おじん0523のヒロ散歩

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オジン0523 @ Re:茅ヶ崎交響楽団 第39回第九演奏会へ(12/15) 抗議の内容は知っておりましたが、敢えて…

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2024.04.25
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カテゴリ: 東海道53次


弘栄堂で  ”ちょんまげ最中”  を頂き次の目的地へ。

4月6日(土) 9:30
ホテルサンライフガーデン
所在地:神奈川県平塚市榎木町9-41
弘栄堂の直ぐ東側にあるホテルで、落ち着いた雰囲気の客室を備え、結婚式場を併設している。
敷地内には英国から輸入された築140年の教会があり結婚式場に使用されている。


ホテル入口左横に建つ石碑に 「明治天皇馬入御小休所跡」 と。


遺跡の由来
平塚市榎木町ホテルサンライフガーデンの敷地はわが平塚市の文化史、経済史の上で特筆され

大住郡公所村の大官端山家に生まれた杉山久五郎は、若い頃江戸に出て生薬を学習。縁あって
杉山家を襲い、この場所で薬種商を営んで大成功を収め、子息泰助を大阪に遺し緒方洪庵に就
いて医学を学ばせたという。かくて父子協力して家業の発展に努め財を成す。
又、折柄、明治の新時代を迎えて、石油と砂糖の需要の増加を予測し、馬入川(相模川)の舟行
を利用して、上流各地に広く販路を拡大していった。更に陸路は馬力を利用し神奈川県中央部
で石油と砂糖の大問屋となって、大成功を遂げ、豪壮な家屋を建築した。屋敷の周囲には石垣
を構築みずから「石垣」と称し、世間もまた「石垣」と敬称した。
明治六年八月三十日、天皇(明治)皇后(昭憲)お二方が東海道御通行の時、ここに立寄られ休息
されたのは天皇二十二歳、皇后二十四歳のときである。又、明治十一年十一月八日には明治天
皇の再度御立寄の光栄に浴した。
明治十五年七月、この石垣の邸内に株式会社江陽銀行が開業したが、同行は神奈川県中央地域

皇馬入御休所跡の碑」は昭和十五年皇紀二千六百年記念に泰助の孫久吉が建立した。
揮毫は子爵金子堅太郎である。
     平塚市文化財保護委員 八十三叟     高瀬慎吾


馬入渡川會所跡
所在地:神奈川県平塚市榎木町9
ホテル前からの馬入川側に移動道路脇に建っている石柱。


川会所跡 (かわかいしょあと)

川会所には川役人(川名主と年寄)が在勤し、川の深浅を計り、川留・川明を決めたり、渡船
の管理や渡賃の徴収などを行っていました。通行人は渡賃を払って、川越をしていました。
元禄三年(1690)当時の旅人一人の渡賃は十文 (現在では約300円) でした。
馬入の川会所は、間口一間半、奥行二間ほどの家で、馬入川渡し場の西川端にありました。馬
入の渡しには渡船が常備されていて、定掛り村が須賀と柳島村、定助郷村が馬入村ほか四か村、
加助郷村が田端村ほか十か村で、それぞれの村々が渡しの業務の負担をしていました。
  平成十九年(2007)三月     平塚市


説明を聞くメンバー。後方南側の建物は馬入ポンプ場。


植込みの中に「史跡 東海道 馬入の渡し跡」と書かれた木柱。


ズームアップするが見落としやすい場所に建っている。


馬入の渡し跡へ移動。
昨年の秋紅葉を楽しんだ ”馬入ふれあい公園のメタセコイア並木”


馬入川の西側の堤に上がり「馬入の渡し跡」へ。
今年の開花が例年より一週間ほど遅れたソメイヨシノが我々を出迎えてくれた。


オオシマザクラは散り始めていた。


馬入の渡し跡
石碑、説明板が建っている。


満開のソメイヨシノ下を遅れた後続組が。


堤下のグランドでは湘南ベルマーレが練習中。


説明看板を見ながら説明を受ける。
天気が良ければ富士が見えるのだがこの日は・・・。


東海道五十三次 平塚 馬入の渡し跡
茅ヶ崎から馬入川を渡る際、一番の目印であったタブの木が繁る当時の馬入の渡し。
中央の狂歌は、「大磯へいそぐ えき路のすずのねに いさむ馬入の渡し船かな」。
初代廣重画
東海道五十三次之内
平塚「馬入川渡船」天保末期(1842年頃)
                     (株)サン・ライフ蔵


東海道 馬入の渡し
江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や
多摩川(六郷川)は「渡し船」、酒匂川は「徒歩(かち)渡し」などで渡っていました。
相模川には六十以上の渡し場がありました。大動脈である東海道は「馬入の渡し」と呼ばれ、
幕府が管理し、周辺村々の負担によって成り立っていました。
当初、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄五年(1692年)に対岸の柳島村が加わり
ました。また、渡船賃の徴収などを扱う「川会所」の運営や船頭の確保は、馬入村など5か村
が務めました。川会所や、渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。
渡し船には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員二十人ほど、馬船は
大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることができる船です。このほかに、将軍や大名用の
「御召船」などが常時用意されていました。また、将軍の上洛など特別の大通行があった場合、
幕府は「船橋」を架けさせました。
  平成十六年(2004年)三月               平塚市


説明を聞き終え主催者が集合写真を撮影するがスマホ。
この写真は機関誌に掲載すると。


下流側にはこの後渡る馬入橋が架かる。
馬入川 (相模川) の名前の由来
源頼朝の家臣で武蔵の国を治める稲毛重成が、亡き妻(北条政子の妹)の供養のために架けた橋
がここから茅ヶ崎方面へ約2km行くと国指定史跡になっている「旧相模川橋脚」がある。
その「橋供養式」に参列した源頼朝の乗る馬が突然暴れだし、川に入り込んだことから、この
辺りの相模川を「馬入り川」と呼び、やがて「馬入川」と呼ばれるようになったと。

青空が出ておればよかったのだが。


馬入橋の現在の橋は4代目であったか。

相模川には数人が乗る、SUP (スタンドアップ・パドル・ボート) であろうか。


9:57
馬入橋の平塚側の袂までが平塚のガイドさんの担当エリア。
私にとっては弘栄堂からここまでは既に何度か訪れていたコースであった。


橋の袂の南側には ”陸軍架橋記念碑” があったのだが。
以下2枚は以前の写真。


陸軍架橋記念碑
大正十二年(1923)九月一日、関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶しました。地元
の消防組・在郷軍人会・青年団によって即日渡舟が運行されましだが、数日後の豪雨で流失し、
しばしば中断してしまいました。
九月十七日、陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と、第十六師団(京都)所属工兵大隊が急きょ
派遣され、架橋工事が開始されました。
橋の全長四五○メートルのうち、馬入側の三○○メートルを第十六師団、茅ヶ崎側を第十五師
団が担当して、同年十月三日に完成しました。この記念碑は馬入側を担当した第十六大隊の事
績を称えたものです。
石碑の碑文(略) 
    平成十八年 (2006年) 三月
                       平塚市


馬入橋上から上流側に ”馬入排水樋管” 、更に上流側に ”馬入の渡し跡” がある。


左側には英国から輸入されたという築140年の教会。現在は結婚式場に使用されている。


茅ヶ崎側のガイドさんの説明を聴きながら風の強い馬入橋を渡る。
かつての馬入川はここより茅ヶ崎側約2kmを流れていたため、茅ヶ崎側上流に平塚市の飛地が
ある。このため子供たちはこの橋を渡って平塚側の学校へ通学したと。


馬入橋上には「日本橋まで 62km」のキロ標柱。
JR東海道本線の馬入川橋りょうの下には大正十二年(1923)の関東大震災により被災、完成状態
だった下部工が崩壊した状態で今でも残っていると。


その崩壊した下部工(以前撮影した写真から)。
下り線の歩道上からは見えるのだが、上り線からは見えない。


馬入橋を渡った先の右側に「茅ヶ崎市」と。
ここより北側約1kmに 「平塚市立須賀夕映え公園」 があり平塚市。


馬入橋を渡り新田入口交差点から振り返る。
ここのバス停「新田入口」から二つ先の「今宿」までバス移動。


下り線の道路標識には「馬入橋、相模川」と。


次のバスまで10分程あるので国道1号の南側の 「中島川ガード」 を見学すると。


JR東海道本線の「中島川ガード」。
新しいコンクリート桁は昭和40年(1965)。煉瓦積みは明治20年(1887)に単線で開業した際の
橋台、他にも明治33年に複線化した際の橋台の遺構だと思われる煉瓦があると。

朝夕 ”中島川ガード” を車が通るので道幅の関係で一部煉瓦は削られていると。


10:19
新田入口バス停から2つ先の「今宿」までバス移動。
この先数十メートルに「中島西町の男女双体道祖神と文字道祖神」、またその先にも「中島東
町の男女双体道祖神」があるので「道祖神」についての説明が欲しかった。


10:32
各自で支払い今宿バス停で下車。
この区間バスも混んでおり、今宿から乗車する人も多かった。
新田入口から今宿バス停までは1キロで途中「道祖神、お寺」も有り歩いても良かったのではと。
後のスケジュールもあるので担当者は各ポイントの時間をチェックしておられた。


トイレに行きたい人はLAWSONを利用して下さいと。
この後、ここ今宿から茅ヶ崎一里塚まで約2.5kmを歩く。


小出川の向かい側にサクラ並木。
随行のガイドから茅ヶ崎には企業が少ないが、そんな中茅ヶ崎は音楽界に寄与している尾崎紀
世彦、加山雄三、サザンオールスターズなどを輩出している。また、”赤とんぼ”を作曲した山田
耕筰も茅ヶ崎から東京への汽車の中で作曲したと。


途中「国指定史跡の旧相模川橋脚」があったが先に「でかまん菓子舗」へ向かった。


10:45
でかまん菓子舗
所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6-5
昭和26年(1951)創業の老舗和菓子店でこしあんをベースに和菓子を販売しているようだ。


お土産の ”でかまん” を各自一個頂く。
帰宅後食べたが私はつぶあん派であるので ”ちょんまげ最中”、妻に ”でかまん” を。


店内ではいろんなものを販売。
お赤飯:400円、手づくりだんご:250円、栗むし羊かん:230円、おはぎつぶあん:160円、
夫婦鮎最中:130円と。


でかまんの大きさは30cm!。



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2024.04.25 03:00:09
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