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2024.04.21
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城山湖に立ち寄り目的地の「普門寺」へ到着。

3月27日(水) 15:45
金剛山普門寺 (ふもんじ)
所在地:神奈川県相模原市緑区中沢 200
昔から「中沢の普門寺」といえば、「飯縄さま」あるいは「観音さま」そして檀家にとっては
「お不動さま」の霊場として常に近隣の人々の信仰の中心としてあがめられていると。
普門寺の広い駐車場。奥にも別の駐車場があったがこれだけの広さが必要なのかと。


入口を振り返る。


駐車場入口に建つ寺号標石「金剛山 普門寺」。


駐車場から普門寺へ。



相模原市のマンホール蓋。
市の木ケヤキをデザイン。下部に「さがみはら おすい」の文字が入っている。


普門寺の歴史
普門寺は真言宗智山派に所属し、天平年間(729〜748)に行基により創立されたと伝えられて
います。その後江戸時代に至るまでの歴史は明らかではありませんが、近年発掘された板碑の
年代等を見ても、霊域として常に重要な場所であったであろうことは想像できます。慶安元年
(1648)徳川幕府より十七石七斗余りの御朱印地を賜り、元禄十一年(1698)頼真により中興開
山されました。
寺伝、資料によれば、往時の構えは、未寺に東福寺、大悲山慈眼寺、智恩寺の三ケ寺(共に廃
寺)を従え、背後の山上に飯縄権現社、更に三島社と、地元中沢村の鎮守神の別頭寺院として、
豪壮な堂社、伽藍を構え、霊威赫々たる真言宗の祈願道場として隆盛を誇っていたということ
です。

る仁王門、観音堂、飯縄権現堂、本殿などの建造物の見事な結構、手の込んだ細工などからも
一見してそれと伺い知ることができるものですと。


駐車場からの道を進むと右上に山門(仁王門)。


山門(仁王門)への階段は新しい玉垣。


新しい玉垣には奉納者の名前が刻まれていた。

左側の親柱には「真言宗智山派 金剛山 普門寺」と。


山門 (仁王門)
観音堂の正面に建つ仁王門は、江戸の頃は権現堂に上る階段の途中にあったということだが、
現在の場所に安置されたのは二百四十年以前と伝えられている。


山門(仁王門)の扁額「金剛山」。


山門(仁王門)の左右にそれぞれ仁王様が立つ。
仁王様は運派系の仏師、全慶の作といわれ、顔立ち、姿とも力強さがあふれる作風です。
今から三十年程前、ミツバチがこの仁王様に巣をつくり、巣を取るために仁王様のお腹を開き、
修理修復がほどこされたという逸話がある。


左側の仁王様。


仁王門を入ると正面に観音堂、右側に本堂
観音堂は五間四面流れ向拝の総欅造りで、四面板戸、丸住の上には出組化粧折上げに桁が載せ
られている。堂内は斗拱の上に桁を受け、格天井が廻らされており、床は内外陣共に鏡板張り
ですが、現在は畳が敷き込まれている。内陣来迎柱前の須弥壇、宮殿の造りは、端正で剛健な
構えを示している。


向拝柱の頭貫・木鼻には龍、獅子の彫り物がほどこされている。
向拝の中央に下げられているのは、鰐口(神奈川県重要文化財)であろうか。であれば、以前
は観音さまの向拝に下げられ打ち鳴らされていたものであると。


観音堂の扁額「○○殿」。


山門(仁王門)から左前方を見る。
右側の六角堂は「永代供養墓」。左側の墓地入口には2基の宝篋印塔。


山門(仁王門)を入って左側に建つ二基の宝篋印塔。2基とも頭部の笠が取り外されている。


右側の一基は「天保御用金事件」の犠牲者供養塔と伝えられている。
天保二年(1831)、諸国飢饉、幕府の財政悪化の折、上川尻村に課せられた御用金をめぐって領
主の用人と名主が不正を働くという事件が起こりました。不正に抵抗した村人は相談し、天保
三年、勘定奉行、老中目付に駕寵訴という非常手段で訴え出ます。しかし関係した両者は共に
捕えられ、伝馬町の牢で伝染病にかかり、事件の結着も見ず怨みを残して死んでしまったのです。
しかしその後も村内の内粉は納まらず、弘化二年(1845)犠牲者達の十三回忌に至ってようやく
和解が成立、三月、人々の冥福を祈り宝謹印塔が建立されました。以後三月二十八日を命日とし
て、明治維新まで関係者、上川尻村一統は施餓鬼会を営んで供養を捧げたということですと。


説明板が建っていたが消えて判読できなかった。


左側の宝篋印塔。


後方に置かれている宝篋印塔2基の頭部。


墓地入口に並べられていたのは石像、双体道祖神であろうか。


新しい六地蔵も。


墓地から東方向の境内を見る。


歴代住職の墓であったか。


石碑の字が判読できなかった。


裏山に広がる墓地に建つ新しい墓塔。


墓地からのどかな南方向を見下ろす。


境内へ戻り入口に頭部のない宝篋印塔。


山門(仁王門)の左側に並ぶ像、石塔。


水子地蔵


基壇に「水子地蔵」と。


右側の石柱正面に「梵字」、側面に「南無大師遍照金剛」。左側には「萬霊塔」と。


こちらの石碑には、
「武相第二十五札所 聖観世音菩薩 真言宗 普門寺」と。


六角堂の永代供養墓


観音堂の左側を裏側へ進み、左側の石碑には「飯縄大権現参道口」と。
”飯縄権現堂”  は観音堂左手奥の石段を登ること百四十七段、御神木のスダジイの木をはじめ老
木のうっそうと繁る中に「飯縄大権現」のお社が祀られているが今回はスルーした。


立入禁止になっていたが、観音堂裏のこの新しい穴は。


木製の祠の中に「お舎利さま」。
宝暦三年(1753)川尻村小松の生まれで、生きながら成仏(入定行者、即身仏)を志す者がありま
した。三十四才の時に、普門寺の法印快誉と契約し、土中に入り断食して、念仏を唱えながら
眠るように成仏したということです。
— 七月四日入室、八月二十一日夜中に往生し願成就し ー と過去帳に記されています。


このお沙弥さま梵蓮社・・・と云わ〇る人に小松の・・・・・
この説明板も字が消えて読みとれなかった。


祠の中にはお舎利さまとよばれる石造阿弥陀如来座像が鎮座しています。
元はおしゃり山と呼ばれる裏山にありましたが大正六年に遷座されましたと。


延命地蔵尊


右側の基壇には「延命地蔵」。左側の石碑には「自聞龍神」の文字と龍の浮き彫り。


南方向に山門(仁王門)。


16:00
山門(仁王門)東側には、かって鐘楼堂があったが戦争中に供出され、その後お堂も伊勢湾台風
で倒壊。今はその石積みだけが残されている。


山門(仁王門)横からその石積みを見る。


相模原市指定有形文化財(彫刻)
普門寺の木造聖観音菩薩立像
普門寺の木造聖観音菩薩立像は、像高105cm、観音堂内の宮殿型厨子内に本尊として祀られて
います。頭部に宝髪(ほうけい)を結い、面部は丸く頬に張りがあり、眉目は弧形が延びやかで、
優美な印象です。体部はすらりとして、胸部は薄く、衣文は浅く繊細で、全体に平安時代後期
の本格的な藤原様式を示しています。
この像は、十二年に一度の卯年に開帳されることから、卯年観音と呼ばれ親しまれています。

相模原市登録有形文化財(建造物)
普門寺の観音堂
普門寺の観音堂は宝形造、正面三間、奥行四間で、手前一間のみを外陣、奥三間を内陣とする
いわゆる小型の密教本堂形式で、観音霊場寺院に多く見られます。内陣は開口部が少なく閉鎖
的とするのが通例ですが、この堂は内陣まわりに多くの開口部を設けているのが、特徴的です。
建立時期は、十八世紀中頃と考えられます。
※ この立像は平成十年に、観音堂は平成十八年に旧城山町の指定文化財となり、合併により相
  模原市指定文化財、および登録文化財となりました。
指定・登録年月日 平成二十年四月一日
                           相模原市教育委員会


山門(仁王門)の東側側面に 「仁王門建立山内整備寄付者芳名」


平成十八年十一月吉日
仁王門建立山内整備寄付者芳名
一、金伍拾萬円也   2名
一、金参拾萬円也  24名
一、金拾萬円也    2名
   ・・・
最低額でも、
一、金八萬円也   多くの人が



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2024.04.21 03:00:08
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