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奇 知 外 記
天一国・天聖経 - 第1篇 神様 - 第4章 - 解放してさしあげるべき神様
第四章 解放してさしあげるべき神様
第一節 神様の恨と復帰摂理
1 天地万物を造られた神様は、人間をこの上なく愛してお造りになりました。造ったどのようなものより も、一人の人間に対して、その栄光と希望と篤実な心情を中心としてお造りになりました。その一人の人間が成長して希望を成就することによって、幸福を謳歌 し、平和の家庭を造って、神様と共にあることを神様は願われました。堕落していない本来のアダムとエバを造って喜ばれた神様、アダムとエバ が成長するたびに、神様は切ない心情、懇切な心情をもって一つの希望の勝利を完結できる、その時を待ち望まれたのです。成長するアダムとエバを前にして、 造られた創造世界を見つめるたびに、「お前のために造った万物も良いが、万物を治めるお前を見つめるのはもっと良い」とおっしゃる父の心情、父の気持ち だったというのです。そのように、希望として映ったアダムとエバ、幸福の根拠地になれるアダムとエバ、またあらゆる万物世界においてよりど ころとなる中心存在であるアダムとエバ、あるひと日、堕落の日があってはいけないアダムとエバ、悲しみのひと日があってはいけないアダムとエバでした。し かし、そのアダムとエバがある日、失敗することによって、堕落という言葉がもたらされ、悲しみという言葉がもたらされ、神様の希望の世界に暗黒の権勢が侵 入したという事実は、恨めしく、悔しい出来事だったのです。
2 人類始祖が堕落することによって、人類始祖の悲しみ は当然のことですが、人類始祖を見つめ、希望をもっていた神様が、人間によって悲しみに遭遇したのです。人間が悲しむ立場に藩ちることによって、神様御自 身がかわいそうな立場、悔しくて苦痛な立場に立たなければなりませんでした。これは、この地上と天地間においては、残念な、あるいは考えることすらできな かったことですが、人類始祖の失敗によって、そのような事件が起こりました。これが人間の堕落です。
なぜ悲しみの神様なのか
3 アダムとエバが堕落することによって、永遠の神様の愛と理念を中心として愛の園で永遠の福楽を享受するようになっていたその創造の理想が挫折し、今まで神 様は、数千年の歴史の中で苦労されざるを得なくなりました。ですから、皆さんは、アダムとエバが堕落することによって果たせなかった創造理想を成し遂げる ために、神様が今までサタンと闘いながら感じられた、その悲しい心情を体恤しなくてはいけません。皆さんは、アダムとエバを失ったその時の 悲しみ、アダムとエバが神様を裏切って堕落した時の神様の、その悲しい心情を体恤しなければならないのです。そのためには、先に神様の愛とは何なのかを知 らなければならず、神様が人間をどの程度まで愛されるかを体恤しなければなりません。それができなければ、神様がアダムとエバを失って悲しまれた、その心 情を到底体恤する道はありません。
4 神様は、栄光をもって出現される存在です。人間の喜びが神様の喜びであり、神 様の警びが人間の喜びになることが創造理念なのですが、その理念は行き場を失い、神様は凄惨な姿になりました。人間の前に現れる神様の姿は、栄光の姿では ありません。どのような凄惨な個人や民族とも比較できないほど、凄惨な立場にある神様です。本来、神様は栄光の姿でしたが、人間が堕落した その日から、その反対の姿でいらっしゃるようになったのです。神様はあらゆるものを子女である人間に任せることができ、人間はあらゆるものを父なる神様に 任せることができるというのが、神様と人間の相互の立場でしたが、そのようにすることができなくなりました。凄惨な姿で子女たちの前に現れるしかない父母 の心情が、どれほど苦しいでしょうか。しかし、自分の苦痛と事情を告げたいと思わず、無限に骨を折られる悲しい姿を見せたくないと思われる神様です。
5 今まで人間は、神様が栄光の中で、苦難や苦痛がない中でいらっしゃるお方だとばかり思っていました。数多くの宗教も、今まで歴史過程でそのように考え、信 仰生活をしてきました。本当の意味で神様は、御自身の家庭、御自身の子女、御自身の財産、御自身の国と世界を失った立場にいらっしゃいます。そのような立 場にいらっしゃるお方が私たちの父です。その父に出会えば、自らのすべての恨が解怨され、今まで待ち望んできたすべてが解決されると思って いました。ところが今日、この道を求めてきて父母と対面してみると、その父母がもっている財産はもちろんのこと、世界と父母のあらゆるものが怨讐の手の中 に置かれているというのです。
6 皆さんは、歴史的に悲痛な神様のお姿を心中に抱き、悲しい神様の心を慰労し、喜び と栄光をお返ししてさしあげる孝子にならなければなりません。神様は、今も落胆し、嘆息していらっしゃいます。私たちは、神様をお迎えし、民族を越え、世 界を越え、万民と共に天宙の全権を身代わりして神様の恨を解いてさしあげ、勝利の一日を迎えなければなりません。神様が、審判する代わりに祝禰してあげた いと思うことのできる、そのような息子、娘になるために身もだえしなければなりません。そのような人になってこそ、残る群れになります。激 しい環境と逆境に苦しめられても、それに屈することなく、「私だけが残りました」と言えなければなりません。このような心情をもってこそ、神様と命の関係 を結ぶことができます。このような心情と結ばれていれば、いくら強い北風や暴風が吹きつけてきても、このような生命力をもった心情の絆を、あえて崩すこと はできません。
7 神様は、玉座に座って栄光を受ける神様ではありません。堕落した人類に対して、神様は今まで救援 するために、毎日痛哭していらっしゃいます。そのような立場で人類を導いてこられたのが神様の姿です。神様は、このように悲惨なお方です。悲惨な姿に落ち た人類を救援するために、神様は寝ている人類を起こして、「来なさい!来なさい!」とおっしゃるのです。しかし、そのようにして行くようにはなっていない のです。責任分担を果たさなければなりません。これを身代わりしてあげられない立場でみ業を成し遂げようとするのですから、どれほど大変だったでしょう か。
8 神様は、悲しみの主人公であり、苦痛の主人公です。このように私たちが侍るべき父は、喜びと栄光を享受した いと思う心はもっていますが、そのような内容をもって喜んだり栄光を享受したりしてみることができなかった神様です。堕落の恨とともに、悲しみと苦痛の内 容をもたれた悲しみの神様であり、苦痛の神様です。私たちは、神様が幸福な方だと思っていますが、決してそうではありません。喜ぶ内容があ るかと思っていくら隅々まで探してみても、そのようにはなっていません。世の中を治める権力をもって栄光を享受し、幸福を謳歌する内容だけをもつべき神様 には、喜びと栄光と善の結実、理想の要素がすべてなくなり、悲しみと苦痛だけが残っています。これが恨めしいというのです。この上なく悲しいことの中で も、これ以上に悲しいことは、天地のどこにもないでしょう。
9 神様は最も悲しいお方です。死んでいく自分の母がか わいそうだと言って泣く人よりも、神様はもっと悲しいお方です。善を主張することで、万民が公認する立場で民族の反逆者として追われて、恨めしく死ぬ人よ りも、もっと無念なお方です。最も悔しく、最もかわいそうな主人公が、正に神様です。それを実感できるように教えなければならないのが宗教です。神様が着 ている服は、栄光の服ではありません。血の汗に浸っている服です。その服は、御自身の息子、娘たちが手でつかもうとしてつかめなかった、血のにじんだ手で 作った服です。神様の足は、茨の道をかき分け、数多くの闘争歴史で傷を負った足です。神様は、一人の個人が恨を解こうとして倒れるとき、代わりに打たれて きたお方であり、一つの民族を立て、その他の様々な民族が倒れ、裏切るようになるとき、その一つの民族の代わりに打たれながら闘争するお方です。私たちが 信じてきた神様は、このようにかわいそうなお方です。
かわいそうな神様
10 神様は軟禁状態にあ ります。息子を失った、永遠のひとり子である息子、娘を失った父母の苦痛を抱いて生きる神様です。恨の神様です。今まで涙を流し続け、胸をたたきながら救 援歴史のために人間の後ろについていきながら、数限りなく死に遭遇し、ありとあらゆることを見ても、耐えに耐えた神様です。その胸に、釘が打ち込まれてい るとすれば、世界を覆って余りある釘が打ち込まれているのであり、恨があるとすれば、この世の中にない恨を抱いてきたというのです。それが神様です。
11 神様は万物の主人ですが、その主人の行動を一度もしてみることができませんでした。愛の主体ですが、人間に対して「私はお前を愛している」と言ってみるこ とができなかったのです。あらゆるものをもち得る自由な立場にいても、人間に対して「お前は私のものだ」と言って、思いどおりにしてみることができない神 様です。また神様は、地上に多くの人類が生きていますが、彼らを一度も御自身の息子、娘、あるいはサタンをはねのける勇者として立ててみる ことができませんでした。イエス様を信じているキリスト教徒たちがたくさんいますが、神様は彼らを、サタンに対する総進撃の命令を下せる総司令官として立 ててみることができず、イエス様を立てて天使世界に命令して地上と関係を結ぼうとしましたが、そのようにすることができませんでした。地上の人間に新婦の 理念を与えて新婦を探し回りましたが、新婦だと言ってサタンに誇ることのできる一人に会うことができなかった神様です。そのような神様のみ前に、私たちは あまりにも申し訳ない群れです。
12 神様は、無限にかわいそうなお方です。罪悪の子女を抱き、「愛する息子だ」と 言わざるを得ない不自由な立場にある神様は、罪悪の息子、娘が生きているこの地上に来られて、引き裂かれ、傷つけられ、追われる神様です。神様は痛哭して いらっしゃいます。神様の心情には、ずたずたに裂けた傷があります。民族が倒れて新しい民族がつくられるたびに傷を受けられ、歴史のどの一ページにも、例 外なく神様の心情の曲折が隠れているというのです。
13 神様には恨があります。人間の堕落によって生じた恨があり ます。語ることのできない曲折と恨の内容があります。人類を救援されるためにあえぎながら探し求めてこられた神様は、悲しい身の上です。この地上の、どの ような物乞いも、神様よりはましです。神様がそのようになりました。神様が玉座に座って天地万物に号令し、あらゆることが思いのままになる とすれば、なぜ六千年の間、罪悪の人類を導いてこられたのでしょうか。一番かわいそうなお方です。主人であるにもかかわらず、主人の本分が果たせませんで した。父であるにもかかわらず、父の本分が果たせませんでした。これほど悔しいことはないというのです。御自身が造ったものであるにもかかわらず、御自身 の思いどおりにできず、御自身の息子、娘であるにもかかわらず、息子、娘だと言うことができませんでした。この壁を崩すために摂理してこられたのが六千年 の歴史です。
14 世の中で、最もかわいそうなお方が神様です。最も多くの苦労をした、苦労の大王が神様です。人間 を創造したその日から、人間を見るまいとしても見ざるを得ない運命を抱えた父の立場にいらっしゃる神様、春夏秋冬はもちろん、六千年の歴史の中で、一時で も手放すことのできない人間の姿を見つめながら、苦しみあえぎ、泣き叫ぶことが生活哲学となり、それを掲げて人間を支える生活をしてきた神様なのですか ら、どれほどかわいそうなお方でしょうか。
15 歴史的な神様、時代的な神様は、悲しい神様です。過去と現在の神様は、悲しみの神様です。この悲しい神様を知って迎えることのできない者は、審判され るというのです。この世の中で本当に神様を愛する者だとするならば、自分の悲しみと自分の苦痛があるとき、これを解決してほしいと神様に祈ることはできません。歴史的な悲し みと苦痛を担って今まで訪ねてこられたことだけでも恐縮で、有り難いのに、これを知らずに自分の悲しみと自分の苦痛まですべて表す者たちは、審判されるよ うになります。歴史的な悲しみの神様であり、時代的な悲しみの神様に、とても自分の苦痛を祈ることができず、一人で泣く人がいるならば、神 様は同情してくださるでしょう。「私の苦痛より神様の苦労がどれくらい大きいでしょうか。私が死ぬとしても、その苦労を私にお任せください」と言う息子、 娘にならなければなりません。今日、ただ福を下さいといって祈る人々は、行けば行くほど神様のみ前に頭を上げることができない罪人になるでしょう。恩賜が多い神様の愛の圏内に入れば入 るほど、頭を上げることのできない罪人です。
16 神様は永存されるお方です。神様が涙を流すのは、死の道を一掃し、苦痛の道を一掃し、悲しみの道を一掃するためです。神様が悲しみと苦痛と死の道を一掃す るために、先に涙を流し、血と汗を流してきたことを知って、私たちは、そのみ旨を身代わりしなければなりません。神様が死の場に行かれてはいけません。今 まで神様は、最後の死の場、最後の涙を流す場、最後の血と汗を流す場に私たちの先祖を立てました。このようにしたのは、神様に愛がなくてしたのではありま せん。そのような場を解消するために、神様も、それ以上の痛みを感じられました。愛する子女が死ぬその瞬間、父母の心は、どれほど苦痛であり、愛する子女 が苦痛を受けるのを見つめる父母の心情は、どれほど痛むでしょうか。自分が死ぬよりも、もっと痛むのです。このような痛む心情を抱え、人類歴史が始まって 以降、苦痛を受けてきた神様です。私たちは、一代を中心として一度苦痛を越えれば、私たちの責任はすべて終えることができますが、神様は、今まで私たちの たくさんの先祖たちが死の道を行くたびに、涙の道を行くたびに、血と汗を流す道を行くたびに、悲しみと苦痛の道を行くたびに、激しい苦痛を受けてこられました。
父母の位置を奪われた神様の恨
17 神様は、本然的真の父母の立場にあるお方です。真の父 母となるべき神様が父母の立場を奪われてしまったので、創造理想の本然的基準にはなかったことが生じました。この創造世界にはあり得ないことに対して、創 造主であられる神様は、干渉することもできず、それに責任を負って消化する立場にも立てないというのです。
18 神 様は、王の座を怨讐に奪われました。神様は、栄光の神様となることができず、悲しみの歴史を抱えていらっしゃいます。御自分の国の王として、宇宙の王とし て存在するにもかかわらず、王が生きているにもかかわらず、王は死んだと蔑まれていらっしゃいます。結局は、御自分の愛する息子、娘をすべて奪われ、地球 星は完全に怨讐によって、籠絡の場となってしまいました。
19 人類始祖の堕落によって、神様は愛する子女を失った 父母になりました。子女が監獄生活をしているのに、栄光を享受する父母がいるでしょうか。神様の心情は限りなく痛むのです。また、堕落によって、人間のた めに造った宇宙万象までも、すべてサタンの主管圏に差し出してしまいました。真の愛の主人であられる神様は、その愛の対象を失った瞬間か ら、限りなく孤独な神様になりました。万有の主宰者としての権能を、一度も主張してみることができませんでした。愚かな堕落人間もみな自分を誇って生きて いるのに、神様は創造主の威信を一度も立ててみることができませんでした。あらゆる生命の主人でありながらも、それらの前に至尊な御自身を現すことができ ませんでした。
20 人間が堕落することによって、何を失ったのでしょうか。第一に、真の愛の理想世界を失い、第二に、真の愛の理想家庭を失いました。真の愛の夫婦を失っ たというのです。第三に、真の愛の息子、娘、宗家の一番上の孫を失いました。これが神様の三大悲哀です。
21 み旨の完成を望んできた神様の時代は、堕落によって、成し遂げられずに消えてしまいました。天地万物を造られた神様の希望の場に、根本的な破綻をもたらし ました。神様が計画していたあらゆるプログラムが完全に破壊され、蹂躙されました。永遠の愛の理想対象圏が破綻させられたというのです。純粋な本質的な愛 をもった神様が、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落していった時、神様の心はこの上なく悲しかったでしょう。これ以上ない極めて悲痛な思い だったでしょう。
22 キリスト教では、「神様は栄光の中にいる審判主として、地獄へ送り、天国に送る」と言いま す。この世で最もかわいそうなお方が神様です。最も悲痛で身もだえしながらも、光明の天地が暗黒の地獄へと落ちるのを防ぎ、そこで体を支え、目を見開いて 気を取り直し、死に至った子女たちを生き返らせようという心をもたれたお方が神様です。
23 人間と永遠に共にいる べき神様が、その人間と引き裂かれるときの、その悲痛さと悔しさと憤りと悲しさは、どれほど大きなものだったでしょうか。人間は、全宇宙とも取り替えるこ とのできない一つの愛の基地を目指して成熟し、平衡を保った上で縦横が結合する一つの軸をつくらなければなりませんでした。そのようになっていたならば、 それが一つの基準となり、天地のあらゆる万物の測定基準になることができました。その愛と関係が結ばれたすべてのものは、どこにでもみな合うようになって います。
24 神様も、自分の愛の相対が自分より優ることを願います。その愛の相対が人間なのです。それなのに、人 間が特権的な価値を喪失して苦しむ、そのような無価値な人生を見つめる神様の心情は、どれほど悲惨でしょうか。その人たちが、本来は自分の愛と自分の生命 と自分の血統を通して直系の子女となり、天の国の勝利の栄光を占有するはずだったにもかかわらず、敗者の仮面をかぶって呻吟と苦痛と嘆息と絶望の中であえ いで、生命を断つ立場にあるというのです。それを見つめる神様は、どれほど胸が詰まる思いでしょうか。そのように悲しい神様なのです。
25 皆さんは、自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されるときには、慰めを受けることができます。神様は誰よりも悲痛さを経験していらっしゃるので、その神様 を誰も慰労することができません。始まりも神様御自身であり、終わりも神様御自身なので、その心の中にしこりとなっている恨をいかにして解くかということ が、神様の内的な事情です。神様は、このような事情を抱いて、今まで復帰摂理をしてこられました。霊界は、時間と空間を超越した世界なの で、六千年前の悲しみも、歴史時代圏内に永遠に残るのです。もし、自らを祭物として捧げたという体験によって喜びを感じたとすれば、それが時間圏の内容で あっても、生活圏の内容であっても、一生において忘れられないのです。歳月が過ぎれば過ぎるほど、その幅と広さが大きくなってあがめられる対象になり、そ れが無限の根源と関係が結ばれるというのです。これから皆さんが、このような神霊的な体験をして、そのような内容をもって実行するようになれば、神様が今 まで受けてこられた悲しみが一時的なものではなく、連続的につながってきたということが分かるでしょう。
26 私たちは、自らを前面に立てて自分のことをむやみに話してはいけません。長い歴史の裏道で、真の自分を語ることのできる子女を探して、恨に絡まった復 帰摂理をしてこられた神様の心情を少しでも知るならば、むやみに自分を主張できないのです。私 たちは、寝ても覚めても理想家庭完成のために生きなければなりません。神様の創造本然の世界である平和世界、神様が千年、万年待ち続けてきた理想家庭さえ 立てるならば、そこが正に地上天国の出発地になるでしょう。そこで、かわいそうな神様の恨を解いていけるようになるでしょう。
変わらない神様のみ旨
27 神様は絶対者であられるので、志されたことを成就しないわけにはいかず、なさろうとしたみ旨を必ず成功させなければならないお方です。堕落したアダムとエ バを再び収拾して、再生工場で修理し、本然の神様の愛を受けることができる、堕落していないアダムを再び造り出さなければならず、エバを再び造り出さなけ ればなりません。そうして再び探し出された父母に連結させて、子女を探さなくてはいけません。そのような立場にあるので、救援摂理が始まったのです。
28 神様のみ旨は変わりません。人がいくらたくさんいるとしても、み旨に向かって行く道は一つしかありません。絶対的な神様なので、み旨も一つであり、そのみ 旨の道に向かっていく道も、二つの道にはなり得ません。自分勝手に行き来することはできないのです。一つの直線しかないというのです。
29 絶対的な神様は、歴史観をもっていなければなりません。その歴史観は、摂理を通して現れます。摂理の中には、摂理のみ旨に従う人と、従わない人がいます。 言い換えれば、信仰生活をする人と、しない人、この二種類がいます。こうした東西南北の文化圏を収拾して、一つの世界へと指向する絶対的な神様の理想、す なわち神様のみ旨は絶対的に一つです。神様のみ旨、神様の指向するその目的は、人類を破綻の渦中に追い込むためのものではなく、人類を解放と平和の境地に導くためのものです。ですから、平和の 終着点に向かって、統一された世界に向かって歴史は動いていかなくてはなりません。
30 あなたと「私」の二人が神様の愛を中心として愛し合い、み旨を中心として愛し合うなら、どれほど素晴らしいでしょうか。そうすることのできる家庭、そ うすることのできる氏族、そうすることのできる民族、そうすることのできる国家、これが私たちの望む願いです。そのような圏内に「私」が包括されて生きている立場、すなわち歓迎し、呼吸し、授け受けする圏内で、私が主体的な立場で挙動しながら生きるという立場に立つ とき、それこそ痛快なことではないでしょうか。無限の世界が伸びていき、無限の世界が縮小され、主体としての調和の関係を提示できる私であり、脈拍の起源 に波動を起こさせる私だということを考えるとき、どれほど痛快な立場かというのです。そのような私がどこかに行くようになれば、神様もついてきます。私が 隠れてしまえば、神様も困ります。それができると自覚されたところから統一の要因が決定されるのです。
31 いくら 外的勝利が完結したとしても、内的勝利がここに伴って完結しなければ、一つの全体目的を完成することができないと見るのが原理の観点です。ここで、内的な ものが重要か、外的なものが重要かということが問題です。二つのうち、内的なものをより重要視せざるを得ません。内的な問題は、神様のための問題であり、 外的な問題は、人のための問題だからです。このような観点から、私たちは神様のみ旨を重要視せざるを得ません。神様のみ旨は、神様と内的に 一つとなった個人を通して家庭を形成し、その家庭を通して内的に一つになった氏族を形成し、その氏族を通して内的に一つになった民族を形成し、その民族を 通して内的に一つになった国家を形成して発展させようとするのです。これが神様の計画です。
32 罪のある世の中か ら、罪のない世の中に移さなければなりませんが、これが救援です。移すということが救援なのですが、それがすなわち復帰だということを知らなければなりま せん。本来、神様のみ旨は、救援ではありません。ですから、本来の神様のみ旨に戻らなければならないのです。メシヤが来る目的は、神様のみ旨を成し遂げる ためのものです。神様のみ旨とは何でしょうか。悪魔サタンの世の中にいる人たちを、すべて自分の所に救い出すことであり、悪魔サタンを追放することです。今日、皆さんが生きている所には、罪を犯せば讒訴する悪魔サタンがいます。これを追放しなければなりません。人類を救援することが神様のみ旨であり、人類 を滅ぼし、人類を蹂躙する悪魔サタンを、この地球星から永遠に追放することが神様のみ旨です。
33 神様にとって一番重要なことがあるとすれば、それは何でしょうか。み旨の成就であることは間違いありません。み旨を成就すること、言い換えれば、創造理想 を完成すること以上に重要なことはありません。しかし、創造理想、すなわち、み旨を成し遂げなければならないということは、神様御自身のこととしてのみ残 される問題ではありません。み旨の成就というものは、あくまでも神様を離れた相対の立場にその成否がかかっているという問題になってくるのです。ですか ら、神様御自身にのみ直接的な問題になるのではなく、相対的問題としても現れるのです。神様がアダムとエバを造る前に天地万物を造ってお き、その次にアダムとエバを造って中心の位置に立てておきましたが、その中心存在が勝利の結実体になることがもちろん神様の望みですが、そのようになれる かなれないかということは、神様御自身に鍵があるのではなく、人間自身にあるのです。
34 堕落した父母、すなわち偽りの父母から生まれた人間は、神様と関係を結ぼうとしても結ぶことができなくなりました。すなわち、天地を創造した創造主 と内縁の関係を結ぶことのできる何ものももてなくなったのです。創造の原則を中心として見てみるとき、人間は神様が造ったという由来があり、そして、神様が人間を造った目的が人間を堕落させるためではなく、完成させるた めであり、創造の標準となる法度があるので、このようなものを中心として人間が再び責任を遂行するようにするためのものが、第二次的な復帰摂理路程です。復帰摂理は、堕落する前の状態に引き上げる路程です。人間は堕落することによって無原理圏の世界に落ちてしまいました。言い換えれば、原理がない世界、神様が干渉しようとしても干渉できない世界に落ちてしまったのです。
35 神様が主体と動機にならなければなりません。人間だけでは、神様と関係を結ぶことができず、恨のどん底から抜け出すことはできないのです。創造の原則から 見てみるとき、人間は本来、神様と父子の関係を結ばなければならないことを御存じの神様なので、神様は落ちた人間を再び子女の立場に引き上げようとします が、そうするのは容易なことではありません。創造より何倍もの受難の道を行かなければならないのです。神様は、今まで無原理圏内に落ちた人間を、はしごを 置いて引き上げる摂理をしてこられたのです。
36 神様は、アダム家庭が堕落したその日から、アベルを中心として摂理しました。父母が誤ることによって、子女を中心として摂理したというのです。摂理の目的はみ旨を立てることですが、それではみ旨の目的とは何でしょうか。創造理想、創造目的を完成することです。創造目的の完成は、愛の一致であり、理 想を実現することです。ですから、アダム家庭において、このことが成就しなかったという事実が堕落だと見るのです。それでみ旨と心情の喪失が堕落によって 成立したのです。これを復帰するために、これを再創造するために、アベルを立てて役事したのです。アベルの意志と神様のみ旨は分離されるの ではなく、一致しなければなりません。神様が御覧になる次元とアベルが向き合っている次元が一致しているでしょうか。次元は違いますが、行く方向におい て、個人としてアベルが向き含っている立場は、神様の全体のみ旨の前にはもちろん差がありますが、み旨を行っていく過程で、向き合うみ旨の立場と方向は一 致しなければなりません。ですから、アベルは救援摂理を完成するためにカインと一つにならなければなりません。カインを一致化させることが問題です。
37 堕落した人類は、いまだに世界が立証することができ、地が立証することができ、天が立証することができる、永遠の生の価値を見いだすことができずにいま す。ですから、堕落した人間には、個人の生の価値を取り戻し、個人を経て世界的な生の価値を取り戻し、世界を越えて天的な永遠の生の価値を取り戻さなけれ ばならない復帰の使命が残っているのです。それでは、神様が今日まで摂理のみ旨を立て、全体の生の価値を求めてこられた目的は、どこで終結 するのでしょうか。それは、皆さん一個体や世界で終結するのではありません。天と地が一つになって神様が喜ぶことができると同時に、世界が喜ぶことがで き、世界が喜ぶことができると同時に、個人が喜ぶことができる生の価値を取り戻さなければなりません。その時になって、初めて天の救援摂理も終わり、サタ ンを中心とした世界的な人倫も終わり、個人的な道徳観念も終わるようになります。堕落した人類には、このような生涯路程を開拓していかなければならない責 任があるのです。
38 原罪を取り除くための闘いは、アダム家庭から始まりました。アダム家庭の二人の息子であるカ インとアベルを分立したところから、摂理歴史が始まったのです。神様はアベルを愛し、アベルに供え物を捧げるようにしました。供え物を捧げるときは、誰よ りも神様のみ言を絶対視しなければなりません。サタンが反対しても、それを克服して越えなければなりません。アベルは精誠の限りを尽くして環境上の困難を 克服し、み旨にかなうように供え物を捧げました。供え物を捧げるアベルは、堕落したアダムよりも神様のみ言に絶対順応しなければなりませ ん。アベルはサタンとは永遠に関係がない、神様と永遠に一つになる実体にならなければなりません。それでこそ神様の愛を受けられる立場になります。そうす ることで、悪の主権から解放されて、善の主権に入っていくというのです。
39 天と地の中からは探し出すことができ ず、被造物の中から探し出すことができない一つの貴い存在、神様の内部に隠されている全体の性相を新しく示すことのできる、より次元の高い新しい実体が主 人公として現れて、神様のみ旨を成就させる日はいつでしょうか。このような感激的で衝撃的なひと日を迎えるために、今日まで神様は、この一つの目的を立て 、 復帰摂理をたどりながら絶え間ない苦労の中で役事してきていらっしゃるのです。
40 神様は千辛万苦しながら、 人間を救援するために多くの蕩減の歴史を経てきました。神様は悪魔を思いどおりに打ちのめし、悪魔から人々を思いどおりに奪ってくることのできる能力があ るお方ですが、それは不可能です。神様が人間を愛で育て、愛で家庭を築き、愛で氏族と民族と国家と世界を形成しようとしていた本意のみ旨がある限り、アダ ムとエバは堕落したとしても彼らが堕落する前に対していた心を、神様は永遠にもっていらっしゃらなければなりません。アダムとエバは堕落す ることによって神様の心の世界から離れましたが、力をもってこれを強制的に元に戻すことはできません。既に悪魔と愛の関係を結んだからです。愛という関係 を結べば、所有権が決定されるのです。相続権が決定されるのです。同居権、同位権、同参権が決定されることによって、完全にサタンの所有権に移るようにな るのです。
41 人間が堕落することによって、神様が喜びの日を迎えることができず、人類始祖が喜びの日を迎えるこ とができず、神様と人間のために造られた万物も喜びの日を迎えることができませんでした。その主人たちが悲しい立場に立っているので、それに伴って喜ぶ立 場に立つことができないというのは当然の道理です。神様と人類始祖が悲しい立場に落ちていくことによって、万物も悲しい運命の立場に立たざ るを得ません。ローマ人への手紙第八章二十二節には、「被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」とあります。万物の嘆息も 嘆息ですが、人類も嘆息します。人類も嘆息しますが、万物と人類の主体的な立場に立った神様も、嘆息圏内に立っているというのです。喜びではなく、悲しみ から始まった歴史なので、悲しみの歴史を元に戻して、喜びの歴更に復帰、救援しようとするのが神様の摂理です。
本然の世界を復帰するための摂理
42 神様が今まで苦労して摂理してこられたのは、ただみ旨を成就するためでした。そのみ旨の帰一点をどこに置いたかというと、人間と神様が苦楽を共にできると ころに置いたのです。人間が、神様の希望されるみ旨を成就して、神様と永遠に苦楽を共にできる関係を結ぶようになれば、神様は人間の真の父であり、人間は 神様の真の子女になるのです。このようになれば、神様の意志がすなわち人間の意志になり、人間は全被造万物とも和動して、神様に栄光を返しながら、神様の 知恵深さと慈しみ深さと恵み深さを、永遠に称賛するようになるでしょう。そのような日が来ることを、神様と人間と万物は願っているのです。み旨は神様の創造理想であり、堕落した人間にとっても永遠の理想です。ですから、そのみ旨が成し遂げられれば神様と人間が一体となり、神様が楽しければ人間 も楽しく、人間が楽しければ神様も楽しくなります。すなわち神様の意志が人間の意志になって、二人ではない一人として和動できるようになることによって、 人間は神様に永遠の理想の喜びをお返ししてさしあげ、また自らもそれによって永遠の喜びを感じるようになります。
43 この世の中の主人は神様でなければなりませんでした。神様と愛の関係を結んだ直系の子女で構成された家庭を主として、氏族が編成され、国家ができ、世界が できていたとすれば、それこそ、神様が主管できる世界であり、神様が主管できる国であり、神様が主管できる家庭であり、神様が主管できる個人になっていた でしょう。ところが、人間が堕落することによって、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、このように全体が神様と反対する立場になってし まいました。これが堕落の歴史であり、堕落の世界です。この世界をこのまま放っておけば、神様が創建しようとされる創造理想である永遠の愛の世界を成し遂 げることができず、また絶対者であられる神様は、本来意図された創造理想を実践させてこそ、神様の本来の権威をもつことができるので、その位置を標準とし て、悪の世界を収拾し、本来理想とされた本然の世界に導いてこられたのです。これが堕落した世界に対する神様の摂理です。
44 今まで神様の願いは、人間が万物と心情関係を結び、神様と心情関係を結ぶことでした。それで神様は、堕落した人間を僕の僕の立場から始めて、僕、養子の立 場を経て、子女の立場、そして父母の立場にまで引っ張り上げるみ業をしてこられました。それは嘆かわしい堕落の因縁を切り捨てて、万物と人間と神様が一体 の心情関係を結び、神様の喜びが人間の喜びであり、人間の喜びが万物の喜びになるようにしようというものです。神様は、息子、娘を万物世界 と天使世界にまで誇り、見せてあげ、慈しんであげたいと思われました。人間は、誰も創造当時の姿ではありません。人間には情的な性稟があるので、悲しみや 喜びなどの感情を感じることができます。相対を通して喜びや悲しみを感じることができます。相対の喜びが「私」の喜びになるとき、互いに誇りたいと思い、 見せたいと思うのが人間の気持ちです。神様も同じです。神様は、人間が喜ぶのを見て喜ばれ、人間は自分たちによって喜ばれる神様を見て喜ぶのが、正に授け 受けする喜びです。
45 本来の世界に戻るには、人間の力だけでは不可能です。それで神様は引き上げる役事をされま す。これが復帰摂理です。ここに人間が協力すれば復帰摂理は易しいはずですが、今まで人間は、このような神様の摂理に協力しませんでした。そのような中で 神様は、家庭、氏族、民族、国家、世界にまでみ旨を広めてこられました。その過程で内的、外的に受けられた苦衷は言うに言えないものでした。いくつかの国 家や民族も、平面的には苦労したと言えますが、神様のみ前では苦労したとは言えません。個人はより一層、そうです。地上だけではなく、今まで生まれては 逝ったあらゆる人間をすべて総合してみても、み旨のために苦労して協助したと言える人がいません。これは否定できない事実です。このような人間を導くため に、神様は責任を負い、自ら苦労され、闘ってこられたのです。
46 数多くの人類を中心として、神様は六千年の間苦 労してこられました。六千年の間苦労してこられましたが、末世のこの時、終わりの日とは、どのような時でしょうか。この世界には本然の僕として生きていく 群れがいて、本然の養子のような群れがいて、本然の子女のような群れがいます。その子女のような群れが生まれた基盤の上に、本然の父母が来るというので す。これが再臨思想です。それでイエス様が「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で語られたのです。地上に、一人の父と一 人の母が現れなければなりません。小羊の婚宴とは、この地球上に人類が失ってしまった本然の私たちの家を、初めて建設する瞬間です。私たちの家を建設しよ うとすれば、そこには父母がいなければならず、兄弟がいなければなりません。これを基盤として子女が繁殖することによって、本然の氏族が広がり、本然の民族が広がり、本然の国家が広がり、本然の世界が広がるのです。そのようにして今までの悪の世界を清算し、善の世界に向かって摂理していくのが復帰摂理で す。
47 人間は、堕落することによって、原理圏内でない無原理圏に落ちました。天使は 神様の僕ですが、人間がどの程度落ちたのでしょうか。天使世界、僕よりも悪い世界に落ちました。主人になるべき、王子、王女になるべき位置から、僕よりも 悪い位置に落ちたので、再び上がらなければなりません。それで僕の僕から僕、養子、庶子、直系子女の位置まで、その次に母を通して父の位置に戻らなければ なりません。これが復帰です。救援摂理は、病気になる前の基準に再び戻すものです。ですから、救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は適当にするものではあり ません。
48 神様は、堕落によって汚された地を再び回復されようと、残された天使たちを通して、人間と関係を結 ぶ救援摂理をしてこられました。堕落することによって、聖なる神様に背いた立場に立っている人間、万物とも比較できないほど完全に落ちた人間と再び相対さ れるために、神様は救援摂理をしてこられたのです。サタンが支配し、サタンが讒訴する人間を、神様が主管されるために、橋を架けて役事してこられた歴史 が、旧約時代を経て、新約時代を経て、今に至っています。
49 神様が数千年の間、復帰摂理をされながら受難の道を 経てきたのは、神様がお人よしだから耐えてきたのでしょうか。今まで人類歴史の数万年の間、神様が救いの摂理をしてきながらも、いまだに疲れ果てることな く続ける、その原因はどこにあるのでしょうか。全知全能であられるからではありません。愛の道を求めてきたためであり、愛の息子、娘を探し求めてきたから です。ですから、愛は、千年を一日のごとく、その受難の道を何度も越えさせる、偉大な力です。
50 神様は、投入し て忘れ、また投入して忘れる真の愛をもっているので、今まで救援摂理をしてこられたのです。真の愛を中心として投入して忘れる役事を繰り返してきたので、 今日、世界がこのようになりましたが、今も投入していらっしゃいます。ある団体を通したり、どこかの誰かを通したりしてでも、投入しなければなりません。 ですから、神様が堕落したこの宇宙を回復し、本質的な愛を中心として創造された真の愛の理念を実現するために、今まで投入してきた本然的基準を永遠に統け なければ、絶対者である神様の権威を取り戻すことができません。
51 人間が罪を犯したからといって、「おい、お 前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく御存じの神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ろう とされる神様です。神様は悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には 悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。皆さんは、神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中に も、そのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。「お前が私を裏切っても、私はお前の父親だ」という心があるの で、六千年という長い歳月を訪ねてこられたのです。
52 子女は、自分の血肉を受け継いだ息子、娘です。母親が涙を流せば、心が通じて共に涙することができるのが息子、娘です。父親が涙を流して悲しめば、共 に悲しむ心が自然に生じてくるのが息子、娘であるにもかかわらず、彼らを指導し、育成するのは、非常に困難です。人間は、神様がいくら泣いても、いくら悲しんでも、見て見ないふりをします。これは、人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ、神様が悲しま れるのを見て、褒めたたえるのです。滅びる者を見れば、喜んで笑うというのです。神 様は、このような人間を中心として指導し、開拓の方向を教えてあげようとするので、どれほど御苦労が多いでしょうか。しかし、一から百、千、万までために 生きようとされる心、哀れに思われる心が神様になかったとすれば、神様が今まで摂理歴史を続けてくることはできなかったというのです。
53 人間が堕落したその日から、この地上には苦痛と悲しみと悲惨の歴史が始まりました。これは、創造当時に神様が計画した本来の目的ではありません。神様もこ のような世の中は願わなかったのであり、人間もこのような世の中に生まれて生きることを願いませんでした。ですから、神様はこのような悲惨な歴史、悲しく 苦痛な歴史を清算し、本来願っていた平和の世界、幸福の世界、自由の世界、善の世界を取り戻すという目的を立て、この堕落した世の中を収拾しているという のです。これがすなわち復帰の道であり、救援摂理の道です。
宗教を立てた理由
54 神様は、堕 落した人間と復帰の縁を結んで、失った理想の園を探してこられました。神様が堕落した人間を復帰して、昔、堕落していないアダムとエバと向き合っていたそ の喜びの園を建設し、天の喜びを基点にして、世界的な理念を創建するために摂理される歴史が救援摂理歴史であり、私たちが歩んでいくべき復帰歴史です。したがって、復帰の路程を歩んでいる皆さんが、自分の一個体を天倫の路程の前に立てて、冷静に批判してみなければなりません。皆さん自身がどのような位置に 置かれているのか、どのような立場であえいでいるのかを反省してみなければなりません。その位置と方向を人間に教えてくださろうとする神様の愛があったの で、今日、人倫を代表する宗教が立てられたというのです。ですから、神様は信仰という言葉を立てて、歴史過程に宗教を中心として人間を復帰してこられたの です。
55 アダムとエバが善悪の実を取って食べずに堕落しなければ、どのようになっていたでしょうか。神様の圏内 で結婚して神様の愛を受け継ぎ、神様の生命と血統を受け継いで直系の子女になっていたのです。このような人々には救世主が必要ありません。修養が必要あり ません。直系の子女は心が一つになっているので、神様のようにすべて通じるようになっています。一体になってすべて通じます。心と体が闘う ことが問題です。一つにならなければ、皆さんが天上世界に行っても、億万年にわたって一つにしなければなりません。真の愛を中心として一つにするのです。 真の愛でなければできないのですが、真の愛の道理を教えるその代表者が真の父母様です。あらゆる歴史的な罪を取り除いてしまうことのできる内容になって、 初めて解放が始まります。
56 宗教は、人間の志を成し遂げるためにあるのではなく、神様のみ旨を成し遂げるために あります。神様のみ旨が成し遂げられてこそ、人間の志が成し遂げられます。これが創造の原則であり、神様が人類を創造された目的です。堕落した人類世界 は、まだ神様のみ旨の完成時代を経験したことがなく、今日、人間の志の完成時代を経験したことがありません。ですから、今まで人類歴史は、 理想世界に向かって、より次元の高い本然の地に向かって、それを追求してきたのです。その追求する目的は、結局、人間の意志で一つの目的を達成しようとす るのではありません。神様のみ旨を完成するところから人間の志が出発すると見るのが、神側から見る摂理史的歴史観です。神様が目指されるのは、第一次とし てアダム完成とエバ完成です。さらには霊界の完成です。天使世界の完成です。今まで救援摂理は、神様のみ旨を成し遂げるために神様が中心となってやってき ました。
57 神様のみ旨の完成は、あくまでも世の中の観点とは異なります。物質的条件ではありません。世の中で言う知識の条件でもありません。権力の条件でもあり ません。それでは、何の条件でしょうか。愛を中心とした完成を標準としています。数 多くの宗教は、歴史の背景が異なり、時代的な差があり、その差に従ってこのような目的を標準としてきたので、どのような宗教でも慈悲や愛の内容をもたなけ ればならなくなっています。その愛は、どのような愛でしょうか。アダムに対する愛はアダムにだけ及ぼされるものではなく、エバの愛はエバにだけ及ぼされる ものではありません。その愛はアダムとエバの愛として、今後、家庭、氏族、民族、国家、アダムの子孫全体に及ぶのです。そうしてこそ、その愛の理想の夫婦 から愛の理想の氏族、民族、国家、世界の形成が可能になります。
58 神様が立ててきた宗教の中には必ず主流宗教があり、その次には主流民族がいます。主流民族と主流宗教を連結させ、主流思想にまで結びつけて、神様の理 想実現を経綸することが神様のみ旨です。ですから、神様のみ旨は、現想実現のための土台にならなければなりません。神 様のみ旨を成そうとするその土台の上には、神様のみ旨を成就させる民族がいなければならず、国家がなければなりません。これが形成されなければ、神様の創 造理想を受け継ぐことができません。それで歴史が始まって以降、神様の理想を受け継ぐに当たって、必ず神様のみ前に近かった宗教を通して民族が編成されま す。宗教を中心として神様の理想を受け継ぐ個人、家庭、氏族、民族、国家、世界に連結されます。神様の理想を受け継ぐ道を行くのが、み旨の道です。
59 神様のみ旨を中心として生きようとし始めたのが宗教の道なので、宗教は神様のみ旨の道を行くのです。神様のみ旨は絶対なので、永遠に一つです。二つはあり 得ません。ですから、絶対的なみ旨、絶対的な神様のみ旨を中心として生きる人は、個人の天国生活をするのです。家庭でそのように生きる人は、家庭の天国生 活を神様と共にするのです。民族、国家、世界を越えて、世界的なみ旨を中心として世界が一つになって生きるようになれば、それが地上天国です。
天運を動かす摂理の主役
60 み旨の道は一つです。み旨が行く方向は二つではありません。み旨が安着できる所も一つです。しかし今日、この地上に生きている人たちを見ると、自分の意志 だと決めているその方向が複数の系統に分かれています。意志が様々だというのです。方向も様々です。また、その意志を中心として、自分が成功することや定着すべきものなど、このようなものがすべて多様です。
61 神様と人間が一つのみ旨を中心として、一つの愛によって 和合して生き、全天地が神様の愛を楽しみながら、その愛を実際の生命の中心として立て、すべてが一つになって生きることが神様の創造本然のみ旨でした。し かし、アダムとエバが堕落することにより、神様の愛は、神様の愛としてのみ残るようになりました。すなわち、人間と関係を結ぶべき神様の愛は、人間と関係 を結ぶことができずに、人間から離れるようになり、全被造世界から離れるようになりました。ですから、神様は、御自身が立てようとされたそ の愛を中心として、すべての万物を糾合し、神様と万物が共に喜ぶその一日を願われながら、六千年の歴史を経過してこられたのです。しかし、いまだに神様の 愛を中心として全被造万物が一つに統一されないまま、その神様の理念は理念のまま残っていて、取り戻すべき希望の愛もそのまま残っています。ですから神様 は、そのみ旨を必ず成し遂げるために、今まで摂理してこられたのです。
62 私たちは今、希望成就の過程にとどまっ ています。ある目的を見つめてその希望を成し遂げていく過程にあります。この過程において動いているとすれば、皆さんは立てた信仰の約束を終結することが できなければなりません。そのような限界を越えた一個体は、最後の一時に主の血と肉を受けたことに報いる存在です。このような意味で、 「私」はいかにすべきなのでしょうか。イエス様の前後、左右、上下、また聖霊の前後、左右、上下、神様の前後、左右、上下を身代わりすることができなけれ ばなりません。天上のみ旨であると同時に地上のみ旨である、人間を通して決着をつける限界の日を地上に立てることができなければ、イエス様のみ旨も成し遂 げることができず、神様のみ旨も成し遂げることができません。そのようなみ旨を考えれば、今日、取るに足らない私たちの価値はあまりにも大きいというので す。
63 皆さんは、六千年の歴史の最後に残った、一つの宇宙的で冒険的な任務を遂行しなければなりません。その任 務が宇宙的ならば、皆さんも相対的に宇宙的な存在にならなければなりません。冒険的な内的覚悟をもって立ち上がってこそ、その任務を遂行することができま す。神様のみ旨が私たちの信仰生活と異なって成されたら、どうするのですか。今まで超現実的な冒険の路程を通して、神様の歴史は進展してき ました。このような宇宙的な冒険の関門を経てこそ、最後の勝利の旗を掲げ、父の前にホザナの凱歌を歌うことができ、宇宙的な新婦の立場を身代わりできる存 在になることができます。またそうしてこそ、どのような条件にも引っ掛かることがなく、どのような環境で、どのような迫害と非難があったとしても、超現実的な冒険の基準を立てる天の王子、王女になることができます。
64 皆さんは、自由の中でも最高の自由、栄光の中でも最高の栄光、喜びの中でも最高の喜びの位置で主に侍らなければなりません。そうして、歴史的に現れたサタンのあらゆる讒訴条件から逃れて、父を呼び求 めることができなければなりません。そのような人になれば、神様は、皆さんが語る前に、先に皆さんを訪ねてくださいます。ですから、皆さんはそのような基 準を、皆さんの生活過程で立てなければなりません。神様は、このように御自身の宇宙的な愛を中心として体恤する人格の価値をもった一人、イエス様を身代わりし、歴史を代表した人格の価値をもった一人を先に訪ねてこられます。このような人々が集まって国を復帰し、世界を復帰し、天地を復帰してくれることをイエス様は願っています。これが神様のみ旨です。
65 神様が摂理歴史を繰り返してこられたのは、人間 をしてその摂理に相応させることで、人間の前に理想の神様として立つためでした。ところが、サタン圏内にいる人々には、神様が審判の神様であり、恐怖の神 様として現れるようになります。ですから、私たちが神様を理想の神様として迎えるためには、人間の堕落による神様の悲しみを私たちが代わりに体恤して、神 様と同じ悲しい立場に立ち、神様と同居できる関係を結ばなければならないのです。そうでなければ、神様は私たちに理想の神様として現れることができず、ま た創造理想の主人公としても現れることができません。私たちが理想の神様を迎えるために進む路程において、この道を遮っているサタンとの闘いの路程を経なければなりません。これが、堕落した人間が必然的に行くべき蕩減復帰の道です。
原理原則による救援摂理
66 私たちは、神様の摂理が復帰摂理であることを知っています。復帰摂理とは何でしょうか。失ったものを回復する運動です。失ったものを再び取り戻すことです。造った人が壊れたので、み言を通して再創造することです。再創造されるべき人間です。体に通じるみ言も失い、心に通じるみ言も失い、心情とともに永遠 に楽しめるみ言も失ったのが堕落した人間なので、私たちは、み言、すなわち真理を探し出さなければなりません。真理はみ言だといいました。 真理は組織を導いていく原則であると同時に、天倫の根本です。したがって、世界は今まで真理を求めてきました。ところが、まだ真のみ言が現れていません。 真のみ言がないので、真の生命の実体がありません。真の生命の実体がないので真実の愛の実体がありません。真実の愛の実体がないので、真実の宇宙、真実の 天地が現れていないのです。
67 神様は復帰摂理の役事をするとき、大ざっぱにされるのではありません。復帰摂理は 再創造の役事であり、再び取り戻す役事なので、原則に従って行います。創造原則に従って再創造の役事をしてこられたのです。人が堕落したので、神様が人を 造ったのですが、造られていなかったのと同様の立場に人が立っているので、再び造られたという条件的な立場にもっていって合わせなければなりません。
68 救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は再創造摂理です。再創造摂理は、どのようになるのでしょうか。神様が創造する時に、何を先に造ったでしょうか。天使世 界を先に造りました。その次は万物世界を造りました。その次にアダムとエバを造りました。このように三段階を経てきたのです。このような三段階の原則を通 して、今日、歴史も発展してきました。この全体歴史は再創造歴史圏内にあるので、神様が今まで堕落した人類を救援するところにおいては、形態としては再創 造歴史の過程を経るというのです。
69 神様は、救援摂理を通して本然の理想形態を復帰するのです。ですから、救援摂理は復帰摂理です。復帰摂理は、どのような摂理を通過するのでしょうか。 再創造摂理です。再創造は、神様が投入した愛を人間が代わりに再び投入してこそ、再現された理想的創造物になります。で すから、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言いましたが、これが第一の戒めです。第二の戒 めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)です。第三の戒めは、万物をあなたの父母の代わりに、夫婦の代わりに、子女の代 わりに、愛する心をもちなさいということです。最初の戒め、第二の戒め、第三の戒め、このように終わるのです。縦横を中心とする愛の理想圏内において、球 形的な理想がここから始まるのです。
70 サタンは、神様のみ旨を破綻させ、破壊する分子です。神様は、その破壊す るサタンに対して勝利して、再創造過程を経て復帰してきます。しかし、そのまま復帰してくることはできません。蕩減させるには、大ざっぱではできないとい うのです。創造したその過程に戻っていかなければなりません。ですから、救援摂理の全般的内容を見れば、神様の蕩減復帰摂理はまず、救援摂理をしてくると いうことです。歴史的なあらゆるものを私たちが総評すれば、第一に救援摂理、第二に蕩減復帰摂理、第三に再創造摂理です。このように見れ ば、救援摂理は復帰摂理です。救援摂理は本然の立場に戻ることです。病院に入院して生死の境で呻吟していた人たちが、本来の立場に戻るようになれば、「救 われた」と言います。救援は本然の立場に戻ることを意味します。その救援摂理は蕩減復帰摂理だというのです。戻るには、そのまま戻ることはできません。必 ず蕩減しなければならないのです。
71 神様の救援摂理は復帰摂理なのですが、復帰摂理は蕩減復帰摂理です。復帰摂 理は、そのままでは推進されません。必ず犯した罪を蕩減しなければなりません。蕩減するということは、サタンを分立させることです。罪を犯せばサタンの所 有権内に存在するようになるので、それを蕩減してサタンを分離し、分離することによって本然の基準に原状回復して、帰ってくることができるのです。今まで、長い間の歴史過程を通して犯した人類の罪は、どれほど大きいかというのです。その悪なる人々が犯した罪をどのようにして蕩減しなければならないので しょうか。人間は知りませんが、善なる人々が犠牲になることによって蕩減されるというのです。国も同じです。国が犯した罪があれば、その国の善なる人を何 人かずつ連れていくことによって、それを埋めるのです。そのようにしなくては蕩減になりません。人類全体を見ると、このようにしながら世界的な舞台まで発 展してきました。その過程で人類が犯したあらゆる罪を蕩減し、世の中を正常に変えるために、蕩減の祭物として善なる人々がたくさん逝ったというのです。
72 歴史路程において蕩減というものを中心として善悪が分かれ、また不幸と幸福が分かれ、福を受ける道と罰を受ける道が分かれます。世の中も同じです。それと 同様に、神様の復帰摂理も例外なしに蕩減によらなければなりません。堕落したので、蕩減がなければなりません。堕落に対する憤りをもたずに生きる人は、毎 日のように堕落の道を経ていくのです。堕落したために、神様の復帰摂理路程において、神様は悲しい神様になりました。これだけではなく、神 様は苦痛の神様になりました。悲しみと苦痛の神様だけでありません。神様が苦痛を受けて悲しむことで終わるのではありません。神様が願うあらゆる貴いもの を、すべて失いました。すべてを失ったので、神様は復帰摂理路程において、それを再び取り戻そうとするのです。ですから、苦痛に遭わなければならず、それ を取り戻そうとするので、悲しい道を行かざるを得ません。失ったものを取り戻そうとするので、そのようになるというのです。
73 人間が堕落することによって、神様は最も貴いものを失いました。神様は何も関係がないのではありません。神様と人間は父子の関係です。愛を中心として一体 理想を成し遂げようとした関係があったのですが、人が落ちることによって神様の一体理想、愛の理想を成し遂げることができなくなったので、これを再び取り 戻さなければなりません。再び取り戻すには、蕩減復帰をするのです。ただそのままでは取り戻すことができません。人間が落ちることによっ て、故障したのと同じようになったので、復帰摂理は蕩減に向かって行きますが、蕩減の路程をすべて行ったからといって、神様が取り戻さなければならない愛 の理想を取り戻すことはできません。これを取り戻すためには、再創造のプログラム、工場のあらゆる生産品をつくるときの青写真を中心として、再びつくり直 さなければならないのです。
メシヤの役割と使命
74 神様がイスラエル民族をカナンの地に呼び入 れられたのは、カナンの地に天国を建設するための勝利的な民族基盤を完結して、一つの主権を立てたあと、将来送るメシヤを迎えるようにするためでした。で すから、イスラエル民族は、自国を統治できる主人公としてメシヤを迎え、メシヤを中心としてサタン世界を打って、神様の復帰摂理を終結しなければなりませ ん。このような使命があったにもかかわらず、イスラエル民族とユダヤ教団には、それが分かりませんでした。その当時、イスラエル民族は救世 主が来さえすれば、自動的に世界を支配する民族になるとばかり考え、民族的な勝利と国家的な勝利の土台の上に、世界的な勝利の土台を築いて、復帰の歴史を 終結しなければならないということが分かりませんでした。
75 個人が完成できなければ、新しく自覚された家庭が形 成されず、新しい家庭が現れなくては、新しい民族と新しい国家も出てくることができません。ですから、統一教会では、個人の完成を決意して立ち上がるので す。神様は、個人復帰の完成を何よりも待ち望んでこられました。男性なら男性一人を完成するために、今まで六千年の歴史がかかったというのです。これまで神様は、復帰摂理の全般的な目的を、時代を超越して一人の完成した男性に置き、それを標準にしてこられました。そして、その完成した男性を中心とし て一人の女性を立て、一つの家庭完成の標本をつくろうとされたのですが、それがメシヤ思想なのです。神様は、このメシヤ思想を中心として新郎新婦を立てる ことによって、復帰摂理の決着をつけようとされたのです。そのようにして、全体の生活基盤を立てるのです。そのお方が立てておいた生活観や、そのお方が指 向する理念は、後代の万民が見習うべき標本です。
76 神様の復帰摂理のもう一つの公式は、メシヤを遣わされるのに 先立って、中心宗教と中心国家を立てて役事するということです。神様はまず、イスラエル民族とユダヤ教をお立てになり、その準備された土台の上でメシヤ、 イエス様を送られて、すべての人間が次第に彼と一つになるようにされることによって、善の版図を広めていきながら、世界復帰、すなわち天国理念を実現しよ うとされました。アダムから四千年もかかって準備されたイスラエル民族とユダヤ教が、イエス様を迎えて一体となることによって、犠牲を払って一つのみ旨に 従っていたならば、その当時に、すぐに中東とアジアを統合し、西洋を連結して全世界の地の果てまで急速にみ旨を伝播することによって、神様の主権で統一さ れた地上天国を建設したでしょう。
77 真の愛と真の生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件のな い新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。創造の時にアダムを先に造ったように、再創造摂理である復帰摂理でも、堕落と無関係な息子を先に立 てなければなりません。これがメシヤ思想の根本です。メシヤは、サタンの主管下にいる堕落した血統をもった人々の生命を否定し、新しい生命 の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人です。根は神様に置いているのですが、後のアダムとして来て、アダムが犯した罪を清算しなければならないのが メシヤです。神様が、能力だけで役事する超人をメシヤとして送ることができない事情が、ここにあります。
78 救世 主は、神様のみ旨を中心として、成し遂げられなかった愛の恨を解く代表者です。人間は、その愛を成し遂げられなかった恨をもった絶望的存在です。これを解 怨成就するために来られるお方が救世主です。本然の愛を求めるために来るのです。御飯が食べられない人に、御飯を食べさせるために来るのではありません。 神様を解放しなければならないのです。男性を解放する道には、心から愛する妻がいなければなりません。そのような妻が永遠に愛して残ることができるとき、 その男性には拘束がありません。解放です。本質的中心である神様は、今まで愛を求めて投入しながら忘れる立場にある、悲しい神様です。
79 神様はどのようにしても、本来計画された真の愛と、平和の理想を回復しなければなりません。神様の救援摂理は、原状回復の摂理、すなわち復帰摂理で す。このような復帰摂理のために宗教を立て、善の版図を広めてこられました。神 様が送られるメシヤは、この復帰摂理を完結する、総責任を負って来られるお方です。ですから、メシヤは真の父母として来られて、根本から正しく回復しなけ ればなりません。メシヤとして来られたイエス様は、真の父母の使命をもって来られました。彼は地上で、人類を真の愛で重生させ、真の人、真の夫婦に回復さ せて、真の父母にさせるために来たのです。不幸にも、彼は地上の不信によってみ旨を成し遂げることができず、亡くなられるとともに再臨を約束しました。真 の父母として再び来られて、神様の創造理想を完全に回復しなければならないのです。
第2節 再創造される神様
1 神様は、人間の堕落によって、六日の創造期間、すなわち最初の日から六日目までに創造したあらゆるものを失いました。人のゆえにすべて失ったというので す。神様は、これを再び取り戻すために、六千年の歴史を摂理してこられました。この六千年を中心として、七千年の歴史へと越えていくのです。キリスト教で は千年王国を主張していますが、一日が千年になり得ます。千年王国というのは、世界的な復活圏を意味します。
復帰摂理歴史の足跡
2 皆さんは、皆さん個人の生活的な面で、永遠の生や世界的な生と関係を結ぶことのできる、生の足場を立てなければなりません。そうでなければ、皆さんの今 の生が世界的な生を経て、永遠の生になることはできません。このような字宙的な生を立てるべき人間の先祖アダムとエバが、堕落することによってそれを失っ たので、これを再び復帰するために神様が六千年間苦労してこられましたが、神様のこのような苦労の歴史を復帰摂理歴史といいます。
3 神様を中心として人間が完成していたならば、人間の楽しみが神様の楽しみとなり、人間が享受する栄光が神様の栄光になったはずですが、人間が自らの楽し みと自らの栄光を神様が望まれる基準で享受できなかったがゆえに、人間には悲しみが始まりました。そして、罪を犯した人間であるがゆえに、その理想の園と はあまりにも遠い距離にまで落ちてしまいました。このように落ちた人間を、再び取り戻すための苦労の歴史が復帰摂理歴史です。
4 歴史始まって以来、今まで、「人類歴史は復帰歴史である」ということを知った人はいませんでした。歴史の背後関係を「復帰」という概念で定義を下したと いうのは、統一教会が歴史に残した大きな功績です。歴史の根本となるのは神様であり、またその神様が責任を負い、今まで歴史をずっと治めて発展させてこら れました。そのため、復帰の使命を担った数多くの個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによって歴史は段階的に発展してきました。
5 神側から見れば、歴史が始まって以降、今まで完全に勝利してその勝利の日を称賛したことがありません。アダムとエバが堕落したその日から数千年の間、復 帰摂理歴史をたどってきましたが、神様の創造理想を見てみるとき、天が勝利した、あるいは天が栄光を占有したという位置には未到達の過程にあります。
神様が望むことは、あくまでも真の勝利、すなわち真が絶対的な権威をもち、その権限を行使することです。その行使は、一時だけではなく、歴史性をもち、過 去もそうでなければならず、現在もそうでなければならず、未来にも連結される勝利として、天を中心として行われるのです。それにもかかわらず、神様はその ような時をいまだに迎えることができていません。復帰摂理路程、あるいは歴史時代のある一部分では勝利したことがありますが、その勝利もまた、再び歴史過 程を経てくるときには、失敗の結果として帰結されたというのです。
6 復帰摂理歴史は、アダムとエバを造った基台の上で、縦的関係によって今まで役事してきたのです。人間は神様を中心として、「神様!神様!私たちの完成の 基準をお立てください」と言って、僕の僕から僕、僕から養子、養子の立場を経て、直系子女の立場を経て、父母の立場にまで上がらなければなりません。
旧約前の時代である僕の僕から、ヤコブ以降の時代である僕を経て、ずっと上がるのです。ですから、養子の立場を経て、患子、娘の立場を経て、息子、娘が初 めて真の父母であられるメシヤに出会って人類の父母の位置に立つようになれば、僕の僕の時代から僕の時代、養子の時代、息子の時代、父母の時代を迎えて救 援されるのです。
7 歴史的な希望と信仰で求めてきた天国、すなわち勝利の園を取り戻すべき私たちです。皆さんは、天が喜ぶ個体を求め、天が喜ぶ家庭を求めて天国に入らなけ ればなりません。しかし、その家庭を求めようとすれば真の父母を求めなければならず、真の夫婦、真の兄弟を求めなければなりません。これを求めるためのも のが、神様の摂理歴史です。ですから、希望を象徴した時代は旧約時代であり、信仰を象徴した時代は新約峙代です。これからは愛を象徴する時代が来ますが、 その時代は成約時代と言うことができます。ですから、そのような関係が天上から地上世界にまで広がっています。
8 本来、一つのみ旨として立てられていた創造理想世界は、堕落することによって築くことができませんでした。しかし、神様は絶対的な権限をもった方なの で、外的な世の中がすべて変化したとしても、御自身は絶対的に変わることはできません。悪魔にアダムとエバを奪われ、万物をすべて譲り渡しましたが、神様 はやはり神様であり、絶対的なお方なので、本来は天使長である悪魔サタンまでも自然屈伏させなければなりません。いてもいないのと同様の立場において、絶 対的な神様の権威を立てなければなりません。
善なる神様は、悪なるサタンを先に打つことはできません。善なる神様の愛の本質世界に、先に打てる原因、動機がありません。怨讐に対してまでも、ために生 きなければなりません。万物のために投入に投入を重ね、ために生き、またために生きる神様の威信とその絶対的な権威は、いくら悪魔が生まれ、反対しても崩れません。そのよう な立場で、ために生き、またために生きながら来てみると、神様の救援摂理は、このように数千年の歴史を経てくるようになりました。そのようにしながら自然 屈伏させてきたのです。
9 人類歴史は、善悪の闘争史です。神様は、真の愛を中心とした真の父母、真の子女、真の家庭、真の国家、真の世界、そして真の天宙を立てて、真の愛の理想 で主管しようとされましたが、サタンが偽りの愛を中心として偽りの父母、偽りの子女、偽りの家庭、偽りの国家、偽りの世界、そして偽りの天宙を立てて支配 してきました。これを取り戻そうとするので、人類歴史は、善悪の闘争史として繰り返されてきたのです。すなわち、個人から永遠の世界に至るまで、サタンは 神様の原理的歴史発展に従っていきながら、原理的世界をまねて、真のものが来る前に真のものであるかのように先手を打ちながら、原理の世界を破壊しようと するので、善悪の闘争を避けられなくなったのです。
神様は、利他主義の立場で再創造摂理をされながら、ために生き、また、ために生きながら、打たれて奪ってくる作戦を取る一方、サタンは自分中心の立場で、 先に打っては損害賠償までしなければならない道を歩んできたのです。神様の作戦は、打たれて奪ってくる作戦であり、サタンは打って滅びていくのです。この ように、善の側は打たれ、追害され、犠牲を払いながら発展していきますが、サタンはその反対です。
旧約時代、新約時代、成約時代の意味
10 歴史的な復帰路程を総括的に見ると、神様は今まで、蘇生、長成、完成の三段階を通して摂理してこられたことが分かります。旧約時代の僕の時代、新約時 代の養子の時代、成約時代の真の子女の時代を超えて、真の父母の時代になるのが復帰路程です。
11 人類歴史を見ると、旧約時代、新約時代、成約時代、このように三時代があります。旧約時代までは、祭物を犠牲にして子女を救う時代です。神様の息子が 来る準備をするのです。新約時代は、イエス様が祭物となって父母を迎える時代です。ですから、再臨時代を迎えて新郎新婦を立て、父母を迎えるための準備を してきました。成約時代に先生が中心となり、真の父母という名をもって今まで四十年間以上苦労してきたのは、神様を地上に迎えるためです。そして、神人一 体となるのです。
12 恨が宿った六千年の歴史過程は、どのように続いてきたのでしょうか。神様とサタンと人間を中心として、ある条件を立ててくるものなのですが、これがす なわち祭物の峠です。六千年の摂理歴史を回顧してみるとき、旧約時代までは万物を通して祭物の峠を越え、新約時代にはイエス・キリストの実体を通して祭物 の峠を越えました。
それでは、成約時代には何を基準として祭物の峠を越えるようになるのでしょうか。聖徒たち、すなわち皆さん自身を通して越えるようになります。このよう に、全体的な摂理歴史は祭物を中心として成されますが、旧約時代までは万物を通して祭物の峠を越えなければならず、新約時代はイエス・キリスト、すなわち 神様の息子を中心として祭物の峠を越えなければなりませんでした。しかし、成約時代である今は、新郎新婦の名前を身代わりする皆さん自身を条件として、祭 物の峠を越えなければなりません。皆さんがそのような祭物の峠を越えるまでは、この地上に真の平和と自由と理想の世界は成就されないのです。
13 旧約時代までは万物を犠牲にし、新約時代は息子を犠牲にし、成約時代は父母を犠牲にするのです。万物を犠牲にさせたのは、所有権を否定する立場で息 子、娘を取り戻すためです。息子を否定したのは、父母を取り戻すためであり、父母様が十字架を負ったのは、神様に侍ってさしあげるためです。ですから、旧 約時代は行義時代、その次に、新約時代は信義時代、その次の成約時代は侍義時代です。
14 旧約時代までは万物を犠牲にし、新約時代には息子を犠牲にし、成約時代には父母を犠牲にして神様を迎えたので、今からは何をすべきでしょうか。皆さん が父母を身代わりする立場に立たなければなりません。万物は旧約時代であり、息子、娘は新約時代です。
15 復帰の途上においては、僕の僕の時代から僕の時代を経て、養子の時代、直系の時代に上がっていかなければなりません。それでは、完全に僕の僕の時代を 経て僕の時代、養子の時代を経て直系子女の時代へと関係を結ぶことができるでしょうか。直系の時代と関係を結ぶ場合は、そのまま結ぶことはできません。必 ず原理によって「信仰基台」を経て、「実体基台」を経て、「メシヤのための基台」を経なければなりません。つまり、メシヤを迎えなければならないのです。 メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子とは、血統的な関係が違います。ですから、血統転換が必要です。
16 皆さんが蕩減復帰していくのに、根本問題とは何でしょうか。旧約を完成しなければならず、新約を完成しなければならず、成約を完成しなければなりませ ん。成約の完成は、全世界が神様の統治圏内に入ることです。これが成約時代の完成です。旧約時代までは万物を復帰するための時代であり、新約時代は天の国 の民を復帰するための時代であり、成約時代は天の国の主権を復帰するための時代です。世界の主権を復帰しなければならないというのです。世界の民を復帰し なければならないのがイエス様の使命です。すなわち、世界の万民を一つの国の民として復帰しなければならないのがキリスト教の使命であり、世界を一つの主 権に復帰しなければならないのが再臨主の使命です。
旧約時代までの復帰摂理
17 旧約時代は僕の時代でした。僕の僕の立場にある人間を、僕の立場に復帰させてきた時代でした。ですから、アブラハムも僕だったのであり、息子にはなれ ませんでした。神様は、僕の僕を立てて忠誠の道理を立てられました。そのようにして、この歴史的な世界人類を導いて糾合させ、世界的な悪の舞台を天の側に 占有させるとともに、神様の摂理を発展させてきました。ヤコブも神様の息子として勝利したのではなく、僕の立場で勝利したのです。神様がこのように僕の僕 から僕の位置に復帰し、僕の位置から養子の位置へと復帰しながら摂理してこられたのです。
18 旧約時代の全人類に対する救援摂理は、僕の立場での救援でした。ですから、この時代には最初の最初から最後の最後まで残って勝利できる中心を立てなけ れば、僕としての復帰基台を立てることができませんでした。それで、神様はノアやアブラハムなどの中心人物をお立てになって、四千年という歴史を導いてき ながら、数多くの犠牲を払ったのです。
19 人類歴史は、宗教と共に出発し、宗教は人類と共に流れ動いています。希望の道を発見しなければならないからです。神様は、人間が堕落したその日から、 御自身が創造した責任を負い、堕落した人間を救援する摂理を展開されるために、歴史過程を経て、今まで苦労してこられました。
堕落することによって推し量ることのできない状況に落ちてしまった人間は、サタンの支配を受けていますが、サタンを中心として愛する人になってはいけない ので、サタンまでも失う立場に落ちるようにさせるのです。ですから、神様は、僕の僕以下に落ちた立場から救援歴史をされるのです。神様が数多くの宗教を通 して僕の僕の道理を教えていく摂理をしてこられたのは、そのような理由のためです。ですから、人類のために奉仕しなさいというのです。僕の僕の立場にある 人間には、仕えてもらう資格がないので、無条件に従順に服従する道以外には方法がありません。僕の僕の立場は主人がいないので、僕が主人の役割をする立場 です。
20 旧約時代を中心として見てみるとき、それ以前の人類は僕の僕の立場にいましたが、旧約時代に入ると僕の立場に立つようになり、そのようになることに よって、初めて主人をもつことができるようになりました。
僕の僕の立場から僕の立場に来るためには、人間自らが開拓することはできないので、神様が開拓者の使命を果たしてこられました。僕の僕よりも、もっと悪な る一族を教育しなければならなかったのが神様の事情でした。しかし、神様は無形でいらっしゃるので、人間の前に現れたとしても見ることができない立場なの で、特定の人、すなわち預言者を立てて教育してこられたのです。その預言者は、神様の身代わりとしてこの地上に来ましたが、人間として神様の命令に従って 順応しなければならない立場でした。
21 預言者は、人間に何を教えなければならなかったのでしょうか。神様のみ旨に従おうとすれば、従順の道理を立て、歴史をさかのぼる摂理をしなければなら ないことを教えなければなりませんでした。ですから、サタンの前に忠誠を尽くす、それ以上に神様のために忠誠を尽くす人が出てこなければならなかったので す。そのような道理を神様が教えなければなりません。そうして僕の法度を立て、一つの編成を備えたあとに、個人、家庭、氏族、民族圏を形成して、摂理のみ 旨に相対できる環境をつくらなければなりません。ところが、僕の立場ではこれを立てることができないので、新しいメシヤ思想を提示して、今後、救世主を 送ってくださるという約束を立てて役事をしてこられたのです。それが正に、イスラエル民族を中心とした摂理でした。
22 旧約前の時代は、祭物を犠牲にして、神様が僕の僕として使うことのできる人を準備する時代です。これが旧約前時代です。人が万物よりも低くなりまし た。人が万物よりも悪くなったので、神様のみ前により近い万物を二つに裂いて、あなたの所有物、「私」の所有物、このようにして分けて立てました。このよ うに分別された祭物を立てなければならなかった事実は、誰のせいでしょうか。神様のせいでもなく、サタンのせいでもありません。人間が責任分担を果たせな かったからです。サタンの血統を受け継いだのは、人間が責任分担を果たせなかったからなのです。
23 人間は堕落しましたが、神様に背くことはできないので、僕の僕の立場にまで下りていかなければなりませんでした。僕の僕とは、主人がいないことを意味 します。堕落した人間は、僕の僕の立場から神様に忠誠を尽くさなければなりません。サタンは天使長だったのであり、神様の僕でした。その僕の前に引かれて いった人間なので、人間が神様のみ前に戻ってくるためには、僕の僕の立場から、神様に忠誠を尽くしたという基準を立てなければなりません。
24 旧約前の時代には、使いのような立場の使命者として立てられたノアとアブラハムを通して、神様のみ旨を伝えてきました。暗闇に沈むこの地上の万民たち を、父が相対する立場にまで引き上げるために、アブラハム一族を選び、イスラエル民族を立てられました。それによって、イスラエル民族を通して、人間が徐 々に神様のみ前に進む道を切り開いてきました。そうして、天は、天使たちに役事させる一つの基準を立てられました。そうしてから、アダムとエバに対する神 様のみ旨を完成したという基準を備えることによって、父に直接、相対できる勝利的な土台を造成するために、イエス様が来る時まで、四千年の間御苦労された のです。
新約時代の復帰摂理
25 神様の約束を成し遂げるために、神様のみ旨を中心としてこの地上に来られたお方がイエス・キリストです。彼は、過去の歴史時代において、人間が僕の立 場にいるときに神様がなされた約束を成し遂げて、養子と、真の息子の立場を立てるために来られたのです。僕が忠臣の道理を果たすときは、養子の位置に立つ ことができるというのです。ですから、復帰摂理歴史を経てくるとともに、イスラエル民族をして僕として忠誠を尽くすことのできる土台を築くことで、養子の 関係を結んでいくようにしたのです。
26 養子の関係は、どのように結ぶのでしょうか。神様の息子がこの地上に来る前には、不可能です。神様の息子がこの地上に来なければならず、その息子の命 令を聞いて、そこに順応して、初めて養子の関係を結ぶことができます。これが旧約時代と新約時代が連結される役事です。
旧約を信じてきた人々は、僕として養子の恩恵を受けることを願いますが、それが正にメシヤが来ることを願う理由です。すなわち、メシヤによって僕の悲しい 身の上を越え、養子圏の立場に進むことが彼らの希望だというのです。養子の位置は、直系の息子、娘がいなくなるとき、父母から相続を受けることのできる関 係が成立する立場です。
ですから、僕の立場を超越して、神様のみ旨を迎える恩恵を受けることを願ってくるようにしたのが、僕の旧約時代を指導してこられた神様のみ旨です。した がって、彼らが僕の身の上を免れて、神様の相続を受けられる圏内に入る、特権的な一時を望んで出てきたのであり、それがイスラエルの選民思想です。
27 イエス様は、一段階高めて神様の愛を紹介しました。旧約時代には、モーセは愛の神様を紹介することができず、権能の神様、能力の神様、審判の神様だけ を紹介しました。しかしイエス様は、愛を紹介しました。愛の神様を紹介し、愛のイエス様を紹介しましたが、当時の人間は受け入れませんでした。
28 今から二干年前、ユダヤ教を中心として、その時代において世界的宗教圏をつくり、ローマに反対されながら、天の側に立ってローマを消化できる宗教運動 の主軸として立てるために、イエス様を送りました。ユダヤ教が待っていたメシヤを送られたのです。
そのメシヤは、どのようなメシヤでしょうか。ユダヤ教のメシヤです。ユダヤ教のメシヤとして来て、世界的メシヤ路程を開拓しようとして、途中で亡くなられ ました。すると、ユダヤ教は、どのようになるのでしょうか。今までのユダヤ教のためだけの神様として仕える、そのような神様であってはいけません。
それでは、イエス様がこの地上に来て教えるべきこととは何でしょうか。旧約聖書で教えてくれた神様を、ただそのまま教えてはいけません。新約時代の神様と して教えてあげなければならないのです。
29 僕のイスラエルをつくり、僕の国と僕の民族をつくり、ここに神様の息子が来て、その息子を信じ、イエス様のみ言を信じることによって僕から養子にな り、イエス様が一段階上がるようになれば、イエス様を信じる人は息子になるのです。
イエス様は、何によって一段階上がるのでしょうか。この地の人間が堕落することによって人類の先祖がいなくなったので、先祖の立場に上がるようになれば、 イスラエル民族は養子の立場で接ぎ木され、神様のみ前で相続権に対し得る、息子の名分をもつようになります。ですから、ローマ人への手紙第八章二十三節 に、「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望ん でいる」とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは 『アバ、父よ』と呼ぶのである」(ローマ八・一五)とあります(訳注:韓国語の聖書では「子たる身分」が「養子」となっている)。養子にしかなれません。 今、キリスト教徒たちは養子です。養子は血統が違うのです。
30 養子になろうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。これが問題です。養子は僕よりも優れていなければなりません。神側の僕よりも優れ ていなければならず、サタン側を見ると、サタンは悪の世界の王ですが、そのサタンよりも優れていなければなりません。サタンは本来、天使長でしたが、その 天使長は僕だったので、その僕よりも劣る人は養子になることができません。これは原理的です。
また、このサタン世界を自分の手で征服するという信念をもたなければなりません。そうでなくては養子になれません。神様のために生きる道があるとすれば、 歴史が始まって以降、どのような人よりも、誰よりも神様のために生き得る代表者が出てきてこそ、養子の出発をすることができます。そのような歴史を標準と して、長久な歴史時代、縦的な歴史を経て、一つの民族を動員してこのような養子圏をつくるために、神様は苦労をしなければならないのです。その養子が出て くる目的は、神様を父母として、相続権を受け継ぐためです。
31 神様に本来息子がいるのに、養子を立てることはありません。息子がいないので養子が必要なのであって、息子がいれば、養子は必要ありません。その養子 を立てる目的は、真の息子を探すためなのです。その養子は自分が神様の相続を受けても、それは自分のものではなく、神様御自身の本来の息子、娘の前に返し てあげるべき相続だという思想をもたなければなりません。そのような養子をつくらなければなりません。養子は、将来来る息子、娘のために、自分が死ぬとし ても、生命を尽くし、自らのあらゆるものを犠牲にしても、神様が願われる直系の息子、娘が生まれることを願い、いつもそのために準備する心をもたなければ なりません。養子の名を立てなければ、息子と関係を結ぶことができないのです。
成約時代の復帰摂理
32 成約とは何でしょうか。約束を成したということです。神様が創造理想を完成するという話です。それでは、成約時代とは何でしょうか。創造理想を完成し た息子、娘、エデンから追い出して失ったそのアダムとエバが、世界的舞台の上で代表的な王権を身代わりできる神側の息子、娘として帰ってこなければならな いというのです。ですから、堕落がなかったように歓迎できる個人から、歓迎できる家庭、歓迎できる氏族、歓迎できる民族、歓迎できる国家、歓迎できる世界 にならなければなりません。
33 成約時代とは何でしょうか。地上において、家庭を中心として、父母様の愛を中心として理想世界に向かう過程、サタンが讒訴できない新しい世界に前進す る過程が成約時代です。成約時代は、原理的に見れば、責任分担を完成した父母圏を意味するのです。
約束とは責任分担です。責任分担の約束を未完成にしたのが堕落です。旧約は昔の約束です。新約は新しい約束であり、成約は約束を成す時です。約束を成すと いうのは、世界の万民たちが責任分担を完遂することです。しかし、責任分担を果たせなかったために、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の責任分担 が残されたのです。サタン世界まで生じたのです。責任分担を果たせないことによってサタンが生じたので、この責任分担を果たさなければなりません。
34 神様の摂理を見ると、三段階に分かれます。旧約時代、新約時代、成約時代です。キリスト教では、旧約と新約ですべて終わったと思っていますが、違いま す。成約時代が残っていることを知らずにいます。イエス様が再び来てみ旨を成し遂げなければなりませんが、それが成約時代です。旧約があり、新しい約束が あったので、その約束が成し遂げられなければならないのではないですか。再臨主がこの地上に来て、み旨を成就するのです。
35 成約時代は、成し遂げる時代です。個人的に成し遂げ、家庭的に成し遂げ、氏族、民族、国家、世界的に成し遂げるのです。神様の愛と、神様の生命と、神 様の血統を中心として連結します。単一の血統、単一の愛、単一の生命の伝統です。このようになれば、サタンは離れていかなければなりません。接ぎ木するこ とによって、サタンの血統的因縁がなくなるのです。
36 旧約時代までには、万物を犠牲にして息子の行くべき道を整え、新約時代には、息子を犠牲にして再臨主、真の父母が来る道を整えたのです。成約時代に は、真の父母が犠牲になることによって縦的な神様を地上に迎えるのです。神様は人類の前に真の愛を中心とした縦的な父母であり、真の父母は真の愛を中心と して、その縦的な父母の前に横的に九〇度の角度を合わせた横的な父母です。ですから、縦横の愛を中心として、初めて神様の愛と神様の生命が動くのです。神 人合徳(和合)が動き、真の父母の愛を中心として、新しい血族が広がっていきます。そうなることによって、人類歴史の中で初めて本然的原理基準を中心とし て、神様の愛の中で出発した生命の種が地上に顕現するのです。
37 旧約時代までは、万物を犠牲にして息子、娘を取り戻す時代です。新約時代は、息子、娘を犠牲にして父母が来る道を築く時代です。父母がこの地に来て、 神様が来ることのできる道を築くのです。縦的父の水平世界を、万民世界を越えてつくらなければならないのが真の父母の使命です。ですから、この水平の父の 心情圏がつくられるようになれば、縦的な父の心情圏は、自然にここに来て定着します。そうして縦的、横的な愛を抱ける位置に行けば、ついに世界を越えて神 様は核の位置に行き、本然の理想の権限を再び編成したことによって、「すべて成し遂げた」と言うことのできる時代に越えていくというのです。
38 私たちは、神様を希望の主人公として見つめ、信仰の主人公として見つめています。また愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公と していらっしゃる神様は、人間をして歴史過程で希望を身代わりした旧約時代、信仰を身代わりした新約時代を経るようにされたので、これからは愛を身代わり した成約時代を経なければなりません。
それでは、今、そのような成約時代、すなわち再臨時代において、永遠不変の一つの中心要素として残されるものとは何でしょうか。それは神様の愛です。それ は、全体の中心要素であると同時に、全体理想の要素にもなります。ですから、今まで人間は、この愛のために希望の摂理路程と、信仰の摂理路程を経てきまし た。
しかし、今、愛の摂理路程を皆さんが歩まないとすれば、神様がこの地上に愛を中心として成すべき統一の足場は、崩壊してしまうというのです。
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