おじん0523のヒロ散歩

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2024.03.16
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カテゴリ: ヒロ散歩


大口広場の駐車場に車を停め近くにあった神社へ参拝。

3月3日(日) 13:50
福澤神社
所在地:神奈川県南足柄市怒田1912
県道720号線(怒田開成小田原線)に鎮座する神社。福沢神社は明治時代に福沢諭吉先生に因み、
町村合併の際にこの地区が福沢村となり、地区にある神社が合併福沢神社となったと。


玉垣に「福澤神社」と。


石柱には「奉納 福沢神社改築移転落成記念」と。
福沢神社は、酒匂川の洪水で決壊した文命堤を修復する際、田中丘隅が中国の治水の神とも言
われる禹(称号は文命)を祀った文命宮を作って享保11年(1726)に創建、班目・千津島・壗下・

隣の諸社を合祀、村名「福沢」より福沢神社と改称しています。
手前は大口土手下の村々の地元民が寄進したと伝わる「水鉢」。


境内に聳える二本のイチョウの木。


鳥居を潜り境内に入ると右側に  ”文命堤築堤関係”  の石碑群。


文命堤築堤時関係資料
次のものは、文命堤及びその築堤に功績ある田中丘隅(休愚)と関係深い資料であり、酒匂川の
治水の歴史を後世に伝える歴史資料です。五基・一体・一旈が市指定文化財に指定されていま
す。
1、文命宮祠
  丘隅によって建立されました。古文書や岩流瀬にある文命西堤の祠を参考に台石・蓋石・
  笠石は推定復元されています。

  文命堤の由来や祭礼の創始などが刻まれています。丘隅が起こした文章は大岡忠相、八代
  将軍徳川吉宗に回覧され、荻生徂徠が添削しました。
3、文命東堤後碑 (旧碑)
  徂徠が添削する前の、丘隅の原文が記されていると伝わります。
4、文命大明神御寶前

5、水鉢
  大口土手下の村々の地元民が寄進したと伝わります。
6、大口川丈地蔵尊
  丘隅が酒匂川治水を祈願して大口・岩流瀬・吉田島・金手・多古・飯泉に建立した六地蔵
  の一つと伝わります。
7、文命幟
  祭礼時に掲げるために丘隅から下賜されたと伝わる幟です。
     令和元年八月      南足柄市教育委員会


上記 1 ~ 6 の石碑、地蔵尊、水鉢とその配置図。
※ 福澤神社内にあった文命堤に関係した石造物群は、社殿の移転に伴って
  平成21年3月に1ヶ所にまとめて設置されました。


福澤神社社殿
祭 神:天照皇大神、牛頭天王、外 7柱
祭 日:5月5日


右側の狛犬/阿形像。


左側の狛犬/吽形像。


拝殿の彫り物。


福澤神社社殿移築完成記念
趣 旨
「福澤神社」は、明治42年(1909)に福澤村内の11神社を文命社に合祀し、文命堤内地に建立さ
れ、本年は百周年にあたる。また、文命堤は昭和41年(1966)に南足柄市文化財に指定された。
近年福澤神社は、老朽化が進みその対策が急務となっていた。一方、神社周辺の道路は狭く周
辺地区からの増加にともない県道怒田・開成・小田原線の道路拡幅整備が計画され、道路の一
部が神社内にかかり、社殿及び石造物群の移転問題が発生した。
平成14年度(2002)に福澤神社総代会は、このような事態に対応するために「道路拡幅にとも
なう神社老朽化、石造物群移転、土地問題等」ついて検討することを決議し、「福澤神社検討
委員会」を設立し、社殿の老朽化対策の検討を始めた。
福澤神社検討委員会は、平成14年度(2002)~平成18年度(2006)の5年間に亘ってこの問題を
討議し、文化財的な価値を有する神社建築物等の老朽化対策上から神社土地及び建築物や石造
物群等の恒久的な保存に十分配慮し、損失補償等を関係者と計画的かつ重点的に検討し、道路
拡幅整備計画に対する神社がとるべき方向について答申した。
平成19年度(2007)に福澤神社総代会は、「福澤神社建設委員会」を設立し、6名が共有の社殿
敷地の寄贈、境内地に存在する国有地の払い下げおよび公道の処理を行った。公道の処理は、
上怒田・班目自治会の協力による代替処理を行なった。また、高橋俊行氏からの一部私有地の
寄贈等により、社殿の移築先用地が確保された。
平成20年(2008)8月から社殿移築を開始し、平成21年(2009)3月に社殿移築工事が完成した。
設計・管理・監督は中津川建設設計コンサルタントに委託した。社殿の移築工事は瀬戸建設㈱、
外構工事は地元の㈱永田組・㈲石塚石材・㈱川上建設、水道工事は㈲石澤設備工業が請負った。
また、神輿は㈱日本木工振興が復元した。
境内地の北西に位置する田中丘隅(きゅうぐ)が建立した石造物群は、市教育委員会・市文化財
保護委員会・足柄史談会等の協力を得て、境内地北東側に移転した。石造物群の調査時に文命
宮祀とみられる一部が見つかり、台座石および笠石が不明のため文命西堤の文命宮を参考に台
座石と笠石を復元した。
ここに、福澤神社の社殿移築の完成により、氏子中の安寧と安全を祈願し、
福澤神社の移築に携わった各位を記し、記念版を奉納する。
                       平成21年4月吉日
                       福澤神社 建設委員会 
右側には、各会の氏名が刻印
福澤神社総代会     (平成14 ~ 21年度)
福澤神社検討委員会   (平成14 ~ 18年度)
福澤神社建設委員会   (平成19 ~ 21年度) 


社殿前から東側の境内地。


南側には境内地からの門があったが。


境内地から酒匂川の向かい側の壁面に「大山豆腐」とあるが、旧大山豆腐山北工場。
アーチは新大口橋。


道路標識をズームアップ。新大口橋を渡ると山北町に。



所在地:神奈川県南足柄市小市1
昭和6年(1931)3月に運用開始した一般水力発電所。出力は最大 1460kW、常時 860kW。


標柱には「福澤第壹発電所」と。


福沢第一発電所を見下ろすが工事中であったか。


福沢第一発電所の門柱。


福澤神社前から大口広場駐車場を望む。
サクラが咲くとまた違った光景になるのであろう。


サクラの木にジョウビタキの雄が止まっていた。


ズームアップ。


我が家の庭にも飛来する野鳥だがそれぞれ縄張りが。


13:55
大口広場を後にし目的地の「山北町の谷峨 (やが)」地区へ向かう。


新大口橋交差点
県道720号線(怒田開成小田原線)を進み、県道74号線(小田原山北線)と合流する交差点。


酒匂川に架かる新大口橋を渡り、左方向の県道74号線(小田原山北線)へ。


県道74号線(小田原山北線)沿いに立つ木製の ”護美地蔵 安全祈願”


酒匂川に架かる “岩流瀬(がらぜ)橋” の西側は南足柄市。
昭和62年に建設された道路橋で、親柱に酒匂川を泳ぐアユを、高欄には市の花であるリンドウ
と、市の木であるサザンカのレリーフを取り付けている。かながわの橋100選に選ばれている。
構造は、3径間連続鋼鈑桁橋で、橋長は163m。


岩流瀬橋の山北町側(東側)の謎のモニュメント。


岩流瀬橋の上下流は文命堤の治水事業で流れが変わっている。
橋の上から見るべきであったが不勉強で未撮影、またいつか取材に。


岩流瀬橋から県道74号線(小田原山北線)を進み、道路脇に「河村城跡入口」の案内板を見つけ、
時間があったので立ち寄ることに。


河村城跡には既に登城しているがこちら側からは登っていない。


入口に立っていた石造群。


石碑には字が彫られていたが判読できなかった。
説明板も無かったので詳細は不祥。


双体道祖神、笠付きの墓塔もあった。


やまきたまちのおすいマンホール蓋
富士山と丹沢湖に架かる永歳橋をデザイン。「やまきたまち」「おすい」の文字。


県道74号線(小田原山北線)から左折して農道を登り三差路へ。


三差路に立っていた案内板。
さわやかな風がふきぬけるきらめきと交流の町
やまきた観光案内


河村館跡
河村館跡は山城である河村城の根小屋(普段生活する場所)だと考えられます。
河村館跡と称される遺跡の範囲は酒匂川河岸段丘上の岸・湯坂地区一帯に広がり、江戸時代の
絵図には「秀清屋敷」「土佐屋敷」「内記屋敷」などの記載があります。
これまで、部分的に発掘調査が行われ、東西250m、南北150mに及ぶ居館を方形に囲むと想定
される溝が見つかりました。また、区画の内部からは建物跡なども見つかりました。出土遺物
から室町時代後半、十五世紀から十六世紀頃の跡だと考えられています。
平安時代後期、平将門の乱鎮圧に功績のあった藤原秀郷を祖とし、秦野地方を支配していた、
波多野遠義の次男、秀高が当時の山北の地名であった「河村郷」から名前をとり、「河村秀高」
と名乗ったことが、河村氏の始まりだと言われています。
秀高の子、義秀は石橋山の合戦で平氏側につき、勝利しましたが、その後、平氏が源氏に敗れ
たため、河村氏は領地を没収されました。しかし、1190(建久元)年、鶴岡八幡宮例祭において、
義秀は源頼朝の前で流鏑馬を披露し、領地復帰を許されたと『吾妻鏡』に記されています。
1333(元弘3)年、足利尊氏が鎌倉幕府に反すると、河村氏は新田義貞に従い、倒幕に加わりま
した。翌1334(建武元)年、後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、足利尊氏らの北朝方
と新田義興らの南朝方の争いが激しくなる中、1352(正平7)年、新田義興、脇屋義治の軍勢が、
河村氏の勧めにより河村城に籠城しますが、翌1353(正平8)年には、河村城から退去したこと
が『太平記』に記されています。
                             山北町教育委員会


分岐を右方向へ上ると「ビュースポット」の看板があり停車、南東方向を見下ろす。


足柄平野をズームアップ。


14:10
道路脇の菜の花が満開に。



                                      ー 続く ー





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最終更新日  2024.03.16 03:00:08
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