ガーデンデザイナーのブログ

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2011年10月14日
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カテゴリ: 近代別荘・別邸史
「万松園」の名付け人

また、当時オセロの翻訳を依頼していた江見水蔭が描く茅ヶ崎の姿、茅ヶ崎館の姿を描写した小説「霙」頁1、第一日目のくだり5行目水沢富士夫氏現代語訳翻訳には、「まだ、初雪を見ぬこのごろ梅の咲く宿を訪れた。」とモデルとなる川上邸の様子を表現している箇所も気になる。

江見水蔭とは

江見水蔭(1869~1934)は硯友社系の作家として出発し、退廃的な自己の恋愛に取材した小説を書いて迫真性を評価された。1896年明治29年、生活の転換をはかり、片瀬海岸(現、神奈川県藤沢市の南部)に来たが、生活は破綻し、神戸新聞記者として西下した。一方、川上音二郎も東京で失敗して西下し、水蔭のいる神戸にも来た。

1896年明治29年「中央新聞」を退社、「読売新聞」に入社、1898年明治31 年、小波の紹介で「神戸新聞」三面主任として赴任したが、1900年明治33年、帰京、博文館の週刊雑誌「太平洋」の主筆となり、1900年明治33年秋にはドイツに赴いた巌谷小波に代わって「少年世界」の主筆を重ね1902年明治35年退社。

1904年明治37年「二六新報」に入社したが、1年で退社、その後は、通俗的作品を書きつづけた。晩年 は揮毫と講演の旅を続け、1934年昭和9年、旅先の松山市で逝去。

江見は、片瀬に住む前に二度江の島周辺に来ている。一度目が1890年明治23年8月22日尾崎紅葉、巌谷小波、川上眉山、江見水蔭、片瀬に海水浴に行き、柏屋で三泊し、25日に帰京している。二度目は、深刻で生活の行き詰まりから自殺も考えて江の島に至り、金亀楼に籠城、高山樗牛と面談している。

水蔭の過ごした片瀬の家「沙地浪」は、「個性きらめく 藤沢近代の文士たち」 藤沢市教育委員会 1990年10月 小山 文雄(こやま ふみお)氏によると第二章尾崎紅葉と硯友社の面々のなかで片瀬住まい-江見水蔭の項で記されている。





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最終更新日  2011年10月14日 13時54分16秒
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