おじん0523のヒロ散歩

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2020.04.16
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カテゴリ: 東海道53次
今日のゴール点、土山宿が近くなる。

2/21(金) 15:11
来見橋を渡り緩い坂を登ると左側に、白川神社入口の立て札


祭神は速須佐之男尊、天照大御神、豊受大御神。創祀は不詳で、古くは牛頭天王社・祇園社
などと呼ばれていた。寛文5年(1665)2月11日の火災により延焼し、現在の場所に遷座する。
本殿は、文久3年(1863)に造営された


旧東海道から、南側に入ると白川神社の石鳥居
白川まつり
8月1日に近い土曜日に花傘神事、みこし宮出しがあり、その前日の宵宮には子供相撲や夏越



15:14
白川神社鳥居
古くは牛頭天王社や祇園社と呼ばれた。江戸初期に焼失しこの地に遷座した。土山宿の鎮守
である。鳥居のすぐ先左手に「内侍所奉安所跡」と刻した石碑がある。明治元年、明治天皇
が東京へ行幸のときに携行していた三種の神器「八咫(やた)の鏡」を一時安置したことを記
した碑である


悠紀齊田之碑
歴代天皇御即位のとき齋行される大嘗祭の重儀に御料の新設を供する悠紀齊田としてわが土山
の里が、御三代にわたりト定されたことは大きな誇りである。よって抜穂の稲こなしが行われ
た。當神社旧称祇園牛頭天王社の境内に、齊田の所在を明示する碑を建ててその栄誉を、永世
に傳えるものである



天明7年(1787)に光格天皇の、嘉永元年(1848)に孝明天皇の両大嘗祭に、当社拝殿が悠紀齊田
抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦9月22日、明治天皇御東幸御駐輦の時に、当
社境内が内侍所奉安所にあてられた


境内の中央にモッコク


白川神社のモッコク





拝殿の扁額「白川神社」


本 殿


本殿の前には願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられ
ている


本殿の扁額「白川神社」





7月第三日曜日に行われる「土山祇園祭花傘神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山
14組ごとに奉納された花傘から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。これは、承応3年
(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民俗文化財になっている


15:24
旧東海道へ戻る


旧東海道へ戻り『旅籠 木屋 跡』の石柱


石柱は『旅籠 海老屋 跡』


左側には『旅籠 山本屋 跡』、右前方にも石柱


右前方の石柱は『旅籠 簾屋 跡』


右の電柱下に『旅籠 江戸屋 跡』
どこの宿も旅籠屋が多く往時の街道筋の賑わいを感じる。旅籠前は提灯であったのだろうか


屋号は『油屋 平蔵』


街道沿いに三つの石柱が並ぶ
ここも旅籠が三軒ならんでいたのだ『釣瓶屋 跡』『大工屋』『柏屋』


15:29
弥次さんは立札の前で
めずらしく若者が自転車で往来


立札は『森白仙終焉の地』【井筒屋跡】
森鴎外の祖父で津和野藩亀井家の典医だった森白仙が、参勤交代に従って江戸より旅の途中
病のためここで息をひきとった


街道沿いに石柱が立ち並ぶ


15:30
左側は『旅籠 木綿屋 跡』、右前方にも石柱と立札があり撮影に夢中の弥次さん


石柱は『旅籠 平野屋』であった


森鴎外が泊まった平野屋
平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。
「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。乃ち金を
贈りて明日来り観んことを約して去る。寺を出づるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家
に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり」    小倉日記


民芸・茶屋『うかい屋』
二階にミニギャラリーがあり、俳句や広重の版画(写真)が見られる


このような検定も「第12回 歴史の道 東海道検定」


左側の石柱は『二階屋本陣 跡』


堤家(二階屋)本陣跡
本陣とは江戸時代に大名・旗本・幕府公用人・勅使・公家・門跡などが、宿駅での休泊に利用
した公認の宿舎である。
土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣の
二軒があった。堤家本陣はその屋号から「二階屋本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。
史料上の初見は江戸時代前期の延宝8年(1680)で、以後土山家本陣とともに本陣職を務めた。
本陣は一般に150~200坪程度の建物があり、門構えや玄関、上段の間を設けたが、天保14年
(1843)当時、門構えと玄関を持っていた。建坪は196坪と、土山家本陣の325坪よりは小規模
であった。堤家本陣は幕末には衰微し、これより約250メートル西、吉川町の北土山村側にあ
った大旅籠の大黒屋がその代替として利用された


15:33
街道の右側に『東海道 伝馬館』の石柱


左下に『問屋場・成道学校 跡』の石柱


土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、
時代と共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃
止されたが、その施設は成道学校として利用された


15:35
東海道 伝馬館
所在地:滋賀県甲賀市土山町北土山1570
土山宿や東海道についての展示や特産品販売、体験工房のある資料館。「伝馬制度」とは、
幕府の公用などで宿から宿へ人馬の継ぎ立てをおこなうことをいう。
昨年8月に田舎へ帰る途中、立寄っているので今回が二度目の訪問である


伝馬館入口の前に『文豪森鴎外来訪の地』の石碑
二日。天陰れり。午前六時大阪に至り、車を換ふ。九時草津に至り、又車を換ふ。十時三雲
に至り、車を下る。雨中人力車を倩ひて出づ。午時土山常明寺に至る      小倉日記


森鴎外と土山
鴎外が土山を訪れたのは、明治33年3月2日、祖父白仙の墓参のためである。
白仙は、石見国津和野の藩医であった。万延元年(1860)藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向。
翌年5月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう。途中11月7日、土山宿井筒屋にて急死した。
遺骸は常明寺の墓地に葬られ、津和野へは遺髪のみが届けられた。鴎外が生まれたのはその翌年
である。鴎外は祖父への思慕深く、小倉在住時代、軍医部長会出席のため上京の途中、土山へ立
ち寄り、無縁仏同様に荒れ果てている祖父の墓を探し当て、常明寺の境内に墓を修した。寺を出
て平野屋藤右衛門の家に投宿し、翌日三雲を経て東京へ向かった。
明治39年祖母きよが、大正5年母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。昭和28年三人の墓は
津和野永明寺へ移された。現在常明寺境内には、鴎外の子孫が建立した供養塔が立っている


開館時間


伝馬館裏の庭園


参勤交代と大名行列。
長さ10メートル位の大名行列の模型が陳列されていたが、これほどの物は今まで見たことがない


宿場へ向かう大名行列を京人形で再現している。
大名行列の先頭部分。
江戸時代、幕府は大名を統制するために定めた、寛永12年(1635)の「武家諸法度」の中で、
大名を一定期間江戸に在府させる参勤交代を制度化しました。そのため、大名たちは自分の
領地と江戸を行列を組んで往復しなければならず、一般には一年おきの交代でしたが、関東
の大名は半年ごと、遠方の対島の宗氏は3年・蝦夷の松前氏は6年ごととし、幕府の要職に就
いたものは、江戸に留まるよう定められていました


大名行列の中間部分。
この参勤交代などの時に、大名たちが調える行列のことを大名行列といいます。もとは、戦時用
の行軍形式をとっていましたが、やがて形式化し、華美なものになっていきました。行列の規模
や調度品などは石高や格式によって差がありましたが、大名にとって、江戸での生活や国元との
往復には多大な費用がかさみ、藩の財政には大きな負担となりました


大名行列の後方部分。
しかし、参勤交代制度の確立によって、交通網や宿が整備され、経済活動の発達や各地との文化
交流を生み出しました。東海道は参勤交代の大名たちが通る主要街道として発達し、宿では行き
交う旅人たちでにぎわっていました。土山宿でも、土山本陣の宿帳に多くの大名の宿泊記録が残
されています。なかでも熊本藩細川家との関係は深く、細川家ゆかりの調度品が伝わっています


人 馬



                          関宿~土山宿-続く





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最終更新日  2020.04.16 03:00:05
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