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2015.11.17
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カテゴリ: 書籍
物語中東の歴史

物語中東の歴史

 「このような狂信性は中南米を征服したスペインのキリスト教徒にこそ当てはまるべきもので、アラブの征服者にそのような非寛容性はまったく見られない。」(77ページ)
著者・編者 牟田口義郎=著
出版情報 中央公論新社
出版年月 2001年6月発行

著者は、朝日新聞社記者として中東特派員をつとめ、退社後は成媛大学や東洋英和女学院大学で中東近現代史を教えている牟田口義郎さん。欧米とイスラームの緊張が高まる中、中東の歴史をおさらいしようと考え購入した。

冒頭で、「マホメット Mahomet とはムハンマドのフランス語表記が一般化したんだそうな。いつだったか、カイロでエジプト人の新聞記者と話していたとき、マホメットといったら、相手はいやな顔をして、『それはヨーロッパなまりだから、どうかムハンマドまたはモハンメドと呼んでくれ』といっていたね」(2 ページ)と紹介。

まず、イエス誕生の際にやって来た東方の三博士が持参する「2種類の香料(乳香、没薬)は、中東の古代文化の実態を知るための重要なキーワード」(20 ページ)になるという。時間を更に遡り、古代エジプト、ソロモン王とシバの女王、アルサケス朝ペルシア(パルティア)、アレクサンダーの帝国、そしてイスラームの台頭。
牟田口さんは、「コーランか剣か」という選択は欧米の作り話で、イスラームが求めたのは、この 2 つに加え、降伏して貢納することがあり、貢納を最も求めていたと指摘する。また、エルサレムをめぐり、ヨーロッパはイスラームへ十字軍を差し向けるが、じつはモンゴル帝国の存在があったと指摘する。
イスラームと欧米とでは文化習俗が異なる。イスラーム世界における主人と奴隷との関係は、「アメリカの場合に比べてはるかに開放的なところが特徴」(182 ページ)という

1453 年、コンスタンティノープルがオスマン・トルコ軍によって陥落しビザンツ帝国が消滅する一方、1492 年にスペイン軍がグラナダ王国を攻略し、レコンキスタが完成する。イサベル 1 世とフェルナンド 2 世はユダヤ人やイスラームの排除に乗り出す。
エンリケ航海王子やヴァスコダ・ガマなど、「西ヨーロッパの先兵としてインド洋に侵入したポルトガルの戦略目標は、このスパイス貿易の主導権をムスリムの手から奪取することにあった」(243 ページ)。「グラナダの陥溶とセリムのエジプト征服により、アラブ世界は以後 400 年にわたる衰亡の時代に入る。以後オスマン帝国のスルタンはアラブを徴税の対象としか見なかった」(253 ページ)。
なお、コンスタンティノーブル陥落の際、多数のギリシア人の学者・文人がイタリアに亡命した。これがルネサンスへの効果的な知的カンフル注射になったという。

オスマン帝国はスレイマン 1 世の時代に最盛期を迎え、フランスと結び、ポルトガルやスペインと対立する。しかし、レパントの海戦でスペイン海軍に敗れる。オスマン海軍はすぐに再建されるが、これについて世界史ではあまり触れられない。
だが、スルタンによる親征が止まると同時に、オスマン帝国の凋落が始まる。
第一次中東戦争では、ばらばらに戦ったアラブはイスラエルに各個撃破されてしまった。エジプト軍再建に乗り出したナセルは、アスワン・ハイダムを建設し、スエズ運河の国有化宣言を出した。エジプト国民に歓喜して迎えられたナセルだったが、これは第二次中東戦争に発展し、ソ連が核兵器の使用をちらつかせたため、世界機器へとエスカレートする。






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最終更新日  2015.11.17 19:19:24
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