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3月1~2日 スキー旅行 パパ、今までの半分くらいのすべりで「いっぱいいっぱい」 と言ってはいたが、2日目は4人一緒に滑れた。 かなり滑れるようになった昇ではあるが慎重派。 スピード狂の夕衣とは大違い。 夕衣が「昇くん、遅いーーー」と言うと にこにこしながら「いいのいいの。ゆっくりゆっくり!安全運転~」 と言いながら滑ってた。4月26日 パパの友人の定例会仲間がほぼ全員集まってくれて 快気祝いをしてくれた。 昇も連れていった。2学年上の男の子がいたので 二人で、よく遊んでいた。 皆は二次会のカラオケに。 パパはそこまでの体力はまだないので(お酒もまだ飲めていない) 皆より一足先に帰ったが、それでもとても楽しそうで そんなパパを見るのが私としては嬉しかった。 5月2日~6日 義父母・パパの妹家族と出雲旅行。 出雲大社は超混みで、参拝のための行列が出来ていた。 義父母が、思ったより元気そうなパパを見て 安心してくれたことが何よりでした。5月17日 パパと昇 はじめての東京ドームでの野球観戦。 野球大好きの昇は大喜び。 その喜びぶりに、パパは帰ってすぐ、次の試合のチケットとりをしていた。5月24日 またまた野球観戦。 こういう日の夕飯が心配ではあるのだが、おにぎりや ちょっとつまめるものを作って持って行ってもらっているが 山のように持っていったおにぎり、昇がほとんど食べたと言っていた。6月には入り、パパの職場にて、昼食と間食のおにぎりをとる場所がなくなった。昼食だけで、夕飯までもたせることが出来ないのでそれが心配。6月6日の検診では、血液検査結果を聞く。100点満点と言われた。特に、栄養状態の数値が驚くほどいいと言われ、それは私はうれしかった。胃がないことにより、普通の人よりも、ビタミンやカルシウムが不足してそれにより、合併症になりやすいらしい。鉄分も常に不足状態のようだ。なので、食事のバランスはとても気をつかっている。お種人参と(友達からすすめられた)スピルリナ(がんにならないための食生活という本に載っていた)という健康補助食品も飲むようにしている。高価なものは続かないので無理だけど手の届く範囲での出来る限りのことはやりたいと思っている。6月7日~8日 昇とパパで、伊勢旅行。 夕衣が友達を何人か泊めるというので、パパが 自分が居ない方が、気も使わないでいいだろう という事で、急きょ男二人旅をすることに。 最初は近場と思っていたのが 「新幹線に乗りたい気分」←昇ではなくパパが。 というので、伊勢神宮と、鳥羽水族館へ。 この時、伊勢神宮いいなぁ~~と私が うらやましがったので、その後、パパと二人で 行く事になったわけです。7月4日 検診 「これからはもう少し、仕事を遅くまで頑張りましょう」 と先生に言われたらしい。 今までのように無理しないように、と行き続けると その範囲でしか身体を動かせなくなってしまうから、とのこと。 これはリハビリ中のパパのような人には全般言える事だろうが 健康体の人にも言えることかも・・・。 適度に無理することも、時には人間必要かな、と思ったりした。7月19~20日 パパと二人で伊勢旅行。暑かったがとてもよかった。 夕衣と昇は二人で留守番(一日目は夕衣のカレシもきてくれた) また二人で旅行したい。8月の休みはポケモンスタンプラリー三昧。7月・8月と水分のとり方に苦労をする。とり過ぎると、必ず下痢になるのであまりとらないようにするのだが、そうすると、軽い熱中症のようになる。とらないわけにはいかないが、思うようにはとれない。時々「なんでもいいからゴクゴク飲みたい」と言っていた。ゴクゴクは飲めないので、飲んだ気がしないそうだ。喉は渇くのに・・・この夏、これは見ていてつらそうだった。9月13~14日 テニス仲間と群馬にてテニス合宿。区の施設を利用して。 昇も連れて行った。昇はもう大人と一緒にダブルスに参加できる。 たまにボールの勢いに負けることもあるが そこそこ、一緒に試合していても、試合がなりたっている。 パパをもうすぐ追い越すかも。 もちろん私はとうに追い越された。9月21日 パパと二人で映画観に行く。二人で映画館はいつが最後か わからないくらい昔のこと。 絶対途中で寝るだろうと思っていたがパパ、しっかり起きていた、えらい。9月27日 昇の運動会。去年運動会が仕事でダメになったことから 全ての歯車が狂った、とパパが言っていたことが。 だからかはわからないけど、今年は早くから場所取りをして いい場所で一日見ることが出来た。パパも満足そうでした。9月28日 パパの誕生会。パパ久々に日本酒を飲む。意外と平気だ、と ちょっと調子にのっている感じ。10月5日 東京ドーム野球観戦。 7月・8月も3回ほど行っていたと思うけど何日か わからなくなってしまった。この日はデーゲームだった。10月10日 検診(CTの結果が出た。 肺に影があると言われたが、心配ないものらしい。 肺に転移の兆候は今のところなし・・ほっとする) この日、義父が東京に来た。敬神功労賞とやらをいただいたので・・。 一泊だがうちに泊まっていただいた。嬉しかった。 義父は自分のことより、パパの肺の検査結果ばかり気にしていた。 結果を聞いて安心して帰っていかれた。 10月12~13日 福井へ私の父の墓参りと、温泉へ家族4人で。 やっと墓参りに来れた。 昇、はじめてのパターゴルフにはまった。 温泉と宿がとてもよかった。10月19日 テニスサークル仲間と飲み会。 ウーロンはいを結構飲んだと言っていい感じに酔って 帰ってきた。 手術後、はじめて外で飲んできた。 弱くなった、とかはないらしい。 ビールはもう飲めないけど(炭酸はもうダメなのです) 日本酒や焼酎ならいけそう・・・よかった~ 私もとても嬉しい。胃穿孔手術からは1年たち、胃の全摘手術からも、もうすぐ1年。検診はまだ月に1度。前回の検診時、パパの前の人がパパと同じ手術で手術日はパパより後なのにもう2ヶ月に一度のペースになっていたとのこと。(待っている場所から中の声、聞こえるらしい)「やっぱり摘出前に穴が開いたから、俺はまだ月1なのかな~」とパパ。「じゃあよかったじゃん?月1で診てもらえている方が、安心だよ」と言うと「そっか」と言ってはいたが私もパパもやはりそこは常に気になっている。気になってるけど気にしても仕方ないので、一日一日出来る事をこなしていくしかない。今の私の何より嬉しいひと時は お笑い番組を見て大笑いをしているパパを見る時。この時いつも、退院後、何をしても苦しそうにしていた頃のあの感情を思い出して本当に嬉しくなる。「あー笑ってる笑ってる」と思う。そして、こんな事が一番嬉しい事になる自分にちょっとびっくりしたりもする。こちらのブログは今日で記載を終わりにしますがガンサバイバーとしてのパパの闘いは、まだまだはじまったばかり。これから何が起こるかはわかりませんがこの1年のこちらのブログへの記録は今後の私とパパの糧となることは間違いないと思います。何より感謝なのは、どんな時もどんな状況でも静かに冷静に穏やかに事実を受け止めて逆に私を支えてくれたパパに。。。。感謝です。そしてたくさんの長い記録を読んで下さった皆さんに心から感謝します。ありがとうございました。
2008.10.31
1日の朝、お雑煮とおせちで家族4人そろってのお正月を久しぶりに迎える。いつもは、男子は島根、女子は東京にてお正月を迎えているので。パパはおとそをおちょこ2杯ほどと、お刺身に挑戦。おせちで食べられたものは煮物の人参・里芋・栗きんとん・お雑煮を少し煮物は普通の何倍も柔らかく、おもちは、キッチンばさみで細かくした。やっと1歳近くの子どもくらいは食べられるようになったかな、という感じ。4人で初詣をしたが、行列が出来ていて、1時間ほど並んで待ったのでその間、倒れやしないだろうかと、気が気ではなかった。そんな元旦をすごし3日には、テニスにボーリングとスポーツで過ごしたお正月でした。1月は7日から仕事復帰。当分は10時~16時勤務で。お弁当作りが少し大変になった。なにしろ冷食を入れられないお弁当って最近はほとんど作ってなかったから。この頃パパはよく物が食道に詰まって死ぬ思いをしていた。普通物が詰まったらお茶や飲み物を飲んで流すけどパパの場合は、お茶や飲み物も『詰まる』のでそれをすると余計症状が悪化する。そういう時は若干体をたおして、物が少しずつ落ちていくのを待つしかない。「弁当のごはんで詰まった」というメールが何度かきた。それからは、ご飯をつめる前に、箸でよーくほぐしてから入れるようにした。食事時にも『う・・』と言って、上を向いて苦しそうにしていた。最初の頃は、「大丈夫?」とちょいおろおろしたけどそのうち「また詰まったんだね~」と余裕でいられるようになった。ストンと落ちると、また食べはじめるで待つしかないのだ。ただ、これが落ちないと救急車もので、煙突そうじのように上からえいえいっと押し込んで落とすそうです。勤務は外回りはまだ無理だろうということで、内勤のみだがしばらくぶりの緊張感とまだ本調子ではないためか帰ってくると、ものすごく疲れていて腰や肩をもんでほしいと言う。パパにそんなことを言われたのは結婚して以来はじめて。よっぽどだるいのだろう、と思う。歯の治療も本格的にはじまる。1月半ば頃に下の歯が歯磨き中に1本抜けて(グラグラしてたので)上も下もすきっぱになって、ひどいもんでした。結局部分入れ歯は避けられず、そのために歯医者には足しげく通った。1月22日に島根で、親戚のお通夜があったためにパパひとりで帰る。お世話になったおじさんで、楽しい人だったので私も淋しい。3泊して戻って来た。お義母さんがいるので食事はそれほど心配しなかった。「かぼちゃの皮残したら、残すなって言われた」って言ってたけど(笑)まだちょっと皮はハードでしょう。1月27日はじめてのラジウム温熱治療。治療後は、帰ってから、眠りこけていた。初の温熱ドームはこたえたらしい。再発予防にと思い、はじめた温熱。効果があるのかどうかはわからないけど何もしないよりはましだと思いはじめた。2月21日から10時~17時勤務に。少し長くなったので心配になる。胃という貯蔵庫がないのでエネルギーをためておけず空腹状態になると、体に力が入らずめまいがしたり、膝がガクガクとなり立っていられなくなる。気が遠くなることも。胃の手術をした人の『ダンピング症状』という後遺症のひとつです。ただパパの場合は、逆流という症状がなかったのでまだたすかった。おにぎりを間食用に持っていってはいるが、帰ってくる6時頃までもつのかどうかがとても心配だった。帰り道で倒れたらどうしようと思った。帰宅直後「限界だーーフラフラするー」と言いながらとりあえず何かを食べたりしていた。飴などをポケットに欠かせなくなった。ひとつ口に入れるだけで少しは違うようだ。1月の末に妹が上京してきた。2月にはまだ方向性が決まっていなかったのでよく遊びにきてくれてにぎやかだった。パパに足つぼマッサージをしてくれた。やはり「胃」の部分にはなんの反応もなくなったとのこと。当たり前といえば当たり前だけど、人間の体って不思議だ。検診は1月5日 血液検査の結果を聞くほとんど正常値だが、肝機能に変化ありと言われる。次にエコー検査でみてみましょうとのこと。「何が食べたい?」と聞かれ「チャーハンとか餃子とかが・・」と言うと「「餃子はそろそろいいと思うよー」と言われる。(その日の晩御飯は餃子に)腫瘍マーカーは動いておらず、再発の可能性はないと言われほっとする。2月は1日が検診エコーで肝脂肪の兆候ありと言われる。体重の減少を気にして、脂肪分は気にせずカットしていなかったからか。食事で今後気をつけていこうと思う。とりあえずは、仕事を休むこともなく、検査結果もクリアしつつなんとかなんとか過ごした1月・2月でした。家ではパパはもっぱら遊びの計画をたてていた。3月のスキー。GWの、じじぱぱ達との温泉旅行。毎日毎日せっせと旅行計画をたてていました。相変わらずこういうことが大好きなパパです。私のことだけど2月1日に妹と「笑っていいとも」観覧した。「そーですねー!」と叫んできた。100人中一人が出たので、タモさんのイラストが書いてあるミニタオルをもらってきた。一人が出ると、皆にこんなのがもらえるんだーと知りだから、あんなに盛り上がるのかーと思いました。西野がな~んかうざかった(笑)
2008.10.04
なんとか無事に大晦日をすごした。大掃除・おせち作りはそこそこに。まだまだ食事作りに時間がかかるので、キッチンにいる時間が長い。おせち作りも、その合間をぬって、なので、品数は少なくなってしまいました。パパも大分夜、起きていられるようになったのでこの日は、家族で紅白を見ました。紅白→ジャニーズ年越しへとチャンネルを変えて家族全員でカウントダウンした。パパに「もうそろそろ寝た方がいいよ」と言うと「なんとか、2008年を迎えられた」とパパ。「そうだねー、よかったね」と言うと「ありがとう。ママのおかげだよ」と。涙がでそうになった。「こちらこそありがとう、頑張ってくれて」と言った。「ゆっくり休んでいい夢見てね」と電気を消した。この人と結婚してよかったな~と思った。パパが寝た後、私と夕衣と昇でジャニーズの年越しの続きを見た。昇がはじめてこんな時間まで起きてテレビを見てることにテンションあがりっぱなしでおかしい人になってた(笑)二人にも「ありがとう。二人のおかげで2008年が迎えられたよ」と言うと二人とも「いいよーー!」と答えてた(^^;)
2008.08.13
12月26日から29日まで、パパは島根の実家に一人で帰省しました。食事が一番心配ではあったけれどのんびり田舎で過ごしたいというパパのたっての希望のために私をはじめ周りも、大丈夫かな?とは思いつつも反対せずにパパの気持ちを尊重しました。思っていたほどの、食事での苦労もなくパパは、願いどおり、ゆっくりのんびりしてきました。「昇がいなかったから、たいくつだったけど・・」とは言っていたけど田舎の空気を吸い、ゆったりとした時間を過ごし義父母も安心してくれたようです。ところで、今思い返してみて、なぜパパがこのような病気になったのか・・と考えた時に、原因をひとつには、しぼれないとは思うけれどひとつ、確実に原因になっていたことがあると思います。それは『歯』(および、歯ぐき)です。パパ、10年ほど前に、自分でグラグラする奥歯を抜く・・というとんでもないことをしております。私もそれを知っていたけど、その時ちゃんとした歯周病の知識もなく虫歯が進行してしまい、抜けたのだと思っていて「えー?信じられない!なんでぬけたのー?」とは驚いたもののなんか、この人なら歯くらい自分で抜くだろうな、とか思い放っておいたのです。で、その後も歯医者なんぞには行かず・・・ていうか、うちのパパ歯医者って、幼少期に行った以来一度も行ってないのです。その間に歯周病はどんどん進行していたわけです。で、この年の9月頃、飲み会があった時帰ってきたパパの口元を見るとなんか前歯が抜けかかっている・・・??「どーしたの?歯?」と聞くと何日か前に夕衣がパパが寝てるのに気付かず(布団にくるまっていたので、布団のかたまりだと思ったらしい)顔面にあたる部分を思いっきり蹴られたそうで(パパもちょうど人が通るところに寝ていたので)その時に、前歯部分に衝撃がありそれ以来、グラグラしていたそうでこの日、ビールをしこたま飲んでなんやかんやと普段食べないものを食べたら一気に抜けそうになってしまった・・ということ。「えー?なにそれー?歯医者早くいかないとー!」とさすがにこの時は虫歯が原因などとは思わず、強く歯医者行きをすすめましたが・・・うちのパパ信じられないことに数年前に奥歯が抜けたときに『今頃乳歯が抜けた。またはえてくるだろう』って、まじで思ってたんですって・・・・・。あほだ・・・・・正真正銘のあほです。夕衣と二人で、それを最近聞いて「えええーーーー?うそでしょーーー?ばかじゃーーーんん!」と思いっきり二人で叫びましたが・・・。しかし、パパもさすがに前歯が抜けかかってるとなったら歯医者に行かざるを得なくなりその後、しばらくして行ったのだけど「よくこんなになるまで放っておきましたね。物がかめなかったでしょう」と歯医者さんにびっくりされたそうです。で、とりあえず、前歯には、応急処置的なことをして本格的には徐々にやろう・・となっていた矢先にある日、パパ、油断してらっきょうをかじったものだからその応急処置の歯が欠けてしまいまたしても物がかめなくなってしまっていたようです。これが、10月の胃穿孔の4日ほど前の出来事。だもんで、この4日間はほとんど物をかまずに飲み込んでいたようです。毎日お茶漬けでいいと、お茶漬けを食べていたのだけど私に「かめないから」という理由を言わないでいたものだから私は私で、連日遅くて(1時、2時だったから)食欲も出ないのだろう、と勝手に思っていたわけです。考えてみると、かいようがあった胃なのに夕衣の蹴りをくらって以来物をかまずに飲み込み続け夜中に帰って空腹にいきなり冷たいビールと、ポテトチップでとりあえずの空腹をごまかす毎日。あげく、らっきょう以来塩分多く、消化も悪いお茶漬けを毎日食べていたらそりゃ穴も開くでしょう。12月19日、パパは無事、部分入れ歯を入れてもらいそれまで、退院後続いていた下痢が止まった、と言っていました。下痢も便秘も術後の腸には負担が大きく合併症のもとなので心配していたことだったのです。その後、最近のことですがヤフーニュースで『歯周病はガンのリスクが高い』という研究発表がされたというのを見てパパと二人で「おお~~~~」と感心しておりました。仕事上のストレス、激務による疲れ、家に帰っても奥さんからいたわられるわけでもなく家では家でのストレスがたまりもともと持っているガン体質(パパの祖父が胃ガンでした)偏食、甘い物好き空腹にビールとポテチの毎日睡眠不足お風呂につからない(シャワーですませる)これの全部が原因になってるかもしれないしなっていないかもしれない・・それはわからないけれどとにかく、歯(歯ぐき)のケアを怠っていたのが原因のひとつであることは間違いないと思います。今は、せっせと歯医者に通い優等生らしいです。芸能人じゃなくても歯は命・・だと思うのでありました(古ぃ・・)
2008.06.22
12月15日退院後、初の検診。手術した胃の検査結果を聞くと同時に、これからの注意等。検査結果は、ひとことで言うなら『今となってはわからない』だった。とういうのは、普通、摘出した胃を検査すれば進行度はもちろん、いつ頃から発症したものか、などもわかるらしいのだがうちの場合は、摘出一ヶ月前に胃穿孔の手術をしているので、異例らしくその時に、一度穴が開き、それをふさぐ・・要するに、胃はボコボコ状態であったわけなので穴の開く前の状態はいくら摘出した胃を検査してもわからない、とのことだった。わかっている範囲では、意外にも進行度はステージ1~2の間くらいと当初言われていたよりも低かったのだが先生が「おかしいなぁ~」と首をかしげたのは何箇所かにガンがあったこと。普通は、一箇所にあることが多いので先生は「穴が開いた時飛んだのかなぁ~」と言っていたそうだ。気になっている腹膜に漏れていないかどうかも現時点ではなんともいえないとのこと。もし漏れていたらガン性腸閉塞か、腹水がたまるという症状が出るらしい。漏れているかどうかを知るためには発症しかない、ということなのか・・・。どうにもすっきりしないなぁ~、という結果だった。ただ、リンパ節への転移はひとつも見られなかったと言う結果で、それはほっとした。抗がん剤は、進行度が低かったためにしばらく見合わせるとこのこと。胃がんの場合は、進行度が低かった場合、抗がん剤を投与しても、投与しなくても変わらないようだ。「病人には見えないねー」と先生にも驚かれたらしくパパは本当に、見た目は普通になった。週1~2、1時間ほどではあるが、テニスをしていること。毎日、頑張って歩いていること。(最近は軽く走っている)などなどの成果かな。検査結果は、すっきりしない点もあるけれど言っていることがわからなくもないし納得できない、というほどでもない。なにより、覚悟していた最悪の結果ではなかったことに感謝です。
2008.05.31
12月9日テニスサークルのテニスに顔出しをする。私と昇はテニスをした。パパは玉拾いをしていたが、途中20分くらい、昇と打ち合いをしていた。あまり動かずに打ち合うだけなら、大丈夫、と。楽しそうだった。皆が「すごいなぁ~」びっくりしていた。私もちょっとびっくり。テニス後は、サークルの皆との忘年会にも出席。お好み焼き屋さんだったのであまり食べるものもなかったけれど何時間かかけて少しずつ食べる食べ方なので食後の問題はなにもなかった。帰ってから、疲れたようで、ひたすら寝ていたがものすごくいい気分転換になったと本人は言っていた。退院から、多分1週間くらいだと思うけれど(もしかすると、もっと短かったかもしれないし 長かったかも・・・期間は忘れてしまいました)私にとっては、この期間が一番きつかった。パパが見ていないところで何度か涙が出た。理由はパパがあまりにつらそうで。。。。あんなに陽気で、ばかばっかり言ってた人が『笑わない・喋らない・歌わない』これは、見ていて本当に苦しかった。とにかく食事をすると、激痛と不快感がものすごく誰かが話しかけようものなら「今話しかけないでくれ」と言わんばかりに手の平をこちらに向ける。自然に夕衣も昇も、近くにいかないようになっている。休みの日には必ず昇と入っていたお風呂にも入れないようでそのうち昇もわかってきてお父さん、お風呂入ろう、とは言わなくなった。別人のようなパパを見ることが私にとっては一番辛かった。この頃は毎日ただただ「パパが一日も早く、普通に歩いたり笑ったり、しゃべったり、歌ったり出来るようになりますように」と祈った。笑えること。話せること。歩けること(もとどおり、走れるようになんては言わない)そして歌えること。それ以上は望まないと思った。その願いは今、かなっているけれど変わらず願い続けている願いでもあります。
2008.05.25
12月8日退院いろいろ言われていた最悪な事態にならずに、無事退院できたことにただただ、感謝。帰り道、階段がつらい、と何度も何度も休んでいた。一度目の退院の時より、やっぱり体力なくなってるなーと思う。大急ぎで買ったMサイズの服もブカブカ。後姿のおしりのあたりのブカブカ加減を見てちょっと悲しくなる。(今まではLだったので)なんとか、家にたどりつく。ものすごく疲れたようで、ほとんど寝ていた。食事は、「胃の手術をした人の食事」という本を参考にするようにした。夕衣と昇が帰ってきて家族がそろった。ただ、一緒にご飯を食べられることがこんなにありがたいことだとは頭ではわかっていたけれどそれを心で感じた日でありました。
2008.05.25
大事なことを書き忘れてた。手術の次の日、観察室にいるパパに会いに行った時に私の顔を見ると、パパは「ありがとう」と言った。心の底からの言葉に聞こえた。こんな『ありがとう』ははじめて聞いたな、と思った。普段あまりこういうことを口にしない人だけに(ふざけたことばかり言ってるので)この『ありがとう』はずしんときました。11月24日微熱が続いてるようで、パパ、まだまだ肺炎が心配。点滴のせいで、夜中もトイレに起きるのと、検温のために、なかなか熟睡出来ないらしい。27日から水OKになるとのこと。11月28日私の母が見舞いに来てくれた。東京駅で待ち合わせをして、東京駅の地下で食事をし病院へと向かった。かなり久しぶりに会った母だったが相変わらず、超元気そうだった。パパに病室で「反対をおしきって、結婚したのだから(いろいろあって、反対されていたのです) あなたには、娘を幸せにする義務があると、私は思っているのよ。 だから、こんなことで何かあっては絶対にならないの。だからがんばりなさい」というような事を、言っていた。そのあとは、自分の知人で同じように胃を全摘した人の話をしていた。長い時間ではなかったけれど、私もパパも遠いところ会いに来てくれたことに感謝しました。その後、美術館に行きたいということで、一緒に美術館に行った。・・・・なんていう美術館で何展だったのかすっかり忘れたけど。母にパパのことを報告した時に電話口で思わず泣いてしまった。「おかあさん、本当に大変だったんだね」と。大変だったんだろうな、とは思っていたけれど実感するまでには至っていなかったので・・。今回のことは、実感するに近い感覚にまでなった。「いろいろ、ごめんね」と言うと「すぐに行くから。しっかりしなさい」と言ってくれた。そういう言葉を期待していなかったので人の生死に関わることはいろいろな見えない力が働くのだと感じた。母は、とても忙しくしている人で美術館のあとには用事があるということで近くの駅で分かれた。12月1日27日から水を飲み、一日一日少しずつ量が増え一応3食出るようになった・・とは言ってもスープや3分がゆやプリンなど流動食のみ。食べるのも、一食の半分の量を30分かけて食べているようだ。気をつけて、練習しているので、今のところ食後の不調はみられず、ひとまず安心。毎日「食後だいじょぶ?」とメールしている。本を読むと、食後がとにかく大変らしいので私もパパもそれが心配。この日は、パパの友人がふたりお見舞いに来てくれた。パパが席をはずした時に「やっぱり大分やせちゃったなーと思った。本人には言えないけど」と言っていた。2度の手術で、ぐんとやせてしまったので。12月2日この日も、友人5人が面会に来てくれた。私は夕衣と昇を連れて、昼に行ったので夕方は同席しなかったけど、パパにとってはいい気分転換になったと思う。昼、夕衣の合格を確認したことを聞いてパパが安心していたのは覚えているがあとは、何をどう話したとか夕衣や昇がどうだったとか、すっかり忘れてしまった。12月3日食事指導を二人で受ける。「大変そうだけど、頑張ろう!」と思った。パパに「食事作り、全然苦に思ってないから安心して」と入院前に言ったのだけどちょっと不安になった。この日、担当医から「抗がん剤、嫌だなんて言わないでよ~いざとなると嫌って言う人、いるんだよねー」と言われたそう。副作用に苦しむのが少なくありますように、と思う。
2008.05.25
2007年11月21日観察室にいるパパともう一度対面し「がんばんなさい」と手を握り義父・義母帰る。最近は手術後なるべく早く、立ったり歩いたりさせるようで(肺炎や、静脈血栓、その他合併症予防)私も先生から「奥さんからも、頑張って歩くように言ってくださいね! でないと、肺炎になっちゃうからね」と言われていたので観察室にて「肺炎なっちゃうから、がんばって歩いてねーー」ともうろうとしているパパに言った。なので、パパはこの日(手術翌日)観察室から、病室に歩いていったらしい。ちょっと頑張りすぎたかな、と本人は言っていた。夜、夕衣と昇を連れて面会に。パパが、二人に手をさしだし、二人がパパの手を握る。こんなことでもないと、娘がパパの手を握るなんてなかったろーなーと思ったりした。夕衣が「こないだの手術後より、元気そうな気がするよ」と言っていた。昇は病院の売店でお菓子を買い病室でイヤホンでテレビを見るのが楽しくて仕方ないようだった(笑)11月22日この日鼻のチューブを抜いてもらう。これで、大分楽になるらしい。ただ、痛みが相当で、痛み止めの座薬を何度も使ったと言っていた。看護師さんにおしりを見せるのは不本意だけど痛みには勝てなかった、と言っていた。この日は病棟内を一周したらしい。一見頑張り屋さんなようだけど実は肺炎になるのがこわいだけだという事を私は知っている・・・・。11月23日タンを切るのがものすごく大変らしい。結合部分が裂けるのではないかと思う、とか。夜中も、検温あったり、なんだかんだで、眠れないようだ。今日のレントゲンの結果、腸の管と硬腹外麻酔の管が抜けた。管がぬけると、楽になるとこのこと。寝返りも少しはうてるので、床ずれ寸前状態にならずにすむ。今日は祝日なので、また夕衣と昇とで3人で途中のマックでいろいろ買っていき病院の食堂で、昼ごはんを食べた。パパもそこにきて「うまそうだなぁ~」と言ってる。パパ、まだ点滴のみなので・・。「目の前で食べたり飲んだりされると、うらやましい?」と聞くと「そうでもないよ、全然ハラ減らねえから」と言うので、皆、遠慮せず食べた。外は寒く、雪。今日は微熱があり、あまり歩かなかったとのこと。「肺炎大丈夫かなぁ~~」と心配そうだった(笑)私が、とうとう風邪をひいてしまった。パパの前ではマスク2重状態で。手術終わって、ちょっと気がぬけたのかも。。。
2008.05.11
2007年11月20日早朝、妹が帰る。『昇はさっちゃがずっと守るから。 夕衣はおかあさんのサポートをお願いね。 おかあさんはもう頑張ってしか言えない! みんなで力をあわせて 乗り切ろう オゥー!』という置手紙をチラシの裏に書いて(笑)残してあった。支えられていることを実感する。今日は義父・義母がきてくれる。飛行機がどうしても嫌とこのことで、夜間バスにて。私が病院に着いたときには、もう着いていて病院のソファーで、お義母さんは横になっていた。ふたりの、疲れた顔を見て、なんだか申し訳ないなぁと思う。大事な息子の体を管理できなかったことに責任を感じた。(この時はとにかくそう思っていたので)義父・義母には、進行がんであろうということは言っていなかっただが(パパの妹からも言わないでと頼まれていた)会うなり、義母から「○○(←パパの名前)に見せてもろうたけど がんが、進んどるようじゃねぇ」と言われる。(パパ~~~!と思う 笑)「なんか、ステージ4らしいよ」と義母。えええ~~~?4?4?聞いてないし!「え?4って言ってました?」と動揺して聞くと「誰も言ってはないけど、紙に4という数字が見えたけえ こりゃ、困ったぞ、と思うてね~、4ちやぁ~、大変じゃよ~」と。「4って?・・・」と私、パパの病室にあわてて、行く。パパ「どーしたー?」私「なんか、お義母さんがステージ4って・・・?」パパ「あーー、いつもの大ぼけだからー、この4かなー」と、全然関係ないところの『4』を指す。勘弁してくれーお義母さんよ~~~義父・義母のところに帰り「多分、なにかの間違いだと思うんで、大丈夫だと思いますよ」と言うと「ならええんじゃがねぇ~」と納得はしてないようだった。手術の予定は12時からだったのだが午前の手術が長引き、1時からとなる。パパと手術前一緒にいたけど何を話したか、もう今では覚えていない。1時前、車いすでパパエレベーターに乗るのを見送る。「頑張って」と多分言ったと思う。待合室のようなところのソファーで義父・義母と3人で待つ。今回は3人なので、少し気が楽だ。前回は一人きりだったので、そりゃあもう心細かった。義父と義母も、それを気遣ってくださり、この日に上京してきてくれた。ありがたい。手術中はとにかく先生や、看護師さんからの呼び出しがないようにと祈る。「急変や、異常事態の時は、呼びにきますので」と言われていたので。少したって、お義父さんとお義母さんに買ってきたお寿司を食堂で食べていただく。・・・と、待てども待てども二人がもどってこない。食堂に見に行くが、いない。おかしーなーと思い、まっていると1時間半後くらいにマックのハンバーガーを5個も買ってもどってきた。なんで?と思うと「お土産屋さんがないかと思うて、ぐるぐる探したがいっそ(全然)なかった。コンビニの人に聞いたら、デパートに行けちぃ、言われてのぅ~」お義母さーん(泣)そんなこんなで、違うことに気をとられていたおかげで時間がたつのが早く感じた。3時間経過した頃、もう大丈夫かな~と思っていると看護師さんが「手術室からの先生の電話に出てください」と来た。えー?と、ドキドキしつつ電話口に出る。受話器を持つ手が震えたのを覚えている。「開いてみたら、思ったよりもガンが下の方だったんで 3分の1を残す手術をしていたんですが 摘出した胃の側面を(残した胃にくっついていた部分) 検査したところ、そこにもガンがあったんで だったら、残すのは危険ということになり やはり全摘することにします。 なので、変更ということになり、時間がかかります。 よろしいでしょうか?」という電話だった。「はい、お願いします」と答えつつ、先生~、そんなん、電話せんでええよー全摘って言われてたんだしさーびっくりさせないでくでーと思うが、時間が長いと心配するだろうからの電話だったのだろう。その後数時間で、手術が終わったとの連絡を看護師さんがしてくれて30分後くらいに、パパが運ばれてきた。「○○さーん!奥さんですよーー」という先生のよびかけにパパがうっすら目をさまし運ばれているベッドで、手を振って、先生たちを笑わせた。「ごくろうさま、頑張ったねー」と声をかけ、涙がにじんだ。お義父さんも、うるうるしていた。お義母さんはこの時トイレだった(お義母さーん 笑)手術室によばれて摘出した胃を見せてもらった。レバーのでっかいのみたいの。それだけで、意志を持ってそうな、物体に見えた。「これがガンです」と、赤黒っぽいかたまりを指して先生が説明してくれた。「この裏側が穴の開いたところです」(あ~、やっぱりそうだったんだ、ガンが穴を開けたんだ、だとしたら、もうダメなのかな~)と思う。「普通胃は薄いんですけどね、ガンのあるところは こんなに厚くて固くなってるでしょう。 こんな風になってしまうんですよ。 でも、親玉はとったんだから、大丈夫!治りますよ!」といわれた。はじめて「治ります」という言葉を聞いた。嬉しかった。大学病院の先生がそうそう治りますっては言わないべ?もしかしたら、ダイジョブなんかな?と思った。(しかし、後々にわかったことだけど、この先生 腕は確かだが、相当テキトーな性格だったのだ 笑)「先生、腹膜への転移は?」と私が聞くと「それは今の段階ではまだわかりません。 でもね、もし転移していても、それはガンの子どもで 親はもういないんだから大丈夫。 ご主人の場合は一度手術をしていて、ふさいでいるから 本当のところ、ガンが原因で穴が開いたのか かいようなのかも、今となってはわからないんです。 ただ、私の勘だと、ガンだと思うんだよねー なので抗がん剤治療もしなければいけないと思いますが それも覚悟しておいてください」といわれた。あとでテキトーな性格ってわかってからは笑ったけどこの時は、ずいぶん、この先生の言葉に励まされた。この日「胃全摘手術」は無事成功に終わりました。
2008.05.10
携帯メールを見ながら、記録を書いてきたのですがしばらくサボっている間にメールが流れてしまったので、記憶をたどっての記録となってしまいます。ちょっと残念です。2007年11月17日パパの大学時代の友人5人がお見舞いにきてくれる。ひさしぶりに会えたのが病院なんて・・とは思うがこうしてかけつけてくれる人がいること、大事に思いたい。私も、パパが好き嫌いが多いこと、スナック菓子好きなこと塩分・糖分過多を言っても言っても改善してくれないこと等などの愚痴をきいてもらいました(笑)胃に牛乳がいいらしく、入院生活で牛乳すごく出る、と話したら皆が、退院後の快気祝いはみんなで牛乳でカンパイしよう!と言ってくれた。パパも皆に会えて嬉しそうでした。この日、妹が来てくれた。夜遅くまで、あれこれ話す。メールや電話で支えてくれていたなかの、一人。「何があっても、夕衣と昇は私が守る」と言ってくれる。ありがたいです。2007年11月18日午前中、妹の部屋さがしのために、不動産屋へ。妹はパパがこうなる前から、東京に出てくる予定でいたのだがパパがこうなったので、その予定を少し早めてくれた。ネットで気になる物件をチェックしていて、不動産屋の方とも何度か話をしていたようなのですぐに何件か見せてもらった。家の近くで、よさそうなところがあってそこを第一候補とした。まだ決定ではない。午後、妹・夕衣・昇と4人で、面会に。久しぶりにパパを見た妹が思ったより元気そうで安心した、と言ってくれた。ここまで回復したのに、また手術なんて・・と悲しくなる。夜、大学の友達が3人きてくれた。一人はベテランの看護師さんで、参考になる話もきかせてもらい励まされた。「気が大事よ」と、テレビで見た気の力のことを話してくれた。別れ際に「パワーをあげるから」とパパに『ハグ』していた。それを見ていて、本当にパワーもらえたような気がした。11月19日朝、昇をいつもの『寝起きダッコ』しながら、また涙。その場にいた妹に「昇のことを考えると、ダメで~~。 まだまだ幼いと思う。まだまだ父親必要だって思う」と言うと、妹が「私は母親目線ではないから、そういう気持ちにはならないよ。 強くたくましく育てよう、って思う」と言ってくれる。強くたくましくならなきゃいけないのは、一番私かも。昇と妹と私の3人で面会に行く。妹が、パパの足ツボマッサージしてくれた。病院のベッドなので大声で痛い!といえず、声をこらえるのが大変そうでした(笑)そういえば、夏に足ツボしてもらった時妹に「パパ、胃、相当悪いよ?胃カメラ飲んできな!」と言われていたのです。妹はパパに「思ったほど悪くないよ、足ツボの感じだと。だから頑張って」と言っていたが、あとで私に「胃のところだけ、すごく重かった」と言っていた。悪いものは早くとってもらわないと・・と思う。夜、私と夕衣、昇の3人も足ツボをしてもらうと昇に「ストレス」のツボに強く反応があるらしい。それほど変わりなく、元気でいるように見えるけれどストレスを感じているんだーと思う。ちなみに私と夕衣にはそこには反応はなかった。「ええー?うそーーー!」と思ったけど、いい方に考えると悲しかったり、つらかったり、苦しかったりはするのだけどそれを自分自身ストレス・・ととらえてないのでは???・・・なーんて。ストレスに強いタイプだろうとは思います。よくわからないけど、反応がないにこしたことはないのでよしとしました(いいのか?)
2008.03.16
2007年11月16日入院での夜、眠れたのかどうか、心配で「眠れた?」とメールすると「少し」との返信。パパが少しでもぐっすり眠れますように・・と思う。今日は、ネットでお知り合いになった方がお見舞いに来てくださいました。ネットで知り合った方とお会いするのははじめてだったのと遠方からいらっしゃった方だったので私も、パパも、言葉では言い表わせないほど、嬉しかったです。3人で、話をさせていただいたのですがはじめてお会いしたような感じは全くせず昔から何度も会ってお話しているかのような・・そんな印象でした。ただ、急きょ、術前カンファレンスが入ってしまって病院玄関で長くお待たせしてしまったことが申し訳なかったです。しかも、その術前カンファレンスで「ご主人のガンは進行ガンとみています」とはっきり言われてしまい、パパが「退院後の治療は、完治にむけて、と考えていいのでしょうか?」と聞くと「TS-1」というクスリが、進行ガンには効果的というレポートが今年の夏に発表されていますので、そのクスリをつかっていきます」という、それ、質問に対する答え??という感じの回答が帰ってきたり、とかその他にも、手術や、その後の説明で最悪の事態の説明ばかりされたものだからお見舞いに来てくださったその方と話しながら思わず泣いてしまいました。重ね重ね申し訳なかったです。でも、本当に感謝しています。
2008.03.16
2007年11月15日今日から入院私は仕事なので、一人で病院に行ってもらう。朝、出かける前に「じゃあ、頑張って!夕方行くから。 大腸がんの検査のことメールして!」と言って、いってらっしゃいと言おうとしたら涙がこぼれそうになった。思わずパパに抱きついたらまた背中をさすりながら「だいしょうぶだから」と言ってくれた。 昼にいったん家に戻ると(職場が近いので、ほとんど昼ごはんを家で食べている)当たり前だけど、家には誰もいない。テーブルの上に大きな紙に「いすの上にある物、あとで持ってきてください。 では行ってきます!」と大きな字で書いてあった。それを見て、わーわー大きな声で泣いた。このまま、帰ってこれないかも・・・。さびしい。さびしいと思った。告知されてからこの1週間、まるで新婚にもどったように感情表現をお互いに素直に出来るようになった。この1週間、多分、世界で一番幸せな夫婦だったと思う。そういう点ではがんに感謝だな、と思う。午後パパからメール「大腸の検査結果、多分大丈夫だろうって」あーーーー、よかったーーーーー!本当によかった。仕事が終わって、病院にかけつける。先生から「ポリープはなく、大腸には異常ないかと思われます。」と。多分、やっぱり痔からくるものでしょう・・とのこと。はじめての「いい方」への結果報告を聞いた。今までは毎回「悪い方」ばかりで「ないとは思いますが・・・・」の方に転んでいたので。これをきっかけに、全て好転していきますように、と強く願った。
2008.01.26
2007年11月 14日大腸がん検査の予定が明日なので、検査前の食事セットなるものをパパ、病院の売店に買いに行く。3食分と間食分、レトルトぽい物で、お湯の中で温めるだけで食べられれる。量はごくごく少なく、煮物やおかゆ、みそ汁など。夕飯後、大量の下剤を飲む。腸の中をからっぽにしなければならないので。下剤を飲んだあと、トイレと仲良しになる。きつそうだなぁ~~、とパパを見る。がんとわかってからネットであれやこれや調べて、とにかく出来る限りのことはしたいと思い、いろいろと取り寄せる。フコイダンという、沖縄もずくから出来た液体の試飲用のものと、お試しキットみたいのを取り寄せたので(この情報は妹に教えてもらった)1週間分ほどあるので昨日からそれを飲んでもらってるがまずいらしい。お高いので、今後継続して飲んでいけるようなものではないけど手術前の免疫力が少しでもアップすればいいかなーと思った。スギナ茶というのも、取り寄せた。これもあまりお気に召さなかったようだが、これは、まあ普通に健康茶というだけで実際に問い合わせの電話をしてみたりもしたけどなんだか電話に出たおっさんもうさんくさかった。まだ残ってるので、今はほとんど私が飲んでます(笑)
2008.01.26
11月13日 術前検査で、便を持って病院に。 あと、バリウムも飲んできた。 なので、今日は仕事を休んだ。 帰ってしばらくすると 病院から携帯に電話。 どきっとして、出ると 「実は便が血便だったので、大腸がんの 疑いもあるので、大腸検査もすることに」 という電話。 電話を切って、パパにそのことを言いながら ガマンしきれずに、パパに抱きついて わんわん泣いてしまった。 「どうしようどうしよう。 大腸に転移してたらどうしよう」 パパは 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言いながら 私の背中をさすってくれた。 逆じゃん!なんで私が慰められてるんだ? と思うんだけど 今まで、笑顔笑顔で、涙を見せまいとしてきたから その分、どっとあふれてしまったようだ。 はじめてパパの前で泣いた。 落ち着いてから、このことは、まだ夕衣には 言わないで、とお願いする。 夕衣、16日面接なので それまで心配をかけたくないのだ。 「わかった」と言ったパパ。 夕衣が帰ってきたら 「お父さん、大腸がんもかも!」と言ってる。 はーーー?なんだ?こいつー!と思う。 「ちょっとー!何言っちゃってんのー」と言うと 「あ、そっかー」だって(がーん) もう仕方ないので 夕衣に、はじめて、これからのことや、 父親の病状のこと、いろいろ話した。 夕衣は動揺することなく 「わかった。それに向かっていくしかないね」と しっかり受け止めてくれる。 多分私の何倍もしっかりしている。 「お母さん、夕衣のこと頼っちゃうから よろしくね!お母さん絶対ひとりじゃ 無理だから!」 と、すりよって抱きついたら 「そんなこと宣言されても~~」と笑っていた。 寝る前にパパに 「死への恐怖っていうのはある?」と聞くと 「それはない」とのこと。 「ないんだ~~!じゃあ何が一番不安?」 と聞くと 「オレの不安材料は 多分、あなたが思うよりずっとレベルが低い」 というので「えー?なになに?」と聞くと 「また手術後、腹に管がささって、痛いのが 嫌なだけ。これをなんとか避けたい」 だそうで・・・・・。 なんか、この人ってどこまでも脳天気なのかも と思う。 がんも、こんなやつを選んで失敗したって きっと今頃思ってると思う。 で「それは避けられないと思うよ」 と言うと「やっぱり?ちくしょー」と まじで悔しそう。二人で笑った。 どうにか避けられないかと、毎日考えていたそうで。 でも、これを聞いて、私としては ちょっと安心した。 「もうそれは覚悟して乗り越えなさい」と言うと 「はい、わかりました」と。 そして 「あのさ、血便って、オレさ、痔だから 多分それだと思うよ」だって。 次にがんになる前に痔を治そうと言ってこの日は 早めに寝ました。 15日から入院が決まったと 病院から電話があったのもこの日です。
2008.01.23
11月12日 妹が岐阜にある 『癌封じ寺』にお参りと祈祷してもらいに 行ってくれる。 祈祷してもらいながら、ボロボロ涙が出たとか。 浄化ってやつかな・・・と二人で話す。 お札とお守りももらってきてくれて 『この中に癌を閉じ込めましたから』 と言いながら渡されたそう。 写メで見せてもらう。 人の体の絵が書いてある胃の部分に○がしてあった。 本当にありがたいことだと思う。 パパも、感謝している様子。 妹に 『私は悪いけどあきらめない!』と言われる。 私や子どもたちのためもあるけれど それより何より パパという人間がいなくなることが嫌だ。と。 失うには惜しい人だから、と言ってもらう。 そうなんだな、と思う。 そんな風に周りから思ってもらえるような 生き方をしてきた人なんだな、と。 私も諦めてはいけないと、思う。
2008.01.23
11月11日 「お父さんいなくなるのやだー」 (入院すると、という意味) と昇。 「お父さんいなくても、お母さんが遊んであげるよ さっちゃんも(妹)きてくれるしね」 と言うと 「さっちゃん?うれしい! さっちゃんにここに住んでもらいたい。 そうしたら、お父さんいなくても 普通の4人家族になるもんね」 なんだか、涙出た。 この頃は、4人家族と言う数字にこだわる昇だった。 「でもお父さん、死んじゃうのはやだー」と。 「さっちゃんいても?」と聞くと 「うん、だって遊べないし、それにさー、お金も・・」 ちょっとおかしかった。 習い事をことごとくやめたので、昇なりに お金が大変って思ってるのかも。 「夕衣が大学出たら、働くし さっちゃんが大金持ちだから大丈夫だよ お母さんも頑張って働くしね!」 と言うと、かなり安心したようす。 でも、お父さんは死なないよ、とは言わないようにした。 「お父さんに何かあったら、お母さんと夕衣と昇と そしてさっちゃんで、助け合っていこうね」 と言うと、力強く「うん!」と笑った。
2008.01.23
11月10日 パパがずっと気になっていた昇の学芸会 私が先に行って、場所取り。 冷たい雨がふり、思いのほか、寒い。 午前中いっぱい、いすに座ってられるかな。 パパに電話。 「寒いから、ちび毛布とちび座布団持ってきた方がいいよ」 始まる寸前に パパと夕衣、ふたりで、来る。 3人で並んで一番前で観る。 もし疲れるようなら、昇のだけ見て、帰れば? と言っていたのだけど なんとか、全部見ることが出来た。 子どもの手をひく、どっかの小太りのお父さん を見て 「いいなー、あんなに太ってて」と思う(笑) なにせ、やせてしまった、隣の自分のだんなを 見ると、胸が痛くなってしまって 他の方と比べても仕方ないのに 「血色いいなー」とか「健康そーだなー」 とかやたら思う(笑) 『来年、これるのかな』 と思うと、涙がにじんできてしまう。 夕方、パパがカラオケに行きたいというので みんなで行くことに。 と思っていたら またしても夕衣は、いびきかいて寝てしまって 全く起きないので 仕方なく3人で。 パパたのしそー。 でも『野風坊』はやめておくれ。 お前が二十歳になった時に酒でも飲みたいとかなんとか そんな歌詞。 殺生なーーと思い、トイレに。トイレで泣く。 帰ってきたら『ロード』 まじですかー?いやがらせ?と思う。 またトイレに。泣く(笑) パパ 「毎日テニスして、カラオケで唄うたってたら 治りそうな気がする」と。 少しは発散できたかな。
2008.01.23
11月8日 仕事が手につかない。 ご飯が喉を通らない。眠れない。 『うつ』にならないようにしなきゃ、と思う。 思考方法がわからない、と苦しくなる。 最悪の状況になった時 どうやって生活をしていくのか どうやって昇を守っていくのか が頭から離れない。 夕衣は、あの子は大丈夫。 過信ではなくて、そう思う。 逆に支えてもらってる感すらある(笑) プラス思考で、ポジティブに、 とか 闘う気持ちが大事 とか 頭でわかってはいても、心がついていかない。 闘うってなんだろう?とかも思う。 夜、パパが 「術後の経過がもし悪かったら 仕事やめて島根に帰って療養するわ、単身赴任で」 と言う。 島根が大好きなこの人にはいいことなのかなと思う。 「じいちゃん、ばあちゃんがいいって言ったら それもひとつの案かも。 でも単身赴任てのはどうして?」 「昇に田舎の小学校はちょっとかわいそうだから」 全校生徒が10人足らずなんです・・・たしかに ちょっとなぁ~・・・と思う。 でも父親の命には変えられないのでは、とも思う。 「じゃあ、昇がおねえと二人暮らしできるくらいに なったら、私も島根に行くよ。 一緒に百姓しよう」 と言うと、すごく驚いて 「あなたの口からそんな言葉が出るなんて・・・」と。 私は、どんなことがあっても 百姓だけは多分無理って常々言っていたので。 自分の心や考え方が 自分でもびっくりするくらい一転していく。 ただ、最悪な状況になった時 弱っていく父親を 間近で昇に見せなくてはならない という事を想像すると いたたまれなくなる。 元気で、陽気で、強かった(いろんな意味で) 父親が、衰弱していくのを まだ10歳にならない年齢で 受け止められるのかどうか。 と考えていると いや、待てよ、と思う。 もしかしたら そう言ってる私は 私自身が受け止められる自信がないだけかも と思う。 私は、強くないとつくづく思った。 結局、自分がかわいいだけじゃん、と思う。 この頃は、いろんな意味での覚悟がまだまだ 出来ていなかった。 パパ 大学時代の友達8人に 胃がんになったということを メールする。11月9日 パパの大学の友達から返信。 パパに内緒で 出来たらお見舞いに来てほしいと 私からメールする。 この時は 入院してもすぐに退院できずに 闘病生活に入る可能性もあると思っていたので そうなった時に なるべく元気なうちに みんなに会いに来てやってもらいたいと思った。 午後 私の携帯に病院から電話。 検査結果や急用は 私の携帯にしてほしいとお願いしてある。 「ご主人のCTの結果なんですが・・・・・」 妙に声が低い。妙な間も。 心臓がとまるかと思った。 「肉眼で見られる転移は発見されませんでした。 予定どおり、手術できますよ」 あ~~~、よかったーーーーー! ていうか、もっと最初から 明るい声で言えよ、とか思う。 むやみにためるな、とも(笑) ありがとうございます。 全てに対してありがとうと思った。 すぐに妹に電話。 妹は、何かと、いろんな物を送ってくれたり 情報収集してくれたり 本当に支えてもらっている。 この報告もとても喜んでくれた。 妹は、東京に引っ越してくることになっていたので 万一のことがあったら 一緒に住んで、とお願いする。 もしくは、近くに住んでほしいと。 もちろん快く承諾してくれた。 一緒に住んで欲しいのは 私のためもあるけど 昇のためもある。 パパと 『もし末期がんだったら』 という話をする(明るい感じで) 私が 昇に父親の弱っていく姿を見せることを 考えるとつらくて・・・と言うと 「そうだな、酷だな。 でも、最期の生き様を見せるっていうのも ひとつの選択肢じゃないかな」とパパ。 この時は、うん、そうだね~とまでは思えなかった。 この頃いただいたメールで はげまされた言葉は 『子どもは全てを自分の力に変える能力がある』 というもの。 どんなに辛い体験でも、きっと自分の力に 変えてくれるであろうと思うと それに向かう勇気がわいてくるのを感じた。 妹に先のことを考えてしまうのはわかるけど 考えすぎだ、と怒られる(笑) 今やらなきゃいけないことを、ひとつひとつ考えようと。 そうだなー、そうしよう、と思う。 ついつい、どんどん 路頭に迷っていく自分 (経済的にも、心理的にも)を想像してしまっている。 妹に、『○○(←私の名前)なら大丈夫! 自分が思っているより、強いから』 と言ってもらえて、少し自信が出る。 そしてこの日 妹から 『これから皆が幸せでいられる最善の方法を二人で 模索しようね』と言ってもらう。 これは、とても心に響いた。 皆が幸せでいられる最善の方法を模索 これは、今も続いています。
2008.01.23
11月7日 パパと二人で外来に。 昨日話を聞いた先生からの話。 昨日私が聞いた話にオブラートをつつんで やわらか~く話してくださる。感謝。 血液検査と、CTを撮って、帰宅。 大好きな友達が、家まで遊びにきてくれる。 お笑いで売れるよ、絶対!っていうほど おもろい子なので、私もパパも夕衣も 終始、大笑い。 パパは「痛い痛い!傷口が開くー!」 と何度もおなかをおさえた。 告知から、今まで笑ってなかった私たち。 ものすごくひさしぶりに、笑った。 友達を駅まで送って、また改札口で泣いてしまった。 パパの前で気持ちが張り詰めているので こういう時、泣いてしまうのかも。 セカンドオピニオンのことや、医療費のことなど アドバイスをもらう。 今度、この友達に何かあったら どんな事をさしおいても、かけつけよう!と思う。 夜、パパが寝てから、この先の経済的なことが不安になる。 メールで元気をいただいてる方に 医療費や、これからの生活のことなど、相談する。 最終的には、生活保護をうける覚悟でいなきゃ!と思う。 治療費のことを気にせずに治療に専念したいな、と思うと それしかないと思う。 昇の習い事もやめさせなきゃ・・・と思うと 涙が出る。 この日は、昼間楽しかった反動なのか、夜中までひたすら 経済的なことで頭がいっぱいになる。 毎日、眠れない日が続く。 昇の無邪気な姿を見ると涙が出る。 お風呂あがりに足つぼマッサージをパパにするのが日課になる。
2008.01.22
11月 6日 主治医の先生に話を聞きに行く。 パパには内緒。 先生の話によると がん細胞の種類は「低分化型腺がん」というもの。 これは、低・中・高とある三段階中 一番悪質なもの。 (「スキルスですか?」と喉まででかかったのだけど 聞けなかった。 スキルスがんというのは、胃がんの中でも、たちが悪く あっと言う間に進行し、死亡率も高いもの) パパの場合 胃に穴が開いているので、その時に がん細胞が漏れ出て、生き残っている可能性は高い ということ。腹膜播種だ。 「内視鏡の写真を見てわからなかったのですか?」 との私の問いには 胃の専門の先生が答えてくれた。 「ご主人の場合、穴をふさぐ手術をしていて 普通の方とは違う状態になっているので この写真を見ても、かいようだとも言えるし がんかもしれないとも言える。 要するにわからないんです。」 と言われる。 がん細胞が漏れていた場合 手術前にCTを撮って、明らかな転移が見られた場合 手術はしないで、すぐに抗がん剤治療に入るとのこと。 もしCTで何もうつらなかった場合は 予定通り手術。 多分全摘。 腹膜への細胞レベルでの転移があるかどうかは 顕微鏡で調べないとわからないので 手術中にわかる場合もあるが、わからない場合もある。 腹膜への転移が確認された場合 胃をとった方がいいという説と とらないで治療をした方がいい説があるが この病院ではとる、ということ。 等々、の説明をうける。 私があまりに暗い顔をしていたからか 「腹膜にばらまかれた状態でも、今職場復帰してる方も いらっしゃいますよ。それにばらまかれていないかも 知れないじゃないですか」 と慰められた。 「主人には、ばらまかれているかもしれない、という ことだけ、まだ言わないで下さい。 悪性の細胞が見つかったというだけで かなりのショックをうけているので とにかく、無事に手術が終わるまでは これ以上刺激しないでほしいんです。 手術後は、事実をきちんと話していただきたいと 思いますが・・・」 と、お願いすると、快く承諾してくださった。 病院をでて、友達に電話する。 今聞いたことを、説明しながら めちゃくちゃ、ネガティブな事ばかり言う。 「パパ、もうだめかもしれない。」 と言うと 電話口で、友達が 「だめなんて言わないでよー!パパ頑張ってたじゃない。 夜昼なく働いて!体こわすまでー! あんなに頑張ってたんだから、だめなんて言っちゃ あんまりかわいそうだよーー」と電話口で泣いてくれた。 地下鉄の階段の入り口でしゃがみこんで 「うんうん、そうだね」と私。 それから、どうやって電車に乗ったのか覚えてない。 最寄駅で、ある方にメールをすると すぐに電話を下さった。 思わず、駅内なのに、電話で話しながら 号泣してしまった。 その方に聞いていただき、少し落ち着く。 改札を出たら、偶然さっき電話した友達が! 話しながら、また号泣。 「夏にね、島根に帰ったときに ばあちゃんに「顔色が悪いからがんなんでは」 って言われた時に 「お義母さん、がんなら、もう今頃末期ですよ」 なんて答えたんだよ。 なんで、あの時に親のいう事をきかなかったのかと 思うと、悔やまれてならない。私のせいだ。私のせいだ」 友達が 「違うよ、誰のせいでもないよ。 あるとすれば、遺伝と、ストレスと過労のせいだよ」 と言ってくれる。 友達と別れてから、どうしたのか、また覚えていない。 家に帰ってから 『腹膜播種』を調べる。 絶望的なことしか出ていない。 手術後の再発は数ヶ月~1年以内。 再発した場合、死亡率は100パーセントに近い。 パパはこのことは知らない。 今日のことも。 もしかして、入院しても退院出来ないかも知れない。 退院の日取りを計算してカレンダーを見ているパパを 見て、涙が出る。
2008.01.22
11月2日 『悪性の細胞』と検索かけて、ネットを見る。 調べれば調べるほど 『がん』であるということがわかり、凹む。 パパも時間を見つけては、パソコンを。 普段ほどんとパソコンなんて開かないのに・・。 私「先生が気になるって言ってたところかな~? 全摘になるのかな?」 パパ「電話では、その可能性高いって言ってた」 私「そっか・・・ とにかく、悪いところはとっちゃって 治すこと考えよう。 大丈夫!一緒にがんばろ!」 こんな会話ばかりだったように思う。 ずっと、パパの手を握ってる。 思えば、ここ最近手を握ってずっといる、 なんてことなかったな、って思う。 胃穿孔の時、病院にかけつけた私に 病院のベッドに横になりながら パパが手をさしのべてきた。 この時が、本当に久しぶりに手を握った時。 でもこの時も、心から手を握ってなかったと思う。 でも、今は違う。 ずっと握っていたい気持ち。 痩せちゃったな~と思う。 親指の下のふっくらしたところが好きだったのに すっかり薄くなってしまっている・・ 違う人の手のよう。 この日はパパの布団に入って寝る。 子どもを抱くように、パパを抱きながら 「大丈夫、大丈夫」と言ったり 「ごめんね・・」って言ったり。 「あなたが悪いわけじゃないよ」というパパに 「でも、もっと早く検査行ってれば・・ 強引に私が病院の予約とるべきだった・・。 食事の管理も全然できてなかった。 優しくもなかった。 私のせいだよ。ごめんね、ごめんね」 がん患者の家族は、自責の念にかられるのが強いと あとで聞く。 生活習慣やストレスに密接に関係するからだろう。11月3日 眠れない朝を迎える この日は家族4人で、地元の神社に。 手術の成功のお礼を言いに。 そして完治願い。 すぐに最悪のことを考えてしまう。 考えると不安になる。 あまりの不安に親しい友人、信頼している方 大好きな方、にメールをする。 『助けて』メールです(笑) と言っても、本当に数人。 数人だけど、その方たちからのメールで どんなにはげまされたことか。 11月4日 前々からとれていた、テニスコート。 抽選で当たったもの。 キャンセルしようと言うと 「せっかくだから、行こう オレも気分転換になるし」とパパ。 家族4人で行くはじめてのテニス。 (夕衣が一緒というのが今までなかったので) パパは、もっぱら球ひろい。 でも楽しそう。 昇もはじめておねえちゃんとやれて嬉しそう。 「ああ~、やりたくなるなぁ~」とパパ。 「夕衣はパワーはあるなー」と。 1時間半くらいだったけど ものすごく楽しかった。 帰り道、昇が 「あー楽しかった!おとーさんが入れば ダブルスできるのに! だめじゃーん!病気になっちゃあー」 と無邪気に言う。 「そうだよなぁ~」とパパ。 後ろからそんな二人を見て 涙があふれそうになるのをこらえる。 もしものことがあった時に昇になんて言ったらいいのだろう これが、この頃一番考えて泣いたこと。 悲しい思いをさせたくない。 長い出張とかなんとか言って、父親がいないことが 当たり前のことになってから、言おうか・・なんて 考えたりもした。 でもある方から 「パパの意向を聞いたうえで 可能な限り本当のことを 伝えてあげては?」と言っていただいた。 「大切な家族の事は幼くても 事実を知りたいだろうと思うから」と。 またある方からは 「昇くんは男の子。 きっとナミさんを支えてくれるようになるよ」 とも言っていただき、 そっか・・・と思う。 昇はまだ幼くて、私が守ってやらなきゃとばかり 思っていたけど、 そうばかりではないかもしれないと思う。 昇の力も信じていかなきゃ、と思う。 11月5日 パパが、病院に電話してもう少し詳しく 聞いてみてくれないか、と言ってきたので この日は私は仕事だったのだが 昼に病院に電話をしてみる。 「金曜に先生からお電話をいただいたようで・・ 私は不在だったので、もう少し詳しく知りたいのですが」 電話に出ていただいた先生は手術の執刀医のひとり。 丁寧に詳しく話してくださった。 最後の内視鏡検査で、がん細胞が見つかったこと。 再度手術が必要であること。 多分全摘になるであろうこと。 「早期発見と考えていいんですか?」と私が聞くと 「ご主人の場合は、穴が開いているので この時に穴からがん細胞が漏れていて おなかの中に散らばってしまっている可能性があります。 そうなると、転移しているということなので 早期とは言えないんですよ」と。 頭がまっしろになる。 穴から漏れてちらばる? こわい。 とっさに 「水曜の外来で、主人にそのこと話しますか?」 外来の先生が電話に出た先生ではないので なんとも言えないとこのと。 もし心配なら、事前に奥さんだけで、先生と お話されたらどうですか? と言っていただき、明日行くことに。 とにかく、もっと詳しく聞いて そして、手術が終わるまでは パパには「穴から漏れているかも」ということは 言わないように、とお願いしに行こうと思う。 ~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~* 昨日、島根の親戚の、ずっとお世話になっていたおじさんが肺がんで亡くなりました。陽気で、気配りをよくされる、気のいいおじさんで大好きでした。パパが、今朝、島根にむかいました。昨日、訃報を聞いてパパ、自分の闘病記に(メモ程度)『がんという病気はあなどれない病気だ』と書いていました。私は、お通夜、お葬式にはいけませんが心からご冥福をお祈りいたします。
2008.01.22
パパが10月18日に胃に穴が開き、緊急入院・緊急手術してから昨日でちょうど3ヶ月がたちました。この間にあったこと、考えたこと、感じたこと書き留めておきたいと思うので、少しずつ書いていきます。(携帯メール見ながら書いていこうって思ってます)記録なので、長文だったり読みづらいと思います。それに加え、内容も楽しいものではないのであらかじめ、そういうのが苦手な方はスルーしてください^^10月18日 胃穿孔で緊急入院・緊急手術 手術は無事終わるが、手術後の先生の 「ご主人の開いていた場所が胃の真ん中だったんです。 これは珍しいケースなんですよね~」 というひとことが、心にひっかかった。なんとなく嫌な予感。 「上から押さえた感じ、がんがあるような感じはしなかったので 多分大丈夫とは思いますが、絶対はないので、一応退院前に 内視鏡検査をします」とのこと。 上から押さえた感じ、がんはないように思ったとのひとことに すがる思い。どうか、がんではありませんように。 10月30日 術後の経過も順調で、いよいよ内視鏡の日 パパからのメール『終わった。先生の反応がちょっと心配。 組織をとったのですぐにはわからない』 『生検の結果が出るのに3~4日かかるので良性なら金曜退院』 パパから電話 先生の説明だと、穴の開いた箇所ではなく ひだの部分にひっかかりがあり、そこが気になった、とのこと。 が、主治医の先生は「いや~胃潰瘍でしょ。明日退院しましょう」 との判断 妹や、友達にメールを。 「がんだったらどうしよう」すでに弱気な私。 妹に「肝っ玉かあちゃんみたくどんと構えてないと」と言われる。 「大丈夫、きっと良性だよ」という言葉を何人かからいただき こういう時「大丈夫」って言われるのって心強いなーと思う。10月31日 パパから『今日早くこれる?退院してもいいってよ』とのメール が、その後、先生が来ないので(--;) 結局退院は明日に。11月 1日 退院。結果はわからないけど、先生が何人も「胃潰瘍だよ」 と言ってくれた。きっと大丈夫。 久しぶりに家族で夕飯。布団は敷きっぱなしで寝たり起きたり。 食事はうどんやら、消化のいいものを。11月 2日 ずっと行けてなかった、昇の病院へ(体質改善の注射) パパには留守番していてもらう。 夕衣もいるから淋しくないよねーと。 病院で偶然親子共々仲良し友に会う。 入院中は、励ましてもらった貴重な友達。 ひさしぶりに病院後お茶を。 すっかり話がはずんでしまい、夜遅くなってしまった。 パパが心配で、友達と分かれてから、携帯を手にすると 妹からメールが。 『大丈夫?○○(←パパの名前)に聞いたよ。 淡々と話してたけどショックだよね。今月東京に行くよ』 へ?なんのこと?意味がわからない・・・・と思いながら とりあえずパパに電話 「ごめん!○○(←友)に会っちゃって!話がはずんじゃってー」 するとパパ、低い声で 「さっき病院から電話で、悪い細胞が見つかったって 再入院になった」 「うそ?うそでしょ?またーーーーー!もうやめてよー! しゃれにならないってーー!」 「ホントだって」「うそだあー」 こんな時、しょっちゅう、うそついたり冗談言ってる人は損です。 なかなかすぐには信じてもらえない。 妹はさっき家に電話して聞いたらしいのだが やっぱり「うそー?」 だったらしい(笑) どうやら、本当みたい。 なに?悪い細胞って?がんってこと?がんとは違うの? がんの一歩手前とか? 頭がぐるぐる。ドキドキ。手も震える。 昇とさっき約束していたDVDをレンタルしに行く。 さっき分かれたばかりの友達にこのことをメール。 レンタル屋で、その友達から電話がかかる。 「どうしよう~~、再入院だってーー」 動揺してる私に友達が 「どうしようって言ってても、だめなんだよ。ね、わかる? これから出来ることを考えようね。まずはちゃんとした結果を 詳しく聞かないとね。 早く帰ってパパのそばにいてあげないとね」 と優しく叱ってくれる。 あぁ~、友達ってありがたいなぁと思う。 家に帰る途中、妹に電話。 「淡々と話してくれたけど、多分今頃すごいショックうけてるから 早く帰ってあげて。私も今月必ず行くから!がんばって」 すごくやさしいなぁ~、みんな、と思いながら家に着く。 パパがパソコンに向かってる。 私と昇を見て、半分なきそうな顔に。 昇を抱く。 長い時間抱いてる。 私はそばでパパの手を握る。 昇は「どーしたのー?留守番さびしかったのー?」言ってる。 私はこの時のパパの悲しそうな顔と、昇を抱きしめる姿を はっきり覚えてる。多分一生忘れない。今日はここまでにしておきます。なぜか書きながら、思い出したら涙がとまらなくなっちゃいました(^^;) *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*昇が、ノロになってしまい、ずっと学校を休んでいたのですが昨日から復活し、今日はもう元気になりました。と、交替で夕衣がきのうの夜から、だるいと言い出し、今朝も食欲もなくだるいと言いながら、バイトに行きました。ノロではないと思うけど、ひどくならずにすむといいけど・・・。私は18日、えびすの「琉球温熱」のサロンに行ってきました。これは、がんの治療にとてもいいと言われている『温熱療法』なんです。病院でもやっているところはあるのだけど、とても少なくしかも、うちの場合は再発予防なので、なかなかそういう患者をうけいれてはくれない。ということで、民間でやっているところを探していきました。自宅で出来る小型温熱器を注文して、来るのを待っているところなのでその使い方を知りたかったのです。パパががんになって、私なりに、ネットや本を調べました。今のところ確信したのはがんに関わらず、大事なのは免疫力をあげること。当たり前の事かもしれないけど、これがなかなか難しい。ではそのためにどうしたらいいか。質のいい睡眠・バランスのいい食事・腸内環境を整える、適度な運動・酒、たばこを控えるなどなど、これはもう当然なのだけどいろいろ調べていくうちに体を温めることの大切さ、に行き当たりました。特にがんは低体温好き。だけど、体温を1度あげるって大変。で、たどりついたわけです。温熱療法。昨日、約1時間半のコースを体験したのですが、超超超気持ちよかったです。不思議なのは、悪いところは、熱い!私は右肩が熱かった。よかった・・・胸とかじゃなくて(乳がんがこわい)実際にこの温熱器で熱を入れていくと、悪いところが熱いのでがんなどの早期発見や、未病の段階での病気の発見になるそうです。今度はパパを連れて行って、実際にやっているところを見せていただこうかなと思っています。簡単に家で出来る、免疫力アップの方法に「爪もみ」ってのがあります。これは、もう退院してからずっと、パパにやってあげてます。ついでに子どもたちにも。あ・・・そう。パパががんになってから我が家では、なんでもまずパパ。ついでに子ども。になりました。これが、我が家で起こった、一番の奇跡かも知れません。
2008.01.19
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