おじん0523のヒロ散歩

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2020.05.25
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カテゴリ: 東海道53次
野路の一里塚から曇り空の中大津宿へ向けて進む。

3/22(日) 11:41
旧東海道の街角には「自民党 広報板」、選挙候補者のポスター


11:42
街道右側に説明板の写真『清宗塚』
所在地:滋賀県草津市野路5丁目2-21


平清宗(1170~1185)
平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で
元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。

に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養して
いるものである。         遠藤権兵衛家   当主 遠藤 勉


場所を探すが個人宅の片隅にあり分かりずらい。どうにか街道の右側の個人宅裏の狭い通路を探
し当てようやく『清宗塚』へ


倒れかけた『清宗塚』


清宗塚
文治元年3月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(八歳)は入水。
平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の
行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都へ上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の
首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。
清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光

て晒される。平清盛は義経三歳の時、あまりにも幼いという事で命を許した。時を経て義経は平
家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて三十一歳で殺される。
夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか


11:49
街道左側に『真宗大谷派 玉川山 淨泉寺』



山門を入ると左に本堂
浄土真宗大谷派で室町時代の長禄4年(1460)野路城主、黒川駿河守宗次によって「十禅寺念仏道
場」を建立し、その道場は玉川山浄泉寺として改名され現在に至る


本堂の扁額「玉川山」


本堂前に鐘楼が建つ


玉川山浄泉寺縁起
長禄4年、本願寺蓮如上人東国へ御巡化の途次、野路城に入り遊ばさる。城主黒川駿河守宗次、
上人を尊重に供応し奉り、今宵は名に逢う九月十三夜なれば草生い繁る篠原の月を御覧ありて
御心を慰め申しければ、上人限りなく悦び遊ばされ、「玉ぼこの野路の篠原分け行けば、名に
逢ふ月を常不住に見る」と一首の御詠歌遊ばし、城主宗次を側に召して誠に人間の世は空行く
月の如く敢ない仮の宿なり、されば只々阿弥陀佛の本願に帰命し・・・・・・・


11:53
街道を進むとこの界隈の観光案内板


街道の左手(南側)に『新宮神社』の鳥居


鳥居の右奥に飾られた六地蔵。
社殿へは数百メートルあるのでスルー


社殿は大永3年(1523)の建立で、国の重要文化財で高僧(行基)が創建した野路寺の鎮護神、新宮
大明神で鎮守の社殿(ネットから)


11:57
街道を更に進むと右手に『真宗大谷派 白萩山 願林寺』
所在地:滋賀県草津市野路5丁目6-23


路地を入り山門へ。
石部宿から草津宿への途中の真宗大谷派の寺院では「太鼓堂」が競って建っていたが。
ここの山門は、普通のお寺の山門に比べ大きくお城の一部を移築したような建物


山門を入ると境内に立派な松が水平にのびていた。右端に親鸞聖人像が建つ。
静岡県下のお寺でもこのような松があったが


本堂の扁額『白萩山』


本堂前からの松


境内に咲いていた


12:01
街道脇に『野路在郷軍人用地』
説明板が無く・・・・・・・・・・・


旧東海道を進むが国道1号線の裏道でもあるので車の量が多い。
狭い街道でもあるので速度制限は30kmであろうが、「飛び出し坊や」「お年寄りに注意」と
あるが、老人の運転が怖い


12:03
途中にあった観光案内板


途中に『子守地蔵』があったのだが見落とす。
江戸時代「参勤交代」の行列通過時に起きた母と子の悲劇(切殺)があった場所で、この母子を
哀しみ供養のために弔い、今なお残るお地蔵様です


12:06
街道は県道43号線(平野草津線)に突き当たり、琵琶湖方面国道1号線がある


旧東海道は県道43号線を横切り前方へ直進


12:07
交差点を横切り、街道右側の民家のガレージ下にお稲荷さん


12:08
街道右側に『野路萩の玉川』
所在地:滋賀県草津市野路4丁目3-26


小さな広場に『聖跡 萩の玉川』の石碑。
ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて『日本六玉川』の一つとして有名で、他には、
  ①高野の玉川  紀伊 ー 毒水  和歌山県高野山
  ②卯花の玉川  摂津 ー 卯花  高槻市三箇枚
  ③井出の玉川  山城 ー 山吹  京都府井出町
  ④野田の玉川  陸奥 ー 千鳥  宮城県塩釜
  ⑤調布の玉川  武蔵 ー 調布  東京都北多摩郡
  ⑥野路の玉川  近江 ー   萩   草津市野路町


野路萩の玉川
「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。源平争乱の時代、
ここ野路は、数多くの武将の宿陣となり時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられ
る。ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿、貴族
詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも
千載集(1188年)所載の源俊頼の作
 「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」
は、和歌として世に広く知られている。又、十六夜日記(阿仏尼作)には
 「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」と詠んだ。
十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美
な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、いつの頃か歌碑も建てら
れた。その後、野路宿が草津宿に移り、次第に玉川も亦さびれる運命となった。近年は泉も涸れ形
も小さくなり風情は一変した。かつては天下の名勝 萩の玉川も、わずかに残る沼池となり人々から
忘れ去られようとしている時、我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するに
しのびず、永く後世に伝え残すため、住民の総意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をと
どめることとした次第である     昭和51年11月28日   草津市野路町


古き宿駅 野路駅の名残り
野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、『平家物語』をはじめ、多くの紀行文にもその名をみ
せている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武
将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の
要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、・・・・・・・・・・・・


湧水の井


街道を振り返る


12:13
街道左側にある『ぱおず山(肉まん屋)』
所在地:滋賀県草津市野路9丁目3-12
昼も過ぎ、街道沿いでは「豚まん 一個 120円」を販売していたが。
皮がモチモチで具もジューシーで美味しいと


12:15
旧東海道を進み「弁天池」に突き当たる
所在地:滋賀県草津市南笠東1丁目7-34


弁天池の小さな島にある『弁財天神社』


浄財弁財天参道
弥次さんは石橋を渡って『弁財天神社』へ参拝したが、私は橋が狭いので待つ


弁財天神社を振り返る


弁天池には・・・・


12:19
旧東海道を進み、狼川の交差点へ。
弥次さんがiPhoneで進行方向を確認?


12:21
交差点角は『狼川児童公園』
所在地:滋賀県草津市南笠東3丁目19-30
木製の常夜灯があり「東海道 狼川」
草津宿本陣(3.7km)・ 瀬田唐橋(4.9km)、今日のゴールJR大津駅まではまだまだ!


狼川児童公園に隣接して『NKG』


弥次さんが現役時代に関係した会社だと



                                石部宿~大津宿-続く





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最終更新日  2020.05.25 03:00:05
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