社との間には境界はなく同一境内にあるような現況で、神仏習合時代の面影を今に残している。勝福寺仁王門仁王門前に広い駐車場があった。駐車場脇に立っていた忠魂碑。石碑には「忠魂碑」と。境内には、ケヤキ、ムクノキ、イチョウ、エノキなどの落葉高木を主に、クスノキ、カヤ、イヌマキなどの常緑の高木が生育し、お寺の森と神社の森が一体となっている。駐車場脇にバス停「飯泉観音」。最近バス停横に公衆電話を見かけるが携帯電話の時代使用する人はいるのかと。駐車場の向かい側に飯泉公民館があり高木が聳えていた。公民館の前にも広いスペースがあった「関係者以外は駐車禁止」とあった。入口の看板には「飯泉公民館」「集う」とあった。また「この地域の海抜 13.5m」と。表門 (飯泉) の道祖神飯泉公民館の駐車場の一角にある双体道祖神。10基ある市指定有形民俗文化財の道祖神の内の一つであると。この前の道をGoogleマップでは「巡礼街道」とあったが。熱海線(現在の東海道線)が国府津から小田原まで延伸される(1920年10月)以前は、国府津で下車した道了尊参りの講中が歩いて関本まで向かう経路にあたるため、富士道のことも巡礼街道、巡礼道と呼んでいたと。浮彫双体像変形(飯泉)(左側)。右側にも字が刻まれていたが。また左側には破損した道祖神があった。道祖神脇に稲荷社があったが説明板がなく詳細は不明。立札には「駐輪禁止」と。飯泉公民館前に巨木の切り株があった。強風による倒木が多発しているので事前の伐採であろうか。小径を挟んで右側に「本堂・本坊庫裡」がある。切り株の年輪を見たが。勝福寺仁王門寺号標石には、「坂東五番 飯泉山勝福寺」。小田原市指定重要文化財(昭和六三年一一月一日指定) 勝福寺の仁王門 (所在地) 小田原市飯泉一一六一飯泉山勝福寺は、真言宗東寺派に属し、通称飯泉観音と呼ばれ、坂東三十三観音の第五番札所として有名です。本堂や本尊の十一面観音は、県の重要文化財に指定されるなど、由緒ある寺院です。仁王門は『飯泉誌』によると宝暦八年(1758)に造営されたもので、全体に木割が太く、二重虹梁蟇股式の妻架構が堂々とした外観を構成しています。また、八脚門としては県下でも最大級で、格調の高い門です。この仁王門も老朽化のため、昭和三四年から三八年までにかけ解体修理され、屋根も、茅葺から銅板葺に改変されましたが、それ以外は貫などに新材で補修した箇所があるものの、原形をよく留めています。 小田原市教育委員会飯泉山 勝福寺(飯泉観音)飯泉山勝福寺(通称 飯泉観音)飯泉山勝福寺は、真言宗東寺派に属し、十一面観音を本尊とする。創立は、奈良時代の頃で、弓削道鏡が流されて下野に赴くとき、千代の里(小田原)に寺を建立し、孝謙天皇より賜った唐国伝来の観音像を安置したのに始まると伝えられる(千葉山弓削寺)。後に寺が焼けて当地に移され、飯泉山勝福寺と称した。坂東33観音の5番札所としても有名で、国府津の親木橋から当寺までの道路は巡礼街道と呼ばれている。棟札によれば、現在の本堂は宝永3年(1706)に再建されたもので、江戸初期頃の古式をとどめた地方色豊かな建物である。本寺にまつわる伝承として、曽我兄弟が仇討祈願のために日参し、五郎が百人力、十郎が十人力を授かり、富士の裾野で仇討ちに成功したことや、講談で有名な雷電為右衛門が、田舎相撲の大岩大五郎を倒したことがある。また、二宮尊徳が少年時代の頃、旅僧から観音経を聞き、一念発起した地であるといわれている。飯泉観音の縁日は、1月18日が初観音、8月9日・10日が四万八千日、12月17日・18日がだるま市で、いずれも市が立ち、多くの人で賑わう。勝福寺に係る指定文化財等 ・本堂・神奈川県指定重要文化財 (昭和32年) ・十一面観音立像・神奈川県指定重要文化財 (昭和32年) ・銅鐘・小田原市指定重要文化財 (昭和39年) ・青銅水鉢・小田原市指定重要文化財 (昭和39年) ・仁王門・小田原市指定重要文化財 (昭和63年) ・大イチョウ・神奈川県指定天然記念物 (昭和32年) ・大イチョウ・かながわの名木100選 (昭和59年) ・樹叢・神奈川県指定天然記念物 (昭和32年) ・だるま市・かながわのまつり50選 (昭和57年)、小田原50選 (平成2年)仁王門前に立つ石碑は歌碑であったか。石柱には「□□□□□□」と。小田原市指定重要文化財の「仁王門」。仁王門の扁額「飯泉山」。歴史を感じさせる多くの千社札が貼れていた。仁王門から金堂(観音堂)を見る。仁王門の右側に「阿形像」。ズームアップ。左側の「吽形像」。ズームアップ。仁王門横から境内に聳える大イチョウを見上げる。境内に聳える「かながわの名木100選 ”勝福寺の大イチョウ"」。仁王門右側の玉垣には「普門講」と。仁門を入ると右側の植込みに奉納碑があり「金六百圓」と。石碑には、「飯泉観音 新四国八十八ヶ所霊場 四国八十八ヶ所は弘法大師が開かれた遍路修業の霊場です。当山の境内には遠く四國 の各霊場よりいただいたお砂をお納めした新四國霊場がおまつりしてあります。 ご来詣の皆様にはこの新四国八十八ヶ所をご順拝されてお大師様の御加護を受けられ ますようご案内申上げます 南無大師遍照金剛」と植込みの後ろに「一番 霊山寺」と刻まれた石塔。石塔が立ち並んでおり台座に「四国八十八ヶ所霊場」の霊場名が刻まれていた。右から「四番 大日寺」「五番 地蔵寺」「六番 安楽寺」と。小径を挟んだ土塀の中には勝福寺の「本堂・本坊庫裡」がある。こちら側にも「四国八十八ヶ所霊場」の石塔が立っていた。13:55小径から「四国八十八ヶ所霊場」の石塔をみる、それぞれの台座に霊場名が刻まれていた。 ー 続く ー
2026.06.28
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渓流の梅園からハナショウブ池へ。6月2日(火) 12:40ハナショウブ池渓流の梅園からの水が溜まるハナショウブ池である。恐らく池の水をポンプアップして上流の滝へ戻すのであろう。ハナショウブ池にはスイレンが生い茂り、水際にはハナショウブが咲いていた。ハナショウブ池の南側。台風6号が来る前日であったが風もなく穏やかな天気であった。水面は波もなく水鏡に。紅白のスイレンが咲いていた。白のスイレンが咲いていた。池の傍にベンチがあったので買ってきたおにぎりを取り出し花を見ながらの食事タイム。水面は波もなく水鏡に。ハナショウブ池の周りにも多くの梅が植えられていた。遊歩道には犬を連れた人も散策していた。ハナショウブは、初夏になると青紫色や白、ピンクなどさまざまな花を咲かせ、花菖蒲園や庭園の水辺を彩る。現在見られるハナショウブの多くは、原種であるノハナショウブをもとに改良された園芸品種。特に江戸時代には盛んに育種が行われ、多彩な花色や花形が生み出された。ハナショウブの名の由来は、漢字で「花菖蒲」と書き、葉の形がショウブに似ていることから名付けられたと。スイレンが生い茂り赤のスイレンが咲いていた。ハナショウブ池では、ハナショウブとスイレンの競演。小田原フラワーガーデンの東側に「県立おだわら諏訪の原公園」があるので進む。連絡通路に立っていた看板類。徒歩約30分「全長169m!ロングローラーすべり台」。諏訪の原公園への連絡通路から足柄平野を見下ろす。案内表示に「多目的広場すべり台 ⇨」 「⇦ 空中歩道~陽だまりの丘」。雨雲がかかった大山。小田原フラワーガーデンの東側に「県立おだわら諏訪の原公園」があり案内板が立っていた。県立おだわら諏訪の原公園 総合案内図全体計画約65ヘクタールの開園を目指して整備が進められていて、現在は約5.4ヘクタールの区域が開園しています。丹沢の山並みを背景に足柄平野が一望できる「展望広場」、開放感あふれる芝生の「多目的広場」、太陽光発電や屋上緑化・雨水の再利用システムを取入れた環境共生型の「パークセンター」などがあります。ローラーすべり台 全長169mのなが~いすべり台です。陽だまりの丘の斜面に設置されたすべり台は最高 の眺めを楽しみながら一気に滑り降ります。スローデッキ 足柄平野と丹沢山脈を一望しながら空中散歩を味わえるデッキです。 デッキの途中には季節ごとの見どころをお知らせする解説パネルがあり公園の四季が楽 しめます。陽だまりの丘 なだらかで日当たりの良い地形を活かした広場です。ピクニック、散策、手軽なスポー ツなどを楽しむのに適しています。県立おだわら諏訪の原公園駐車場利用時間 8:30~18:00(3月~11月) 17:30(12月~2月) ※時間外は施錠しますので注意してください案内板諏訪の原公園入口ローラーすべり台まで行こうとしたが「ここから約5分!」とあったので、今回はここで引き返すことにした。掲示板には「県立おだわら諏訪の原公園」と「小田原フラワーガーデン」の案内。足柄平野と丹沢山脈を一望できるスポットである。小田原フラワーガーデンの入口へ戻る。掲示板に貼られていた「神秘の華 ヒスイカズラ」。トロピカルドーム温室内にて開花 3月上旬 ~ 4月下旬ハナショウブ池自分が昼食を取ったベンチには他のご夫婦が。満開のハナショウブ梅の木の下は下草が刈られ散策しやすい状態に整備。ハナショウブ池にはスイレンが多く咲いていた。黄色のハナショウブとスイレンの競演。スイレンをズームアップ。蓮(ハス)と睡蓮(スイレン)の違いは、 ・科の違い:蓮はハス科に属し、睡蓮はスイレン科に属する。 ・花の特徴:蓮の花は水面から高く立ち上がり、睡蓮の花は水面に浮かんでいる。 ・根の構造:睡蓮は塊根を持ち、地下茎が地面に埋もれているが、蓮は地下茎が太くなっ たものが蓮根(れんこん)である。 ・開花時間: 睡蓮は日中に咲き、夜には閉じる特徴があるが、蓮は昼夜を問わず咲くこ とができる。 ・花 の 色 : 睡蓮は紫、青、白、ピンク、オレンジ、赤、黄など多様な色があるが、蓮は 主に赤や白の花を持っている。我が家でもメダカを飼う水鉢でスイレンが咲いたが夜は閉じ二日は咲いたか。黄色のスイレンをズームアップ。スイレンの花は水面に浮かんでいるがハスの花は水面から高く立ち上がる。赤いスイレンも彩る。スイレンがハナショウブ池を覆う。ハナショウブをズームアップ。ハナショウブ池の南側から池の全景を見る。梅の開花時も絶景では。水辺に咲くハナショウブ。スイレンも彩る。白のスイレンをズームアップ。南側の水辺。池の周りはバリアフリー化されているので車椅子でも散策できる。池とのコラボもあるので梅の開花期にも来てみたいものだが。絵になる光景と思うが絵を描く人は見かけなかった。ウメ (緋梅性) バラ科’鹿児島紅(かごしまべに)’濃紅色の中輪で花弁に波がないので平たく見える。しべの数も多く色も花色に似て濃い紅色をしている。 濃紅色/八重咲きウメ (難波性) バラ科’浮牡丹(うきぼたん)’花は、淡紅色で中輪の八重咲。満開をすぎると少し色があせる。弁先は小さく波を打って、弁裏はやや濃い。七分から八分咲きが見ごたえがある。 淡紅色/八重咲きウメ (野梅性) バラ科’淡路(あわじ)’花は中輪で、色は淡紅色であり、絞りも見られ花形もよい。開花時期が早い。 淡紅色/八重咲きいろんな種類の梅が植えられていた。13:15 入口に「花菖蒲・睡蓮」の看板が立っていた。 ー 続く ー
2026.06.27
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バラ園から小田原フラワーガーデンの北側にある「渓流の梅園」へ。6月2日(火) 12:25渓流の梅園にはアジサイの小道があり、梅・アジサイ・ハナショウブが植えられていた。春先には梅が咲き誇ったのであろう小道の両脇にはアガパンサスが花芽を出していた。新緑が目に沁みる空間であった。渓流の梅園には小川が流れハナショウブが植えられている。アガパンサス ユリ科耐寒性の多年草。花壇や切り花用として多くの園芸品種が栽培されており、淡□、濃□、淡青、白色や八重咲きなどがある。花:6月 ~ 7月アガパンサスの群生アガパンサスはさわやかな涼感のある花を多数咲かせ、立ち姿が優雅で美しく、厚みのある革質の葉が茂る様子には力強さも感じられます。南アフリカに10~20種ほどの原種が自生し、交配などにより300以上の園芸品種が育成されていますと。※科名:ネギ科、ユリ科、 ムラサキクンシラン科で分類される場合もある。アジサイの小道にはガクアジサイが咲いていた。ガクアジサイは、アジサイ科アジサイ属の落葉低木で、伊豆半島や房総半島、和歌山や高知の海岸沿いに自生する日本原産のアジサイである。ガクアジサイの花は、小さな点々のような花が中心に集まり、その周りをガクが変化した装飾花が額縁のように囲んでいるのが特徴です。小さな花をガクが額縁のように囲んで咲く姿から、ガクアジサイと名付けられたといわれています。ガクアジサイの花は、小さな点々のような花が中心に集まっている。梅園の中には一部ウッドデッキが設けられていた。周りは梅の木。ウッドデッキ沿いにハナショウブが植えられていた。ノハナショウブは園芸品種であるハナショウブ(花菖蒲)の原種である。いろんな色のハナショウブが植えられていたがネームプレートはなかった。花に黄色いすじがある。菖蒲園は除草され手入れが行き届いていた。ウッドデッキから見下ろす。ハナショウブも咲き終わった後の花柄摘みが大変であるが。ハナショウブは6月頃に花を咲かせ、花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数ある。ズームアップ。いろんな色の花があるので見飽きない。気に入った色をズームアップ。梅の木の間にハナショウブが咲いている。梅の実もたわわに付いていたが収穫は。ズームアップ。小川沿いに梅、ハナショウブ、シモツケが植えられていた。梅の木にはネームプレートが付けられていた。ウメ (緋梅性) バラ科 アンズ属’紅千鳥(べにちどり)’花は本紅色の中輪、しべまで紅色をして端正な花形をしているが、雄しべの先に旗弁がでる。これを千鳥にたとえてこの名が付いたものと思われる。 本紅色/一重咲き水辺に咲くハナショウブ。水面には水草も。絵になる光景である。シモツケ名は下野の国に由来・・・ 日本 ~ 東アジアシモツケシモツケは、日本・中国・朝鮮半島が原産地のバラ科の落葉低木。日本では北海道~九州にかけての山地に自生しています。春に芽吹き、夏に花が咲き、秋には紅葉と長い期間楽しむことができますと。葉は互生し、枝先に復散房形花序に多数の花を付ける。渓流の梅園は除草され奇麗に整備されていた。小川沿いに咲くハナショウブも奇麗に咲き。小道もバリアフリー化されていた。園内の公衆トイレ。後方にはビランジュが聳える。ビランジュ別名:博打木(バクチノキ) ハダカノキ樹皮がうろこ状にはがれる日本 済州島樹皮は、灰褐色で、成長とともにうろこ状になって自然に剥がれ、そのあとの幹の肌は紅黄色(こうおうしょく)となって独特な色彩になりる。12:40 ビランジュの葉 ー 続く ー
2026.06.26
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トロピカルドーム温室から出てバラ園へ。6月2日(火) 12:00一段高いところにバラ園が設けられていた。小田原フラワーガーデン 2025年春バラ人気投票結果昨年の春のローズフェスタ期間中、ご来園のお客様による人気投票を行いました。2025年は「カフェラテ」が見事1位に輝きました。また、フラワーショップ PICCOLO では園内植栽品種などを含めたバラ苗を販売しています。この機会に ご自宅でバラを育ててみませんか。 第1位 カフェラテ 第4位 シャルルドゥゴール 第2位 ブルームーン 第5位 チャイコフスキー 第3位 デスティニィ人気投票上位のバラの場所今年も春バラの人気投票を行っています!バラ園の160品種の中からお気に入りを選んでください!バラ園には160品種のバラが植えられており、満開でバラのいい香りがしていた。台風が来る前でグッドタイミングであった。ブルー・ライト 四季咲大輪系 (HT) 強香 1995年作出 作出国:日本 1994年JRC金賞「香りの大賞」受賞。ブルー・ライトブルー・ライトは四季咲きで秋にも目を楽しませてくれる。マイダス タッチ 四季咲大輪系 (HT) 微香 1994年作出 作出国:アメリカ 触れるものを全て金に変えたというマイダス王に因んだ花名。バラの根元にそれぞれネームプレートがあり助かる。マイダス王は、触れたものを黄金に変える能力で知られる古代フリギア(現在のトルコ中西部)の王であり、ギリシャ神話の重要な人物である。黄色が鮮やかなマイダスタッチ。バラ園には新しいバラ棚が設けられていた。満開に咲き誇る各種バラ。品種のネームプレートを撮影しなかったのでバラ名は不明。休憩用のベンチも設けられていた。バラの香りが漂うベンチに座り色とりどりのバラを愛でた。コンビニで購入したおにぎりを食べようかと思ったが。カンデラブラ 四季咲大輪系 (HT) 微香 1999年作出 作出国:アメリカ ろうそくに火が灯った「燭台(しょくだい)」のようなオレンジ色の品種。カンデラブラオレンジ色が鮮やかである。ピンク パーサー 四季咲大輪系 (HT) 微香 1981年作出 作出国:フランス 1981年バーグ国際コンクール金賞受賞。ピンク パーサーズームアップ。小田原フラワーガーデン 2025年 春バラ 人気投票 「第2位 ブルームーン」ブルー ムーン 四季咲大輪系 (HT) 強香 1964年作出 作出国:ドイツ 藤色と香りが豊かな永年の銘花。昨年度人気2位のブルー ムーン。香りが強く、藤色の花が映える。ブルー ムーンの花びらには傷が発生。小田原フラワーガーデン 2025年 春バラ 人気投票 「第3位 デスティニィ」デスティニィ 中輪房咲き系 (FL) 微香 1989年作出 作出国:フランス 「運命」という意味の花名。昨年度人気3位のデスティニィ。既に花柄もありこれからの剪定作業が大変になる。クレマチスが咲いていた。これは鉄線であったか。鉄線はクレマチス属の特定の品種であり、クレマチスはその属全体を指す総称であると。分類と名称の違い 鉄線は中国原産の「鉄線蓮(てっせんれん)」に由来する和名で、丈夫なツルを持つこと から名付けられました。一方、クレマチスはヨーロッパ原産を含むキンポウゲ科のツル 植物全般を指す学術的名称です。つまり、鉄線はクレマチスの中の特定の品種にあたり ますが、日本ではしばしばクレマチス全般を指して「鉄線」と呼ぶこともありますと。花の特徴 ・鉄 線:花弁は6枚で中央が黒紫色、比較的小型でシンプルな形。白や紫色の花が多く、 和風の庭にも合いやすい。 ・クレマチス:園芸品種が豊富で、八重咲き、大輪、ベル型など多彩な形状。花色も白・ ピンク・紫・青・黄色など幅広く、華やかさが特徴。(ネット情報)いろんな色のバラが目を癒してくれる。四季咲きも多いので秋にも「秋バラ」で無料開放されるのか。バルカロール 四季咲大輪系 (HT) 微香 1989年作出 作出国:ドイツ 「ゴンドラの舟歌」に因んだ黒バラ。かつてはこのような濃い赤いバラが多かったが。鮮やかな好きな色のバラである。ズームアップ。バラの根元に「第1位」とあった。小田原フラワーガーデン 2025年 春バラ 人気投票 「第1位 カフェラテ」昨年度人気ナンバーワンのカフェラテ。カフェラテ 四季咲大輪系 (HT) 中香 2005年作出 作出国:オランダ バラは鉢植え向き、地植え向き、切り花で楽しめると。深みを帯びたカフェラテのような花色は、シックで大人の魅力をかもし出します。開花時の花形も、花色に合ったクラシカルな雰囲気です。独特のスパイシーな香りがあります。切花でも人気の品種ですと。余談だが、カフェオレとの違いは、カフェラテ(caffellatte)は、イタリア生まれの飲み物。ドリップコーヒーではなく、「エスプレッソ」にホットミルクを混ぜて作られている。因みに、カフェオレ(牛乳入りという意味)はフランス生まれで、ドリップコーヒーにホットミルクを混ぜて作られていると。バラ園前のアルカディア広場。バラ棚が奇麗に作られている。ライトアップも見ごたえがある構造であるのでは。何をイメージしているのか。小田原フラワーガーデン入口方向にもバラ園。左奥にはトロピカルドーム温室。12:25四季咲きが多いので花後の剪定作業が大変である。 ー 続く ー
2026.06.25
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トロピカルドーム温室の散策を続ける。6月2日(火) 11:40アリアケカズラキョウチクトウ科日本の沖縄でもフェンスや屋根にからませて咲かせている。果実はハリセンボンのようにトゲトゲしている。★ 採取地(生息地) ブラジル黄色が目立つ花である。果実がハリセンボンのようにトゲトゲしているとは想像できないが。ヘリコニア プシッタコルムバショウ科ヘリコニアの仲間では中型で、花も小型。花と「苞(ほう)」の形と色合いから、別名「オウムバナ」と呼ばれる。★ 採取地(生息地) ベネズエラ残念ながらこの花は咲いていなかった。ヘリコニア ロストラータバショウ科 ヘリコニア属 ヘリコニアの仲間では最大級。赤、黄、緑とカラフルな苞が魅力です。原産地:熱帯アメリカ・太平洋諸島また、ボリビアの国花である。苞がカラフルな「ヘリコニア ロストラータ」。ズームアップ。ヘリコニア・ロストラータのいろいろな呼び名「くちばし (ロストラータ) 」の意味を名前に持つヘリコニア・ロストラータですが、その特徴から多彩な呼び名がつけられています。英名では、花序が下垂性(ぶらさがっているよう)なことから、ハンギング・ヘリコニア(Hanging Heliconia)。また、苞がロブスターの鋏(はさみ)の形に見えることから、ロブスター・クロ―(Lobster claws):海ザリガニの爪などとも呼ばれています。花序 (かじょ)、苞 (ほう) をズームアップ。水鉢にヒスイカズラの散った花が生けられていた。通路脇の左に「ホワイトキャット」、右に「ブラックキャット」が植えられていた。ホワイトキャットヤマノイモ科採取地:東南アジアブラックキャットと形態の似る苞葉が白い原種。日本では流通が少なく、珍しい。ホワイトキャットは7〜9月にかけて開花し、日本では流通が少なく珍しい品種という。未発達な花茎が長く伸びた髭に見え、葉が変形した「苞(ほう)」と呼ばれる部分が白い耳に見えるとして、「ホワイトキャット」と呼ばれている。ズームアップ。葉が変形した「苞」と呼ばれる部分が白い耳に見えるとしてホワイトキャットの名が。ホワイトキャットの蕾。上から垂れ下がるヒスイカズラを見上げる。温室内のステージに上がりヒスイカズラを見下ろす。トロピカルドーム温室は、小田原市環境事業センター(ゴミ焼却施設)の余熱を利用し温室を22度に保つ直径40m、高さ22mのドームである。パキスタキス・ルテアキツネノマゴ科採取地:南アメリカ茎の先から伸びる苞の間から小さな白い花を咲かせる。花は短命だが、鮮やかな黄色い苞は長期間残る。温室内の通路脇に咲くパキスタキス・ルテア。苞の間から小さな白い花を咲かせる珍しいパキスタキス・ルテアである。通路に「⇧ 上を見あげてね ヒスイカズラ開花中!」と。見上げると天井から青緑色の花が垂れ下がっていた。翡翠葛(ヒスイカズラ)ヒスイカズラは、宝石の「翡翠」のような青緑色をした美しい花です。このような翡翠色をした花は、世界でもこの「ヒスイカズラ」と「ラケナリア・ヴィリディフロラ」という植物の2種しかありません。とても珍しい色をした、神秘の花です。「翡翠(ヒスイ)とは」翡翠は新緑の半透明な宝石の一つです。日本を含む東洋の国々や中南米では、古くから金や他の宝石以上に珍重されていました。東洋や中南米の国では、翡翠をつないだ衣で王族の遺体を覆ったという記録もあるようです。古来の日本では、祭祀・呪術に用いられたり、装身具や勾玉などに加工されていました。なお「翡翠」と書いて「カワセミ」とも読みます。カワセミの背中に生えている羽の色が、青緑色(翡翠色)であることからだと言われています。この美しい羽色から、カワセミは「渓流の宝石」と呼ばれています。下から見ると大きなバナナのようにも見えるが。重量がどのくらいあるのか気になるが、花を支えるツルも丈夫だ!ビカクシダウラボシ科着生シダ。前面に伸び出ている葉をオオジカ(麋)の角に例えた。茶色くなった葉は水を貯めるスポンジの役割。★ 採取地(生息地) マレーシア下方向に伸び出ている葉をオオジカ(麋)の角に例えた。茶色くなった葉は水を貯めるスポンジの役割をしている。植物園だけにネームプレートがあった。ヘリコニア・ロストラータバショウ科ヘリコニア属ペルーから アルゼンチンなどの熱帯アメリカに自生している。名前の由来「ヘリコニア」とは、ギリシャ神話の女神 Musa(ムーサ)が住んでいる、ヘリコン山にちなんだ名前と言われている。「ロストラータ」とは、「クチバシ状の」という意味である。ヘリコニア・ロストラータ花は黄色(丸記し)のとがった部分である。本当の花はどこ?クチバシに似ている赤と黄色の部分は「苞 (ほう)」と呼ばれており、本当の花は、その先っぽから出ている黄色いとがった部分だ。花からは、あまい□が出ているので、行列ができるほど、アリに大人気である。オウギバショウの根元であったか。再度ステージに上がりドームを見上げる。ところ狭しといろんな熱帯植物が植えられている。ヒスイカズラのツルが覆う四阿を見下ろす。パパイアパパイヤ科パパイヤ属採取地:熱帯アメリカなど日本には明治時代に導入され、沖縄や南九州、小笠原諸島などで、栽培されるようになった。別名「乳瓜(ちちうり)」。大きなパパイヤがたわわに成長していた。黄色のなると収穫するのであろうか。大きさはバレーボールより小さかった。12:00フラワーショップ館内にあり、ドライフラワー、手作りの手提げ袋等が販売されていた。 ー 続く ー
2026.06.24
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小田原フラワーガーデンの散策を始める。6月2日(火) 11:15駐車場脇のバラ園から”管理棟&トロピカルドーム温室”を望む。当園メイン施設であるトロピカルドーム温室は、小田原市環境事業センター(ゴミ焼却施設)の余熱を利用している直径40メートル、高さ22メートルの温室です。中には約300種の熱帯・亜熱帯の花木、果樹を植栽しており、南国ムードを楽しめます。また、3月~5月に開花する宝石の翡翠のような美しい華の「ヒスイカズラ」は一見の価値があります。バラの品種は「チャールストン」。バラの根元にさされていたネームプレート。サンライト ロマンチカ 中輪房咲き系 (FL) 強香 2005年作出 作出国:フランス 光輝くような黄色の花色と強香が特徴サンライト ロマンチカ強香だけに花壇の周りではバラの香りが。ネームプレートがあると紹介しやすい。レオニダス 中輪房咲き系 (FL) 微香 1995年作出 作出国:フランス ベルギーのチョコレート会社に因んだ花名。レオニダスレオニダス (Leonidas) は、丸弁の高芯咲きで花径は11cm前後の大輪サイズです。Meilland 社が作出したハイブリッドティー系統で、通好みの個性的な花色であると。レオニダスの花色は、高温期になるとともに朱色に変化。寒冷期の花色は、チョコレート色でシックな雰囲気のバラであると。マチルダ 中輪房咲き系 (FL) 微香 1988年作出 作出国:フランス 1987年パガテル国際コンクール、他4つのコンクールで金賞受賞。薄いピンク色で周りのバラを引き立たせていた。金賞を受賞しているだけに存在感があった。こちらの花壇にもピンク系のバラが咲き乱れていた。回り込み、バラの間にネームプレートがあった。ボニカ 中輪房咲き系 (FL) 微香 1982年作出 作出国:フランス 2003年世界バラ会連合殿堂入り。障害者用の駐車エリア近くにあるバラ園。車を降りたとたんにバラの香りが鼻をつくのでは。小田原フラワーガーデン 総合案内図花とみどりのオアシスへようこそ!小田原フラワーガーデンは、四季を通じて花が楽しめる植物公園です。「花と緑の生活文化の創造をテーマに、「豊かなライフスタイルを築く”楽園”づくり」を目指して1995年にオープンしました。 ■主要施設概要 敷地面積 42,188㎡ 管理棟(延べ床面積) 1,377㎡ トロピカルドーム 1,265㎡ [1階 管理事務所、エントランスホール、展示室、フラワーショップ、カフェ・ ハイビスカス、休憩室 2階 視聴覚室、研修室、休憩室]当園メイン施設であるトロピカルドーム温室は、隣接する小田原市環境事業センター(ゴミ焼却施設)の余熱を利用している。小田原フラワーガーデン お花の開花リレー 屋外施設 四季折々にいろんな花が咲き乱れているようだ。 トロピカルドーム温室 ブーゲンビリア、ハイビスカスは年間を通じて咲いている。管理棟前では花の苗が販売されていた。右側に「カフェ・ハイビスカス」があったが、営業日は、土日祝日のみで休日。管理棟内に入り、当園メイン施設であるトロピカルドーム温室は、隣接するゴミ焼却施設の余熱を利用している直径40メートル、高さ22メートルの温室です。中には約300種の熱帯・亜熱帯の花木、果樹を植栽しており、南国ムードを楽しめます。また、3月~5月に開花する宝石の翡翠のような美しい華の「ヒスイカズラ」は一見の価値がありますと。トロピカルドーム温室券売所の左側に展示室がありパネル写真があった。小田原フラワーガーデンみんなでつくる展示会関東屈指の美しさを誇る、小田原フラワーガーデンのヒスイカズラ。お客様の撮影による応募作品を一挙に集め、コンテストを開催しました。ご来園の皆様の投票をもとに、各賞を決定します。ぜひお気に入りの1枚を見つけて下さい。 ※1人1票 第13回 ヒスイカズラフォトコンテスト作品展示 5/30(土)~6/21(日)応募作品が展示されていた。ヒスイカズラは初めて見る花であった。トロピカルドーム温室 見頃の花左から、 ・黒猫のような不思議な花 ブラックキャット(タッカ・シャントリエリ) ・神秘の宝華 ヒスイカズラ ・まるで赤いヒスイカズラ?! ツンベルギア マイソレンシスどれも珍しく見たことがない花である。水鉢には花が摘みとられて。トロピカルドーム温室券売所。トロピカルドーム入園料金個人一般 200円入園料金200円を用意したが、「65歳以上の方は無料です」とのことで免許証を提示し無料で入ることができた。訪れる人はほとんどの方が65歳以上では。小田原市は小田原競輪があり財政が豊かであるのか。温室入口に「トロピカルドーム温室 本日のオススメ紹介」。15品種の花が紹介されていた。有料施設 トロピカルドーム温室メイン施設である「トロピカルドーム」は、小田原市環境事業センターゴミ焼却施設の余熱を利用し、温室を22度に保っています。直径40m、高さ22mのドーム内には約300種類の熱帯、亜熱帯花木、果樹を植栽しており、南国ムードを楽しめます。アロハ・ワッドのトロピカルドームへようこそ私はアロハ・ワッド。世界を旅する植物学者です。生物科学の神秘に魅せられ、日夜研究を続けています。この温室には植物採集の旅の途中、熱帯の国々で出会った魅力的な植物を集めました。ワードラー氏の温室庭園を彩る貴重な素材として、また日々の研究の興味深い対象として、冒険の末に収集した私の愛しいコレクションをぜひご覧ください。私のガーデンを訪ねてくださった皆様へは特別に、研究日誌の一部を公開しています。さあ、みなさんも想像力の扉を開き、私の旅と冒険を共有しませんか?アロア・ワッド (Aroa Wad)出身 オーストラリア マンリー市幼少期に両親の仕事でイギリスに渡る。名門大学で生物科学を専攻し、抜群の成績で卒業。研究者として大学に残るよう求められたが、机上の研究よりもフィールドワークを好み、新しい植物との出会いを求めて世界中を旅している。彼女のスポンサーであるワードラー氏(Mr.Wadoara)の広大な庭園を美しく管理する。優秀なガーデナーでもある。水槽には熱帯魚が入っていたが。背の高い植物を探してみよう!何処の温室もところ狭しと多くの植物が植えられている。下には、世界三大花木:カエンボク(火焔木) 世界三大花木:ジャカランダ・ミモシフォリア世界三大花木:ホウオウボク(鳳凰木) パンノキ高さ22mのドームを見上げるゲンペイクサギ広義のシソ科 クマツヅラ科花は赤色で、萼(がく)は白色。この色の対比から日本では「源平カズラ」の名がついた。★ 採取地(生息地) ナイジェリア赤と白のコントラストが美しい。初夏に枝先に円錐花序を出す。萼は白くて鐘状をなし、大きく5つに裂けるが先端は互いに寄り合って閉じる。花冠は濃赤色、花筒は萼から伸び出して長さ2cmほど、その先端で5裂して大きく開く。その径は1.8cmである(ウイキペディアより)。ヒスイカズラは遊歩道から一段高い四阿の中にあった。ヒスイカズラマメ科ハワイではレイの材料に使われるが、花色がすぐに変わるので特別な行事のときにしか使用されない。★ 採取地(生息地) フィリピンヒスイカズラ葉腋(ようえき)から長さ60~100cmの総状花序が長く垂れ下がり、ヒスイ色の花が75個以上つく。ヒスイカズラの自生地ヒスイカズラの自生地は、フィリピンのルソン島やミンドロ島などの限られた地域の熱帯雨林です。ルソン島は、フィリピン諸島のうちで最も面積の大きな島です。フィリピンの総面積の35%を占め、首都マニラやフィリピン一人口の多いケソンがあり、世界で4番目に人口が多い島です。ルソン島やミンドロ島などの熱帯雨林は、減少が著しく、森林再生の必要性がまっています。これらの島に自生するヒスイカズラは、熱帯雨林の減少と共に、絶滅が危惧されている貴重な植物です。ヒスイカズラはマメの仲間ヒスイカズラはマメ科のツル性植物です。「カズラ」はツルを指します。花穂が垂れ下る様子は、「フジ (藤)」の花にそっくりです。ヒスイカズラも、フジも、垂れ下っている花穂は、花がたくさん集まったもので、一つ一つの花は、下の写真のものです。マメ科の花は、「蝶形花」といい左右対称で、蝶に似たかたちをしていることが特徴です。花弁は「旗弁」「翼弁」「舟弁」があります。おしべ・めしべはどこ?マメ科の花の、めしべと、おしべは、「舟弁(竜骨弁)」の中に収納されています。1本のめしべと、10本おしべがあります。おしべの10本のうち1本だけは少し離れています。(二体雄ずい)花はかぎ爪のような形をした長さ7.5cmほどの蝶形花で、旗弁は反り返って先が細く、翼弁は楕円形、竜骨弁は長く突き出し、上側にカーブしてくちばし状にとがります。ヒスイカズラの受粉ヒスイカズラの花には、いつもアリがいっぱいです。きれいだから集まってきている・・・のかもしれませんが、ヒスイカズラの花は、かなり甘い蜜をたくさん出しています。この蜜は、アリに食べてもらうのではなく、本当は受粉を手伝ってくれる「オオコウモリ」に向けて出しています。なので、ヒスイカズラが咲いている限り、アリは必ずやってきます。気持ちわるいかもしれませんが、許してください。小型のコウモリというと、自分が発した音が何かにぶつかって返ってきたものを受信し、それによってぶつかってきたものの距離を知る(反響定位)をしているので目が小さいですが、オオコウモリは、視覚に頼って飛んでいるので、目が大きいのが特徴といわれています。オオコウモリは、フルーツや、花の蜜が大好物です。そして、活動時間は「夜」です。ヒスイカズラはオオコウモリが夜、食べ物を探す時に、月夜に照らされて一番目立つ色の花を咲かせ、甘い蜜を出して誘っているのかも・・・しれませんね!ヒスイカズラの実ヒスイカズラは、自生地の熱帯雨林では、オオコウモリが受粉を手伝っています。受粉が成立すると、写真のような実ができます。当園では、オオコウモリがいないので、スタッフが人工授粉を行っていますが、結実しても「サヤエンドウ」サイズで落ちてしまいます。今年こそは、種を作れるように、頑張りたいと思います。ちなみにこの写真は、新潟県立植物園さんから貸して頂きました。当園では、結実しても、このくらいで落果してしまいます。今年もチャレンジ!!お楽しみに!蕾のヒスイカズラヒスイカズラとコウモリの関係ヒスイカズラは、甘い蜜をたくさん出しています。誘っているのは「オオコウモリ」。自然界のヒスイカズラは、オオコウモリに受粉を手伝ってもらっています。オオコウモリは、フルーツや甘い花の蜜が大好きです。小型のコウモリとは異なり、大きな目で食べ物を探します。ヒスイカズラの、この独特な色は、オオコウモリが飛ぶ夜、月夜に照らされて一番目立つ色の花を咲かせて、目立ちやすいようにしているのかもしれませんね。咲き終わった花は散り、一部が残る。蕾のヒスイカズラ。遠目で見るとバナナかと思わせる大きさであった。11:40ヒスイカズの花の蕾は上側にカーブしてくちばし状にとがる。ハワイではレイの材料に使われるとあったが。 ー 続く ー
2026.06.23
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ネットで「小田原フラワーガーデンのバラが見ごろ」と、又知り合いが行ったとのことで台風6号が来る前日に「There is no time like the present (思い立ったが吉日)」で愛車のノートで出かけた。病院で見かけた親父さんの手提げ袋に!残り少ない我が人生、今後の”座右の銘”にしたいと。6月2日(火) 9:10他にも行きたい所があったので妻に昼食の欠食を伝え自宅を9時に出発。国道134号柳島交差点。台風の影響で西の空は曇っていた。湘南大橋上から曇りながらも富士、金時山が見えていた。雲が高いのか箱根の山並みも見えていた。湘南平の先には金時山。大磯港上の西湘バイパス。この辺りからも前方に富士が見える。富士をズームアップ。10:40五百羅漢駅所在地:神奈川県小田原市扇町5丁目11駅前を県道720号線(怒田開成小田原線)が走る伊豆箱根鉄道大雄山線の駅である。周辺には駅名の由来となった五百羅漢像のある玉宝寺や、多古城址など旧跡が多く存在する。1989年(平成元年)8月に改築された駅本屋は、マンションを併設するほかテナントも入る4階建ての建物である。この建物の一角に駅事務室と待合所が設けられており、自動券売機と乗車票発行機が一台ずつ置かれているほか、定期券などを販売する窓口もある。窓口があったが、社員の配置される直営駅であるが、早朝と夕方以降は不在となると。伊豆箱根鉄道大雄山線運賃大雄山駅までは270円、小田原駅は160円。発車時刻表早朝8時台まではは1時間に5本、9時以降は4本と運転本数は多い。ホームは島式ホーム1面2線を有する地上駅で、のりばは南側が1番線、北側が2番線。伊豆箱根鉄道 沿線案内図 大雄山線案内図には沿線の寺社史蹟が表示されていた。駅の西側を小田急小田原線が横切る。小田急線をズームアップ。ホームに立つ行き先表示板構内穴部方向の北側(右奥)に、伊豆箱根鉄道大雄山線保線支区の二階建ての建物がある。改札口から線路を渡ってホームへ。セブン-イレブン 小田原飯田岡駅南店所在地:神奈川県小田原市飯田岡617-1県道74号線(小田原山北線)沿いにあるコンビニで、小田原フラワーガーデンで昼食時になるので弁当を購入した。隣接してクリエイトがあったのだが。カーナビの案内で走り、県道74号線(小田原山北線)の飯田岡交差点を左折。左折すると十字路に祠があり地蔵が立っていた。この後坂道を上り丘陵地へ上った。11:10小田原フラワーガーデン所在地:神奈川県小田原市久野3798-5訪れた日は火曜日で、前日が休園日、台風も近づいていたので駐車場には多くの車が駐車していた。当園の敷地面積は42,188㎡、管理棟(延べ床面積)1,377㎡、トロピカルドーム1,265㎡。また当園のメイン施設であるトロピカルドーム温室は、隣接する小田原市環境事業センター(ゴミ焼却施設)の余熱を利用している。小田原フラワーガーデン正門。正門横に、「春バラ 開花中 5月上旬~6月上旬 入園・駐車場 無料」と。入口の反対側に「諏訪の原・西部丘陵 ウオーキングコース」の絵が描かれていた。絵は「里山の風景」「諏訪神社」。裏側には「諏訪の原・西部丘陵 ウオーキングコース」。国府津、曽我地区でもよく見た案内板が立っていた。諏訪の原・西部丘陵ウオーキングコース小田原フラワーガーデン周辺をズームアップ。近くには「ざる菊園」があり、他にも多くの寺社史跡があるので今後の訪問先に。メモリアルロードの桜並木ソメイヨシノの約80本が並ぶ桜並木で、春先には桜のトンネルになる。西側に隣接して「環境事業センター 焼却炉」があるのでゴミ収集車が頻繁に走っていた。左側にはバス停「小田原フラワーガーデン」があった。桜のトンネル沿いの塀に「小田原フラワーガーデン」と。歩行者用入口。「四季折々の花」と「トロピカルな植物」を同時に満喫!小田原フラワーガーデン 開園時間 9:00 ~ 17:00 トロピカルドーム温室の入園は、9:00 ~ 16:30まで 休園日 月曜日(祝日の場合は開園し、翌日休園) 祝日直後の平日 年末年始(12月29日 ~ 1月3日) 指定管理者:小田原フラワーガーデンパートナーズ正門を入ると大イチョウが聳えている。建物は管理棟&トロピカルドーム温室(有料)で、手前は障害者用の駐車エリアになっている。右側にはバラ園。満開のバラ。バラ園越しに管理棟トロピカルドーム温室。11:15バラの香りが漂い満開であった。台風6号が来るとこの奇麗な花も・・・。 ー 続く ー
2026.06.22
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藤沢市葛原地区の散策を終え帰路についた。6月1日(月) 15:10葛原公民館から用田交差点経由で帰ることに。皇子大神前から西方向へ走り、道路脇に祠が建っていた。地蔵堂所在地:神奈川県藤沢市葛原地蔵堂は、子どもの守りや旅の安全を願う場所であると。御所見北部地区「文化財ハイキングコース」に「子育地蔵」とあったがここがそうなのか。説明板がなかったので不明だが、Googleマップでは「地蔵堂」とあった。祠の暖簾は「奉納 令和六年九月吉日」とあり、地元の方の信仰が厚いようだ。祠の中には一体の地蔵さまが立っていた。赤頭巾前掛けをしておられ地元の方が定期的に交換されているのであろう。祠の周りは雑草除けのシートが敷かれていた。地蔵堂から更に西側へ進みこの先の三叉路を左方向へ進んだが、道路脇に祠が建っていた。祠は一段高い竹林の一角に建っていた。ここも説明板がなく、またGoogleマップにも載っていないので詳細は不明。左側は、皇子大神への道。この辺りは「衆議院 神奈川県第12区」になるようで、今までは、旧立憲民主の阿部知子氏が長年議員を務めていたが。東海道新幹線の南側の道を走りこの後「日蓮宗示現寺」へ立ち寄ることに。途中道を間違え狭い小径へ入った角に庚申塔が立っていた。前方は東海道新幹線。周りには民家が建っており騒音問題が大変であったのでは。庚申塔は破損、傍には風化した双体道祖神が並んでいた。庚申塔の台座には氏子中と刻まれていた。信仰心の厚い方がおられるようで板で区画されていた。小径を進むと東海道新幹線下にカルバートがあった。この辺りは台地下の谷戸になっている。カルバート入口に「お願い」と。15:30日蓮宗示現寺 (じげんじ)所在地:神奈川県藤沢市用田1035-43示現寺は永禄3年(1560年)10月8日、当時の豪族伊東孫右衛門祐矩公により永禄山観生寺(禅宗)として開かれ、人々の信仰を受けていましたが、第二次大戦後に継承者不在の為、衰退の道を辿りました。その後数十年間廃寺となっていたこの寺を、平成元年5月に前住職(自修院日得聖人)により新たに開山し寺号を示現寺(日蓮宗)として改宗復興、その後単立宗教法人を取得し、平成16年4月山号を法華山と定め「法華山示現寺」として歩んでいると。工事が行われていたのか寺下の駐車場には工事車両が駐車していた。関係者に聞くと東側百メートル程に寺の駐車場があると。寺号標石に「最上稲荷山 示現寺」と。平成16年4月に山号を法華山と定め「法華山示現寺」として歩んでいるとあったが。また、最上稲荷は岡山県の最上稲荷だが関係があるのか。門前の掲示板に「信じる事をあきらめない □□□ 令和八年」と。駐車場に「慈煌水子観音」、右側に「善哉廟」が立っていた。慈煌水子観音階段を上ると狭い境内に本堂があり、右側には寺務所があった。本堂前の右側に狛狐。左側にも小さな狛狐。本堂の柱には「お薬師さま」と書かれた看板。墓地は本堂の西側に新幹線に沿ってあった。寺務所前に寺関係の方かご婦人がおられ、最上稲荷との関係を聞くと「先代は最上稲荷の出身で日蓮宗に改宗した」と。手水鉢に竜頭。本堂裏を東海道新幹線が横切っており日本で一番新幹線に近いお寺であると。住職は若い方であるようでSNSで発信されているようだ。巨木が聳える境内を見上げる。県道45号線(中原街道)を南下、県道43号線(藤沢厚木線)と交差する用田交差点。この交差点の一角に「用田の大山道標」がある。不動明王をズームアップ。正面からは看板が邪魔になり景観を損なっている。16:00山田うどん食堂 藤沢用田店所在地:神奈川県藤沢市宮原3338-6ここはかつてからいろんな所からの帰りに立ち寄っているうどん店である。昼食をとっていなかったので遅い昼食&夕食とした。最近の店は人手不足からか注文はタブレットが多く会話が無いので味気ない。日替わり定食の「生姜焼き丼&たぬきそば 940円」をオーダー。生姜焼き丼は味のポイントがなくいまいちであった。平日はそばは大盛が無料との事であったが高齢者には並で十分。この日の歩行数は7,800歩であった。この日「御所見北部の文化財ハイキングコース」を知り、後日散策したい。 Aコース ①豊受大神 ②塩井淵の辻 ③滝不動・皇子大神 ④子育地蔵 ⑤乗福寺 ⑥下滝谷戸の地蔵 ⑦用田寒川社 Bコース ①用田の辻 ②立小路の地蔵 ③宮原寒川社 ④観蔵寺赤字が未制覇文化財であるが、愛車のリンちゃんで行くか。 END
2026.06.21
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藤沢市葛原地区の散策を続ける。6月1日(月) 14:20皇子大神の南側から境内の杜を望む。皇子大神 (おうじおおかみ)所在地:神奈川県藤沢市葛原1382藤沢市の北西部に位置しており、桓武平氏の祖である葛原親王がお祀りされている。奥に社殿が見えており鳥居から社殿までの距離は約170メートルあると。鳥居手前左側には多くの石塔があった。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。参道右側に立つ「鳥居再建の記念碑」。後方の建物は車を駐車している葛原公民館。また碑の裏にはかつての鳥居の一部があった。鳥居再建の記念碑明治四十年に建立された御影石作りの鳥居は大正十二年の大震災により倒壊し、補修されて今日まで八十有余年の間風雪に耐えてきたが、老朽化が進んだので解体し本鳥居を再建したものである。この鳥居は明神作りで、素材は近代科学が産んだグラス・ファイバーと稱し、軽量で耐震性・腐食に強く、耐久力は半永久的とのことでこれを採用した。幅六・三六米、高さ七・六八米、柱の直径〇・七五米のものである。本鳥居の建設に当り氏子並に崇敬者各位の溢れる熱意により寄せられた浄財は金壱仟四百弐拾万円余にのぼり総建設費金壱仟参百九拾万円余を費した。今後本鳥居は皇子大神の象徴として御社頭の興隆に限りないものがあることを祈念すると共に後世に伝えるため碑を建立したものである。 昭和六十三年九月吉日 皇子大神 鳥居建設委員会鳥居の左前には手水鉢、石塔が立ち並んでいた。左から「出羽三山講」「天□皇太神宮講中」「判読できず」「出羽三山講」。出羽三山講や伊勢講の石碑があると。上の石碑の左側には、「月山 湯殿山 大権現 羽黒山」と刻まれていた。境内は広く、鳥居からの参道は長く高木が覆う。周りの木は杉・桧であったか。社殿をズームアップ。林の中にはドクダミが咲き乱れていた。参道を進むと左側に銅板葺きの立派な手水舎が建っていた。手水鉢の竜頭。境内に建つ神楽殿、神輿殿。境内には八坂神社が合祀されており、壮麗な神輿があると。神輿殿の扁額「神輿殿」。戸が閉ざされていて神輿は見えなかった。神輿殿に貼られていた写真、「葛原神輿保存会 会員募集」と。何処の神輿保存会も担ぎ手の人手不足になっているようだ。神楽殿の前から社殿を見る。拝殿神紋は、天皇陛下および皇室を表す「菊紋」である。御祭神は、葛原親王(かつらばらしんのう)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)。拝殿の扁額「皇子大神」。拝殿前から境内を見下ろす。皇子大神 恒例祭事 〇元旦祈祷祭 一月一日 〇 例祭 七月十四日 〇例 大 祭 九月十八日 人生行事 〇初宮詣 男子生後 三十二日 女子生後 三十三日 〇七五三詣 〇厄除祈願祭 〇成人奉告祭 (大厄) 男子 二十五歳 〇銀 婚 式 満ニ十五年 四十二歳 〇金 婚 式 満五十年 六十一歳 〇還暦奉告祭 満六十歳 女子 十九歳 〇古稀奉告祭 満七十歳 三十三歳 〇喜寿奉告祭 満七十七歳 三十七歳 〇米寿奉告祭 満八十八歳 〇地鎮祭 〇宅神祭 〇竣工式 〇移転清祓 〇国民祝祭日祭等 拝殿前には木製の燈籠が建っていた。社殿前左側に「社務所」。入口に「皇子大神社務所」と。社務所の向かい側に神楽殿が建っていた。参拝中人影がなく一人での参拝であったが境内は綺麗に清掃されていた。独り占めの皇子大神を後にした。皇子大神の門前に建つ「藤沢市消防団 第三十一分団」。皇子大神の玉垣に設けられていた、文化財ハイキングコース案内板御所見北部コースのポイント Aコース ①豊受大神 ②塩井淵の辻 ③滝不動・皇子大神 ④子育地蔵 ⑤乗福寺 ⑥下滝谷戸の地蔵 ⑦用田寒川社 Bコース ①用田の辻 ②立小路の地蔵 ③宮原寒川社 ④観蔵寺まだ訪れていない所があるので後日訪れたい。出羽三山大権現石塔所在地:神奈川県藤沢市葛原1928-32バス道の南葛野交差点隅に鉄パイプで保護された2基の石塔が立っていた。この南葛野交差点付近が「塩井淵の辻」と呼ばれるところであろうか。保護されていたが説明板は立っていなかった。出羽三山とは、かっての信仰の中心地であった。坂東、秩父、西国の百カ所巡りとセットで廻ることも多かったと。廻ると、その記念に供養塔を建てたと。左の石塔は風化していたが、「月山 湯殿山 大権現 羽黒山」と刻まれていた。石塔の左側面には「相模國高座郡葛原郷講中 導◯ 長盛寺」と。右側には「文字道祖神」。石塔の右側面には、「維持 安永十龍(旅)亲(也)(夏)四月吉辰落慶〜大先達 正穏院」と。南葛野交差点の三叉路隅に「出羽三山大権現石塔」が立っている。ズームアップ。出羽三山大権現石塔の後はGoogleマップに載っている「葛原親王」へ。スマホの案内で進むと目的地は畑の中にあった。近くにあった建物の玄関先には「中村公民館」と。公民館の奥に小さい祠が建っていた。15:00葛原親王 (かつらはらしんのう)所在地:神奈川県藤沢市葛原垂木御所跡と云われている当地だが、こちらの祠の前から参道側(西)へ振り返ると、鳥居越しに皇子大神の杜を望むことができますと。入り口には鳥居が立ち、幟旗用の高いポールが立っていた。草がのびていたが境内は清掃が行き届き、地元の方の親王愛を感じる事ができる。祠の扁額は「葛原親王」と。境内の周りには栗畑があり栗独特の香りが漂っていた。栗の花はクリーム色のふさふさした雄花穂が枝いっぱいに垂れ下がり、開花時期には木全体が白っぽく見えるほどです。匂いは甘い花の香りとは異なり、発酵したような、動物的な要素を含む強い香りとして知られています。人によっては□□やイカのような匂いに似ていると感じることもありますが、これは化学成分の類似性によるものですと。また、秋にはこの花から人気のマロンの実を収穫。近くの畑の足元には落花生が植えられていた。ズームアップ。これから花が咲き落下して地中に実が育つ。マルチをしていたが途中で取り除くのか。 ー 続く ー
2026.06.20
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