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著者・編者 | SE編集部=著 |
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出版情報 | 翔泳社 |
出版年月 | 2010年5月発行 |
本書は2010年5月に刊行され、その直後に読了しているのだが、12年ぶりに再読した。
インテルが1971年に発表した世界初のマイクロプロセッサ「4004」や1974年のコンピュータキット「アルテア8800」に始まり、1980年代に日本の国民機となった「PC-9800シリーズ」、それを追って世界標準の流れに乗ったDOS/VやWindowsからインターネット時代まで、写真を多用し世相にも触れながら、わかりやすく日本のパソコンの歴史を解説している。
当時の開発者や関係者へのインタビューも豊富。秋葉原やパソコン誌の変遷などにもスポットが当てられており、パソコンとともに育った世代としては、自分史をたどっているようで面白い。
1971年に登場した世界初のマイクロプロセッサ「4004」は、ピジコン社の社員としてインテルに赴いた嶋正利、インテルのフェデリコ・ファジン、テッド・ホフらによって開発された。ピジコン社とインテルはプログラムによって制御する高級電車を作ろうとしたのだ。
1974年12月、4004を改良して8ビット化したCPU「8080」を搭載したコンピュータキット「アルテア8800」が米MITS社から397ドルで発売された。ミニコンより2桁安かった。ジム・ウォーレンは自らが編集長を務める『ドクタードブズジャーナル』創刊号で、「コンビュータがわれわれ一般人のものになり、世界に関する重要な情報にわれわれ一般人がアクセスすることができるようになれば、―(中略)―豊富な知識をふまえて合理的な意思決定を実際にできることを通じて、“人びとに力(powerto the people)”を与えうるものです。保守的な大企業はけっしてそういう方面には取り組まないでしょう。みずからが進んでリスクを引き受ける。ひたむきで元気溌刺の個人にしか、それはできません」と高らかに宣言した。1976年にデジタルリサーチは8080向けのCP/MというOSを発売し、すぐにアルテア8800に移植された。CP/Mによって、マイクロソフトのBASICをはじめとする多くの開発言語を利用できるようになり、普及し始めたフロッピーディスクの利用が簡単にできた。のちにIBM PC向けにCP/Mに似せて作られたOSがMD-DOSである。
一方、わが国では、NECが、8080のライセンスを受けたμPD8080ADを搭載したトレーニングキットTK-80を1976年夏に発売した。NECは秋葉原のジオ会館にコミュニケーションサロンBit-INNを開設し、ユーザーが情報交換できるようにした。これが大当たりとなり、1千台の販売目標を大幅に塗り替える6万台を出荷した。
Bit-INNは、1979年9月にPC-8001が発売されたときにも活躍する。PCとは「パーソナルコンピュータ」の略であり、日本に本格的なパソコン時代のはじまりを告げる名機だった。
とはいえ、ネットの無い時代、Bit-INNを訪れるには距離の壁が立ちはだかった。そこで、マイコン雑誌がユーザー間の情報の橋渡しを行った。1976年に工学社の「I/O」が、翌1977年には「ASCII」が創刊した。
1977年に、アメリカではApple II、PET-2001、TRS-80が発売される。翌1978年、わが国で日立のベーシックマスターとシャープのMZ-80Kが発売される。MZ-80KはBASIC言語をROMではなくカセットテープから読み込んで、起動する「クリーンコンビュータ」というコンセプトを持っていた。
IBM PCが発売された1981年、わが国でも16ビット・パソコンが発表された。NECのN5200と三菱電機のMULTI16だ。いずれも先端の機能を備えていながら販売が振るわなかったのは、メインフレームの顧客をターゲットにしたオフィスマシンという性格が強かったからだろう。
翌1982年10月にNECが発表したPC-9801は個人ユーザーをターゲットにすることで、のちに国民機として不動の地位を築くことになる。また、1985年にジャストシステムが日本語ワープロ「jX-WORD太郎」(のちの「一太郎」)を発売し、OSとしてのMS-DOSとアプリケーションの組み合わせとして大成功を収める。
1985年に発売されたPC-9801U2では、8086上位互換の自社製CPU「V30(μPD70116)」を搭載し、98アーキテクチャが完成する。
1984年に発売されたアップル・コンピュータのMacintoshは、IBM PCとは一線を画したパソコンで、GUIベースのOSを搭載していた。これがマイクロソフトを刺激し、Windowsの開発を加速させた。
1987年頃からハードディスクが流通するようになる。容量20Mバイトで30万円近くしたが、RAMボードに比べると安価で、10倍の容量があった。日本語辞書やアプリケーションはハードディスクにインストールし、フロッピーディスクでデータ交換する時代に入る。
また、パソコン通信のニフティサーブやPC-VANがサービス開始し、パソコン・ユーザーは自宅にいながらにしてコミュニケーションができるようになった。しかし、アナログ電話回線とモデムによる通信スピードは遅く、電話代を抑えるためにデータ圧縮ツールの開発が進んだ。工学者の奥村晴彦が考案したアルゴリズムをベースに、医師の吉崎栄泰がLHAという圧縮ツールを公開し、パソコン通信を介して普及した。
アメリカでは、IBMとマイクロソフトが16ビットCPU「80286」用のOS「OS/2」を発表した。マイクロソフトは、MS-DOS用のGUI環境MS-Windowsの開発も進めていた。
この頃、インテルが1985年に発表した32ビットCPU「80386」を搭載したIBM PC/AT互換機が発売されるようになり、IBMは対抗策としてクローズドアーキテクチャのPS/2を発売する。
IBM PC/ATまでのパソコンは、CPUとバスのクロックが同期していた。コンパックはCPUのクロックをブリッジによって分離することで、バスのクロックをそのままに、CPUのクロックだけ高速化したPC/AT互換機を発売し、IBMの牙城を切り崩したのだ。
80386は仮想的な8086実行環境を複数持つことができ(仮想86モード)、EMSをエミュレーションするドライバEMM386の登場により、MS-DOSの1Mバイトというメモリの制約がなくなった。また、マイクロソフトはMS-Windows/386を使って複数のMS-DOSアプリケーションを切り替えて使うことができるようにした。一方のOS/2はMS-DOSと同じCUIベースのOSであり、仮想86モードにも対応しておらず、普及にブレーキがかかってしまった。
1989年に80386を高速化した80486を発売すると、AMDやサイリックスが互換CPUを発売するようになった。インテルは1993年にPentiumを発売し、1997年にマルチメディア処理のためのMMX命令を追加し、互換CPUを引き離しにかかる。
一方、わが国では、NECとエプソンの互換機戦争が勃発する。
1986年10月、NECは重量3.8kgのラップトップPC「PC-98LT」を発売する。エプソンや東芝もラップトップPCを発売するが、PC-98LTよりはるかに重たい製品だった。
また、1987年に80386を搭載するPC-98XL2を発売し、1988年に普及型のPC-9801RAを発売する。OS/2やMS-Windowsも発売されたが、対応アプリケーションが少なく、まだ普及する段階にはなかった。
1985年にアップル・コンピュータを追われたスティーブ・ジョブズは、NeXT社を設立し、32ビットCPU「68030」を搭載したワークステーションを開発する。UNIXベースのNeXT STEPという専用OSを搭載していた。
商業的には失敗に終わったNeXTだったが、欧州原子核研究機構(CERN)で世界初のウェブサーバとして利用された。
NeXT STEPは、その後OPENSTEPと名前を変え、Mac OS Xや開発環境Objective-Cに進化していく。
1987年にシャープは、Macintoshと同じ16ビットCPU「68000」を搭載したパソコン「X68000」を発売する。アーケードゲーム「グラディウス」の完全移植が行われた。1989年に富士通が発売した32ビット・パソコン「FM TOWNS」は、初めてCD-ROMドライブを標準搭載し、アーケードゲーム「アフターバーナー」の完全移植を目指した。
1989年7月に東芝はJ-3100SS「ダイナブック」を発表する。A4ファイルサイズで重量2.7kgという大きさに加え、デスクトップ機の半分の価格設定が話題になった。この後、各メーカーから軽量パソコンが発売されるようになり、それらはノートパソコンと呼ばれるようになる。
1990年に日本IBMは、「IBM DOS J4.0/V」を発表する。PC/AT互換機上で稼働し、ソフトウェアだけで日本語表示を可能にする仕組みだったが、ハードウェアで日本語表示できる国民機に慣れ親しんでいる大多数のユーザーの関心は薄かった。日本IBMはDOS/Vのテコ入れのため、セガ・エンタープライゼスと「テラドライブ」を共同開発し、1991年5月に発売した。Z80、68000、80826の3種類のCPUを搭載し、DOS/Vとメガドライブのソフトが動く奇妙なPCだった。日本IBMはNECの牙城を崩すべく、なりふり構わず戦いを挑んできたのだ。
DOS/Vで日本語圏への参入障壁が下がったことで、海外のPC/AT互換機メーカーが日本市場へ流れ込む。まず、1992年3月にコンパックが12万8000円のDOS/Vパソコンを発表し、この価格破壊を「コンパックショック」と呼んだ。1993年にはデルコンピュータが、1995年にはゲートウェイが日本での販売を始める。国内メーカーは富士通がFMVシリーズで、エプソンはエンデバー・シリーズでDOS/V市場に参戦した。NECもついにPC-9821を発表し、DOS/Vの利用をできるようにした。
1990年発売されたWindows 3.0が普及すると、Windowsの描画機能に特化したLSIが開発されるようになる。91年に発売されたS3社のグラフィックアクセラレータ86C911が最初の製品だ。海外と違って国内ではPC-98のハードウェアが絶対標準だったため、Windows 3.0がハードウェアの違いを吸収する仕組みという認知が遅れ、とくにデバイスドライバの開発が進まなかった。
1988年にアメリカでインターネットの商業利用が始まり、欧州原子核研究機構(CERN)でワールドワイドウェブ(WWW)が誕生すると、インターネットの普及に拍車がかかった。米NCSAがウェブブラウザNCSA Mosaicを開発され、1993年3月にベータ版が公開される。のちのネットスケープ・ナビゲーターである。1994年9月に首相官邸がホームページを立ち上げたが、これはホワイトハウスより1ヶ月早かった。
1995年11月22日の深夜、翌日の勤労感謝の日を控え、秋葉原のパソコンショップには長蛇の列ができた。Windows 95の発売である。安定性においてWindows NTに劣るものの、MS-DOSを必要とせず、Win32 APIによる32ビット・プログラムの実行を可能にした。OSR2ではインターネット機能が標準搭載された。
同じ年、NTTがテレホーダイサービスを開始し、ダイヤルアップ接続料金が安くなったことでインターネット接続人口が急増した。こうして1995年はインターネット元年と呼ばれるようになる。
私は、電卓からパソコンを使い始めた――ハレー彗星の位置予報を計算するために関数電卓FX-31を購入し、手作業の部分があまりにも時間がかかるのでプログラム電卓FX-502Pを購入し、大学で大型電算機を使ってプログラミングを学びながら、ついにパソコンMZ-1500を購入――その意味では、パソコン開発の王道を歩んできたと言える。パソコン黎明期にホビイストの情報交換の場として機能した秋葉原のBit-INNにも出入りしていたが、のちのパソコン通信やインターネットのことを考えると、パソコンというのは単なる計算機ではなく、ヒューマン・コミュニケーションを触媒するツールでもあった。
私は、MZ-1500でプログラミングを学び、MZ-2500でOSや機械語、Cコンパイラをはじめとする各種言語の移植とアプリケーション開発にのめり込んでいった。同時にパソコン通信もはじめ、全国のパソコン・ユーザーと対話しながら、シェアウェアの販売や、いまでいうリモートワークでそこそこの収入を得るようになった。LHAの開発にも協力した。アルバイトでUNIXマシンを使ってソフトを開発していた。
もともと電子工作が好きだったので、ビデオキャプチャボードや、デバイスドライバを自作していた。この経験は、現在のIoT機器開発に役立っている。頼まれればWindowsのデバイスドライバも作っていたが、本書を読んで国内のドライバ開発が遅れていたことを初めて知った。この時期のパソコンは、電子工作好きのマニアのためのマシンではなくなっていたのだ。本書で紹介されているJ-3100SSダイナブックを即決で購入。音響カプラを持ち歩きながら、秋葉原でオフ会を開くようになる。秋葉原という場所は、東京駅と上野駅の中間にあり、全国から仲間が集まるにはちょうどいい立地なのだ(東北新幹線は上野駅止まりだった)。
仕事では、MS-DOSに限界を感じ、Windows 3.0/3.1ではなくWindows NTを使っていた。経営陣がコンパックショックを知ったおかげで、開発マシンの経費査定が厳しくなり、コンパックやデルのPCを調達したが、不良部品が入っていたり、取説通りにオプション品を追加できなかったり、ハード的な調整を施して騙し騙し使った。
1995年にアップル・コンピュータのPerrfoma 5220を購入した。普通のサラリーマンがMacintoshを買える時代になっていた。そして、自宅でもインターネットが利用できるようになった。インターネット元年さまさまである。パソコン通信とは違い、ユーザー数がどんどん増え、いまもこうしてネットを使って配信している。
PerfomaはCD-ROMドライブやテレビチューナーを内蔵しており、パソコンが計算機の延長でなくなった。フジフイルムのデジカメ「DS-7」や、Adobe Photoshopを購入し、写真がデジタル化。雑誌の懸賞でMP3プレイヤー「NOMAD」が当たり、音楽もデジタル化。子どもが産まれてホームムービーを撮るのに、もちろんビデオもデジタル化した。そして、1999年に「ぱふぅ家のホームページ」 https://www.pahoo.org/ を解説し、現在も続いている。
その後、家内の希望もあり、Macintoshを買い続けていくことになるのだが、パソコンに対する見方が180度変わったのは、結婚したことの大きな効用だった。
やがてパソコンはタブレットやスマホに取って代わられるかもしれないが、その本質は変わらないと思う――その本質とは、電子計算機やワープロのように、メーカーがユーザーに使い方を提供するものではなく、ユーザー自身が自由に使えるマシンであること。そのためにパソコンはオープンアーキテクチャであり、ハードウェア拡張性が担保されてきた。はじめて関数電卓を買ってから44年の歳月が過ぎた。望むらくは、この先死ぬまで、自分が自由自在に使えるマシンを手元に置いておけますように――。
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