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2024.05.04
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カテゴリ: 書籍
謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年

謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年

 桓武天皇が建てた国家再建の目標は、醍醐天皇の段階でようやく完成したといえる。その象徴的な法律こそ、平安時代的な荘園制を支配体制の中に位置付けた延喜荘園整理令であり、当時の社会に適合した法律を選定した律令の施し行こう細則集である『延喜式』だった。
著者・編者 榎村寛之=著
出版情報 中央公論新社
出版年月 2023年12月発行

著者は、斎宮歴史博物館学芸員で関西大学等非常勤講師の 榎村寛之  ( えむら ひろゆき )  さん。日本古代史が専門だ。平安京に遷都したのは西暦794年、鎌倉幕府が開かれ平安時代が終わったとされるのが西暦1192年――その間、じつに399年間。奈良時代から江戸時代に至るまでのどの時代より長い。
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の時代設定は、主人公の紫式部を中心に、藤原道長や一条天皇、清少納言、安倍晴明らが活躍する西暦1000年前後。つまり、平安時代も半ばの話である。それ以前の200年間の時代はどうだったのだろうか――これが本書のテーマである。

榎村さんによれば、奈良時代は律令制度の下、あらゆる事実が記録され、ある意味、「日本史上はじめて訪れたデジタル化社会」だという。ところが平安時代に入ると、社会は人間関係で動き、政治の動きも不透明で、律令はだんだん機能しなくなり、戸籍も空文化していく――と考えられてきたのだが、最近の研究によると、古代から中世に向けていろいろな試行錯誤が行われた時代だという。その結果として、紫式部や清少納言といった女性が活躍する場が整う。

榎村さんは、9世紀末に国が編纂した歴史書がなくなることに注目する。『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史は、世界の始まりから887年までをカバーしているのだが、このあと、突然、歴史書が編纂されなくなる。
歴史書の編纂というのは中国から伝わってきた文化だが、中国の場合、簒奪王朝がその正統性を主張するために歴史書(正史)の編纂に熱心だったのに比べ、10世紀にもなると、わが国に王朝交替が訪れることはないだろうから、正史編纂するよりも、先例重視へと考え方が変わっていったという。そして、奈良時代にあったような大きな内乱も少なくなる。
財政基盤も変化する。公地公民制から、743年に墾田永年私財法が制定されたことで荘園が増加する。感染症や自然災害で耕作放棄された農地を、資本家である大貴族が地域有力者に再開発を委託するビジネスモデルだった。結果的に国庫収入が減るから、宮廷は7位以下の官位を無くすという大規模な人員削減を断行した。紫式部の父・藤原為時も官位を得られず相当苦労している。
一方、大貴族は自分の娘を後宮に輿入れさせるために、多額の資金を宮廷に貢いだ。また、中央で官位を得られず地方に赴任した国主は、 受領  ( ずりょう )  から得た収入を宮廷に差し出し、国主の地位を安堵してもらったり、死んで極楽浄土に行くことを夢見て寺社に寄進した。
大寺院や仏教界も、9世紀初めに最澄や空海が最新の仏教を中国から輸入したことによって、国家の許認可から独立し、

孝謙天皇が重祚した第48代天皇・称徳天皇は生涯独身で、皇子がいなかった。一方、聖武天皇の娘で伊勢斎宮を引退した井上内親王を娶った白壁王(天智天皇の嫡流)は、称徳天皇の信任を得るものの、凡庸な生活を送り、政変に巻き込まれることを巧みに回避していた。770年に称徳天皇が崩御すると、白壁王は62歳という高齢で第49代・光仁天皇として即位する。781年に光仁天皇が崩御すると、百済系渡来人氏族を母にもつために即位はあり得ないと考えられていた第一皇子の山部王が、第50代・桓武天皇として即位した。

奈良時代の 平城京 における水上輸送の大動脈は、飛鳥川→大和川→難波津(大阪湾)であった。そして、もう1つのルートが、木津川→山崎津( 巨椋池  ( おぐらいけ )  )→淀川→難波津(大阪湾)である。
桓武天皇 は、784年に山城盆地に遷都し 長岡京 を置いたが、これは、木津川・淀川水系を利用する目論見があった。さらに桓武天皇は、敦賀から琵琶湖・淀川を経て難波津(大阪湾)へ至るルートを確保しようと考えた。昭和初期の干拓により消滅した巨椋池を船だまりとして活用した。
こうして飛鳥川・大和川ルートの重要性を低下させたことで、桓武政権は平城京を捨てて 平安京 へ遷都することが可能になった。

桓武天皇は、聖武天皇が造営し、その直系が支配した平城京から離脱を、あの手この手と場当たり的に繰り出した。たとえば、天照大神の直系と位置づけられる伊勢斎宮の井上内親王を廃し、伊勢神宮を改革し、仏教から切り離して国家法で動く神社にした。長岡京へ遷都した際には、天皇を皇帝に近づけようという中国風の儀式を行った。これは、桓武天皇の地位が聖武天皇の血筋によるものではなく、天から与えられたものだということをアピールする方便であった。平城京も長岡京も、内裏は高台にあるものの、周辺は湿地帯で感染症が起こりやすい。そういうリスクを避け、港としての経済機能は維持しつつ、都を北に拡張する。平安京の選定はそのような意識で行われた。

8世紀から9世紀にかけての高等文官試験では、現場の課題を解決するために秀才を確保するという性格を明確に持っており、政策提言を行うことになる。 春澄善縄  ( はるすみのよしただ )  高根真象  ( たかねのまきさ )  勇山文継  ( いさやまのふみつぐ )  (のちの安野宿禰)といった秀才を輩出した。このなかに藤原氏はいない。
だが、10世紀になると、こうした高等文官の役割が衰えてゆく。 菅原道真 の失脚が代表的な事件であるが、それ以外にも、藤原家の傍流だった 藤原為時  ( ふじわら ためとき )  は文人の出身で、花山天皇の家庭教師だったが出世できず、その娘の 紫式部 を除き、一粟は繁栄しなかった。

奈良時代、女性も男性とともに宮廷に仕えていた。後宮には12の司があり、 内侍司  ( ないしのつかさ )  を束ねる 尚侍  ( しょうじ )  と、 蔵司  ( くらのつかさ )  のトップ 尚蔵  ( しょうぞう )  はとくに重要なポストで、天皇の近くにいてその仕事をサポートスいる。女性天皇の時にも女官が担当しており、これは、天皇と一般人の仲介者としてジェンダーとしての女性が求められたのである。
しかし9世紀になると、 藤原冬嗣  ( ふじわらのふゆつぐ )  が下級官吏に過ぎなかった蔵人の長官である蔵人頭を新設し、権力を伸張し、藤原摂関家の基礎を築いてゆく。
日本の宮廷におけるハレムとしての後宮は、桓武天皇・嵯峨天皇父子の時代に形成されたと考えられている。桓武天皇は20人以上の女性に子どもを産ませ、嵯峨天皇は18人の女性に子どもを産ませた。その後、女官の数が急速に減り、醍醐天皇の時代には17人いた妃のうち1人も女官がいなくなる。
10世紀後半になると、清少納言、紫式部、和泉式部、赤染衛門、右大将道綱母などの女流歌人が活躍するが、女官と違って彼女たちの実名は記録されておらず、活躍の場も女御のサロンの中にとどまり、宮廷における女性の地位が低下していった。

律令には「天皇」の規定はない。つまり、手の出しようがない存在なのだが、にもかかわらず、律令体制下で天皇が名実ともに最高権力者であった時期は短く、孝謙が再度天皇となった称徳天皇時代の実質6年間だけだ。そして、貴族層の合議による光仁即位、他戸廃太子を経て、桓武独裁政権が誕生する。
それも一時のことで、嵯峨院政以降は、天皇の母が藤原氏になり、その父が外戚として天皇を守る護送船団体制となる。この体制では、もし皇族の女御がいてもそれを飛び越えて摂関家出身の女御が皇太后になるため、女性天皇が誕生する可能性が極めて低くなった。
また、古代には天皇が内親王と結婚するのは当たり前だったが、この頃になると内親王は天皇と結婚することができず、その代わりに伊勢と賀茂の斎王という仕事が回ってきた。
この頃、天皇の子供が氏と朝臣のカバネをもらって臣下になり、源氏や平氏に枝分かれしていく。そして、9世紀後半には、大伴氏、物部氏、紀氏などの古代貴族が太政官から姿を消し、藤原氏と源氏ばかりが残る。
藤原基経が死去すると、宇多天皇自身が護送船団の長となり、有能な官人を太政官に取り立てる。その象徴が菅原道真だった。だが、その突出した存在を恐れた藤原氏摂関家・源氏が共謀して道真を左遷する。こうして、藤原長者が護送船団を率いる体制へ移行し、さらに一条天皇の時代になると護送船団を解体し、、藤原兼家と、その子孫の道隆、道長、頼通が、その娘である皇后を媒介に天皇と数少ない皇子女を包み込むような新たな摂関政治が始まる。
一方、地方では、延喜の荘園整理を受けて国司と土着貴族との対立と癒着から生まれたひずみが天慶の乱(平将門・藤原純友の乱)として噴出した。そして、将門を討ったのは、同様な立場にあった平貞盛や藤原秀郷であり、彼らは後の時代の武士に近い地域支配を作りをはじめる。

9世後半の宮廷サロンでは紫式部や清少納言が活躍しているように感じるが、当時は社交界のような場がなく、宮廷で仕事をしていない彼女たちが男性に会う機会は少なかった。そこで、同じような立場の女性たちがネットワークを作り、相互に生活の糧を得ていたと考えられる。榎村さんによれば、『源氏物語』にせよ『枕草子』にせよ、そのスタートは女御のサロンで回覧されていた、いわば「同人誌」が流出したもので、文学的価値が定着したのは鎌倉初期、藤原定家が『源氏物語』を再評価した頃のことだという。

斎宮の整備は、672年に天武天皇が壬申の乱に勝利したことが、天照大神の加護によると強調するために行われたと考えられている。そのために伊勢に派遣された[ 大来  ( おおく )  (大伯)皇女:wikipdia:大来皇女]は、歴史上最も有名な斎王とされる。伊勢には斎宮として、都の宮殿を意識したレイアウトの立派な「院」が用意された。
しかし、斎宮は8世紀後半の称徳天皇の時代に一旦廃絶し、8世紀後期の光仁天皇の時代に再び斎王が置かれるようになった。
長岡京遷都のとき、賀茂が重視されるようになり、嵯峨天皇の時代に伊勢神宮と同様に内親王が  ( いつき )  (賀茂斎院)として仕えるようになった。さらに、藤原氏の神社である春日神社にも斎女が置かれるようになった。

『古今和歌集』の選者としても有名な紀貫之だが、じつは前半生はよく分かっていない。身分が低く、記録に残っていないのだ。紀氏は名門ではあるものの、藤原氏のように「家」になることができず、衰退していく古代氏族だった。榎村さんは、貫之が記した『古今和歌集』の真名序を取り上げ、、9世紀の和歌は、社会のエリート階層から脱落した武官や下級官人といった元有力氏族のディレッタント(趣味人)の遊びにすぎなくなっていたと指摘する。とはいえ、歌合に始まる歌壇が形成され、下級貴族が上流貴族と交流する機会を得ることできるようになり、『源氏物語』『枕草子』などの女流文学が花開く準備は整った。

もともと平仮名は男女の区別なく使われていたが、宮中に文人は男性の比率が高まり漢文の使用率が高まる。けれども、日本語の曖昧さを表現するには、表音文字である平仮名に軍配が上がる。榎村さんは「あはれ」を例に挙げ、現代語の「尊い」や「エモい」に近い使われ方をしているようだが、漢字で表現するのは極めて難しいと指摘する。
そんななか、榎村さんはは、政治的能力で一時期の宮廷を席巻した女性が藤原定子だと指摘する。藤原定子は、藤原兼家の長男・道隆と、最も有能な宮廷女官である高階成忠の娘・貴子の間に産まれた娘である。一条天皇の中宮となった定子のサロンには清少納言が加わり、榎村さんによれば、身分は高くないが軽視すべからざる有能な女房、という意味で「少納言」と呼ばれた可能性が高いという。だからこそ彼女は「定子の分身」として漢学の才能を道長や行成に「ひけらかす」必要があった。
中宮定子が没すると、藤原兼家の五男・道長の娘、藤原彰子が中宮となり、そのサロンには、理想化された仮想宮廷物語『源氏物語』の紫式部、実録歴史物語『栄華物語』の赤染衛門、規範にとらわれない天才歌人の和泉式部が結集する。

この時代、東寺・西寺の造営を最後に国家事業としての院・僧侶・経典の作成が姿を消していき、延暦寺・嘉祥寺・貞観寺などの天皇の私事が増えていく。最澄の天台宗や空海の真言宗は、それ以前の南都六宗と異なり 戒壇  ( かいだん )  を持っており、自分の力で僧侶を養成できるようになった。唐が衰退し、中国へ渡航する学生が減り、日本独自の仏教へ変化していく。
紀貫之たちが始めた「日本語で考えること」は、清少納言・紫式部・赤染衛門たち後宮サロンの人々によって独り立ちし、いわゆる「国風文化」が花開くことになる。

歴史の授業では瞬間風速的に触れた西暦1000年前後の時代――「藤原道長」「摂関政治」というキーワードだけ覚えた方も多いのではないだろうか。
社会人になってホームページを作っていたところ、紫式部と藤原道長が生きていた時代が被っており、同じ頃、宮中に清少納言がいたことが分かると、この時代に興味が湧いてきた。このあたりの話は「 西暦1000年 - 藤原彰子が中宮に 」として記事にした。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌が残る道長だが、御堂関白と呼ばれながらも、関白の職に就いたことがない。にもかかわらず、なぜ摂関政治の中枢に居座ることができたのか。そもそも摂関政治とはどういう経緯で誕生したのか。紫式部や清少納言の本名が伝わっていないのはなぜか――本書は、こうした疑問に、説得力のある仮説を提示してくれる。
さらに、聖武天皇から桓武天皇を経て醍醐天皇に至る歴史に、国家財政、文学、宗教の視点からスポットを当てている。伊勢神宮や春日大社の斎宮や斎女、紀貫之、小野小町、在原業平、平将門、菅原道真、最澄、空海といった歴史上の人物が、教科書とは違った観点から1本の歴史絵巻として浮かび上がってくる――だから歴史は面白い。






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最終更新日  2024.05.04 12:45:29
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