1

BC6000年頃に始まった金属文化は、初めにヒマラヤ山麓をルーツとして小アジア(トルコ)のチャタルフユィックやタイのバンチェンに拡がり、これがモヘンジョ・ダロを経てBC2500年頃までにはアンドロノヴォ(エニセイ川流域付近の村の名)に伝わったと考えられます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー エニセイ川上流にいた民族が西へ向かってキルギス人となり東へ向かって日本人となったという説があります。天山山脈の麓に【ヤマトゥ】と呼ばれる国があり、その版図に【弓月王国】という王国があり弓月君とは【日本書紀】に記述された秦氏の先祖とされます。ここから【弓月君】に率いられ秦氏は朝鮮半島から日本に移動したという説です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーBC1800年~BC1300年に至るまでのバイカル地方に栄えたグラスコヴォ文化は、奴隷制・シャーマニズムをもち、銅器をトーテムとしますが、これが殷文化以前の文化です。殷の青銅社会は、実は中国に於けるイシン(バビロン)の植民地でした。 殷は商ともいいましたが賤名で【夷】とも云われたのは【銕人てつ人】製鉄族を表すとともに黒人を表し、【エビス神】【インダナ神】を意味し、カナンのエブス族のことで、後の海の国ヒクソス、エブス人、フェニキアは同一です。またウルのカルデア人は、後のサカ族のことです。サカ族はドーソンでモン族と合体した後、BC4世紀末、海陸両路で北上するのですが、弥生文化はこの人々がもたらしたものです。中国【史書】がオリエント史を漢訳して中国史に仕立てた理由は当時の支配層が、すべてオリエントの移民(秦人・ペルシアとユダヤの混血)だったからですが夏がウルク、殷がイシン、周がアッシリア、秦がペルシアの当て字であり、漢王家の指示により【史書】を著した司馬遷が宮刑に処せられた真相も李陵を庇っただけではなかったようです。実際の中国史は、オッフル人、マガン人、メルッハ人などのヒクソス系の海人がバンチェンを経てチュルク人がいた中国に到達して殷文化が始まり後にアレクサンドロス大王がバクトリアに侵入しバクトリア王ディオドトスが洛陽に侵入して秦という統一国家を建てたという歴史です。アラム族の人々はセム族系の民族で、BC14世紀頃から北シリアを中心としてオリエントに拡散したとされます。また彼らはシリアを中心として幾つかの小国を建てましたが、ミタンニの故地であるハブール河流域と北シリア地方に住んでいたので、この地域をアラムあるいはナハライムというそうです。このアラム人とシメオン・フルリ両族が混血し、商業に長じていて、南西アジアの商権を支配し、陸上のフェニキア人とも呼ばれていたといいます。BC8世紀にはアラム語がアッシリアの公用語となり、やがてシリア、パレスチナでも用いられイエスはアラム語によって語ったとされています。バビロンのイシン国滅亡時に王族のアラム人が二分してカナンでユダ王家になり東方で箕子国を建てたといいます。アッシリアによってイシンが滅亡した時、アラム族は抗戦を唱えてならず、ラガッシュ人は征して勝たず、アーリア族は勇敢に防戦しましたが、エラム人が賄賂に毒されて裏切ったためにイシンはついに滅んだといいます。イシンのアラム人と海の国のカルデア人とは留まってバビロンの地を支えようとしましたがカルデア人は捕らえられていたイシンの王族箕子を奪い、ユーフラテス河西方のラケーに築城し、国を辰法殷(ビト・アディン=ウラルトゥ)と名付けました。このアラム人が【史記】の犬戎、ウラルトゥ=ウガヤ王朝のことで、カルデア人が後の月氏系サカ族、ニギハヤヒ族、辰王ですがこの時、共に戦っていたのです。さらにバジ王家の軍とエラム人に攻撃されて箕子一族はシルクロードを移動し、金鉱のあるイッシク・クルに築城し、これがイッシク古墳で金の上下を纏った被葬者【黄金人間】はサカ族(月氏系)の族長とシャーマンを兼ねた存在だといわれます。この古墳の遺物は様式的にみて、アルタイのバズィリク古墳のそれに近く現地で作られたという説とアムダリア流域の古代バクトリアから移入されたとの説があります。イッシク古墳は、イリ川のある箕子国のあったところであり、被葬者は箕子国の王族であり新羅三姓の金姓はアルタイの金山を表します。この金氏が後の金官加羅、そして分家して新羅の金氏のヒッタイト蘇我氏になったと考えられます。殷の時代には崑崙北麓、特にホータンの【玉】が殷の貴族たちに珍重されたのですがこれを運んだのは当時、甘粛から西域を支配した月氏族でした。またスキタイ・サカ系の民族は、北狄と書かれ、殷末には殷(イシン国)の亡命者が建国した箕子朝鮮の北方を支配しました。 スキタイ・サカ系の民族は、前800年頃から二分して 箕子朝鮮と同盟する扶余族と朝鮮半島を南下して辰国を建てた人々とに分裂することになります。インドでは前12世紀に、アーリア族の侵入が終了し、中国大陸では、この頃に周が建国しています。 周の建国にアーリア族の移動が影響を与え、殷族が周に亡ぼされた前11世紀に、殷族の一部が朝鮮半島南部に辰国を建国し、さらにその一部が九州北部の国東半島に逃れて、前8世紀頃以降に国東に製鉄遺跡を残したと考えられます。遺跡が国東に限定されているのは、この地域が朝鮮半島を本国とする人々の兵たん基地であったからであり、この人々はミタンニ族であると考えます。殷末までの時代には鉄器文化を持っていなかったのであり、鉄器文化はヒッタイトが衰退したため、前千年以降、辰国の王朝が【天の王朝】といわれますが、ヒッタイトの王族だったミタンニ族を中心としながら(人民はハッティ)朝鮮半島の南部では黒潮に乗って北上したマラ族と接触したらしく、次第に混合文化を形成していったと考えられます。【辰国】即ち【天の王朝】を構成した倭人のうち、王朝の本流であるサカ族系は後にサンカとなり傍流の秦族は源氏、マラ族は平家をそれぞれ名乗るのです。この【天の王朝】の時、既にカースト・ゲット-制が存在し、農民がある一方農業を行わない民族があって、農業地帯と山岳民族の区域を斑状に分離し神社を建てて結界を引きました。これはイラン文化の特徴であって、牧畜文化と農業文化の混在状態に於ける農業を差別するスキタイ民族が作り出し、インドのカラー差別にもつながります。【別所・別府】などと云われ、サンカ・木地匠・杜人・タタラなど山岳の人々が農業民と分離して生活したのです。辰韓の農民は鳥葬を行っていますが、鳥葬のルーツは殷民族といわれるチベット苗族であり、日本でもクメール族はストーン・サークルに屍体をおいて鳥葬を行ったといわれます。【蘇民】はスキタイを意味すると共に【けがれ、よごれ】の意があり農民サイドからの蔑視です。後、律令制に於いても、荘園内部にはゲットーとして【院地・散所】が作られ、非農地域として発展し、商業基地になってゆくのです。
2012/01/24
閲覧総数 441
2

天皇家は万世一系とはいえませんがシバの女王の時代から続くといわれるエチオピアの皇帝が1975年廃止してからは、アインシュタインをして【最も古く、最も高貴な家柄】と称させた世界最古の王家になります。日本人のルーツを調べていると、二系列の王族によって形成されていることに気づきます。それは、遙か古代アナトリアから始まり、中央アジアを通り、日本にも持ち込まれました。精神の王または最高位の祭司である天皇と、政治経済の実験を握る豪族、ある時は、蘇我氏であり、また、ある時は、藤原氏であったように。王が二重に存在して、精神の王と、現実社会に対する王、とが分かれるというのが西アジアの遊牧民の帝国に際立っていた双分制社会の大きな特徴でありました。これは、スキタイ・サカ族、匈奴らの大帝国に共通して特徴的に見られることでした。そして、もし両者が対立したら、精神の王が上位に来ることになっていました。中国の「史記」にも人間を創造した始原の神として伏犠氏と女カ氏があり蛇化した下半身が絡んでいる画が出土されています。日本の「古事記」の構成に於いても具体的な生成を行なう陰陽に分類された二霊、イザナギ・イザナミがあります。そして、これは、推測ですが、前方後円墳もこの流れを汲むのではないかと考えています。方墳と円墳の合体、これが当たっていたとしたら、すごい歴史の解明に繋がると思います。それは、遙か古代アナトリア~メソポタミアの人々が、円形の住居と方形の住居に分かれていることに起因しているのではないか?と、思うのです。フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いのエマルシリア方面のアララクやウガリトから出土しています。BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世がフルリ人国家を服属させたという記録があるそうです。このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていましたが、ヒッタイト人に征服されウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝しています。これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表します。フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったようで妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言いましたので同習俗、同種族とされる理由になっています。フルリ人は【旧約聖書】で、ホリ人として登場します。フルリ人の【ミタンニ王国】がヒッタイト人によって征服された後、フルリ人の一部は北上し、アルメニアのヴァン湖畔に【ウラルトゥ】を建国しますがこのウル第三王朝~ミタンニ~ウラルトゥの流れが、満州の扶余に至る北回りルートで、【シルクロードの天皇家】となります。もう一つの南回りのルートは、シュメール~インド~ベトナム~満州という【シャキイ族】のルートです。これが【安冕あめ】氏と【阿毎あま】氏の二系です。ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】の意味で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみれます。神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。しめ縄の原点であり【史記】の伏犠・女禍の神像は共に蛇身人首で両尾をしめ縄のようにからませています。有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは、亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。ウラルトゥとしばしば戦いを交えたのがアッシリアで、シャルマネサル3世や4世が知られますが、彼らは、ウラルトゥを【ウルアトリ、ナイリ】と呼びました。アッシリアは、セムの2子、アシュルの流れでセム系とされていますが支配階級は、ハムの子、カナンの子孫、【旧約聖書】では、アララト王国となっています。中東の遊牧民族のなかにあって農業を主としており、この点シュメール人と同じです。【ウラルトゥ王国】は、BC9世紀始めにアラメによって建国され、アラメがアッシリアのシャルマネサル3世によって追放された後、次のシャルドウリシュ1世が国力を回復しアッシリア軍を撃退、以後、ウラルトゥとアッシリアは何度も交戦します。【ウルク】もバール信仰で、【ウル】の天神アンに敵対しましたが、もっと遡ればインドのナーガ族とアーリア人の敵対に端を発します。【フルリの王】と自称したシャルドウリシュ1世やメヌアシュ、アルギシュティシュ1世などの優れた王を出したウラルトゥもBC585年にアーリア系のアルメニア人が侵入し、首都ティシェバーナが没落、以後ウラルトゥ人はシルクロードに亡命することになりますが、このシルクロードのウラルトゥ人を中国の文献は【伯族】と称しています。【宮下文書】は、ウガヤ王朝が月読命(月氏)と同盟していたとしますが、このことはアナトリアのウラルトゥとシルクロードの月氏が同盟してアッシリアと戦った歴史を表しています。セム系の月氏は、ウラルトゥの時代にも天皇家と共にあったようです。この時の同盟関係が天皇家と月氏(藤原氏・秦氏)につながります。 ウラルトゥ王国はBC6世紀初頭のカルミール・プルーフの時代に滅亡してしまったとされますが、彼らはナボポラサルのカルデア王朝に従属し、その後アケメネス朝ペルシアの王族を王とし服していましたが、アレキサンダーによってペルシアが滅びた後、その一部が扶余を建てました。ウラルトゥ王国がスキタイなどの印欧語族に追われてキンメリ人やチュルク人と共にアフガン北部のバクトリアに逃れ、さらに華北に移動、ここで秦に伐たれたため満州に入って扶余前期王朝を建てたのです。
2017/02/04
閲覧総数 825
3

パレスチナのカルメル山にあるタブーン洞穴の「女性」の骨格はネアンデールタール人の体の上に、丸くてずっと現代人的な頭がのっているという明らかに混成的なものであった。北部イラク山岳地帯のシャニダールの洞穴では、顔の上部全体が現代人的風貌をもつネアンデールタールの変種が見つかっている。それは4万5000〜44,000年前のものである。その近くのスリフル共同墓地から出土したものは、ネアンデールタール人よりもクロマニヨン人に近接しまた現生人誕生の前夜といえるまで進化したものであった。イスラエル北部のアームッド洞穴からは、頭はネアンデールタール人でありながら顔はホモサピエンスという、古いネアンデールタール人と現代人とのつながりを示すものが発見されている。その年代は40,000年前より前であるとされている。クリミヤ半島の突端のスタロセリエ洞窟でも、1〜2才の子供が埋葬されているのが発見された。たぶんにネアンデールタール人の特質を残しており、ネアンデールタール人とホモサピエンスの一種であるクロマニヨン人との中間的位置をしめるものとされている。このようにして確かめられた現生人類の祖先は、ほとんど現在のヨーロッパ人的なものであえうから、学者はこれを【ユーロポイド】と名付けたのである。これらは、西アジア、中央アジア、この地域で何故ヒトの進化がありえたのでしょう。当時、リス氷河期には、この地方では、気候が湿潤化し、広葉樹林、落葉樹林、そして多くの湖や河川、多種多様の食料源に恵まれるという人類の進化に最も適した地域だったからでした。この地域に現れたユーロポイドのことをアジア的ユーロポイドと呼んだ。彼らはやがて、被氷地ユーロポイドと、アフリカ地中海的ユーロポイドを生む。一方シベリアを見ると、ネアンデールタールじとホモサピエンスの過度期の型からホモサピエンスにまで進化したものが、バイカル湖にそそぐアンガラ川沿岸のマルタでも発見されたのである。これはシノ・シベリア的モンゴロイドと名付けられた。その他、ウラルの東、天山(テンシャン)の北にもモンゴロイドを見出し、これはツングースモンゴロイドと名付けられた。何故ここにも人類の進化が行われたのでしょう。その時期にあっては、アルタイ山地、サヤン山脈、ヤブロノイ山脈の北面には未だ氷原がまだらに残って寒気は厳しかったのであるが、その南面には樹林が茂り、その下草が萌え温暖であり、そしてその南には湖沼を連ね、緑に囲まれた東トルキスタンという盆地があったからである。したがって、この時期では、東トルキスタンの北壁と東トルキスタン、中央アジア、西アジアは、人類進化に絶好な環境に共通する一つの世界をなしていた。では、何故被氷地人類がこの進化に立ち遅れたのでしょうか。シベリアの中央高原が東西を隔離しているオビ川流域は氷原で、これもまた第2の隔離であった。ドン河とドニェプル河の線には未だ氷河が残っていて、それはアルプスに連なる欧州の山脈におよんでいた。その環境がホモサピエンスの出現をシベリアの南側・東パキスタン・中央アジア・西アジアの広地に限ってしまったのである。
2022/08/27
閲覧総数 841
![]()

![]()